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(回答先: 「名将」ロンメルの歯車が狂い始めた瞬間 「砂漠の狐」ロンメルの知られざる姿 第2回 投稿者 うまき 日時 2019 年 4 月 03 日 10:40:56)
ヒトラーの懸念を一蹴した「大馬鹿者」ロンメル
「砂漠の狐」ロンメルの知られざる姿 第3回
2019.4.4(木) 大木 毅
V号戦車M型(出所:Wikipedia)
日本では不世出の名将として語られることが多い第2次世界大戦のドイツ軍人、ロンメル。だが近年、欧米における評価が変化してきているのをご存じだろうか。40年近く認識のギャップが生じている日欧の「ロンメル論」を、軍事史研究者の大木毅氏が3回に分けて紹介する。前回は、ロンメルの指揮方法が戦術レベルでは有効だったものの、戦略の次元では通用しなかったことに触れた。今回は、第2次世界大戦の趨勢を大きく左右することになったロンメルの致命的な判断ミスを取り上げる。(JBpress)
(※)本稿は『「砂漠の狐」ロンメル』(大木毅著、角川新書)の一部を抜粋・再編集したものです。
従来の装甲部隊論争は誤解
(前回)「名将」ロンメルの歯車が狂い始めた瞬間
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/55864
1942年3月1日に西方総軍司令官に任命されて以来、ドイツ軍のゲルト・フォン・ルントシュテット元帥は、大西洋沿岸の防衛態勢の確立にいそしんできた。防衛のためには海岸地区で戦線を保持し、その間に集めた予備部隊で連合軍に反撃をかける以外に策はない。そう確信するようになったルントシュテットは、装甲部隊に重点を置くことを決める。
装甲部隊ならば、上陸直後の敵がもっとも弱体な時期にいち早く反撃することができ、重点移動にともなう配置転換も容易だ。この装甲部隊の集中運用こそが、海岸地区の戦線を維持し、敵を粉砕することができると考えたのだった。
1917年、イタリア戦線でのロンメル(出所:Wikipedia)
しかし、連合軍側にはドイツ装甲部隊を押しとどめる対抗策があった。上陸支援艦隊の「艦砲射撃」がそれである。ルントシュテットも、無論そのことには気がついていた。対抗するために彼が狙ったのは、歩兵部隊その他で海岸線を保持しつつ、艦砲射撃が届かない後方地点に装甲部隊を集結させ、一大反撃をかけて連合軍を撃破することだった。
西方の装甲部隊を統一指揮するために新編され、1944年1月24日付で西方総軍直属となった司令官、レオ・ガイヤ・フォン・シュヴェッペンブルクも、ルントシュテットと同様の意見であった。ロンメルの「敵役」として語られることの多いシュヴェッペンブルクは、装甲部隊をばらばらにではなく、集中運用することが重要だとみなしていた。部隊が集結するためには、24〜48時間ほどかかるだろうが、連合軍の主攻正面をみきわめるには、それぐらいの余裕が必要だろうと考えていたのである。
シュヴェッペンブルクは、連合軍の航空優勢下で部隊を動かす際の困難についても、充分に理解していた。だが、夜間前進によって、後方地点から装甲部隊を集結させることは可能だと考えていた。
このように、ルントシュテットとシュヴェッペンブルク両者の見解をみれば、彼らが「連合国を内陸部に引き込んで決戦をはかろうとしていた」とする従来の説は、誤解であるとわかる。彼らもまた、艦砲の射程外の海岸堡(かいがんほ)付近での反撃を企図していたのだ。
撃退するチャンスはただ一度
だが、かかる装甲部隊による集中反撃論に対し、「砂漠の狐」と呼ばれたエルヴィン・ロンメルが真っ向から反対したということは、よく知られている。ヒトラーが計画した「大西洋防壁」が名ばかりのものであることを実感したロンメルは、装甲部隊のみならず、すべての戦力を海岸間近に配置すべきと主張した。
北アフリカで、連合軍の空軍力のすさまじさを体験したロンメルは、いったん上陸作戦がはじまれば、後方地点に配置された装甲部隊を海岸に召致することは、きわめて困難だとみなしていたのである。ならば、敵上陸部隊が脆弱な状態にあるうちに、現場にあるすべての戦力で攻撃をかけるよりほかに勝機はない。それがロンメルの意見だった。
この主張を結晶化したのが、有名な「いちばん長い日」という表現であった。ロンメル自身の言葉を、以下に引こう。
「勝敗は海岸で決まる。敵を撃退するチャンスはただ一度しかない。それは、敵がまだ海のなかにいて、泥にもがきながら、陸に達しようとしているときだ。〔中略〕上陸作戦の最初の24時間は決定的なものになるだろう。この日いかんによって、ドイツの運命は決する。この日こそは、連合軍にとっても、われわれにとっても『いちばん長い日』になるだろう」
かくのごとく、根本的な見解の相違があるのだから、装甲部隊の配置をめぐる対立、いわゆる「装甲部隊論争」は激化する一方だった。
奇妙なヒトラー指示の裏側にあったもの
1944年4月26日、ヒトラーは装甲部隊論争に裁定を下す。要約すると次のようなものだ。
ロンメルに3個装甲師団を与え、残りの3個は海岸から離れた後方地点に温存配備すること。ただし、後方地点の3個については、ヒトラーに直接の承認を得なければ運用することはできないものとする。
奇妙な決定であった。一応は装甲師団を現場に預けながら、その使用には手かせ足かせをはめる。従来、この指令はヒトラーの優柔不断によるものと説明されてきた。もちろん、それは間違いではなかろう。だが、今日では「国防軍最高司令部」の意向も反映していたことが判明している。
国防軍最高司令部は第2次世界大戦突入以来、ヨーロッパの鉄道網を活用し、東西の戦線の決勝点に遅滞なく兵を動かせる「中央予備」を握ることを熱望してきた。しかし、戦争の激化、とくに対ソ開戦以降の情勢は「中央予備」の創設を許すようなものではなかった。
このような状態にあった国防軍最高司令部にとって、西方における装甲部隊の運用と配置をめぐる論争は、念願の戦略予備兵力をつかむチャンスだったのだ。国防軍最高司令部の参謀たちはこの機会を逃さず、ヒトラーに働きかけて現地部隊から装甲部隊の指揮権を奪ってしまったのである。
しかし問題は、装甲部隊配置のみにとどまらなかった。連合軍の上陸地点予想についても、ドイツ軍首脳部の見解は分かれていたのである。
カレーか?ノルマンディか?
1943年ごろまで、連合軍の上陸地点がどこになるかということは、さほど議論にならなかった。というのも、国防軍最高司令部と西方総軍はともに、上陸経路がもっとも短くなるカレー海峡(英仏海峡)に進攻するだろうと判断していたからである。そこに重点を置くべきだという見解で一致していたのだ。
一方で、「ロンメルは連合軍がノルマンディに上陸するものと信じて疑わなかった」とする説を、唱える文献は少なくない。しかし、ドイツの一次史料に基づいた研究に従うなら、そうした主張は支持できるものではない。
たとえば、ロンメルは1943年12月13日付の報告書で、「連合軍はまずカレー海峡をめざす」と結論づけているのである。また、1944年5月なかばに、麾下装甲師団3個のうち2個をセーヌ川の北、すなわちノルマンディから遠ざかる位置に置くよう命じてもいる。
しかしながら、さかのぼること1944年1月15日の段階で、連合軍の上陸地点に別の可能性があることが西方総軍より報告されていた。その地点とは、いうまでもなくノルマンディである。ノルマンディに上陸すれば、カレー海峡と同じぐらい有利に作戦を展開できる。比較的短い補給路、空軍支援が充分に提供できるといった条件が満たされるうえに、上陸に適した海岸が広がっているのだった。
それでも、ロンメルは依然として、カレー海峡がもっとも危険であるという意見に固執した。むしろ、ノルマンディ上陸の可能性を危惧したのはヒトラーであった。1944年初頭以来、彼は同地区が攻撃目標になるのではないかとの不安を覚えていたのだ。
『「砂漠の狐」ロンメル』(大木毅著、角川新書)
1944年5月、ヒトラーは「コタンタン半島に連合軍が海岸堡を築くことが予想されるから、その地の防衛はきわめて重要になる」とロンメルに注意を喚起した。だが、それに対してのロンメルの答えはにべもないものだった。
「重点地区であるカレー海峡から、ノルマンディに兵力を移すことは不可能であります」
独裁者を激怒させそうな回答である。だが、このときのヒトラーはノルマンディ上陸を確信しきれなかったのか、強いて自らの主張を押し通そうとはしなかった。結果として、ドイツ軍首脳部のほとんどは、連合軍はカレー海峡に来るとの想定のもとで上陸準備を進めた。つまり結果的に、彼らは自ら奇襲を招き入れることになったのである
電話で、敵がノルマンディに上陸したとの警報を受けたロンメルは、「私はどうかしていた。大馬鹿者だ」とつぶやいたという。
http://www.asyura2.com/19/kokusai25/msg/886.html
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/55866
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