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人種差別の少ないロシアで、黒人が別格な理由
映画「グリーン・ブック」が教えるロシア社会の問題点
2019.3.22(金) 菅原 信夫
作品賞は『グリーンブック』、『ROMA/ローマ』は3部門受賞 第91回アカデミー賞
第91回アカデミー賞で作品賞を受賞した『グリーンブック』のピーター・ファレリー監督(2019年2月24日撮影)。(c)AFP/A.M.P.A.S/Matt Petit〔AFPBB News〕
本年2月24日に発表された第91回米アカデミー賞の作品賞はピーター・ファレリー監督作品「グリーン・ブック」に決まった。
この作品は、がさつで無教養なイタリア移民の用心棒トニーが、孤高の天才黒人ピアニスト、「ドク」ことドナルド・シャーリーの運転手兼雑用係となって、1962年10月から12月にかけて、米南部諸州を巡回したコンサートツアーでの出来事を映画化したものだ。
筆者は米国南部における黒人差別が本作品のテーマと聞いていた。
そのため、映画の中で、ドクが演奏仲間とかなり正しいロシア語で会話したり、演奏仲間の名前がロシア名だったりするのに仰天し、そこになぜロシアが出るのか大いに興味をもった。
そしてその割には、演奏仲間と親密にならないことに戸惑いを感じたりした。
改めてこの映画の筋書きを見ると、ドナルド・シャーリーは9歳でレニングラード音楽院に留学、クラシック音楽を勉強、そのために生涯、チャイコフスキー、ラフマニノフ、スクリャービンといったロシアの作曲家を尊敬したという。
米国の文献を確認すると、現実のドナルド・シャーリーは、家族の反対でレニングラード音楽院留学は実現しなかったそうだ。
しかし、ロシアの作曲家には大変愛着を示し、多くのコンサートでチャイコフスキーをはじめ、ラフマニノフのピアノ協奏曲を米国や欧州の交響楽団と共に演奏し、その録音も残っている。
実際のドナルド・シャーリーは1929年生まれだから、9歳でレニングラード音楽院に入学すること自体あり得ない。
また、渡航したことになっている1938年という年がソ連にとりどんな時期だったかを思い返すと、この話は荒唐無稽でしかない。にもかかわらず、当作品においてはロシア、ソ連といった文化が非常に効果的に使われている。
その理由は、ドク一行が南部巡業に出た1962年当時には、もうかなりのロシア移民が米国に移住しており、その中には音楽関係の職業に就いて生活を安定的に営んでいる階層が出ていたことによると思われる。
米マサチューセッツ州にある避暑地ケープコッドは, 大西洋に突き出した角状の半島で、ケネディー家のサマーハウスがあることで有名だ。
その半島の真ん中にハヤニスという町がある。ここには、1950年代からロシア移民が集う一角があって、筆者もロシア語とロシア文化に慣れるため、留学先のボストンからよく通ったものであった。
馴染みになった避暑客の中に、ニューヨークに住む音楽家の一家がいて、浜から涼風が吹く気持ちの良い夕方には、ホテルの庭に作ったステージで即興のコンサートがよく開かれた。
彼らの生活は、まさに「Green Book」に描かれたような全米を対象にしたコンサートツアーや映画音楽録音での短期契約の積み重ねで、長期のポジションを得るのは難しいという話をしていた。
ドク・シャーリーは巡業公演にあたり、低廉なコストで雇用できるロシア移民の演奏者をオーディションで採用しては、一緒に演奏旅行に出ていたと思われる。
現在はどうか知らないが、筆者が滞在した1970年代後半のケープコッドに、黒人の姿はほとんどなかった。
それがマンハッタンやブロンクスに住むロシア人たちがケープコッドでの避暑生活をおくる理由の一つになっていたかもしれない。
ロシアはソ連時代から人種差別がない国、と言われている。これはその通りであって、ロシアの良い特徴の一つである。
特にアジア人に対しては、それが中国人であろうが、中央アジア人であろうが、ロシアほど差別のない国は西欧諸国では見ることができないだろうと感じる。
筆者も40年以上をソ連・ロシアとのおつきあいの中で過ごしてきたが、自分が日本人であることに起因する嫌な思いには一度も遭遇したことがない。
2000年代の日本食ブームの頃は、日本というブランドは極めて日常的に使いこなされ、またそれなりのステータスを感じる言葉であった。
モスクワの街でタクシーに乗ると、ドライバーから国籍を聞かれることはよくある。
その時、「日本」と答えたが最後、日本車の優秀さから始まり、最近購入したテレビから、奥さんの愛用する炊飯器まで、日本製品を褒めちぎられて、多めにチップをはずんでしまったという駐在員も多いのではないだろうか。
もっとも、最近日本大使館前で繰り広げられるロシア領土割譲阻止のデモを見ると、残念なことに、そんな時代はひと昔前になってしまったのかと感じるが・・・。
しかし、こんなソ連・ロシアにもどうしても克服できない意識が残っている。
それが黒人への違和感だ。差別とか偏見とかいう言葉は実態を表していないと思うので、改めて社会に残る違和感と表現しよう。
ソ連時代、モスクワの繁華街アルバート通りには、我々日本人が「地球座」と呼ぶ、モスクワ最大のレストランシアターがあった。
ここでは毎晩、食事とショーが楽しめて、娯楽の少ないソ連における貴重な憩いの場となっていた。
そこでは、ロシアの民族衣装を着飾った美人ダンサーによるロシア舞踊ショーから、今では見ることもないジプシーによる歌と踊りのショーなど、次々に珍しい出し物が繰り出された。
その中で、ちょっと一息、という感じでテーブルの食事に意識を戻せる時間が、ジャズシンガーによるスタンダードジャズの演奏だった。
特に筆者のお気に入りは黒人シンガーによるナットキングコールのモノマネだった。ロシアで黒人を見る機会はほとんどないので、まずは彼の存在そのものに興味を持った。
その後何回か通ううちに、彼とも舞台裏で言葉を交わせるようになり、彼がキューバから来たことを知った。
ソ連とキューバ両政府間で交わされた文化交流協定により、短期の公演のためソ連に来たということだった。
「モスクワを楽しんでいるか」という問いに「早くキューバに帰りたい。モスクワもいいけどね」と、ちょっと悲しそうな顔をして言ったことがなぜかずっと記憶の隅に残っている。
ロシアの偉大な作家であり詩人でもあるアレクサンダー・プーシキン。彼の肖像画を見ると、縮れた髪、もみあげという、一般のロシア人の肖像画とは若干異なった風貌が見て取れる。
その理由について、彼の母方の祖父母であるガンニバル将軍がエチオピア出身で、プーシキンにもアフリカの血が若干なりとも流れていた、という説が一般的だ。
ただ、こんな例は極めて限定的で、ロシアで活躍した黒人や黒人の血が流れる人物というのは寡聞にして知らない。
その意味でロシアは極めて非黒人国である。それゆえ、社会にも黒人への違和感が残っている。
「Green Book」に戻ろう。
「ドク」がもしもレニングラード音楽院に学んでいたとしたら、そこでは強烈な違和感を持って過ごしたと思われる。
バレエ、オペラ、クラシック音楽など舞台芸術のどの世界を見ても、日本を含め世界中の留学生が多いのが現代ロシアの特徴である。ただ、そこに黒人の姿を見かけることはほぼ皆無である。
そこで9歳という難しい年齢で自身の存在を示さねばならない苦労は並大抵ではなかっただろう。そんなこともあって、実際には留学は断念したのだろうが、映画ではそのような過去がドクの孤高の性格の背景として使われている。
ところでなぜレニングラードでクラシック音楽なのだろう。
米国のクラシック音楽教育から黒人は外されていたという映画の想定は、さもあらんという気になるが、これとて、実はレコード会社によるドナルド・シャーリーの売り込みのためだったという。
黒人のクラシックは売れない、と見たレコード会社は、ドナルド・シャーリーの音楽をジャズとクラシックの融合した新しいジャンルと宣伝した。
彼の過去にレニングラード音楽院を入れることが、クラシックを本格的に学んだ印象を与えると考えたのだろう。
人種をも商売の手段とする商業主義としての米国は、黒人の才能を利用しつつその人物を差別し、白人社会から隔離する――。これがこの映画が本当に訴えたかったテーマのように筆者には感じられた。
振り返ってロシアを見ると、「黒人への違和感」は単に慣れの問題のように感じられる。
圧倒的に少ないロシアにおける黒人人口は、ロシア人に黒人への接し方を考える必要性さえもたらさない。
ソ連政府は、アフリカとの交流を進めるために、俗称ルムンバ大学と呼ばれるロシア諸民族友好大学を1960年に設立し、アフリカからも大勢の留学生を招いたことがあった。
ただ、この大学もその後は一般大学と同じような仕組みとなり、ロシア政府がアフリカ諸国への支援をほぼ中断したことから、黒人学生は減少し、今や大学のあるユーゴザパッドナヤ周辺を歩いても、黒人学生に会う事は珍しくなってしまった。
「黒人への違和感」がロシア社会に残る限り、ロシアに暮らす黒人も増えることはないだろう。
ロシア版の「大坂なおみ」のようなスポーツ選手がロシア社会に登場するにはまだ時間がかかりそうである。この点において、日本はかなりロシアの先を行っていると言ってよい。
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/55835
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