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1万円札になる男・渋沢栄一が、三菱の創設者・岩崎弥太郎には勝てなかった“能力”とは
https://biz-journal.jp/2019/04/post_27487.html
2019.04.16 文=菊地浩之 Business Journal
財務省公式サイト内のページ「新しい日本銀行券及び五百円貨幣を発行します」より
政府は5年後をメドに紙幣デザインを一新し、新1万円札の肖像を渋沢栄一、新5千円札を津田梅子、新1千円札を北里柴三郎にすると発表した。
新1万円札に選ばれた渋沢栄一。一般にはなじみの薄いこの人物は、「日本近代資本主義の父」と呼ばれる。なぜか。それは、栄一が設立(もしくは設立に参加)した法人を見ればわかるだろう。
1873年 第一国立銀行(のち第一銀行、第一勧業銀行を経て、現・みずほ銀行)を設立。
1873年 王子製紙株式会社(現・王子ホールディングス)を設立。
1875年 商法講習所(現・一橋大学)の設立に参加。
1878年 東京株式取引所(現・東京証券取引所)を設立。
1879年 東京海上保険会社(現・東京海上日動火災保険株式会社)を設立。
1880年 横浜正金銀行(のち東京銀行、現・三菱UFJ銀行)創立委員長。
1881年 日本鉄道会社(のち日本国有鉄道、現・JR東日本)の設立に参加。
1885年 東京瓦斯(現・東京ガス)の設立に参加。
1886年 東京電燈(現・東京電力)の設立に参加。
1887年 帝国ホテルの設立に参加。
■勤王から幕府側へ、そして欧州渡航
渋沢栄一(1840〜1931年)は、天保11年に武蔵国榛沢郡血洗島村(埼玉県深谷市)の豪農の子として生まれた。同い年の人物に、2015年のNHK大河ドラマ『花燃ゆ』で重要な登場人物であった長州藩の久坂玄瑞がおり、1つ年上に高杉晋作、1つ年下に伊藤博文がいる。
当時の若者がそうであったように、渋沢栄一も尊皇攘夷運動に感化され、栄一は数人で高崎城乗っ取りを企てるのだが、同志が捕縛されたことにより攘夷運動をあきらめる。そして、江戸遊学で知り合った一橋徳川家家臣の推挙で、同家の家臣となる。勤王から幕府側に急展開。イデオロギーもクソもあったものではない。ところが、これが栄一の運命を大きく変えていく。
1866年に一橋徳川家の当主・徳川慶喜(よしのぶ)が征夷大将軍に就任。渋沢は幕臣に取り立てられるのだ。しかも、翌1867年に開催されたパリ万国博に、将軍の名代として慶喜の実弟・徳川昭武が派遣されると、栄一は昭武に随行して使節団に加わり、欧州各地を視察することとなった。ここでの経験が、のちに「日本近代資本主義の父」と呼ばれる素地をつくったのだろう。欧州のすぐれたインフラ基盤を体験した栄一は、この便利な生活を日本でも実現したいと思ったに違いない。
徳川宗家16代当主・徳川家達(いえさと、写真右)と渋沢栄一(撮影日不明/写真:近現代PL/アフロ)
■徳川家臣から政府高官、そして会社製造マシーンへ
ちなみに1867年は慶応3年、翌1868年が明治元年である。栄一が1868年に帰国すると、彼を派遣した江戸幕府は潰れていた。意外に知られていないが、大政奉還の後、徳川将軍家は静岡藩70万石の殿様に格落ちとなった。将軍・慶喜は謹慎して、養子の徳川家達(いえさと)が藩主となったが、当時はまだ満5歳の幼児だった。
栄一は静岡で慶喜に面会してそのまま同地にとどまり、静岡藩に出仕した。そして、「商法会所」という半官半民の企業を設立し、大きな利益を上げる。その手腕が明治政府に認められ、栄一は、大蔵省(現・財務省)の有力者・井上馨の補佐(大蔵大丞)に抜擢される。だが、1873年に政府内部の意見対立により、栄一は井上馨と共に退官する。
栄一は大蔵省在任中に手がけていた国立銀行条例を実行し、同年に日本初の銀行である第一国立銀行(のち第一銀行、第一勧業銀行を経て、現・みずほ銀行)を設立(国立銀行というのは、ナショナル・バンクの邦訳で、国立という意味ではない)。1873年にはその総監役に就任する。そして冒頭に述べたように、王子製紙、東京海上保険、東京株式取引所などを次々と設立していくのである。
■財閥には大成せず
このように、渋沢栄一は数多くの企業設立に参与したが、それら企業間には資本的な関係が希薄で、財閥のような固まりにはならなかった。つまり、栄一は次々と企業をつくってはいったが、それらの株式を押さえて「渋沢家の家業」にはしなかったのである。
渋沢栄一研究家の島田昌和氏は、渋沢の株式所有行動について「まずいくつかの会社を軌道に乗せて配当を行い、自身はその会社の株式を一部売却して、その資金を新たな会社の設立資金にしていった」と指摘している。つまり栄一は、ひとつの企業の株式を保有し続けて支配下に置くことをせず、株式を売却して支配を放棄し、そのカネで新たな企業を設立するための原資としたのだ。
おそらく、栄一は若かりし20代の頃に見た、欧州の近代的なインフラを日本にもつくり出そうと思ったのだろう。それはいち企業を支配下に置くよりも、きっと楽しいことだったに違いない。
■三菱の岩崎弥太郎とは合わなかった
栄一はのちに「わしがもし一身一家の富むことばかりを考えたら、三井や岩崎にも負けなかったろうよ。これは負け惜しみではないぞ」と子どもたちに語ったという逸話が残っている。ここでいう「岩崎」とは、いわずと知れた三菱財閥の創業者・岩崎弥太郎である。明治初年の経済界の大物といえば、渋沢栄一と岩崎弥太郎だった。しかし、2人はあまり仲がよくなかった、というか意見が合わなかったらしい。
弥太郎は、「三菱会社は、たまたま名称も体裁も会社のようにしているが、多くの出資を集めるために会社形式を採ったわけではない。その実態は岩崎家単独の事業であるから、事業に関する判断や従業員の人事などはすべて、社長・岩崎弥太郎の決裁を仰ぐように」と宣言した人物である。
一方の栄一は「合本(がっぽん)主義」の権化で、多くの人々から資本を集めることによって企業を設立する、株式会社形態をもっとも有効活用した人物だった。栄一は、古河財閥の古河市兵衛、大倉財閥の大倉喜八郎、浅野財閥の浅野総一郎などとも親しく、彼らを支援したり、共同して企業を設立したりしている。
ただし、弥太郎と栄一が意気投合して、いずれかの方向にしか尽力しなかったら、日本の産業界はもっと遅れていただろう。
(文=菊地浩之)
●菊地浩之(きくち・ひろゆき)
1963年、北海道札幌市に生まれる。小学6年生の時に「系図マニア」となり、勉強そっちのけで系図に没頭。1982年に國學院大學経済学部に進学、歴史系サークルに入り浸る。1986年に同大同学部を卒業、ソフトウェア会社に入社。2005年、『企業集団の形成と解体』で國學院大學から経済学博士号を授与される。著者に、『日本の15大財閥 現代企業のルーツをひもとく』(平凡社新書、2009年)、『徳川家臣団の謎』(角川選書、2016年)、『三井・三菱・住友・芙蓉・三和・一勧 日本の六大企業集団』(角川選書、2017年)など多数。
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