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2019年10月24日
ルワンダの大虐殺後に加害者側を援助し、報道したメディアと そのフェイクに興味を示さなかった世間の不都合な真実
【橘玲の世界投資見聞録】
今年5月にはじめてルワンダを訪れた。「百聞は一見に如かず」というが、東アフリカのこの小さな国は現在、「アフリカの奇跡」「アフリカのシンガポール」と呼ばれる驚異的な経済発展をつづけており、高層オフィスビルや5つ星ホテル、高級レストランなどが次々とつくられている。
なにより驚いたのは治安のよさで、地元の中産階級が暮らす住宅街を若い白人女性がごくふつうに歩いている。アフリカを知っているひとなら、これがどれほどありえないことかわかるだろう。
南アフリカのヨハネスブルクなどが典型だが、高級住宅地は高いコンクリートの塀と電流の流れる有刺鉄線で囲まれて、中の様子を伺い知ることはできない。富裕層はちょっとした外出でも車を使い、「散策」できるのは外の世界からかんぜんに隔離された高級ショッピングモールのような場所だけ、というのが当たり前なのだ。
[参考記事]
●ルワンダは治安よく気温も快適で都市化された"アフリカのシンガポール"だったが観光スポットは少ない
ルワンダと聞いて多くのひとが思い浮かべるのが1994年代のジェノサイドであり、映画『ホテル・ルワンダ』だろう。大きな困難を体験した国が、わずか四半世紀でなぜここまで発展できたのか。そんな興味でこの国の歴史をすこし調べてみた。
ルワンダ、キガリの「ジェノサイド・メモリアル」に刻まれた犠牲者の名前 (Photo:?Alt Invest Com)
「フツ族」と「ツチ族」はどう違う
ルワンダの悲劇を説明するには、この国を構成する「フツ族」と「ツチ族」という2つの民族から始めなければならい。とはいえ、これはそうかんたんなことではない。この地域がヨーロッパの考古学者や歴史家、人類学者によって研究されるようになったのは19世紀になってからで、民族の起源を示すような史料はきわめて少ないのだ。
約1万年前、最後の氷河期が終わるとアフリカの高地の氷が溶け、ヒトが住めるようになった。最初にこの土地を訪れたのは狩猟・採集で暮らすピグミー属のトゥワ族で、いまもルワンダで伝統的社会を維持しているが、その割合は1%程度しかいない。
トゥワ族のあとに中央アフリカから大湖地域に移住してきたのがバントゥー系の民族で、森を焼いて農業を始めた。バントゥーはアフリカ最大の民族グループで、ルワンダでは「フツ」と呼ばれるようになった。
ここから「民族の起源」は大きく2つの説に分かれる。「フツ=ツチ同族説」と「ツチ移住説」だ。
「フツ=ツチ同族説」では、バントゥー系の移住者のなかで農業をつづけた者がフツ族になり、牧畜に移行した者がツチ族になったとする。遺伝子解析ではフツとツチは父方に共通の遺伝的変異を持っていることがわかっており、この説の有力な証拠とされる。
同族だったバントゥー系が異なる民族として対立するようになったのは最近のことで、19世紀末から1961年までのドイツ、ベルギー統治時代に、「分断して統治せよ」の原則にのっとって、白人官僚たちが少数派のツチを「支配民族」として優遇し、多数派のフツ(従属民族)を効率的に支配しようとしたからだとされる。
「ツチ移住説」では、現在のソマリアなどアフリカの紅海沿岸、あるいは北方のエチオピア高原から牧畜民族が牛とともに移動してきたとする。その祖先はアラビア半島南部から紅海を渡り、アフリカに牧畜をもたらしたのだ。
ヒトは成長すると牛乳などに含まれる乳糖(ラクトース)を分解する消化酵素ラクターゼを失うが、牧畜の開始によって乳糖への耐性を持ち、成人しても家畜の乳を飲みチーズを食べられる遺伝的変異が広まった。牧畜民族であるツチ族は4人のうち3人がこの乳糖耐性を持つが、農耕民族であるフツ族は3人に1人だ。両民族にははっきりとした遺伝的差異があるが、フツ族の乳糖耐性は農耕民のなかではきわだって高く、フツとツチのあいだで遺伝子の混交が進んだことがわかる。現在のフツとツチが共通の遺伝的祖先をもっているのはこのためだ、とする。
さらに近年の遺伝子解析では、15世紀に大湖地域の牧畜民族が急激に増えたとされる。この頃、ルワンダにはツチとフツの小国家が並立し、その後、牧畜民のツチの王が農耕民のフツを支配する「ルワンダ王国」へと統一されたのだ――。
こうした論争は、インドにおいて、カーストによる差別が古来のものか、イギリスの統治によって人為的につくられてものなのかが「歴史問題」になるのとよく似ている。どちらも「国民/国家(ネイションステイト)」のアイデンティティにかかわる話だからこそやっかいなのだろう。
フツとツチでは外見が異なるとされる。典型的なツチはルワンダ大統領ポール・カガメで、その写真をネットで検索してもらえばわかるが、長身で棒のように痩せており、たしかにエチオピア人やソマリア人(ソマリ族)によく似ている。ルワンダでは、背が高く、首が長く、鼻筋の通ったツチの女性は美しいとされており、金持ちのフツの男性はツチの女性を妻に娶った。
ルワンダにおける民族比率はフツが85%、ツチが15%だ。牧畜を行なうツチは農耕民のフツよりもゆたかで、ルワンダ王国の時代は支配民族であり、植民地時代は白人に重用された。こうした民族的・歴史的経緯、さらには外見のちがいがルワンダの社会を不穏なものにした。
ベルギーの植民地政府は住民の顔を測って「ツチ」と「フツ」を区別した (Photo:?Alt Invest Com)
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映画『ホテル・ルワンダ』でも描かれたフツ族による虐殺が始まった
ルワンダ王国では1896年の王の死によってツチ貴族の内紛が起こり、それに乗じたドイツによって保護領に組み込まれた。第一次世界大戦の敗北でドイツがアフリカの植民地を手放すと、現在のブルンジとともにベルギーの委任統治に置かれ、公用語はフランス語になった。
第二次世界大戦後の「民族独立」の熱気のなかで1959年にフツ族による反乱が起こり、混乱のなかでツチ族への大規模な虐殺に発展した。その犠牲者は2万人から10万人とされ、15万人におよぶツチ族がウガンダ、ケニア、ブルンジ、コンゴ民主共和国など近隣諸国に難民となって逃れた。
現ルワンダ大統領のポール・カガメもこのときの難民で、幼少期を難民キャンプで過ごしたのち、10代でウガンダ反政府軍に加わった。ウガンダはイディ・アミンの独裁政治で大混乱に陥っており、タンザニアとの戦争に敗れてアミンが失脚したあとに内戦が勃発した。このウガンダ内戦を制して1986年に大統領に就任したのが国民抵抗運動のヨウェリ・ムセベニだが、新政府軍の2割はルワンダ出身者が占めており、カガメは軍諜報部長の要職にあった。
ウガンダで政権を獲得すると、次にカガメはルワンダ愛国戦線(RPF/Rwandan Patriotic Front)を結成し、ルワンダを「解放」する武装闘争に取り掛かった。1990年10月、RPFの軍隊がルワンダ北部に進行すると、ルワンダ国内のフツとツチの関係は一気に緊張した。
1994年4月6日、ルワンダのハビャリマナ大統領とブルンジのンタリャミラ大統領が搭乗する飛行機が、キガリ国際空港への着陸寸前にミサイル攻撃を受けて撃墜され、両大統領は死亡した。この攻撃が誰によって行なわれたのかは現在でも不明のままだが、これをきっかけにラジオは「ゴキブリ(ツチ)を駆除せよ」と連呼し、インテラハムウェと呼ばれる民兵がフツの男たちを組織して、マチェーテ(山刀)を手にフツの穏健派やツチ族を片っ端から殺しはじめた。
ジェノサイドは首都キガリやRPFに脅かされる北西部から始まり、その後、全国に拡大した。このジェノサイドについては、日本でも公開された映画『ホテル・ルワンダ』や『ルワンダの涙』で描かれている。
ルワンダ国民のほとんどは敬虔なキリスト教徒で、1959年のルワンダ革命では教会に逃れたツチは虐殺を免れた。そのため1994年も、ツチの住民たちは家族を連れて近くの教会に避難した。
だが今回は神の威光はなんに役にも立たず、男たちはマチェーテを手に教会になだれ込み、女子どもまで皆殺しにした。南部のニャルブイェではフツ族の市長が暴徒を率いてブルドーザーで教会を破壊し、4月15日と16日の2日間で2万人を虐殺した。キガリの南30キロのほどのところにあるニャマタでも、4月14日からの3日間で教会に集まった5000人の避難民が虐殺され、その後、5月14日までのあいだにツチ系住民およそ5万9000人のうち5万人が殺された。避難民になんの保護も提供できなかったのは学校や病院も同じで、南東部のムランビでは2000人を超えるツチ族が病院に集まったが、4月16日に暴徒によって皆殺しにされた。
マチェーテ(山刀)を手にするフツの男 (Photo:?Alt Invest Com)
100日間で730万人のルワンダ国民のうち117万4000人が殺害された
ムランビの虐殺は、アメリカのジャーナリスト、フィリップ・ゴーレイヴィチが『ジェノサイドの丘 ルワンダ虐殺の隠された真実』(WAVE出版)で詳細を述べている。警官たちから「明日の朝に攻撃がある」と通告されたあと、病院にいた牧師たちは教区議長のンタキルチマナ牧師に手紙を書いた。
その手紙は、「我々は明日、家族と共に殺されるだろうと聞いたことをお伝えいたします」と述べ、「今打ち壊されようとしている会衆の指導者」として市長との仲介を懇願するものだった。この手紙に対するンタキルチマナ牧師の返答は「おまえたちの問題にはもう解決策が見つかっている。おまえたちは死なねばならない(あるいは「おまえたちは消えねばならない。主はおまえたちを求めておられない」)だった。――ゴーレイヴィチの原書タイトル“We wish to inform that we will be killed with our families”はこの手紙の文面から採られている。
ジェノサイド後、ンタキルチマナ牧師はアメリカ、テキサスで心臓麻酔医をしている息子のもとに逃れた。タンザニアのアルーシャに置かれた国連ルワンダ国際裁判所から3件のジェノサイドと3件の人道に対する罪で起訴されたンタキルチマナ牧師を、ゴーレイヴィチは息子の自宅でインタビューすることに成功した。
牧師は、「すべて100パーセントまるっきり嘘だ。わたしは誰も殺していない。ヒトを殺せと命令したことなどない。わたしにそんなことはできない」と述べた。「わたしはこれまでもずっと、なによりもツチ族を助けようとしてきた」が、なぜかツチ族に感謝されず、あまつさえ告発までされている。「もはや正義などないかのようだ」というのだ。
インタビューの翌日、牧師はメキシコに向けて車を走らせているところを、尾行していたFBI捜査官によって拘束された。だが弁護士が「牧師を国際法廷に送致するのは米国憲法の精神にもとる」と主張し、連邦地方裁判所がこれを認めたため、14カ月刑務所に収監されたあと付帯条件なしで釈放された。ジェノサイドの罪で訴追された牧師の逮捕と裁判は、アメリカ国内でなんの話題にもならなかった。
ルワンダ全土でジェノサイドの大混乱が起きると、ルワンダ愛国戦線がツチ系住民の保護を名目にウガンダから進軍し、7月19日に全土を掌握した。この100日間のあいだに、730万人のルワンダ国民のうちツチを中心に117万4000人が殺害されたとされる。愛知県や埼玉県ほどの人口の国で、1日におよそ1万人が死んでいったことになる。
「ジェノサイド・メモリアル」に安置された犠牲者の頭蓋骨 (Photo:?Alt Invest Com)
加害者側の難民キャンプを人道支援し、報道する欧米NGOとメディア
ルワンダ愛国戦線が政権を樹立したことで虐殺は終わったが、その後、事態は奇妙な展開を見せることになる。フツ系の住民が報復をおそれ、大挙して西のコンゴ民主共和国に向けて逃げはじめたのだ。
ルワンダとコンゴ民主共和国とのあいだにはキブ湖があり、湖の北端、国境を越えたすぐのところにゴマの町があった。ここに、着の身着のままで逃げ延びたフツ系ルワンダ人の巨大な難民キャンプができたのだ。
ルワンダ虐殺を報じる欧米のメディアは、マチェーテで惨殺された死体の山のあとに、家財道具を抱えて国境へと向かう長い列を映した。それを見た視聴者は、当然のことながら、虐殺の生存者が難民キャンプに逃げ延びたのだと思った。だがそこにいたのは、ジェノサイドを行なった「加害者」だった。
欧米の人道支援団体が、この誤解をさらに煽ることになった。ゴマの難民キャンプには多くの報道陣が集まり、なおかつ滑走路があった。ルワンダ国内でツチの犠牲者を支援するより(この活動はほとんど報道されない)、難民キャンプにいるのが「殺戮者」だということを隠して“人道支援”した方が(こちらは大きく報道される)、寄付を集めるのにずっと便利だったのだ。
欧米のメディアも、いまさらこのとんでもない“フェイクニュース”を釈明することができなくなり、人道支援団体の“ウソ”に加担した。ゴーレイヴィチなど一部のジャーナリストが偏った報道に抗議したが、それらはすべて黙殺された。こうして“人道”の名の下に、犠牲者を放置してひたすら「犯罪者集団」の世話をすることになったのだ。
[参考記事]
●”悲惨な現場”を求めるNGOの活動がアフリカで招いた不都合な真実
ちなみにこの難民キャンプには、緒方貞子国連難民高等弁務官から要請を受け、日本も「ルワンダ難民救援派遣」として自衛隊を派遣している。
ジェノサイド後、西へと逃れるフツ族の難民 (Photo:?Alt Invest Com)
加害者側を支援したフランスの不都合な真実
ルワンダの虐殺に関しては、それ以外にも「不都合な事実」がいくつもある。
フランスはフツ系のハビャリマナ政権を公然と支援したが、これはウガンダが旧イギリス植民地で英語圏だったからだ。カガメをはじめとするルワンダ愛国戦線(RPF)のメンバーは、すべて英語ネイティヴだった。
フランスのアフリカ政策は一貫して、フランス語圏の旧植民地(フランサフリック)の既得権を死守することだった。フランスから見ればRFAは、「英語帝国主義」による侵略の手先にすぎなかった。
ゴーレイヴィチは『ジェノサイドの丘』で次のように書いている。
1975年にフランスとルワンダのあいだで結ばれた軍事協定は、フランス軍がルワンダ人の戦闘、軍事訓練、警察行動に参加することをはっきり禁じていた。だがミッテラン大統領はハビャリマナの友人であり、ミッテランの息子、武器商人でありフランス外務省のアフリカ政策顧問をもつとめるジャン=クルストフもまた彼の友人だった(中略)。フランスはルワンダに大量の軍事物資を送り込み――1994年の殺戮までずっと――90年代の前半を通じてフランス軍兵士はルワンダ軍の外人部隊となり、航空管制やRPF捕虜の尋問から最前線の戦闘まですべてを指揮した。
ルワンダの虐殺が国際社会に報じられると、フランスはルワンダ南西部に部隊を展開し、RPFに追われるフツの難民(虐殺者)を「保護」した。そのことをルワンダ政府から批判されると、2006年には大統領機撃墜事件の容疑でカガメ大統領をはじめとするRPFの指導者9人に逮捕状を発行した。ルワンダはフランスとの外交関係を断絶し、サルコジ大統領が2010年にルワンダを訪問し、「フランスはジェノサイドの時に"誤り"を犯した」との認識を示したことでようやく国交が回復した(ただしフランスは謝罪はしていない)。
ジェノサイドによって荒廃した国家を建て直すという困難な事業に取り組むことになったポール・カガメがまずやったことは、フランス語を一掃し英語を公用語にすることだった。これはグローバル化する世界のなかで、国民が英語を話せる方がはるかに有利なことに気づいていたからだろうが、いまなお植民地主義的介入をあきらめないフランスへの「歴史問題」の清算でもあったのだろう。その結果、ルワンダでは小学校から授業が英語で行なわれ、キガリの街には英語の看板があふれ、駐車場の整理をしている若者まで英語で道を教えてくれる。
ルワンダは2009年にイギリス連邦に加盟したが、こちらは明らかにフランスへの意趣返しだろう。ちなみに、かつてはルワンダと同じくベルギーの植民地だったブルンジは現在もフランス語圏だが、急速に経済発展する「英語圏」のルワンダに比べて、いまでもアフリカでもっとも経済開発が遅れた最貧国のままだ。
右上の写真はハビャリマナ・ルワンダ大統領とミッテラン・フランス大統領 (Photo:?Alt Invest Com)
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国際社会(欧米先進国)による“アフリカ援助”とは何だったのか
国連はベルギー部隊を中心とする国際連合ルワンダ支援団 (UNAMIR)を1993年に首都キガリに派遣したが、94年4月の大統領機撃墜につづく混乱でベルギー軍部隊に10名の犠牲者が出ると、この中核部隊が撤退してしまった。
UNAMIRの司令官だったカナダのロメオ・ダレール少将は、94年1月11日、国連の平和維持活動本部宛に、ルワンダ軍高官からの機密情報として「(情報提供者の軍高官は)キガリ在住のすべてのツチ族をリストアップするよう命じられている。これはツチ族を皆殺しにするためではないかと思われる。情報提供者は例として、20分間で自分の配下だけで1000人のツチ族を殺せる、と述べた」との緊急のFAXを送った。
そしてダレールは、36時間以内に武器集積所の摘発に向かう意図があると述べたうえで、FAXにフランス語で「意志あるところに道は開ける。やろうぜ!」と書きつけた。
この時点でダレールは3カ月後に起こる悲劇を正確に予測し、それを阻止する覚悟を決めていた。だがニューヨークからの返事は「やめとこう」だった。
当時の国連平和維持活動の責任者はアフリカ出身で、その名をコフィ・アナンといった(ゴーレイヴィチ『ジェノサイドの丘』)。
だがさらに「不都合な事実」は、ジェノサイド後のルワンダが驚異的な経済成長を遂げたことだろう。
国連や欧米のリベラルな政治家や官僚にとって、「ジェノサイドに加担し、殺戮者を保護した」とのルワンダ政府の批判はとうてい受け入れられるものではなかった。そのため、アメリカはながらくジェノサイドの存在そのものを認めず、ゴマの難民キャンプを運営していた人道団体はルワンダ政府を「難民への加害者」と非難した。ルワンダには国際機関の援助も人道団体への支援もほとんどなかったが、それにもかかわらず「アフリカの奇跡」ともいわれる大きな成功を収めたのだ。
「だったら、これまでの国際社会(欧米先進国)による“アフリカ援助”とは何だったのか」は誰もが感じる疑問だろう。だが国際援助の専門家たちは、いまだにこの「納税者の正当な疑問」にこたえていない。
さらに不都合なのは、(私も含め)ほとんどの人間がルワンダで起きたことになんの興味もなかったことだ。無辜のひとびとが1日に1万人も殺されているのを放置したばかりか、人道支援団体は犠牲者と虐殺者を取り違え、メディアもそのウソを積極的に広めた。こんなことがなぜ起きたのだろうか。
そのこたえは、わざわざいう必要もないだろう。ジェノサイドが起きたのがアフリカで、殺されたのが「黒い肌」のひとびとだからだ。
リワンダ、キガリのジェノサイド・メモリアル (Photo:?Alt Invest Com)
橘 玲(たちばな あきら)
作家。2002年、金融小説『マネーロンダリング』(幻冬舎文庫)でデビュー。『お金持ちになれる黄金の羽根の拾い方』(幻冬舎)が30万部の大ヒット。著書に『「言ってはいけない?残酷すぎる真実』(新潮新書)、『国家破産はこわくない』(講談社+α文庫)、『幸福の「資本」論 -あなたの未来を決める「3つの資本」と「8つの人生パターン」』(ダイヤモンド社刊)、『橘玲の中国私論』の改訂文庫本『言ってはいけない中国の真実』(新潮文庫)、『もっと言ってはいけない』(新潮新書) など。最新刊は『上級国民/下級国民』(小学館新書)。
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2014年1月16日 橘玲
”悲惨な現場”を求めるNGOの活動がアフリカで招いた不都合な真実
[橘玲の世界投資見聞録]
?ほんとうは昨年末にアップしたかったのだが、遅ればせながら2013年に読んだ本のなかでもっとも印象に残ったリンダ・ポルマンの『クライシス・キャラバン』(東洋経済新報社)を紹介したい。
?著者はオランダのフリージャーナリストで、世界各地の紛争地帯で国連やNGO(非政府組織)の活動を取材している。前著『だから、国連はなにもできない』(アーティストハウス)は、ソマリア、ハイチ、ルワンダ、ボスニアなどの現場から、自国の利害と保身のために国連の安全保障理事会が機能不全に陥っている現状と、PKO(国連の平和維持活動)がなんの役にも立っていないばかりか、現地の状況をさらに悪化させているという実態を描いて大きな反響を呼んだ(安倍政権が唱える「積極的平和主義」を考えるうえでも参考になる)。『クライシス・キャラバン』では、「紛争地における人道援助の真実」という副題が示すように、NGOなどの援助活動がアフリカでどのような事態を招いているかを告発している。
民間人の四肢を切断する反政府組織
?アフリカ西部の大西洋岸に位置するシオラレオネはかつてのイギリス領で、首都フリータウンは、18世紀後半の奴隷廃止運動を背景に、解放された奴隷たちの定住地(自由の町)として開発された。その後はイギリス統治下で大学などの教育制度が整えられ、西アフリカの中心地として発展したが、1961年に独立してからは内戦とクーデターを繰り返すことになる。
?紛争の原因はダイヤモンド鉱山の利権で、貧弱な軍事力しか持たない政府は南アフリカの鉱山開発会社からPMC(民間軍事会社)の派遣を受け、反政府組織RUF(革命統一戦線)と衝突した。RUFを率いたアハメド・フォディ・サンコーはイスラム教徒で、リビアのカダフィ大佐のもとで軍事訓練を受け、ゲリラの支配下にある鉱山から産出したダイヤモンド(ブラッドダイヤモンド)で武器を購入し、1991年から8年間に及ぶ内戦に全土を巻き込んだ。
?RUFは拉致した子どもたちに麻薬と銃を与え、少年兵として戦闘に参加させたが、それと並んで世界を震撼させたのは民間人を襲撃して鉈で手足を切断したことだ。その惨劇は新聞や雑誌に写真入りで報道され、テレビニュースでも何度も放映されたから記憶に残っているひとも多いだろう。
?ところでRUFはなぜ、民間人の四肢を切断したのだろうか。
?ルワンダやボスニア・ヘルツェゴビナのような民族紛争では、敵対する民族を絶滅させようとする「民族浄化(エスニック・クレンジング)」が起こる。これは悲惨な出来事だが、人類史をひも解けばけっして珍しいことではない。旧約聖書を読めばわかるように、ヒトは紀元前の昔から集団を「俺たち」と「奴ら」に分け、「奴ら」を皆殺しにする蛮行をえんえんと繰り返してきた。
?伝統的社会の戦争では、敵の身体の一部を切断するという風習が広く知られている。だがその「身体の一部」とは首のことで、台湾や南太平洋の狩猟採集社会は“首刈り族”と呼ばれていたし、戦国時代の日本でも敵将の首を獲ることが最高の武勲とされていた。それに対して、敵の手や足を切断する風習はどのような伝統的社会でも知られてはいない。
?それではなぜ、アフリカの一部でだけ、それも20世紀末になって、手足の切断が始まったのだろうか。これは一般には、「農作業をできなくしてゲリラ組織に依存させるため」などと説明されるが、これではゲリラ組織の負担は重くなるばかりだ。奴隷として働かせるか、殺害して土地を奪うのならわかるが、四肢のない人間を生かしておいても経済的な利益はなにもないように思われる。
?リンダ・ポルマンは本書でこの謎を解き明かすのだが、その衝撃的な結論を紹介する前に、国際人道援助を行なうNGOとはどういうものかを説明しておく必要がある。
ルワンダ難民は虐殺した当事者たちだった
?1994年に起きたルワンダの虐殺では、多数派のフツ族によって少数派のツチ族が殺害され、100日という短期間にルワンダ国民の約2割、80万人が犠牲になった。第2次世界大戦以降で最悪の惨事のひとつとなったこの事件は、映画『ホテル・ルワンダ』や『ルワンダの涙』によって日本でも広く知られている。
?ルワンダからの難民が集まったもっとも有名なキャンプが、コンゴ民主共和国(当時のザイール)の国境、キブ湖の畔にあるゴマだ。ポルマンは事件直後、この難民キャンプを取材してなんともいいようのない違和感を覚えた。
?ルワンダ虐殺を報じるテレビニュースを観た欧米のひとびとは、鉈で惨殺された死体が道路脇に積み上げられ、川や湖を埋める映像に大きな衝撃を受けた。やがてそれは家財道具を抱えて国境へと逃げ延びるひとびとに変わり、次いでゴマの難民キャンプが大々的に報道された。この一連の流れを見れば、誰もが虐殺の対象となったツチ族のひとたちが難民となって隣国に逃れたと思うだろう(実際、そうして難民化したひとも多かった)。
?だが現実はもっと奇怪で複雑だった。
?フツ族とツチ族は宗主国だったベルギーが統治のために人工的に生み出した民族で、少数派のツチ族を支配民族として優遇したため1962年の独立前から両者の紛争は始まっていた。このときツチ族の一部が隣国のウガンダに逃れ、そこで軍事組織「ルワンダ愛国戦線(RPF)」を組織した。ルワンダでフツ族による虐殺が始まると、その混乱に乗じてRPFは国内に侵攻し、全土を制圧した。その結果、報復を恐れたフツ族の民衆が大挙して国境を越えて難民化することになったのだ。
ヨルダンのアンマン近郊にあるシリアからの難民のキャンプ??(Photo:cAlt Invest Com)
?欧米のひとびとがテレビで見たゴマの難民たちは、ルワンダでツチ族を虐殺した当事者たちだ。彼らが人力車などで運んできた「家財道具」は、皆殺しにしたツチ族の家から強奪したものだった。だがこうした事実はほとんど報じられず、「虐殺→難民→人道の危機」という構図に短絡化されることになる。ニュースの限られた時間では、ここで述べたような複雑な背景を説明できないからだ。視聴者は単純でわかりやすい話を求めているのだ。
?ゴマの難民キャンプの近くには大型輸送機が発着できる仮設滑走路があった。ルワンダの虐殺と、200万人ともいわれる大量の難民の存在が知られるようになると、その現場を取材しようとジャーナリストたちが飛行機に乗ってやってきた(ポルマンのその一人だ)。
?それと同時に、ルワンダ難民を“援助”すべく多くのNGO団体がゴマに殺到した。彼らが人道援助の対象にゴマを選んだのはフツ族を支援したいと考えたからではなく、滑走路があって報道陣がいたからだ。
?NGOの寄付者(ドナー)は、自分が出したお金が有効に使われ、「人道の危機」にあるひとびとが救われる場面を(安全な場所から)確認して満足感を味わいたいと思っている。これは「消費者」として当然の要求だから、批判しても意味がない。
?ドナーから多額の寄付を募ったNGOにとって、難民キャンプの近くに滑走路があるというのはまたとない好条件だ。輸送機をチャーターし、スタッフと援助物資を詰め込めばたちまち「援助」を開始することができる。おまけにそこには欧米のジャーネリストやテレビ局のクルーが待っていて、彼らの活動を報道してくれるのだ。
?虐殺の被害者であるツチ族の難民がどこか別の場所にいたしても、NGOはそんなところには行こうとはしないだろう。援助を開始するまでに何カ月もかかり、おまけに報道もされないのではドナーが納得しないからだ。
?NGOにとっては、援助の対象が虐殺されたツチ族であろうが、虐殺したフツ族であろうがどうでもいいことだ。人道主義の原則は「中立性」(二者のどちらかを優先して協力することはない)「公平性」(純粋に必要に応じて援助を与える)「独立性」(地政学的、軍事的、あるいは他の利害とは無関係である)で、人道の危機にあるひとが目の前にいれば助けるのが当然だとされている。この原則は一見素晴らしいが、どこか偽善的でもある。「あなたのお金で救われたのは、ついこのあいだまでルワンダでツチ族を虐殺していたひとたちです」という事実はけっしてドナーには伝えられないからだ。
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NGOの国際人道援助とは…
?ゴマの難民キャンプでポルマンは、NGOが行なう国際人道援助とは、紛争や虐殺などを「商材」にしてドナーから寄付を募り、“よいことをして満足したい”という願望をかなえるビジネスだと気づく。本書のタイトルである「クライシス・キャラバン」とは、 “悲惨な現場”を求めて世界じゅうを転転とするNGOのことをいう。
?ビジネスである以上、成功したNGOは大きな利益を上げることができる。紛争の現場にいる「人道援助コニュニティ」の白人たちは、破壊された町のレストランやバーで毎日のようにパーティを開き、10代の売春婦を膝の上に乗せている。彼らは自分たちが“特別”だと考え、その法外な特権を疑うことはない(国連職員の特権意識はさらに肥大している)。
?こうしたNGOの腐敗も欧米では広く知られていて、その結果、自分個人のNGOを立ち上げるひとたちが増えているという。こうしたNGOは「モンゴ(MONGO)」と呼ばれている。“My Own NGO”の略だ。
?典型的なのはアメリカ南部の教会の敬虔な信者で、彼(彼女)はアフリカの悲惨な現状と堕落したNGOの実態を知って、自ら教会で寄付金を集め現地に赴く。
?しかしここでも、同じ問題が起きる。信者のお金を預かってアフリカまで来たからには、なんらかの成果を出さなければ帰れない。そこで難民キャンプにある病院に行き、手足を失った“かわいそうな子ども”を紹介してもらう。その子どもたちに義手や義足を与えて、喜ぶ姿をビデオや写真に撮るためだ。そのため難民キャンプには、義足ばかり何十本も持っている子どもがいる。そののたびにいくばくかの現金をもらえるから、いい商売になるのだ。
?その後、MONGOたちは手足のない“かわいそうな子ども”をアメリカに連れ帰るようになった。教会のドナーたちの前で、最新型の人工装具をプレゼントするセレモニーを行なうのだ。だが成長期の子供の装具は数年で取り替えなければならず、子どもたちをアフリカに戻せばすぐに役に立たなくなってしまう。
?なかには障害のある子供を養子にしてあちこちの教会を連れ回したり、テレビに出演させたりするMONGOもいる。養子縁組は、字の読めない両親の代わりにシオラレオネの行政府が許可している。賄賂と引き換えに子供を両親から引き離し、NGOに売っているのだ。
?この“誘拐”がなくならないのは、人道援助の証拠を地元に持ち帰ることがきわめて宣伝効果が高いからだ。教会の信者たちは、“かわいそうな子ども”が自由の国アメリカで幸福を手にする姿を目の当たりにして随喜の涙を流すのだ。
?これはシオラレオネだけのことではなく、アフリカ各地で孤児院が大きなビジネスになっている。たとえばリベリアでは、孤児院に住んでいる子どもたちの大半は孤児ではなく両親がいる。国際援助を引き寄せるために、孤児院の所有者によって人買い同然の方法で集められてきたのだ。
?こうした子供たちはアメリカやヨーロッパの養親のもとに送られるが、扱いにくいことがわかると即座に「返品」されてしまう。そうすると別の人権団体が、この「返品」を反人道的だとして抗議活動を行なうのだという――。
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NGOの利益の源泉は「悲惨な現場」
?国際人道援助の問題は、それが巨大ビジネスになっていることにある。ビジネスである以上、利益は大きければ大きいほどいい(それを原資により多くのひとを救うことができる)。
?NGOの利益の源泉は「悲惨な現場」だ。そこで彼らは、テレビニュースで“悲惨”に見えるひとたちを追い求め、同じように悲惨な生活をしていても“絵にならない”ひとびとを見捨てる。
?これはそうとうに歪な状況だが、個々のNGOの努力ではどうすることもできない。ドナーから得られるパイ(寄付金)は限られているが、NGOは乱立しており、彼らを批判するMONGOたちも控えている。ドナーが喜んでお金を出すような演出ができないNGOは、競争から脱落して消えていくしかないのだ。
?ところで人道援助が大金の動くビジネスだとしたら、それを受ける側はテントや衣服、食糧だけで満足するだろうか。
?難民というと“かわいそうな一般市民”を思い浮かべるが、ゴマにはフツ族の民兵が相当数紛れ込み、難民キャンプを支配していた。難民を援助するにはまずキャンプに入らなければならないが、支配者である民兵たちはその際、NGOに対して「入場料」を徴収する。それ以外にもさまざまな名目でNGOから金銭を巻き上げ、ルワンダに反攻するための武器弾薬を購入していた。
?もちろん援助のために現金を支払うことは原則として禁止されているが、ここでも負の競争原理が働いている。支配者に現金を払わない真っ当なNGOは肝心の援助活動ができず、ドナーから見捨てられてしまうのだ。
?民兵たちは援助物資を独占し、NGOが支払う給与から“税金”を徴収し、運転手、料理人、清掃人、施設の管理責任者などの仕事を独占した。病院の医師は、朝になるとフツ主義に批判的な患者が消えており、空いたベッドに民兵の家族が寝ていることに気がついた。フツ族の看護師に聞いても、夜中になにが起きたのかはぜったいに口にしなかった。
?1995年末時点で、ゴマにある4つの主要難民キャンプではバー2324軒、レストラン450軒、ショップ590軒、美容室60軒、薬局50店舗、仕立屋30軒、肉屋25軒、鍛冶屋5軒、写真スタジオ4軒、映画館3軒、2軒のホテルと食肉解体場が1カ所あった。これらはすべて、NGOの援助でつくられたものだ。難民たちはNGO関連以外のなんの仕事もしていなかったのだから。
?ゴマの難民キャンプの民兵たちは、「ゴキブリ(ツチ族)を叩きつぶすことは犯罪ではない。衛生手段なのだ!」というラジオ番組をキャンプ内で流し、夜になると国境を越えてルワンダ領内に入り、ツチ族を殺していた。その結果、ツチ族のルワンダ軍がゴマの難民キャンプを攻撃することになり、キャンプはルワンダ軍の支配下に移り、国連軍の監視の下、ルワンダへの“移送”が始まった。
?難民キャンプ解体の様子は、ポルマンの『だから、国連はなにもできない』に臨場感溢れる描写がある。
?国連軍の役割はただ「監視」するだけで、故国への帰還作業はルワンダ軍に任されていた。ルワンダ軍は1000人で、帰還する難民は15万人いた。
?ルワンダ政府は難民が途中で新しいキャンプをつくるのを恐れて、徒歩での移動を許可しなかった。それにもかかわらずルワンダ軍にはトラックがなく、国連軍は移送を手伝うことを許されていない。
?こうした状況にもかかわらず「帰還作戦」は始まった。難民たちは移送を拒否して暴れはじめ、それを見てパニックに陥った政府軍兵士は難民に向かって手榴弾を投げ、迫撃砲を打ち込んだ。こうして、国連軍の目の前で数千人の難民が殺害されることになった。そのときNGOはすべて引き上げており、キャンプには誰も残ってはいなかった(戦闘後、国境なき医師団が45分間だけやってきて、暗くなる前に帰っていった)。
?これが、人道援助の「成果」だ。
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「絵」になる悲惨な現場とは…
?NGOの商材は「悲惨な現場」だ。そうすると、援助を受ける立場からすれば、悲惨であればあるほどNGO(クライシス・キャラバン)が集まってきて大きなカネが落ちるということになる。
?では、悲惨な現場とはどういう状況をいうのだろう。
?死体の山はボスニアやルワンダでさんざん報道されてしまった。いまでは欧米の「こころやさしき」ひとたちは、多少の“虐殺”くらいでは驚かなくなった。
?こうして、国際人道援助におけるイノベーションが起こった。敵を殺すのではなく、四肢を切断して生かしておけば、その方がずっとインパクトのある「絵」になるのだ。
?死体には見向きもしなくなったすれっからしの報道カメラマンも、手足のない子どもたちが泣き叫び、地面を這いずり回る場面には殺到する。欧米のメディアで大々的に報道されれば、NGO(クライシス・キャラバン)が大挙してやってくる。このようにして、ドナーの寄付金は子どもたちの四肢を切断した者たちの懐に落ちるのだ。
?本書の最後でリンダ・ポルマンは、シオラレオネの反政府軍RUFのリーダー、マイク・ラミンにインタビューする。
?ラミンは、「すべてが壊され、あんたたちは修復するのにここにいなかった。あんたたちが気にしていたのは、ユーゴスラビアにおける白人の戦争とゴマのキャンプだった。あんたたちはただ我々に戦い続けさせたんだ」と欧米社会を批判する。そして欧米の注目をふたたびシオラレオネに向けさせ、戦争を終わらせるために「両手切り落とし団(カット・ハンド・ギャングズ)」を組織したのだというのだ。
「かつてないほど多くの四肢切断者を見て、はじめてあんたたちは我々の運命に注意を向け始めたんだ」
?罪もないひとたちの手足を無残に切断するのは、NGOからカネをかすめ取ろうと考える者にとってはきわめて「経済合理的」な行動だった。国際人道援助に携わるひとたちは、誰もがこのきわめて不都合な真実に気づいている。
?しかし、ふだんは立派なことばかりいっている彼らは一様に口をつぐみ、ポルマンが『クライスシ・キャラバン』で告発するまで私たちが真実を知ることはなかった。
?一人でも多くのひとに読んでもらいたい、衝撃的なノンフィクションだ。
https://diamond.jp/articles/-/47247?page=5
2019年5月31日 橘玲
ルワンダは治安よく気温も快適で都市化された
"アフリカのシンガポール"だったが観光スポットは少ない
【橘玲の世界投資見聞録】
令和への改元にともなう「10連休」を利用してエチオピアとルワンダを訪れた。エチオピアについては前回書いたので、今回はルワンダの旅を紹介したい。
[参考記事]
●エチオピアを観光するなら「公認ガイド制度」を活用してぜんぶ任せておくと快適な旅行ができる!
そもそもルワンダに行こうと思ったのは、エチオピアの観光地を回ってもまだ日程に3日ほど余裕があったからだ。Google Mapを見ながらどこか行けそうなところはないかと探していて、この小さな国が目に留まった。
ルワンダはコンゴ民主共和国(旧ザイール)、ウガンダ、タンザニア、ブルンジに囲まれた東アフリカの内陸国だ。とはいえ、私のルワンダについての知識は映画『ホテル・ルワンダ』と、近年は経済開発に成功して「アフリカのシンガポール」「アフリカの奇跡」などと呼ばれているという程度しかなかった。
この旅をひと言でいうならば、「百聞は一見に如かず」だ。
アディスアベバからルワンダの首都ギガリへは非効率な航空ルート
まず、ルワンダにはどのように行くのか。
アディスアベからはエチオピア航空を使うしかないのだが、出発の1週間ほど前になって搭乗予定の便がキャンセルされ、1時間ほど後の便に振り替えるとの連絡があった。それはいいとして、現地到着がずいぶん遅れている。
不思議に思って調べると、アディスアベバからルワンダの首都キガリに直行するのではなく、ブルンジのブジュンブラを経由するのだという。
タンガニーカ湖の北端にあるブジュンブラはキガリの南150キロほどのところにある。これは羽田から大阪に向かうのに岡山を経由するような話で、ものすごく非効率的だ。そのうえ、帰りもけっきょくこの不合理なルートになってしまった。
なぜこんなことになるかというと、ルワンダとブルンジに大きな「経済格差」があるからのようだ。航空会社とすればルワンダとブルンジの客をいっしょに運びたいが、機体整備などの事情で出発点/終着点をキガリにする必要がある。その結果、乗客にとっては迷惑きわまりないUターンルートになるらしい。
この原稿を書きながら調べると、キガリ国際空港にはカタールのドーハから大型機が乗り入れているほか、イスタンブール、アムステルダム、ブリュッセルなどからの直行便がある。またルワンダ航空がアフリカ各地のほかドバイ、ムンバイ、ロンドン、ブリュッセルなどに就航している。帰りはキガリからアディスアベバ経由でドバイに向かったのだが、ルワンダ航空の直行便を使えばよかった。――ただし午前0時半出発8時半到着(飛行時間6時間)の深夜便になる。
キガリ国際空港は地方都市の小さな空港といった感じで、ターミナルを出たところに両替所やATM、売店があり、その隣がタクシー乗り場になっている。
スーツケースを持って建物を出るとタクシー運転手が声をかけてくるので、行き先を継げる。車は新車同然で、運転手はスーツを着ていて、受け答えもちゃんとしている。空港から市内中心部のホテルまでは15000ルワンダフラン(約1500円)だった。
市内に向かうときは気づかなかったが、空港に入るときのチェックはものすごく厳重で、乗客はもちろん運転手もいったん降りて、車を強力な危険物探知システムに通す。ツチ族主導の現政権へのテロを警戒しているからのようだが、この手続きにかなり時間がかかるから、搭乗客が増えると大変だろう。
小さなキガリ国際空港。出るのは簡単でも入るのは大変 (Photo:@Alt Invest Com)
ルワンダは若い白人女性がごくふつうに道を歩いている稀有なアフリカ
正直にいうと「アフリカのシンガポール」と聞いても半信半疑で、「そんなわけないでしょ」と思っていた。ルワンダの旅の驚きは、空港から市内に向かうところから始まる。
道路が整備されているのは当然として、まさにシンガポールのように、道路脇は芝生がきれいに刈り整えられ、ヤシやシュロなどの樹が植えられている。
市街地に近づくと驚きはさらに広がる。ビルはどれも新しく、看板や表示はすべて英語だ。しかしほんとうに驚いたのは、若い白人女性がごくふつうに道を歩いているのを見たときだ。
残念なことに、アフリカの都市のなかで旅行者が街歩きできるところはそれほど多くない。私はこれまでケープタウン(南アフリカ)、ハボローネ(ボツワナ)、アンタナナリヴ(マダガスカル)、アディスアベバ(エチオピア)を歩いたが、どこも白人の姿を見たことはほとんどなかった(ケープタウンはビーチ沿いに白人地区がつくられ、ダウンタウンは黒人の町になっており、インド系のひとをたまに見かける程度だ)。白人の、それも若い女性が歩いているなどというのはちょっと信じがたいのだ。
下の写真はキガリ中心部で、オフィスビルやショッピングセンター、政府系施設などの新しいビルが建ち並び、広い歩道がつくられている。ここでも地元のひとたちに混じって、ビジネスで滞在しているらしいスーツ姿の白人女性が、連れ立って世間話をしながら歩いていた。
キガリ中心部。新しいビルが立ち並んでいる (Photo:@Alt Invest Com)
歩行者天国になっている市役所の前に「ジェノサイド25周年」の表示があった (Photo:@Alt Invest Com)
もうひとつ驚いたのは、地元の若者がごくふつうに英語を話すことだ。
映画『ホテル・ルワンダ』の舞台になったのは老舗ホテルのミル・コリンズだが、坂の下のわかりにくいところにあって、地図を見ながらうろうろしていると、オフィスビルの駐車場の管理をしている若者が「どこに行くの?」と訊いてきた。「ミル・コリンズを探してるんだ」というと、「ああ、それなら通りの向こうの道をちょっといって、左手に階段があるからそこを下って、ふたつ並んだ建物の向こう側だよ」と教えてくれた。
もともとルワンダは第一次世界大戦以降ベルギーの植民地で、独立してからもフランスの影響が強く、ブルンジとともにフランス語圏だったが、ジェノサイドのあとに権力を掌握した現政権が強力な英語化政策を進め、若者たちの多くは小学校から英語で授業を受けているのだという。
ルワンダではジェノサイド後にベビーブームが訪れ、人口の6割がその後に生まれた。会話のなかにも“before Genocide”“after Genocide”という言葉がふつうに出てくる(日本の「戦前」「戦後」と同じだ)。ルワンダの虐殺についてはあらためて取り上げたいが、彼らの親の多くは国外難民で、現政権とともに移住してきたため、その子どもたちにとってジェノサイドはまったく体験のない「歴史」なのだという。
映画『ホテル・ルワンダ』の舞台となったミル・コリンズ。ここはフランス語表示 (Photo:@Alt Invest Com)
ホテル・ミル・コリンズのプール。宿泊客のほとんどは白人 (Photo:@Alt Invest Com)
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治安もよく快適なルワンダの難点は観光する場所が少ないこと
ルワンダのキガリにはマリオットなど高級ホテルのほか、洒落たブティックホテルも次々とできて、レストランもクオリティが高い。2日目の夜はホテルで勧められたインド料理店に行ったのだが、メニューやサービス、味も銀座の高級店と遜色のない本格派だった(価格はお酒を入れて1人4000〜5000円程度)。
平日の夜にもかかわらず、8時を過ぎる頃には店内は半分以上埋まっていた。ほとんどは外国人で、白人が7割、アジア系(中国人)が3割という感じだが、日本人のグループもいた。旅行者というよりビジネスでこの国を訪れているようだ。
フレンチ、イタリアン、アメリカン(ステーキ)など、ほとんどがホテルに併設しているものの、このクラスのレストランが市内にはいくつもあるようだ。
キガリのインドレストランは本格派 (Photo:@Alt Invest Com)
ルワンダはほぼ赤道直下に位置しているが海抜1500メートル程度の高地で、気温は1年じゅう20度前後で安定している。雨期と乾季に分かれていて、私が訪れた5月中旬までは雨期だが、強い雨がしばらく降ると青空が広がる。治安もよく美味しいレストランもあって快適そのものだが、旅行者にとっての難点は観光する場所が少ないことだ。
ガイドブックを見ても、キガリの「観光名所」は虐殺記念館くらいしか載っていない。ホテルのツーリストデスクに聞いてみたが、提案されたのは日帰りのサファリだけだった。
私は動物にさしたる興味があるわけではなく、サファリも南アフリカ(ヨハネスブルク)とボツワナ(チョベ国立公園)で体験したのであまり気が進まなかったのだが、ほかにやることもないので、タンザニアとの国境にあるアカゲラ国立公園に行ってきた。
ここはインパラ、シマウマ、キリンなどのほか、乾季なら水場でアフリカゾウが間近で見られるようだ。草食動物が多いのは、ライオンやチーターがいないからだという。まる1日ガイド兼ドライバーと四輪駆動の車を借り切って300ドルだった。
アカゲラ国立公園のシマウマ (Photo:@Alt Invest Com)
ルワンダ観光で有名なのはキガリの北西にあるヴォルカン国立公園で、コンゴとの国境に接する火山群の山裾に広がっている。この一帯はマウンテンゴリラの生息地で、現在は8群が観察可能。旅行者は公園内のロッジに宿泊し、ガイドに連れられて割り当てられたゴリラ群を求めて森の中を歩く。キガリのホテルでは、ビジネスマン以外ではアウトドア系のヨーロッパ系白人をよく見かけるが、みんなゴリラに会うためにこの国までやってきたのだ。
鉱物資源や観光資源があるわけでもなく、輸出用の農産物としては最近ようやく認知度が上がってきたコーヒーくらいしかないルワンダが、なぜここまで発展したのだろうか。
それは“独裁者”ポール・カガメ大統領が、この小国をアフリカ投資のハブにすることを目標に、徹底した治安対策や英語公用語化を断行したからのようだ。そのきわめて合理的な開発独裁はシンガポールの建国者リー・クアンユーとよく似ており、しばしば並び称される。
ルワンダへの投資は中国が先行しているが、アフリカ進出を考える欧米企業にとっても、安全確保に大きなコストをかけることなく従業員と家族を派遣できるのは大きなメリットだろう。
こうした戦略は、ルワンダ航空がアフリカの主要都市だけでなく、ジュバ(南スーダン)、ルーブルヴィル(ガボン)、ルサカ(サンビア)などにも定期便を運航していることからもわかる。キガリにヘッドオフィスを構えれば、従業員をアフリカじゅうに出張させることができるのだ。
キガリの中心部にある近代的なオフィスビル (Photo:@Alt Invest Com)
ルワンダは「千の丘の国」といわれるほど丘陵が多く、キガリの市街地を取り囲む丘の上は高級住宅街になっている。下の写真のような住宅には外国人が住んでいるが、地元の中産階級向けのマンションや住宅地も続々と開発されている。
キガリの郊外にある高級住宅街 (Photo:@Alt Invest Com)
キガリ虐殺博物館から市街地を望む (Photo:@Alt Invest Com)
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イスラーム圏の旅行はラマダンを外したほうがよい
ルワンダのあとはドバイに1泊した。宿泊したのは空港にちかい「フェスティバルシティ」という大型ショッピングコンプレックスで、3つのホテルが併設されている。その周囲はさらなる開発計画があるようで、夜は建築途中のビルがライトアップされている。
これらの大規模開発は、おそらくは2022年にカタールで開催されるサッカー・ワールドカップを見据えたものだったのだろう。
ドバイとカタールの首都ドーハは300キロ程度しか離れておらず、東京―大阪間より近い。旅行者で混雑するカタールを避け、ドバイ空港近くのホテルに宿泊して日帰り観戦することもじゅうぶん可能だ。
ところが2017年に、サウジアラビアがイラン(およびシーア派の武装組織)を支援しているとしてカタールとの国交断絶を発表すると、ドバイを含むアラブ首長国連邦もそれに追随した。現在はドバイ―ドーハ間の直行便も運航を停止しており、2022年までに国交が回復するかどうかはわからない。
ドバイ空港に近い再開発地域 (Photo:@Alt Invest Com)
じつは今回の旅行は、最初はイランに行くつもりでドバイまでの往復便を押さえたのだが、そのあとになって5月5日からラマダンが始まることに気がついた。地元のひとたちが断食するなかで、旅行者用のレストランでこそこそと朝食や昼食を食べるのは楽しくなさそうなので、行き先を変更したのだ。
ラマダンの時期にマレーシアを訪れたことはあるが、アラブ圏は初めてだった。今回知ったのだが、外国人も利用するドバイのホテルやショッピングセンターでは、日が高いうちは黒いカーテンで店内を隠すことになっている。ラマダンに関係ない「異教徒」は、このカーテンをくぐって飲食するのだ。
ラマダンのスターバックス。黒いカーテンで店内を隠している (Photo:@Alt Invest Com)
日が落ちるとカーテンが開けられ、ふつうのスターバックスになる (Photo:@Alt Invest Com)
昼食はホテルのレストランで食べたのだが、黒いカーテンで遮られているにもかかわらず、店内のいちばん奥のテーブルにアラブ系の男女4人グループが座っていた。コーヒーと水で談笑しているだけだが、ラマダン中は人前で飲料を飲むことさえはばかられるようだ。
そんな彼らの横で白人のグループが赤ワインのボトルを入れてステーキを食べている。その光景を見て、やはりイスラーム圏の旅行はラマダンを外してよかったと思った。
ラマダン中は日が落ちると一気にお祭りムードに。ビルに映し出されたRAMADANの文字 (Photo:@Alt Invest Com)
橘 玲(たちばな あきら)
https://diamond.jp/articles/-/204235?page=4
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