安倍がピンチになると援護射撃として「日本製のミサイル」が北から打ち上げられてきた。つまり「日米(米軍・CIA)朝のヤラセ」である。そして殆ど報道されないが、麻生セメントが麻生ラファ―ジュセメントとなり、ラフアージュ(仏)を介して北のサンウオン・セメントと繋がっているという(下記引用)。麻生セメントは徴用工問題で韓国人から賠償を求められているが、北朝鮮とは投資・開発という関係を築きつつあるわけだ。また、>>12. 地下爺さん ご指摘のように、パチンコ利益の一部が朝鮮総連などを通して北朝鮮へ送金されている。それは金日成(キムイルソン)当時の1950年代から始まった「在日朝鮮人の帰還事業」という歴史の闇とも関係している。当時、日本に溢れていた在日韓国人が数万人・日本人妻の数千人が「北朝鮮は素晴らしい国・地上の楽園」と騙されて北朝鮮へ送られ、10%が殺され残りが奴隷とされたわけだ。そんな奴隷となった彼らから窮乏の便りが届けば、家族・親族は送金せざるを得ないだろう。でも、実際は家族に届かないらしいが。 さらに、北朝鮮の不審船が自由に日本海沿岸に漂着し、日本人拉致や諜報・工作活動を行ってきた背景には、「国境・海岸線の警備は絶対に強化しない」という歴代政府の姿勢がにじみ出ている。別な言い方をすれば、日本人を拉致して奴隷にするという北朝鮮の奴隷狩りを間接的に支持・支援してきたということである。つまるところ歴代日本政府は、裏で北朝鮮と繋がっているにも拘らず、日本国民にあらゆる嘘をつき続けてきたということだ。 だから、小沢・猪木訪問が人的交流という面では大いに意義はあるものの、拉致問題の解決にはつながらないだろう。なお、小泉政権下の拉致被害者の一部帰還は、売国政策継続のために米国ユダ金・軍産が小泉売国政権の人気取りの為に北朝鮮を動かしたと見ている。もちろん、異様な小泉ブームは朝鮮電通のデッチアゲである。 だから本当に急ぐべきことは、>>56さんが指摘するように、 __取りあえず、戦略として、今の安倍ヒットラー独裁者政権を倒す為の‟礎!” __になる政治家達が必要なのだ。まず、家を壊してから、新しい土台、杭を打ち!家を建てよう。 だと思う。ホントに「本当の拉致被害者」には申し訳ないが、権力を握らなければ何もなしえないことは、売国傀儡政権による今までの国会運営を見ても明らかだろう。だから政権交代が先にあるべきなのだ。 ______________________________________________ >北朝鮮やらせ問題)北朝鮮VSアメリカ 平壌→横田基地着(在日米軍基地)の航空便があった!(在日米軍問題)http://www.asyura2.com/17/warb20/msg/731.html >[朝鮮]北朝鮮ミサイルは準日本製?〜決議案を厳しく守るべきなのは実は提案国日本自身だ http://d.hatena.ne.jp/kibashiri/20060718/1153228204 ・「総連が万景峰号で密輸」 亡命者、米公聴会で証言 【ワシントン20日共同】 米上院政府活動委員会の小委員会は二十日、北朝鮮の麻薬密輸と兵器輸出に関する公聴会を開催、米政府高官や亡命した元北朝鮮高官らが証言した。証人の一人で、北朝鮮の弾道ミサイル開発に携わった元技師は、ミサイル部品が「在日本朝鮮人総連合会(朝鮮総連)を通じ(北朝鮮と日本を結ぶ貨客船)万景峰号によって三カ月ごとに運ばれていた」と証言した。 >欧米企業が「平壌詣で」 麻生セメントも足がかり!? 2009年3月号 GLOBAL https://facta.co.jp/article/200903047.html 首相の実弟が社長を務める麻生セメントだ。前出のラファージュと資本提携(出資比率は麻生60%、ラファージュ40%)し、04年には麻生ラファージュセメントと社名まで変更している。つまり、麻生セメントはラファージュを通じ、北朝鮮のサンウォンセメントと共通の利害関係にあるわけだ。 ______________________________________________ >北朝鮮帰国事業の罪 http://www.geocities.co.jp/WallStreet/2463/kikokuzigyou_notumi.htm ___「朝鮮総連と収容所共和国」 李英和 1999年 小学館文庫___ 終戦当時、日本には二百数十万人以上の在日朝鮮人がいた。そのほとんどは、終戦直後の引き揚げ事業や自力渡航で朝鮮半鳥に続々と帰還して行った。遅い時期に日本に渡って来た者、あるいは強制連行で無理やり連れて来られた者。これらの朝鮮人ほど帰国を急いだ。地縁・血緑など祖国とのつながりが強く残っていたからである。比較的早い時期の渡航朝鮮入は引き揚げようにも、祖国にはすでに住居もなければ、耕す田畑もなかった。頼りにすべき親類縁者とは、長い年月の間にすっかり関係が希薄になっていた。私の祖父母の場合は、後者のケースに該当する。 おまけに大半の朝鮮人の故郷である韓国でコレラが大発生したり、米軍の軍政下で社会混乱が起きた。さらに朝鮮戦争(50〜53年)の勃発が、帰るべき祖国を灰燼に帰してしまう。様子眺めをしたり、帰るに帰れなくなった朝鮮人が日本に多数とどまった。この60万人ほどが、現在の在日韓国・朝鮮人の基数となる。 ところが、終戦から14年経った頃に突然、第二の引き揚げブームが起きた。1959年12月14日、在日朝鮮人の北朝鮮への帰還が始まった。日・朝両国の赤十宇社の協定(59年8月13日調印)によるものだった。一般に「帰国事業」と呼ばれるものである。以後、3年問の中断期(68〜70年)をはさんで、84年までに果計で約9万3000人余りが北朝鮮に永住帰国した。その中には、日本人配偶者とその子供も含まれる。当時の日本は、いまと違って、父系血統主義を採っていた。その国籍法によれば、厳密な意味での日本人は約6600人だった。その内「日本人妻」と称される人たちが約1800人いる。数は少ないが「日本人夫」もいた。 この「帰国事業」は、いまから考えてみると、奇妙なものだった。在日朝鮮人は、その98パーセントが「南半分」、つまり今の韓国出身である。だから、厳密にいえば、北朝鮮は故郷ではない。守るべき祖先の墓もなければ、頼るべき親類縁者もほとんどいない、「異郷の地」だった。だのに、この人たちは北朝鮮へと「帰った」そのせいもあってか、韓国政府は、「帰国事業」という用語を使わない。「北送事業」と呼んでいる。「帰国者」も「北送者」と称する。ともかく、歴史上でも稀に見る性格の「大量移住」だったことだけはまちがいない。 それだけに、その背景や動機には、複雑なものがある。この点で、帰国事業は大きくふたつの時期に区分できる。 68〜70年の中断期をはさんで、ちょうど前期と後期にわかれる。大半は前期の帰国事業で「北」に渡った。その帰国者たちの背景と動機は、次の三点に尽きる。(1)日本での生活難と将来への不安、(2)韓国政府による事実上の「棄民政策」、そしてなにより(3)北朝鮮政府による荒唐無稽な「地上の楽園」宣伝だった。帰国者の動機は単純だった。同時に、その単純さは、重苦しい現実を反映している。 まっさきに挙げられるべき理由は「貧困」である。高度経済成長の恩恵にあずかるまで、在日朝鮮人の生活は困窮をきわめた。たしかに、1950年代は、日本人もそれはど豊かでなかった。だが、在日朝鮮人の場合、差別が貧困にいっそう拍車をかけていた。なかでも、在日朝鮮人をひどく苦しめたのが雇用差別だった。大手企業への就職などは夢のまた夢。中小零細企業でも、正規採用ははとんど望めなかった。パチンコ屋や飲食業の店員、臨時雇いの工員、そして日雇い労働者といったところだった。おかげで、貧困にあえぐ世帯が多かった。このあたりの事情は、被差別部落の場合と似通っている。だが、在日朝鮮人は外国人だという点が決定的に違った。法制度による差別を受けることになるからだ。 (中略) これで「貧乏をするな」と言うほうが無理というものだろう。おかげで、在日朝鮮人の生活保護率も高かった。私が生まれた54年末の数字を見てみよう。当時、生活保護を受ける在日朝鮮人は約13万人だった。実に、朝鮮人全体の約23パーセントにのぼる。日本人の場合は2パーセントだった。・・・ ______________________________________________
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