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我慢と自己犠牲を美化する教育勅語のヤバさ 教育勅語が復活すれば子どもが追い込まれる
https://toyokeizai.net/articles/-/260699
2019/01/26 6:20 前川 喜平 : 現代教育行政研究会代表、元文部科学事務次官 東洋経済オンライン
教育勅語を美化する風潮は危険だ(写真:ALLIE/PIXTA)
安倍晋三首相が政権復帰してから6年を迎えたが、文部科学省で事務次官を務めた前川喜平氏は安倍政権に蠢く教育勅語「再生」への野望を憂慮する。前川氏が全3回にわたって、なぜ教育勅語がダメなのか解説する。第2回のテーマは「道徳の教科化は教育勅語復活の始まり」。 |
安倍首相は第一次政権で「教育再生会議」を、第二次政権で「教育再生実行会議」を設置した。「再生」とは、「過去に生きていたが、現在は死んでいるものを、未来に向けて再び生き返らせること」だ。では、教育における再生とは一体何を生き返らせることなのか。それは結局、教育勅語であり、そこに込められた國體(こくたい)思想である。
第一次安倍政権が2006年に実現したのが教育基本法の抜本改正だ。学校教育、社会教育、家庭教育を通じた教育の目標を法定した第2条には「道徳心を培う」「公共の精神に基づき(中略)社会の発展に寄与する態度を養う」「伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛する(中略)態度を養う」といった文言が盛り込まれた。
学校教育について規定した第6条では「学校生活を営む上で必要な規律を重んずる」ことという文言も加えられた。そして第16条で、教育は「この法律及び他の法律の定めるところにより行われるべきもの」とする文言が入れられ、法律の根拠さえあれば政治がいくらでも教育を支配することができるかのように考えられるに至った。
もともと、学校の「教育課程に関する事項」は、学校教育法33条(及びそれを準要する条項)により「文部科学大臣が定める」とされている。この法律の根拠に基づいて、学校教育法施行規則(省令)や学習指導要領(告示)の形式で文部科学大臣が教育課程の国家基準を定めている。
教育勅語復活への狼煙
2018年度から小学校で実施されている「特別の教科 道徳」も、2015年3月の学校教育法施行規則の改正によって従来の「道徳の時間」を「教科化」したものだ。道徳の教科化は2019年度から中学校でも始まる。
「道徳の教科化」は戦前回帰勢力が永らく求めてきた教育政策である。なぜ彼等は「教科」にこだわったのか。それは、戦前の道徳教育が「筆頭の教科」とされた「修身科」で行われていたからだ。
現在、学校の教育課程には「教科」と教科ではない「領域」とがある。特別活動や総合的な学習は教科ではない領域だ。1958年、岸信介内閣の松永文部大臣の下で導入された「特設道徳」も教科ではなかった。
「教科」と言えるためには、@専門の教員免許状、A検定教科書使用義務、B児童生徒の学習成果の評価、これら3つがそろっていなければならないが、従来の道徳の時間については、専門の免許状を要さず、検定教科書も存在せず、児童生徒の評価も行われていなかった。
道徳の「教科化」を求められた文部科学省は、中央教育審議会で議論した結果、国語や数学と同じような「教科」にするのではなく、「特別の教科」だということにした。つまり、教科そのものにはしていないのだ。
専門の免許状は設定しない。児童生徒の評価はするが、数値による評価はしない。児童生徒同士を比較するような相対評価もしない。できる評価は「個人内評価」。つまり、一人ひとりの児童生徒が学ぶ前と学んだ後とで、どのように成長したかを記述式で評価するという方法だけだ、ということになった。一方、検定教科書使用義務は、教科と同じく課されることになった。
「特別の教科 道徳」について、文部科学省は「学習指導要領解説」の中で、「特定の価値観を児童に押し付けたり、主体性をもたず言われるままに行動するよう指導したりすることは、道徳教育の目指す方向の対極にある」「多様な価値観の、時に対立がある場合を含めて、自立した個人として、また、国家・社会の形成者としてよりよく生きるために道徳的価値に向き合い、いかに生きるべきかを自ら考え続ける姿勢こそ道徳教育が求めるものである」「答えが一つではない道徳的な課題を一人一人の児童が自分自身の問題と捉え、向き合う『考える道徳』、『議論する道徳』へと転換を図る」と説明している。
また、「多様な価値観の存在を前提にして、他者と対話したり協働したりしながら、物事を多面的・多角的に考えること」を求め、「価値観を一方的に教え込んだり……した授業展開とならないよう」にも求めている。「二つの概念が互いに矛盾、対立しているという二項対立の物事を取り扱う」工夫や「迷いや葛藤を大切にした展開」「批判的な見方を含めた展開」などの工夫も求めている。
このような文部科学省の姿勢は、個人の尊厳から出発する憲法の精神に合致し、思想・良心の自由とも矛盾しないと考えられる。「自ら学び、自ら考える力を育てる」という30年来の方針の線に沿っており、今回の学習指導要領改訂が目指すアクティブ・ラーニング(主体的、対話的で深い学び)の方向性にも合致する。
もはや教育ではなく洗脳
ところが、実際の検定教科書を見てみると、「考え、議論する道徳」のための教材だとは到底考えられないような読み物であふれている。
一例を挙げれば、2018年4月から小学校で使われている8社の教科書のうちの1つ、教育出版の教科書「小学どうとく」には、「れいぎ正しいあいさつ」と題する教材が載っている。「つぎのうち、れいぎ正しいあいさつはどのあいさつでしょうか。」と設問を掲げ、3つの選択肢が示されている。
(1)「おはようございます。」といいながらおじぎをする。 (2)「おはようございます。」といったあとでおじぎをする。 (3)おじぎをしたあと「おはようございます。」という。 |
正解は2、1と3は不正解、だそうだ。
この教科書の監修に当った貝塚茂樹武蔵野大学教授によれば、正解の2は「語先後礼」という礼儀の基本に沿ったものなのだそうだ。私は60年以上日本の国で生きてきたが、「語先後礼」という言葉は初めて聞いた。
貝塚氏によれば、このことは明治時代に文部省が刊行した「小学校作法教授要綱」以来の基本なのだそうだ。しかし、あいさつの仕方について「これが正解だ」と教えることは、子どもたちを1つの型にはめ込む指導であり、子どもたちの主体性を育てるどころか、それを阻害してしまうことになるだろう。文部科学省が求める「考え、議論する道徳」とは正反対の教材だと言わざるをえない。
ちなみに、中央教育審議会の専門委員を務め、文部科学省の「道徳教育の充実に関する懇談会」の委員でもあった貝塚氏は、日本教育再生機構(2006年に「新しい歴史教科書をつくる会」から分かれて発足した団体)の理事を務めるなど、日本会議系といわれる学者だ。
貝塚氏は、「考えたり、議論するという過程を経なければ、自分の問題として道徳的価値を自覚し、内面化できない」(『特別の教科道徳Q&A』ミネルヴァ書房、2016)と言うが、彼が言う「考え、議論する道徳」は、それ「自体が目的なのではなく、道徳的諸価値を“自覚”するための方法である」(『「考え、議論する道徳」を実現する!』図書文化、2017)と言う。
彼の論においては、道徳的価値は絶対的なものとして子どもたちの「外」にあり、それを「考え、議論する」という方法によって「自覚」させ「内面化」させることが道徳教育なのだということになる。「考え、議論する」過程を経ることにより、子どもたちは外から注入される価値を、あたかも自ら見いだした価値であるかのように思い込む。
これは、単なる教え込みよりもさらに巧妙な教化であり、洗脳といっても過言ではない。
教育出版などいくつかの教科書では、子どもたちに個々の徳目に沿った自己評価をさせている。この「自己評価」も外在的な価値を子どもたちが「内面化」する効果的な手段になるだろう。
「絶対的な価値」を「内面化」した子どもは、その価値観を他者にも押し付けるようになるに違いない。そのような子どもが多数を占めるに至ったとき、その価値観に納得できない少数者は否定され、排除され、敵視される危険にさらされるだろう。
「考え、議論する道徳」がこのような考えの下に行われた場合、それは徳目の注入方法として単なる「刷り込み」以上に強力な方法になる。それよりはまだ個々の徳目を「教師が抱く正解」として認知する「いい子」になるほうがましである。
また、貝塚氏の論に拠れば、「道徳の上にさまざまな学問・科学が乗っている」のだという。道徳を基盤にして哲学、政治、経済、科学、文学などが成り立つというのだ。これは国語、理科、社会などすべての教科が道徳を基にして教えられなければならないということであり、修身科を「筆頭の教科」と位置付けていた戦前の教育課程の考え方を復活させるものだと評価できよう。
徳目の教化が全教育課程を覆い尽くすというのだ。歴史教育は愛国心教育の上に行わなければならないということになる。これでは科学的思考や批判的精神はまったく育てられないだろう。
血統を重んじる姿勢が強まっている
道徳の教科書は、一つひとつの徳目を教化する内容になっているが、それは学習指導要領が徳目を列挙するものになっているからだ。
道徳の内容項目(徳目)は、小学校1・2年で19個、3・4年で20個、5・6年で22個、中学校で22個となっている。学習指導要領は、これらの「各学年段階の内容項目について、相当する各学年において全て取り上げることとする」ことを求めており、各検定教科書もこれらの徳目を一つひとつ追う形式になっている。
学習指導要領がこのような「徳目主義」の構成をとっているのは、1958年に道徳の時間が創設されて以来のことであり、歴代保守政権の道徳観を反映しているものだと言える。
道徳の学習指導要領においては、「個人の尊厳」や個人の「自由」「権利」の扱いが極めて小さいのに対し、「家族」「学校」「郷土」「国」という集団への帰属意識や「節度」「礼儀」「規則」「公共の精神」「国を愛する心」など、集団を維持するための規範はずらりと並べられている。
国への帰属意識については、「我が国や郷土の伝統と文化を大切にし、先人の努力を知り、国や郷土を愛する心を持つこと」「他国の人々や文化について理解し、日本人としての自覚を持って国際親善に努めること」と記述されている(小学校5・6年)。
法を守ることについては、「法やきまりの意義を理解した上で進んでそれらを守り、自他の権利を大切にし、義務を果たすこと」とされている。1958年版では「自分たちで作るきまりの意義を理解し、進んでこれを守る」とされていたのだが、現在は「自分たちで作る」という文言が消え、子どもたちはきまりを作る主体ではなく、きまりを守らされるだけの客体となってしまっている。
「家族」については、1958年版では「家族の人々を敬愛し、よい家庭を作りあげようとする」となっていたが、2015年版では「父母、祖父母を敬愛し、家族の幸せを求めて、進んで役に立つことをすること」と記述が変わっている。「敬愛」の対象が「家族」から「父母、祖父母」に絞られ、直系尊属という縦の血統を重視する姿勢が強まっている。
さらに「生命の尊さ」という徳目の中でも「祖先から祖父母、父母、そして自分、さらに、自分から子供、孫へと受けつがれていく生命のつながり」に言及しており、縦の血統を重んじる道徳観が打ち出されている。
このように学習指導要領に列挙される徳目を見ると、個人の尊厳や自由の価値についてほとんど触れられていない。また、地球規模の課題に国境を越えて取り組もうとする姿勢、すなわち地球市民意識のようなものもまったく現れていない。私はこれを「個と地球の欠如」と呼んでいる。
重視されているのは「我慢する」「わがままを言わない」「自己抑制・自己犠牲を厭わない」「国を愛する」「日本人としての自覚を持つ」「法やきまりを守る」「父母、祖父母、祖先を敬う」といった徳目ばかりである。
個人や自由の価値には触れず、自己抑制や自己犠牲を美化し、国家や全体への奉仕を強調する道徳は、国家主義、全体主義へと子どもたちの精神を追い込むものになるだろう。
こうして見ると、学習指導要領道徳編はすでにかなり教育勅語に近いものになっており、教育勅語に代わる国民道徳を定めるものとして機能していることがわかる。
自己抑制は「恭倹(きょうけん)己(おの)レヲ持シ」、自己犠牲と国家への奉仕は「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ」に表されている。父母、祖父母への敬愛は「父母ニ孝ニ」、教育勅語の重要な柱である「孝」を意味するものだ。自分の命につながる祖先を敬うことは「爾祖先ノ遺風ヲ顕彰スル」という徳目として勅語に記されている。
しかし、教育勅語を復活させようとする立場から見れば、現在の学習指導要領には1つ重要な徳目が抜けている。それは「忠」、すなわち天皇に対する敬愛である。
道徳の教科化はやっぱり問題がある
実は「天皇への敬愛」はすでに学習指導要領に書かれている。だが、それは道徳ではなく社会科の中でだ。
小学校学習指導要領では、第6学年の社会科で憲法について学ぶことになっているが、その「内容」として「国民としての権利及び義務」などと並んで「天皇の地位」が特記されており、その「内容の取扱い」として「歴史に関する学習との関連も図りながら、天皇についての理解と敬愛の念を深めるようにすること」とされているのである。
日本国憲法第1条は「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。」と定めているが、この条文からは国民が「天皇への敬愛の念」を持てという規範は導かれない。
だから、そもそもこのような記述が、学校における教育課程の基準として国が定める学習指導要領に存在すること自体がおかしいのだが、社会科の中で記述される限りは、憲法学習の一環としての学習に留まる。
ところが、これを道徳の中に記述するとなると、話はまったく別である。
私は、日本会議のような戦前回帰を志向する勢力がさらに力を持つようになると、道徳の学習指導要領に「天皇に対する敬愛の念を深めよ」という徳目を加えよという声が高まるだろうと思う。その際には、「すでに社会科に記述されているのだから、それを道徳科に移すだけのことであって、何ら問題はない」という理屈が用いられるだろう。
道徳は社会科と異なり、子どもたちの思想・良心の自由に直接関わる。天皇を敬愛するか否か、天皇制を望ましいと考えるか否かは、専ら個人の内心の自由に属することである。日本国憲法第1条について学ぶということとは、本質的に次元が異なる。
天皇を敬愛すべきかどうかを児童生徒が議論すれば良い、という論は確かに成り立つが、そのような授業ができる教師がどれだけ存在するだろうか。
しかし、そのような授業ができる教師がどれだけ存在するだろうか。
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— ステイメン@打倒!凶人安倍! (@deskain) 2019年1月26日
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安倍政権教育による洗脳教育と日本国の後退。個の尊重と協調路線の世界観がなければ何れは崩壊や排除か待っている。 我慢と自己犠牲を美化する教育勅語のヤバさ https://t.co/9s9DI9wY7z #スマートニュース
— ひで (@hide15820922) 2019年1月25日
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— 宮田 英実 (@kasikokuikiyou) 2019年1月26日
個人的には教育勅語に反対。いまでも機能していない、形だけの民主主義が、形のある軍国主義に変わる気がする。
道徳は評価するものでもない。全体主義・同調圧力の強化になるだけ。いじめが増えるだけです。
— syu (@syu14704944) 2019年1月26日
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— こんなげっ歯類のハム (@RatHamHam) 2019年1月27日
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— 公爵ツボタリアヌス16世 (@rikutsubotyan) 2019年1月26日
法と家族の規定はよくないと思う
一方で教育勅語自体は問題ないと思う、
我慢と自己犠牲を美化する、なぜ美化するのか?の目的は大事。権利だけ主張して義務を捨ててはいけない
安倍政権や日本会議は「全体主義」を目指している #日本会議 #教育勅語 #ネトウヨ #安倍晋三 #産経新聞 #産経
— W-ドゥブルベ (@waterloo41) 2019年1月27日
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これが復活したら最悪のシナリオが動く‼️ https://t.co/c1pRG1qMlR
— THE CITIZEN. (@kokorogy) 2019年1月27日
🌻日本会議が目論む「国家神道」の復活。安倍政権は天皇のために戦争できる国作りを目指してますhttps://t.co/5P35H90qJR
— ぴぃちく (@bZAYZjUIh6MLXLg) 2019年1月26日
森友学園で戦争兵士を育てようとしてた
体罰と虐待で愛を持たない人格作り
カルト生長の家=日本会議
https://t.co/ERIkx6Edbo
「道徳」はもはや子供たちの洗脳 https://t.co/oCoFO0hWea #子供
— 楽天Infoseekニュース (@Infoseeknews) 2019年1月26日
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