「安倍は日本人に嫌われている」を証明する 日本人は「過剰に責任を取りたがるメンタリティ」を持っている。 それは日本語のあり方から証明される。 たとえば借りている間に壊れてしまったゲーム機を友人に返す時、我々はふつう「ごめん、壊しちゃった」と言う。もし「借りている間に壊れたよ」と言ったら、友人との関係にヒビが入るだろう。一方、英語では“It broke”と言う。もし“I broke it”と言ったら、意図的に壊したことになってしまう。「壊れた」に比して「壊した」は、結果について主語に因果・責任・意図などがあることを表すが、この場合表しているのは「責任」である。同じ事態について、日本語話者は英語話者が表さない自らの責任を進んで認める表現を使う。これは日本語話者が(英語話者から見れば)「過剰に」責任を取ろうとするメンタリティを持っているという一例になるだろう。 我々の使う日本語は明治期に大改造を受けているが、似たようなメンタリティはそれ以前の日本語にも表れている。いわゆる「武者言葉」には、現在の我々が受身で表現するような事態を使役(許容使役構文)で表現する。 ・使役構文による責任論法 担当患者の死を「患者に死なれてしまった」と表現する医師よりも「患者を死なせてしまった」と表現する医師の方がより責任を感じていると言えるのと同じように、同輩の死について「監物太郎、討たせ候ひぬ」と報告する武士は「監物太郎、討たれ候ひぬ」と言う武士よりも事態に責任を感じているということだ。平安貴族が被害者ぶりたがるのと対照的に、武士は進んで責任を取る姿勢を見せることを美徳とする。日本の庶民の美意識にはそういう底流が厳然としてあるのだ。 こんなエピソードがある。東京大空襲の後、昭和天皇が焼け野原となった東京に視察に出た。その際、焼け出された庶民の一人が陛下の前に平伏しこう言上したという。 「陛下、何もかも焼いてしまい、申し訳ありません!」 この人は焼夷弾を「落とした」方でなく、「落とされた」方である。「焼いた」方ではなく「焼かれた」方である。「加害者」ではなく「被害者」である。にも関わらずこう言ってしまう。又聞きの又聞きなので真偽不明のエピソードだが、その真偽に関わらず、私はこのエピソードをとても日本人らしいと思う。我々がそういう民族だからこそ、日本語は現在こうなっているのだ。 上記から、日本人は「責任逃れをする者」を醜く思う姿勢が強いと言えるだろう。 ゆえに、安倍政権がずっと高い支持率を保ち続けているなんてのは、絶対にありえないことだ。第二次安倍政権になってから一度も責任を取ったことがないからだ。そもそも第一次安倍政権が崩壊した時の態度も見苦しいものだった。参院選で負けたのに引責辞任しようとせず、「小沢さんが会ってくれない」などと責任転嫁しつつ首相を続けようとし、挙句に「病気」を言い訳に辞めた。あの顛末を見てもう一度安倍を首相にしたいと考える普通の日本人などいない。それが独断でないことは、上の論証から明らかだと思う。第二次安倍政権の高止まりする支持率がまったくの嘘っぱちであると私が確信する所以だ。政治に詳しい者が安倍を支持するのは(エサでも貰ってない限り)理屈に合わないが、政治に詳しくない庶民が安倍を支持するのも、実は同じくらいありえないのだ。 またこの流れでもう一つ。本論は「日本人は過剰に責任を取りたがるメンタリティがある」という話だが、一方で、日本人には「先に謝ることによって責任を回避する」というメンタリティも恐らくある。 ・どうぞどうぞ 真っ先に謝る人は向こうも謝ることを期待しているし、進んで責任を果たそうと手を挙げる人は他の者も「お前にばかりいい格好させねえぜ」的な反応を期待するものだ。 だから「自己責任」を強調する政府を、日本人は好まない。 進んで責任を負うことが庶民の美徳なら、庶民の責任をできる限り軽くするのが政府の美徳だからだ。「まあ我々が悪いんでしょうけどねえ」と言った時に「その通り、あなたが悪い」「自己責任だ」と返してくる人はこちらの美徳にただ乗りしているように見える。善悪以前に、日本人として調子が狂うのである。(日本人として調子の狂うことばかりしているから、日本人じゃないんじゃないかという疑念を持たれるのだ) 小泉もひどかったが、安倍はそれ以上に国民に「自己責任」を押し付ける。 公約と180度違うことをやっても、ぶち上げた目標を達成できなくても、デモを無視して強行採決しても、明白な権力犯罪がばれても、小学生並みの頭の中身がばれても、なお意地汚く地位にしがみつき続ける潔さのかけらもない態度と相俟って、こう断言できる。 「安倍は日本人に嫌われている」 「日本人の誰が」でも「日本人のうち何人が」でもない。日本語が示す、いわば「日本人のイデア」が安倍のような人物を嫌っているのだ。 (了)
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