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中国の建国で始まった米国による中国侵略
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2019.09.30 櫻井ジャーナル
中華人民共和国の誕生が毛沢東によって宣言されたのは1949年9月21日、10月1日には天安門広場で式典が催されている。今から70年前のことだ。 アメリカの大統領だったフランクリン・ルーズベルトは毛沢東たちと友好的な関係を結んでいたが、そのルーズベルトは1945年4月12日に急死、引き継いだハリー・トルーマン大統領は国民党を支援した。当時、ソ連のヨシフ・スターリンも蒋介石体制を望んでいたと言われている。 トルーマン政権は蒋介石に中国を支配させるために20億ドルを提供し、軍事顧問団を派遣していた。1946年夏の戦力を比較すると国民党軍は200万人の正規軍を含め総兵力は430万人。それに対し、紅軍(コミュニスト)は120万人強にすぎず、装備は日本軍から奪った旧式のものだった。 国民党の勝利は明らかなように見えたのだが、1947年夏になると農民の支持を背景として人民解放軍(47年3月に改称)が反攻を開始する。その段階の兵力は国民党軍365万人、人民解放軍280万人。1948年の後半になると人民解放軍が国民党軍を圧倒するようになり、49年1月に解放軍は北京に無血入城、コミュニストの指導部も北京入りし、5月には上海を支配下に置いた。 上海にはアメリカの破壊工作機関OPCが拠点を置いていたのだが、国民党の敗北が明確になると拠点を日本へ移動させる。その中心は厚木基地だったと言われている。 そこから中国への反攻を狙うことになるのだが、そのためには日本の労働組合など左翼勢力を押さえ込んでおく必要があったはず。そうした中、引き起こされたのが国鉄を舞台とする怪事件だ。1949年7月5日から6日にかけての下山事件、7月15日の三鷹事件、そして8月17日の松川事件である。 1950年6月22日には日本で興味深い夕食会が開かれた。アメリカ側からはジョン・フォスター・ダレス、国務省東北アジア課長ジョン・アリソン、ニューズウィーク誌の外信部長だったハリー・カーン、同誌のコンプトン・パケナム東京支局長が出席。夕食会の開催場所はパケナム邸だ。 日本から出席したのは大蔵省の渡辺武、宮内省の松平康昌、国家地方警察企画課長の海原治、外務省の沢田廉三。渡辺は元子爵で後に駐米公使になり、松平は元侯爵で三井本家家長の義兄に当たる宮内省の人間。松平康荘の子どもだが、康昌が生まれる前に康荘は慶民を養子にしている。この慶民は初代宮内府長官。また沢田廉三は外交官で、結婚した相手は三菱合資の社長だった岩崎久弥の娘、つまり岩崎弥太郎の孫で孤児院のエリザベス・サンダースホームの創設者として有名な美喜。海原治は国家地方警察企画課長で、国家警察予備隊、後の自衛隊を創設する際に中心的な役割を果たすことになる。 夕食会の3日後に朝鮮戦争が勃発、その翌日にはダレスに対して天皇からメッセージが口頭で伝えられている。伝えたのはパケナム。軍国主義的な経歴を持つ「多くの見識ある日本人」に会い、「そのような日本人による何らかの形態の諮問会議が設置されるべき」だという内容だった。(豊下楢彦著『安保条約の成立』岩波新書、1996年) 1950年10月にOPCはCIAに吸収されて破壊工作部門の中核になるが、その年の終わりまでにOPC/CIAは日本で1000人以上を工作員として訓練したという。(Richard J. Aldrich, “The Hidden Hand”, John Murray, 2001)朝鮮戦争中、CIAに率いられた国民党軍が2度にわたって中国侵略を試み、いずれも失敗している。 |
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