なーに言っちゃってんの? IMFも世銀も西欧型の強欲・悪徳・ヒトデナシ・人殺しのサラ金でしょ。●IMF(国際通貨基金)と世界銀行が掲げる「世界経済の安定と成長」という当初目的は形骸化し、存在そのものがグローバル企業の支配ツールと化しているとの批判が高まっている。ユ二セフの統計によると、貧困を原因とする栄養不足や衛生悪化により年間平均1400万人の児童が死亡しているが、そのうちIMFや世界銀行の構造調整プログラム(融資条件として、債務国に福祉・教育・医療の切り捨てを迫る)の影響で死亡する児童は600万人に達するという。この数は紛争による年間死亡者数の12倍に達することから、金融勢力による途上国支配がもたらした構造的暴力であるとする見方が強い。 ●IMF出資国は『市場化と民主化が各国を発展させる」というスローガンを掲げていたが、融資条件に従い改革を行なった途上国社会は悲惨を極めている。世界人口65億人に占める貧困者の割合は1981年当時36%だったが、2000年には40%を突破し、特にアフリカ地域の貧困者は1億6400万人から3億1600万人まで増加。またILO(国際労働機関)のレポートによると、この間において南アジア、北米、EUを除く全地域で失業率が上昇し、格差が拡大傾向にある地域に住む人口は59%、対し縮小傾向にある地域に住む人口はわずか5%にとどまった。 ●財政破綻した国にはIMFや世界銀行が乗り込み、融資条件として「構造調整プログラム」の実施を求めるという制式であり、これによって多国籍企業が国家主権を掌握し、外国資本により国民が奴隷化するという仕組みだ。チリ、アルゼンチン、ブラジル、ペルー、ポリビア、ウルグアイ、メキシコなど、いずれもこのスキームによって暴虐がつくされているのだが、侵略のプロセスにおいては米国と軍事政権が連携し、言論人、左派、共産主義者、活動家などを数十万人規模で拘束、拷問、殺害するなど壮絶な暴力が同期した。 ●世界支配のスキームは極めてシンプルであり、国際金融が破綻国家に対し国家主権の委譲を要求する、あるいは米国が傀儡政権を樹立し実質支配の下に国内法を改正する。抑制された社会支出は国庫に集約されるのではなく、各種の優遇税制により多国籍企業へ付与される仕組みだ。日本国が後者の形態に属すことは語るまでもなく、小泉政権以降の政策が国益ではなく、多国籍企業の利潤を目的化していることは明らかだろう。以上、経堂雪乃著 「略奪者のロジック」 より ______________________________________________ それはそうと、麻生太郎の妹:信子は、故・三笠宮寛仁と結婚してるんだよ。知ってた? 令和天皇の参賀にも一瞬だったけど顔を出していたよ。麻生の評判が悪いから「瞬殺技法」だろうね。 信子の顔をみると何となくヒトデナシの麻生太郎に似てるよね! https://www.jprime.jp/articles/-/8422?page=4 三笠宮と信子は不仲でDVで酒に溺れていたみたいだけど、信子の顔を見ただけでも愛らしいとか、大切にしたいとか、いつまでも一緒にいたいとか、思わないよね! DVは肯定しないけど、気持ちは分かる。 下記は、麻生タコ部屋炭鉱の情報。詳細はリンク先を参照下さい。 __________________________________ >麻生炭鉱での朝鮮人強制労働 http://www.pacohama.sakura.ne.jp/kyosei/2asou.html 一 麻生鉱業の歴史 最初に麻生鉱業の歴史について『麻生商店二〇年史』『麻生百年史』など社史の記述からみておこう。 麻生鉱業の歴史は麻生太吉が一八七〇年代に筑豊で石炭の採掘を始めたことによる。一八七二年には目尾で採炭し、飯塚の芳雄坑を開発した。翌年には忠隈坑、一八八〇年には鯰田坑や綱分坑での採炭を始めたが、鯰田坑を一八八九年に三菱に、忠隈坑を一八九四年に住友に売却した。麻生はその売却資金で地域での石炭開発をさらにすすめ、一八九一年には山内坑、一八九四年には上三緒坑での採炭を始めた。麻生太吉は一九八〇年代後半には麻生商店の名で炭鉱経営おこなっている。 麻生太吉は一八九〇年代後半に嘉穂銀行の頭取や九州鉄道の取締役となり、炭坑用機械器具を製造する麻生工場も設立した。また筑豊の炭鉱業主である貝島・安川とともに洞海北湾埋渫合資会社を設立し、若松築港の取締役になるなど、石炭開発や輸送のための事業をおこなっている。このような事業をおこなうなかで、一八九九年には衆議院議員になった。 炭鉱経営の拡大は二〇世紀に入ってさらにすすみ、一九〇五年には豆田坑、一九〇六年には綱分第一坑を開坑した。一九〇六年には本洞坑を三井に売却して利益を得た。一九〇九年に吉隈坑、一九一〇年には佐賀の久原坑で採炭をはじめ、山内農場の設立や炭鉱病院の建設もおこなった。日清・日露戦争による戦争経済と石炭需要の高まりのなかで、麻生の経営は拡大していったのである。 このような筑豊での鉱業経営の拡大のなかで、麻生太吉は一九一一年に筑豊石炭鉱業組合の総長となり、貴議院議員にもなった。鉱業経営はさらに拡大し、一九一三年には赤坂坑での採掘をはじめるなど、上三緒、吉隈、綱分での鉱区を拡大していった。 一九一八年には麻生商店を株式会社組織にし、翌年には九州産業鉄道を創立し、石灰山の船尾山を買収した。この九州産業鉄道は路線を拡大し、一九三三年には産業セメント鉄道になる。このような経営の拡大によって、麻生太吉は一九二一年に全国組織である石炭鉱業連合会の会長になった(〜一九三三年)。一九一〇年代後半には麻生系炭鉱での朝鮮人の使用がはじまっている。 朝鮮の植民地化によって、麻生は朝鮮半島での事業をすすめ、一九二七年に忠清南道の安眠島に林業所を設立し、ここで松木を伐採して炭鉱で利用した。一九三〇年代には朝鮮で遠東鉱山と宝成鉱山の開発を始めた。 第一次世界戦争を経るなかで、麻生は筑豊での石炭・石灰・鉄道をはじめ、金融・電力・林業にも関わる財閥へと成長した。政界との関係も深め、中央政界に進出するとともに日本の石炭業界を主導する地位を獲得したのだった。戦後の労働運動の高まりに対しては、労使協調組織として一九二五年に「譲和会」を設立した。 麻生の鉱業経営の拡大によって事故も多発するようになった。一九二七年から一〇年間でのガス爆発や火災による大きな事故での死亡者数は一二〇人を超えた。とくに一九三六年一月の吉隈での坑内火災では二九人、一〇月の綱分でのガス爆発では三九人が死亡した。落盤などの小さな事故による死亡者を加えれば、この数倍の死者があったであろう。このなかには朝鮮人労働者の死者も多いとみられる。 一九三〇年代に入ると中国の撫順炭鉱からの石炭の流入によって、麻生は経営を圧迫された。そのため一九三二年には賃金を切り下げ、朝鮮人の大量解雇をおこなう。この解雇に対して麻生の朝鮮人が立ち上がり、争議を起こした。この頃麻生は一〇〇〇人余の朝鮮人を雇用していた。麻生太吉は一九三三年に死亡したが、孫の太賀吉が跡を継いだ。 一九三〇年代の麻生の主な炭鉱は、飯塚を拠点に山内、上三緒、愛宕、綱分、赤坂、豆田などがあった。これらの麻生系の各炭鉱は新坑の開発を次々にすすめ、生産を拡大していった。中国への全面侵略戦争がはじまると、麻生はさらに各坑での新坑開発をおこない、佐賀の久原、長崎の岳下などの炭鉱の再開発もすすめていった。 このなかで一九三九年後半には麻生への朝鮮人の強制連行がおこなわれた。一九四五年までに麻生系炭鉱へと連行された朝鮮人は一万人を超えた(厚生省勤労局「朝鮮人労務者に関する調査」福岡分統計)。 麻生は労資一体による「君国奉公」を説いて労働者を働かせた。一九四一年には商号を麻生商店から麻生鉱業に改称した。一九四二年からは海軍省の委託を受け、南ボルネオのロアクール炭鉱・ブラオ炭鉱の開発をおこなった。一九四三年には新飯塚運送を新飯塚商事とし、産業セメント鉄道の鉄道部門を国鉄が吸収した。戦時のセメント需要のなかで日鉄・末松商店と船尾鉱業を設立したが、この船尾鉱業はのち麻生に継承された。一九四四年にはセレベスのマカッサル事業所を設置した。この年、麻生鉱業は軍需会社に指定され、採炭現場で「神風生産特攻隊」を組織した。吉隈炭鉱へは一九四五年に連合軍俘虜三〇〇人が連行された。 麻生系炭鉱は労働者を酷使するなかで、戦時下に年一〇〇万トンを超える石炭を生産していった。 麻生太賀吉は戦後、石炭とセメントを生産する麻生産業の社長や九州電力の会長となった。中央政界とつながって一九四九年には衆議院議員となり、吉田茂を財政面で支えた。政界を引退した後、一九六五年に日本石炭協会会長になった。麻生太賀吉は吉田茂の娘と結婚したが、その子が麻生太郎である。太賀吉の娘は天皇族の寛仁と結婚した。麻生太郎の妻は鈴木善幸の娘である。麻生一族はこのような閨閥を作りあげてきたのである。 戦後の石炭産業の閉山によって、麻生の企業経営の中心は麻生セメントになった。麻生セメントは二〇〇一年に「株式会社麻生」へと社名を変え、セメント部門をフランスのラファージュ資本の参加にともって分離した。分離された麻生のセメント部門は太平洋セメントの生産の受託や三井鉱山の石灰石鉱山やセメント工場を買収し、二〇〇四年に麻生ラファージュセメントとなった。 現在、株式会社麻生を中心に、セメントなどのグループ会社六〇社ほどをもつ麻生のコンツェルンが福岡を中心に形成されている。グループ全体総売上高は二〇〇五年度で一四五〇億円に及ぶ。麻生太郎は麻生グループの中心企業である麻生セメントの前社長であり、株式会社麻生の現在の社長はかれの弟である。 以下略、詳細はリンクを参照してください http://www.pacohama.sakura.ne.jp/kyosei/2asou.html 二 麻生での朝鮮人労働 三 麻生と朝鮮人強制連行 @連行者数 A連行経過 B在留朝鮮人の証言 D強制労働の実態と抵抗 E朝鮮人の遺骨 F八・一五解放後の状況 おわりに ______________________________________________
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