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戦争と平和のリアル
第32回 永田喜嗣「戦争と想像力」
戦争「加害」を描いた映画を観るということ
2019/07/29
永田喜嗣(戦争映画研究家)
■『この世界の片隅に』が描かなかったもの
2016年に公開されたアニメーション映画『この世界の片隅に』(片渕須直監督)は、観客から絶大な支持を集めた作品として今も記憶されています。なぜ、戦争をテーマにしたこの作品が支持を集め、ロングランのヒットとなったのか。当然ながらこの映画の内容に多くの人が共感したからにほかなりません。
満州事変から敗戦に至る十五年戦争を背景に、主人公の少女すずさんが成人して結婚し、戦争が激化する中で苦難に耐え、明るく希望を失わず夫や家族と共に生きてゆく姿に感動を覚えた人も多いことでしょう。この作品のヒットは、木下恵介監督の『二十四の瞳』(1954年)や市川崑監督の『ビルマの竪琴』(1956年)が当時の観客から絶大な支持を集め、今も日本における反戦映画の名作として位置づけられていることの延長線上にあります。
その一方で、日本では、ホロコーストをはじめとしたナチスドイツの戦争犯罪を主題とした作品が、劇場でもDVDでも年々人気を高めています。最近では、ホロコーストの計画実行者であったナチスドイツの高官ラインハルト・ハイドリヒを主人公にした『ナチス第三の男』や、ナチス戦犯裁判を描いた『顔のないヒトラーたち』などが上映され、人気を博しました。
このように、日本人の戦争被害を描いた『この世界の片隅に』が支持される一方で、ナチスドイツの戦争加害を題材にした映画が人気を博するというのは、まことに奇異な印象を覚えます。
日本の戦争については『この世界の片隅で』を通じて観て、その一方で遠く離れた欧州の戦争加害の映画を好んで観るという興味深い現象です。いわば、「戦争被害」は日本の戦争被害者で追体験し、「戦争加害」は他国の戦争犯罪で追体験する。
これでは日本人は、あの十五年戦争という、日本が二十世紀に体験した未曾有の大戦争を、一方の側からのみ観察していることになるのではないでしょうか。
映画評論家の佐藤忠男は『日本映画思想史』(三一書房、1970年)で、木下恵介監督の『二十四の瞳』について、「われわれは、ただ、戦争によって、平和を破壊され、純真な若者の多くを失ったのだ、という感慨を得るだけで、敵にどれだけの損害を与えたのかという点が全くぬけ落ちてしまう」(267頁)と指摘しています。
『この世界の片隅に』で、すずさんがあたかも音楽を奏でるように楽しそうに料理をする場面は微笑ましく、この作品の名シーンの一つになっていますが、少し想像力を働かせてみると、そのすずさんの楽しそうな姿、その家事は、呉軍港で軍属として働く夫を送り出すことに関わっています。その呉軍港から軍艦が出撃していく海の向こうでは、中国大陸や東南アジアへ侵略戦争を行う日本兵たちが、無辜(むこ)の市民を殺傷し、国際法で守られているはずの戦時捕虜に対して残虐な行為を働いていたのです。それを考えれば、すずさんの楽しそうな料理の場面も、総力戦となった侵略戦争の末端の戦争加害者の姿として映るのではないでしょうか。しかし、私たちはこの映画を観ても、そこまで思い至らないはずです。
これは日本の戦争映画の大部分が抱える問題点の一つです。日本本土の日本人にとっての戦争の記憶は、ミッドウェイ海戦の敗北後、南太平洋のガダルカナルから反攻を開始して飛び石伝いに太平洋の島を侵攻してくる英米連合軍による上陸戦や空襲であり、戦後の映画でも、日本人は戦争の被害者であり続けました。戦争によって受ける苦しみとして想起されるのは、学徒動員、サイパンの玉砕、沖縄戦、特攻隊、本土大空襲、そして広島と長崎への原子爆弾の投下……。
それらは、学徒兵の悲惨な運命を描いた『日本戦歿学生の手記 きけ、わだつみの声』(1950年)や、沖縄戦を描いた『ひめゆりの塔』(1953年)、特攻隊員の苦悩と死を描いた『雲ながるる果てに』(1953年)、原爆投下の広島の悲劇を描いた『ひろしま』(1953年)などで映画化されています。
これらはみな日本人が受けた戦争の苦しみだけを訴えた映画なのです。
アメリカの映画監督、オリバー・ストーンは来日した際に講演で次のように語っています。
日本の人たちは歴史を知らない。米国人と同じだ。自分の国の歴史を
知ることを阻まれているのではないかと感じました。(中略)日本の
学校教育の中では、日本が中国に侵略し、そして満州に侵攻し、韓国
を侵攻し、東南アジアにも侵攻したことについて教えられていないの
ではないかと思います。そのような所で米英軍の捕虜に対してひどい
扱いをし、フィリピンでは「バターン死の行進」も行なった、残酷非
道な振る舞いについて子どもたちに教えられていないのではないかと
思います。
(オリバー・ストーン、ピーター・カズニック、乗松聡子著『よし、
戦争について話をしよう。戦争の本質について話をしようじゃない
か!』株式会社金曜日、2014年)
ストーン監督の指摘は日本における戦争映画事情にもあてはまります。日本による戦争加害を描く映画は、海外では製作され、公開されていますが、それらは日本国内ではほとんど公開されず、また日本では加害を描いた映画はごく僅かしか製作されていません。
■戦争加害を描いた映画を拒否しないドイツ
日本の侵略戦争によって被害を受けた人びとや、対日戦争に参加した国々の人びともまた、苦しみを持ち続けています。日本で空襲や原爆の被害を受けた記憶が映像化されるのと同様に、日本の侵略戦争に苦しめられた国々の人びとが日本によって受けた戦争被害を映画として描くことは当然のことでしょう。
そうした、日本の戦争加害、あるいは日本から受けた戦争被害を描く映画群を「抗日映画」といいます。
抗日映画とはどのように定義され、分類されるのか、また、反日と抗日の違いや、どのような作品があるのかをご説明しなければならないのですが、字数の都合もあるので、主な抗日映画を表組みで紹介しておきます。
これらの作品では、日本軍による残虐行為が生々しく描かれているのですが、これは日本人にとっては観るに堪えないものであることは事実でしょう。だから、日本人は抗日映画から距離を取ってしまいます。1998年に中国・香港・台湾合作の映画『南京1937』(95年)が日本で公開された際に、横浜の映画館で、右翼を名乗る男性によってスクリーンが切り裂かれるという上映妨害事件がありました。この事件が映画配給会社や上映館に与えた衝撃は大きなものがありました。また、他の映画の上映などに対しても、右翼団体などの街宣車による抗議活動などで上映を断念するケースもあり、日本の戦争加害や戦争責任を問うような内容の作品に関しては公開を自粛する傾向が支配的です。
しかし不思議なことですが、冒頭でも触れたようにドイツ人たちが行った戦争における残虐行為や戦争犯罪に関する映画は日本ではヒットするのです。
ではドイツ人たち自身はどうでしょうか。西ドイツは戦後、1960年代頃から自国の戦争犯罪や戦争加害に向き合い始めました。東ドイツはもっと早い段階で映画を通じてこの問題に取り組んでいます。戦後初のドイツの国産映画第1号である『殺人者はわれわれの中にいる』(1946年)はドイツ軍による占領地区での市民の大量虐殺を主題にした作品です。彼らも自国民の戦争犯罪を映画で観るときに、私たちが抗日映画を観るときに感じる苦痛と同じものを受けるはずです。しかしながらドイツでは、抗議行動で公開が困難になるといったこともなく、そうした映画が積極的に公開され、DVDなどのメディアで観ることができます。そればかりか、自国の戦争加害の映画を積極的に制作し、外国とも積極的に合作を試みてきました。
そうした、自国の戦争加害を描いた映画を拒絶しないドイツ人の態度によって、かつての被害国との間での映像文化での和解がほぼ完成しつつあります。
ドイツの映画監督、フォルカー・シュレンドルフがフランスに招かれてドイツのフランスへの戦争加害の映画を撮る、またドイツのアウシュヴィッツ裁判開廷までのフリッツ・バウアー検事の行動を描いたドイツ映画の脚本をフランスの作家オリヴィエ・ゲーズが執筆するなど。これらはほんの一例ですが、協調と理解によってもたらされた和解の形です。それはドイツが過去の自国が犯した戦争犯罪や戦争加害に向き合い「知ろう」とした行動から生まれたことです。
1985年5月8日の戦後40周年のドイツ連邦議会において、リヒャルト・フォン・ヴァイツゼッカー大統領は有名な「解放の日」演説を行いました。その中でフォン・ヴァイツゼッカーは、過去の出来事に対する批判が自分たちにとって厳しいものであったとしても、その批判を否定してはならないと述べています。そして、世界的に有名な一節「過去を変えることはできない。過去を消し去ることなど不可能であり、過去に目を向けない者は現在においても盲目となって、同じ過ちを犯す危険に陥りやすいのだ」という言葉を残しました。フォン・ヴァイツゼッカーのこれらの言葉は、被害者の批判や立場を否定せずに理解すること、そして自ら過去の姿を見つめることを訴えています。こうしたドイツの過去への向き合い方は、政治を超えて映像文化の中でも今も生かされているのです。
抗日映画を観ることは、日本人にとって、かつて日本人によって戦争被害を受けた国々の人びとの視点を知り、和解へと向かう一歩を生み出す一つのきっかけになるのです。
■「抗日映画」に向き合うことの意義
「日本人は美しい花を造る手を持ちながら、いったんその手に刃を握るとどんな残忍極まりない行為をすることか」
これは1971年の特撮テレビ番組『帰ってきたウルトラマン』のエピソードの一つ、「怪獣使いと少年」(東條昭平監督、上原正三脚本)に出てくるセリフです。
私たちは日本の戦争映画で「美しい花を造る手を持った日本人」を常に観てきました。その一方で、ほとんどの作品が「刃を手に取る残忍な日本人」を描いてこなかったのです。抗日映画を観るということは、この「刃を手に取る残忍な日本人」を直視する行動になるでしょう。
『この世界の片隅に』は素晴らしい映画ですが、私たちはこの映画に登場する、すずさんをはじめとする日本人たちがイノセントで善良な存在であることに、どこかで安堵しているのではないでしょうか。
私たちは「美しい花を造る手を持った日本人」の姿を観る一方で「刃を手に取る残虐な日本人」を観ることなく、戦争の中の無垢な子どもたちや善良な人びとの姿に悲劇と平和の祈願を感じているに過ぎないのではないでしょうか。また、そういった戦争映画への向き合い方が普遍化してしまっているのも事実です。
私たちは映画を通じて、常に不完全な形で、一方側からだけで戦争を観察してきたのです。
抗日映画を観ることは、戦争という過去に目を向けることです。そして日本人自身が行った戦争加害について、他国の人びとがどのように感じているのか、その視点を私たちが知り得る機会となります。
抗日映画も時代を追って変遷を重ねてきました。劇場用映画に限ってですが、かつてしばしば登場した、スクリーンに現れるや片っ端から人びとを殺戮するような、悪魔的にカリカチュア化された日本将兵の姿を見かけることは、ほとんどなくなりました。欧米の抗日映画は、日本軍の残虐行為を描きながらも和解を模索しており、赦しや和解を主題にしたドラマ作りが増える傾向にあります。東アジアや中国の抗日映画では、近年、日本人の映画スタッフや俳優を積極的に招き、歴史認識を通じての相互理解と和解を模索し始めています。残された問題はただ一つ、私たち日本人が積極的にそれを観ようとしないこと、観る機会や環境が整っていないことです。
映画は観ることがまず大切です。観ないで評価することも批判することもできません。まずは向き合わなくてはなりません。
その上で初めて、世界の人びとと日本の戦争の過去を巡る対話が出来るようになるのです。
そのためには、まずは心の国境を捨て去って、ある種の勇気を持って、抗日映画に向き合うことが肝要です。
その勇気は必ず、世界の人びととの対話を生み、やがて握手を呼ぶことでしょう。
その友愛と理解は必ず、あの過去の戦争の悲劇を再び引き起こさない力となるでしょう。
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