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【第112回】 2019年3月25日 秋山進 :プリンシプル・コンサルティング・グループ株式会社 代表取締役
働き方改革「実質残業」の落とし穴、知的生産的な仕事が危ない!
時間感覚
月45時間の残業は
短いのか長いのか
もうすぐ4月。働き方改革関連法が施行される。
残業は、原則月45時間まで。これを機によい働き方に変えて、成果をあげ、健康的に生きたい。
さて、残業上限時間についてである。45時間は多いと思う人もいるだろうが、少なすぎるのではと思う人もいるだろう。というのは、時間の感覚は必ずしも客観的なものではないからだ。
例えば、白熱したスポーツの試合を見ているとき、あっという間に時が経つ。まだ学生の頃、私は1979年に行われた、高校野球最高の試合といわれる伝説の「箕島高校対星稜高校」の試合をレフトスタンドで観戦していた。延長18回、3時間50分の試合であるが、手に汗握るその展開に熱中していた。12回裏の島田の同点ホームランも、16回裏のファールフライを一塁手が転倒したために命拾いした森川が打ったホームランも、いまだに目の前で起こったとおりに頭の中で再現できるくらいだ。時間の経つことなど完全に忘れていた。
仕事も同じだ。興味がわき、面白いもの。良いメンバーで、いいチームワークのもとに進められる仕事は完全に時間を忘れさせる。夕食をとりながら議論をしているはずが、気がつくと終電の時間になっていることなどざらである。体感としての時間は1時間くらいなのに、実際には時計を見ると5時間くらい経っている。
そういう寝食を忘れるような仕事が続けば、残業などあっという間に45時間を超え、100時間に近づく。それを超えることも普通にあった。
まことにやっかい(?)なことに、それなりに年齢の高い、しかもそれなりの成功者といわれる人はみんなこのような体験を持っている。そしてそれを誇りに思っている。熱中できる仕事、場合によってはフロー体験ともいえるような幸せな仕事は、大成功することが多い。したがって出世をした人(成果を出した人)は、このような幸せな時間=「主観的な時間は短く客観的な時間は長い」という体験を、貴重な原体験として記憶の中に持っているのである。
では、この主観的時間と客観的時間の違いはどのように生まれてくるのだろうか。
なぜ楽しい時間はすぐ終わり
退屈な時間は長いのか
いろいろな説があるようだがその1つによると、「主観的時間の長さ」は、「意識的情報量」 を「無意識的情報処理速度」で割ったものに相当するらしい。
つまり、楽しい時や忙しい時には、いろいろなことを忙しく処理したり、楽しい時間を夢中で過ごしたりして、「無意識的情報処理速度」が高いと考える。すると、主観的時間は小さくなる(自分が感じる時間は短くなる)。時計で見れば実際には長時間であっても、主観的には短時間と感じるのだ。
一方、退屈でつまらない時には、集中することができず、外部の刺激や情報に注意が向いている。些細な「意識的情報量」が増えるいっぽうなのだ。その場合は、結果的に主観的時間も大きくなる(自分が感じる時間が長くなる)。つまり、主観的に時間が過ぎるのを遅く感じるというわけである。
このように、個人の時間感覚は、意識的に感知する情報量と無意識的情報処理能力の比によって決まるという説である。かなり自分の実感に近い。
しかしながら、この主観的時間が短いからといって、長期間にわたり長時間労働を続けていくと徐々に調子は落ちてくる。大量の情報処理からくる疲労は脳と身体に蓄積してくる。そして体調に悪影響が出る。精神は病まずとも体が病む。体に不調をきたせば精神にも悪影響が及ぶ。好調は長くは続かない。
最悪なのは、主観的な時間は長く(つまらない)、さらに客観的時間も長い(終わらない)仕事である。つまらないのに終わらない……これはつらい。精神と体のどちらも病むのは必定だろう。会社はこれらの仕事を根絶しなければならない。
関係のない会議にむやみに人を集めることをやめ、適材適所を進め、さらにはAIでもRPAでもなんでもよいから、意味を感じられない仕事を撲滅しなければならない。本来働き方改革の本丸はここにある。
仕事をしていなくても
知的生産する潜在意識の働き
仕事と時間に関しては、もうひとつ別の観点がある。直接的、顕示的に仕事をするのではなく、潜在的に行っている仕事があるのだ。
知的生産のためのバイブルともいえる『アイデアの作り方』(ジェームズ W.ヤング著、CCCメディアハウス刊)には、いかにして優れたアイデアを生むかについての秘訣が書かれており、世界中の知識人がこの本の手法を実践してきた。ヤングはこう述べる。
「アイデアとは既存の要素の新しい組み合わせ以外の何ものでもない」
本の内容を要約すると、以下のようになる。
1)まずは考えたい問題について、あらゆる資料、情報を徹底的に集め、読む。
2)新しいアイデアはアイデア同士の掛け合わせなので、集めた材料同士の組み合わせを幾通りも考えてみる。集めた材料を、パズルを一つひとつ触るように確かめ、見る方向を変えてみたり、置き方や並べ方を変えてみたり、加工したりして、いろいろな関係の可能性や関連性を探る。
3)あれこれ試行錯誤したら、すべて忘れる。放棄する。忘れているあいだに潜在意識のなかでアイデアが孵化する。
このようにして十分発酵させると、無意識のうちに、自然に機が熟して新しいアイデアがふとした瞬間に生まれるというのが本に書かれた手法である。
さて、問題は3)の寝かせておく時間である。当人の意識からは消えるが、実際には頭のどこかで潜在意識が一生懸命仕事をしているのだ。コンピューターでいえば、バックグラウンドで勝手に動いているプログラムである。見えないけれど、実際には動いているから、なにかのきっかけで突然アイデアがひらめく。では、この人が潜在意識で動かしている時間は労働時間ではないのだろうか。
優秀な人になると、こういった潜在意識下で何本ものプログラムを走らせている。しかし、これを労働時間と認定するのは難しい。外から見る限りでは働いていないから(自覚もないし)労働時間と認定はできないものの、実際には(間違いなく)働いているのである。
こういう働き方をする人のほうが、そのときだけ考える人よりも明らかに知的生産のレベルは高い。ただ、これを労働時間にするかといわれると、その実在性が証明できないからカウントできない。
表向きは会議に出ながら、今晩どの飲み屋に行こうかと考えている人には、会議に出ている時間を労働時間と計測することでお金を払える。しかし、無意識ではありながらも、仕事の成果に向けて生産的に動いている脳の働きに対してお金を払うことは難しい。
知的生産の仕事は、やはり時間で測るのには向いていないのだ。
時間と仕事の関係についてはまだまだ試行錯誤と改変が続くだろう。今回の改革をポジティブな結果をもたらすための第一歩としてとらえたい。
(プリンシプル・コンサルティング・グループ株式会社 代表取締役 秋山 進、構成/ライター 奥田由意)
https://diamond.jp/articles/-/197734
前向きに読み解く経済の裏側
大学卒業生と若手サラリーマンに贈る「べからず集」
2019/03/25
塚崎公義 (久留米大学商学部教授)
今回は、久留米大学商学部教授の塚崎公義が、大学を卒業する学生に贈った「べからず集メッセージ」を御紹介します。若手のサラリーマンにも読んでいただければ幸いです。
(gyro/Gettyimages)
雛が飛び立てば辛いことも多い
卒業おめでとう。と言った後の言葉が難しい。高校の卒業式や大学の入学式では、「これから自由な時間がたくさんあって、大学は楽しい所だ」という明るい話ができるのだが、大学の卒業式はそうではない。「これまで自由な時間がたくさんあって楽しかっただろうが、これからは違う」という話をしなければならないので、話す方も辛いのだ(笑)。
しかし、物は考えようだ。君たちは、これまで「親や社会に育ててもらっている子供」だったのが、晴れて大人の一員となったわけだ。巣の中で親鳥からエサをもらっていたヒナが、自分でエサが獲れるようになったのだ。これからは、巣から飛び立って自分でエサを獲るのだ。これは素晴らしいことだ。
もちろん、巣の中で待っているヒナと比べれば、苦労も危険も多いが、それが一人前になるということだ。しっかり大人としての仕事を頑張って欲しい。
辞める前に次の仕事を確保せよ
仕事は辛い。当然のことだ。職場が遊園地のように楽しかったら、給料をもらう代わりに入場料を払わなくてはいけないはずだから。仕事自体が大変だということもあろうが、社会人が辛いのは、上司や顧客が選べないということだ。
学生時代のアルバイトも、金をもらって働く以上は辛かったはずだが、アルバイトは、嫌なら辞めれば良いだけだ。特に今は景気が良いので、次のアルバイトが簡単に見つかるので、辞めないで我慢をする理由がない。
しかし、正社員は違う。辞めてしまえば、せっかく辛い就職活動の結果として得られた仕事を失ってしまうのだ。それだけではない。日本の会社は履歴書に空白期間がある人物を採用したがらないのだ。他の会社で働いている正社員が転職しようと思えば採用してくれるかもしれないが、失業者あるいは非正規労働者(アルバイトなど、正社員でない人)が就職しようとしても、採用される可能性は低いのである。
そこで、是非覚えておいて欲しいのは、「辞表を出す前に次の仕事を確保しろ」、ということだ。入社した先がブラック企業であったり、上司にパワハラされたり、様々な理由で辞めたいと思うことがあるだろう。多少の事は我慢すべきだが、そうは言っても我慢できないこともあろう。そういう時には、辞めて転職するのも選択肢の一つだが、その際に絶対に覚えておいて欲しいのが、次の仕事の確保である。
上司と大喧嘩をしても、決して口にしてはいけないのが「こんな会社、辞めてやる」である。その言葉は飲み込んで、転職活動をしよう。「次の職場が見つかりさえすれば、嫌な上司に辞表を叩きつけてやれるのだ」と思えば、転職活動にも熱が入るだろう(笑)。
詐欺にはくれぐれも注意
若者は、詐欺師のターゲットになりやすい。警戒心が薄いからだ。中年になると、若者より金は持っているが、自分が騙された経験があったり知人が騙された話を聞いたことがあったりするので、警戒心が強く、騙しにくいのだ。
詐欺に遭わないためには、常に警戒心を持っていることが重要であるが、私が強調したいのは、「相手の立場に立って考える」ということだ。仮に君が「絶対儲かる投資の話」を知っていたとしたら、見知らぬ若者に教えてあげるだろうか? 教えてあげないはずだ。そうだとすれば、君に絶対儲かる話を教えてくれる人は、よほどのお人好しか詐欺師だろう。
余談であるが、「相手の立場で考える」というのは、ビジネスの社会でも役に立つので、覚えておいて欲しい。「ライバルが何をされたら一番困るか」「どういう品揃えをすると客が衝動買いをしたくなるか」といったことを、ライバルや客の立場に立って考えてみるのである。
高金利の借金は怖い。リボ払いやキャッシングに注意
奨学金と住宅ローン以外の借金は、本当に必要な時だけにしよう。友達からの借金は、人間関係を壊す場合が少なくないので、財布を忘れた時に電車賃を借りる程度は構わないが、それ以外は絶対に避けよう。
反対に、友達に金を貸すのもやめよう。それで友達を失ったという話は数多く耳にしているので。もしも友達に金を貸したいなら、形式は貸出でも、心の中では困っている友達にカンパしよう。つまり、返ってくる事を期待しないということだ。それなら、返って来なくても友人関係は損なわれないし、返ってくればそれに越したことはないのだから。
借金で怖いのは金利だ。「消費者金融は高金利で怖い」と思っている人は多いだろうが、カードローンやクレジットカードのリボ払いも、同じくらい高金利で怖いものだ。
「1万円借りても毎日の利払いは5円だけです」と言われると気楽に借りたくなるが、毎日5円の金利を支払い続けると、1年間で1825円、10年間で18250円プラス閏年分の金利を支払うことになるのだ。
もちろん、「明日までに手術代金を払わないと親が病気で死んでしまう」という状況であれば高金利でも借金をすべきだが、それ以外の場合には高金利の借金は極力避けるべきだろう。
保険は本当に必要かを考えて
「社会人になったのだから、一人前の大人として生命保険くらい加入しておかないと」などと言われて、生命保険に加入する新入社員が多いと聞くが、本当に保険に加入する必要があるのだろうか。
万が一、独身の新入社員が死亡したとして、悲しむ人はいるだろうが、路頭に迷う人がいるだろうか。親を養っている新入社員は別として、そうでない限りは生命保険は不要だろう。
生命保険というのは、客が払った保険料の中から保険会社のコストや利益が出ているわけだから、客全体としては損をしているわけだ。それでも生命保険に加入する必要があるのは、「自分が死んだら路頭に迷う人がいる」という場合だろう。「何となく加入しておくと安心だから」という事で加入するのはやめておこう。
困った時は188番に相談しよう
学生時代は、困ったことがあったら学生課に相談すれば良かったが、これからは犯罪は110番に、火事や急病は119番に、金のトラブル等は188番に電話しよう。
188番は、消費者ホットラインと呼ばれるもので、電話をすると、身近な消費生活センターや消費生活相談窓口を紹介してくれる、頼もしい存在だ。「イヤや!」と覚えておこう。
以上、卒業式にふさわしく無いことを色々と述べたが、最後にもう一度「卒業おめでとう」と言っておこう。君たちの人生が素晴らしいものであることを祈っている。
http://wedge.ismedia.jp/articles/print/15733
【第23回】 2019年3月25日 野田 稔 :明治大学専門職大学院グローバル・ビジネス研究科教授
心配性の日本人が不安を解消するための「究極の一手」
毎年、厄除けに行かないと、何か悪いことが起こるのではないかと思うようになっていませんか?(写真はイメージです) Photo:PIXTA
「厄年という呪縛」は
日本人に共通のものだろうか?
世界の中でも日本人は心配性な国民だといわれます。
しかし、若い頃の私は、そんなこととは無縁の男でした。目先では慎重なこともありましたが、先々には楽観的でした。自分には基本的に不運は訪れず、努力次第でいかようにも明るい未来は開ける、と感じていました。
ところが42歳、つまり男の厄年になると、何があったわけでもないのに厄除けのお参りに行く自分がいました。
特に本厄のお参りは、一種、行事的なところがあります。多くの人が行うことであり、取り立てて変わったことではありません。しかし私の場合はそれ以来、毎年その時期になると、厄除けで有名な寺にお参りをしなければ気が済まなくなってきたのです。
いつの間にか、自分は不安を意識する人間になっていました。厄除けに行かないと、何か悪いことが起こるのではないかと思うようになっていたのです。
なぜだろうかと考えました。「そういう年齢になったのだ」と、言ってしまえばそれまでかもしれません。齢も重ねてきて、守るべきものも増えてくる。個人差はありますが、徐々に体力の衰えも感じ始め、健康や経済面、あるいは自分の居場所など、将来の様々な不安にかられます。永遠だと思えた自分の人生に有限を実感します。
多くの人がそうなのだろうと思います。
そもそも冒頭に記したように、日本人は遺伝学的にとても不安要素の強い国民だといわれます。生物学的な話をすれば、いくつかある脳内物質(ホルモン)の中で、3大脳内ホルモンといわれるものがあります。
それは、セロトニン、ノルアドレナリン、そしてドーパミンです。
セロトニンは不安感を抑え、楽観性を増す脳内物質です。精神を安定させる物質です。ノルアドレナリンは興奮や覚醒をつかさどる物質で、これが多いと活動的になります。最後はドーパミン。新規探索志向、つまり好奇心の源といわれる物質です。
このうち「不安」に直結する物質がセロトニンですが、セロトニントランスポーターという運搬役があって、セロトニンを回収し、再利用するのだそうです。
このトランスポーターの型を決める遺伝子があり、その型の分布が人種によっても大きな違いがあるといわれます。
遺伝子の型によって再利用の効率が違ってくるので、その結果、セロトニンの働きに違いが出てくるわけです。働きが悪いと、不安感が強まるということになります。
セロトニントランスポーターの遺伝子にはS型とL型の2種類があり、その組み合わせによってSS型、SL型、LL型の3タイプに分かれます。これを日米で比較してみると面白いことがわかりました。
日本人はSS型が全体の7割近くを占め、LL型は数%しかいないそうです。対して米国人はLL型が多数で、SS型は極端に少ない。結果、日本人は慎重派、悲観的で緊張しやすい人が多く、米国人にはストレス耐性が高く、楽観的な人が多いということがいえるそうです。
そうしたことを考え合わせると、厄年を過ぎて慎重になる、不安を覚えるというのも、日本人として致し方ないことなのかもしれません。
雄大な大陸を背景にした米国民と、地震や噴火、台風といった自然災害の多い島国に住んでいる日本国民の違いという見方もできるかもしれません。いずれにしても、不安な心とどう付き合っていくかは、特に日本人、中でも私たちのような年齢になった人間にとっては大切な課題なのだと思います。
験担ぎも前向きな願掛けから
いつの間にか変質してしまう
日本人には験を担ぐ人が多いようにも思います。例えば、毎朝、最初の一歩は必ず左足から出す、ズボンやスリッパも左足から履くとか。昔、流行ったことですが、タバコの封を開けた時に、トントンと指で叩いて出てきた1本を抜き出して反対にしてもう一度入れ直し、その1本は必ず最後に吸うとか。
私にもいくつか担ぐ験があります。ただ、それがどんなことかをあまり他人に言うべきではないと聞いたことがあるので、ここではその内容は述べないことにします。あ、これこそ験担ぎですね(苦笑)。
とにもかくにも、なぜ験を担ぐのかについても考えてみました。
それでわかったことがあります。験担ぎは若い時からそれなりにやっていたと思い出したのです。ただし若い時の験担ぎは、いいことが起こるようにといった、いわば「願掛け」でした。たぶん、何かを偶然した時に、いいことがあった。だからその何かを習慣化しようとしたのだと思います。それこそが「験担ぎ」の本来の意味だと思います。
ところが、厄払いを意識し始めた頃から、私の験担ぎの意味も変わってきました。それまでは「具体的ないいことがあるように…」という願掛けだったものが、いつの間にか、「漠然と悪いことが起こらないように…」と願う習慣に変わっていたのです。
お参りもそうですが、験担ぎも、決して悪いことではありません。それが負担にならず、気が休まるならば、それは続けるべきだと私は思います。
ただ問題は、何事もそうですが、度を越してしまった時です。
人間、不安感が強くなると、悪あがきを始めます。どんどん深みにはまって、いわゆる「ドツボにはまる」ことになっていきます。
それはよくありません。精神状態をよくするための行動によって自分が拘束され、むしろ精神が苛まれていく結果になってしまいます。
イメージできれば、
その状態をマネージできる
不安症候群のようなものに襲われてしまった時は、一般には認知行動療法がいいといわれます。別名、論理療法です。自分が不安に思うもの、その源泉は何なのかということを論理的に解明していく方法です。原因を具体的に突き止められれば、その原因を取り除けばいい。たとえ簡単に取り除けないとしても、どうすればリスクを減らしていけるのか、どう行動すればいいかがわかります。また、その結果、あり得る最悪の状況を考えて、その状況は回避できるようにすることもできるでしょう。
場合によっては、最悪の結果になったとしても、「この程度の被害で済むのか」と分かり、安心できます。
「不安は明確化すると課題に変わる」ということです。
イメージできないものはマネージできません。逆に言えば、漠とした不安だから対処できずに、ただただ怯えてしまう。その姿形をしっかりと思い描くことができれば、多くの場合、対処できるようになります。たとえ、そのリスクを完全に取り除くことはできなくても、可能性を減らしたり、衝撃に備えたりすることができるはずです。
イメージできれば、その状態をマネージすることができるわけです。
この考え方は当然、正しいと思います。ただし、万能とまではいえません。私もこうした認知行動療法を行いますが、残念ながらそれだけで不安がすべて解消できるわけではありません。解明しようにも、しかとイメージできない漠とした不安というものもあります。
そこで今回の“究極の一手”です。
不安な心と向き合う方法として、「和魂洋才」を活用するのです。西洋の論理的・科学的方法論と、東洋の知恵をバランスよく組み合わせて使いこなすのです。
最近の医療現場で、西洋医学と東洋医学を上手くミックスした混合医療の重要性が説かれるのと同じです。東洋医学の知恵の多くは、反科学ではありません。科学ではまだ解明できていないことも経験値で鷹揚に取り入れているのです。
つまり、イメージできる不安の源泉は論理療法で解明し、しっかりと対応すればいいのですが、それでも解明できない漠とした不安には、神頼みも験担ぎも有効であると言いたいのです。
未知のものには未知のもので対処する。その鎧が自信につながり、安心につながるのであれば、それを否定する必要はありません。
そう思えるようになって、「こんなことをやっていて意味があるのか?」と考え始めた私の考察も、巡り巡って「意味がある」という結論に達しました。
西洋流の論理的アプローチにも限界はあるのです。論理で解明できる不安は、人間が背負い込む不安の一部にすぎないのです。
すべてにおいて必要なのは
バランス感覚である
ただ、注意すべきは常にバランスを崩さないことです。論理も神秘も、行きすぎは禁物です。どちらも行きすぎれば取りつかれ、病的変質に至ります。
論理的すぎれば、論理を逸脱します。神頼みも験担ぎも、意識せずにそれが心地よいうちはプラスですが、不安感が増すことで、何とかそれに対処しようと何でもかでも意識して行うようになると、危険です。
私も一時期、担ぐ験がどんどん増えていた時期がありました。次から次へと様々な験を担ぐようになって、そんな自分に疲れ始めたのです。神経質すぎたり、潔癖すぎたりして疲弊してしまうのと似ています。
そうなるとどうでしょうか?疲弊する上に、むしろ不安はどんどんと増していきます。たった1つでも験を担ぎ忘れた不安に、がんじがらめになっていきます。そもそも験を担ぐとは、先述したように、そうすればいい結果になったという経験からその行為を習慣化することであるはずなのに、むしろ脅迫概念になって、それをしないと悪いことが起こると強く思い始めるようになります。
心の病一歩手前の状態です。
そうなり始めたらどうすればいいのでしょうか。窮地に追い込まれた私が試みたのは、ショック療法です。意識して、1つひとつ験担ぎの呪縛の鎖をほどきにかかるしかありません。清水の舞台から飛び降りる覚悟で「やらないようにする」のです。例えば朝起きた時に、これまでとは違う足から一歩を踏み出すようにします。
大げさだと思われるかもしれませんが、それほどに呪縛は強いものです。
そうやって1つの習慣をやめて、数日様子を見る。何も悪いことは起こらない。日常は何も変わらないということを確認して、次の験をやめます。そうやって1つひとつ験担ぎをほどいていきます。
今度はやめることの習慣化ですが、すべてやめる必要はありません。負担にならない行動、昔から真に習慣化している行動までやめる必要はありません。要は、自分の気持ちが楽になればいいのです。
「和魂洋才」の考え方、生き方は常に重要です。何事も行きすぎはいけません。バランスのよい人生こそが最強です。そのためにも、どちらにも偏りすぎずに和と洋のいいとこ取りをしてみてください。
科学的アプローチも論理的思考も、神頼みも等しく使いこなしてこその「気持ちの良い人生」ではないでしょうか。
(明治大学専門職大学院グローバル・ビジネス研究科教授 野田 稔)
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