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官邸の番記者はこれほどたやすく飼い犬化するのか!
https://85280384.at.webry.info/201908/article_57.html
2019年08月10日 半歩前へ コラムニストの小田嶋隆が「官邸に飼われている番記者は、こんなにもあからさまに飼い犬化するものなのだろうか」と痛烈に批判した。 なぜ、新聞記者がここまで地に落ちたのか? 彼らには記者としてのプライドがないのだろうか? ************************* 小田嶋隆が慨嘆した。 私が絶望的な違和感に身悶えしているのは、官邸と小泉新夫妻の合作による、陳腐極まりないセレモニー演出に、誰一人ツッコむ記者がいなかった事実に対してだ。 記者が投げかけるべき質問をせず、結婚ニュースを伝えるテレビ番組の制作者やスタジオの出演者たちが、誰一人として批評的な立場からの言葉を発しなかった。 私は、うちの国の政治報道が、すでに死滅していることに改めて呆然としている。 「いち国会議員が、自身の結婚というプライベートな事情を発表するにあたって、首相官邸を使うことに、ご自身の中で抵抗というのか気後れのようなものは感じていらっしゃるのでしょうか?」 「この記者会見のタイミングと場所と内容は、いつ、誰によって、どんな目的で、企画・立案され、どんな手順を経て実行に移されたのか。もしくは、これらは、すべてあなた自身のアタマの中から生まれたことなのか?」 と、誰か一人でもいい、テレビのこっち側にいる普通の日本人の誰もが不思議に思っているその質問を、国民になり代わってぶつけてくれる記者がいれば、私の気持ちは、ずいぶん違っていたと思う。 ところが、官邸に集まった記者は、揃いも揃ってガキの使い以下の木偶の坊だった。 官邸に飼われている番記者は、こんなにもあからさまに飼い犬化するものなのだろうか。 メディアは政治家に舐められていて、政治家は選挙を舐めている。 官邸の犬たちには、自分の傷跡ばかり舐めていないで、ぜひ、飼い主のアキレス腱を噛んでみろと言っておきたい。 詳しくはここをクリック https://business.nikkei.com/atcl/seminar/19/00116/00034/?P=1 結婚発表会に思う「飼い犬」としての資質 https://business.nikkei.com/atcl/seminar/19/00116/00034/?P=1 2019年8月9日 小田嶋 隆 コラムニスト 日経ビジネス 夏休み中の読者も多いと思うので、あまりむずかしくない話題を取り上げることにしよう。 ……と、自分でこう書いてしまってからあらためて思うのが、こういう書き方は読者をバカにしている。大変によろしくない。 「こんな時期だからこのテの話題でお茶をにごしておこう」 「こういう媒体だから、この程度の解説で十分だろう」 「この感じの読者層だと、どうせこれ以上の説明はかえって混乱を招くことになるかな」 という上から目線の先読みから書き始められるテキストは、多くの場合、ろくな結果を生まない。 新聞社からの原稿依頼では、こういうことがよく起こる。 「こういうこと」というのはつまり、「読者の読解力の限界をあらかじめ想定して、その範囲内におさまる原稿を要求される」みたいなことだ。 初稿を送ると、 「14行目の『晦渋』という言葉なんですが、別の用語に言い換えることは可能でしょうか?」 という電話がかかってきたりする。 「あれ? 晦渋だったですか?」 というジョークはとりあえずスルーされる。 「……いや、ほとんどの読者はそのまま読解してくれると思うのですが、なにぶん、新聞は中学生からお年寄りまで大変に読者層の幅広い媒体ですので」 「……そうですか。では、『晦渋を極めた』のところは単に『むずかしかった』に差し替えてください」 「ありがとうございます」 という感じのやりとりを通じて、文章のカドが取れることになる。 より幅広い読者層にとって理解しやすい書き方に改められたわけなのだから、基本的には悪いことではないと思うのだが、書き手としては、角を矯められた犀が、豚に一歩近づいたみたいな気持ちになる。 個人的な経験の範囲では、これまで、新聞の編集部とのやりとりの中で、政治的に偏向した見解や、差別的な言い回しを指摘されたり、それらを理由に記事の改変を要求されたりしたことはない。 その種のあからさまな「検閲」は、いまのところまだ、わが国の活字メディアには及んでいないのだろう。 ただし、 「難解な表現を平易に」 「錯綜した論理展開をシンプルに」 「重複した言い方をすっきりと」 という感じで、表現を改めるべくやんわりと示唆される機会は、実は、珍しくない。 これは、私の文体が、不必要にくだくだしかったり、同義語を執拗に羅列する悪い癖を含んでいたりして、それらが、平明かつ論理的であることを至上とする新聞の標準とは相容れないからなのだろう。 その点は、自覚している。 ただ、くどい表現をすっきりさせると、文章から「行間」や「余韻」が消えてしまうことが、ないわけでもないわけで、それゆえ、私は、書き直しを要求される度に、微妙に不機嫌になる。 「その日、私は、7月の歌舞伎町の必ずしも清潔一辺倒とはいえない埃っぽい風を疲れた顔の全面に受けながら、職安通りを東に向かって歩いていた」 「それ、単に『風』じゃダメですか?」 「っていうか、風自体不要だと思います」 「『私は職安通りを歩いていた』で十分ですね」 「主語も削った方が引き締まりますね」 この話をこれ以上深めるのは悪趣味かもしれないので、やめておく。 話を元に戻す。 メディアによる検閲は、いまのところ、「思想」や「表現」そのものには及んでいない。 ただ、「難解な用語」を平易な言葉に書き改めたり、「重複表現」を圧縮整理せんとしたりする標準活動は、商業メディアの中では、常に堂々と正面突破で敢行されている。 で、私が言いたいのは、そういう「わかりやすさのための改変」を続けているうちに、いつしか大切なものを見失ってしまうケースがあるのではなかろうか、ということだ。 そんなわけなので、今回は、「わかりやすさ」にばかり心を砕くようになっているうちの国のメディアが見失っているかもしれないあれこれについて書くことにする。 わかりにくい話になるはずだが、全員にわかってもらおうとは思っていない。 わからない人には永遠にわからない。 原稿を書く人間は、読解力の低い人間に安易に歩み寄ってはいけない。 テレビでは、もっと露骨に視聴者を舐めた編集が敢行される。 制作側の自覚としては、「より広い視聴者層の理解をうながすべく」番組を制作しているということなのだろうが、見せられる側からすると、 「ほらよ。こういうのが好きなんだろ?」 「どうだ? おまえたちの大好物だぞ」 てな調子で、餌を投げつけられている気分になる。 たとえばの話、つい20年ほど前までは、局アナによる荘重なナレーションを背景に粛々と進行するのが当たり前だった紀行ものや大自然関連の番組が、昨今では、施設のご老人に小腰をかがめて話しかける介護士さんみたいな口調のアイドル・タレントによるリポートで騒がしく進行されるようになっている。それゆえ、私は、国産のその種の番組はもう10年以上見ていない。 そんなこんなで、もののわかった視聴者は、テレビから離れる。 これは、テレビ全体の視聴時間が減るというだけの話ではない。 より以上に、テレビの前に座っている人間の品質が低下することを意味している。 これは、当然だが、悪循環をもたらす。 「情報弱者向けに平易な番組を制作する」 ↓ 「志の高い視聴者が去って、視聴者の平均値が低下する」 ↓ 「さらに理解力の低い視聴者のためにさらに俗に砕いた番組を送出する」 というふうにして、いつしかテレビの前の半径数メートルほどの空間は、ほかに時間のつぶしようを持っていない哀れな人々のための吹き溜まりみたいな場所になる。 8月7日の午後3時過ぎ、自民党の小泉進次郎衆議院議員と、フリーアナウンサーの滝川クリステルさんが結婚報告をしたというニュースが流れてきた。第一報は、もっと早かったのかもしれない。いくつかの記事を読むと、民放各局のワイドショー番組は、2時過ぎから構成台本を差し替えて、このニュースのための特別編成を組んだようだ。 私自身は、テレビは見ていない。 ツイッター上に流れてきたいくつかの感想ツイートで概要を把握しただけだ。 そんな中で、私は、山崎雅弘さんによる、以下のツイートをリツイート(RT)した。 《私もNHKが午後3時のニュースのトップでこれを大々的に扱っているの見て異様だと思ったが、集められた記者たちは、ただの一議員の私的な結婚発表会がなぜ「首相官邸」という公的な場で行われ、なぜ「首相や官房長官からお祝いの言葉をもらった」等のコメントを自分が報じるのか、意味を考えないのか。》 すると、その私のRTに対して、 「どうして素直に祝福できないのか」 という主旨のリプライが続々と寄せられてきた。そこで私は、 《NHKが3時のニュースのトップに政治家とタレントの結婚を持ってきたことに苦言を呈したRTに対して 「どうして素直に祝福できないのか」 と言ってくる人たちがわらわらと集まってきている。祝福するとかしないとかの問題ではない。公共放送が報道枠で伝えるべき情報のバランスの問題だ。午後7:21-2019年8月7日》 《そもそも、結婚発表の記者会見に官邸が使われていること自体、公私のバランスを見失っている。 でもって、その結婚発表の情報を公共放送がニュース速報で伝えている。 どうかしていると思わないほうがどうかしていると思う。午後7:23-2019年8月7日》 という2つのツイートを連投した。 思うにこれは公共放送の編集権をどう考えるかだけの問題ではない。 そして、このニュースが、このタイミングで、こんな形で提供されたことは、単なる偶然ではない。 なによりもまず、閣僚でも党の主要な役職者でもない一人の国会議員の結婚報告が、官邸という場所を使って発表されていることそのものが、果てしなく異例だ。 これについては、異例というよりは「異様」という言葉を使うべきなのかもしれない。 とにかく、異様な事態だった。 時事通信が配信した「会見詳報」によれば、小泉氏は、記者の 「なぜこのタイミングか」 という質問に対して 《─略─ あとはやはり、きのうの8月6日の広島原爆の日、そして9日には長崎の追悼の日が来るから、そこにこのような私事を発表する日が当たってしまうとか、何か報道が当たってしまうっていうのは、それは避けなくてはいけないなと。 そういったことを考えた時に、突然のことだが、きょうだなと。午前中に長官にお電話をして、本当にきょうのきょうで大変申し訳ないんですけど、お時間ありませんかということで(時間を)いただいた次第だ。 ─略─ 》 と答えている。 私は、このやりとりをそのまま鵜呑みにすることができない。 当たり前だ。 というのも、首相にしても官房長官にしても、彼らが分刻みのスケジュールで動いている極めて多忙な人々であることは、別に政治通やジャーナリストでなくても、当たり前な大人であれば誰でも知っていることだからだ。 にもかかわらず、小泉氏は、 「午前中に長官にお電話をして、本当にきょうのきょうで大変申し訳ないんですけど、お時間ありませんかということで(時間を)いただいた次第だ」 てな調子のたわけたエピソードを開陳している。 当日の朝に電話して官房長官のアポイントメントが取れたというお話だけでも驚天動地なのに、さらに同じ日に首相への面会を実現し、加えて、折よく官邸に集まっていた記者クラブの記者たちを相手に、官邸の場を借りて即席の会見を開いたんですボク、などというおとぎ話みたいな偶然を、いったい誰が信じると言うのだろうか。 私には無理だ。カニとじゃんけんをしてパーを出して負けたという感じの話の方がまだ信じられる。 率直に申し上げて、前々から、民放のワイドショーの時間を狙って、周到に発表の機会をうかがっていたのでなければ、こんな会見を仕組むことは不可能だと思う。 私は、「仕込み」がいけないとか「用意周到な政治的プロパガンダだからけしからん」とか、そういうことを言おうとしているのではない。 小泉氏にしてみれば、ほかならぬ自分自身の結婚にまつわる経緯を、写真週刊誌あたりに嗅ぎつけられて、あれこれほじくり返されるのは不愉快であるはずだし、そうそういつまでも隠しておける話でもない以上、どこかのタイミングで、自分の口から報告せねばならない。だとしたら、あえて発表の機会を「捏造」して一芝居たくらんだこと自体は、極めて理にかなった行動だと思う。 今回のこのタイミングでの発表は、舞台装置の作り方が若干白々しかったことを除けば、話の持ち出し方としてはおおむね見事だったと思う。 私が問題にしているのは、だから、小泉氏の側の態度や言動や白々しさやいけ図々しさではない。 小泉氏は、ご自身が置かれている状況の中で、自分にできる範囲のことをやってみせただけのことだ。 私が昨日来、絶望的な違和感に身悶えしているのは、官邸と小泉新夫妻の合作による、この陳腐極まりないおめでたセレモニー演出に、誰一人ツッコむ記者がいなかった残念な事実に対してだ。 つまり、官邸に詰めかけた記者が、投げかけるべき質問をせず、また、結婚のニュースを伝えるテレビ番組の制作者やスタジオの出演者たちが、誰一人として批評的な立場からの言葉を発しなかったなりゆきをかみしめながら、私は、うちの国の政治報道と芸能報道が、すでに死滅していることにあらためて呆然としている次第なのだ。 「今回の、ご結婚の発表に官邸を選ばれたのは本当に偶然なのですか?」 「……確認いたしますが、小泉さんは、今朝電話をして、その電話で首相と官房長官とのアポイントメントを取ったと、本当にそのようにご主張なさるわけですね?」 「いち国会議員が、自身の結婚というプライベートな事情を発表するにあたって、首相官邸を使うことに、ご自身の中で抵抗というのか気後れのようなものは感じていらっしゃるのでしょうか」 「総理に報告するためのアポを取った時期は、実際のところ、いつの時点だったのか」 「この記者会見のタイミングと場所と内容は、いつ、誰によって、どんな目的で、企画・立案され、どんな手順を経て実行に移されたのか。もしくは、これらは、すべてあなた自身のアタマの中から生まれたことであるのか」 と、誰か一人でもいい、テレビのこっち側にいる普通の日本人の誰もが不思議に思っているその質問を、国民になり代わってぶつけてくれる記者がいれば、私の気持ちは、ずいぶん違っていたと思う。 ところが、官邸に集まった記者は、揃いも揃ってガキの使い以下の木偶の坊だった。 なんと残念なメディア状況ではないか。 官邸に飼われている番記者は、こんなにもあからさまに飼い犬化するものなのだろうか。 それとも、これは、あらかじめ良き飼い犬としての資質を万全に備えた者でないと、番記者のポジションに就くことができないという順序で進行しているお話なのだろうか。 私も、番記者の諸君と同じで、気温が35度を超えると、知能の働きが3割ほど低下する。 小泉氏がそのタイミングを狙ってこの度のイベントを仕掛けてきたのだとしたら、この勝負は私たちの負けだ。 冒頭で申し上げたように、私たちはメディアに舐められている。 そして、メディアは政治家に舐められていて、政治家は選挙を舐めている。 官邸の犬たちには、自分の傷跡ばかり舐めていないで、ぜひ、飼い主のアキレス腱を噛んでみろと言っておきたい。 きみたちにそれができるか? 「can」 ん?
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