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この章が2011年から断続的にこのウエブサイトに投稿して来た一連の文章の最後となります。この3月中に過去に投稿して来たものを多分原発板に2つ、残りを政治板に投稿します。機会があったら目を通してみて下さい。
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7章 「こんな平成に誰がした。」 行為とその帰結。そして怒りと不安と希望と
少し前につれ合いとたわい無ない話をしていた。「平成生まれの若者は駄目だね。このままじゃ日本は駄目になる。こんな平成に誰がした!」彼女曰く「天皇皇后両陛下は素晴らしい人なのにね。」こんな感じだっただろうか。あなた自身「こんな平成に誰がした?」と自問する機会がこの30余年にあったのか?
簡単さ。こんな平成にしてしまった面々と、その連中を支持したりしていたからだし、「国政、我関せず。」選挙によってこの様な面々を排除しなかった行為と言う結果に今泣いている訳である。もっとも平成生まれの若者をオペレータにしてしまったのは昭和生まれの我々の責任でもあるが。平成の若者の気質を造り上げて来た我々も反省しなければならない。何故なら、何も考えない何も表現しない何事にも無関心なオペレータをゆとり教育を通じて創って行ったからである。すまぬ。だがもうすぐ平成と言う激動の時代が閉じる。平成の終わりに当り、原理主義者と言う悪魔の様な怪物、八つもの頭を持つヤマタのオロチの様な勢力をこの元号の時代に封印閉じ込めておく方策を考え始めなければ。何と言っても希望を持って新しい元号を迎えないとこれから産まれて来る子供達の人生明るく始まらぬ。
以前の投稿で何回も言及しているが、「行為とその帰結」とは簡単に言うと: 或る行為を行った後にその結果として何かが起こると言う事。そしてそれはその結果の帰結の責任を伴う因果関係と言われる物の理。その責任を子供すら理解する自明の理なのだが現在の社会で多忙な生活と喧噪故にこの事実を心に留めておく事を我々大人は忘れてしまっている。例えば、将来において灼熱の太陽の下地球の温暖化に何ら行動を採らなかったと後悔しても、もう時既に遅し。と言う未来に起こりえる結果を、予見している時点で何を行うべきなのかと言う純粋に未来を見据えた行為が出来るかどうかの勇気('ethos')の「もと」を産み出す作業を個人個人そして社会全体で出来るかどうか、なのである。温暖化の問題は日本全体が世界全体がやらなければならない。将来悔恨の情を持って大泣きしたとしても時既に遅しなのである。この「行為とその帰結」において、ネガティブな見方からすると: 人間の物欲強欲とその帰結。軍国主義とその帰結。原発推進とその帰結。人権抑圧とその帰結。独裁政治とその帰結。原理主義に基づいた政治とその帰結。原子化した個人とオバカな人間の量産と、その帰結。一方ポジティブな見方からすると - 平和を謳う憲法の制定と国家の繁栄と言う帰結。愛と言う行為とその帰結としての新たな生命の誕生等。だが国力の衰えを目の当たりにし、皆個人個人日本が直面する「行為とその帰結」をどの様に肌で感じているのだろうか?
日本の女性市民の皆さん!「ああ、このままでは駄目だ」と言う感触、予感と不安が心の中に生ずる事が日常的にきっとある筈だ。色々な事に対し怒っているはずだ。その頻度は個人に由るだろう。暗くて孤独なここからの、出口の無い生活の閉塞感ではないか?このどうしょうも出来ない事に怒っているはず。例えば、この社会で人間らしく生きる権利が如何に大事な事なのかを子育てを通して理解されていると思います。しばらく前に「保育園落ちた日本死ね」という表現がTwitterで話題になりました。でも考え方によっては日本ではその様な風潮になっちゃうよなと思うのです。何故か。自由民主党を乗っ取っている勢力にとって自分達の教義に基づいた「女性は家庭で育児をするべき」という考え方を社会に広めようとしたい訳で今の社会の方向を、女性の立場を改善せず女性に家庭で育児をさせる様にプッシュする環境に方向付け、「女性が活躍できる社会」を目指すとか何とか言って女性の支援をしているフリをしていると思わざるを得ない社会状況なのです。再度言います。この第一章で何回が述べたが原理主義者達が国政を執り行っている訳で、彼らの教義の方向に向け、全ての国政の仕組みと日本の文化、市民の間の風潮を方向付けたいのです。このイデオロギーの流れはより良い暮らし向きをしたい世間が欲する流れに逆行しているので、自分達があたかも善政を行っているかの様なフリをして国政の守護人守り神として振る舞っている訳。原理主義者である事の本性を隠しているので本心は言わないし、やっている事やろうとしている事を隠しながら日本の社会を没落させている。それこそ言っている事とやっている事が真逆の、偽りだらけな日本と言う国の頂点に居座って旗ふりを行っている面々なのである。バブルの崩壊後の社会の波長を自分達の都合の良い様に合わせ込んで来ながら社会の変革に勤しんで来た原理主義者達。非常にスマートな連中である。メディアを使って彼らの理想とする文化の波長に沿って日本のEthos(風潮)を - 例えば人格破壊やヘイトを通して社会から寛容な心と愛する心を駆逐する様な善とは真逆なEthosへと導いて国体の変革を行ってる事。その他に「何々の可能性がある」とか、「心肺停止」等の曖昧模糊とした表現を多用しストレートに事実を言い表す表現をメディアから消滅させ - 時間をかけて造り上げて来たからである。皆が皆何でストレートにものを言えない?現実を直視しない?そう!意識するしないに関わらず、原理主義者達が実践している個人の心を刺激する遠隔操作から自ら脱さなければならない時。これは即ちメディアをコントロールすると言う一つの行為。とその結果、帰結である。それは日本の市民をコントロール出来ると言う事実を見れば明かである。
幸せに生活している家庭が少なくなり、崩壊寸前な家族が増えて来ているこの理不尽な社会。何故か?民主主義の大原則とは発言しなければ、主張しなければ、何も得られないのである。確かに現在の日本の民主主義は米国から戦後に与えられた物であるのは周知の事実だ。戦後74年に渡って与えられた物を甘受して来た訳。民主主義とは少しづつ仕組みを良くする様な努力と社会を良い方向に持って行こうとする変革の希求、即ち政治に参加する行為とその結果と言う極めて簡単な図式を見れば、民主主義は勝ち取って来なければ失われてしまう仕組みなのである。が、たゆまぬ努力の積みで初めて進化し向上する社会習慣、社会制度である事を人々は忘れてしまった。世界中の民主主義の歴史を見渡せない故にこの社会制度がどうなろうともおかまい無しと脱力してしまっている昨今である。 この勝ち取ったのではなく与えられた民主主義が今不遜で強欲な原理主義者達により完全なる破壊に向かって追い込まれて来ている。判るだろうか?この事実に気が付かない事が日本の民主主義の最大な危機の原因なのである。極めて少数の人が曲がりなりにも日本に根付いて来た民主主義を根本からひっくり返すアーキテクチャーを設計、少数の周りの賛同者、機動部隊を啓蒙しその運動の支持者をイデオロギーに熱中させ平成と言う時代にその彼らの設計図を元にこの時代を変革して来た訳。一方日本の市民が戦後民主主義を進化させる様に努力して来なかった帰結が今ここにあり、日本の市民がこの民主主義の崩壊を目撃しているのである。日本の社会の中で民主主義に対するコミットメントの重要性を子供達に学校を通して教育してこなかった結果を痛恨する人達はどれほどいるのか?殆どおるまい。
何故私が女性の市民にここにこの様に訴えるか?その理由は: 日本で政権交代が出来ないのは2つの同等な対の補完機能と言う考え方がこの社会に根付いていないから。日本に危機管理の思想が欠如するのはこの理由による。機能が同等の非常時用バックアップの機構が存在しないものだから危機に陥った時にパニックとなってしまう事。もっと大きな視点からすると - 男女の関係が補完的ではなく、主と従としてある訳で、これでは何時迄経っても男性が女性にセクハラする行為は無くならない。男性と女性が公平で平等に扱われる社会にならなければ政権交代は出来ない。が政権交代出来ないので男女間が平等にはならない。この当たり前な事を女性市民は理解して欲しい。男性が主で女性が従と言う閉鎖的教義的社会が其処まで迫っているのにも関わらず、社会全体で携帯電話を操作するオペレータを甘受。自分の生の置かれている状況に対する覚醒もなく、この八方塞がりの社会が、行き着く所まで行かないと判らない脳死状態。女性の市民の皆さんこのままで宜しいのでしょうか?
しかし今の世の中、何時から愛を表現する事の無い社会風潮となってしまったのか?男と女が素直にメスとオスとして愛情表現が出来なくなった社会。愛を尊重する社会としない社会の落差を痛感する日々。暖かい視線が溢れる社会と冷たい視線が満る社会。 今の社会の性差別や(性)暴力の不条理から己と己の子供達を守りながら、生きている女性市民。しかし期待を裏切る様に二つの真逆な社会の一方へ向かって日本全体で行進中である。この様な女性軽視の風潮。しかも女性のみならず男性をも奴隷の如くにこき使う社会制度。万人に保証された法の下の平等さえも無視されている実情。この「失われた20年」の間にいつの間にか人が人間らしく生きれる国でなくなってしまった日本。この原因を前章とこの章で長々説明して来た。今日の怒りと明日への不安が社会の風潮となってしまった。本来人々の生命の流れは希望なのであるが、それを囲い込まれて、窒息しそうな世の中。イデオロギーによって生きる権利を抑圧され、生命を軽んずる事が許される真っ暗なご時世。何時から愛を自然に表現する機会の無い社会となってしまったのか? 喧噪と言う世の風に飛ばされて愛なんて何処かへ消えてしまった。
人間が生命の流れが切り刻まれ、そして時が流れるのではなく切り刻まれもはや人は統一体としての個ではなくバラバラとなり、この世界が意味の在る物では無くなってしまった。何でこれほどまで分裂してしまったのか?時を切り刻みこの世界を切り刻み、そして世界を掘り尽くし、その結果産まれる事を選び何らかの理由を持ってこの世に生命として出て来た一人一人の人間達が、抑圧される為に殺される為に産まれて来たかの如くの人生を送ってしまっているこの世の不条理。過酷な自然から貰い受けた苦しみならまだ判る。この過酷な体制によって造り出されてしまった不条理に対する怒りはいったい何処へ行くのだろうか。
力を持つ者達(the establishment)の欲望が国家を滅ぼしかねず、人類を、生命を死滅させかねない所まで来ているのである。あなたはこの産まれて来た世界が悪くなって行くのを黙って見ていられるのだろうか?不条理は人間が、そして人間が造り上げた組織、体制、機構、仕組みが造り出した「こと」、「もの」なのである。だから人間が造り出した悪い所は直して行く習慣を保持する事を心がけねばならない。もし大統領が首相が何かのグループの代弁者だったら政治はどの様になるか。今皆さんその帰結を目撃しているのではないか?それは社会から公正公平が消え失せてしまう政治が行われる訳。この世の不条理を根絶するために生命の意義と意味を問い続けなければなるまい。
日本のみならず世界中で脈々と続く生命の流れを邪魔し囲い込みその消滅を加速する原子化した人間達。だがその風潮に抗った人々がいた。その例を挙げよう。それを考える時何時も、表現者を抑圧した東ドイツと言う国家を飲み込んだ西ドイツの事を思うのである。核兵器の使用と人類滅亡の可能性。それに抵抗する善なる'Ethos'、即ちそれは生命を守る事、子供達を守る事、生存への希求への声が、1970年代なかから1980年代なか位にヨーロッパ全土であがった。例えば核兵器が使用されるであろう最前線である西ドイツのベルリンで1983年に60万人の人々が核兵器に反対する行動を起こしている。"A 1983 nuclear weapons protest in West Berlin had about 600,000 participants."[1] この様な生命の流れを消滅させる事に抵抗する人々の心を揺さぶる運動がヨーロッパで発生した事を覚えている年配の方々もいるだろう。生命の滅びに当ってそれに全てに無関心な人々を覚醒させるethosの流れ。人類滅亡の可能性の予見を。更に続いて自由への希求を渇望する東ヨーロッパの人々と、抑圧された同胞を自由に向けて解き放つ様に努力した西ヨーロッパの人々により、1989年ベルリンの壁が打ち倒されたれた訳である。[2] 核兵器廃絶への願いを込めた行進や自由を求める行進を見れば女性の力を後押しサポートする様な男性市民の理解があったはず。生命の流れを邪魔する物は核兵器だけではないのはお判りだろう。その流れの結果として今全世界の中でEUとヨーロッパ大陸に比較的善政が敷かれているのだと想う。社会に積極的に関わり良くして行こうと言う気持ちと行動の積み重ねが如何に大切なのかと言う例。それは地平遥か先に見えるオープンで公正な社会と言う理想へと向かって進んで行く、或は其処に辿り着きたい気持ちを駆り立てる事で成就する。ベルリンの壁を彼らが倒したと同じ様に生きている空間をゆがめ複雑化し、生命の流れの邪魔をする日本の社会の不条理の壁が倒せるのか。このヨーロッパでおこった事実は別世界での出来事なのであろうか?それとも手に届く現実なのであろうか?
[一連の投稿の最後にあたり]
この投稿を私の友人達を含め、今も東日本大震災の後遺症と格闘しながら生きている方々に捧げたい。一人のお父さんとして出来る事を精一杯やったつもりだ。父として今の不条理に満ちた社会に抗う事が出来ればと思い立ち、文章を書く事位しか能が無いものだからこの阿修羅と言うウェブをお借りして2011年冬より「日本の市民の皆様へ」と言うシリーズの投稿を行って来た。この最後の一連の投稿が日本の不条理に満ちた社会を変える小さな起爆剤となる様な幸運に巡り会えたらと思っている。
本当に大事なのだが皆忘れてしまっている事がある。それは:「チャンスは前からしかやって来ない。眼を見開いてそれをその時に掴まないと。何故ならチャンスは決してあなたを追いかける事は無い」のである。再度喚起しておく。今日本の社会に蔓延するEthosは無責任無関心無気力と脱力である。それはどう言う事かと言うとサバイバルする、生きる力が無いと言う事。これは"A watching kettle never boils"と言う英語の言い回しを見れば判る。「ヤカンを見ていてもお湯なんか沸かないさ」と言う事。お湯をわかすにはヤカンを火にかけなれればならない事が判らない訳。とても簡単な事なのに。どうして皆さんこの様に他力本願になってしまったのでしょうか?原理主義者達は平成と言う時代静かにチャンスを掴んでそれを積み重ねて国体の変革を行って来たと言う事実。彼らを昭和と言う、産まれて来た所に押し返し平成と言う時代に封印する事を火急に実行し始めなければならぬ。平成の時代に「腐敗した政治が執り行われていた」と将来振り返って見られる様、民主主義勢力が決して分裂せずに原理主義を世の中から駆逐する努力続けなければならない。でもこれを成就するにはかなりの歳月必要なのである。
物欲や思想イデオロギーに強欲な面々の、強欲な面々による、強欲な面々の為の政治が行われている現代の日本。これに対してきっぱりとNoを突きつけねばなるまい。そうする為には何を行わなければならないのか?何を成すべきなのか?それは何かと言うと、「これから産まれて来る生命にとっての意味のある社会」の現実へ向かって行動する事なのである。断言しておこう。しらけているのがcoolではない。日本の社会の問題は自分の生命の流れの死活問題だと自覚して、実際に表現の自由と言う権利を実行に移す時なのです。あなたの希望への希求の願いを込めて。
「さあ、世直しの為に投票へ行こう。」そしてより良き政治、善政に向けた流れに参加しよう。将来を予見しようと努力する人々にとって、政治に参加する事は知的な興奮であり楽しみなのである。政治が楽しければ日本の民主主義の未来は明るい。そして志ある政治家よ、本当に投票に値する入れ物を用意しておいてくれ。
参考文献等
[1] "Anti-nuclear movement," Wikipedia, https://en.wikipedia.org/wiki/Anti-nuclear_movement
[2] 「ベルリンの壁、」ウィキペディア、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%99%E3%83%AB%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%81%AE%E5%A3%81
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