http://www.asyura2.com/19/senkyo258/msg/778.html
Tweet |
日本の市民の皆様へ-最終投稿一括編 「人間の顔を持った社会の実現に向けて何をなすべきなのか」
「序章」
小生2011年から本ウエブサイトで断片的に「日本の市民の皆様へ」と題し一市民が3.11以降日々直面する苦しみとその社会的な背景を記載し続けて来た者です。一番最後の7章構成の文章を2018年6月28日から2019年3月4日のまでの間「1章 破壊されてしまった三権分立の原則」から「7章 『こんな平成に誰がした。』 行為とその帰結。そして怒りと不安と希望と」を阿修羅の政治選挙板に投稿させて頂いておりました[1]。これら最後の7章に渡る投稿を世の中の不条理に対し満身の怒りを込めて書上げた。怒りだけでは明るい将来には辿り着きませんので其処の不条理からどの様に脱するか道筋を多少なりとも解明しよう、そして言葉に表す様に努力して来た。日本を被う深刻な社会問題に対して何とか自分なりに納得出来る結論付けをする事が出来、この最終の一括投稿を通して自分の心のケジメが付いたと思っております。かなりの長文なのですがあなたの心の中に光がありさえすれば、これを読み終わせる事が出来るのではと思っております。
しかし何と言う世の中になってしまったのでしょうか?いえ、この問いは社会の事や政治に関しての事ではありません。日本に住む市民皆さんの行動様式です。
お母さんのおなかの中にいる小さな胎児がこの世に産まれて来る事を自ら選択した結果、彼らや彼女らが赤ちゃんとしてすくすくと育ち、幼稚園小学校で元気に遊ぶ様になる微笑ましい姿。しかし今は親の暖かい懐のもとで全ての子供達が健全と真直ぐに育つのが当たり前で無くなって来てしまった時代。この現代の日本が、如何に人が人間らしく生きられない世の中になってしまったとのかと言う問いこの最終投稿で発したい。その結果の必然として子供にも受難が容赦なく降り懸かって来ている昨今。どうしてこの様な殺伐とした社会風潮となってしまったのか?主な理由を二つ1章で述べてある。
ところでこれから述べる事実は日本の七不思議の一つとして数えてよい位、とても不思議でどうしても私には理解出来ません。小生が行ってきた過去の投稿や本日の投稿に記載した様な議題等を何故所謂知識人はメディアを通して発言しないのでしょうか?それともメディアから閉め出されてしまったのでしょうか?小生は単に一介の会社員です。何故私の如くの人間が平日土曜日曜自分の時間を犠牲にしてまでもこれらの投稿を書上げなければいけないのでしょうか?ごく一部の知識人の方々を除き誰も怒りの声を挙げないではないですか?何故知識人は現在日本で進行している日本の存在意義を劣化し更に破壊させてしまう(モラル的には既に破壊されてしまった)様な政治状況に対し、抗議する発言も行動もそれに伴う責任も取ろうとしないのでしょうか?本当に、本当に日本の知識人はスケールの小さいオバカ達です!何度でも言います。オバカです。想像してみて下さい。この様な民度の低くなってしまった国から来た旅行者や海外駐在の人達が今後立派な国から来た尊敬に値する市民だと現地で歓迎される事は無くなるでしょう。
おい、大丈夫なのか、今のままで?何が悪いのだろう?どうしてこうなってしまったのか?何故世間の皆さんはこの問いを発しないのだろう?私が何を言いたいのかもう判るでしょう?日本の社会が病んでしまった事。会社もそうじゃないか?ついこの間まで、日本の産業界の宝と言われた半導体の会社東芝、シャープ、サンヨー等見事に凋落を通り越して没落してしまったがこれも日本の社会が病んでしまった結果生じて来た問題のほんの一部なのである。その様な事も気にしないでお笑い中心のTVやLINEに夢中な日本の市民。日常の自分に、社会に問いがないから、本当の事が見えなくなってしまった。詳しくはこの一括投稿の一番最後を読んでみて下さい。
ところでこのウエブの読者の方々は殆ど男性だと思います。あなた達の知り合いの女性の、或は女性のお子さんお孫さんの方々に最終投稿を読んで貰える様勧めて頂けたらと思います。今の日本の社会は人口の半分を占める女性が市民として覚醒しない限り良い方向に向かうとは思えない。小生時代遅れのオッチャンなもので、FacebookやTwitter等のアカウントを持っていません。どうか本投稿をTwitter等で拡散し頂けますでしょうか?心よりお願いします。
「目次」
1章 破壊されてしまった三権分立の原則
2章 音楽は政治を批判してはならない
3章 欲望の行き着く果てに
4章 何処から、何処へ、何ゆえに
5章 そして全てが逆行する社会へ
6章 喧噪の中で失ってしまった大事な事
7章 「こんな平成に誰がした。」行為とその帰結。そして怒りと不安と希望と
===
1章 破壊されてしまった三権分立の原則
最初に、「...現行の憲法の下の国家運営で70年弱もの間国際社会の中で紛争も起こさずに巧く立ち振る廻って来ている訳だが、憲法に対する解釈などを変えるにはそれに見合った大きなメリット等、余程の理由が無い限り誰もが躊躇する事なのである。日本に住む全ての市民にどれだけ利点が有るのか、誰からも何ら説明が無いのはどう言う訳なのだろうか。」これは拙稿、「日本の市民の皆様へ-最終回, No.1」[2]に記載した文である。どうしても判らなかった上記の不思議が昨年(2017年)夏に読んだ本で見事に氷解した。非常に良く書かれている本である。日本の現代史のこの50年の中で、ある勢力が日本の国政に対し行使して来た影響と行為を膨大な量の情報を基にあぶり出している。この本を読めば如何に日本の屋台骨が脈々と長い年月をかけてこの勢力の教義と原理によってねじ曲げられ、彼らの望む様に変えられてしまったのか明快に判る。菅野完氏の「日本会議の研究」[3]がその本である。何の事はない。現憲法を否定し、憲法改正を教義/原則に掲げる勢力には彼らの理念故、憲法改正の理由を誰にも説明する必要は無いのである。その様な勢力が大多数を占める国会が-日本の市民がそれこそ悪戦苦闘しながら日々直面する-問題の解決など眼中にないのは当たり前なのが良く判る本である。とどのつまり原理主義者(この表現は「日本会議の研究」から流用させて頂く)達の教義に沿った、彼らの問題を解決する場として国会が機能している事を日本の市民は大きく眼を開いて見据えなければならない。市民にとって役立たずどころか悪法の立法を行う三権の一つを担う国会と成り下がってしまった。この事実が日本が殺伐とした社会となってしまった根本原因の一つ目である。
さて日本会議の教義、原理と行動理念のエッセンスは上記書22ページの「●日本会議は何を目指すのか?」に要約されているので、転記しておく。「皇室を中心と仰ぎ均質な社会を創造すべきではあるが(1)、昭和憲法がその阻害要因となっているため改憲したうえで昭和憲法の副産物である行きすぎた家族観や権利の主張を抑え(2)、靖国神社参拝等で国家の名誉を最優先とする政治を遂行し(3)、国家の名誉を担う人材を育成する教育を実施し(4)、国防力を強めたうえで自衛隊の積極的な海外活動を行い(5)、もって各国との共存共栄をはかる(6)」とある。今の内閣と自民党が押し進める政策の指南の訓示である。一言で戦前の強権体制の再構築が一番重要なゴールと読めるだろうか。更に、本書112ページでは以下の様に、原理主義者達の正体を暴いている。「だが、2015年現在、宗教団体『生長の家』は左傾化とも言われる路線変更ののち、政治や社会運動との関わりを一切絶っている。(段)しかし、教団のこの路線変更に我慢ならず、創始者・谷口雅春が説いたウルトラナショナリズム路線を堅持しようとする『生長の家本流運動』なる運動が存在する。この『生長の家本流運動』における最大の組織が『谷口雅春先生を学ぶ会』と呼ばれる組織だ。『生長の家原理主義者たち』と言ってもよいだろう」。この文章を読んだ時はいささか驚きであったが、この本を読み進めると私の中にあった幾つもの疑問点が線として繋がったのである。
さて人からの話で恐縮だ。2014年に或る人から聞いた話だ。この人はとある官公庁関係の一般事務の仕事をしている。その人が言うには、組織内の雰囲気が変ってしまったと。皆偉そうに振る舞う様になって来たとの事であった。その時その場で私は2011.3.11の影響だと思いますと答えた。何故そうなのか?それは東日本での核惨事が発生する以前に経産省や文部科学省(科学技術庁)が彼らの原子力行政を推進する為に主張し根拠として来た「原子力発電所は5つの防護壁に守られているからとても安全です」と言うキャンペーンがいとも簡単に潰えてしまった事実。これが一番最初のステップ。幾度も過去の拙稿で指摘しているが、東京電力の強欲さ故の職務放棄と業務怠慢と、彼らの業務監督を官公庁が放棄した結果、行政及びTEPCOがつき続けて来た巨大な嘘が東日本の核惨事により、白日の下に晒された訳である。しかしこの次が有るのである。厚生労働省、農林水産省、環境省等の官公庁が繰り出して来た手は何だったのだろうか?放射性同位元素に汚染された食べ物を食べても健康に問題有りませんとキャンペーンを張り、事故前の官僚が言い続けてきた安全神話=巨大な嘘をまるで煙幕がその嘘を包み込む様に隠して静かに退場させてしまったではないか?あなたはもう私が言いたい事が予想出来るだろうか?官僚の面々が3.11以降何故主権を持つ市民に、より一層傲慢不遜な態度を取る様になってしまったか。それはイメージ操作、マインドコントロール、平たく言えば真実でない事を宣伝する事によって市民をコントロール出来る自信が2014年の時点でついたからであると思っている。何ともおぞましい事態なのか...
次に。行政機関の従業員である官僚達は何故安全だから食べて応援と言う様な巨大な嘘を付かなければならなかったのかとの疑問が生ずる。そう。官僚達の生存本能、つまり何か行為を行った結果に対してその帰結の責任を絶対にとりたくないのである。簡単に言えば行政が実行した国事の行為(嘘を含めて)に無責任で居続けたい。 その結果嘘を言い始め、その嘘を言い続けるしか無くなる。嘘を言い続けなければならない習性は逆に彼らの弱点となってしまう。もしこの全官僚達の弱みを握り彼らをコントロールする事が出来たのなら素晴らしいぞ!と言う訳。 皆さんお判りだろうか?責任を取りたくないから、真実を隠蔽する。問題を先送りする。21世紀に入り、日本中の社会と多様な組織がこの有り体になってしまったかの様である。それ以上に内閣と与党はタチが悪い、のである。一度手に入れたら二度と離さない権力に対する執着と欲望。この欲望の行き着く果ては何処なのか?自分達の保身の為に、日本の政治屋と行政府の従業員が嘘をつき、且つ無責任に振る舞って日本を何処に導こうとしているのか?こんな国が美しい国とは...笑止千万である。
今、行政府と内閣与党両者が歩み寄って彼らが直面する市民の怒濤の怒りと非難の声が沈静化するまでお互いに固唾を呑んで嵐が過ぎるのを待っている状態である。しかし...私の確信が間違っている事を祈っているが...更に次があるのである。原子力発電は安全と言う嘘をカバーする目的で核汚染した食料を食べても安全と言う嘘を行政府は繰り出して来たが、この後者の嘘が破綻した時にこの嘘の連鎖をカバーアップ、隠蔽可能な次の嘘は残念だが無いのである。ではその時その場合の次の手は有るのか?勿論答えはYes。この章の題名として今進んでいるシナリオがその回答となる訳。そう。原理主義者に同調する事で、日本の市民に有無を言わせない強権な体制を内閣、与党と共に創る事である。今回のモリカケ疑獄も吹っ飛んでしまう程の、緻密にそして周知される事の無い静かなる革命が進行中なのだ。
その根拠を挙げよう。以下の事を「日本会議の研究」を読めば容易に思い浮かべる事が出来る。この原理主義集団は公官庁に彼らの影響を及ぼすべく長年に渡り若手メンバーを公官庁に送り込み続けていたとしたら?持ち論答えはYesだ。この4月にかなり上の立場の自衛官が国会議員を罵倒した事件が発生した。日本会議の教義を信奉する或は彼らの思想に共感する若手が各官公庁の上層部に上り詰めている可能性は私はほぼ100%と踏んでいる。日本会議から各官公庁や新聞社テレビ等のメディア各社に送り込まれた原理主義者は横断的に連絡を取り合っているだろうし、この原理主義者に共感する彼らが、極少人数の原理主義アーキテクト達及びインナーサークルの人々が日本に独裁制を敷くのを後方支援するのは当然ではあるまいか。この様な「美しい日本」は彼らにとっては夢でありイデーロギー的手法で造り上げて来たユートピアになるのであろう。
さて三権の内残った一権、司法府に言及しておこう。小生の三回目の投稿の中の[4] 3章「Justice is not done; 社会正義が行使されない国」にて以下記載: "哲学者カントは罰とは正義を行う為のものと考えている。罰を課すと言う事は、犯罪者又犠牲者の為に法の行使を行うのではなく、法が法たるもののゆえんを保持するため故行使されなければならないのである。カントは罪を犯した者に罰を下さない事は'justice is not done'だと論議している。更に突っ込んで言えば正義の行使(justice is done)が施されなければ、法律と言う理念が弱体化してしまうのである"とWikipediaの内容を翻訳の上指摘しておいた。非常に残念だが法務省(英語ではMinistry of Justiceと言う。しかし看板に偽りありで、Ministry of Injusticeと省名を改める様にしたら実体に近いのではとアドバイスしておきます)や検察庁のみならず、司法府が下した過去の判例を鑑みると日本の経済界の強欲な面々と、自分自身の保身と出世と言う強欲の為に面子を保ちたい権力のインナーサークルの面々の腰巾着に成り下がって久しい事は言うまでもあるまい。最後に。近未来の大震災クラスの災害発生で内閣が非常事態宣言を行う可能性が非常に高い。国内の混乱の期に乗じて日本の立法司法行政と言う三つのそれぞれ独立して来た権力を以下に記したイデオロギー集団の原理主義者主導のもとに独裁政権下で統括一体化した機関とするのは時間の問題の様な予感がする。一言で言えばこの原理主義が世俗の習慣や通念を駆逐してしまう事が起こりうるのである。
日本会議のサークル図は中心から: 原理主義者のアーキテクト=>原理主義者の核となるインナーサークル=>日本会議の会員、原理主義者の信者=>原理主義者の取り巻き、応援団、ボランティア及び奉仕者 =>原理主義者に寄り添う事で経済的に利益を受ける個人、グループ、組織、会社。特に軍事、核開発の産業組織。又経済界には日本会議の考え方に共感し支援する財界人もいると聞く。実際には既に日本の経済界はその強欲さ故原理主義者の軍門に落ちた。=>原理主義者に加護を求める官公庁。既に日本のメディアがこのサークルに組み込まれてしまっている。政権につくす三権とメディアを見れば如何にこの原理主義集団の勢力が強大なのが判る。日本のそれぞれ独立した三権が成長し続けているこのサークルに飲み込まれる日は近い。
「この1章での結論は: 彼らの教義をもとにした社会の実現を目指す活動が国の至る所で企てられているのである。」この投稿を書き上げる最中に奇しくも田中龍作ジャーナルに上記の三権分立の破壊を示す記事が記載されていた。是非参照下さい。[5]
参考文献等:
[1] 阿修羅のwebより拙稿「日本の市民の皆様へ」シリーズのサーチ、 https://www.google.co.jp/search?as_occt=any&as_sitesearch=www.asyura2.com&num=100&as_q=%93%FA%96%7B%82%CC%8Es%96%AF%82%CC%8AF%97l%82%D6&btnG=%8C%9F%8D%F5&gws_rd=ssl
[2]「日本の市民の皆様へ-最終回, No.1 副題:日本の市民が直面している日常」
投稿者 プラナリア 日時 2014 年 12 月 08 日
http://www.asyura2.com/14/senkyo175/msg/884.html
[3]「日本会議の研究」、菅野完、2016年、扶桑社
[4]「日本の市民の皆様へ-その3, No.1」
投稿者 プラナリア 日時 2012 年 7 月 08 日
http://www.asyura2.com/12/genpatu25/msg/457.html
[5]「【森友改ざん】 内部文書「官邸が法務省に巻きを入れている」 検察への介入明らかに」、田中龍作ジャーナル、http://tanakaryusaku.jp/2018/06/00018368
===
2章 音楽は政治を批判してはならない
その様な風潮があると聞く。誰が言い出したのだろうか?そしてそれは何故なのだろうか?
ならば、更に一歩進んで逆の立場を考えて見ようではないか。音楽が政治を、或は政府を批判する事が寛容な精神で許容される様な所がこの世界の中にあるのだろうか?そしてその結果この歌手に国民栄誉賞的な名誉が与えられる様な国があるのだろうか?
その答えは: 実際にその様な歌手がいて、そしてその様な国が有るのである。日本の市民の皆様はこの事実はとても驚きではなかろうか。(すみません、以下小生の音楽の嗜好が入る事お許し下さい。)歌手本人は2018年9月29日と30日にBillboard Live TOKYOにてソロコンサートを開催。因にその歌手が受けた名誉とは以下である。本人の顔と背景に10曲程の曲名を記載したカナダの郵便切手が2011年の6月末から発売された。Bruce Cockburnは1970年代初頭からアルバムを出している人だ。デビュー当時は愛を語る美しい曲を作詞作曲して謳っていた。80年代だろうか、社会問題に対して現地を訪問、住人と対話しその時のその地の現状を見、感じて作詞作曲するジャーナリスティックな手法を取り入れ音楽を造り始めた。そして音楽を通してある社会問題を公にし、この問題をリスナーの感性に訴える様なアルバム造り続けている。またコンサートを70歳過ぎてもこなしている。強いな。
彼のアルバムの中から、1980年に出された"Humans"は独裁制(アジアでの)に対する満身の怒りを歌い上げたもので、1985年のアルバム"World of Wonders"は大国が如何に小国を餌食とし、むしり取って来たかを深い悲しみを込めて歌う。また人間の、自然から与えられた摂理からの逸脱、例えば欲望やイデオロギーによる生命に対する悪行の数々を告白し歌い続けている。そしてこの世の不条理に対する彼の怒りは熾烈を極める。一方人々に対する愛もまた深い。これは私の彼の音楽から受けた印象だが、彼の心の奥底にはキリスト教的ヒューマニズムが宿っているのではと思う。同時に自然をこよなく愛する吟遊詩人である。彼の歌に合わせた映像メッセージも以下のリンクに有るので聞いてみては如何でしょうか?[1] 特に印象に残る曲のYouTubeのリンクを張っておく。洋楽は好きではないと言う方は次の一番最初の曲だけでも聞いて欲しい。
* "If a tree falls"[2] 人の欲望の餌食となった熱帯雨林とその生態系。速いテンポで歌詞も曲も心に残る。音質少し良くないですが、是非聞いてみて下さい。曲の最後の所ではこう歌っている。"If a tree falls in the forest, does anybody hear? If a tree falls in the forest, does anybody hear? Anybody hear the forest fall?" 一本の木が伐採され倒れる音を誰も聞こうとしなければ、森全体が伐採されるのは誰も判る筈が無い。のである。私はこの曲の題名を替えて"If a child falls in the society, does anybody hear? Anybody hear the society fall?"と皆さんに問いたい。この日本の社会が家庭をファミリーを大事にしなくなった結果なのだろうか?親が家庭で行っている彼らの子供のネグレクトや虐待が新聞やTVで報道される機会が増えて来た。心が張り裂けそうである。何も世の中の事も理解していない、そして自立も出来ていない愛くるしい子供達。この彼らの受難の時代、倒れた子供達にどうして大人達が無関心で無責任で居られるかを皆様に問いたい。何故誰も倒れた子供達に手をさしのべようとしないのか?もしかしたら、日本の社会から愛が欠落してしまったのだろうか?
* "Pacing the cage"[3] 何とも美しいメロディーだ。彼が歌を通して訴え続けて来たこの世の正義に反する事、不条理な事があたかも現実でないかの如くに誰も聞き入れない様な現状が維持され続けられている、欲望に満ちた愛の無い世界。その様な世界の中、そして長い人生の中で今自分がハツカネズミの様にクルクルと廻る檻の中で歩きながらペースを取る。歌詞の中で"...Powers chatter in high places(行)stir up eddies in the dust of rage(行)set me to pacing the cage..."とある。良い訳が出来ないが...「力を持つ者達が手が届かない所で喋っている。そして(私の)怒りの礫が渦を巻き、それで歩く檻の中のペースが決まってしまった。」私は何処へ行くのだろうか、そして何故にと思いながら檻の中を諦めずに毎日毎日歩き続け、外の世界を檻の中から眺めて感慨深く溜息をつく様な感覚である。私も落ち込んだ時に聞くと、皆も同じなんだなと勇気付けられる曲。人々が連帯しなければ世の中は決して良くならないのだと実感する。自然児の彼の曲の内容が人達の気持ちに届くにはどれだけ時間がかかるのか?第6章を読んでみて考えて下さい。
* "Tokyo"[4]では、忙しい人生を過ごす人々と東京の姿を歌う。39年経った今でも殆ど変わっていない東京。
* "Silver wheels"[5] 自動車文明を通し人間の欲望を痛烈に批判した曲。
* "A dream like mine"[6] 人間が動物から逸脱し、自然の中よりいでて、欲望に満ちた土地にこの世界を変えてしまった事への告発
* "Gavin's Woodpile"[7] 彼の歌の中で最も好きな曲である。弾き語りを8分間もやっている。凄い。
彼の歌詞を読めば今の日本に当てはまる事が多いのに驚嘆するに違いない。1984年のアルバム"Stealing fire" の一曲"Maybe the poet"の歌詞中に"Don't let the system fool you(行)all it wants to do is rule you..."とある。そう、不動産バブル期に大人になっていた世代には判ると思う。年々テレビ、新聞、週刊誌(漫画雑誌を含む)の知的なレベルが下がって来ていてそれと同時に日本の人々の行動を伴う活発さが落ちて来ているのを実感しないか?日本においては既に"The system fooled you"で人々は既に心が操作されているのである。この事実が日本が殺伐とした社会となってしまった根本原因の二つ目の理由である。昨今の日本での出来事が世界の常識から或は世界のレベルからかけ離れてしまっているのを看、あなたは暗澹たる気持ちにならないのか?教育において発明発見を行う人材を輩出させる力を無くし、日本の経済が物造りと言う発想に収斂してしまった結果隣国の台湾や韓国の後塵を喫し早や何年になるのであろうか。市民の皆さんがイノベーションの原動力である個人のユニークさを、日本の社会が否定する事を知らない、この民度の低さ故の国力の衰退の結果なのである。そう、国家は多数の人々の構成により成り立つのである。日本会議を中心とする勢力が造り上げた"The system"が日本の市民を"fooled you"するとは簡単に言えば、絶えず携帯電話の操作を行うオペレータに日本の市民を堕しめ、また意見の多様性を認めない無言の圧力、同調圧力を個人の心に浸透させる事により達成出来る。個人の活力、社会の活力がその結果消滅してしまった訳。精神の荒廃、制度の荒廃、社会の荒廃が目の前に曝け出されている事、即ち日本の社会が病んでいる事に気付かないとは...今、日本の市民はシステムの奴隷である。
ここで明確に言っておく。Bruce Cockburnが作詞作曲し作り上げたアルバムで世界の政治や自国を含めて各国の政府を間接的に批判するのは即ち今の世界の現状や状況を(建設的に)良くしたい気持ちから発せられるのであって政治を攻撃或は理由なしで咎めている訳ではないのである。もちろん彼の曲ではこの世界に幅をきかせている、欲望にかられた強欲な面々も批判の対象だ。音楽は政治を批判してはならないと彼らがキャンペーンを張る理由は実は此処にある。そうなのだ。この章では「音楽は政治を批判してはならない」としたが音楽をテレビ、新聞週刊誌に置き換えてみよ。極一部のメディアを除き、既に力を持つ者達を建設的に批判さえもしなくなってしまった。日本のメディアは「表現の自由」を自ら殺しつつある。この世の中に住む日本の若者よ、あなたの怒りの矛先は間違っていないのか?
ここで「表現の自由」が強権体制下で如何に抑圧されているかの一例を見よう。中華人民共和国の中国民主化運動の中心人物で「投獄中にノーベル賞平和賞を贈られ獄中で死去したのは、1935年に受賞したカール・フォン・オシエツキーに次いで2人目である。」 劉 曉波氏 (Liu Xiaoba 1955-2017)[8]は以下この「表現の自由」の事を言い表している:"Free expression is the base of human rights, the root of human nature and the mother of truth. To kill free speech is to insult human rights, to stifle (窒息する) human nature and to suppress truth."[9]
「2章のポイントは: 『表現の自由』は政治を独占する人々の権力欲と支配欲と戦う最大の武器なのだが、これを行使出来なければ、あなたは無言で働く感情のないロボット。更に一言。己の投票権は自分の政治的な、『表現の自由』の一部で或る事を決して忘れてはならない。」
参考文献等:
[1] "Bruce Cockburn"のウェブサイト、http://brucecockburn.com/
一番下のページの'vevo'のビデオ映像で彼の思いが伝えられている
[2] "If a tree falls," Bruce Cockburn, 1989年アルバム"Big Circumstance," 年,https://www.youtube.com/watch?v=ErS9HCh8GfE
[3] "Pacing the cage," Bruce Cockburn, 1996年アルバム"The Charity of night,"
https://www.youtube.com/watch?v=mN2uMVYwmqc
[4] "Tokyo", Bruce Cockburn, 1980年アルバム"Humans," https://www.youtube.com/watch?v=t76JGcMp0cM
[5] "Silver wheels" Bruce Cockburn, 1976年アルバム"In the falling dark," https://www.youtube.com/watch?v=z-avqJQwOoo
[6] "A dream like mine," Bruce Cockburn, 1991年アルバム"Nothing but a burning light,"
https://www.youtube.com/watch?v=0eG23MqIMos
[7] "Gavin's woodpile," Bruce Cockburn, 1976年アルバム"In the falling dark," https://www.youtube.com/watch?v=ovhTIQn2Je4
歌詞は以下参照。http://cockburnproject.net/songs&music/gw.html
歌詞の中で"English River"と歌うが一企業の水銀投棄に因る河川の汚染問題の事
[8] 劉暁波、ウィキペディア、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%89%E6%9A%81%E6%B3%A2
[9] "China Seeks to Delete Nobel Peace Prize Winner Liu Xiaobo from the Internet,"
https://torguard.net/blog/china-seeks-to-delete-nobel-peace-prize-winner-liu-xiaobo-from-the-internet/
===
3章 欲望の行き着く果てに
これは以前読んだ本の中の言葉である。作家の広瀬隆氏の1981年出版の「東京に原発を!」最終章に広瀬氏がこの言葉を読者に問いかけていた。強欲と言う言葉がピッタリと当てはまる、この言葉の視点から日本と日本人が歩んで来た時代を眺めてみよう。強欲の定義は:一言で他人を押し退ける気持ちから生じる行為の総称である。
あなたはこの問いの先には何が待ち受けているのかを過去から学習したのか?欲望をコントロールせず、その行き着く果てまで突っ走って行った結果は。それは...カタストロフィーなのである。荒廃した土地に待ち受ける破局。まるで人間の欲望が地球を破滅に導いている様な。
欲望。何ともイヤラシくしかもいとも簡単に人々の心を占有してしまう感染症の様な心にこびり付いた大きなシミの様な物。宗教的な欲望。イデオロギー的な欲望。政治組織問わず、権力に対する欲望。名誉欲、自己保身欲。責任逃れ=無責任欲、暴力欲。金銭的な欲望。食欲、性的な欲望そして虚栄心や嫉妬心そして自己顕示欲。これらはヒューマニズムに反する心である。何故なら、人を押し退け貶める行為だから。つまり全て共通する事は:相手がいる事。私とあなた、私とあなたがた。自国と他国、或は全世界。持ち論我々の欲望が小さな生き物に影響する事もある。つまり個人と個人、個人と集団、集団と個人、集団と集団。これらの中において、一方から他の一方へ加えた行為、そしてその行為からの個別の相互作用とその結果。力の相関図を見ると明確なのは、ある行為を行った者(達)と行為を受けた側の関係。両者の内側での経済的な立ち位置や気持ちの持ち方等、何かが変化しその行為に因って両者が共に生きている土壌に、或る影響を及ぼす結果となる。が両者に一切関係しない人(々)がこの土壌の上に居る事も忘れてはなるまい。それがグローバル化で顕著に現れる。相互作用と言う学術用語がこれを説明する。
さてあの1986年から1991年までの不動産バブル経済の時にあなたは何をしていたのだろうか?それともまだ産まれていなかったのだろうか?その時期にひと儲けしてやろうと眼をギラギラに血眼になって金儲けの話に飛びつき、あぶく銭で遊び回っていたのだろうか?そしてそれらの行為とバブルは何時かは弾けると言う事実、その帰結を予見していたのであろうか?そう、欲望の行き着く果てに待ち受けていたバブルの崩壊と、失われた20年の事を誰も反省も総括もしていないとは日本の不幸。不動産バブルが弾けた後、人を押し退け弱い者を押さえつけていた事を反省しなかったから、モラルや愛の或る社会に日本を戻す機会を逃したな。同じ事が今回の東日本核惨事にも言える。欲望のままに公益よりも、企業の利益を優先課題とし原子力発電を推進する行為をとって来た主謀者達(TEPCO、経済産業省等)、そして安全対策を軽んじていた故に津波に対する対策も(2012年1月に投稿した拙稿の4章「教科書の中の危機管理」の中で指摘しておいたIEEEの記事を参照して下さい[1])先延ばしにして来た事により起こってしまった人災なのだが、東京電力福島原子力発電所事故調査委員会、所謂国会事故調が纏め上げた報告書が核惨事を起こしてしまった反省を行っている位で、当の行為とその主謀者達が起こしてしまった事故を何ら反省していないのはどうしても不動産バブルを起こした面々の姿と重なってしまうのである。 この不動産バブル期には日本の都市部の市民ほとんどがその恩恵にあやかった訳。海外旅行、高級ブランドの買い漁り、行楽地でのドンチャン騒ぎ。欲望のなすがまま美味しい思いと美味しい生活 。同じ構図が電気を使い放題使って原子力発電所は過疎地に押しつけ、美味しい生活をして来た都会の市民。美味しい生活は弱い誰かの出費或は犠牲によって賄われている事が見えないのか?先ほど説明した相互作用から、加害者と被害者の関係を通して不動産バブルを見ると、都市部に不動産を持つ者そしてその取り巻き 対 地方に住む者と言う関係になろうか。一方2011年の核汚染において、加害者はTEPCOとその取り巻きと原発を過疎地に押し付けて来た東京都民。被害者はこの原発を過疎地に押し付けて来た東京都民と、東日本に住む住人の方々、更に食品の核汚染で遺伝子を傷付けられてしまう、全国の子供達。相手の事を考えない、他人を押し退けて自分だけ利益を得る欲望の行き着く果てに、未来永劫に渡り核汚染した故郷を我々の子孫に引き継がせてしまった訳。上から下までの「足るを知らない」人々の暴走の果ての終着に今の日本は行き着いているのだ。それでも皆まだ自分の欲望の行き着く果ての結末/帰結を反省しないまま今日に至っている訳。だから自分の欲望を満たしてくれそうな政党を支持するのでしょう?違いますか?
しかし今思えば不動産バブル期の欲望、喧噪と今の時代の欲望喧噪は全く違うと思えるのである。バブルの時には日本と言う大きな入れ物の中で皆が皆、何かに向かって一心不乱に走っていた熱狂的な時代。打って変わって今の社会は死んだ様に静かである。喧噪はネット上に移り最終的に人々の心の中に入り込み、与えられたインターネット上の情報を忙しく咀嚼。好みの情報は飲み込み、嫌なものは吐き出す作業を絶え間なく行っているこの忙しさ。良い情報は「いいね」とすぐさま反応し、或は「いいね」を貰う為に見栄を張り、一方嫌いな情報なら攻撃、違った考え方を持つ人々を人格破壊する欲望には事欠かない。もしかしたらあなたは既にこの忙しい心の奴隷なのかもしれない。
さて、世界の国々の中で他人を押し退ける強欲さに満ちた人々や国々は事欠かないが、その点からすると何時から日本人がこの仲間入りをしたのだろうかと思う。金の話でもない。利権の話でもない。手短かに話そう。ケチとはお金を独り占めしておきたい人の総称。次に「お金」を「情報」に換えて下さい。特定の情報を出さない、共有出来ない。自分の保身と自分の強い立場を壊したくない故の情報の独占。お金の独占と同じ感覚で、自分の所有する情報にもケチなのである。これも強欲の一部なのだ。会社の組織運営の観点からすると社内情報/技術情報を組織内でシェアしない事はチームワークを重要視するなら御法度。同じ事が国の機関組織内や、主権を持つ日本の市民と国の諸処の機構の間でも言える訳。チームワークの協業関係に必要な潤滑油としての情報のシェアではなく、情報を上から下へと伝える習慣を造り上げ、流す内容もコントロールする独裁的手法。お金は誰のものか?持ち論稼いだ者に属する。国の運営に必要な情報は一体誰のものか?暫く前に成立した秘密保護法を見ればそれが誰なのか良く判る。
この章の後半として人が人らしく生きられる世界とは、を考えよう。或る社会、国家、そして地政学上に影響力を及ぼせる地域に、そこに或る国々の国政を司る人々にどの様な事が要求されるかを一例を通してと提示したい: 何時の事だったか。クリントン氏が大統領時の1997年か1998年だったか定かではない。英語版週間紙Newsweekに週間ごと世界中で発せられた言葉のページ(確かQuotesとかだった気がします)に以下の言葉が記載されていた。ヨルダンのフセイン国王(現在の国王の父上)が米国ワシントンDCのキャンプデービッドで行われたイスラエルとパレスチナの平和交渉が決裂した時に当時のイスラエルのネタニヤフ首相にかけた言葉だ。すみません記憶が正しければ以下の通り:"What you need is Sir, the vision that Yitzhak Rabin had. Someday you will have it but today was the victory of terrorists and warmongers."訳すと、「閣下、あなたが必要なものはイツハク ラビンが持っていたビジョンなのです。いつの日かあなたはそのビジョンを備えるでしょうが、今日はテロリストや戦争愛好家達の勝利なのです。」残念ながら、今もフセイン国王が表現した事は改善されていない。御存知の方も多いと思うがラビン首相は1995年宗教的不寛容な勢力の一員(ユダヤ教原理主義者とでも言おうか)により暗殺されてしまった。その後を継いだのがシモン ペレス氏。その後一年も経ずにネタニヤフ氏が首相に就任。この首相は頭が切れて口達者で知られる。目の前の現実を戦術的に自分の国に有利に持って行く事も得意の様だ。フセイン国王はラビン氏が存命中、彼の眼の中に映る、恒久平和のビジョンを自分の命を顧みず実現しようとする意志を読み取ったのだろう。人間存在の意義と意味を問うヒューマニズムは人類に共通する、宗教を超えた心情なのである。そう、宗教がこの様なヒューマニズムと連動しこれを問う事、を忘れてしまったらそれは単にイデオロギーに堕すのだ。見よ、日本に於いて神道や仏教がイデオロギーに成り下がってしまった事実を。ユダヤ人であろうが日本人であろうが原理主義者の欲望を傍で見ていると選ばれし者達と言う感覚なのだろうか、他人がどうなろうと構わない、自分の信念を押し通す者達だと言う事が判る。神様仏様に許されたエゴなんてあるものかと思うが。此処に問おう。宗教が人間存在を抑圧して構わないのか?多分違うと考えたい。その宗教がイデオロギーに墜ちてしまった故にと願う。
これは、力を持つ民族(人々)が弱い立場である他民族(人々)を抑圧する事が人として、それがモラル、哲学、宗教等如何なる理由にせよ許されるのかと言う問いである。この世界を共有しこの時代を共に分かち合う人間。そして生命の存在の意味の根源的な問いを自ら課し見えない答えを出そうと努力し続けて来たラビン首相。人はそれぞれの母よりこの世界に産み落とされれ、この世界を目の当たりに日々生き、しかもこの世界を共有している筈ではないか?戦略的戦術的なスマートさを押し通し、この国の人々の欲望のままそれを代表し権力を把握し続けてその地域の弱い者を抑圧し彼らの沈黙を強要する。相手と自分と。この世界をそして今の時代を彼らと共有していると言う感覚が国を導く人達の心の内に無いとどうなるかをあなたは思った事があるのか。残念ながら、その様な気持ち、モラルを持ち合わせていない人々がトップに立って、欲望の行き着くまま原理主義権威主義を振り廻し国政を行っても善政を敷く事は出来ないのである。この事は組織のスケールを小さくしても同じ。家庭の中にも学校の中でも同様当てはまる。人の中では欲望とモラル二者はバランス取りが難しい、何故なら - 例外はあるがほぼ - 相容れない2つの実体だからなのだ。
上記同様、欲望とモラルのバランスが取れず暴走してしまった過去の日本で、長い間反省されないまま今日に至っているもう一つ例を挙げよう。岩波ジュニア新書から発売されている今井和也著の「中学生の満州敗戦日記」[2]150ページから少し長いが引用させて頂く。七三一部隊とは満州国ハルビン市で運営されていた生物兵器の研究開発機関であった[3]:「『七三一部隊の深い闇』について、もう一度考えてみる。七三一部隊の施設の中では、生きたままの四肢切断•気管切開•弾丸摘出、ペスト•チフス•コレラ菌を感染させて死後解剖、腕を水に浸し全裸のまま立木にくくりつけて零下四0度の戸外に放置した凍傷実験、毒ガス吸入•血管に空気注射•血液をぬいた失血死•食事をあたえない餓死•感電死などの人体実験がおこなわれていたという。(行)読んでいるだけでも寒気がする様な残酷な実験のかずかずを、人命を救うこと、人の痛みをやわらげることを天職とする医者たちが、なぜ平然と実行できたのか。(行)これには二つの理由が考えられる。一つは『お国のため』という名目さえあればなんでも許されたという時代背景。もう一つは『自国民以外は人間ではない』という民族差別意識である。(行)『国家至上主義』と『民族差別主義』、この二つはいつの時代でも国際紛争を成立させる原理でもある。」
3章の教訓は:「己の欲望の奴隷になるな。何故か?心に悪意が生じてしまうから」である。
参考文献等
[1]「日本の市民の皆様へ-その2」投稿者 プラナリア 日時 2012 年 1 月 22 日
http://www.asyura2.com/12/genpatu20/msg/412.html
[1]「中学生の満州敗戦日記」今井和也著 岩波ジュニア新書
[2]「731部隊」ウィキペディア、https://ja.wikipedia.org/wiki/731%E9%83%A8%E9%9A%8A
======
4章 何処から、何処へ、何ゆえに
この様な人間としてのモラルから派生する問いを投げかける事が出来る現代日本の政治家はまず居まい。当たり前なのだが政治家がそれを言ったらキザなのだ。その判断をするのにはまず政治家の眼を見よ。そしてその眼光に人々に共通な気持ちが宿っているかどうかで判断して下さい。そして、言葉が軽い政治屋は内省が軽いかそれとも無い事を理解すべきなのである。こんな面々が国会に大きな顔をしてのさばってるから日本の市民の生活苦が一向に改善出来ないのである。前章と同様この章にて「喧噪と欲望」 対 「沈黙、内省とモラル」について考える。
国政を司る者達、政治家や官僚組織の各省の従業員達がギトギトとした欲望に溢れ、強欲な人間達であったらその社会において子供達を含め、日本の市民一人一人がにこやかに又幸せな気持ちで明るく暮らせる様な政治が実現出来るのであろうか?否、断じて否だ。日本の市民の声が国政から無視され続けられ、日々大変な思いをしながら生き残りに必死になって努力している事。世相が暗いのはこの様な行き詰まりの社会で前に進もうと暗闇の中を這っても、這っても明るい出口が見えないから。これは己の投票権を行使し強欲な面々を選んだ、或はこの政治的な表現の自由、即ち投票権を行使しなかった為に不遜で強欲な政治屋が低い支持率にも関わらず選ばれ、国政を取り仕切っている事の帰結/結果の訳。その様な社会に今我々は生きている。
「欲望の行き着く果てに」自分の欲望のまま行為する人と「何処から、何処へ、何ゆえに」を己に問え続ける人において、その2つは真逆の性向なのである。身近な例として、天皇皇后両陛下の眼からは誰も欲望の「よ」の字も感じ取る事は出来ない。一方公務上での各地を訪問され続けていらっしゃられていたが、それぞれの場所でとった行為やそこで発した言葉の奥底には両陛下を突き動かしているお気持ちが読める筈。それは、権力欲にまみれた原理主義者達と政治屋が、静かにそして非常に長い期間をかけて国体の変革を希求し、変革に向けての法律を立法し、昭和の戦後の産みの苦しみの結果としての「平和」、を敵視し続けて駆け抜けて来た平成の時代を見ればよい。表面上は静かだがこの激動の平成の時代の終わりにあたり、昭和と言う過去におこった出来事を背負ってこれを振り返り、未来を見据えながら、この日本は「何処から来て、何処へ行こうとしているのか、そして何ゆえに」との問いを発しているのを感じ取れるのは私だけだろうか。お気持ちを察すればおそらく両陛下はこの日本で、日本の憲法が改憲されてしまうのを目撃したくないと一番強く願っているのではと私は思うのである。
心の状態。何ら目新しい言葉ではない。心此処に有らず。心が落ち着いていないのである。あなたの心は"busy monster"になってしまったか?それともあなた自身が"busy monster"なのか?他方は、心此処にまします。心が鎮座している。この世界の中、私と私の心、あなたとあなたの心、私の家族、私の家族の内にある心、これらを自然と内省する生活。
この章で表題に引用した言葉はドイツの精神分析家で哲学家のKarl Jaspers[1]が1964年にドイツのTVで講義した内容を本にした「哲学の学校」[2]と言う著作から取った。人は一体何処から来てそして何処へ行こうとしているのか。又何ゆえに?と言う問い。人間存在の意味又は意義とでも言えるか。Jaspersは精神病理学者、哲学者で第二次世界大戦後の西洋哲学に多大な影響を与えた人である。
さて、1945年7月16日に米国ニューメキシコ州にて行われた人類最初の核実験が行われ、1ヶ月も経たずに無垢の日本の市民の頭上に2回にわたり原子爆弾が投下され、核兵器開発の黎明期に既にこの兵器の使用が現実となってしまった歴史の事実。その後1952年に水素爆弾の核競争の時代に突入[3]した結果核の存在が蝕む人間存在の意義を非常に深く憂う時代が到達した。暫く後の1958年、人間存在の意味を問うJaspersが"The atom bomb and the future of man"[4]を出版した。東ヨーロッパと背後に控えるソビエト連邦と対峙する核の前線西ドイツにおける市民生活の中、何時核戦争が始まるのか不安に囚われた息苦しさを予見するしかし明かりへの道筋を示す本である。その本の序文の中で"An altogether novel situation has been created by the atom bomb. Either all mankind will physically perish or there will be a change in the moral-political condition of man. This book is an attempt to clarify what strikes us as a choice between two fantasies."日本語訳すると、「目新しい事態が一挙に原子爆弾により創られてしまった。全人類が物理的に死滅するか、人間の中のモラルと政治の関係に変化がおこるかのどちらかになるだろう。この本は、この空想的である二つの状況への選択が、私達の心に何を突きつけるのかを明らかにしようと試みる本なのである。」
非常に大事な問いだ。予見に基づいた行動が出来るかどうか。何もしないで人間が滅ぶのを選ぶか、手探りながらも明かり(希望、生存)の方へ這い出て行くのか。この問題は他人事ではない。人類の持続的な生存の可/不可が問われている訳。これは人々のモラルが政治を動かし核兵器を廃絶出来るか。残念ながら現在もこの作業中であるが。だが人類を取り巻く問題は核兵器だけではない。環境問題もしかり。更に裏カバーで以下この本を紹介しているコメントがある:"... Our hope, Jaspers believes, lies in the possibility that fear of nuclear warfare will pervade the individual consciousness and grow into a new ethos, a moral force in history, that could create a politics adequate to the threat of extinction...."日本語訳は、「Jaspersが信じる処によると、核戦争の恐れが個々人の意識の中に浸透しこれが新たな'ethos'として育ち、歴史上のモラルの力となり、絶滅の脅威に対する適切な政治を産み出す可能性、の中に我々の希望がある。」
このコメントは息詰まる悪意に満ちた社会や国家が本書発刊41年後の1989年のベルリンの壁の崩壊の後消滅させられてしまった原動力、モラルの力を思い浮かべさせてくれる。メルケル元首相の気持ちがここから読める感じである。尚Google translateでは'ethos'は: the characteristic spirit of a culture, era, or community as manifested in its beliefs and aspirations... synonyms: spirit, character, atmosphere, climate, mood, feeling, tenor, essence, disposition, rationale, morality, moral code, value system, principles, standards, ethics"日本語訳:「信念や向上心の中に現れている文化、時代、又は地域の特徴的な精神。同義語:精神、キャラクター、雰囲気、風潮、ムード、気持ち、進路、エッセンス、気質、道理をわきまえた、道徳、道徳的なおきて、価値観のシステム、原則、基準、倫理」。私はこれを社会の雰囲気、風潮或は皆の心の状態と理解している。
最後に。悪意に満ちた希望の持てない今の日本の社会の風潮(ethos)である。日本は一体これから何処へ行こうとしているのか?その問いの答えを予見する人々が、邪悪な欲望だらけの風潮に対抗する新たな、つまり心と心が集まって、人々のモラルを集合体化しモラルのある風潮を産み出して行かなければならない時代となったのは確実である。
4章の教訓: 「モラルも良心もない不遜で強欲な人々が政治に携わってはいけないのである。」と何故ハッキリ言わないのか?
参考文献等:
[1] 「カール ヤスパース、」 ウィキペディア
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%A4%E3%82%B9%E3%83%91%E3%83%BC%E3%82%B9
[2] 「カール・ヤスパース、『哲学の学校』 (No.760 10/07/01)」、ミネルバのフクロウ、
https://weltgeist.exblog.jp/11445450/
[3] 「核兵器の歴史」、ウィキペディアより、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A0%B8%E5%85%B5%E5%99%A8%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2
[4] Karl Jaspers, "The atom bomb and the future of man," 英語版、1961年 The University of Chicago
===
5章 そして全てが逆行する社会へ
兎に角劇的に変ってしまったのである。それは2011年の東日本の核惨事以降日本が、日本の制度の構造が見えない所で。官邸主導の下、無責任と言う特権の保証のお墨付きが貰える様に政府与党に寄り添う行政府の従業員。特に国の司法行政立法の三権の機関で働く人々は留めも知らぬ程狡く(ズルく)なってしまった。嘘、隠蔽と強欲と無責任がタッグを組んでいるではないか。その様な人々が国政を動かしている。前章「何処から、何処へ、何ゆえに」で説明したEthos(世の中の風潮)から見ると人々が作り出す風潮にスピリッツ、活力が無くなってしまった。世の中に悪意が満ちて来て、悪貨が良貨を駆逐する如くに人々の心の中から善を司るスピリッツを駆逐しまったのである。国政を動かしている人々を見よ。トップダウンで悪臭プンプンの邪悪なスピリッツが下々へと降り懸かって来ているではないか?おお、おぞましい。
そして今日本の市民がお互いにコミュニケーションする事を忘れてしまったのである。他人を押し退けても気にしなくなってきたのであろう。人々をいとも簡単にネット上で攻撃する様になってしまった。また会社の若い方々にEmailを出しても返信は来ない、ビジネス上のステータスのアップデートもない。なんと言ってもコミュニケーションが出来ないのである。発言もしない、出来ない。更に悪い事に、会社では誰も物事の責任を取ろうとしない。投げやりなのだ。無責任、無関心、無気力と三無主義なんて言っていた時代があったがそれより遥かに劣悪になっている。何だこれは?人口の減少を抜きにしてもこれでは国力が落ちる訳だ。大人がおかしくなったのか、男がおかしくなったのか、それとも俺がおかしいのか?もしかしたらこれが日本会議が理想とする、大人しい羊が占める「均質な社会」なのか。
ところで皆さん既に御存知だと思う。権力を持つ者達は人の心を操作するすべを心得ている。更に人の心のその先にある世相、風習、習慣、群衆行動さえも毎日の人々のマニピュレーション(操り)の積み重ねで、自分達が操作する事も可能となってしまった。今彼らは自分達の目標、国体の変革に向かって真っしぐら。現政権の失政にも関わらず、政権運営に妙に自信があるのは群衆行動のパターンの分析データが有るからなのだろう。政権交代は無いと言う確信。この章の題目は言い換えれば社会全般に影響が出る様な嘘をつく事に罰が伴わず、真実も何も全く価値がない「息詰まる社会へ」と言えるか。では群衆行動と言うカテゴリの立場から「逆行する社会」を眺めて見る。
週刊誌等のマスコミやネットの住人が右翼がどうした、左翼がどうしたとか反日だとか議論している。何をボケた事を言っているのか?思いっきり時代錯誤であると思う。もっと高い所に立ち、この世界とこの時代を鳥瞰したら如何か。 今日本は強権体制に突き進んでいる訳で、右翼的独裁だろうが左翼的独裁だろうが代りはない。今表現の自由だとか、法の下の平等だとかの人権を制限する強権体制を選択するか、劣化したとはいえ少なくとも70年は保っている民主主義体制を維持するかの分水嶺に今日本の市民の皆様は立っているのを認識理解しているのであろうか?
日本の外側に見える人類を取り巻く環境即ち人口爆発、戦争、核兵器や核汚染、灼熱地獄の様を呈して来た地球の温暖化、オゾンホール、この地球上から緑が失われた事や人口爆発により生ずる水不足からの飢饉、海水の温度上昇による魚類海洋性ほ乳類への絶大なる影響、プラスチック片による広範囲な海洋汚染等、これは生命の滅亡を連想させる[1]。大局を見れば遥かにシビアな問題が今日本を取り巻いているのだ。EUで太陽光や風力発電そして再生可能な電力を用いた電気自動車が産業として盛んなのは政治家が人類の行く末の事を予見し今何を行なわなければならないかを政策に反映させたに過ぎない。一方日本はことごとく真逆の事を政策として採っている訳。自然エネルギーの推進よりも原子力推進を行い、CO2の排出規制も積極的に行なわない事からして地球温暖化の対策に逃げ腰なのが判る。何故グローバルな問題に積極的にアクションをとらないのか?何故この様な何もしない事がおこるのか?それは前出した「日本会議の研究」を読めば理由は十分類推出来る。原因としては彼らインナーサークル内にテクノクラート、理系のメンタリティー、マインドを持った人々がいないと私は理解する。問題へのアプローチと解決に至るには最初に科学的に問題を捉える事理解する事が前提なのである。内閣府、その後ろに控える司令塔と政治家は本当に科学的なメンタリティーを持ち合わせていないのではと思える程、人類が直面する問題を捉える事が出来ていない。例えばさる8月6日(2018年)の広島市での原爆の日、平和記念式典で口先だけの大衆受けする核廃絶に言及した一方、自民主党を乗っ取っている原理主義集団の教義に反する、核兵器禁止条約への不参加と言うこの矛盾した意思表示を見れば日本の政府が世界の他の先進国と、直面しているグローバルな地球上の課題に対する問題意識を共有さえしていないのは明白だ。先日6月のG7の中での日本の存在感を見ればこれが判るだろう。山積みする問題を米国以外のG5諸国とも共有もしない日本のトップの意識のレベルの低さを実感させる。
何故そうなってしまったのか?具体的な例を幾つか挙げようか?私は多分以下の理由からなのであろうかと思っている。それは、理系のメンタリティの欠如だけではないのである。あなたには圧等的多数の人が或る事を信じようとしない思考様式や習慣が、理系の思考を持つあなたとしてどうして人々は頑迷なのだろうかと暗い気持ちにさせてしまう息の詰まる社会状況を考えた事があるのだろうか。想像力を働かせてみよう。あなたがアメリカ南部の州に住んでいるとしよう。その地域は信心深い人々が非常に多いと聞く。そしてそこの州立の理系の大学に通っているとしよう。だが公立の中学高校ではダーウィンの進化論を教わらずに大学に入学。圧倒的な数で周りの学生達は熱心なキリスト教徒で神様が地球と人間を一週間で創造したと信じている。大学では分子生物学でDNAに関連する講義も受けているが、なんだ、この社会を被う息苦しさは!そうなのだ。科学の一部である進化論に対する無言の圧力、同調圧力が底流にある社会なのである。孤立し落ち込み、暗澹たる気持ちになってしまう。理系の人間にとってそれは真っ暗な社会に住んでいる息苦しさである。そう、進化論も地球の温暖化も信じない社会風潮。何故そうなるか、その理由とは知的な多様性が容認されない宗教やイデオロギー(或は社会風潮)下の社会にいると言う事。この社会状況を世俗主義の反対語の教権主義と言う。因に世俗主義とはウィキペディアより[2]:
* 国家の政権・政策や政府機関が、特定の宗教権威・権力(教権)に支配・左右されず、それから独立した世俗権力(俗権)とその原則によって支配されていなければならないと言う主張・立場。或は宗教に特権的地位や財政上の優遇を与えないこと。政教分離原則...
* 個人が宗教的規則や宗教教育から自由でいる権利、支配者による宗教の強制からの自由。信教の自由。
* 人の行動や決断が(宗教の影響を受けていない)事実や証拠に基づいてなされるべきだという主張。
日本は今不可知ではあるが政治と教育において日本会議と言う勢力が唱える考え方が、大きな潮流となって皆が知らない間にこの日本の社会文化の中に浸透しつつあると思える(一番末尾のこの章の結論を読んで下さい)。例えば考え方、生き方、生活のスタイル等個人の選択の自由とでも言える人々の多様性を批判する国会議員も大きな顔をしているではないか。原理主義集団の教権を深く静かにこの社会に浸透さながらスムーズに強権へと移行するタイミングを見計らっているのである。これは日本の衰退の根本原因だと私は思っている。日常の風習の色がそして世相が大きく変化しつつある訳。昨今政治家と政治を操作し、宗教人を操作し、経済人を操作し、日本の市民をオペレータにおとしめて操作(マニュピューション)し個人の自由と個性を抑圧するソフトパワーの仕組みを作り上げ、日本中の市民全員が自分の欲望のなすがまま行動する様に仕向け、悪に対し盲目で居続けさせる仕組み。日本社会においては同調圧力により、知的な多様性が容認されない社会となってしまった。知識人、科学者、技術者達が自由に発言する事を自制(或は発言出来ないオバカ達)してしまった結果、言論の自由学問の自由もない一つの単色(暗黒)に染まった戦前の昭和の様な社会へと変質しつつある日本。
知的な多様性が容認されない雰囲気が醸し出す社会に住むとはどう言う事なのか具体例をもう一つ挙げよう。イデオロギーを重んずる、理系のメンタリティーもない人々が操る内閣府がメディアを使って作り出す世間及び社会の風習の影響が多大な社会での出来事である。改めて言いたい。理系のメンタリティーを持つ人間としては福島第一原発の事故によって放出された大量の放射性同位元素の生態系への影響をどうしても軽んずる事は出来ない。この原理主義を信奉する内閣府の方々は上記「人の行動や決断が(宗教の影響を受けていない)事実や証拠に基づいてなされるべきだという主張」の様な世俗の考え方を持たない故に科学を軽んじ、政策立案しているのではと考えられよう。その様な考え方の下核汚染した食べ物を国で規制する事もなく、人工放射性同位元素が生体の細胞に及ぼす影響の知識を持ち合わせていない圧倒的多数の日本の市民に、食べても問題なし!と政府の広報車のマスメディアに圧力をかけている状況。理系の人間だったら発狂してしまわないのかと思われる程、東日本の核汚染問題と核汚染食品問題を科学的に捉えようとしない日本の上から下までの人々の頑迷さである。何故なら「国はその様な事は言っていないから」だそうだ。「政府は嘘をつく」或は「政府は本当の事は言わない」のは世界のかなりの数の国々では常識なのだがどうやら日本ではこの常識はまだ受け入れられていない。使う方もレッテルを張られる方も放射脳とはよく言ったものだ。特に理系の官僚諸氏や学者諸氏にはこの様な社会通念のレベルの低さでよく心の歯車が壊れてしまわないのかと感心してしまう。
それでは群衆行動学とは全く関係ない出来事に話題をかえよう。先日EUで法律として施行されたGeneral Data Protection Regulation (GDPR)の内容をかいつまんで勉強する機会があった。一言で世界中の企業が欲しがるEU市民の、プライバシーに属する情報の収集の制限と取り扱いの範囲である。非常に高い理念の下、市民のプライバシーの権利を広範囲に認めている。この法律に違反した企業は年間利益の少なからずの部分に相当する罰金を払わなければならない。個人が忘れ去られる権利。個人が企業に要求すればその会社が所有するその人の個人情報をその人に提出しなければならない。個人情報は必要なくなったら破棄しなければならない。等々。[3] プライバシーもおかまいなく個人情報を継続し収集、蓄え込むGoogle、Facebook、Apple等の多国籍企業が狙い撃ちされている様な感じである。その内容はさておき、この様な法律を立案しそして施行するその実行力。EUと言う連邦国家が如何にその市民を守るのか、市民の事を考えて政治を行っているかをまざまざと見せつけてくれる。素晴らしい国家群だ。つまり個人の自由は最大限に尊重されなければならない。しかし企業の自由には在る程度の制限が加えられなければならないと言う立場。全てが逆行する日本の政治と島国根性の政治屋の面々。その市民の事は言わずもがな。である。
5章の結論: 「大政奉還で欧米の仲間入りに向けた自前の体制の構築を目指し、明治大正昭和の1/3を経てその体制が74年前に終焉。戦後米国の「押しつけ民主主義」からの脱却をゴールとする日本で今行われている政治、それは日本の市民の事など微塵も考えず、明治大正昭和で育てた自前の体制の復興に全ての力を注ぐ。アジアではまだ辛うじて一流の国かもしれない。しかしこの世界を被う生命の存続の脅威の事を全く考えない、世界の政治趨勢に逆行する近視眼的で時代錯誤の政治を眺めると残念ながら日本は三流国に落ちてしまった。」
参考文献等:
[1] 「子供の亡骸を16日間も離さない母シャチの悲嘆『もう見ていられない』と研究者」、キャサリン・ハイネット、
ニューズウィーク日本版、https://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2018/08/16-8.php
[2] 「世俗主義、」 ウィキペディアより、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%96%E4%BF%97%E4%B8%BB%E7%BE%A9
[3] 「EU一般データ保護規則」ウィキペディアより、
https://ja.wikipedia.org/wiki/EU%E4%B8%80%E8%88%AC%E3%83%87%E3%83%BC%E3%82%BF%E4%BF%9D%E8%AD%B7%E8%A6%8F%E5%89%87
===
第6章 「前書き」
この第6章は2011年11月より始めた一連の投稿の中で多分最も重要な章の1つだと思う。もう一つ重要な章を選んだとすると、それは原発板に2012年1月12日に投稿した「日本の市民の皆様へ-その2」の第8章 「眼の前の事と向き合う(言葉或は知識、そして現象の認識とのギャップ)」[1]である。言葉を通じてしかこの世界を観ようとしない人々の思考と習慣を話題とした。この章と併せてお読み下さい。それは以下述べる様にスローガンに表せられたイデオロギーを通して見る世界と言葉を用いずにこの世界を観る事の違いである。言葉と言うものは言葉の内容を理解しなくても使える。この在り様が溢れ返っている時代である。
あるアイデアが情念になりそれがイデオロギー化しスローガンを通してこの世界に働きかける - と言うイデオロギーと目の前の世界の関係。そんなイデオロギーと言う名の欲望とその欲望から発せられた言葉に全くおかまいなく脈々と流れる"あるもの"を考える章である - 政権にどの様な勢力が居座ろうが文明の中の文化を利用した自分達のイデオロギーの夢の実現の欲求として、その地域の昔からの固有の文化を自分達の達成したい理想社会の方向に都合の良い様に引き寄せながら政権運営をおこなって行く過程、そしてその過程を取り仕切っている不遜で強欲な人々を我々は世界の至る所で現在進行形で目撃している。
===
6章 喧噪の中で失ってしまった大事な事
随分昔に読んだ本からの引用と言う形で話を進めてみる。Max Picardと言うスイスの哲学者が、1958年みすず書房より出版された「騒音とアトム化の世界」[2](残念ながら絶版になって久しい)と言う本の中で述べていた。人々は喧噪の世の中に生き、各個人がそれぞれアトム化(原子化)してしった事。以下の様にも言っていたとも記憶する。間違っていたら御免なさい。人間がオペレータ(即ち機械をもくもくと操作する者)に堕してしまった事。同じくみすず書房より出版された彼の「沈黙の世界」と言う本では神と対話する内省の重要性を訴えていた。彼自身の言葉を示す。"Nothing has changed the nature of man so much as the loss of silence."[3] それは、現代社会において有史以前から持っていた動物としての人間の中の本性より、沈黙を喪失してしまった事だと言える。人間が沈黙の中での内省を行う事を忘れ、言葉が一杯詰まった頭のみに意義を見いだし、その生命存在の意義を失いつつある事と言えようか。また、文明批評家Ivan Illiciの著書「エネルギーと公正」[4]の中で心に残った言葉があった。彼は「加速」と言う言葉をこの本の中で使っていた。この世の社会と人々の動きを良く表している。物質文明、機械文明の生活の中で欲望が肥大化し、それらの文明が深まるにつれ上に述べた状態が不可避となり、人であるよりもオペレータになっている時間がより一層長くなり、どんどんと抜け出せない深みにはまって行くのである。それは日常の中で一人一人の統一体としての生命が分裂、原子化し家族が原子化しバラバラで絆を喪失そして社会にはユニークさも無くなり分断化する現代の日本の人々の事を言い当てて居る様に思える。
Picardが語った言葉で彼の考えを良く表す言葉を記しておく。手元に「騒音とアトム化の世界」が無いので孫引きと言う不本意な形となってしまいますが以下の引用をさせて頂きます。[5]現代の人々の生き方を非常に良く記述していると思う。「私はある時、一人の男がテレビの前に座っているのを見た。その傍らで同時にラジオが鳴っていた。しかも同時にこの人は時折テレビから目をはなして新聞を読んだ。いったいこの人はどこにおるというのだろう。テレビの中か、新聞・ラジオ、あるいは安楽椅子の中か。彼はそれらのすべてであり、そして無でもあった。いたるところにおり、しかもどこにもおらなかった。そして彼の欲したのは実はこのことであった。即ちどこにもいないこと、自分自身を解体し、またその破片から自分を組み立てることであった。昨日の死はなんとつまらなく、今日の復活もまたなんとつまらないことであろう。この人間は自分自身から脱走しておったのである−というのも当たらない。彼はそもそも自分というものを持っていないのであって、したがって自分自身から逃げるということもできない。彼は一般崩壊の中の、運動の一小部分以外の何ものでもないのである。現代人は内面的に連関性をなくしたごたごたの中に生活している。我々は内的に寸断されてしまっているのである。我々は連続性の中に生きているのではなく、非連続性の中に生きているのである。一つの印象、一つの感情、一つの考えが、隔絶されながら、それぞれ別の印象や、感情や考えの側に平気で並んでいる−否、先立つもが全くなかったかのように、次々と立ち現れるのである。ただ絶え間なく何ものかが、瞬間を通って転じてゆくだけである。」あなた自身今の生活を省みて彼の言葉に反論する事が出来るのであろうか?
皆が皆生命を、命を愛する事を忘れ去り、加速をこよなく愛する喧騒の時代でもある。現代社会において加速は一つのキーワードだ。加速と言う中毒。この結果は人に何をもたらすか?スピードをこよなく愛する一方人として愛を育む心と、内省の習慣が失せてしまった事。どうしてその様に先を急ぐのか?個人が加速し、人々が加速し、人間が加速し、情報が加速し、日常が加速し、技術が加速し、一年が加速し、一世紀が加速し、人類の歴史が加速し、一体ぜんたい我々は何処へ行こうとしているのか?沈黙の中での内省を忘れ忙しい人生を送りながら、己の強欲さ故、他の人の事を気にかけずにおとしめ蹴落とし、人を精神的に肉体的に傷つける事をいとわない輩達、己を他の人々と切り離し社会の中の或は集団の中の自意識過剰な原子となり、加速する人々。皆が皆人生の速さや人生のスケールを誇っている現代社会。肥大化する欲望そして強欲と便利さを更に加速し追い求めるのとは裏腹に、騒がしい人間以外の動物が棲む自然界の生きとし生ける物達は、そこからやって来る、その正反対の不便さ即ち環境汚染や環境破壊と言う結果を沈黙の中で甘受しなければならないこの不条理が見えないのである。動物、鳥、魚、植物はこの生きにくい世界になす術がないのが人間には判らないのだろうか?同じ様に人間もこの殺伐とした空間で何がおこっているのかと言う関心をも失ってオストリッチの様に頭を砂の中に入れて、この様な事態が過ぎるのを待っているだけなのだろうか?もしかしたら人間のみならず生命が滅ぶのを知っていて何もせずそれを楽しんでいるのではなかろうか?もしそうだとしたらその様な考えはこの世の終末を待ち望み単に楽しんでいる終末論者の考え方と同じではないか?どうやら人間は先の見えない判らない何かの終わりに向かって加速している様である。 今や人間が人間以外の動物にくらべて遥かに愚かになってしまった。生命が何らかの理由故にこの世に在る事を忘れ、この流れが続いて行く事を忘れ、欲望に突っ走り、他人を押し退け、自然を押し退け動物を押し退け、生態系を押し退け排除し、生命の存在の大事な意味を忘れ喧噪の中で生きている。
一言で言おう。第4章「何処から、何処へ、何ゆえに」の中では述べなかったが、「 何処から、何処へ、どの様に」と言う問いが"Profile"(例えば隣の芝生は青いとか)と言う言葉と結びついて我々個人の中で相手との比較の対象となってしまっている現在。人間は近年この世界を物理的に大きなスケールで見渡せる事が出来、その結果比較の対象が広がってそれにより更に欲望が際限なく増殖してしまった。だが「何ゆえに」と言うと問いのおおもとにあるのは生命なのである。あなたには日常の中でそれを感じる事が出来るか?実はその他人の中と自分の中にある「何ゆえに」は比較の対象がないのである。しかし「何ゆえに」と言う問いをも忘れてしまうか無視するからユニークな個人、特定の宗教を信ずる人々や民族の迫害や、抑圧がおこってしまうのである。生命の公正と平等には優生思想など入り込む余地はない。この事実を無視するgeopoliticsに満ちた日常に踊らされて、brainwashに巻き込まれてしまっている我々。
本投稿第三章の「欲望の行き着く果てに」で書いた事を詳しく述べる。この世界の出来事を現場で見る気持ちは更々無く、情報のリアルタイム化とそのダイジェスト即ち咀嚼に追われる日々の生活習慣の事である。この様な環境ではいとも簡単に人は情報に騙される。何故か?客観性が無いからさ。自分の好みの情報だけをアクセス。頭の中に入っている自分の、世界の解釈理解を確認する為に自分の好みの新聞やインターネット上の情報を選択し、自分の考えを補強する記事のみ読み漁る。選択的情報の咀嚼。これが心地良いのである。頭の中は言葉で一杯。でも心の中は空っぽ。虚しいね。簡単に言えば自分の意見と同じ様な論調を読んで安心安堵し、その反対の意見に反発し攻撃する。攻撃される人々は主に自らの意見を公に出来る自己推進能力のある方々。その様な人々を人格破壊しようとする訳。何故人々は意見の違う人々を攻撃するのか。どうしてそのまま、ありのまま、受け入れられないのか。それは何故か?色々と理由が有ろうがその一つとして: 皆が皆インターネット上で喧噪を選び、違った意見を持つ人々や他の民族を批判し、それにより己の心に満足感をもたらしている訳なのだろう。不快なら相手を攻撃する事、が心地良い。この悪しきEthosの現象(「4章 何処から、何処へ、何ゆえに」参照の事)は世界で同時進行している事に皆さん気づいて欲しい。つまり異なった相手を受け入れる能力の無い人々が増加中とも言えようか。そして又他人に対しての意地悪が心地良い。ところが現実とはユニークさと多様性の集合体なのだ。生命が、此処では自分が母より産まれて来る事を選択した時点でユニークな存在なのであるが、その個人の多様性さも判らん輩が文化の多様さや民族の多様性さをも見下し軽蔑する行動を取るのは愚かな事。しかも自分がユニークで優生な人間だと思っているのでなおさら、たちが悪い。心がここにあらず、善のEthos或はスピリッツな世界を喰らい尽くす"busy monster"達。インターネット依存症のあなたへ。この姿を自分の形相として捉えられるだろうか?この事から人間を紋切り型にさせておく事、オペレータにさせておく事が権力を持つ面々にとって如何に重要なのか判るだろう。
さてまたまた音楽の話で恐縮だ。あなたが以下の曲を聴いた時自由にこの曲から何かをイメージ出来る様に以下の文を読む前この同じ曲を2つの映像のYoutubeで聞いてみて欲しい。[6][7]歌詞は[8]。英国の作曲家で英国のロックグループU2のアルバムのプロデューサとして知られるBrian Enoと言う方がいる。彼の2005年のアルバム"Another Day on Earth"の中の"And then so clear"と言う1曲。あなたは今この曲を聴いて何を連想、想像しただろうか?
今日は私がその曲から思い浮かぶイメージをEnoさんには申し訳ないが勝手に解釈してここに記載する。ご勘弁の程。それは4章 「何処から、何処へ、何ゆえに」で以下言及した、心があなたの中に落ち着いて座っていてあなたとあなたの心が一体(unity)となっている時、この時この場所に「心此処にまします」と言う事に関連する。私にとって”And then so clear”の曲からイメージする事は: まだ私が小さな子供であった時に車を使った何泊かの家族旅行から家へ帰って来た時に見た天窓から光が差し込んでいる場面でフッと思った事なのである。それは私と父、母私の兄弟が一緒にいると言う一体感。静寂の中の愛に包まれた家族の中の自分。そしてそのunityから外の社会があると言う事を初めて理解した時の感触に近い。言葉では説明出来ない自分と家族と世界との一体感。しかしこれとて以下述べる生命の流れの極一部を認識、感じとったに過ぎないのである。
これは沈黙するしかない動物には彼らの本能により判っているのである。それは、この表題の章の問いへの答えである。あなたが喧噪な世の中に棲む事で心の中から失ってしまった気持ち。それは思っているよりも遥かに大きく大事なものなのである。しかし私と言う生を授かった事はもっと高い次元の、何かしらの理由があるからなのだろうと言うこの世のシンプルな捉え方。脈々と続いて来た生命の流れとその脈動をこの曲を何回も聴くと思い浮かぶのである(実は歌詞の内容と違うのですが)。前の幾つかの段で述べたが今現在物質文明に晒された人々は沈黙と内省を忘れ、そして頭の中にある行動パターンに影響され見ず知らずの他人を安易に攻撃、人格破壊する事が広く行われている。他の人の持つ固有で唯一の個としての尊厳さが疎んじられてしまう日常の思考と習慣の中に生きている。それこそがアトム化と言う事。自分が原子化アトム化し己がこの世界にあると言う事実を忙しい情報の中で見失う事で心の中の自分を失い大事な己と世界の関係を断ち切られてしまう。動物と同じ様、人が石の上を歩くのを止めてから言葉が増殖しこの世界と切り離され人は原子化してしまった。あなたは上記の様に子供の頃、自分と家族と世界との一体感を感受した事はなかったのだろうか?その様な気持ちが生じた事があったかどうか、あなたの中にある記憶の糸を手繰ってみて欲しい。
この世界に産まれて来て、思春期に家族から独立する気概が生じた後に、社会に出でて女としてまた男として異性と出会い結婚し子供が出来て彼ら子供達が一人立ちし、自分が自分の親と同じ様に長い人生を歩んで行きそして老いてゆく。そしてその初期の過程の中で家族と言う小さな群れの中に一人の生き物として私が生きていると言う実感と、家族と言う小さな群れが大きな群れの中に生きている実感、(2つの違った遺伝子がもっと大きな流れ即ち時の流れと脈々と続く生命の流れを共有する)とそれを囲む外との関係の連続性を既知する事で社会性を理解し、習得する事が出来る。これは生物の群生の空間的な尺度から見た考え方。だがとても不思議なのだが、誰一人として日本の社会でのイデオロギーに基づいた祀り事が、日本の社会空間、群生の空間にどのように力を及ぼし変出させ影響しているのかと言う見方を執れない不可解。
この考えに少し関連する事だ。群生の空間と言う観点で日本社会と言う空間から観ると、後に述べるが、どうやら偏屈な考え方やイデオロギーが跋扈し、人間の顔の態をなしていない文化の風潮が蔓延るいびつな空間、人が棲み難い生活空間となってしまった様だ。人間が家族が原子化してしまった現在、第一章 「破壊されてしまった三権分立の原則」で言及したが或る勢力による、社会形態を変えようとする事により彼らが理想と考える様な、日本を素晴らしい国にして行こうと言う努力をするのは理にかなっているのかどうか甚だ疑問なのである。そんな事よりまず善の'Ethos'例えば希望を人々の心の中に取り戻し育て、家族の中に社会の中に人間愛を呼び戻す事が先なのが判らないでいる、日本の社会があたかも自分達の物であるかの様に振る舞う不遜で強欲な政治屋達。現代日本の社会においては生きる力が弱い家族もあり強い家族も或る訳で、弱い家族を手助けする福祉と言う社会制度を手厚くするどころか、彼らを更に窮地に蹴落とす様な政策を実施している事実。家族と言う小さな群れに必要以上の経済的な圧力をかけてはばからない社会制度。一方軍備拡張の為惜しみなく予算を注ぎ込む。正直者は馬鹿を見る、どころではない更に悪い状態である。つまり弱い者が更に抑圧されてしまっている日本の社会。この様な不条理がまかり通っている事に殆ど誰も怒りを表現しないのは、人間が家族が原子化してしまった上日々機械的に生きている為と思うのだが。子供を持つ親として不条理に満ちた政治のやり方に抗うのは、動物として生命として当たり前の事なのであるが。そう。オペレータとは皆が皆何も言わない、或は皆が皆同じ事を言う状態に陥っている人々の事である。個人的に成功の為の機会を持たない、持てない市民を抑圧するエリート意識に満ちた優生学的政治手法が日本で行われているのではないかと思えてくるのだ。何も明治時代の教育勅語を実践し、戦前の封建的な大家族に家族形態を戻す事が本当に現実味のある社会問題の解決策なのだろうか?人間を中心に据えた実践的な政策やアプローチを行う政治手法と、イデオロギー的なアプローチを取る政治手法の間の乖離をまざまざと見せつけられる今日この頃である。残念な事にこの世界の意義、意味の深さを忘れてしまって忙しく人生を送っている原子化した人間で構成される社会においてはこの乖離の帰結がどうなるのかを考えようとする'Ethos,'風潮も社会から失われてしまった。判っていると思うが、不遜傲慢強欲にかられた面々が支配する国は滅びる。
この章の推敲の途上に先日の東京新聞のWeb 「梅原猛さんの平和思想」と題した以下の記述を発見。色々と考え倦ねていた事が見事に鮮明になった。以下長いが引用する: 「梅原猛さんから興味深い見解を聞いたことがある。『神も仏も捨てたのが、明治政府です』と−。仏教を排斥した史実はあるが、神を捨てたとは…。はてと首をひねった記憶がある。 『昔から日本人は山川草木すべてが神様だという多神論でした。仏教にも同じ思想があり、神と仏を合体させた宗教を民衆は信仰してきた。神仏習合、それが日本の思想の中心でした。だが、明治になり国家神道という一神教になったのです』 国家主義は古来の思想を無視して、国家神道という新しい宗教を国民に強制した。さしずめ教育勅語はその道具であった。この一神教こそ戦争へと日本人を駆り立て、日本を狂わせた張本人なのだという説明だった。」[9] Aha!である。原理主義者の実体が見えた。戦前の人々の様相。梅原氏が指摘していた様に多神論を捨てた故に生命の流れの観点から世界の人々を見渡す事が出来なかったのであろう。現政権と天皇皇后両陛下の関係がこじれている理由が良く判る。ところで話はがらりと変る。危機管理の極意は「最悪の事態に備える事」である。よって民主主義を支持する全ての人々が持てる限りの力を合わせ、日本会議によるクーデターに備えた危機管理体制の構築を行わなければならない時なのである。その根拠として変質してしまった与党自由民主党が通して来た法律の数々を見れば直感的に判るだろう。イデオロギーに執着する彼らなら日本の民主主義を転覆させるクーデターをやりかねない。
さて生命を時間的な尺度から考えてみよう。私と言う生命は私の父がたぐって来た、私の母がたぐって来たそれぞれの赤い糸の様な生命の流れが重ね合わさった物なのである。別の表現をとれば、私は父と先祖の血の繋がりと母と先祖の血の繋がりからの一つの生命としてこの世に生まれて来た訳。この世の根底に脈々とした生命の流れがある事実。この事が一番理解し易い人生での出来事は結婚式と言う場であろう。新郎が属する群れと新婦が属する群れの一同に会する出会いと祝福の時ではなかろうか。その出発点から、男と女の愛と愛情という中で新たな生命は生まれ成長し、心と心が重なり合って一つの心が産まれ、この世に長々と生を過ごしながら、体と心の一体感(unity)と共に尊厳を持って死を迎える。その間新たに産まれた小さい生命が全く同じ繰り返しの中で女性として或は男性として育ちそれぞれの道を旅し各々(原子化していない)個人が大きな生命の流れの中で出会う訳。即ちそれは私が一人の男として私の妻が一人の女としてこの世に生命を送り出す同じ営みを行い父となり又母となり、午後の太陽の高さに例えればまるで日の陰った夕方の様に、齢を重ねそして日暮れの様に歳をとりこの世から役目を終えて去って行く。私と妻の遺伝子を子供達に引き渡し、そして「何処から何処へ」の問いの先にある、どうしても答えられない「何故に」との問いを子供達に引き継がせている。だが、この大事な問いを背負って生を生きているのかどうかが彼や彼女に判るかどうかは本人の自覚次第だ。(或は親として子供にこの問いの意味を教えるべきなのだろうかと言う自問はあるが)。人間以外の動物達は、自分達がこの世界にあり生きて居る事の、不思議な見えない力が(「何故に」と言う先に)在る事を知っているのである。だが残念な事に私と言う小さなスケールを通してしかこの世界が見えないこの限界故これ以上言葉は発せない。沈黙の中で生命の不思議を想う。
その一方この一つの生命としてこの世に生きる、私の中にある欲望は何処から来るのか、そして何処へ行こうとしているのだろうか?何ゆえに?との問いが私の中を、私の生を貫く。そして体を欲する心の渇きの側面を持つ愛の事を考え巡らす。一人の男と一人の女の間のunityを縦軸にとるとそれは何と短い横軸の時間の期間なのか。横軸方向に過去を振り返れば途轍もなく遥か以前の私の知らない時がある。又逆方向を見れば新しい未来が見える。この生命の流れは「何処へ」行くのかと言う問いは未来へ向かって発しているのである。そして私は何かを残しつつ、一つの生命としてこの世から去って行くと言う事。何故に生命は死ぬのかは生命には終わりがあるから。何故に生命は産まれるのか。それはあなたと言う生命が産まれて来る事を選んだ事に理由があるから。これから産まれて来る子供達、生命達を「安全」な社会に或は生態系に送り出さなければならない宿命。その今生きる生命としての、遥かに崇高でしかも過酷な迄の義務を人間を含む生命は背負う。
生命を産み出して来た、又これから産み出すであろう、女性のあなた方にはこの事実は体の中に刷り込まれた思いであるに違いないだろうし、又無視出来ないのでは。幸せな人生を送れる様に身を粉にしながら日々男性優位の社会の中で悪戦苦闘している日本の女性達。日本の社会が男性が優位性を保てる様に設計され且つその様に機能している現状。その一方小さな群れとしての家族の中で子供と妻をないがしろにする又はネグレクトする様、最悪な場合は暴力を振るう様な行動をとってしまう男性諸君。又己の考え、思考習慣に基づき人々の間にある多様性を無視し、女性差別や蔑視を行う面々。男性優位の特徴である、最下部に位置する小さなスケールの家族から、地方自治や地方の会社、そして社会最上部に位置する国会へと貫く、男尊女卑の源である家長制と言うヒエラルキーを生活の社会空間から柔らかいベールで包み都合良く隠し続けて来た事。これこそ悪しき文化としての風潮である。これが日本と言う社会の中の生活空間に深く根付いている。更に昨今競争原理と言う手法を取り入れ敗者復活戦の様に弱いもの同士を戦わせるやり方。日本の中に新たにカースト制を作っているのか?それ故に、「法の下の平等」が日本の中で崩壊している事に女性の市民自身が強く抵抗し、善なる'Ethos'としての社会の希望を女性の方々が共有しこの日本の社会を良い方向に変えて行く様に努力して行かなければこの閉塞した社会に明るい光は差し込まぬ。この投稿を読んでいる皆さん、御存知の様に強権的組織の中では個性と、女性の権利は抑圧すべき対象と理解していると思う。それはアジア的な、個人のユニークさを否定する、男のタテ社会の属性であると言う事。これは母性が産み出したユニークな生命と多様性の容認を行う社会の対極に位置する。男と女の間にその様な生命の対等さと言う見方が出来ない男性諸君は生命の流れを創る女と言う性を守れない男達である。ほ乳類の間ではオスはメスを守り、子供を守るのではなかったのか?この生き難い世の中に子供を守らず、子供に当り散らし暴力を振るってどうするのか?もっとやる事が有るのではないのか?(次章最後の部分「一連の投稿の最後にあたり」参照の事)。あなたには自分の子供達が小学校の半ばの頃その横顔をさりげなく観た時、特に自分の娘の横顔から、彼女がこれから産み出すであろう生命の流れの片鱗をかすかに読み取った事があるのだろうか?そう想うだけで今の社会の女性や女の子に対する性差別や(性)暴力の不条理から彼女達を守らなければと心を構えるのがオスとしての務めと思わないのか?どんな肌の色の人々でもどんな社会的立場の人々でも子供の事を想う気持ちは同じである。自分の子供の中の生命の流れを認識出来ない者達。原子化した家族の中でその気持ちを喪失してしまっているのだろうか?
悠久と流れる生命。そして人々の、己の生命の流れを守ろうとする意志。その一方女性が自身を守り子供達を守る事。更に男性が女性と子供達を守る事。更に社会が家族を大事にし守る事。この全ての防壁が決壊しつつある、日本の生活空間。経済的に困窮すると心に余裕が無くなるのは自明の理。個人がそして家族を含め、公正公平さを失い教条化し硬直化した組織の犠牲となりつつある。皆さん、もっと大きく見ようではないか。家族も同様なのだが、日本全体が袋小路に追い込まれてしまっている事実があるのだ。そこで、日本の政府の従業員の皆様へ。このままでは日本は駄目になってしまうと言う危機感が心の中に生ずる事がきっとある筈だ。あなた方は日本の市民よりも世の中の大局観をお持ちの筈。今出世欲に駆られた爺婆となるか、単に何も言えないオペレータになるか、それとも未来を予見し危機を回避しなければ日本は駄目になるとの大局観を持って日本の屋台骨の内側から変化をもたらす様努力をするか、あなた方は今この3者の内どの立ち位置を取るかと言う所まで追いつめられているのである。この事実をしっかり認識しておく様喚起したい。
冬の、或る日曜日の昼下がりの日差し。ほのぼのと呑むミルクティー。クッキーをこれに浸して口の中に運びながら美味しさを実感するこの様な些細な時。でもその様に個人が幸せであると感じさせる時間がこの世から失せてしまった。心が満ち足りている営みの喪失。何故に男がいて女がいるのか。そして人間は一体何処へ行こうとしているのか?騒々しい日常生活からは全くもって考えつかない想いである。
6章での問いと独白:「生命の流れと言う"Ground rule"と、権力欲、金銭欲等の強欲と言う事の間の関係とは一体何なのか?Ground ruleに関与する事無く、憲法改正の御旗のもと自分達のイデオロギーの目指す理想郷を実現する為に祀り事を行っている面々。原理主義者と呼ばれても仕方がないのである。」
参考文献等
[1] 「日本の市民の皆様へ-その2, 」 阿修羅, http://www.asyura2.com/12/genpatu20/msg/412.html
[2] 「マックス・ピカート」 ウィキペディアより、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%94%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%83%88
[3] "Max Picard Quotes,"AZ Quotesのウエブより、https://www.azquotes.com/author/28210-Max_Picard
[4] 「イヴァン・イリイチ」、ウィキペディア、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%A4%E3%83%AA%E3%82%A4%E3%83%81
[5]「座右の銘データベース」、http://www.kokin.rr-livelife.net/post/post_meigen/post_meigen_253.html
[6] "And then so clear," アルバム"Another Day on Earth," Brian Eno,
https://www.youtube.com/watch?v=sLEgjBVtdhE
[7] 同じ曲で違った映像背景、"And then so clear," アルバム"Another Day on Earth," Brian Eno,
https://www.youtube.com/watch?v=lcK8_kKCsq8
[8] "And then so clear"の歌詞、https://genius.com/Brian-eno-and-then-so-clear-lyrics
[9] 梅原猛さんの平和思想、【私説・論説室から】、2019年1月21日、東京新聞
http://www.tokyo-np.co.jp/article/column/ronsetu/CK2019012102000139.html
===
7章 「こんな平成に誰がした。」 行為とその帰結。そして怒りと不安と希望と
少し前につれ合いとたわい無ない話をしていた。「平成生まれの若者は駄目だね。このままじゃ日本は駄目になる。こんな平成に誰がした!」彼女曰く「天皇皇后両陛下は素晴らしい人なのにね。」こんな感じだっただろうか。あなた自身「こんな平成に誰がした?」と自問する機会がこの30余年にあったのか?
簡単さ。こんな平成にしてしまった面々と、その連中を支持したりしていたからだし、「国政、我関せず。」選挙によってこの様な面々を排除しなかった行為と言う結果に今泣いている訳である。もっとも平成生まれの若者をオペレータにしてしまったのは昭和生まれの我々の責任でもあるが。平成の若者の気質を造り上げて来た我々も反省しなければならない。何故なら、何も考えない何も表現しない何事にも無関心なオペレータをゆとり教育を通じて創って行ったからである。すまぬ。だがもうすぐ平成と言う激動の時代が閉じる。平成の終わりに当り、原理主義者と言う悪魔の様な怪物、八つもの頭を持つヤマタのオロチの様な勢力をこの元号の時代に封印閉じ込めておく方策を考え始めなければ。何と言っても希望を持って新しい元号を迎えないとこれから産まれて来る子供達の人生明るく始まらぬ。
以前の投稿で何回も言及しているが、「行為とその帰結」とは簡単に言うと: 或る行為を行った後にその結果として何かが起こると言う事。そしてそれはその結果の帰結の責任を伴う因果関係と言われる物の理。その責任を子供すら理解する自明の理なのだが現在の社会で多忙な生活と喧噪故にこの事実を心に留めておく事を我々大人は忘れてしまっている。例えば、将来において灼熱の太陽の下地球の温暖化に何ら行動を採らなかったと後悔しても、もう時既に遅し。と言う未来に起こりえる結果を、予見している時点で何を行うべきなのかと言う純粋に未来を見据えた行為が出来るかどうかの勇気('ethos')の「もと」を産み出す作業を個人個人そして社会全体で出来るかどうか、なのである。温暖化の問題は日本全体が世界全体がやらなければならない。将来悔恨の情を持って大泣きしたとしても時既に遅しなのである。この「行為とその帰結」において、ネガティブな見方からすると: 人間の物欲強欲とその帰結。軍国主義とその帰結。原発推進とその帰結。人権抑圧とその帰結。独裁政治とその帰結。原理主義に基づいた政治とその帰結。原子化した個人とオバカな人間の量産と、その帰結。一方ポジティブな見方からすると - 平和を謳う憲法の制定と国家の繁栄と言う帰結。愛と言う行為とその帰結としての新たな生命の誕生等。だが国力の衰えを目の当たりにし、皆個人個人日本が直面する「行為とその帰結」をどの様に肌で感じているのだろうか?
日本の女性市民の皆さん!「ああ、このままでは駄目だ」と言う感触、予感と不安が心の中に生ずる事が日常的にきっとある筈だ。色々な事に対し怒っているはずだ。その頻度は個人に由るだろう。暗くて孤独なここからの、出口の無い生活の閉塞感ではないか?このどうしょうも出来ない事に怒っているはず。例えば、この社会で人間らしく生きる権利が如何に大事な事なのかを子育てを通して理解されていると思います。しばらく前に「保育園落ちた日本死ね」という表現がTwitterで話題になりました。でも考え方によっては日本ではその様な風潮になっちゃうよなと思うのです。何故か。自由民主党を乗っ取っている勢力にとって自分達の教義に基づいた「女性は家庭で育児をするべき」という考え方を社会に広めようとしたい訳で今の社会の方向を、女性の立場を改善せず女性に家庭で育児をさせる様にプッシュする環境に方向付け、「女性が活躍できる社会」を目指すとか何とか言って女性の支援をしているフリをしていると思わざるを得ない社会状況なのです。再度言います。この第一章で何回が述べたが原理主義者達が国政を執り行っている訳で、彼らの教義の方向に向け、全ての国政の仕組みと日本の文化、市民の間の風潮を方向付けたいのです。このイデオロギーの流れはより良い暮らし向きをしたい世間が欲する流れに逆行しているので、自分達があたかも善政を行っているかの様なフリをして国政の守護人守り神として振る舞っている訳。原理主義者である事の本性を隠しているので本心は言わないし、やっている事やろうとしている事を隠しながら日本の社会を没落させている。それこそ言っている事とやっている事が真逆の、偽りだらけな日本と言う国の頂点に居座って旗ふりを行っている面々なのである。バブルの崩壊後の社会の波長を自分達の都合の良い様に合わせ込んで来ながら社会の変革に勤しんで来た原理主義者達。非常にスマートな連中である。メディアを使って彼らの理想とする文化の波長に沿って日本のEthos(風潮)を - 例えば人格破壊やヘイトを通して社会から寛容な心と愛する心を駆逐する様な善とは真逆なEthosへと導いて国体の変革を行っている事。その他に「何々の可能性がある」とか、「心肺停止」等の曖昧模糊とした表現を多用しストレートに事実を言い表す表現をメディアから消滅させ - 時間をかけて造り上げて来たからである。皆が皆何でストレートにものを言えない?現実を直視しない?そう!意識するしないに関わらず、原理主義者達が実践している個人の心を刺激する遠隔操作から自ら脱さなければならない時。これは即ちメディアをコントロールすると言う一つの行為。とその結果、帰結である。それは日本の市民をコントロール出来ると言う事実を見れば明かである。
幸せに生活している家庭が少なくなり、崩壊寸前な家族が増えて来ているこの理不尽な社会。何故か?民主主義の大原則とは発言しなければ、主張しなければ、何も得られないのである。確かに現在の日本の民主主義は米国から戦後に与えられた物であるのは周知の事実だ。戦後74年に渡って与えられた物を甘受して来た訳。民主主義とは少しづつ仕組みを良くする様な努力と社会を良い方向に持って行こうとする変革の希求、即ち政治に参加する行為とその結果と言う極めて簡単な図式を見れば、民主主義は勝ち取って来なければ失われてしまう仕組みなのである。が、たゆまぬ努力の積みで初めて進化し向上する社会習慣、社会制度である事を人々は忘れてしまった。世界中の民主主義の歴史を見渡せない故にこの社会制度がどうなろうともおかまい無しと脱力してしまっている昨今である。 この勝ち取ったのではなく与えられた民主主義が今不遜で強欲な原理主義者達により完全なる破壊に向かって追い込まれて来ている。判るだろうか?この事実に気が付かない事が日本の民主主義の最大な危機の原因なのである。極めて少数の人が曲がりなりにも日本に根付いて来た民主主義を根本からひっくり返すアーキテクチャーを設計、少数の周りの賛同者、機動部隊を啓蒙しその運動の支持者をイデオロギーに熱中させ平成と言う時代にその彼らの設計図を元にこの時代を変革して来た訳。一方日本の市民が戦後民主主義を進化させる様に努力して来なかった帰結が今ここにあり、この民主主義の崩壊を目撃しているのである。日本の社会の中で民主主義に対するコミットメントの重要性を子供達に学校を通して教育してこなかった結果を痛恨する人達はどれほどいるのか?殆どおるまい。
何故私が女性の市民にここにこの様に訴えるか?その理由は: 日本で政権交代が出来ないのは2つの同等な対の補完機能と言う考え方がこの社会に根付いていないから。日本に危機管理の思想が欠如するのはこの理由による。機能が同等の非常時用バックアップの機構が存在しないものだから危機に陥った時にパニックとなってしまう事。もっと大きな視点からすると - 男女の関係が補完的ではなく、主と従としてある訳で、これでは何時迄経っても男性が女性にセクハラする行為は無くならない。男性と女性が公平で平等に扱われる社会にならなければ政権交代は出来ない。が政権交代出来ないので男女間が平等にはならない。この当たり前な事を女性市民は理解して欲しい。男性が主で女性が従と言う閉鎖的教義的社会が其処まで迫っているのにも関わらず、社会全体で携帯電話を操作するオペレータを甘受。自分の生の置かれている状況に対する覚醒もなく、この八方塞がりの社会が、行き着く所まで行かないと判らない脳死状態。女性の市民の皆さんこのままで宜しいのでしょうか?
しかし今の世の中、何時から愛を表現する事の無い社会風潮となってしまったのか?男と女が素直にメスとオスとして愛情表現が出来なくなった社会。愛を尊重する社会としない社会の落差を痛感する日々。暖かい視線が溢れる社会と冷たい視線が満ちる社会。 今の社会の性差別や(性)暴力の不条理から己と己の子供達を守りながら、生きている女性市民。しかし期待を裏切る様に二つの真逆な社会の一方へ向かって日本全体で行進中である。この様な女性軽視の風潮。しかも女性のみならず男性をも奴隷の如くにこき使う社会制度。万人に保証された法の下の平等さえも無視されている実情。この「失われた20年」の間にいつの間にか人が人間らしく生きられる国でなくなってしまった日本。この原因を前章とこの章で長々説明して来た。今日の怒りと明日への不安が社会の風潮となってしまった。本来人々の生命の流れは希望なのであるが、それを囲い込まれて、窒息しそうな世の中。イデオロギーによって生きる権利を抑圧され、生命を軽んずる事が許される真っ暗なご時世。何時から愛を自然に表現する機会の無い社会となってしまったのか? 喧噪と言う世の風に飛ばされて愛なんて何処かへ消えてしまった。
人間が生命の流れが切り刻まれ、そして時が流れるのではなく切り刻まれもはや人は統一体としての個ではなくバラバラとなり、この世界が意味の在る物では無くなってしまった。何でこれほどまで分裂してしまったのか?時を切り刻みこの世界を切り刻み、そして世界を掘り尽くし、その結果産まれる事を選び何らかの理由を持ってこの世に生命として出て来た一人一人の人間達が、抑圧される為に殺される為に産まれて来たかの如くの人生を送ってしまっているこの世の不条理。過酷な自然から貰い受けた苦しみならまだ判る。この過酷な体制によって造り出されてしまった不条理に対する怒りはいったい何処へ行くのだろうか。
力を持つ者達(the establishment)の欲望が国家を滅ぼしかねず、人類を、生命を死滅させかねない所まで来ているのである。あなたはこの産まれて来た世界が悪くなって行くのを黙って見ていられるのだろうか?不条理は人間が、そして人間が造り上げた組織、体制、機構、仕組みが造り出した「こと」、「もの」なのである。だから人間が造り出した悪い所は直して行く習慣を保持する事を心がけねばならない。もし大統領が首相が何かのグループの代弁者だったら政治はどの様になるか。今皆さんその帰結を目撃しているのではないか?それは社会から公正公平が消え失せてしまう政治が行われる訳。この世の不条理を根絶するために生命の意義と意味を問い続けなければなるまい。
日本のみならず世界中で脈々と続く生命の流れを邪魔し囲い込みその消滅を加速する原子化した人間達。だがその風潮に抗った人々がいた。その例を挙げよう。それを考える時何時も、表現者を抑圧した東ドイツと言う国家を飲み込んだ西ドイツの事を思うのである。核兵器の使用と人類滅亡の可能性。それに抵抗する善なる'Ethos'、即ちそれは生命を守る事、子供達を守る事、生存への希求への声が、1970年代なかから1980年代なか位にヨーロッパ全土であがった。例えば核兵器が使用されるであろう最前線である西ドイツのベルリンで1983年に60万人の人々が核兵器に反対する行動を起こしている。"A 1983 nuclear weapons protest in West Berlin had about 600,000 participants."[1] この様な生命の流れを消滅させる事に抵抗する人々の心を揺さぶる運動がヨーロッパで発生した事を覚えている年配の方々もいるだろう。生命の滅びに当ってそれに全てに無関心な人々を覚醒させるethosの流れ。核戦争による人類滅亡の可能性の予見を。更に続いて自由への希求を渇望する東ヨーロッパの人々と、抑圧された同胞を自由に向けて解き放つ様に努力した西ヨーロッパの人々により、1989年ベルリンの壁が打ち倒されたれた訳である。[2],[3],[4],[5] 核兵器廃絶への願いを込めた行進や自由を求める行進を見れば女性の力を後押しサポートする様な男性市民の理解があったはず。生命の流れを邪魔する物は核兵器だけではないのはお判りだろう。その流れの結果として今全世界の中でEUとヨーロッパ大陸に比較的善政が敷かれているのだと思う。社会に積極的に関わり良くして行こうと言う気持ちと行動の積み重ねが如何に大切なのかと言う例。それは地平遥か先に見えるオープンで公正な社会と言う理想へと向かって進んで行く、或は其処に辿り着きたい気持ちを駆り立てる事で成就する。ベルリンの壁を彼らが倒したと同じ様に生きている空間をゆがめ複雑化し、生命の流れの邪魔をする日本の社会の不条理の壁が倒せるのか。このヨーロッパでおこった事実は別世界での出来事なのであろうか?それとも手に届く現実なのであろうか?
「一連の投稿の最後にあたり」
この投稿を私の友人達を含め、今も東日本大震災の後遺症と格闘しながら生きている方々に捧げたい。一人のお父さんとして出来る事を精一杯やったつもりだ。父として今の不条理に満ちた社会に抗う事が出来ればと思い立ち、文章を書く事位しか能が無いものだからこの阿修羅と言うウェブをお借りして2011年冬より「日本の市民の皆様へ」と言うシリーズの投稿を行って来た。この最後の一連の投稿が日本の不条理に満ちた社会を変える小さな起爆剤となる様な幸運に巡り会えたらと思っている。
本当に大事なのだが皆忘れてしまっている事がある。それは:「チャンスは前からしかやって来ない。眼を見開いてそれをその時に掴まないと。何故ならチャンスは決してあなたを追いかける事は無い」のである。再度喚起しておく。今日本の社会に蔓延するEthosは無責任無関心無気力と脱力である。それはどう言う事かと言うとサバイバルする、生きる力が無いと言う事。これは"A watching kettle never boils"と言う英語の言い回しを見れば判る。「ヤカンを見ていてもお湯なんか沸かないさ」と言う事。お湯をわかすにはヤカンを火にかけなれればならない事が判らない訳。とても簡単な事なのに。どうして皆さんこの様に他力本願になってしまったのでしょうか?原理主義者達は平成と言う時代静かにチャンスを掴んでそれを積み重ねて国体の変革を行って来たと言う事実。彼らを昭和と言う、産まれて来た所に押し返し平成と言う時代に封印する事を火急に実行し始めなければならぬ。平成の時代に「腐敗した政治が執り行われていた」と将来振り返って見られる様、民主主義勢力が決して分裂せずに原理主義を世の中から駆逐する努力続けなければならない。でもこれを成就するにはかなりの歳月必要なのである。
物欲や思想イデオロギーに強欲な面々の、強欲な面々による、強欲な面々の為の政治が行われている現代の日本。これに対してきっぱりとNoを突きつけねばなるまい。そうする為には何を行わなければならないのか?何を成すべきなのか?それは何かと言うと、「これから産まれて来る生命にとって意味のある社会」の現実へ向かって行動する事なのである。これは人間の顔を持った政治がなす結果と言う事。断言しておこう。しらけているのがcoolではない。日本の社会の問題は自分の生命の流れの死活問題だと自覚して、実際に表現の自由と言う権利を実行に移す時なのです。あなたの希望への希求の願いを込めて。
「さあ、世直しの為に投票へ行こう。」そしてより良き政治、善政に向けた流れに参加しよう。将来を予見しようと努力する人々にとって、政治に参加する事は知的な興奮であり楽しみなのである。政治が楽しければ日本の民主主義の未来は明るい。そして志ある政治家よ、本当に投票に値する入れ物を用意しておいてくれ。
===
しかし...しかし...それだけの覚悟では残念ながら日本の社会が開かれたものとなり、人間の顔を持つ様になるには全くと言ってよい程非力なのである。何故か?皆さん大きく見て何故かと考えてみて下さい。今までのこの一括投稿の文章を読むにつれ自分なりに日本の社会を大きく見る努力をしているかと思います。以下小生の個人的な意見とお断りしておく。
私が義務教育を受けていた時に学校で教わった事である。「昭和と言う時代の軍国主義は忌み嫌われるべき事」であった。それは軍事国家主義であり、国家主義と言う名のもとに上から下へのトップダウン手法即ち命令、懲罰、恐怖や同調圧力によって社会統制が行われている訳。がんじがらめの社会と言えよう。その国家体制「権威主義に基づいた社会」は個性を人権を抑圧し必然的に息詰まる社会となる。
「権威主義に基づいた社会」をまず社会の上層部から下層部へと見る:
* 時代をそして富を所有する強欲者達 (命を粗末に駒として使うブラック企業や国家。暗黒時代の日本を思い出して見よ)
* 社員を所有する社長
* 家族を所有する家長
* 性を所有する夫
今の日本の「権威主義に基づいた社会」においては命令の強要が上から下まで行き届く。その一部の会社も地方自治体も活気が失せ、物を言わない言えない奴隷となって人間としては死んでしまっている。持ち論責任なんて死んでいる人間なら負う必要は無い。民意を、投票を通して表さないから民意を汲み取らず無視する国体に近づいて来ている訳。
その一方「人間の顔を持った社会」を上から下まで眺めると:
* 時代を、富を共有する社会
* 社員の間で活力を共有し、その力を導き共有する社長
* 生(と時)を共有する家族
* 性を共有する夫婦
それは肥えた土に生える大きな木(国)に例えられよう。木が土を通して根っこから養分と水を吸い取って大きくなる様に、選挙を通して表された「民意」即ち「人々の意志」が下から一番上の国会迄伝わり、届く事。即ち国会が民意を汲み取りそれに耳を傾け、善政を執り行って行ける習慣と仕組み。この様な仕組みの下で木の葉っぱの隅々まで養分と水が行き渡り元気に育つ木の様に国も成長する。即ちそれが民主主義に基づいた「人間の顔を持った社会」と言う事。それはボトムアップの風通しの良い社会である。現代日本の社会情勢からこの様な社会情勢の流れへと変えようとの理想を持つ政治家がいるかもしれない。でもその様な考えかたを劇的に変えてくれ。上から下へ流れる政治の仕組みを下から上へ流れる政治の仕組みへと流れを180度逆転しなければこの希望を失った社会は変らないのである。非常に多くの市民が結集しそして志の或る政治家達と協力した上で、希望と言う風潮を地方の政治と国政に吹き込んだとしても、とても大変な時間のかかる作業なのである。まずその、上から下へと教義を伝達する政治からの決別を宣言し、180度逆転した流れを持った民意を憲章化して国政を民主主義体制に戻して行かなければならない。その過程で原理主義者は色々な手立てを用いて彼らの教義を押し通そうとするであろう事を予見しておいて欲しいものである。
再度喚起しておく。「生命の流れの邪魔をする日本の社会の不条理の壁が倒せるのか。このヨーロッパでおこった事実は別世界での出来事なのであろうか?それとも手に届く現実なのであろうか?」
===
参考文献等
[1] "Anti-nuclear movement," Wikipedia, https://en.wikipedia.org/wiki/Anti-nuclear_movement
[2] 「ベルリンの壁、」ウィキペディア、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%99%E3%83%AB%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%81%AE%E5%A3%81
[3] "Nov. 10, 1989: Celebration at the Berlin Wall," Youtube,
https://www.youtube.com/watch?v=snsdDb7KDkg
[4] "The fall of the Berlin Wall in 1989," Youtube,
https://www.youtube.com/watch?v=zmRPP2WXX0U
[5] "1989: The Fall of The Berlin Wall," Youtube, https://www.youtube.com/watch?v=bQOoWw6oYzY
▲上へ ★阿修羅♪ > 政治・選挙・NHK258掲示板 次へ 前へ
投稿コメント全ログ コメント即時配信 スレ建て依頼 削除コメント確認方法
▲上へ ★阿修羅♪ > 政治・選挙・NHK258掲示板 次へ 前へ
スパムメールの中から見つけ出すためにメールのタイトルには必ず「阿修羅さんへ」と記述してください。
すべてのページの引用、転載、リンクを許可します。確認メールは不要です。引用元リンクを表示してください。