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安倍政権が22日の徳仁天皇「即位の礼」を理由に強行しようとしている「恩赦」(「政令恩赦」)は、二重の憲法原則違反だと先に書きましたが(9月23日のブログ参照)、メディアでも憲法上の疑義を指摘する識者は少なくありません。たとえば―。
「恩赦を実施するということは、司法権が下した判断を行政権が
ひっくり返すことを意味する。三権分立の観点から問題があり、民
主主義の原則にも反する。実施はあくまでも例外中の例外と考えな
ければならない。
現在の日本国憲法は国民主権が大原則で、『象徴』と規定された
天皇は、いわばお飾りの存在にすぎず、皇室の慶事は恩赦を実施
できる『例外』には当たらない。今回の代替わりに伴う政令恩赦
の実施は見送るべきだ」
(佐々木高雄青山学院大名誉教授・憲法、9月24日付中国新聞=共同)
にもかかわらず安倍政権が「恩赦」を強行するのはなぜか。その狙いは戦後「恩赦」の歴史から読み取ることができます。
敗戦後、現憲法の下で行われた「恩赦」は過去に10回(常時恩赦は除く)。そのうち5回が「皇室の慶弔」を理由にしたものです。
●1952年11月 明仁皇太子(当時)「立太子礼」
●1959年4月 明仁皇太子結婚
●1989年2月 裕仁天皇「大喪」
●1990年11月 明仁天皇(当時)即位
●1993年6月 徳仁皇太子(当時)結婚
(1968年11月の「明治100年記念」も実質的には天皇賛美であり、これを含めれば6回)
端緒となったのが明仁皇太子の「立太子礼」(皇嗣としての皇太子の地位をあらためて国民に告示する儀式。写真右)ですが、この1952年というのはどういう年だったでしょうか。
1952年4月28日 サンフランシスコ講和条約・日米安保条約が発効
し、日本は形の上で「独立」。
5月3日 皇居前広場で「平和条約発効ならびに憲法施行五周年記念
式典」が開かれ、天皇裕仁は「この時に当たり…自らを励まして負荷
の重きにたえん」と述べ、退位論を一蹴して引き続き天皇の座に居座
ることを表明。
11月8日(「立太子礼」2日前) 宮内庁が、翌年6月に行われる英国
エリザベス女王の戴冠式に、明仁皇太子が裕仁の名代として出席すると
発表。
一方、当時の吉田茂内閣は、皇室典範には規定のない「立太子礼」を「国事行為」として強行することを閣議決定。儀式のやり方は旧皇室令に準拠しました。
「政府は、意識して明治憲法下の伝統的制度との連続を追求したのである。この立太子礼において、『寿詞(よごと)』の結びを、吉田が『臣茂』と書いたことは、当代吉田政府のかかるねらいを象徴していたといえよう」(渡辺治氏『戦後政治史の中の天皇制』青木書店)
裕仁をはじめとする天皇制勢力と吉田茂内閣は、日米安保条約発効を機に、戦前と連続する天皇制の復権を図ったのです。しかし、裕仁はもはやその任を果たすことはできず、代わって「戦後新時代のホープ」(吉田伸弥著『天皇への道』講談社文庫)として前面に押し出されたのが明仁皇太子にほかなりません。その画期となったのが「立太子礼」です。
その時初めて「皇室の慶事」を理由にして行われた「恩赦」は、こうした天皇制復権強化策動の中で、天皇・皇室の権威を高める手段の1つとして行われたのでした。
以後の「恩赦」もすべてこの延長線上にあります。戦争法制下、自衛隊(日本軍)の海外派兵が計画され、「天皇元首化」、9条改悪を図る安倍改憲策動の中で強行される今回の「恩赦」もけっして例外ではありません。
2019年10月21日
https://blog.goo.ne.jp/satoru-kihara/e/5c21e6b5e97ec2171519f2ce8c07e288
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