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平成は「社会主義体制が完全に敗北した」時代
窮地に追い込まれた日本共産党の「社会主義革命」
2019.3.26(火) 筆坂 秀世
ロシア史上最も偉大な人物、スターリンがプーチン氏抑え1位に 調査
ロシアの首都モスクワで行われたメーデーの集会で、旧ソ連の独裁者ヨシフ・スターリンの肖像画を掲げる女性(2017年5月1日撮影、資料写真)。(c)AFP/Kirill KUDRYAVTSEV〔AFPBB News〕
(筆坂 秀世:元参議院議員、政治評論家)
平成も残すところ約1カ月となった。新しい元号が、数日後には発表される。
思えば平成は、世界の大激動の中で始まった。平成元年の1989年の11月には、東ドイツが自国の体制を守るために作った「ベルリンの壁」が崩壊した。この年は、ソ連によって政治、経済、社会体制が押しつけられた東欧の社会主義国の全体が崩壊し始めた年でもあった。
激動は、まずポーランドで始まった。ソ連の言いなりだった統一労働者党に代って独立自主管理労働組合「連帯」が政権を握った。ハンガリーでは、政権党の社会主義労働者党が党名を社会党に改称して社民政党化し、政権党の「指導的役割」を規定した憲法から同規定を削除した。東ドイツでは、社会主義統一党書記長だったホーネッカーが辞職に追い込まれ、「党の指導性」規定が憲法から削除された。チェコスロバキアでも、国民の反政府運動の高まりの中で共産党書記長が辞任に追い込まれた。
ソ連の言いなりだった独裁政権に対する民衆の批判は、東欧全体に広がり、日本共産党と親密な関係にあったルーマニア労働者党書記長、初代大統領でもあったチャウシェスク独裁政権も崩壊し、最後は銃殺による公開処刑にされた。
91年8月には、ついに親玉のソ連共産党が解体し、ソ連邦も崩壊していった。
眼前で繰り広げられている歴史的必然とは
マルクス主義の最も重要な命題は、「資本主義から社会主義への移行は歴史的必然」だとするところにある。
私が18歳で日本共産党に入党した際、先輩党員から手渡された勧誘本には、次のようなことが書かれていた。
“今、世界の半分近くの人びとが社会主義の下で暮らしている。世界は音を立てて資本主義から社会主義へと変わりつつある。これこそが人類進歩の方向である。この速度を速めるのが君たち若者なのだ。君たちこそが社会を発展させる主役なのだ”
その証明がソ連であり、東欧の社会主義国の存在であった。だが、この歴史的必然論が成立しなくなった。それどころか、私が18歳の頃に読んだ勧誘本をもじれば、眼前で繰り広げられているのは、皮肉にも社会主義から資本主義への移行であり、こちらの方がよほど必然的に見えるのである。
地球上に社会主義体制などなかった?
ソ連共産党が解体した際、日本共産党は『大国主義・覇権主義の歴史的巨悪の終焉を歓迎する──ソ連共産党の解体にさいして』(91年9月1日)と題する常任幹部会声明を発表し、この中で「もろ手をあげて歓迎すべき歴史的出来事である」と表明した。
全世界を覆った「共産主義・社会主義崩壊」論に対抗するためであった。そのため、“そもそもソ連の体制は社会主義ではなかった”と言い始めた。レーニンの時代は良かったが、スターリン以降変質したとも言う。現在の綱領では、ソ連、東欧について次のような評価を下している。
「レーニン死後、スターリンをはじめとする歴代指導部は、社会主義の原則を投げ捨てて、対外的には、他民族への侵略と抑圧という覇権主義の道、国内的には、国民から自由と民主主義を奪い、勤労人民を抑圧する官僚主義・専制主義の道を進んだ」
「東ヨーロッパ諸国で一九八九〜九一年に起こった支配体制の崩壊は、社会主義の失敗ではなく、社会主義の道から離れ去った覇権主義と官僚主義・専制主義の破産であった」
この綱領の草案を作成したのは日本共産党の指導者である不破哲三氏である。その不破氏が2003年6月の党大会で、綱領改定の報告で次のように述べている。
「1917年に始まった、資本主義を離脱して社会主義へという世界的な流れは、ソ連・東欧の崩壊によって終わったわけではない」
「中国、ベトナム、キューバなどでの社会主義への前進をめざす努力に、私たちは注目しています」
ソ連、東欧諸国は社会主義国ではなかった。中国、ベトナム、キューバも社会主義国ではなく、今は社会主義を目指す途上にある国々だというのだ。つまり、とうとうこの地球上から社会主義国は消え去ってしまったということなのである。
若者を誤導した日本共産党
スターリンが権力を握ったときにこういう指摘をしていたのなら、その先見の明を褒めることもできる。
だが、実際には、日本共産党はまさにスターリンの指導を受け、スターリンと共に歩んできた。
スターリンが書記長になったのは、ロシア革命から5年後の1922年である。この年にコミンテルン(共産主義インターナショナル)日本支部として創立されたのが日本共産党であった。一方、日本共産党が“ソ連は社会主義ではなかった”と言い出したのは、1991年にソ連共産党とソ連邦が解体してからである。スターリンが権力を握ってから実に69年も経っているのだ。
私が日本共産党に入党した当時の綱領には、どう書かれていたか。
「第二次世界大戦後、国際情勢は根本的にかわった。社会主義が一国のわくをこえて、一つの世界体制とな(った)」
「資本主義の全般的危機はふかまり、資本主義世界体制は衰退と腐朽の深刻な過程にある」
「社会主義世界体制は人類社会発展の決定的要因になりつつある。世界史の発展方向として帝国主義の滅亡と社会主義の勝利は不可避である」
日本共産党は、スターリン以降の社会主義体制をここまで持ち上げていたのである。この綱領を振りかざして、多くの若者に入党を呼びかけていったのだ。ところが今になって、実は社会主義世界体制など誕生してもいなかった、と説いている。無責任の極みと言うしかあるまい。
私自身は別段、個人的恨みはないが、この綱領を信じて、どれほど多くの若者が日本共産党に入党したことか。若者を誤導した責任は、決して軽くはない。日本共産党の幹部だった私にも責任はある。
そもそも社会主義国には、自由も民主主義もなかった。社会主義国の憲法には、それぞれの国の共産党、社会主義政党の指導性が書かれていた。一党独裁が憲法で保障されていたのだ。現在の中国やベトナムもそうである。
かつてドイツが東西に分裂していた時代に、東ドイツから西ドイツに逃げて来る人は大勢いたが、その逆はなかった。理想社会どころか、地獄のような体制であったということだ。これらの事実をほんの少しでも正面から見ていたなら、ソ連や東欧の社会主義体制に未来などなかったことを見通せたはずである。
私の眼も曇っていたと言うしかない。
平成は「社会主義の展望」が消滅した時代
日本共産党のこうした弁明は、日本共産党自身を窮地に追い込むことにもなった。
社会主義革命の歴史的必然論を説いたマルクスとエンゲルスの共著『共産党宣言』が書かれたのは、1848年のことである。それからすでに171年が経過した。それでもこの地球上に社会主義国が1つも存在していないというのが、日本共産党の立場なのである。
これでは社会主義の展望など語ることができないのも当然である。
私自身を振り返ってみても、入党した当時は「マルクス・レーニン主義」と呼ばれており、マルクスやエンゲルス、レーニンの著作をよく読んだものである。難解で容易に理解できない内容だったが、兎にも角にも読んだものである。党の会議に出ると、党員たちと社会主義の未来を語り合った時期もあった(どの党員も浅薄な知識しか持っていないのだが)。
だが現在はどうだろうか。社会主義革命を目指している党員は皆無だろう。そもそも目標にもなっていないのだ。
共産党の指導者である不破哲三氏は、一昨年11月17日付の朝日新聞のインタビューで、「党名の変更はしないのか」と問われ、「日本共産党は、戦前から95年、この名前で活動してきたが、将来的には21世紀から22世紀も展望しながら、日本に理想社会をつくるために活動する政党です。党名には、その目標が体現されています」と語っている。
21世紀中どころか、22世紀までかかると言い始めたのだ。100年以上先の展望なのである。不破をはじめ、誰一人として存命していない先の話を平気で展望として語るというのだから、呆れるほかない。こんなものは展望とは言わない。この方針に確信を持てと言われても、まともな党員なら困惑するばかりだろう。だが誰一人として困惑しないのだ。なぜなら誰も社会主義など、真面目に考えたこともないからである。
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/55885
「大虐殺」を主張し続けなければならない共産党の宿命
南京大虐殺の嘘:事件後、日本人は歓迎されていた!
2019.3.26(火) 森 清勇
孫文が眠る「南京中山陵」 6月から見学無料、事前予約制で
南京中山陵(2018年5月31日撮影)。(c)CNS/泱波〔AFPBB News〕
易姓革命を繰り返す中国は、前王朝の歴史を否定することによって自己を正当化できた。白を黒に塗り替えることで権力を維持することができたのだ。
国民の支持を問うこともなく権力者になった者は、誰かを悪者とする敵に見立てる必要がある。
悪者にされているのは華夷秩序に従順でない日本である。その仕かけが歴史戦であり、「南京大虐殺」である。
独裁政権(あるいは絶対君主)下の国民は自由を制約され、真実を知る権利も語る権利も剥奪され、権力者が「強いること」を語らなければ生きられないように運命づけられている。
強いられることが嘘と分かっていても否定できないし、むしろ拡大することが歓迎されるという悪循環を生み出すこととなる。
南京大虐殺が正しく格好の題材である。地道な歴史研究で白の証明をすることが論理的であるが、統治の手段として敢えて白を黒とする相手に論理は通用しない。
以下に、「南京大虐殺」はなかったことを証明し、統治の手段として利用している現実を確認する。
朝日新聞社が戦場に送った慰問団
支那事変が始まって約半年後の昭和13年1月、朝日新聞社は吉本興業の協力を得て、華北と華中に慰問団を派遣した。
華北の慰問先は大連・天津・石家庄・太原・通州などであり、華中は上海・南京・蕪湖・蘇州・杭州などであった。
昭和13年1月5日付「東京朝日新聞」は「戦線へ初春の慰問団」の見出しで、誇らしげに次のように社告を掲載した(早坂隆著『戦時演芸慰問団 「わらわし隊」の記録』、以下同)。
「本社が全国国民より出征皇軍慰問のため寄託された資金は目下約32万円の巨額に達してゐるが、(略)今回右皇軍慰問資金の一部をもって更に軍当局の援助を得て北支戦線および中支戦線に左の通り慰問映写班ならびに慰問演芸班を派遣することに決定」
「慰問演芸班 陣中への新春笑ひの慰問として吉本興業部の協力により、漫才に落語に講談に浪花節に全員第一流のメンバーをすぐり」という通り、「わらわし隊」と呼ばれた慰問団には柳家金語楼、花菱アチャコ、横山エンタツ、ミスワカナなどが入っており、東京を昭和13年1月15日に出発する。
当時の朝日新聞は「軍用機献納運動」を展開して多額の寄付金を募り、昭和12年の下半期だけで611.5万円を集めた。
この資金で戦闘機20機、爆撃機10機、偵察機10機など90機を献納している。これから類推すると、32万円は軍用機5〜7機に相当する数百億円であろう。
上海の激戦は終わっていたが南京戦は続いており、公演先では無数の支那兵の死体がごろごろ転がり、時には弾が飛び、また空襲を受けるなどの小競り合いもあったという。そうしたところへ列車や自動車、馬車、或いは輸送機・戦闘機で乗り込んで慰問している。
20キロも離れた場所から歩いて劇場に来た兵隊もいたが、劇場が小さく入り切れず、外までずっと行列が伸びていたという。
劇場のない所では野外の芝生の上で、あるいは軍艦上で公演し、時には遅れてきた兵士のためにと頼まれて再度の公演も行っている。
金語楼やアチャコら7人は北支慰問団で、中支慰問団はミスワカナ(紅一点)、横山エンタツ、杉浦エノスケ、石田一松、玉松一郎、神田ろ山および林正之助(吉本創業者の実弟で社長)の7人であった。
上海戦が終わって2か月後の1月17日、上海に到着した。小休止の後、さっそく午後は病院慰問をやり、夜は松井石根最高指揮官をはじめとする軍上層部列席の下で公演するなど精力的である。
上海に1週間滞在して21カ所で慰問を行い、23日に南京へ向かう。南京を陥落させて1か月後余であるが、東京裁判の判決ではいまだ戦闘が続行している時期である。
戦闘機で南京入りした慰問団
ミスワカナ・玉松一郎夫妻と神田ろ山の3人は列車で南京入りする。他の4人は戦闘服に身を包み、パラシュートを背負って、上半身を外部に晒したままの戦闘機で移動し、飛行中はかなりの寒さに襲われたという。
「もしもの時は、こめかみに一発」と説明され、ピストルを渡されたそうである。
南京では27日まで公演をやっている。人気の高かったミスワカナは軍の病院を積極的に慰問し芸を披露した。
南京到着時の模様を石田一松は、子供たちが「先生(シーシャン)、先生」と声を出しながら道を開けて歓迎してくれた。「自分の国にいて他国の人におべっかを使わねばならぬ彼らは手に手に日の丸の旗を打ち振っているのだ」と、同情の気持ちをもって書いている。
しかし、これは演芸団だから特別の歓迎を受けたのではない。
「東京朝日新聞」は激しかった南京戦が終わった数日後の1937年12月21日付で、「初めのうちは彼らも日本人を見るとこそこそと壁の陰に隠れたものだがこの頃はすっかり日本の兵隊さんと仲良くなり兵隊さんが通りかかると『先生々々』とニコニコ顔で何か用事を言付けて呉と寄って来る程である」と書いている。
ところが、昭和23年11月13日付「朝日新聞」は、「(松井石根は)1937年12月13日に南京市を攻略した。修羅の騒ぎは、1937年12月13日に、この都市が占領されたときに始まり、1938年2月の初めまでやまなかった。この6、7週間の期間において、何千という婦人が強姦され、十万以上の人々が殺害され、無数の財産が盗まれたり、焼かれたりした」と書くのだ。
米国人宣教師でYMCA書記長のジョージ・フィッチは「昼も夜も日本軍の暴行は続いた。特に最初の2週間がひどかった。恐怖の9週間が過ぎた2月17日、それまで街頭に出るのをためらっていた14台の人力車が初めて現れた」「強姦は12月15日頃から1日1000件の割で続発」「被害者の年齢は10歳から70歳」などと証言している。
フィッチは病院の患者らを撮影したマギー・フィルムを持って1938年2月25日に上海を発ち香港、広州経由でハワイを手始めに全米で日本軍の悪行を宣伝して回り、11月に中国への帰国の途に就いた人物である。
慰問団が来たときは16師団の佐々木到一少将率いる第30旅団(33連隊と38連隊の各2000人)が警備している時期である。公演は2500人収容の国民大会堂で行われ、約4000人中の実に62.5%が演芸を観て腹をよじって笑っていたのだ。
兵民分離の市民登録を12月24日から開始して、市民には「安居ノ證」を付与し、新年からは中国人による自治委員会もできて治安を維持していた。こうした中で1日1000件の割で強姦が続発していたというのである。
早坂氏は2007年に人民大会堂(共産党政権で名称変更)を訪ね、その後、南京市民に聞き取りを行う。
多くの市民が「日本人は歴史の真実を知らない。もっと歴史を学ぶべきだ」と判で押したように言ったという。
そして「共産党一党独裁下において高度な情報統制下にある国の人々が、『真実』という言葉を口にする時、私は寂しい気持ちになる。・・・彼らのもっている歴史観こそ、共産党に都合の良い『自尊史観』でしかない」と述べる。
そして、田中上奏文(満州を皮切りに日本が世界を征服するという偽書)を偽書としないで教え、通州事件を「正義の叛乱」とし、原爆投下やヒロシマ・ナガサキは殆んど教えず、天安門事件やチベットでの虐殺には一切触れないため知らないにもかかわらず、「日本人はなぜ歴史から学ぼうとしないのか」と口を揃える中国の現実に思いをはせる。
約10か月後には第2次「わらわし隊」が送り出され、(昭和13年)12月3日に再度南京を慰問する。
その様子をミスワカナは、「南京の町はとても活気があって、兵隊さんと支那人で雑閙(ママ)してゐます。日本軍の使役につかはれて働いてゐる俘虜がトラックで通ります。支那人のカフェなんかも出来てゐて、姑娘が『いらつしやい』なんて日本語で呼んでゐます」と情景描写している。
元軍人も喜んで受け入れた南京市民
南京戦に関わらなかった人物はもちろん、直接・間接に関係した軍人も戦争終了直後から南京市民は快く受け入れている。一人は「大虐殺」の最高責任者とされた松井大将の秘書であった田中正明氏である。
パール判事の全員無罪論を翻訳した田中正明氏は興亜学塾に学び、講師であった下中弥三郎氏の紹介で松井大将の知遇を得、大将が会長であった「大アジア協会」に勤務して機関紙「大アジア主義」の編集に携わる。
大将は戦傷した部下を見舞うため、田中氏を同道して大阪、名古屋、金沢、仙台などの陸軍病院を訪ねている。
そうした折に、「その後の南京の治安状況が心配だ、視察に行ってくれないか」と頼まれ、陸軍省から「従軍記者」の認可を得て、昭和13年6月末、即ち南京事件が終わったとされる4カ月後に南京を訪ねる。
のちに大虐殺の張本人とされる松井中支那方面派遣軍司令官が南京を去って半年も経っていないときである。
しかも、田中氏は松井氏が会長を務める組織の秘書役である。その人物が松井氏の紹介とあって、「安全区はもとより、雨花台、下関、新河鎮、草鞋峡、紫金山などあらゆる古戦場や捕虜収容所等案内して頂いた」(『諸君!』(2001.2)所収の「三派合同 大アンケート」)というのである。
田中氏が尋ねたところは、「大虐殺」があったとされる場所ばかりだ。それにもかかわらず、恨みごとの一つも言わずに、案内している。
2例目は、河村たかし名古屋市長の父君たちが、事件から約8年後に南京に駐屯したことである。
父君は歩兵伍長で250人の部隊の一員として、敗戦翌日の1945年8月16日に南京に入る。翌年1月まで約5か月間、郊外の寺に滞在するが、市民にとても親切にされ温かいもてなしを受けたという。
感謝の念に堪えがたく戦後50年目に「お礼というか感謝の気持ち」として、父君が中心になって戦友たちと桜1000本を寄贈する。植樹祭には体調を壊した夫に代わり、ご母堂が参加されている。
寄贈した戦友たちの誘いで市長は植樹から10年目に南京に行き、南京大虐殺記念館にも足を運ぶ。
そこでの展示内容や説明と父君たちへの親切のギャップが大きいことに驚き、姉妹都市であればこそ「父たちが親切なもてなしを受けた南京で、いったい何が起こっていたのか真実を明らかにし、友好増進につなげたい。そのために真剣な議論で真実を明らかにしたい」と提案する。
一地方自治体の首長といえども国会議員も務めた政治家の発言だけに、中国は猛反発し、準備していた友好行事の大部を一方的にキャンセルする暴挙に出たのであった。
第3の例は「日中友好軍人の会」が9年後に南京を訪れた時のことである。
遠藤三郎元中将ほか18人は何と「国賓」として招待され、北京では周恩来首相、彭徳懐国防相、粟裕参謀長と会談している。
その後、南京に入るが、ここでは人民解放軍の歩兵高級学校の張日校長(中将)や姚普iようてつ)副校長(中将)と会談する。
このとき、南京攻略時の第10軍参謀であった谷田勇元中将が、雑談のように、南京占領後数件起きたレイプに触れ、「南京ではいろいろありまして、ご迷惑をおかけしました」と述べて、「事件を起こした者は軍法会議にかけました」と伝えたところ、張校長は事件に対する日本軍の扱いは「公正」だったと応じ、和やかに会談は推移したと述懐している(「産経新聞」平15年7月24日付)。
福田元首相に郷愁を抱かせた南京
2018年6月、福田康夫元首相が南京大虐殺記念館を訪問して「献花」までしたことが騒がれた。中国が政治的な「歴史戦」を仕かけている真最中であり、思慮のなさが批判を受けたのは当然であろう。
しかし、元首相に南京訪問を思い立たせたのは、父親の赳夫氏(のちに首相)が当時大蔵官僚で、汪兆銘政権の財政顧問(1941〜43年)になっていた関係で南京に在住して、小学校進学前の「3か月間だけの生活だった」が、「現地の中国人は非常に親切にしてくれたんだな。あの時の南京に対するあこがれというか望郷というか、そうした思いが以前からあったんです」(「産経新聞」平成30年7月4日付、「単刀直言 福田康夫元首相」)と語るように、いい思い出が残っていたからにほかならない。
インタビューの間などで康夫氏が(大虐殺)事件について一切語っていないことは、父君から大虐殺どころか、事件があったこと自体を聞いていないからであろう。
さらに敷衍すると、父は事件を「知っていて語らなかった」のではなく、そもそも「語ることができなかった」ということではないだろうか。
中国側の被害者数は謎だらけ
以上は日本側への対応の指摘であるが、中国側の常識を疑わせる発言なども多々存在する。ここでは4例を示しておきたい。
(1)東京裁判で、魯甦は「日本兵が5万7418人を殺すのを見た」と述べ、検察側書証では「5万7400余」と記載されて東京裁判の法廷に提出された。しかし、法廷では朗読されることはなかった。
(2)遺体処理の慈善団体としては「紅卍会」が知られており、4万3071体を処理した記録も残されている。
昭和13年4月16日付「大阪朝日新聞」は、「戦ひのあとの南京でまず整理しなければならないものは・・・濠を埋め、小川に山と重なってゐる幾万とも知れない死体、これを捨ておくことは、衛生的にいっても人心安定の上からいっても害悪が多い。・・・そこで、紅卍会と自治委員会と日本山妙法寺に属するわが僧侶らが手を握って片づけはじめた」とし、続けて運搬手段や費用、人力などについて書いている。
死体処理に当っては慈善団体と雖も中国人の自治委員会と調整が必要であろうから、「紅卍会と自治委員会・・・が手を握っ」たというのは当然であろう。
ところが、東京裁判で突然、「南京市崇善堂」という慈善団体が出現し、11万2266体を埋葬したというのである。
南京戦に上海派遣軍参謀として参加し、南京戦終了後の1938年2月からは南京特務機関長として1年間、南京(城内と城外の行政県)住民と関係してきた大西一大尉は、崇善堂の名は聞いたことも見たこともないという。
その後の調査でも崇善堂はトラックは1台しか持っていなかったと言われる。費用の請求や人員の支援依頼なども出ていないようで、正しく幽霊団体ではないだろうか。
(3)中国は高校で使用している教科書『世界近代現代史』の中では、「1937年12月〜1938年2月の間だけでも南京一都市において、30万人もの武器をもたない中国人が、日本のファシズムの残酷な大虐殺の被害に苛まれた」と記述している。
ところが、南京大虐殺記念館の張建軍館長は、同館を訪問した福田元首相に対し、「南京の城内の人だけでなく、そこに至るまで日本軍が戦争しながら殺害した人も30万人に入っている」と説明している。教科書記述の「南京一都市」ではなく、「そこに至るまで」と地域を拡大している。
(4)歩平・中国社会科学院近代史研究所所長は櫻井よしこ氏らとの座談会(2005年6月、『日中韓 歴史大論争』所収)で、「南京大虐殺の30万人という数字について、当然、根拠はありますが、これはたんに一人ひとりの犠牲者を足していった結果の数字ではありません。被害者の気持ちを考慮する必要もあります。日本でも広島の原爆記念館に行くと、犠牲者の数は14万プラスマイナス1万人と表記しています。・・・一定の変動幅を持たせることはお互いに必要なことだと考えている」と語っている。
死者数は死体の積み上げでなく、「感情」を加えたものだというのだ。そして、広島の焼死体や行方不明などでどうしてもはじき出せないプラスマイナスを引き合いに出す。これは議論以前の暴論ではないだろうか。
おわりに
「あったこと」の確認は「たった一事」で可能となるが、「なかったこと」には「無限の証明」が求められる。「悪魔の証明」と言われるゆえんである。
「なかったこと」は噂の段階で否定することが大切であるが、「南京大虐殺」のように、国家が確信的に公言するに至っては容易ではない。
しかし、中国側の発言に矛盾が目立つようになってきた。
河村名古屋市長の発言に対する中国側の反応(暴挙)は、「真実」が究明されれば「歴史戦」の敗北につながり、さらには共産党一党独裁の「ウソ」体質の暴露となり、政権の正当性に赤ランプが点きかねない。
そうした危惧からであろうか、「大虐殺」から「性暴力」への方向転換を始めたのではないだろうか。
リ・リニューアルした南京の記念館では、南京大虐殺の広告塔にも見立てられてきた本多勝一記者やアイリス・チャンの関係物品が撤去され、「性暴力」コーナーが新設されて「南京占領で1か月に2万件近い強姦事件が発生した」と表記し、写真、映像、さらには避妊具・避妊薬などが展示されているからである。
これ以上の宣伝は馬脚を現わし、共産党指導部にとっては益なしとみはじめたと思われる。また習近平主席の「一帯一路」は苦境に立たされ、「信用」面で日本の協力を必要としている。
今こそ、南京問題を政治決着するチャンスではないだろうか。
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/55837
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