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吉田徹「シネマでみる、この世界」 第4回
「ヘイト」憎しみはどこからやって来るのか
2019/09/18
吉田徹(北海道大学法学研究科教授)
国内外を問わず「ヘイトスピーチ」や「ヘイトクライム」についての報道が随分と増えました。これらは、一般的に人種や民族、国籍や性的なマイノリティに対する差別扇動行為や犯罪行為を指します。日本でも在日朝鮮人子女などへのヘイトスピーチが横行したことに対して「本邦外出身者に対する不当な差別的言動の解消に向けた取組の推進に関する法律」(通称「ヘイトスピーチ解消法」)が2016年から施行されています。
この法律ではヘイトスピーチを、外国人であることを理由として、外国人やその子孫に対し「差別的意識を助長し又は誘発する目的」で「その生命、身体、自由、名誉若しくは財産に危害を加え」たり、「著しく侮蔑」したりする「差別的な言動」と定義しています。
差別がなぜいけないかといえば、それは差別される人がかわいそうだからとか、理不尽だからといった理由だけではありません。それは法の支配が行き渡るためには、法のもとではすべての人が平等に扱われなければならないからです。だから、人種や国籍など、その人が自主的に選び取ることのできない属性を理由に差別や攻撃が行われるヘイトは、戒めるべき行為ということになります。
しかし、私たちは、それまでの経験や情報に基づいて様々な類推や憶測をしなければ、判断や決断を下せません。だから偏見やステレオタイプをなくすのは困難なのです。こうしたヘイトに基づく犯罪は、世界で増加傾向にあります。アメリカ大都市部では2017年に前年と比べて132%増となり、FBI(アメリカ連邦捜査局)によれば、3年連続で増えています。ヨーロッパでも、イスラムフォビア(イスラム教徒恐怖症)や極右活動家によるヘイトクライムは、この10 年でほぼ倍増し、イギリスでは2017年に4割、フランスやイタリアでも1割ほどヘイトクライムが増えていると報告されています(*1)。最近でも、ニュージーランドのクライストチャーチで、白人男性がイスラム教のモスクを襲撃して51人を死に追いやった事件があり、アメリカのテキサス州では、移民系市民を狙って29人が死亡するなど、大規模なヘイトクライムが続いています。
(*1) Institute for the Study of National Policy and Interethnic Relations et al., Xenophobia, Radicalism, and Hate Crime in Europe, 2018
なぜ人は、人種や属性が違うというだけで、その人や集団を憎むようになるのか。三つの映画を通じて、考えてみましょう。
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今回紹介する3作品のDVD。左から、『憎しみ』(発売元:ユニバーサル・ピクチャーズ・ジャパン)『女は二度決断する』(発売元:WOWOW)『判決、ふたつの希望』(発売元:ソニー・ピクチャーズ エンタテインメント)
■ 『憎しみ』――ヘイトが生まれる瞬間 ■
フランスでは2005年10月に大きな事件がありました。俗に「バンリュー(郊外)」と呼ばれるパリ郊外で、二人の青年が警察の事情聴取から逃げる最中、変電所で感電死するという出来事があり、これをきっかけに、大規模な暴動が各地で発生します。時の政権は非常事態宣言を発令しましたが、各地の移民系を出自とする若年層と治安部隊が衝突し、死者二名と3000人近くの逮捕者を出す事態となりました。それ以前からバンリューの軽犯罪を繰り返す若者の不当逮捕や取り締まりが続いていたこともあり、失業した郊外の若者たちの社会に対する不満が爆発したのです。このような暴動は、現在に至っても形を変えて繰り返し起きています。
この事件を予言したかのような映画が、1995年にカンヌ映画祭で監督賞を受賞しました。今やハリウッド俳優となった若きヴァンサン・カッセル主演する、マチュー・カソヴィッツ監督『憎しみ』です。この映画では、郊外で暴動を起こした3人の若者の翌日から翌々日の早朝までの行動が描かれています。バンリューの失業率は、全国平均の倍以上の約25%とされています。この映画でも3人の若者は、ドラッグや盗品家電の売買でその日暮らしを余儀なくされています。
ヴァンサン・カッセル演じるヴィンツは、友達であるサイードとユベールに警官に殺された仲間の復讐を持ちかけます。彼は言います。「俺は毎日クソ野郎たちに全システムを破壊されているんだ」「俺が路上で学んだことはな、右の頬を出せば自分がヤられる。それだけだ」。彼らもまた、郊外に住む若者というだけで、マスコミから不審の目を向けられ、警察から理不尽な尋問にあいます。映画では「未来はあなたたちのもの」「世界はあなたたちのもの」という標語や商業広告が映し出されますが、彼らにとっては、うつろな言葉に映ったことでしょう。
面白いのは、この3人は異なるエスニシティを持っていることです。ヴィンツはユダヤ系、サイードはイスラム系、ユベールは黒人ですが、彼らはそれぞれの文化的な背景に関係なく、バンリューに住む若者という共通項が絆になっています。差別されているという感覚こそが、共通のアイデンティティになっているのです。唯一異なるのは、ヴィンツが警官の落とした拳銃を拾ったことで、警官殺しに打って出ようとするのに対し、ユベールが「憎しみは憎しみを呼ぶ」といって、報復を拒否する態度にあります。
実際、ヘイトは異民族や外国人といった、自分と異なる存在が目の前にいることだけから起きるわけではありません。あるアメリカの社会学者の研究(*2)によれば、特定集団を悪と見なすヘイトクライムは実際には全体の1%に満たず、その6割以上が自分や自分たちの力の誇示、あるいは罪を犯すというスリルを追求するために起きていると推計しています。ドメスティック・バイオレンスやパワハラも同じですが、自分よりも弱い存在に対して自分の支配力を行使したいという権力欲が、ヘイトにつながっているのです。行動心理学では、自分たちが不利な場合は異なる集団との接触を避けるものの、一端優位になると攻撃性を増すようになる、といわれています。だからこの映画のストーリーも、ヴィンツが拳銃を手にしたところから急展開していきます。
(*2) McDevitt, Levin & Bennett “Hate Crime Offenders” 2002
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映画『憎しみ』より
相手が黒人だから、相手がイスラム教徒だから差別や憎しみを抱くというような古典的なレイシズムは現代社会ではあまり影響力を持たなくなってきます。これに代わっていまでは「新しいレイシズム」などと呼ばれる差別が出てきました。これは、差別のない社会であるはずにもかかわらず、なぜ自分たちは今のような恵まれない状況にあるのか、それは誰かのせいに違いない、というスケープゴート探しが差別につながるものです。いわば相手中心より、自分中心で物事をみるのが「新しいレイシズム」の特徴です。社会心理学で「公正世界仮説」と呼ばれますが、世界は正しい行いをした人には正しく報い、悪い行いをした人には罰が下されるはずだと人々は一般的に考える傾向があることがわかっています。
だから、人はいつも誰かを罰したいという誘引を持つことになります。そうでないと、この世界の道徳的規準が失われ、自分がどのように行動したらよいか、何を指針としたらよいか、わからなくなってしまうからです。
この理論を適用するならば、自分が理不尽な思いをしているという感覚こそが、他者に対するヘイトを生むことになります。そして、自分より弱い他人に罰を与えることで、自分の正しさと自分が理不尽な環境にあることを証明しようとするのです。
ヘイトクライムが増発している現代では、もはや現実社会が人々にとっての公正を約束していないといえるのかもしれません。憎しみを抱くことを最後の最後まで拒否していたユベールは、映画の最後で驚くべき行動をとりますが、それは世界のどうしようもない理不尽さ示すことになります。
■ 『女は二度決断する』――人はわかり合えない ■
『憎しみ』の最後には、こんなナレーションが流れます――「これは崩壊した社会の物語だ。社会は崩壊しながら少しずつ絶え間なくメッセージを投げかける。ここまでは大丈夫だ。だが、問題は落下ではなく着地なのだ」。
この「着地」に失敗し続けている社会を残酷に描くのは、ドイツの多民族社会を描き続け、世界の三大映画祭で受賞歴を持つ、自身もトルコ系のファティ・アキン監督『女は二度決断する』(2017年)です。勇ましい邦語タイトルがつけられていますが、ドイツ語の原題は現在のあてどないヘイトクライムの性質を表すかのような「Aus dem Nichts(無から)」、となっています。
名女優ダイアン・クルーガー演じる主人公のカティヤは、トルコ系のシェケルジと服役中に結婚、その後、自営業を営みながら、幸せな家庭を築きます。しかしハンブルクのトルコ人街を狙った爆弾テロで、最愛の夫と子どもを亡くすに至ります。テロはもはやマイノリティがマジョリティに対して行うものではなくなりました。
爆弾テロの実行犯はギリシャのネオナチ政党「黄金の夜明け」(国会に議席を持つ実在の政党)の極右思想にかぶれた若いドイツ人夫婦であることが判明し、裁判が始まります。ところが、爆弾テロは状況証拠しかなく、カティヤ自身の目撃証言も信用されなかったため、その若い夫婦には無罪判決を勝ち取ります。
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映画『女は二度決断する』より
精神的ダメージから麻薬を服用し、自殺するところまで追い詰められていたカティヤは、ギリシャに逃れた犯人の夫婦たちに復讐を果たそうと後を追います。彼女は夫と子どもが殺された爆弾と同じ手製爆弾の作成方法をネットで入手し、夫婦が暮らすキャンピングカーに仕掛けます。作品のラスト10分の緊張感はすさまじいものがありますが、彼女はキャンピングカーにとまった小鳥をみて、爆弾を仕掛けるのをやめます。
復讐を諦めかけたかにみえる時、事件以来止まっていた生理が彼女に訪れます。そしてカティヤは、再びキャンピングカーに爆弾を仕掛け、犯人たちを巻き添えにして自死します。小動物に生命の尊さをみて殺害をやめるのも、生理がきたことで殺害に至るのも、同じ程度にリアリティがあります。カティヤは、人を殺すことの意味合いを自ら引き受けるのです。
リストカットなどの自傷行為は、極度のストレスに起因しますが、こうしたストレスは他人への攻撃性となって表れることもあります。自分を取り巻く不条理に耐えられず、自分を愛することのできない者は、他人を否定することで、その葛藤を処理しようとするためです。
だからもしヘイトを本当になくしたいのであれば、偏見や差別をなくせと言い募るだけではなく、自分自身を肯定できるような社会を作らなければならない――そんな手掛かりを与えてくれるのが、次に紹介する映画です。
■ 『判決、ふたつの希望』――和解への道 ■
民族のるつぼといわれる国や地域は世界でたくさんありますが、その代表格の一つが中東にあるレバノンです。同国は、第一次世界大戦中、オスマン帝国の領土分割を決めたイギリス、フランス、ロシアによるサイクス・ピコ協定によってフランス支配下に入った地域でしたが、第二次世界大戦でフランスがナチス・ドイツに占領され、独立を果たしました。宗教的な禁忌も少なく、投資バブルに沸いている首都ベイルートは、今でこそ目覚ましい発展を遂げていますが、戦後のイスラエルとPLO(パレスチナ解放機構)の対立から、同国はシリアとイスラエル、さらにアメリカとソ連との代理戦争の地となり、「第五次中東戦争」とも呼ばれた、1970年代半ばからの20年近くにおよぶ内戦を経験します。
内戦がかくも長く続いたのは、イスラエル対パレスチナという構図に加えて、東西冷戦、さらに細かく宗派に分かれたイスラム教徒とキリスト教徒の対立という、異なりつつも重複する分断線があったためです。こうした複雑な対立構図は映画の格好の素材ともなり、「中東のパリ」と呼ばれた首都ベイルートは『デルタ・フォース』(1986年)、『スパイ・ゲーム』(2001年)など、数々のスパイ、アクション映画の舞台ともなりました。
このレバノンの歴史を背景に、キリスト教徒とイスラム教徒による互いの憎しみから和解への道を描くのが、レバノン人のジアド・ドゥエイリ監督『判決、ふたつの希望』(2017年)です。
この作品はキリスト教徒でパレスチナ人に敵意を持つ自動車工トニーと、パレスチナ難民で工事監督を務めるヤーセルの二人の中年男性が主人公です。原題に『The Insult』(侮蔑)とあるように、映画は些細ないざこざから、ヤーセルがトニーに対して「クズ野郎」と罵るところから展開していきます。トニーが謝罪を求めてもヤーセルが頑なに拒否したため、トニーは「シャロン(パレスチナ強硬派だった元イスラエル首相――註)に殺されてればな」と罵り、これを聞いたヤーセルが思わず彼に拳をあげます。
ヤーセル自らが出頭し、この暴力沙汰は裁判にかけられますが、ヤーセルがトニーの侮蔑の言葉、すなわちなぜ彼を殴ったのかの理由をなぜか最後まで明かさなかったため、訴えは棄却されます。その後、殴られた傷を押して仕事に勤しんだこともあって、症状を悪化させたトニーはヤーセルを訴え、舞台は再び法廷に戻ります。
この時トニーが弁護士として雇ったのが、「弱者救済はブームだ」とのたまう、パレスチナ人に批判的な極右思想を持った弁護士でした。彼は「パレスチナ人の絶望を語る時、彼らだけが虐げられた人のようだ。アルメニア人、クルド人、ゲイは? 権利を奪われても殴り合いなどしない。あなたが祖国を失った難民だからといって暴力の言い訳にはならない」と、「新しいレイシズム」の論法で正義を求めます。ヤーセルにも(実はトニーの弁護士と因縁浅からぬ)人権派弁護士が付き、トニーの言こそが「ヘイトクライムに値する」と主張し、法廷はあたかもレバノンの歴史を象徴するような代理戦争の様相を呈することになります。
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映画『判決、ふたつの希望』より
この作品で興味深いのは、異なるバックグラウンドを持ち、対照的にみえるトニーとヤーセルという人物が、実は多くの共通項を持っていることが示唆されていることです。二人ともプライドが高く、職人肌だけれども怒りっぽく、恐妻家で優柔不断な人物にみえます。物語が進むにつれて、トニーはマジョリティの中の弱者であり、ヤーセルはマイノリティの中の強者であることも次第に明らかになります。しかしこの二人の対立は法廷外に波及していき、大統領までが憂慮するまでの国内の民族的対立へと煽り立てられることで、事態は深刻なものになっていきます。
激化する民族的対立の中で、トニーは「政治を絡めるな」と自らの弁護士に異議を唱えます。彼がヤーセルを許せないのは、彼が自国に流入してきたパレスチナ難民だからではなく、何気ない侮蔑を発したにも係らず謝罪をしないからでした。トニーを罵って殴ったのが、たまたまパレスチナ人だったわけです。
終盤にさしかかって物語は、特定の民族に属するトニーとヤーセルではなく、個人の尊厳をかけた二人のせめぎ合いへと焦点が当たっていきます。思わぬ展開をみせる裁判でヤーセルは無罪を勝ち取りますが、最大の見せ場は、二人が民族的な立場ではなく、自分の個人としての感情を肯定することで、裁判によらない真の和解に至ることです。裁判沙汰となって社会が沸き立つことで、トニーもヤーセルも、当初自分が持っていた本当の感情が置き去りにされ、民族問題へと変化していってしまうことに嫌悪感を抱くようになっていきます。最終的にはヤーセルがトニーに自分を殴らせるという行為を通じて、二人の対立は和解へと昇華されることになります。
ここには、ヘイトから自由になる方法が暗示されています。すなわち、相手への敵意であろうが、怒りであろうが、自分の感情を素直に認めた上で、民族や人種といった個人の属性をその敵意の理由としないこと――それがまた自分を認めるということの意味であり、和解への道となるのではないでしょうか。ヘイトクライムやヘイトスピーチをなくすヒントは、意外と身近なところにあるのかもしれません。
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