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繁茂する「草の根・天皇制」 内田 弘 (ちきゅう座)
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投稿者 肝話窮題 日時 2019 年 4 月 21 日 21:05:26: PfxDcIHABfKGo isyYYouHkeg
 

 
繁茂する「草の根・天皇制」
2019年 4月 21日
<内田 弘(うちだ ひろし):専修大学名誉教授>
 
 
[1] 自然発生する天皇人気

[一木、一草にも天皇制] かつて竹内好(1910−1977)は、日本では「路傍の一木、一草にも政治(=天皇制)が感じる」と指摘した。いま、その指摘が正しいことが実証されている。
 誰が命令するのでもない。ひとびとは喜んで自発的につぎつぎと、列を成して天皇の行幸を出迎えている。自然と・自から、人々は次第に大勢になり、勢いになって、フクシマを忘れて、にこにこ笑いあう。竹内好によれば、天皇に関する日本人の類型は、思慕型・恐怖型・無関心型があるという。いま、無関心型から思慕型に再帰しているのではなかろうか。

[3・1独立運動百周年と新元号] 今年、2019年は朝鮮独立運動の1919年3月1日から百周年である。そのことに、ほとんどの日本人は無関心である。かつて日帝支配のころ、日本人は朝鮮の人々から母語を奪い、彼らに創氏改名を強制し、彼らの土地を奪い、「宮城」のある「東」に向かって遙拝させたことを全く教えず、知らせない、語らない。

[科学をせせら笑う神話] 新元号「令和」には歓喜の声をあげて「おめでたい」と反応する。天照大神(アマテラスオオミカミ)に退位の報告をするため、伊勢神宮に赴く天皇明仁と皇后美智子を、沿道で出迎える大勢の人々が「日の丸」の小旗をしきりに振って、長い列を成す。山々、野原から樹木草花が自生するように、人々は天皇の赤子に「成って」いる。
 米の原産地は中国の長江の上流であることを研究者が突き止めた。伊勢神宮の神官は、この発見を全く無視して、アマテラスオオミカミが日本に米を伝えた、とテレビ・インタビューでのべる(4月19日、BS3「風土記・伊勢」)。神話は科学的知識をせせら笑いする。これが現在の日本に露呈する天皇制の姿である。

[歴史意識の古層] 丸山眞男(1914−1996)は竹内好の友人であった。丸山は論文「歴史意識の古層」で、日本人の原思惟様式を「つぎつぎと・なりゆく・いきほひ」と図式化した。古来、日本では、どこからともなく、「つぎつぎと」連続的に、人間をふくめてすべてのものが生まれてくる。誰かが作為的に「作る」のではなく、自生的に生まれてくる。「成る」。その生成には「勢い」があって、個別的に抵抗しようがない。
 むしろ、この時の勢いに乗って流されるように生きる方が日本では生きやすいし、心地よい。自然な生き方に感じる。「世間から浮き上がるな。丸くなれ。周囲に合わせて生きよ」と言う、誰とも分からない声が日本では鳴り響く。これが過剰同調圧力の源泉である。これは、左・右の両方の組織を支配する「空気」である。
 竹内好と丸山眞男とは、日本人の物の見方、その見方にしたがった生き方の理解で、共通する。その共通する基盤は天皇制であろう。竹内好は明確に「一木、一草にも天皇制」と明言した。丸山眞男は古事記・日本書紀以来の「国書」の分析からその古層「つぎつぎと・なりゆく・いきほひ」を析出した。敗戦直後の天皇制論文が明らかにした日本人の思惟様式の深部に潜伏する古層を、後年解明したのである。

[『代替わり』のつぎは映画『空母いぶき』上映] 天皇明仁から天皇徳仁への「代替わり」のあと、注意しなければならないことが、すでに控えている。「代替わり」の月末、5月24日から、映画「空母いぶき」が全国で上映される。西村秀俊・佐々木蔵之介など、きまじめな風貌の人気俳優を主人公に、「平和を、終わらせない」ために、「命がけの任務に当たる自衛官」の防衛軍事行動を描く映画である。全国上映以前に、その映画の予告編が全国の映画館で上映されるだろう。
 映画を軽視してはならない。百の議論よりも、一本の映画の映像が、普通のひとの世界像を旋回する。代替わり=10日間の長期休暇で一体化し、沸きたつ心を、この映画で「遊び浮かれた心」を一喝して締める計画であろう。「代替わり」と「東京五輪」の間を映画「空母いぶき」が媒介する。さらに何かが、そのバトンを受け取るだろう。
 
 
[2] 「神話」(天皇人気)から「制度」(憲法改正)へ

[三木清の『構想力の論理』の現代性] 明仁から徳仁への代替わり、新元号「令和」制定を軸に、いま日本は天皇制が急激に露呈し、天皇制で充満している。
 「高度経済成長→バブル(1955〜1991年)」から28年間の長期不況(1991年→2019年)を経て、いま日本の底の回転軸が「技術から神話へ」と旋回しているのではなかろうか。
 「神話→制度→技術→神話→…」という「自己に再帰する歴史循環」の曲面は「神話から制度へ」と続く。この歴史哲学は三木清の『構想力の論理』が説く日本の歴史循環である(内田弘『三木清−個性者の構想力』を参照)。
 「神話から制度へ」は、「天皇皇后人気」という「神話」から、「憲法改正」という「制度」の変換が具体的に対応する。新元号公表の時期は「天皇徳仁の即位の日(5月1日)」にすべきであるという主張を抱く保守派は、安倍首相の意見(4月1日公表)に異論があった。しかし、日本保守派は、「憲法改正」は安倍しかできないから、その異論を強く押し出さなかったと伝えられる(『東京新聞』(2019年4月19日朝刊6頁「検証・新元号『令和』(10)」)。三木清の歴史哲学の観点からは、天皇・皇后人気=「神話」沸騰をテコに憲法改正=「制度」改革を目論むという保守派戦略が観える。

[日本近現代史の《神話→制度→技術→神話→…》の循環] 日本近代史は、近代天皇制の「神話」から始まる。ついで明治憲法制定という「制度」へ移行し、その「制度」を引き継ぐのが、明治後期から大正時代末までの「産業革命」という「技術」である(神話→制度→技術)。
 その「技術」は昭和時代の天皇を現人神と仰ぐ「15年戦争」の「神話」に再帰する。「神話」に煽られた戦いに敗れ、「戦後改革」という「制度」へ移行する。その戦後体制からから高度成長という「技術」に移行し、それがバブル崩壊で行き詰まる。その隘路から、いま、天皇人気沸騰という「神話」が復活し、つぎに憲法改正という「制度」へ向かっている。
 このように、三木清の『構想力の論理』という歴史哲学は、日本近現代史の基本路線をぴたりと説明していないだろうか。三木清の歴史哲学は、《「神話・制度・技術」という三つの元(要素)を包含し自己再帰するする群》である。三木清のこの歴史哲学の群論は、西田幾多カや田邊元に影響をあたえたのではなかろうか。

[天照大神への報告] 去る4月18日、天皇明仁と皇后美智子は、伊勢神宮に宿るという「アマテラスオオミカミ」に退位を報告するためにそこに赴いた。最寄りの駅から、沿道に日の丸の小旗を手にする人の列が連なる。
 日本史は神話に淵源するとは、歴史学上では誤謬である。しかし、現実の日本人の無視できない割合の人々は、《そんな真偽問題、お堅いことを持ち出すなんて、野暮ね》と退け、《神秘的でロマンティックじゃないですか》と魅了される。「日本史は神話から始まる」とは、特定の歴史家だけでなく、現在の日本人の無視できない数の人々の歴史像ではなかろうか。

[教養とは政治的教養] 21世紀の現代日本人は、いまも事実上その神話に生きている。生徒にとって、歴史は年表暗記に堕落されているから、大人になっても、神話の政治利用に無感覚である。歴史を学問的に教えようとする青年は教員になれるだろうか。特に教育学部には学生監視の眼が光っていないだろうか。
 「教養の核心は政治的教養である」という三木清を思い出す。「政治とは本来、未来形成活動である」からである。投票はその一端にすぎない。
 
 
[3] 無限の外来文化受容の構造

[無性にめでたい] とにかく、「おめでたい」のである。「おめでたい」とは、或るモダン・エコノミストの新元号「令和」への感慨であり、さらに最近、本稿筆者に手紙を寄せた旧友の感慨でもある。

[先進外来文化に弱い日本人] 「モダン」は外来文化である。外来文化を輸入する窓口は天皇である。その導入代理者が天皇の周囲に侍り、輸入代理業務を引き受けている。竹内好はそれを『現代中国論』で「無限の外来文化受容の構造」と命名した。
 とくかく、日本人は、左右を問わず、先進外来文化には、弱いのである。本稿筆者は、竹内好のいう「一木、一草の天皇制」・「無限の外来文化受容の構造」を軸に、竹内好論を、今から45年前に論じたことがある(内田弘『危機の文明と日本マルクス主義』田畑書店、1974年)。かつての竹内好論を思い出す機縁が、今日の《めでたいと陽気な風潮》にあると予想しなかった。

[視界に凱旋門デモは入らない] 《フランス》と聞いただけで、「セ・シ・ボン」と胸が熱くなる。あのシャンゼリセ・凱旋門でマクロン大統領を批判するフランスの人々など、念頭にまったく入らない。その人々が見えないフィルターを自から無意識に掛けている。実在すると夢想された「フランス市民社会」を憧憬する。イギリス王室の話題に胸がときめき、うっとりとする。そのような風潮をマスメディアが流布する。

[受容と排斥の二面文化の日本] したがって、日本の民族主義は決して一面的な排外主義ではない。いわゆる「ネットウヨ」はその一面にすぎない。頂点・天皇の文化権威を濾過紙にして、外来文化をつぎつぎと無限に導入する。竹内好が日本で「国民」概念の自立化を力説したとき、日本文化の分裂症気味なこの特性を念頭においている。
 外来文化を無限に受容する。か、と思えば、或る臨界点で急転し自閉する。外来思想をすべて無きものにしようとする「日本主義」(日本的キリスト教、日本的経済学など)が跋扈する。したがって、無原則に頻繁に英単語を使ってものをいう最近の日本の風潮は、或る臨界点に接近している徴候ではなかろうか。

[テキストは間違い、テクストが正しい] 「テキスト」は発音通りでない。「テクスト」が原語に近い発音である、という。しかし、textの発音表記は[tekst]であって、「テクスト(tekusuto)」の母音u,u,oは存在しないことに気づかない。この例などは、文化的強迫観念に襲われた喜悲劇の一例である。
 竹内好は、例えば、「ヴァ、ヴィ、ヴ、ヴェ、ヴォ」という発音を日本語に導入することは、日本語の音韻体系を破壊するので反対し、それらを「バ、ビ、ブ、ベ、ボ」に変換することを主張した。日本の保守派は、竹内好のこのような主張に耳を傾けてきたのであろうか。

[なぜ日本制作でなく、フランス制作か] パリに定住しているという映画監督の渡辺謙一の作品「天皇と軍隊」を東京の「ポレポレ東中野」で観たことがある(近々、横浜シネマリンで再上映される予定)。「昭和天皇と自衛隊を正面から見据えたフランス制作ドキュメンタリー」とその映画の小冊子は宣伝する。
 しかし、なぜ「日本制作」ではないのか。日本固有の問題は、日本からよりもフランスから見ると、なぜよく見えるのであろうか。その映画を観ても、いっこうに不分明であった。《パリに住む・フランスで生活する》、ただそれだけのことで、何か優れた価値があるかのような価値観が支配していないだろうか。

[原武史の皇太后節子への関心] その映画上映の後、同じ会場で渡辺監督と原武史との対談がおこなわれた。そのときの原武史の議論に関心をもち、NHK講座「松本清張」を観た。『点と線』『砂の器』『昭和史発掘』『神々の乱心』の4作品が、その講座で論じられた松本の作品である。
 最期の『神々の乱心』は、完成間近に松本が死去したために、未完成になった著作である。おそらく、原武史の関心の焦点はこの『神々の乱心』にあると思われた。その事実上の主人公は、皇太后節子である。

[敗戦間近に戦勝祈願] 原武史は最近著作のひとつ、『天皇は宗教とどのように向き合ってきたか』(潮新書、2019年)で指摘されている、注目すべきことである。
 皇太后節子は、宮中祭祀に熱心でない昭和天皇裕仁よりも、それに熱心な秩父宮を愛したであろうと判断する。皇太后節子と秩父宮は1936年の「二・二六事件」のとき微妙な行動をとったことに、松本清張も原武史も注目している。
 皇太后節子の強い主張を受け入れて、天皇裕仁は、なんとポツダム宣言受諾の1945年8月10日の8日前の8月2日に、九州は福岡の香椎神社などに代理を送り、大東亜戦争勝利の祈願をさせている。ヒロシマ(8月6日)・ナガサキ(8月9日)の数日前である。
 
 
[4] 天皇の私事と公事とは、何が結合するのか

[天皇の私事が公事の根拠] 天皇明仁は日本国憲法第1条が規定する「天皇の象徴」とは、「祈り(宮中祭祀)という私事」と「国民への寄り添い(行幸)という公事」であると自ら定義し実践してきた。このことは、2016年8月の「おことば」でも明言されている。原武史は近著『平成の終焉』(岩波新書、2019年3月)で、この問題を詳細に検討している(つぎの本稿筆者の見解はその原武史の著著を参考にした部分がある)。
 第一に、日本国民は象徴天皇とはなにかについて戦後考えてこなかった。その空白を天皇明仁が自ら埋めた。しかし、天皇の公事は憲法で規定している。未規定の事柄については、天皇は内閣の指示を待たなければならない。安倍首相であっても、彼は合法的な首相である。安倍だから、安倍に相談なく、天皇明仁が勝手に天皇の公的な行為について自分だけで規定してはならない。すればそれは憲法違反行為である。

[原武史の実証天皇制研究] 天皇明仁によれば、天皇たる所以・根拠は、宮中における「祭祀」(祈り)である。原武史の近著『平成の終焉』には、「祭祀」についての極めて詳細なデータが掲載されている。天皇明仁・皇后美智子の「行幸啓」についてのデータも詳しく掲示されている。
 原武史の天皇制研究は、特筆すべき極めて詳細なデータによって根拠づけられている。天皇制論議はこれまでイデロギッシュであり、感情的政治的ではなかっただろうか。議論する左派も右派も、天皇制についての事実関係を宮中の行為事実にまで分け入って調べてきたわけでもない。その空白を原武史はしっかり埋めているのである。その上で、タブー視されてきたことがらにも、明確に議論している。本格的な天皇制論である。

[天皇の私事と公事の関連] 天皇明仁によれば、「私事」である「宮中祭祀」(祈り)が「公事」である「行幸」(国民への寄り添い)を根拠づける。通常は私事と公事とは分離している(私事≠公事)のに、「私事=公事」という不思議な方程式が象徴天皇制では成立しているのである。その解はなんであろうか。
 その解は、天照御神に祈願すること(私事)が日本国民のためになる(公事)という関連づけである。その方程式を不問にする日本人の原思惟は「公私の弁別」などは行わない。天皇個人の心身がその両者を統合すると思う。その統合観は、日本人が王政を撤廃し共和制(リパブリック)を自らの力で形成した経験が無いことによるのであろう。
 日本人にとって、「公(おおやけ)」とは、依然として「大(きな)家」をもつ支配者のもとに集合する民衆のことである。「市民」といわず「公民」というのも、大家支配の意図が隠されている。因みに、現代中国憲法でも、中国国民は「市民」でなく「公民」である。
 ただし、原武史が指摘するように、「新嘗祭などの大祭には首相をはじめとする三権の長や閣僚などが参列するから、完全に私的な行事となったわけではない」(前掲書『天皇は宗教とどのように向き合ってきたか』148頁)。この参列は、天皇の私的行事を公の代表が権威づけるとも理解できるので、公私混同であるとも判断できる。ここにも大家(古代的な公[おおやけ]である天皇家)は、別の近代的な公と結合して、それを飲み込んでいるのか、それに飲み込まれているのか、あいまいな関係となっている。
 
 
[5] 宮中祭祀のためのタブー

[汚れを忌み嫌うシャーマニズム] 月経や出産で血を流し、ひとが生まれる。このことは天皇制では「汚れ」である。その汚れを、日本列島を北から西南に連なる山脈から流れで出る水が日本の事物を清める。水は人間も清める。この山脈とそこから流れ出る清水が天皇制の母胎ではなかろうか。つまり、天皇が祈願する神は自然宗教の神、天皇はそれに仕えるシャーマンではなかろうか。
 「シャーマニズムとは、特別の訓練や修行によって、精霊や神仏など超人間的な存在と自由に交渉ができる霊力を身につけた人間(シャーマン)を中心とする宗教のありかたであり、その特別な霊力の保持者は、宗教的なカリスマである」。

[シャーマニズムと《神話》顕現] 上の引用文は、原武史が『平成の終焉』で紹介する、阿満和麿『日本精神史』(筑摩書房、2017年、203頁)のシャーマニズム・シャーマンについての規定である。阿満によれば、日本に伝来した仏教もシャーマン化してしまうという。仏教の神道化である。その融解力は底深い。神道的シャーマニズムは、近現代史の表層でなく、深層に潜流し、危機の曲面で三木清のいう「神話」という形態で顕現してくるのではなかろうか。

[徳仁の関心=水・自然・登山] 因みに、つぎの天皇となる徳仁は、「水・自然・登山」に強い関心をもっている。よく登山する。徳仁が好む登山は、モダンな活動、環境保護への関心である。しかし、それらは同時に、天皇制の中心・宮中祭祀で極度に重視される「汚れなき清らかさ」に連なることに注目したい。

[宮中祭祀を担う女官による清め] その汚れと清めは、極めて厳密にいまでも宮中祭祀に使える女官たちが守っている。この事実を、原武史が前掲書『平成の終焉』で紹介している。しかし、その内容には全く触れていない。その文献とは、高谷朝子『皇室の祭祀と生きて』(河出文庫、2017年)である。宮中祭殿が、いかに汚れを忌み嫌うか、汚れをいかに清めるかについて、詳しく紹介されている。

[手の平の清めの作法] たとえば、宮中の外から配達される郵便物を受け取った、宮中祭祀に仕える女官の手の平は「汚れている」。したがって、水道水で「清める」。しかしそのとき、水道の蛇口に掌(てのひら)をつけ指で蛇口をひねってはならない。なぜなら、汚れた掌を水道の水で清めたあと、水道を止めるときに、その清められた掌が触れる蛇口は、汚れているからである。それをさけるために、手の甲を巧みにつかって蛇口を開き、清めたあとは、締めなければならない。

[衣服を纏った下半身でも手で触れると汚れる] 同じ清めは、たとえ装束を纏っているとしても、その装束の上からでも下半身に触れてはならない。触れたならば、その手は汚れるからである。同じように、掌を清めなければならない。

[祈りの現場は生命活動を忌み嫌う] 日本国民のための「祈り」の現場は、このような「忌みを清めること」を極度に追求する場である。月経・出産の血は「汚れのなかの汚れ」である。人間生命の活動を「汚れ」であると規定する。汚れを極度に排除する禁忌は、神の存在する場がそれを要求するからと思念されている。
 そのようにしてまで汚れを避けた「純粋に清らかな空間」が、宮中祭祀での祈りの純粋性を担保する必須の条件である。天皇・皇后に祈られる「神」は、人間生命活動の対極に存在し、それを汚れと忌み嫌う「神」である。

[皇后となる雅子の適応障害は快癒するか] 従来、山岳は女人禁制であった。山岳信仰の特性をもつ神道は「血」を忌み嫌う「自然宗教」であろう。まもなく皇后雅子になる雅子皇太子妃が病む「適応障害」は、このような禁忌追求の生活環境への適応の難しさを示しているのではなかろうか。
 皇太子妃雅子が皇后になったからといって、楽観はできない。上皇・上皇后になった明仁・美智子が熱心な宮中祭祀に、皇后雅子は共に関わらざるを得ないだろう。皇后雅子の苦難は、なお持続するのではないかと懸念される。皇后美智子も一時、失声症を患った。
 天皇制を憧憬する国民は、そのような病いを宮中の人々に無意識に強制していることを自覚しなければならない。人権はその人々にも厳然と存在するのである。「めでたい」と浮かれていい時ではない。

[被差別の人々の人権] 辛淑玉(しん・すご)は野中広務との対談『差別と日本人』(角川新書、2009年)で、「天皇制により、部落の人々はより貶められていった」(同書126頁)と指摘している。天皇制は序列創造制度である。その頂点を目指して国民が殺到している。
 辛は、神武天皇が宿るとされる橿原神宮は1890年に明治政府が建立したとも指摘している(同書126頁)。この建立は神話の国家による人為的製造である。本稿筆者がかつてそこを訪れたとき、その神宮周囲は「日の丸」の旗で充満していた。

[被害者を忌み嫌う日本] 辛は、《日米安保条約があるから安心である》というのが、日本を取りまくアジアの人々の本音である。いつまた日本人が暴走するか心配であるという恐怖感が彼らに存在すると指摘している(同書142頁)。在日の人々、被差別の人々、チッソ・水俣の患者たち、ヒロシマ・ナガサキの被曝者たち。日本では、被害者が忌み嫌われる。しかし、彼らにも人権はあるのだ。こうして、日本の「頂点」も「底辺」も、人権蹂躙で共通する。

[楽天的な国民の無責任さ] そのような不合理な事柄を知らないで、それを知ろうともしないで、「おめでたい」と歓呼の声を張り上げる日本国民は、「主権者」にふさわしい行為主体であろうか。

[左右両派の皇道派] 原武史は前掲書『天皇は宗教にどう向き合ってきたか』で、つぎのように指摘している。
 「いわゆる『ネトウヨ』の人々の間で、『天皇・皇后は反日左翼だ』という、なんとも倒錯した言葉すら生まれています。[改行]一方、左派の人たちから見と、“天皇は安倍政権に対して距離を置いているらしいから、『天皇の敵は味方』で、我々の味方だ”というような考えになるかもしれません。しかし、これもまた“左派の皇道派”のような、ねじれた立ち位置と言えます」(同書188頁)。
 日本国民の天皇権威主義の頂点である天皇・皇后を擁護することで、天皇・皇后が国民に身を寄せることを模倣して、お返しに、天皇・皇后に身を寄せることで、自分(たち)の言動を守る者が日本の左右両派に存在する。この奇妙なシンメトリーこそ、権威主義への卑しい擦り寄りの産物ではなかろうか。 (以上)
 
 
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://chikyuza.net/
〔opinion8586:190421〕

http://chikyuza.net/archives/93141  

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コメント
1. 2019年4月22日 20:42:15 : Ye6rWhFDQo : aTBYYW50UldiZDI=[127] 報告
投稿を読んだが、根本的なるものを欠いている。

現在の天皇は、神武より始まっているというが、それは最近のことで、縄文の時代こそが根本的であるべきである。

キリスト教も仏教も神道もなかった先の根本こそ、列島に芽吹いた精神である。

先史時代のはるか彼方に、二重の歩みが列島内にあり、先駆けた人々と大地に暮らす人々に別れ、現在も連綿と続いているが、それは列島内に限られたことではない。

今、この列島に住む人々は日本人というが、それは狭義の意味でしかない。
この列島に住む人たちは世界を旅してきた人々の子孫である。
神武から始まった一族もその中のひとつだろうが、二重の上の方だろう。
この列島に於いては新しい意思をもった一族であったことは間違いない。

今後、この列島のことは解明されてくるだろう。
小さな窓しか持たない人は決して見ることのできない世界がそこにある。

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