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天皇のためなら何をやっても許されると「大善」を妄信した 保阪正康 日本史縦横無尽
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2019/04/11 日刊ゲンダイ 張作霖爆殺事件(奉天軍閥の指導者張作霖は専用列車で奉天に向かう途中、京奉線で爆破され暗殺された)/(C)共同通信社 軍事指導者たちは何としても、戦争に訴えて局面を打開しようと考えているかに見えるが、現実には戦争それ自体が目的であった。軍人は本来なら、戦争の抑止力としての立場があるが、日本では戦争によって自らの存在を認めさせようという考え方にとらわれていたのである。昭和10年代の軍事指導者は2つの考えに拘束されていた。 その1つは、国を一等国に仕立て上げ、そのことにより自らをこの国の功労者として名を残そうというのであった。もう1つは、戦争を政治の延長ではなく、事実上、事業と同様に見ていたことであった。戦争のプロフェッショナルという歪んだ自負を持っていた。軍事が国家の中でどのような位置づけがされるべきか、そんなことは考えもしない戦争屋という言い方もできた。それがこの国の不幸だったのである。付け加えておけば、第2次世界大戦でこんな考えの軍人が主導権を握った国はない。 軍事指導者たちの2つの考えは、天皇の軍隊であるにもかかわらず、天皇に従うというのではなく、天皇の意思よりも自分たちが軍事的実績を上げて、天皇を名君主に育てようとの屈折した心理を土台にしていた。 大正時代の後半の年譜を見ればわかるが、昭和天皇が皇太子だった摂政の時代(5年間)は、陸海軍とも一兵たりとも軍を動かしていない。それが昭和に入ると、昭和2年、3年と相次いでの山東出兵、さらに張作霖の爆殺事件、そして6年の満州事変にと行きつく。 青年将校による国家改造運動も盛んである。昭和天皇の意思や考え方など全く無視している。昭和40年代から50年代にかけて、当時の軍人たちに話を聞いていて、彼らが思い違いをしていたことがわかった。当時、軍内では大善と小善という語が囁かれていたそうだ。 大善というのは、天皇陛下のお心持ちの一歩前に出て、天皇のために軍事的既成事実を作り上げることだった。小善というのは、軍人勅諭に定められたことのみを果たす軍人である。即位した時は26歳の昭和天皇を名君主に育て上げるという考えは、つまりは自分たちが、天皇のためになると思うなら何をやっても許されるというのが、軍事指導者への道筋だったのである。 そのことがわかると、太平洋戦争に入っていく軍事指導者の独りよがりの心理状態が鮮明になってくる。 保阪正康 作家 1939年、北海道生まれ。同志社大卒。編集者を経て「死なう団事件」でデビュー。「昭和天皇」など著書多数。2004年、一連の昭和史研究で菊池寛賞。
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