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30年前に「ベルリンの壁」が崩壊した意味を考える(1/2)
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2019.11.10 櫻井ジャーナル
今から30年前の1989年11月9日、東ドイツ政府は旅行や国外移住の大幅な規制緩和を発表し、「ベルリンの壁の崩壊」が始まった。当時、東ドイツには約38万人のソ連軍が駐留していたのだが、ミハイル・ゴルバチョフの指示で動いていない。 この壁は東ベルリンから西ベルリンへの人口流出が止まらなかったからだとされているが、出て行く人びとは東ドイツの体制に対する反発心の強い人のはずで、壁を作った理由にしては弱いのではないだろうか。 キューバ革命の際にもベトナム戦争でアメリカが敗北した際にも逃げ出した人は少なくない。キューバの革命政府は不安定要因が消えるということから容認していたようだ。 それに対し、アメリカは密入国を防ぐため、メキシコとの国境沿いに壁を建設してきた。ドナルド・トランプ米大統領はそれを増強する方針を打ち出している。 いわゆる「ベルリンの壁」が建設され始めたのは1961年8月のこと。その背景にはイギリスやアメリカの戦略がある。本ブログでは何度か書いたことだが、第2次世界大戦が勃発する前からウォール街、つまりアメリカの金融資本はファシズムと関係が深く、イギリスのウィンストン・チャーチルは反ソ連感情が強かった。 大戦中、ドイツによるソ連への攻撃を両国は傍観、動き始めるのはドイツ軍がスターリングラードの戦いで壊滅、ドイツの将兵が降伏した1943年1月の後のこと。米英両国はその年の5月にワシントンDCで会談、7月に両国軍はシチリア島に上陸している。その際、アメリカ軍は犯罪組織の協力を受けた。 ソ連を積極的に助けなかったフランクリン・ルーズベルト大統領だが、大戦後をにらみ、ソ連を敵視していなかった。危険視していたのはファシスト。 そのファシストへの支持を公言していたウォール街の住人たちは1933年から34年にかけてニューディール派を排除するためのクーデターを計画していた。この計画は本ブログで何度も取り上げたように、海兵隊の退役少将で軍に大きな影響力を持っていたスメドリー・バトラーのカウンター・クーデター宣言で阻止され、その内容は彼の議会における証言として記録に残っている。 戦争が終わった後、ルーズベルト大統領はファシストを支援していた勢力を摘発する可能性が高かったのだが、ルーズベルトと意見が同じで副大統領を務めていたヘンリー・ウォーレスは1944年4月、アメリカをファシズムの脅威が襲うピークは大戦の後だとニューヨーク・タイムズ紙で指摘している。大戦後にそのアメリカでは「赤狩り」が始まり、ファシズムを敵視していた人びとが粛清されていく。 ルーズベルトはドイツが降伏する直前、1945年4月12日に急死、アメリカ政府はウォール街が主導権を奪還した。ドイツ降伏の直後にはチャーチル英首相がJPS(合同作戦本部)に対してソ連を奇襲攻撃する作戦を作るように命令、5月22日に提出される。アンシンカブル作戦だ。 7月1日にアメリカ軍64師団、イギリス連邦軍35師団、ポーランド軍4師団、そしてドイツ軍10師団でソ連を奇襲攻撃することになっていたのだが、これは参謀本部が計画を拒否したので実行されていない。 チャーチルは7月26日に首相を辞めるが、その10日前にアメリカのニューメキシコ州でプルトニウム原爆の爆発実験に成功している。核戦争の時代に入ったわけだ。(つづく) |
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