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国際社会の中の日本:自衛隊明記がもたらす諸問題
真の憲法9条改正を目指して
2019.2.22(金) 上村 邁
陸上自衛隊、南スーダン到着 新任務に「駆け付け警護」
南スーダンの首都ジュバの空港に到着した、国連南スーダン派遣団(UNMISS)に参加する予定の陸上自衛隊員ら(2016年11月21日撮影)。(c)AFP/GONZALEZ FARRAN〔AFPBB News〕
一 憲法9条2項の光と影
よく引き合いに出される話がある。
昭和21年、議会において共産党の野坂参三が「侵略に対する自衛戦争は正義の戦争であり、すべての戦争を放棄する必要はない」と軍備保有の妥当を訴えた。
これに答えて吉田茂首相が、「日本が戦争放棄を宣言して世界の信を得つつあるとき、自衛権を論ずることは無益である。憲法は一切の軍備と交戦権を認めない」との発言を行った。
今に至る「憲法9条2項」論争の始まりである。
国際社会に日本の復帰を認めてもらうためにあえてこのような発言を行った吉田の思いは、「日本、平和国家」というイメージとともに、現在、多くの国の賛同を得て認められた「国際平和のための海外派遣」という形となって実を結ぼうとしている。
平成27年、集団的自衛権行使の容認を受けて平和安全法制が成立した。
これは、自衛隊を海外に派遣して「PKO活動関係者の生命及び身体の保護(駆け付け警護)」などにより、ことあれば身をもって他国の人たちを守るという、国際社会に対し日本が果たすべき約束を表明したものである。
しかし、平和安全法制により与えられた任務に立ち向かう自衛隊は、これまでとは次元の異なる困難な場面に遭遇する。
守るべき者は邦人のみならず、外国の軍人、市民などもその対象となり、戦う相手は正規兵に近い者もいれば、敵味方の判別が難しい武装民、テロリストなど様々である。
しかも、いつ、どこで襲われるかは分からない。このような状況の中、指揮官は決心し、隊員は行動し、ある時は自ら負傷し、またある時は相手を殺傷するわけである。
そのとき、指揮官、隊員を裁くのは、外国の場合は軍事法廷で軍刑法により正当に裁かれるが、それらを一切有していないわが国においては、自衛官が一般法廷で一般刑法による「殺人罪」に問われるわけである。
戦う組織として各国軍隊と共通する法体系に裏打ちされていない活動は、任務遂行にあたる自衛隊員に優秀な装備でも補い得ない様々な負担をもたらすこととなる。
海外に派遣されて任務を遂行する自衛隊の行動を保証するためには、軍事司法制度の制定が必要となる。
しかしその前には、「特別裁判所は、これを設置することができない」という憲法76条2項が大きく立ちはだかっている。
「日本で軍事裁判所即ち特別裁判所を設置するためには、まず憲法9条2項を改正して自衛隊を軍隊と位置付けた上で憲法76条2項を改正しなければならない」と一般的に捉えられている。
「戦力は持たない」という憲法9条2項の「平和の理念」は戦後日本の国際社会復帰に大きな役割を果たしたものの、名実ともに復帰がなった今、9条2項による「戦力不保持の制約」は、国際平和のために活動する自衛隊に「諸刃の剣」となって迫ってこようとしている。
二 「憲法9条2項と並ぶ自衛隊明記」がもたらす問題
今、憲法9条2項と並んで自衛隊を憲法上に明記するという論が有力になっている。いわゆる「自衛隊併記論」である。
「自衛隊明記」の大きな理由として「憲法学者の多くが自衛隊を違憲としている状況に終止符を打つ」ということが言われている。
「戦力は持たない。交戦権は認めない」とする憲法9条2項の存在は重い。
であればこそ、政治は憲法学者の警鐘にも真摯に耳を傾け、「必要最小限度の戦力は戦力でない」という憲法解釈の下に適切な自衛力を維持して国際情勢に的確に対応し、国の平和と独立を保ってきたわけである。
自衛隊が創設されてから60有余年、自衛隊が歩んできた足跡は戦後から現在に至る「現代史」の中に年々営々として刻まれ、「自衛隊の違憲」云々という問題は学術上の論争テーマとして取り扱う場合を別にして、政治史の上では個別、集団の違いはあるものの自衛権の行使として認められ、すでに終止符は打たれているのである。
今あえて、憲法学者に学術上の論争を挑み、自衛隊をめぐる違憲論争に完全に終止符を打とうとすれば方策は2つである。
「『9条2項』を削除するか」、そうでなければ、自衛力は現実問題として放棄するわけにはいかないので、「自衛隊を戦力ではないと新たに規定するか」のどちらかである。
今回の「自衛隊明記」による憲法改正案が条件をつけることなく「9条2項」と自衛隊を併記するということであれば、まさに「自衛隊を戦力ではない」と規定する後者の案を採用することにほかならない。
「後法は前法を破る」とする「後法優越の原理」が立法不作為の場合に取り沙汰されるのは理解できるとしても、十分な準備を経て行われる国民投票をもって、しかも最高法規である憲法の上で決着をつけるということは、矛盾となる存在の並立は認められず、二者択一にならざるを得ないと思うからである。
日本は憲法を至上とする立憲国家なのである。
であれば、「完全な終止符」にこだわらない折衷案、「必要最小限度の戦力」という条件をつけて自衛隊を明記することが考えられる。
これまでの憲法解釈を憲法の中で位置づけようとするものである。
しかしそのことにより、今度は学術論争では収まらない新たな問題が生じることになる。
一つは、論争に終止符を打つどころか、さらに激しくなるということである。
これまでの憲法解釈を憲法条文として論議するということは、新たな論点が増えるとともに、より厳密な規定が求められるということである。
これからは、憲法で記載される「必要最小限度の戦力」について、限度の目安となる指標の策定、場合によっては限度を担保する法律の制定が求められる。
そして、攻撃性を有する空母、新巡航ミサイルなど、国際情勢、軍事技術の水準などにより変化する「必要最小限度」をめぐり、これまで以上に憲法学者、裁判官を巻き込んだ侃侃諤諤の論争が果てしなく続くのであろう。
結局のところ、「戦力か否か」という問題は、憲法9条2項がそのまま残されている限り、違憲へと拡がりかねない火だねとしてくすぶり続けるのである。
もう一つの問題とは、「自衛隊明記」とともに憲法9条2項が「国民から新しく承認を受けた」とされることである。
「戦後の国際社会に再び受け入れてもらう」という目的のために苦渋の選択として受け入れた「戦力は持たない。交戦権は認めない」という「9条2項」の条文をそのまま、今度は自ら進んで採択しようというのであろうか。
終戦直後の帝国議会で可決、公布された憲法9条2項を、70年後、現在の新体制下、国会の発議に基づいて主権者である国民の直接投票で認める意味は大きい。
新たな力を得た「戦力不保持、交戦権否認」論者を相手に、かつての「戦力」をめぐる論争が再び始まることになる。
長い年月をかけた「戦力かどうか」をめぐる論争の果てに、やっと他国に比肩する国際社会の一員としての義務を、胸を張って果たし得るというところまでにたどり着いた今、振り出しに戻るのだけは勘弁してもらいたい。
何ごとにつけ、「折衷案」は対立する両者の間で、当面の問題をうまく解決するように見えるがゆえに、かえって将来に対して深刻な問題を生じかねない側面を有している。
「自衛隊明記」、いや「自衛隊併記」は「違憲論争を終わらせたい」とする気持は理解できるものの、憲法9条2項が今の形でとどまる限り、かえって混乱を助長しかねず、また、将来への展望をも阻みかねない以上、そのまま認めることはできない。
三 真の憲法9条改正への道
「自衛隊併記」が真の解決にほど遠いとすると、憲法9条2項についてはどのように向き合うのか。
「世界の信」を得るために掲げられた「9条2項」は、自衛隊の海外派遣活動が国内外の信任を得て容認されている現在、当初の役割を終えようとしているものの、国民の過半がまだ不安を拭いきれないのであれば、ことを急ぐ必要はない。
現在見られる、国民の自衛隊に寄せる信頼の高さは、長い年月をかけて大小の災害に対して身をもって奮闘してきた自衛官の姿を、国民が目の当たりにすることによって逐次増大していったものである。
しかし、災害派遣は自衛隊の重要な任務ではあるが位置づけは「従」である。
憲法9条2項の問題を解決し、真の憲法9条改正への道を拓くためには、災害派遣で得られた信頼に加えて、「主」とされている「国の防衛」および「国際社会の平和と安全の維持」の活動について、国民の理解及び信頼をかち得ていかなければならない。
しかしながら、国民の身近で生起し、直接活躍を見聞きできる災害派遣の場合とは異なり、「いかに国民に訴えていくか」という難しい問題が待っている。
そもそも「自ら国を守る」ことを国民が自然に体得できる土壌が他国とは異なっている。日本は周囲を海に囲まれ、人は自然の力によって外敵から守られてきた。
市民自らが剣や銃を持って国土を守り、独立を勝ち取ってきた欧米、たとえばフランス、米国などの国民とは国防に対する考え方に相違があるのもやむを得ない。
7世紀建国以来、明治維新から終戦までの極めて短い一時期を除き、国を守るため自ら「剣」を手にすることなく長い年月を平和に暮らしてきたわけである。
そして戦後は、300万人の同胞を失った反動により、かつての「争いのない平和な世界」にひたすら引き籠もろうとしたのではないか。
「自らの手で国を守る」という国防の原則理念と間をおき、「集団安全保障」を重視する国連と距離を取ろうとする心情も分からないわけではない。
まずは「時」が必要である。そして、国民の目の当たりに訴える「呼びかけ」が必要なのである。
海外において身を挺し、危険な任務を一つひとつ果たしていき、他国の信頼を獲得し、国際平和のために活動する日本に寄せる「世界の人々の賞賛」こそが国民への「呼びかけ」となり、翻って国を守る自衛隊への国民のさらなる信頼につながっていくことになるのである。
そして、その信頼が一層高まったとき、これまでの「憲法9条2項の呪縛」が解かれ、国民が「真の憲法9条の改正」に一歩を踏み出し、同時に、国際社会における他国の有り様、人々の生き様に触発され、国民は主権者としての「国を守るかけがえのない責任」に自ら目覚めるのである。
こうして、「国防の重要性」を深く自覚した国民の視線の先に、「パリ不戦条約の理念」、「平和国家日本を防衛する意志」、「主権者の責任」を骨幹とした「真の憲法9条の姿」が現れるのである。
そこでは、「9条2項」は国際社会への完全復帰を成し遂げてその任を終え、平和の理念を残して新しい姿に変わり、自衛隊はその名を明記されようがされまいが、かけがえのない存在になっているのである。
平成に続く新しい時代、「平和を国是としながらも必要あらば力の行使も辞さない」とする日本の新しい姿は、今なお多くの紛争対立に苦慮している国際社会に「より信頼できる仲間」として迎えられるであろう。
四 結言
戦後70年、わが国はただ「平和憲法」を掲げて坦々と歩んできたわけではない。
起伏に富む道のりを乗り越え支えてきたものは「戦力は持たない」という憲法9条2項の制約の下、憲法の理想と国際社会の現実との整合を図り、着実に防衛力を整備し抑止力の維持に努めてきた「政治の叡智と国民の良識」によるものである。
そして平成27年、「国際社会の平和の中にこそ日本の平和がある」という理念の下、積極的な平和主義を掲げて世界の海に乗り出したわけであるが、寄せくる波に適確に対処しながら正しく舵を取って進んでいくことが求められる。
すなわち、法的未整備の現在、「海難審判所」に準じる「防衛審判所」の設置、交戦規定(部隊行動基準)に係わる事項を裁く「防衛刑法」の制定など当面あらゆる方策を追求して対処するとともに、一方、改憲、非改憲を問わず、全国にまたがる国民的運動により「憲法9条2項改正」の機運を着実に醸成していくことが必要である。
日本周辺を含む国際情勢は緊迫の度を増し、以前にもまして強い風浪が予想される中、多年理想と現実との狭間にあって苦闘してきた「政治の叡智と国民の良識」が、再びわが国を「真の憲法9条改正」によって拓かれる新しい航路へと力強く舵を切り導いていくものと信じて疑わない。
このためにも、まず何よりも国民全員が参加して、納得のできる議論を尽くすことが大切である。
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/55555
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