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(回答先: テレビ報道の深刻な事態 (2019年3月26日版) (広瀬隆) 投稿者 魑魅魍魎男 日時 2020 年 9 月 25 日 03:44:55)
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◆物語の始まり──回顧譚
◆第一話 韓国と北朝鮮の民衆が体験させられた苦難の歴史
◆米朝首脳会談によって南北朝鮮に平和が訪れた
◆南北首脳会談によって朝鮮戦争が事実上の終戦宣言
◆朝鮮半島に生まれた南北朝鮮の歩みと歴史のミステリー
◆韓国の強制徴用被害者(徴用工)に対する賠償命令判決の正しい解説
◆朴槿恵(パク・クネ)を退陣させた韓国民のロウソク・デモ
◆韓国人が実行しようとしている歴史の清算とは何か
◆韓国に独裁者を君臨させ、朝鮮戦争を引き起こしたアメリカ軍政と大日本帝国の売国奴
◆南朝鮮の民衆が起こしたアメリカ軍政に対する反乱
◆南北朝鮮で二つの独立国家が成立し、朝鮮戦争の開戦に向かった
◆北朝鮮の日本人がたどった地獄の逃避行
◆北朝鮮に朝鮮民主主義人民共和国が成立した経過
◆北朝鮮に比べて韓国の生活水準と経済力はひどく劣っていた
◆日本で進められた軍国化
◆朝鮮戦争が勃発した
◆サンフランシスコ講和条約によって日本が独立した
◆日本と韓国は独立国家ではなかった
◆第二話 韓国ドラマと韓国映画が教える人間の気概
◆反政府活動を展開した韓国の文化人ブラックリストと、記録映画『共犯者たち』
◆朝鮮王朝の歴史を描いた時代劇
◆日本の植民地統治時代を描いたドラマ
◆戦後の韓国を描いたドキュメンタリー・ドラマ
◆韓国人の現代生活を描くドラマ
◆日本と韓国が崩さなければならない壁は何か
◆韓国の財閥問題
◆南北朝鮮を貫く天然ガス・パイプラインと交通網
◆第三話 ノーベル賞・東京オリンピック・大阪万博・異常気象
◆ノーベル賞騒ぎと、学歴・肩書社会にはびこる無知
◆東京オリンピック騒ぎで、福島原発事故を忘れろって?
◆大阪万博騒ぎで、おそろしいファミリーが再び動き出したぞ
◆二酸化炭素温暖化説の嘘が警告する地球の危機
◆第四話 先人の行動と、残された資料を受け継ぐ人間はいないか?
◆日本のテレビ番組はプロの域に達しているか?
◆編集者の気概と読書人の気概があって初めて、書籍を売ることが可能になる
◆ジャマル・カショーギ惨殺事件とダイアナ妃黄金伝説
◆実業史観をもって海外の人脈を調査しなければならない
◆次世代に受け継いでもらわなければならない資料が秘蔵されている
◆ナチスが略奪した絵画の行方
◆広瀬隆文庫
◆物語の始まり──回顧譚
二人が囲碁で対局している時、 傍かたわらでその勝負を見ている者のほうが冷静に碁盤を見て、対局者より八はち目もく先まで手が読めることを「傍おか目め八はち目もく」という。私は、日本のテレビ番組を信用しなくなって以来、ここ何年も、テレビをほとんど見ない「書籍人間」であった。したがって本稿『テレビ報道の深刻な事態』で、テレビ報道に対して部外者の私が意見を述べるのは、おかめ八目のようなものである。
その意見が厳しい叱責を述べることになっても、テレビ番組を批判することが目的ではなく、日本のテレビ報道が向上することを目的として記述するので、テレビ報道関係者は私からの批判に激昂 げっこうせず、このような事実が実際にあることを知って、感情を「クール」に抑え、謙虚に耳を傾けていただくよう祈念する。
私のような部外者が、いくつかの問題について、テレビ報道に対して叱責・批判を述べるからには、本稿でテレビを論評する動機となった奇妙な経緯 いきさつを、初めに述べる。
2011年の福島原発事故が起こってからテレビ報道を信用しなくなった私が、なぜ「テレビ放送」に目を向けるようになったかと言えば、昨年2018年の春先、4月20日のことであった。その日、私の脳の血管が破れ、アッという間に意識が失われた。そうして一時、半身不随で横たわったままになる死の体験≠通じて、退屈しのぎに、ふとテレビを見た。再びテレビ報道番組を見るようになったきっかけは、この時であった。
この死の体験≠通じて私が痛烈に感じたのは、これからくわしく実証するように、本来すぐれているはずのテレビ報道が、韓国/朝鮮半島問題、原発問題、オリンピック腐敗問題、地球温暖化キャンペーンと自然災害の誤報、といった「ある種の重要な問題」に限ってだが、突然に大きな間違いを犯して、平然としている世界であった。このような場合の人間の習性は、次のようにたとえられる。「人は、物事がある方向に進み始めると、いっせいに全員が、もっとそれが進む≠ニ言う。ところが、それが逆の方向に進み始めると、同じ人たちが、逆の方向にもっと進む≠ニ言い始める」
この言葉通り、テレビ局が大きな間違いを伝えているにもかかわらず、 夥おびただしい数の日本人の視聴者がテレビ報道に誘導されて、ニュース解説が事実であると信じて、テレビ画面に釘づけになっている姿が見えた。
それで、社会がこのまま進んではよくない、という感情が呼び覚まされ、テレビ報道番組に出演しているコメンテイターたちの間違いを指摘し、正しい事実を知ってもらう必要性を痛感し、嫌われることを承知で、今まで自分がまったく書いたことのない「テレビ報道論」という本稿の執筆を手がけようと決意した次第である。
私がこれから語ることは、一度死んで、死後の世界を見てきた人間の言葉である。これを読めば、読者が生きているうちに、死後の世界を知ることができる話であるから、滅多にめぐり合わない、逸すべからざる天佑 てんゆうだと思って、お聞きいただきたい。
テレビ報道に関しておかめ八はち目もくの立場にある小生は、世間では、日本文芸家協会の「文芸年鑑」に文化人として登録されている市井の一作家だが、事実上は、肩書を嫌う一匹狼の社会問題の活動家なので、狭い世界では知られていても、現在のテレビ報道界では完全に無名の人間≠ナある。しかし私にとって、この原稿の内容を最も熟読玩味してほしい読者は、小生を知らないそのテレビ報道界である。どこぞの馬の骨≠ニ一いっ蹴しゅうされ、無視されることがないよう、初めに自己紹介をする。小生は、かつてアメリカの放送局CNNから「日本で報道番組を開設するのでニュース・キャスターになってほしい」と、テレビ報道の司会者の依頼を受けた時、「ニュースに対して、自分で調査してから語る人間なので、司会者は不適です」と、その依頼を断った人間である。
一方、小生はかなり長い間、思考力をかざして書籍を出版し、いつしか著書の発行部数が、2018年で累計450万部を超えたので、「テレビ人間」ではなく、「書籍人間」であった。最初の本の出版が1978年で、当時35歳だった私は、さまざまな視点から意見を伝えるため10のペンネームを使い、十人十色の作家を装って、短編小説集『魔術の花』を自費で発刊し、それが作家・永六輔氏の目にとまって執筆生活を始めた。したがって私の書籍出版生活は、75歳となった2018年に指折り40年を数えた。過去40年間に450万部を発刊したということは、1年間の平均発刊部数≠ェ11万部を超える計算になる。
ある人から、「あなたの本はどれぐらい出版されているかね」と部数を尋ねられてこの数字を答えたところ、「えっ、11万ってのは、高校野球で甲子園球場を一杯にする人数の2倍を超えるんだよ。あんたの本を、あの野球場を埋める人間の2倍が毎年毎年買って読んでいるなんて……」と、彼は絶句するように驚いていた。
講演会や集会に参加する人の数に比べて、1年平均11万部は、確かに非常に大きな数に聞こえるかも知れない。しかし驚く必要はない。世の中には、誤ったニュースが大量に流れている。勘違いしたニュース解説も横行し、悪質な嘘(フェイクニュース)も大量に流されているので、そうした過ちを打ち消し、社会の木鐸 ぼくたくとまで言えなくとも、穏当な答となる事実を広めるには、その程度の部数が最低限必要である。
比較的熱心に本を読む人を「読書人口」というようだが、書店に並ぶ本を見て私が勝手に「真に知性的」と評価する書籍はごく少数に限られるので、日本人の真の読書人口は100人に1人、つまり1%ぐらいであるとみている。したがって、正味の読書人口は1億人のうち100万人程度であろう。すると11万部は、知性的読書人口100万人のうち、ほぼ10%の人が私の本を読んでいることになる。
昔から、社会の変革は、人口の5%が動き出せば起こると言われているので、社会を変えるきっかけとしては、私もある程度は知識の貢献をしてきた可能性がある。ただし11万部という数字も、1年だけの打ち上げ花火では意味がなく、毎年続けることに物書き人生の価値があり、40年間これを続けることは、読者がお考えになるより、一徹な精神力が求められる作業である。
このように私自身が書籍を通じて事実を証明する目的は、誰の手によってでもよいから、過ちが事実によって正される≠アとを望んでいるからである。つまり、文学賞を狙う人のように己の名を売ることを望むからではなく、「社会が間違っている時、それに耐えられない」からである。したがって、私が自分で書いた本に著者として私の名前を記すのは、記述内容の責任を明記する以外の意味はない。
私は、そうした社会問題の追跡調査と執筆作業に命を懸けてきたが、かなり多くの書籍愛好者が私の著書を読んでくれたので、過去に歩んできた人生の軌跡は、大きくは間違っていなかったと自負している。しかし、テレビ報道界に対して傍流の立場にある「書籍専門の人間」が、「テレビを碁ご盤ばんに見立てた世界で、八はち目もく先を読めもしないのに、余計な口を挟むな」という意見を投げる人も多いだろう。
ところが、かく言う私も、かつて一時期は、ほとんどのテレビ局の報道番組に出演した体験がある人間で、テレビ局の内情については、さまざまな事実を知っているのである。そのためアメリカのCNNから声がかかったのである。一方、「岩波文化人は学者を重用する権威主義」と言われることがある岩波書店が出版し、私も頻繁に利用している『近代日本総合年表』が、この年表の1988年7月30日の社会欄に「テレビ朝日、<朝まで生テレビ>で <徹底討論・原発> 放送(広瀬隆他)」と書き、権威主義者から嫌われ、タブーである小生の名前を記述したほど、小生の出演した「朝まで生テレビ」が社会現象として耳目を集めたことがある。タレントの所ジョージから、面と向かって「広瀬隆は、テレビ局が上映禁止物体≠ノ指定して何も言わせないようにした」と聞かされたのは、そのような時期であった。いや、問題は私にあるのではなく、テレビ報道界にあるのだから、これから述べる当り前の発言に対して、口に蓋ふたをされては困る。
2011年3月に福島原発事故の大惨事が起こってから今日まで、私は国会議員をはじめ、エネルギー産業界と市民運動から400回以上の講演を依頼され、原子力発電の危険性についてだけでなく、被曝の深刻さについて、エネルギー問題の解決法について、地震の脅威について、ほとんどの会場では「3時間」にわたって語る機会が与えられた。それは、私が『原子炉時限爆弾 大地震におびえる日本列島』(ダイヤモンド社)を発刊し、「大地震によって原発の巨大事故が起こる危険性が迫っている」ことを予告したそのほぼ半年後、2011年3月に東日本大震災が発生し、警告が的中する形で福島原発事故が起こったからである。その後の私は、テレビ報道番組よりくわしく、はるかに分りやすく、正確にこれらの問題の本質を講演で説明してきたつもりである。
しかしテレビ報道界は、小生のごとき報道界から締め出された人間が、福島原発事故後の講演回数が日本一≠ナあるばかりか、昨年2018年に九州で8ヶ所の連続講演′繧ノ疲労のため脳血管が破れて倒れたという現実が、日本全体の知性の低さを示していると思わないだろうか? それは「民衆のため」という視点が鍵を握っているからであり、テレビ報道に最も欠けているのがその真剣さ≠ネのである。私は「テレビ報道は絶対に必要だ」と信ずる。だが、そこに最も強く限界を感じるのは、「テレビ画面には映像があって、画像に視聴者の目を惹きつけられるので、その映像効果のため、事実について大した説明もナシですませてしまっている」ことである。テレビで10分も20分も説明したドキュメントでさえ、書籍用の文章にまとめると、ほんの1、2頁分ぐらいの中身しかないことがよくある。逆に言えば、書籍とは、それほど大量の資料を詰めこんだ知識の宝庫である。事実を語ることが量的に無制限の書籍に対して、テレビ報道の時間は制限されている。そのため、問題を深くあらゆる方向から解析・説明するのを阻んでいることは確かである。私の講演が、テレビ報道と同様に大量の図版を用いて分りやすくしても3時間以上になるのは、重要な社会問題に関する知識としてすべて必要な内容だからであり、来場者がその話の途中で帰ることは絶対にない。それに比べて、テレビ報道番組は、1テーマの割り当て時間があまりにも短すぎる。
以上のような観点から、具体的に何が問題であるかを読者に知ってもらうため、私は読者と共通の話題となるテレビを見るようにつとめて、日々の出来事について、このテレビ報道論を執筆し始めた。
テレビ報道番組を見始めた面白いきっかけを述べておく。死を体験し、半身不随となった時の私は、過去と同じように生活を送れなくなった自分の姿を見て、これから先の人生は、今までと違って厳しいものになりそうだと直感した。そして、何を、どうすればよいだろうか、と考え始め、ふとその瞬間、ひらめいたことがあった。最近は、俗悪なものだという先入観から、まず見たことがなかった日々のテレビの報道番組も、死の体験から考えを改め、独り合点でものごとを思索してきた自分の落ち度に気づくかも知れないと考えて、つとめて見るようにした。これが、人生の転機となったのであった。
しかし、久しぶりにテレビ番組を見始めると、テレビ報道というものは、自分がそれを見なければ知らずにすんだ世界中の出来事を教えてくれ、余計な心配をしなければならなくなる奇妙な道具である、というのが最初に受けた印象であった。たとえ事件が自分と関係のない遠い土地や、見知らぬ外国で起こっていても、テレビ局が勝手にわれわれにニュースを押しつけて教えてくれ、私の思考力に介入してくる厄介な存在であった。この介入の仕方は、新聞・雑誌や書物と違って、相当に強引なものであった。
さて一方、私はこれまで文筆家であっても、他方で東奔西走・南船北馬の市民運動に打ちこんできた人間だったので、「自分は病人だから、何もしないでよろしい」という認識を人生で初めて抱き、これまでのような日々の作業から解放され、不思議な特権を獲得した気分になった。韓国ではこのような人間を、「三さん食しょく」と呼ぶようだ。つまり定年退職して家にゴロゴロし、居い候そうろうのくせに朝・昼・晩の三度の食事をきちんとほしがる厄介者の旦那を、女房が煙たがって「三食」とバカにするのである。自慢ではないが、私は医者が認める公式の病人になったので、この「三食」とほぼ同等の権利を獲得して、社会問題のあらゆる雑事から解放されて、気分はすこぶるよかった。
こうして社会と断絶した状態≠ノなり、他人からの連絡を一方的に断って、三食生活を味わうことになった結果、至福の雲に包まれた天国のごとき生活が訪れ、何ごとにも逆らわず、得心がゆくまで各局のテレビ報道を見続けたのである。
外科手術ナシで、漢方薬だけで、1ヶ月後に奇蹟的に歩けるようになり、その後、リハビリを続け、後遺症もまったくなく、病状がほとんど完治したので、東京・杉並区にある自宅から、時たまバスに乗って荻窪 おぎくぼ駅にうまい食べ物を求めて買い物に出かけるようにつとめ、8月16日には、思い切って電車に乗って吉きち祥じょう寺じまで映画を見に行った。それが、後述する、韓国の光こう州しゅう事件を描いて、韓国で2017年に観客1200万人を動員した名作セミドキュメンタリー映画『タクシー運転手』であった。
こうして、7〜8月に西日本を襲った豪雨と、猛暑と、9月の台風のテレビ報道と北海道の大地震被害を見て心を痛めながら、夏の季節を乗り切った。ところが私の脳には、あふれた血液がまだ少し残っていたので、10月下旬になって、メニエル氏病が発症した。体を寝起きするたびに、耳の三半規管の平衡感覚が失われ、遊園地のビックリハウスに入ったように周囲と天井がぐるぐる回る激しい目め眩まいに襲われ、これが治まるのに1ヶ月かかった。これではまだ、自分が考えるような完治までにはほど遠い体であると気づいて、しばらく生き延びるために、社会的な活動は自粛することにした。
◆第一話 韓国と北朝鮮の民衆が体験させられた苦難の歴史
◆米朝首脳会談によって南北朝鮮に平和が訪れた
ここまでテレビに関わった経過について説明したが、私の本分は社会悪の鳥獣を追い立てる猟師であった。その猟師が、敢えて社会的な活動を避けなければならない健康状態に追いこまれたのだが、頭の働きが完全に回復した時点で、再び社会的なつとめを果たす意欲がムラムラと体内に沸き上がってきた。
とりわけ2018年6月12日に、アメリカ合衆国のドナルド・トランプ大統領と北朝鮮の金キム正ジョン恩ウン労働党委員長が、史上初の米朝首脳会談をシンガポールで実現させ、成功した姿をテレビで見た時から、私の世界情勢に対する解析能力が復活したので、以下に、その解析結果を述べる。
なぜ本稿の前半をそっくり、この問題の解説にあてるかといえば、私はたびたび韓国を訪れて民主化運動の渦中に身を投じてきた人間だったので、テレビ解説を見聞きしながら、日本のテレビ業界には朝鮮半島(韓国語で韓ハン半バン島ド)について正しく語れる人間がまったく存在しないことを痛感し、やり場のない感情を日本社会に伝える必要性を覚えたからである。朝鮮半島問題とは、日本人が最も重い責任を問われる歴史問題であるから、南北朝鮮が平和になれば、日本人にとって喜ばしい最大の事件のはずである。
ところが、朝鮮半島通や政治学者と自称する有名・無名の人が山のようにテレビに出て米朝首脳会談を解説したにもかかわらず、この事件の主人公である「韓国と北朝鮮の民衆」がどのように日々を感じて生きているかという、欠くべからざる最重要の視点を簡潔かつ率直に、全面に出して語る人間が誰一人、まったくいなかった。コメンテイターの表情には、事情を知らないにもかかわらず「自分はテレビに出ているのだ」という特権意識がにじみ出ていた。つまり自分の個性をアピールすることを目的として喋っているだけで、彼らの個性など無味乾燥たる野暮なものだということに自覚もなく、極論すれば、形式主義者ばかりと見えた。「朝鮮半島情勢にケチをつける」しか能のないすべての解説者、コメンテイター、司会者のことを言っているのである。例外として、朝鮮半島問題専門誌「コリア・レポート」の編集長である在日コリアン二世の辺真一(ピョン・ジンイル)氏だけは、韓国と北朝鮮の事情を正しく理解しているはずの解説者だが、テレビが彼に求めたのは、「政治家」の立場についての説明なので、朝鮮半島の「民衆」の感情を語る機会は与えられていなかった【2019年2月27〜28日の第二回/米朝首脳会談が合意発表に至らなかった件については、別の理由があるので後述する。またその後に新しい大きな展開があれば、この原稿に加筆する予定である】。
私は韓国の人から話を聞いていたので、少なくともこの米朝首脳会談という世紀の大事件≠ノついては理解していた。韓国の民衆と、北朝鮮の民衆は、いずれもアメリカ/北朝鮮の第一回の米朝首脳会談によって、南北朝鮮の軍事的な脅威が取り除かれた目の前の出来事に、言葉に尽くしがたい喜びを感じていたのである。
ただし、この感情は、南の韓国の民衆にとってみれば、胸中の半分以上、おそらく7割程度を占めたのが、空を見上げるように大きな希望であっても、残る3割ほどは海より深い疑念であった。希望とは、言うまでもなく「これからは南北朝鮮が平和裡に共存できる可能性が一気に高まった」ことであり、「南北朝鮮が和平に向かえば、南北に離散した家族の再会が可能になる」ことであった。経済的にも、「北朝鮮側に豊富にある地下資源を、韓国で利用できるようになる。さらに鉄道の物流ネットワークとガスパイプラインと送電線が連結されれば、朝鮮半島全体に産業の活性化が起こって、現在発生している若者の失業問題を解決する大きな雇用市場が開ける」だろうと、長いあいだ待ち続けていた展望が前途に見え、祝杯をあげたい気分であった。
そこに水を差す3割ほどの疑念とは、「では、南北朝鮮の国家統一という朝鮮民族としての悲願は、現実的に、今後どのように成し遂げられるのか」という未解決の問題を捨てきれない韓国民の不安にあった。かつて1989年の「ベルリンの壁」崩壊後に、東西に分裂していたドイツが統一に向かった時には、東ドイツ側が経済も政権も共に崩壊していたので、東ドイツ国民が望んだ通り、西側が圧倒的な経済力で東側を包みこんで、翌年1990年10月3日にドイツ統一を成し遂げることができた。だが朝鮮半島では、北朝鮮の政権が健在である現状では、ドイツのようにはゆかない。最初は朝鮮半島全体にゆるやかな連邦制≠とるなどして、少しずつ巧みに南北朝鮮の交流を段階的に深めてゆく政治的戦略に期待したいが、その青写真ができていない現在、こと南北の「国家統一」に対しては、韓国民として、まだ疑念のほうがはるかに強いのである。
トランプ大統領と金正恩委員長の初めての会談について言えば、日本のテレビ解説者の全員が「北朝鮮は本当に非核化を断行するか」、つまり容易には核兵器を放棄しないだろうと危ぶんで討論を重ね、その上「日本人の拉致らち被害者の問題をいかにして解決するか」について、とってつけたような疑念を表明し、誰でも分る政治的情勢を語っていただけであった。南北朝鮮の民衆にとって、そのように末梢的な事柄は、まったく歯牙にもかけない問題だということが日本のテレビ解説者には分っていなかった。朝鮮半島では、核兵器や拉致事件が問題なのではない。南北間の敵対関係と、そのため日常的に発生する武力紛争がなくなり、同じ兄弟姉妹の民族が普通に交流することが最も重要であり、それが達成されれば、ほとんどすべての問題は自然に解消されてゆくのである。少なくとも、そのような将来に向かうことで充分なのである。
拉致問題はどうだろう。北朝鮮による韓国人の拉致被害者は、日本人の拉致被害者に比べて、その数十倍の500人近くに達するのだから、日本よりはるかに大きな問題であるはずだが、韓国民の世論がこの被害者の救済に、冷淡なほど無関心であることには理由がある。1950年の朝鮮戦争以来続いてきた南北の対立から考えて、北朝鮮がそのような軍事的行動をとることは当然の行為である、と韓国民は考えてきたので、そもそも拉致は事件≠ナはないからである。それに対して大半の日本人は、朝鮮戦争以来続いてきた南北の対立を、他人ひと事ごととしか見ない無責任な世界に生きてきたので、この問題について理解できない(理解していない)のである。この日本人の無知の原因と、南北の対立に関する歴史については、のちにくわしく述べる。
テレビ解説者は、政治的な動きをテレビ視聴者に説明して、私はこんな内情を知っているのだという知識を語っていたが、それで日本の国民をどこに導こうとしていたのであろうか。彼らは、なぜ素直に喜ばなかったのか?
実は北朝鮮とアメリカの首脳会談という大事件は、誰もが知る通り、2018年2月9日〜25日の17日間、韓国東北部の平昌(ピョンチャン)を中心にして、冬季オリンピック大会が開催された時から、着実にレールが敷かれた出来事であった。
その2月9日のオリンピック開会式では、各国の選手団が入場したあと、最後に朝鮮民謡アリランのロック音楽が流れる中で、「韓国」選手団と「北朝鮮」選手団の「南北合同チーム」が、国境線のない朝鮮半島を描いた南北朝鮮統一旗を掲げて入場すると、会場を埋めた韓国の聴衆が全員起立して熱烈な拍手を送った。この平ピョン昌チャンオリンピック開会式が、数多くの日本人も見てきた数々の韓国ドラマを再現する雰囲気に包まれて、まさしく南北朝鮮民族の融和を象徴する偉大な祭典の幕開けとなり、その後の「南北朝鮮の平和」に向かって大きな一歩を踏み出したのだ。
ところが南北合同チームが入場したその感動の瞬間、開会式に参加していた日本の安倍晋三首相は、隣にいたアメリカ副大統領マイク・ペンスの動きをまねて、立ち上がらなかった。この映像は、日本のテレビでは放映されなかったので私は気づかなかったが、のちに韓国人から教えられたのは、南北平和統一の気運に水を差すその無礼な安倍晋三とペンスの態度振る舞いを、韓国の全国民が見て、「これがアジアの平和を主導すべき人間なのか!」と、会場と韓国全体が大きな憤りを覚えたそうである。北朝鮮への強い経済制裁を主張するペンスは、この劇的な2月9日の平昌オリンピック開会式に出席しながら、すぐに退席し、歓迎行事にも参加しなかった。加えて、この時に韓国を訪問していた北朝鮮最高人民会議・常任委員会委員長の金キム永ヨン南ナムが、北朝鮮を代表して「国家元首」格として出席していたにもかかわらず無視するという不遜な態度に終始した。
◆南北首脳会談によって朝鮮戦争が事実上の終戦宣言
そのオリンピック・ドラマから2ヶ月半後の2018年4月27日、南北朝鮮の首脳会談が南北朝鮮国境の板門店 はんもんてん(パンムンジョム)で開催されたのである!
残念ながら私はこの時、ちょうど意識を失って半身不随、最悪の時だったので、この最も重要な会談のニュースを、テレビでは直接見られなかった。しかしのちに韓国のハンギョレ新聞などの報道を調べてみると、以下のようであった。
その日、「北」の首脳は朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の朝鮮労働党委員長の金正恩キムジョンウンに対して、「南」の首脳は大だい韓かん民国みんこく(韓国)の大統領・文在寅ムンジェイン大統領が、午前9時すぎに南北朝鮮の軍事境界線を越えて握手してから、会談をおこなった。南北の首脳会談は、最初が2000年の韓国・金キム大デ中ジュン大統領と北朝鮮・金正日キムジョンイル総書記の会談で、二回目は2007年の盧ノ武ム鉉ヒョン大統領と金正日キムジョンイル総書記の会談がおこなわれたので、それに続いて三度目だったが、今回は板門店パンムンジョム宣言と題する共同宣言を発表し、南北朝鮮民族の和解をめざす画期的な会談となったのである。
その2年前の2016年から2017年にかけて、北朝鮮が原水爆実験とミサイル発射実験をくり返すのに対抗して、アメリカのトランプ大統領が北朝鮮攻撃を示唆して、米軍の空母などを朝鮮半島周辺に続々と派遣して、両者の軍事衝突の可能性が高まり、一触即発の危機的状況が迫っていた。そうした中で、激昂 げっこうする両者に対して、韓国の文ムン在ジェ寅イン大統領が「待った」をかけ、「朝鮮半島の問題は、アメリカのような他国が決めることではない! 朝鮮民族が決める問題だ。南北の朝鮮は二度と同じ民族が戦争をしてはならない」と、燃えるような信念を北朝鮮に伝えた末の成果であった。北朝鮮の金正恩に対して「同じ民族の南北朝鮮が、手を取り合って解決しましょう」と、韓国民の意思を伝えることによって、金正恩の心を動かした成果だったので、政治的駆け引きを目的とした首脳会談ではなかった。 平ピョン昌チャンオリンピックで南北合同チームを組んだ時から、金正恩と文在寅のあいだに流れていた男の友情が、過去の自じ縄じょう自じ縛ばくの憎悪とわだかまりによる対決心を吹き飛ばしていた。
この2018年4月27日に起こった劇的な南北首脳会談の出来事をくわしく述べる。北緯38度線の軍事境界線上で、文在寅が握手をしながら「こちらに立ちますか」と声をかけると、金正恩がうなずいて軍事境界線を越えて韓国側に入った。歴史的には、北朝鮮の最高指導者が軍事境界線を越えて韓国の領内に入国するのは、これが初めてであった。それは、1945年に日本が無条件降伏して植民地統治から解放された朝鮮半島に、その年からアメリカとソ連が入りこんで朝鮮民族を南北に分断し、敵対させてきたからである。
そのあと、第一歩に続いて、文在寅大統領が「私はいつ越えられるか」と言葉をかけると、金正恩委員長が「今越えますか?」と誘い、二人は手をつないで軍事境界線を越えて北朝鮮側に足を踏み入れた。
その後、金正恩と文在寅の二人は二度の会談をおこなってから、「南北は完全な非核化を通して、核なき朝鮮半島を実現する」という文言を盛りこんだ板パン門ムン店ジョム宣言と題する南北共同宣言に署名した。この非核化は、日本では、朝鮮半島の歴史を知らないテレビ解説者たちによって「北朝鮮が核兵器を放棄するするはずはない」といった論調で説明されたが、金正恩と文在寅が謳うたった「核なき朝鮮半島」とは、北朝鮮とアメリカの両国が共に核兵器を放棄することだったのである。
反共宣伝に熱中してきた日本のテレビ解説者たちが、あまりに史実を知らないので、私は驚いている。韓国の首都ソウルで夏季オリンピックが開催されたのは今を去るほぼ30年前の1988年で、その翌年、ベルリンの壁が崩壊した時期に、私が韓国を訪れて目撃したことを述べる。原子力発電は核兵器に通じるテクノロジーなので、当時の韓国では原発反対運動は死罪になる≠ニ言われた時代だったが、その時、私は韓国の市民運動に招かれて、生まれて初めて韓国に入った。当時、東京の私の自宅に「韓国電力公社」から脅迫めいた電話がかかってくる関係にあったので、「広瀬隆は入国できない」と言われながら、アメリカのCIAをまねた韓国の諜報工作機関である恐怖組織(旧KCIA)の国家安全企画部(安あん企き部ぶ)が、私を泳がせるために入国させたに違いなかった。事実、韓国内に入った私は、安企部に監視されて尾行され、走って尾行をまきながら移動して、講演をたびたびおこない、韓国で初めての′エ発に反対する市民デモの先頭を歩かされた。最後には、私も身の危険を感じてホテルを変えたが、私の行動は「すべて安企部に把握されているから、ホテルを変えても意味がない」と、韓国の人が教えてくれた。
その間、韓国内に米軍の核ミサイルが大量に配備されている図面を見せられた私は、南北朝鮮の軍事的対立の実情を知るため、列車に乗って北緯38度線の北朝鮮国境まで連れてゆかれた。途中で列車の乗客がほかに誰一人いなくなると、いささか不安に襲われ、心細くなった。やがて危険な国境の板パン門ムン店ジョムに着き、北朝鮮に向けて配備されている「米軍の核ミサイル基地」近くまでタクシーで行った。その時、タクシー運転手から「これ以上近づけば殺される。絶対に基地の写真を撮らないでくれ」と警告を受けた。
このように過去半世紀以上にわたって、韓国側から北朝鮮をおそろしい核兵器で威圧してきた張本人はアメリカだったのである。これは東西分裂時代のドイツ国民が、アメリカとソ連のヨーロッパ核配備に翻弄されて、核戦争の危機を味わってきた歴史と同じであった。
日本のテレビ報道界が常識として考えている「北朝鮮は核兵器を放棄しなければならないが、アメリカは核兵器を持つ権利がある」という話は、幽霊屋敷ほどにも奇々怪々な理屈であって、誰が考えても通らないストーリーである。したがって、北朝鮮だけは核兵器を放棄せよ、という軍事的な選択肢は、現在でもあろうはずがないのである。まずここに、常識を欠く日本人コメンテイターが勘違いしている非核化と、南北朝鮮の首脳が謳うたった非核化が、まったく違う意味のものであることを、テレビ報道界は肝に銘じて、アメリカの非核化を平等に俎そ上じょうに乗せなければならないのである。
そう考えれば、誰でもアメリカの軍需産業が核兵器を放棄するはずがないことに思い至り、ならば北朝鮮も核兵器を放棄しないことを知るはずである。いかなる核兵器廃絶運動をおこなっても、「核保有国は核兵器を手放さない」ということを認識して議論することのほうが人類にとって重要なのである。つまり1945年に広島・長崎に原爆が投下されて以来、政治体制が変った南アフリカ共和国のような国を例外として、「核保有国は核兵器を手放さない」という不文律が、人類の認めてきた常識なのである。
そうした状況の中で、実は、北朝鮮の三代にわたる首脳の金日成(キム・イルソン)→息子・金正日(キム・ジョンイル)→孫・金正恩(キム・ジョンウン)は、ある時期から、本心では独善的な共産主義国家・ソ連が好きではなくなり、北朝鮮の後ろ楯となってきたモスクワのクレムリンを信用しなくなった。そのため裏では、「北朝鮮の存続にとって重要なのはアメリカである」という政治戦略をもって、いかにしてアメリカを味方につけるかという独自の政策を進めてきた、と言われているのである。
その北朝鮮がことあるごとに「ソウルを火の海にしてやる」と叫んできた言葉は、韓国の首都ソウルに人口が集中し、南北国境の北緯38度線のすぐ近くにあるので、脅しではなく半ば本気であった。ところが、その北朝鮮軍部にとって最大の軍事作戦≠ヘ、ソウル攻撃ではなかった。北朝鮮に向けて核ミサイルを配備してきたアメリカに対抗して、原水爆を保有し、合衆国本土に到達する大陸間弾道ミサイル(ICBM)を開発することにあったのだ。したがって、北朝鮮にとっては日本も眼中にない。ミサイル発射実験でミサイルが日本の上空を横断しても、北朝鮮の標的は日本ではなくアメリカ本土なので、日本人はまったく心配する必要はない。日本人がそれで空騒ぎするのは、安倍晋三らの軍国主義一派が日本を軍事国家に変える口実に北朝鮮を悪用し、事情を知らないテレビ報道界がそれに乗せられて騒ぐからである。
こうして北朝鮮は世界最大の軍事国家アメリカ政府に対して、「余計なことをすると、ニューヨークかワシントンに一発お見舞いするぞ」という脅迫に成功して、首脳会談の場に引きずり出すまで手なずけたので、現在はアメリカの出方待ちの状態にある。
よって私が日本のテレビ報道界に尋ねたいのは、アメリカとIAEA(国際原子力機関)は、なぜ北朝鮮やイランの核兵器だけを非難するのか、ということなのである。アメリカ、ロシア、イギリス、フランス、中国の五大国が核兵器を持っていることをほとんどの人間が常識だと考えていると共に、紛争地域であるイスラエル、インド、パキスタンの核兵器が放任・黙認されているのはなぜなのか? おかしいではないか。この質問に答えられない人間は、北朝鮮の非核化などに言及する資格がないことこそ、むしろ人間の良識であろう。
したがって国際社会は、あり得ない北朝鮮の非核化を議論して無駄な時間を浪費するより、現実の敵対的武装を解除するという和平に向けての議論を進め、互いに「友好関係を深める」だけで必要充分なのである。なぜなら北朝鮮は、「アメリカが北朝鮮の友好国になるなら、われわれに核兵器は一発も要らない。核の全廃は簡単なことだ」と全世界に向かって宣言しているのだ。それこそが、2019年2月27〜28日のベトナムのハノイにおける第二回・米朝首脳会談を前にしてトランプ大統領が表明した「非核化を急がない」という意味であったはずだ。周囲が、余計な口を挟んで問題をこじらせず、ただひたすら友好・和平関係を結ぶ方向に進めば、現状はそれで完璧な成果だと言ってよいのだ! なぜなら地球全体を平和が支配すれば、核兵器は意味もない道具になるのだから、持つ国だけが莫大な金を浪費してバカを見るだけだからである。
ところが、朝鮮半島の平和を望まず、戦乱状態を望む人間がこの世に大量にいることを教えたのが、2019年2月28日のベトナム・ハノイにおける第二回・米朝首脳会談の「合意不成立」という結末であった。これは、「アメリカが北朝鮮に求めた完全非核化」と「北朝鮮がアメリカに求めた経済制裁全面解除」が折り合わなかったので、両国の合意声明が出されなかったと説明されたが、事実は、それほど単純ではなかった。
この合意不成立を仕組んだ人間集団がいたからである。アメリカの野党・民主党が主導する下院議会で、米朝首脳ベトナム会談二日目と同時刻にぶつけて開かれた公聴会で「トランプ大統領は違法行為を犯してきた」と告発したマイケル・コーエンの証言があって、これが朝鮮半島の和平合意をぶちこわしたすべてであった。罵詈雑言を並べてトランプ批判を展開し、醜い証言をしたユダヤ人コーエンは、2006〜2018年5月にドナルド・トランプ大統領の個人弁護士でありながら、この日にトランプ大統領を裏切った。当然のことながら、彼にはその行為の見返りがなければならないので、巨大なアメリカ軍需産業の手先となって利益が得られる正体を見せたのである。もう一人、コーエンの行動と息を合わせてベトナム首脳会談における合意ぶちこわしをリードしたのが、米朝首脳会談に急遽割りこんで参加した大統領補佐官(国家安全保障問題担当)のジョン・ボルトンであり、この男は、1964年に「ベトナム戦争で核兵器を使え」と狂気の核攻撃論を展開した共和党大統領候補のユダヤ人バリー・ゴールドウォーターの支援活動に従事した根っからの悪人で、2003年にイラク攻撃を主導し、数十万のイラク人を殺戮した極悪ユダヤ集団「ネオコン(新保守主義者)」の頭目であった。いずれもトランプの側近だったこのコーエンの証言と、北朝鮮の金正恩をたじろがせたボルトンによる核兵器・ウラン濃縮プラント・ICBMの全面廃棄要求が、米朝首脳会談が目的とした「朝鮮半島の和平合意」どころではない状況をつくり出したわけである。北朝鮮の核施設に関してシロウトのトランプ大統領にとっては、ボルトンの強硬姿勢に口を挟むことはできなかったし、他方、アメリカの軍需産業を前にした金正恩も、ICBMを放棄する道理はないからである。
ここから先は推測になるが、コーエンは同時刻に「ボルトンがベトナムで米朝合意を完全に破談にする」ことを知っており、他方、ボルトンは同時刻に「コーエンがトランプ批判の証言をおこなって全米のマスメディアを惹きつける」ことを知っていたから、このような結末になったことは、彼ら二人の口調がそれを証明している通り、間違いない。つまり米朝首脳会談前からコーエンとボルトンという狂言回し二人のあいだでこの悪質な劇場ドラマが完全に仕組まれ、そのことに気づかなかったトランプが、いざ会談を始めてみると、二人の罠にはまって、金正恩と約束していた合意発表を取り下げなければならなかったのである。
したがって、日本のテレビ報道界が、この米朝ベトナム首脳会談の失敗という「朝鮮半島の和平合意声明発表に対するブレーキ」を解説するなら、
──「アメリカが保有する世界最大の核兵器を論ずることなく、北朝鮮は核兵器を放棄しろ!」と迫った「アメリカの民主党と、軍需産業・軍需財閥と、俺たちは地球上で最も偉い人間である≠ニふんぞりかえる軍国ネオコン」──が、いかにおそろしい人間集団であるかを痛烈に批判しなければならなかった。ところが日本のテレビ報道で、そうした正しい批判がまったく出なかったことに、驚かされるばかりである。
テレビ報道に出演した人間たちは、ただトランプ個人と、金正恩個人の政治的な立場を解析しただけである。これはトランプ大統領と金正恩委員長の政治的問題ではない!この時、日本の安倍晋三らの邪悪で危険な軍国主義者も、北朝鮮とアメリカの友好関係が崩れたことを、大いに喜んだことが、状況を明確に物語っていた。
朝鮮半島のすべての民衆の日常生活と命が、国際社会が北朝鮮に課している意味のない「経済制裁を解除するかどうか」にかかっている問題なのである。トランプは、「金正恩に、原水爆実験とミサイル発射実験をしないと約束させた」と言っていたが、金正恩にとってそれはアメリカの一方的な要求であるから、下手をすれば、再び金正恩と北朝鮮軍部がへそを曲げて、ICBM発射実験に戻るおそれさえある。だがそれは、日本やアメリカの軍国主義者だけが喜ぶ結末である。
というのは今回と同じように、人類が「これで平和が訪れる」と希望を抱いた直後、大きく裏切られたことがたびたびあった。☆1945年の第二次世界大戦終了後、1950年に凄惨な朝鮮戦争が勃発した。☆1975年にベトナムのサイゴンが陥落してベトナム戦争が終結したと安堵した途端、1979年から泥沼のアフガン内戦が始まってアメリカとソ連の軍国主義者の激しい対立が再燃し、1980年にはイラン・イラク戦争が開戦した。☆1989年にベルリンの壁が崩壊し、翌年1990年に東西ドイツが統一されて東西冷戦が終ったと人類は歓喜したが、1991年から湾岸戦争によって中東は再び戦乱に巻きこまれ、ユーゴ内戦も手がつけれられなくなった。いずれも、政治家より力を持つ軍部と軍需産業が兵器を送りこんで、平穏な日常生活への道を許さないからである。
以上が現在までの朝鮮半島の状況である。しかしそのようなアメリカ側の薄汚い工作で、朝鮮半島の和平≠ェ崩されるのであろうか? 朝鮮半島では、北朝鮮との和平を切望する韓国民の存在がイニシャティヴを握っているので、現在のところ、和平は崩れないと見ることができるが、日本のテレビ報道界はそれをただ傍観するのではなく、南北が二度と対立関係に逆戻りしないよう全世界が努力するべきことを主張することが、報道機関としての義務である。つまり、太平洋を越えて朝鮮半島・アジア情勢に余計な口を挟むアメリカの軍国主義者に対してこそ批判をおこなうべきである。
希望的な話としては、朝鮮半島では、軍国主義者の動きを封じこめる一手が打たれていた。日本のテレビ報道では、「和平の合意失敗」だけが大々的に報じられたが、ベトナム米朝首脳会談より重要なことが、その2日後の2019年3月2日に決定されていた。それは、これまで米軍2万人と韓国軍30万人が参加しておこなってきた「大規模な共同軍事演習を今後は一切しない」という両国の軍部の決定であった。この毎年恒例の米韓軍事演習が、北朝鮮を核兵器開発に追いこんできたのだから、大規模演習をしないことによって、アメリカ・韓国・北朝鮮の三ヶ国が和平に向かう軍事的道筋が確実に定められていたと見ることもできる。これは、米朝首脳会談より重要なニュースであった。
立ち戻ってみると、朝鮮半島でこうした和平の道筋をつける目的で、すべての入口となったのが、先に述べた2018年4月27日の韓国・文ムン在ジェ寅イン大統領と北朝鮮・金キム正ジョン恩ウン委員長の第一回南北首脳会談であったので、この会談の内容を解説する。
文在寅と金正恩は、この会談で、「朝鮮戦争の終戦」と「平和協定の締結」を目指して、恒久的な平和構築に向けた「韓国・北朝鮮・アメリカ」の三者会談(または、そこに「中国」を加えた四者会談)の開催を積極的に推進することを宣言した。さらに、国境の軍事境界線一帯での敵対行為を中止して、国境の非武装地帯(DMZ──demilitarized zone)を実質的な「平和地帯」とすることを宣言に盛りこんだのである。
金正恩と文在寅の二人は、「北朝鮮と韓国の全国民が、和睦の握手を交わし、抱擁し合い、経済的な交流を深める日々」を思い描いていた。1950〜1953年におこなわれた血みどろの朝鮮戦争に幕をおろしたあと、喧嘩が喧嘩を呼んで相手を誹謗中傷し合ってきた態度を捨てて、いまだに休戦協定さえ結んでいない南北朝鮮が事実上の終戦宣言を出そう、ということであった。
よって、ここで、日本のテレビ解説者たちがなぜこの劇的な状況を読み違え
たかという原因を明らかにしなければならない。そもそも日本の無条件降伏によって第二次世界大戦が終った1945年の朝鮮半島の解放と、独立後の韓国の成り立ちの歴史について、日本人がよく分っていない歴史のミステリーに、すべての原因が潜んでいたのである。
◆朝鮮半島に生まれた南北朝鮮の歩みと歴史のミステリー
1945年の独立後の韓国の成り立ちの歴史とは、以下のようなものであった。
日本人が自らを「大日本帝国」と呼んで狂気の全アジアの侵略者となり、アジア全土で住民1700万人以上の死者を生み出し、そこに日本人の死者350万人以上を加えると、2000万人以上という凄惨な戦争被害を招き、挙げ句の果て、アメリカとの太平洋戦争に大敗して無条件降伏し、朝鮮半島における日本の植民地統治が終ったのが、1945年8月15日であった。
しかしそれ以後の「朝鮮半島」の歴史的な経過は、ほとんどの日本人がよく理解していなかったことなので、日本のテレビ解説者たちが読み違えたのも当然であった。日本敗戦の日に、私は2歳半であり、したがって昨年2018年時点で75歳だったが、現在の日本のテレビ解説者たちは、みな私よりずっと若く、戦後に育ったので、1950年の朝鮮戦争については観念的に「アメリカとソ連を後ろ楯につけて南北の朝鮮が戦った」という程度にしか理解していないのである。
私の場合は、曾祖父の代から母方の先祖が朝鮮半島に移り住み、朝鮮在住の日本人実業家として大成功してきた。それは、現在の韓国の首都ソウルが、まだ日本人によって京けい城じょうと呼ばれ、日本人が朝鮮全土を武力で植民地統治した時代のことであった。そのため私の祖父は、日本が敗戦後には全財産を失って無一文になった。つまり祖父は、朝鮮人に武力で襲いかかった軍人や憲兵ではなく、民間人ではあったが、日本の植民地統治時代に朝鮮人を酷使した朝鮮総督府に見こまれた実業家だったので、植民地統治という悪事に関しては同根であった。
のちにそれを知った私自身も、自分の祖先について後ろめたいものを感じてきたので、わが家の先祖の根の深い歴史については、すでにくわしく調査して、韓国の親しい友人にはすべて隠さず伝えてきた。しかし、いまだに確認できない不明な部分があって、解明しなければならないことが原稿に残って調査中なので、別の機会に長大な「広瀬隆のファミリー・ヒストリー(自伝)」を語るつもりである。そのためこの原稿では、わが家に関する個人史は記述しない。だが、朝鮮半島と朝鮮戦争の歴史について私がくわしく調査しながら、南北朝鮮のあいだで同じ民族が戦わされた「朝鮮戦争」の本質について、私自身も、その歴史的な経過について知らない事実が多々あったことを率直に告白してから、以下の歴史の真相について語りたい。
朝鮮戦争と対比されるベトナム戦争について、私は無知ではない。私の世代の日本人は、ベトナム戦争において、アメリカの政治家と軍人だけでなく、大資本家が、インドシナ半島でいかに残忍非道な殺人行為をおこなったかという点について、経過も人脈も調べつくして理解をしている。それに対して、朝鮮戦争についての日本人の知識は、隣国でありながら、実に乏しいのである。2019年に76歳の私にしてそうなのであるから、戦後生まれの日本人が、まったく無知になったのも致し方ないのである。
しかしこの史実は、そもそもの始めから説明すると、多くの人は理解できるようになる。
連合国のポツダム宣言を日本が受け入れ、1945年8月15日に、無条件降伏した時点で、朝鮮半島では朝鮮民族が解放された。そしてこの解放の日を、朝鮮では、「自由の光が戻った」との意をこめて「光こう復ふく節せつ(クァンボクチョル)」と呼んで祝ってきた。したがって、この出来事はヨーロッパにおけるナチスからの「パリ解放!」と同じであった。つまり前年1944年6月6日に、アメリカ中心の連合軍がフランス北西部ノルマンディーに史上最大の上陸作戦を開始し、続いて8月15日に連合軍の大軍が南フランスの地中海沿岸に上陸した。かくして8月24日にパリ市民が反ナチス武装蜂起を起こすと、翌日8月25日に連合軍がパリに入城して、ヨーロッパにおいてナチス・ドイツからの「パリ解放!」を果たし、米軍兵士とパリジェンヌが抱擁し合った。それから一年後の1945年8月に、アジアの朝鮮半島では、それと同じ性格の光復節に、朝鮮人がフランス人と同じように自由を手にして、歓喜に満たされたのである。
このパリ解放と光復節を対比してみよう。その後のヨーロッパでは、1945年5月7日に戦争犯罪者のナチス・ドイツ第三帝国が無条件降伏して敗北後、ドイツが共産主義国と資本主義国の勢力によって東西に分割され、1990年10月3日に東西ドイツが統一されるまで45年間という長期間にわたって、ドイツ人は歴史的な処罰を受けた。
ところが朝鮮では! 侵略者であった日本は分割されずに、解放されたはずの朝鮮が南北に分断され、朝鮮が再び植民地化される地獄に投げこまれたのである。 解放された光復節後の朝鮮が植民地化されたって? それは本当か? では、なぜなのか、という最大のミステリーが歴史に潜んでいる。この大きな疑問を、私自身を含むわれわれ日本人が持たずに、今日まで生きてきたことが間違いだったのである。
一体、朝鮮の分断と、朝鮮戦争とは何であったのか?
それを考える時、1943年1月24日に東京に生まれた私が2歳半の時に、日本が敗戦を迎えたのに対して、現在の韓国大統領・文在寅(ムン・ジェイン)は、ちょうど10年後の1953年に、私と同じ誕生日1月24日に生まれたので、彼は1945年の光復節による朝鮮民族解放の出来事を体験していない世代である。そして勿論、1950年6月25日から始まった朝鮮戦争も知らない。3年後の1953年7月27日の休戦協定によって朝鮮戦争が終った時でさえ、彼は生後6ヶ月という赤ん坊時代の出来事にすぎなかったので何も知らない。ところが彼は、北朝鮮の金正恩との首脳会談によって、南北朝鮮の統一に向けて偉大な一歩を踏み出すことができたのだ。その理由を考えてみよう。
文在寅大統領の両親は、朝鮮戦争が開戦した日、1950年6月25日に、北朝鮮領の東岸の港湾都市・興フン南ナムに住んでいたが、年末の12月になって興南を去り、韓国南端の 慶キョン尚サン南ナム道ドにある巨コ済ジェ島ドに移った(このあと17頁の地図参照)。しかし両親は北朝鮮を脱出したいわゆる「脱北だっぽく者しゃ」ではなかった。というのは、開戦3ヶ月後の9月15日に、ソウル西方の仁川(インチョン)港に米軍が上陸作戦を成功させてから、北朝鮮に進軍を続けた米軍が興南を占領した。ところがそこに、北から共産主義国・中共(中国)軍が進軍して反撃してきたため、米軍がひとまず「興南からの撤収」を決め、その時、米軍が「興南の住民」を勝手に上陸用大型軍艦に乗せて、韓国南端の巨コ済ジェ島ドに急ごしらえでつくった避難民収容所に運んで収容したのである。こうして米軍に、どこに行くかも知らされずに韓国まで輸送されたのが文在寅の両親であり、この両親のもとで開戦2年半後の時代に生まれ、二男三女の長男として育てられたのが文在寅であった。では、彼の両親が住んでいた北朝鮮の興南とは、どのような所だったのだろうか。
1910年(明治43年)に日本が韓国/朝鮮を武力で併合して以来、朝鮮全土を軍事侵略して植民地統治していた時代の1927年に、熊本県水俣 みなまたに工場を持つ日本窒素肥料(後年のチッソ)が、日本人が「こうなん」と呼んでいた興南に子会社「朝鮮窒素肥料」を設立して、10年後の1937年には朝鮮と満州の境界を流れる鴨おう緑りょく江こうをせき止めて東洋一の水すい豊ほうダムの建設に着工した。琵琶湖の半分の面積を水没させるこの巨大工事で朝鮮人と中国人の土地を略奪したチッソが、600万坪におよぶ化学軍需コンビナートをつくりあげて、興南一帯を支配したのである。そうして水豊ダムから得た豊富な電力を朝鮮全土と満州に供給して、日本敗戦時に従業員4万5000人というマンモス企業になった同社は、戦後に世紀の大公害「水俣病」を引き起こす犯罪企業であり、朝鮮総督・南次郎の指令のもと、強制連行した朝鮮人労働者を牛馬のように酷使した。そのチッソ本拠地・興南に、文在寅の両親が住んでいたのである。
その時代の親の労苦について文在寅は何も語っていないが、のちに弁護士となってから、日本の植民地統治の残忍きわまりない史実を知ったのが文在寅だったので、彼の実体験に基づいた深い見識と、現在の日本人のあいだには、知識に雲泥の差があった。文在寅が6歳で小学校に入学する直前に、一家は巨コ済ジェ島ドから近くの朝鮮南部の最大都市・釜プ山サンに引っ越し、ここが彼の第二の故郷となり、釜山が、のちの弁護士活動の本拠地となった。ところが一家は、文字通りの貧困のため、アメリカが無償援助した余剰農産物のトウモロコシ粉の粉乳がカトリック教会で配られると、文在寅がバケツを持って並び、そんなこんなで母が熱心なカトリック信者になり、文在寅も小学校3年の時に洗礼を受けた。大半の生徒は貧困のどん底にあって、弁当を持って来られなかったので、学校がトウモロコシの餅もちやお粥かゆを給食に出し、そういう給食を食べる困窮にあえいだ文在寅は、母が行商で家族を養う生活のため学校の月謝が払えず、教室から追い出されるほどの苦学生であった。
ほんの先年の2002〜2003年に韓国の公営放送MBCテレビで放映された朝の長編連続ドラマ『人生画報』に、まさにこの朝鮮戦争開戦と同時にソウルから釜山に避難した家族の貧しさがもたらした、すさまじい葛藤と波瀾万丈の生活が描かれたが、文在寅一家は、釜山でそのドラマに出てくる文字通り最底辺の生活であった。
ここで、現代の韓国人に関する知識もまた、日本のテレビ解説者・コメンテイターたちが知っておくべき、本稿の重要なテーマなのでふれておくと、この連続ドラマ『人生画報』に主演した人気男優・宋一国(ソン・イルグク)の母方の曾祖父は「金佐鎮(キム・ジャジン)将軍」として知られる実在の抗日運動の英雄であった。1910年に日本が韓国(朝鮮)を併合して植民地化後、1919年3月1日に朝鮮人が三・一独立運動≠起こして、京城や平壌などで日本の植民地に抵抗する「朝鮮独立宣言」が発表されると、激烈な反日運動が朝鮮全土に拡大したが、日本人によって7500人が大量虐殺されて運動は弾圧されてしまった(数字は『朝鮮独立運動の血史』、朴殷植(パク・ウンシク)著、姜徳相(カン・ドクサン)訳、平凡社東洋文庫)。ところが翌年1920年10月21日から、満州の青せい山ざん里り付近で、日本軍に対して、朝鮮人の独立運動武装組織との間で戦闘がおこなわれ、キム・ジャジン将軍率いる朝鮮独立軍が日本軍を壊滅して大勝利をおさめた。その史実が、別の長編韓国ドラマ『野人時代』で、実話に基づいて描かれた。したがって、この将軍の実のひ孫である魅力的な韓国人俳優ソン・イルグクも筋金入りの日本帝国主義批判≠フ活動家であり、偉いもので彼は、先年、2012年8月15日の光復節に合わせて独トク島トまでリレーで泳ぐイベントに参加した。独島とは、日露戦争つまり「朝鮮侵略のために日本が戦端を開いたロシアとの戦争中」の1905年2月22日に、日本人が独島を一方的に領土化して「島根県の竹島」と命名したため、日本が朝鮮侵略の扉を大きく開いた行為の 証あかしとして、韓国が領土権を主張している日本海の島である。
奇しくも読者の目の前、今年2019年3月1日に、韓国で三・一独立運動100年記念行事がおこなわれたのは、100年前の1919年3月1日当時、植民地統治反対に決起した勇気ある国民の歴史を胸に刻むと同時に、日本人によって独立運動が弾圧され、朝鮮全土で虐殺された朝鮮人死者7500人を追悼するためであった。この記念日の悲劇を、テレビ報道のコメンテイターをはじめとする現在の大半の日本人がまったく知らなかったり、隣の国の行事だとして「他人ひと事ごと」と見ている。そのこと自体が、虐殺した加害者側の日本人の驚くべき無知を示しているのである【写真は「三・一独立運動」で処刑される朝鮮人】。
話を先に進めすぎた。
1945年8月15日に日本が無条件降伏した結果、朝鮮全土で朝鮮民族が解放された時代に戻ってみる。この光復節のあと、「侵略者であった日本が分割されずに、解放されたはずの朝鮮人が南北に分断されて苦しめられてきた」──それは、なぜなのか、という歴史の謎を解いてゆこう。
一般的な解説では、この時、「朝鮮半島の北部にはソ連が軍隊を進め、南部にはアメリカが軍隊を進めたので、資本主義国・アメリカと、共産主義国・ソ連のイデオロギーの対立のために、南北が分裂される道を歩んだ」ということになっている。この説明には、どこにも間違いはないが、具体的にアメリカ政府がとった朝鮮政策を見てゆくと、そのように単純な話ではなく、解放されたはずの朝鮮人が、再び植民地化の牢獄に投げこまれるという、朝鮮人から見て絶対に納得できないことが起こっていたのである。
日本が無条件降伏する少し前から説明する。
1945年8月6日に広島に原爆が投下され、8月9日に長崎に原爆が投下されて日本の敗北が決定的となった時、ソ連はその前日の8月8日に日本に宣戦布告し、中国東北部の満州と朝鮮への進攻に踏み切った。8月9日にはソ連軍が150万の兵力で日本軍に対する攻撃を開始し、朝鮮北部を爆撃したため、日本軍の前線が一挙に崩壊して、ソ連軍は破竹の勢いで満州から朝鮮半島に向けて進軍し、翌日8月10日に、アメリカの短波放送が「日本の無条件降伏」を予告した。この時、日本の敗北を夢想もしていなかった朝鮮人社会では、日本が敗北することを最初に知ったのが、朝鮮植民地を支配する日本の統治機関「朝鮮総督府」であった。当時、朝鮮にいた日本人は、軍人を除くと、一般の民間日本人は、推定で朝鮮北部に28万人、南部に44万人で、合計70万人余りとされているが、そこに満州からの日本人避難民が押し寄せてきたため、統計によってこの数字が異なり、正確な数字は不明である。この民間人に、軍人と警察を合わせるとざっと100万人以上の日本人がいたと考えられ、「日本敗戦」を予測した朝鮮総督府は、敗北後にこの日本人が朝鮮人に襲われないようにしなければならなかった。
そうこうするうち8月12日、ソ連軍が地図の矢印の朝鮮東北部の要港・羅
津(ラソン)と清津(チョンジン)に上陸してきた。この時、米軍は、まだ日本を攻撃中で沖縄にいたので、「ソ連兵が朝鮮全土を占領する」のを食い止めるために、アメリカは南北朝鮮のあいだに急いで境界線を引くことを迫られた。
実は8月10日(日本時間8月11日)、アメリカ国務省・陸軍省・海軍省による日本占領政策合同会議(State-War-NavyCoordinating Committee──SWNCCスウィンク)において、ソ連兵の朝鮮進攻を知った陸軍参謀本部の戦略政策委員会で、ディーン・ラスクとチャールズ・ボーンスティール三世が、南北朝鮮を分割する境界線を立案していたのだ。この二人によって、フィリピンのマニラにいたアメリカ太平洋方面軍の陸軍司令官ダグラス・マッカーサーに送る緊急指令として「北緯38度線(地図の赤い線━)による南北朝鮮の分割案」
が提起されて、現在の南北朝鮮の境界線≠ニなる緯度が決められていたのである【この立案者ディーン・ラスクは、のちに朝鮮戦争中の1952年からロックフェラー財団理事長となり、1961〜1969年にケネディー/ジョンソン政権の国務長官をつとめてベトナム戦争を進める男であり、ボーンスティールもまた同じ時期の1966〜1969年に韓国駐在の米軍総司令官として、韓国軍をベトナムの戦場に送りこむ男であった】。
かくして8月14日に、「北緯38度線を境界にした朝鮮半島の分割占領案」をアメリカがソ連軍に通告したので、当時アメリカに従っていたソ連軍がそれを受諾した。
一方、アメリカ・イギリス・中国・ソ連の連合国が、7月のポツダム宣言で日本に無条件降伏を求めていたことに対して、広島・長崎に投下された原爆によるすさまじい惨禍を知った日本政府が8月14日に降伏を決定して、「ポツダム宣言を受諾する」とアメリカ政府に通告した。この報告が、朝鮮の朝鮮総督府と日本軍にも伝達され、翌15日に昭和天皇の降伏放送がおこなわれると伝えられた。そこで敗戦を知った朝鮮総督府の日本人は、最後の朝鮮総督・阿部信行のぶゆきが、朝鮮人による報復をおそれて逃げ腰になり、日本人の生命と財産の保護のための処理を、部下の政務総監・遠藤柳作りゅうさくに任せたので、遠藤柳作は急いで朝鮮人の調停人を探した。朝鮮人側の多くは、日本人との交渉を渋ったが、遠藤柳作は朝鮮人代表の一人である社会主義者・呂運享(ヨ・ウニョン)と接触し始めた。
日本が降伏することを知らされて交渉に臨んだ呂ヨ運ウ享ニョンは、日本に対して「朝鮮人の政治犯と経済犯を即時釈放すること」を求めた。さらに「これから8〜10月の3ヶ月間の食糧を朝鮮総督府が確保すること」を要求し、「朝鮮人はこれから建国運動をおこなうので、朝鮮人が治安を維持して、建国運動のための政治運動と、朝鮮人の学生と青年の訓練が必要である。そして朝鮮人の労働者と農民を、建国事業に組織動員する。以上のことに対して、朝鮮総督府が一切干渉しないこと」を明確に要求し、これらの要求を呑むなら日本人の生命と財産の保護に尽力すると約束した。遠藤柳作がこのすべての条件を呑んだ結果、左派の呂運享が、朝鮮総督府から行政権を移譲された。しかし朝鮮人の右派は、左派の朝鮮人・呂運享が行政権を握ったことに不満で、同意していなかった。
このような裏交渉が進められる中で、1945年8月15日に、日本が無条件降伏した。
日本の本土と同様、朝鮮でもこの日の正午に、よく聞こえないラジオから昭和天皇の日本敗北を告げる玉音放送が流れた。すると、首都・京城の朝鮮人の市民が「光復(解放)」を知って、「マンセー(万歳)! マンセー! 朝鮮勝った、朝鮮勝った」と一斉に家から飛び出して来て、歌ったり踊ったりした。そして京城の町じゅうの家の屋根に、手作りで日の丸を書き換えた朝鮮国旗「太たい極きょく旗き」が波のように 翻ひるがえった。
この時、日本の本国では、強制連行などで日本にいた朝鮮人(在日朝鮮人)は236万人以上という膨大な数に達していたが、日本敗戦のこの日から、全員が無国籍になった。このうちおよそ170万人が小舟などで朝鮮に帰国し、60万人が日本にとどまることになったが、在日朝鮮人は、このあとに韓国初代大統領・李イ承スン晩マン(日本語読み、り・しょうばん)が実施した反民族的な南北分断政策と独裁政治を支持しなかった。こうして在日朝鮮人は、その後の韓国を支配したアメリカ軍政と、日本を統治するGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の占領政策によって、不条理にも弾圧される民になった。
この8月15日から翌16日にかけて、朝鮮総督府は、京城の西大門(ソデムン)刑務所に投獄していた朝鮮人の政治犯と経済犯を、約束通り釈放し始めた。一方、呂ヨ運ウ享ニョンは朝鮮建国準備委員会を組織して、そこに左派の人脈を結集した。
8月16日から、すべての朝鮮人はこの【写真】のように歓喜と共に朝鮮服に着替え、朝鮮の国旗・太極旗を打ち振り、群をなした人たちが道路を練り歩いた。呂運享の朝鮮建国準備委員会は、その朝鮮人社会に対して、日本人に暴力を加えることなく日本帰還に協力するよう求めた。
この時、朝鮮人の建国準備委員会は、治安部隊を組織し、日本の植民地統治時代の売国奴である朝鮮人の親日勢力≠追及し始めていた。しかし南朝鮮では、全土に展開した23万の日本軍人が日本人の安全を徹底して守ったので、朝鮮人に襲われたり殺される日本人は、いなかった。
一方の朝鮮人社会は、こうして解放直後から権力の空白状態が生まれた期間、朝鮮人の人民委員会が中心になって、混乱状態にある秩序の維持につとめた。そして国外にいる朝鮮人を朝鮮半島に帰国させる行動を促し、食糧難の対策にあたった。こうした委員会は、8月末までに南朝鮮全土に組織されて広がり、名称は地方ごとに、治安隊または保安隊、建国準備委員会、人民委員会などと異なった組織名で活動したが、これらは上意下達の委員会ではなく、いずれも民衆の自発的な活動によって組織されていた。
ところが! 8月20日になって、フィリピンの首都マニラにいたアメリカ太平洋方面軍のダグラス・マッカーサー司令官が、朝鮮総督・阿部信行に対して「南朝鮮の治安維持に全面的な責任を持つこと」を特別命令として指示し、「日本人による南朝鮮の治安維持」を命じたのである。そして米軍が朝鮮に到着するまで、敗戦国の日本軍が鉄道・電力・水道などの重要施設と刑務所を警備するよう命じたのだ。
これは、連合軍がナチスからのパリ解放後に、犯罪者のナチス・ドイツ軍にフランスの治安維持を命じたかのような出来事であり、奇っ怪な、あってはならない命令であった。つまりこの日から、南朝鮮の人々は、解放されなくなったのである! ここから、朝鮮戦争の導火線となるアメリカ軍政府の悪逆非道な朝鮮政策がスタートしたのだ。
翌日の8月21日になって、日本の内務省が、「アメリカとソ連が、北緯38度線を境界にして、朝鮮を南北に分断し、南側をアメリカが、北側をソ連が占領するという政策のもとに武装解除を進める」と朝鮮総督府に打電した。マッカーサーの指令と共に、この打電によって、米ソによる朝鮮占領と南北分割の密約を初めて知った日本側は、朝鮮人・呂ヨ運ウ享ニョンと交わした「朝鮮人の建国準備委員会に対して行政権を移譲する」と約束していた取り決めを一方的に破棄した。そして総督府に代って、23万の軍人を擁する日本陸軍が治安の確保をおこない、大国の米軍とソ連軍に行政を移譲させて日本人を安全に帰還させるという方針に切り換え、大日本帝国の軍隊を動員して、朝鮮人が接収していた警察署と放送局を、再び日本人が接収したのである。そのため日本軍はほぼ1ヶ月間、武装解除をせず、しかも日本が敗れたため自暴自棄になって、朝鮮にあった工場の機械を破壊したり、相変らず乱暴狼藉を働いたとされている。【以上すべては北緯38度線より南の朝鮮南部の話であり、朝鮮北部では、ソ連が侵攻したために南部とは違って、日本人が大量に死亡したので、この経過はのちに北朝鮮の項でくわしく述べる。】
フィリピンを発って日本に向かったマッカーサーは、8月30日に神奈川県の厚あつ木ぎ飛行場にコーンパイプをくわえて降り立った。そして3日後の9月2日に、マッカーサー立合いのもと、東京湾に停泊するミズーリ艦上でアメリカ・イギリス・ソ連・中国・オーストラリア・ニュージーランドなど連合国の代表に対して、日本が無条件降伏文書に調印して、「日本敗北」の戦争が公式に終り、占領軍GHQが日本全土を占領した。
日本時間同日9月2日、トルーマン大統領が、マッカーサーに対して、連合国最高司令官GHQ一般命令第1号≠ニして、「北緯38度線によって朝鮮を分割して、米軍が南朝鮮を占領する」ことを通達し、正式に南北朝鮮の分断が始まったのである。
一体全体、解放されたはずの朝鮮半島を、米軍が解放せずに占領したという、この奇妙な経過の「動機」は何であったのか? 結論を最初に言ってしまうと、米軍が南朝鮮を占領した動機は、アメリカが、アジアに広がりつつあった共産主義勢力によるドミノ倒し現象をおそれて、南朝鮮を共産主義者に対する防壁「反共の砦」とする政策にあった。そのためには、南朝鮮の民衆をアメリカが自在にコントロールできなければならなかった。つまり後年のベトナムでおこなわれたアメリカの軍事政策と同じ蛮行が、ここ朝鮮半島で展開されたのだ。そこで、この日以後、「解放されたはずの朝鮮人が、再び植民地化の牢獄に投げこまれた」のである。南朝鮮の民衆がアメリカによって植民地統治されたというこの重大な史実が、われわれの世代の日本人に、今日までほとんど認識されてこなかったのである。
アメリカが南朝鮮を「反共の砦」とする政策の裏に進行していたのは、中国において毛沢東もうたくとう率いる共産党軍が、全国解放戦争に突入し、 蒋介石(しょうかいせき)の国民党軍を破竹の勢いで追いつめ、共産主義勢力を拡大している戦況であった。アメリカはその共産主義勢力を、南朝鮮と日本で食い止めるのに必死だったのである。
この時、すでに北朝鮮に進駐していたソ連軍はどうしたのであろうか。8月16日に、ソ連の独裁者スターリンは、「ソ連軍が北海道の北部を占領する」ことを公式にアメリカに提案して日本を占領する強欲な意思を示したが、アメリカのトルーマン大統領は日本を単独で占領支配する計画だったので、この提案を拒否した。それでもソ連はすでにこの年2月のヤルタ会談で、対日参戦の見返りに「北海道の千ち島しま列島をソ連領にする」という約束をアメリカからとりつけていたので、8月18日にソ連軍が千島列島に侵攻し、9月5日までに択捉えとろふ島・国後 くなしり島・色しこ丹たん島・歯はぼ舞まい群島の「北方四島」を占領した。同時に8月29日までに北朝鮮全域を占領したソ連は、「日本占領は、ドイツと同じように、連合国による分割占領方式をとるべきである。解放された朝鮮に分割線を引くべきではない」と主張したが、アメリカは再度ソ連の要求を拒否した。
やむなくここでソ連が、アメリカの政策に妥協したことによって、加害国・日本が分割されず、被害国・朝鮮が分割されて占領されるという異常な約束のもと、朝鮮の悲劇が再び始まり、「北緯38度線による南北朝鮮の分断・占領」という民族の悲劇が確定されてしまったのである。その時、このように米軍が南朝鮮を支配した理由について、日本占領軍であるGHQの高官が奇怪な発言を放っていた。「朝鮮は、大日本帝国の一部として、われわれの敵であった。したがって、日本と同様に、朝鮮において降伏条件が守られているかどうかを監視する」と明言したのである。
朝鮮人が連合国アメリカ人の敵だって?
先に述べた通り、日本の植民地統治時代、1919年3月1日に朝鮮三・一独立運動≠ェ起こると、京城(ソウル)では延べ60万人が反日デモに参加し、日本人に虐殺された死者が7500人を数え、その翌年の1920年には金佐鎮(キム・ジャジン)将軍率いる朝鮮人たち、無数の独立運動の武装組織が決起し、朝鮮人が国を挙げて激しい抗日活動をおこなってきたではないか。これらの事実さえ、アメリカ人は知らなかったのだ。
かくして1945年9月4日、朝鮮の首都・京城のすぐ西にある港・仁川(インチョン)沖に、占領軍である米軍第7艦隊が姿を現わすと、9月6日から、上陸した米軍が京城に向けて進駐した。ところがアメリカの軍隊は朝鮮について無知であり、進駐した目的は、朝鮮半島に対する「ソ連の覇権拡大を阻止する」ことだけにあった。しかも、ちょうどその9月6日に運悪く、左派・呂ヨ運ウ享ニョンの朝鮮建国準備委員会が、共産主義的な朝鮮人民共和国の樹立を宣言したので、彼らは米軍と真っ向から対立することになった。
こうした状況下で、翌日の9月7日に、マッカーサーから朝鮮人民向けの布告第1号が次のように発表された。「近日中に、米軍が北緯38度線より南の朝鮮領土を占領する。朝鮮統治の権限は私(アメリカ軍政)にある。朝鮮人民は私の命令に服従しなければならない」──このように植民地統治宣言が下され、「諸君の財産権を尊重する。英語を公式言語とする」と、まるで朝鮮が自分の持ち物であるかのように傲慢な文句が付け加えられたのであった。
この布告によって、南朝鮮全土に組織されていた人民委員会は解散を命じられ、アメリカ軍政に違反する者は軍法会議によって厳罰に処せられた。続く布告第2号では、「厳罰には死刑を含む」とされ、それまでの日本の朝鮮総督府と同じ悪政をおこなう政府が生まれ、しかし今度は、アメリカの白人支配者が、南朝鮮に君臨したのである。
9月8日に、アメリカの連合軍司令官ジョン・ホッジ中将が、2個師団4万5000人の米軍兵士を率いて京城に入ると、この都市を、首都を意味するソウル(Seoul)と呼び換え、南朝鮮一帯に軍政を敷き始めた。日本軍は武装したままこの米軍を迎え、朝鮮人に対して最後まで威圧的姿勢で臨もうとした。このアメリカ軍政による支配は、のちに韓国が形式的に国家として独立し、初代大統領・李イ承スン晩マンに政権を移譲する1948年9月11日まで3年間続いた。この経過を日本人に分りやすく言えば、南朝鮮は日本敗戦直後の沖縄と同じように、米軍基地の中に人間が暮らす国家にされてしまったのだ。
9月9日に、沖縄からソウルに進駐した米軍の第24軍団を率いるホッジ中将が朝鮮総督府に赴いて、総督・阿部信行に朝鮮の統治権を移譲する文書への署名を求めた。そこで阿部が署名後、朝鮮総督府前の広場に掲げられていた日の丸が引き降ろされ、この瞬間をもって、日本の朝鮮支配が完全に終りを告げた。ホッジは日本人に対して「来年1946年3月末までに日本に引き揚げよ」と命じ、さらにアメリカ軍政部は、ソウルに入るなり、午前0時〜4時のあいだ、夜間通行禁止令(夜間外出禁止令)を発した。この禁止令は、1982年1月5日に解除されるまで実に37年間続けられ、韓国人は自分の国に住んでいながら、深夜になると自由に外出することも許されなくなったのである。
こうして1945年9月20日に、アメリカ軍政庁が正式に発足したのだ。
ソウルに集まっていた朝鮮人の政客は、社会主義者と資本主義者の左右に分裂していたので、この奇怪な状態で解放された朝鮮半島≠フ苦難が始まると共に、米軍が両者を引き裂いて朝鮮戦争に向かって突っ走り始めたのである。このアメリカ軍政が、朝鮮人に対して何をしたかと言えば、信じられないことではあったが、朝鮮総督府に日本の売国奴として雇われていた朝鮮人を引き立て、その親日派£ゥ鮮人がこのあと南朝鮮(韓国)の新しい支配層にのし上がっていくようにレールを敷いたのである。
この時期に米軍に取り入って支配階層になった親日派≠ニは、何者だったのか。
日本の植民地統治時代の朝鮮警察には、日本に雇われた売国奴として朝鮮国民を苦しめた朝鮮人の警察官が多数いて、彼らは日本人名を名乗って、警察官や法律(裁判所)関係者となった売国奴の朝鮮人であり、日本の朝鮮総督府と特高(特別高等警察)の権威を笠かさに着て朝鮮人に命令を下し、威張り散らしてきた。ところが日本が敗北したので、いまや彼らは朝鮮人の民衆の怨えん嗟さの的であり、解放と共に民衆からの復讐を恐れ、ほとんどの者が姿を隠していた。そこにアメリカの軍政が進出してくると、米軍が南朝鮮(韓国)の治安を維持する目的のため、親日派≠呼び戻し、そのうち5000人以上を採用し、新生国家となるべき朝鮮の警察幹部が彼ら売国奴で占められてしまったのだ。かくして親日派≠フ警察官と法官たちが米軍の要請によって復帰し、今度は米軍の威を借りて権勢をほしいままにするようになったのである。 このような経過の中、「南朝鮮」では翌年1946年春までに、一般の日本人のほとんどが引揚げ船で帰国した。
◆韓国の強制徴用被害者(徴用工)に対する賠償命令判決の正しい解説
この歴史が、読者の目の前で現代に起こった事件の由来を説明しているのである。
昨年2018年10月30日に、韓国大法院(最高裁判所)が、日本の植民地統治時代に強制労働をさせられた朝鮮人に対して、1人あたりほぼ1000万円の賠償をするよう、戦時中の日本企業である日本製鉄(現・新日鉄住金)に命令する判決を下した。この判決は、今述べたこの歴史的構造を知らなければ、日本人には正しく理解できないであろう。強制労働させられた朝鮮人を、日本の報道界は 徴ちょう用よう工こうと呼んでいるが、そのような生やさしい言葉で表現される労働者ではなく、韓国では「強制徴用被害者」と呼んできた。戦時中の彼らは、毎日が拷問と鞭むち打たれる日々で、地獄の奴隷労働者であったのだ。
この賠償確定という事件は、翌日の10月31日にわが国のテレビ局各局と新聞で取り上げられ、次のように解説された。「1965年の日韓国交正常化における日韓請求権協定において、労働被害者の金銭・財産・救済の請求権については、日本が韓国政府に多額の経済支援をおこない、その中から韓国政府が徴用工に対して補償金を支払うことを取り決め、両国政府がすでに完全かつ最終的に解決済み≠ナあった。ところが6年前の2012年に、韓国最高裁が被害労働者個人の請求権は消滅していない≠ニの判決を下したために、2018年10月30日の賠償金支払い命令の判決が出されたのである。これでは、日韓両国の政府が取り交わした約束が守られないことになるからトンデモナイ事件である」という論調で、韓国の文在寅政権を批判することに終始したのである。安倍晋三首相が、「あり得ない判断だ」と激怒してみせ、河野太郎外相が「日韓両国の法的基盤が崩された」と息巻いて、韓国の外相に強く文句を言ったのだ。
判決翌朝、10月31日のテレビ朝日・羽は鳥と り慎一モーニングショーも、同じ論調であった。その番組に出演して解説者をつとめ、「文在寅大統領は韓国の最高裁判所の人事を動かす確信犯である」と罵倒する発言をくり返したのが、武藤正まさ敏としという外交評論家だったが、この男は、植民地統治時代の朝鮮で日本人によっていかなる犯罪がおこなわれ、現在の韓国において過去の日本帝国主義に対する怒りの感情がなぜ存在するかを知らず、正しい歴史認識がまったく欠落した人間であった。この武藤は、2005年に韓国大使館の特命全権公使になり、2010年6月17日〜2012年11月13日に「韓国駐在の日本大使」をつとめ、2013年に朴槿恵(パク・クネ)大統領の韓国政府から修好勲章光化章を授かっていた。
ところがこの男は、韓国大使を辞任した直後の2013年1月1日から三菱重工業の顧問に就任していたのである。三菱重工をはじめとする三菱グループは、日本の植民地統治時代の戦時中に強制連行で推定10万人の朝鮮人を働かせた犯罪企業の代表者であり、2018年時点で韓国の裁判所で判決が下されたり、または裁判が進行中の強制動員訴訟15件のうち、ほぼ半数の7件は三菱重工が被告であった。2013年7月30日には、三菱重工の広島工場に動員されて強制労働させられ、広島原爆で被爆した被害者5人に対して1人あたり約800万円の支払いが韓国の釜プ山サン高裁で命じられ、2018年11月29日に韓国の最高裁でその判決が確定した。三菱重工の名古屋航空機製作所で強制動員労働させられた別の原告たちは、動員当時14〜15歳の少女であった。2018年11月29日の韓国最高裁は、これらの元女子勤労挺身隊の韓国人女性や遺族合計5人が、終戦後、賃金を一銭も受け取れずに損害賠償を求めた訴訟でも、三菱重工に1人あたり約1000万円〜1500万円の支払いを命じる判決を確定した。
このような日本の犯罪企業の使い走り(走そう狗く)となって顧問料を稼ぐ武藤本人こそが確信犯であった。彼はモーニングショーだけではなく。それ以後のテレビ各局の報道番組に出演して、みっともないことに自分が顧問をつとめてきた三菱重工の損害賠償判決を食い止めることができなかったため、三菱重工から「顧問料収入に見合った働きをしろ!」と叱責される立場にあった。そこで自分が無能のために果たせなかった顧問の責任を他人に転嫁しようと、「文在寅大統領は日韓関係を悪化させる元兇である」と、デタラメだらけの八つ当たり発言をくり返しては、一般の日本人と韓国人が仲良くしている間に割り入って、「日韓関係を険悪化させる」旗振り役をつとめてきたのである。
また、2018年11月2日には、BS-TBSの「報道1930」のテレビ番組で、韓国最高裁判所の徴用工裁判で賠償命令が出されたことに関して、司会者の松原耕二に尋ねられた外交評論家の岡本行ゆき夫おが、「朝鮮人徴用工は、中国人の強制連行被害者と違い、自分で志願して日本企業に勤めたのだから、日本企業が賠償する必要はない。韓国最高裁判所の賠償命令の判決は、非常におかしい」と驚くべき発言をして、まるで史実に反する暴言を吐いた。松原耕二と岡本行夫のコンビは、TBSの日曜朝の報道番組サンデーモーニングで、しばしばコメンテイターとして一緒に出演する仲である。
暴言を吐いた武藤正敏や岡本行夫が、故意に言及しなかった事実関係を記述すると、以下のようになる。
◎これらの経過は裁判の判決なので、最初に法律論を述べると、韓国大統領・文在寅は弁護士時代に問題の三菱重工業の強制徴用被害者の賠償問題を担当してきた法律の専門家なので、最もくわしいのである。それに対して韓国大使をつとめた武藤正敏が法律を知らない知性レベルにはあきれるが、1965年6月22日の「日韓国交正常化」における日韓請求権協定の締結にあたって、日本政府は「請求権協定1条の経済協力の増進(日本から韓国への資金提供)≠ニ、2条の権利問題の解決(日本の植民地統治時代の被害者救済)≠ニの間には、法律的に何の相互関係も存在しない」としていた。すなわち、「日本が韓国に支払った経済協力資金は、韓国民の請求権の対価として支払われたものではなく、それによって強制連行(強制動員・強制労働)被害者に対する補償(賠償)の債務が日本政府・国民から韓国政府に移転したものではない」ということを明らかにしていた。つまり日韓請求権協定の締結にあたって、「この協定で放棄されるのは両国の外交保護権(相手国の責任を追究する権利)であり、個人の権利を消滅させるものではない」という法律論が、日本政府の認識だったのである。
それを裏付ける事実として、1991年8月27日に、外務省条約局長の柳やな井い俊しゅん二じが参議院予算委員会においておこなった以下の答弁がある。「(1965年の日韓基本条約の請求権協定は)いわゆる個人の請求権そのものを国内法的な意味で消滅させたというものではない。日韓両国間で、政府としてこれを外交保護権の行使として取り上げることができないという意味だ」と、明確に答弁していたのである。加えてこの柳井俊二は、彼の岳父・松井明の父・松井慶四郎が日本の朝鮮植民地統治時代の外務大臣という侵略責任者であり、柳井俊二本人は、安倍晋三の諮問機関「安全保障の法的基盤の再構築に関する懇親会」で座長をつとめ、アメリカの戦争に対して日本の自衛隊の戦争介入を認める「集団的自衛権」必要論を吹聴してきた最右翼のブレーンなのである。
◎2018年10月30日の韓国大法院(最高裁)判決の基盤となったその6年前の2012年5月24日の韓国大法院判決は、次のように述べていた。「1965年の請求権協定は、日本の植民地支配賠償を請求するためのものではない。請求権協定の交渉過程で、日本政府が植民地支配の不法性(悪事)を認めず、強制動員被害の法的賠償を根本的に否定したため、韓国・日本の両国政府は大日本帝国の韓半島植民地支配の性格について合意できなかった。したがって日本の国家権力が関与した反人道的不法行為や植民地支配と直結した不法行為による損害賠償請求権は、請求権協定の適用対象に含まれてはいない」ことを明確にしており、1965年の協定そのものが、損害賠償とは無関係であると断じたのである。この韓国最高裁判決は、日本による朝鮮半島の植民地支配を犯罪行為であると定義した最も重要な史実の指摘であり、保守派の李イ明ミョン博バク政権時代の判決なのである。
事実、1965年の日韓基本条約で、日本政府は韓国に支払う金を「賠償」と表現することを拒否し、日韓基本条約を締結した外務大臣・椎しい名な悦えつ三郎さぶろうが1965年11月19日の国会で、「協定によって韓国に支払った金は、経済協力でありまして、韓国の経済が繁栄する気持を持って、また新しい国の出発を祝うという点において、 この経済協力を認めたのでございます」と答弁し、賠償ではなく独立祝い金≠ナあったと述べたのだから、外務大臣が「日本は賠償金を支払っていない」と明言していたのである。なぜこう答弁したかと言えば、「賠償金を支払った」とすると、「日本の植民地統治が重大な犯罪行為であったという史実」を日本政府が認めることになるからである。
したがって、日韓請求権協定の条文には、「韓国民の個人請求権が消滅する」とか、「韓国政府が賠償・補償責任を肩代りする」という文言は、ひと言も記されていない!
ところがなぜか、日本政府は「請求権協定全体の効果として韓国の日本に対する請求権の問題は解決した」と勝手に解釈して、「両国政府がすでに完全かつ最終的に解決済み=vの協定であると決めつけ、「個人に対する補償も解決済み」という、法的根拠がまったくない誤った主張を報道界に広めてきた。したがって、2018年10月以後に日本の全テレビ報道界が解説したストーリー「1965年の日韓請求権協定において、日本が韓国政府に多額の経済支援をおこない、その中から韓国政府が徴用工に対して補償金を支払うことを取り決め、両国政府がすでに完全かつ最終的に解決済み≠ナあった」は、報道界の大誤報、まさしくフェイクニュースであった。
一体誰が、いつ、強制徴用労働者に対する賠償は済んでいるという根拠のない理屈を正当化したのか? テレビ報道界の責任ではないのか?
◎言うまでもなく、「朝鮮人の強制労働被害者は、強制的に連行(拉致らち)された大量の人間である。日本人の労務係が深夜や早暁に突如、朝鮮人の男子がいる家の寝込みを襲い、あるいは田畑で働いている最中に、トラックを回して何気なくそれに乗せ、それらの拉致被害者の集団を編成して、炭坑や製鉄所、鉱山、道路、トンネル建設の土建業など、重要基幹産業部門などに送りこむという乱暴狼藉がおこなわれた。終戦までに、70万人を超える朝鮮人が強制連行(徴用・拉致らち)され、女性は女子挺身隊として釜プ山サン港から日本に連れ去られ、およそ4万人の中国人が強制連行されたのである。
だが、それだけではない。甘い言葉で朝鮮人を日本企業に誘って、自ら志願させておいて、残忍苛酷な労働を強いた」というのが史実であった。1910年の韓国併合後、朝鮮半島全土を日本の植民地とし、その下で戦時体制下における労働力確保のため、朝鮮総督の南次郎らが「朝鮮人労務者募集 並ならびに渡航取扱要綱」を定め、朝鮮総督府配下の警察力を動員して、1939年から労務動員計画による強制連行が開始された。さらに1942年に日本政府が制定した「朝鮮人内地移入斡旋あっせん要綱」による国家的な就職紹介および就職促進事業(官斡旋あっせん)や、1944年に日本政府が植民地朝鮮に全面的に発動した「徴用令」による強制連行が実施される中で進行した労働だったのである。
今回の訴訟の原告である元徴用工については、岡本行夫が事実をまったく調べもせずに暴言を吐き、安倍晋三と河野太郎も「募集に応じた朝鮮半島出身の労働者」と呼んで、原告を侮辱していたことが明らかである。この原告は、「日本で2年間訓練を受ければ技術を習得でき、終了後は朝鮮半島の製鉄所で技術者として就職できる」という募集広告にだまされ、実際には月に2、3円の小遣いを渡されただけで、賃金を入金した原告の口座の通帳と印鑑は寄宿舎の舎監が保管して本人に渡されなかった。感電死する危険があるなかで溶鉱炉にコークスを投入するなどの過酷で危険な労働を強いられ、窓に鉄格子が入った牢獄と同じ工場で外出も許されず、わずかで粗末な食事しか与えられず、逃亡を企てたとして殴なぐられるなどおそるべき環境に置かれ、軍隊と同じように警察官らによって監視されていた事実が、韓国の裁判で明らかにされていたのである。
これは国際労働機関(ILO)条約に定める強制労働や、1926年の奴隷条約に記述されている奴隷制に当たるものであり、重大な人権侵害であった。ナチス・ドイツがユダヤ人をアウシュヴィッツ強制収容所に送りこんだのと何ら違わないことを、日本人が朝鮮人に対しておこなったのである。岡本行夫の発言は、原告にとって許しがたい暴言であった。
そもそも韓国では、普通の人が聞いても意味不明の「徴用工」という言葉ではなく、「強制徴用被害者」、あるいは「強制動員被害者」と表現していることから考えて、日本のマスメディアが長らく徴用工という言葉を使って、こうした被害者の苦しみを日本国民の目に見えなくするよう、間違った方向に世論を誘導してきた。したがって私の知る外国人は、「日本人は北朝鮮の拉致らち問題になると辛辣な言葉で北朝鮮を非難するが、国際社会は、70万人を超える朝鮮人が日本人によって強制連行(拉致らち)され、そのすさまじい被害が戦後にまったく無視され続けてきたことを知っているので、日本人が何を考えているのか不思議でならない」と言って、日本人全体の知性と良識のなさを嘆いているほどである。
しかしこの日本人の無知は、事情を知らなかった日本国民の責任ではなく、すべての責任は、テレビ局と新聞社の作為的に誤った報道が、日韓親善を分裂に向かう軌道を敷いたことにある。韓国の最高裁が賠償命令判決を出したすぐあと、この問題に精通する日本在住の弁護士有志9人が連名で、こうした日本の報道番組の間違いを指摘する2018年11月5日付けの声明文をすでに発表し、その後、多くの弁護士がその声明に賛同を表明したにもかかわらず、テレビ局と新聞社がそれを無視して、誤報を訂正しなかったのは、なぜなのか。この当り前の事実に耳を傾けることなく、無知蒙昧で危険な武藤正敏の言葉をテレビ報道が広めて、正しい報道と言えるのか?
さて、では、この問題の根源的な原因は、どこにあったのか。
◎1965年の日韓国交正常化において日韓請求権協定を締結した時、強制徴用被害者に対する個人補償を明確に定めなかった韓国大統領は、朴正熙(パク・チョンヒ)であった。当時、日韓国交正常化交渉の内容が発表されると、韓国民はこの屈辱的な日韓条約に激怒し、「日本との屈辱外交に反対する全国民闘争委員会」が結成され、ソウル大学では多くの学生が断食闘争に突入するなど、反対の声が爆発的に韓国全土に広がった。追いつめられた朴正熙は、非常戒厳令を発布して、学生をはじめ1000人以上を逮捕し、内乱罪などで弾圧を続けたのだ。このように軍事独裁者・朴正熙は戒厳令下の強権をふるって、韓国民の声を圧殺して日韓条約を締結したのだから、そもそも、ほとんどの韓国民は日韓請求権協定を認めていなかったのである。
◎では朴正熙とはどのような人間であったかというと、日本の植民地統治時代に「日本の軍人になろう」と志して、満州で士官学校に自ら志願して入隊した。卒業後、大日本帝国の陸軍士官学校に留学して、満州軍団の副官という肩書きで日本軍人・高木正雄という日本人名に改名≠オ、悪しき日本式の軍人教育を受けた人物であった。
←写真は大日本帝国の軍人時代に撮影された朴正熙
◎朴正熙は、こうして出世街道を直進していた売国奴の日本軍人だったので、1945年8月15日に日本が敗北して朝鮮人が解放されるという「災難」に見舞われてしまった。そこで戦後は、自分の過去を隠して寝返り、軍事クーデターを起こして1963年に大統領となった親日派≠ナあったのだ。彼の娘が2013年に大統領となった朴槿恵(パク・クネ)であった。つまりここに、先に述べた、1945年に米軍が南朝鮮に進駐して以来、アメリカ軍政がとってきた親日派″フ用の地雷原が埋められていたため、現在になって未解決の賠償問題が火を噴いているのである。
この植民地支配の経過については、昨年2018年4月12日におこなわれた私の講演会「広瀬隆・明治150年の驕きょう慢まんを斬る──日本近現代史の本当の話」の中でも述べてある。この講演会の動画がインターネットのYouTubeに掲載されると、たちまち視聴数4万回に達して評判になったので、読者もぜひともご覧いただきたい。下記サイトを開くと、最初の22分間は司会者の話なので、22分以後に、2時間を超える私の講演があり、その後半で日本の朝鮮支配について述べてある。
https://www.youtube.com/watch?v=a6PI1ksqZug&t=2s
これが、現時点で、私にとって最後の講演会≠フ記録である。
今述べた2018年10月30日の最高裁の判決が出された時点で、韓国の文在寅政権の与党「共に民主党」だけでなく、与党の政策を支持する少数党「正義党」と、反対勢力である全野党も含めて、韓国民のほぼ全員が、韓国最高裁の「賠償金支払い命令」判決を支持したのである。この事実を知れば、判決は「韓国民の総意」であり、現在の論争の原因が文在寅政権の政策とは関係がないことを、日本人は認めるはずである。文在寅罵倒をくり返す武藤正敏がいかにデタラメをしゃべる嘘つきで、日韓関係を悪化させる旗振り役であるかという事実を、テレビ報道界は、まだ認識していないのであろうか?
このように大半の韓国民が労働者に対する賠償に関して歴史の見直し≠求めていたのは、戦時中に日本人がおこなった朝鮮人支配であり、またそのことを解決していない戦後史の清算≠セったのである。その感情は同時に、その大日本帝国の手先となった朴正熙大統領と、娘・朴パク槿ク恵ネ大統領の強権政治に対する韓国民の怒りであった。
つまり、強制労働させられた朝鮮人に対する個人補償を規定せずに日韓請求権協定を締結したのが朴正熙大統領であり、続いて、韓国においてその被害者に対する補償のやり直し裁判が提訴されながら、それを故意に遅延させてきたことが明るみに出されたのが娘の朴パク槿ク恵ネ大統領であり、この父娘がおこなってきた朝鮮民族に対する大きな犯罪が、韓国民の怒りを買っていたのである。今年2019年1月24日には、朴槿恵の要求に従って強制徴用労働被害者に対する補償判決を5年以上も先送りしてきた韓国最高裁の前長官・梁承泰(ヤン・スンテ)をソウル中央地検が逮捕し、ソウル拘置所に囚人服を着せて収監するという、司法界で前代未聞の事態に至ったのは、そのためである。
◆朴槿恵(パク・クネ)を退陣させた韓国民のロウソク・デモ
韓国民のこのような意識の変化は、アメリカでニクソン大統領を辞任に追いこんだウォーターゲート事件をもじって、チェ・スンシル・ゲートと呼ばれる事件から始まった。3年前の2016年10月24日に、韓国のケーブルテレビ局JTBCが、朴槿恵(パク・クネ)大統領の女友達・崔順実(チェ・スンシル)のタブレット端末(パソコン)に保存されていた機密文書について一大スクープ報道をおこなって、チェ・スンシルが朴パク槿ク恵ネ大統領を操っていたという事実が発覚すると、翌日10月25日に、朴槿恵が事実を認めて謝罪した。そして、韓国市民が投資する資金で設立された進歩派の「ハンギョレ」新聞社などが次々と重大事実を暴露した。日韓基本条約を結んだ朴正熙大統領が何と霊感師を相談役にしており、その霊感師・崔太敏(チェ・テミン)の娘チェ・スンシルと親しくなった朴槿恵が、このチェ親子にあらゆることを相談して、朴槿恵本人は小学生並み≠フ無能者ながら大統領への道を歩むようになったため、一人では大統領の職務を何もできずに、ただチェ・スンシルの「操り人形」だったというのだ。そこに軍事機密が流出しているという数々の大統領府の大スキャンダルをきっかけに、国民の怒りが燃えあがったのである。
おやおや、この無能の朴パク槿ク恵ネからおほめの勲章をもらったのが韓国大使・武藤正敏で、その人間の言葉を日韓関係の解説に採用してきたのが、テレビ朝日モーニングショーをはじめとする日本のテレビ報道界だったというから驚くではないか。
奇しくもこの大スキャンダルが明るみに出た同じ日、2016年10月24日に、私は韓国民に招かれ、九州の博多港から高速船に乗って釜山に到着し、夜行列車でソウル入りした。そして韓国国会とソウル市内が騒然とする中で、「ハンギョレ」新聞社の協力も得て、10月26日にソウルの国会議員会館の大講堂で講演し、続いて 現ヒュン代ダイ財閥グループの本拠地・蔚山(ウルサン)、さらに慶州(キョンジュ)、釜山まで4回の連続講演をしたので、歴史的な激動に立ち会うことができた。
私が講演中に朴槿恵大統領の名を出すと、聴衆から笑い声が起こった時に、テレビ報道の大統領スキャンダル事件をまだくわしく知らなかった私は、その深い意味を知り得なかったが、やがて韓国内で騒然たる動きが起こった経過を目撃してきた。
その後、韓国民が史上空前と言われる「100万人のロウソク・デモ」を3度もおこない、大統領が罷免されるまで半年間も反政府デモを続けて、人口5100万人の国で、全国のデモ参加者が累計1700万人という聞いたこともない数字を超えた時、そこに掲げられたスローガンが、当初の大統領の政治不正スキャンダルに対する怒りだけではなかったことが、日本ではまったく報じられなかった。
2014年に大型旅客船セウォル号沈没事件が起こった時、朴槿恵が「7時間」も手を打たず、高校生たち300人以上の死者・行方不明者を出してしまい、大統領府が「死者ゼロ」というデタラメ報道を続けさせたことの真相究明を求める声が再び高まると共に、デモの隊列に、日本人の男が植民地統治時代に犯した恥ずべき犯罪「日本軍の慰安婦」の巨大な少女像が掲げられていたのである。つまり韓国民の巨大デモは、過去の日本の植民地統治時代の歴史についての調査と清算を求めていたのであった。
←【写真は2016年12月に韓国の首都ソウルを埋めつくした巨大ロウソク・デモを報じるインターネット掲載写真──右端に赤丸○で囲った慰安婦の少女像はその左に「拡大」して示されている。左端にスポットライトが当たっている武将の立像は、豊臣秀吉が狂って日本人が朝鮮半島への侵略を試みた時に、日本軍と戦った朝鮮の英雄・李イ舜スン臣シン将軍を讃える銅像で、この光化門広場がソウルbPの観光名所である】。
その結果として、民衆デモが朴パク槿ク恵ネを退陣に追いこんでゆき、2016年12月9日、韓国国会は大統領弾劾だんがい訴そ追つい案を審議し、朴槿恵大統領の与党セヌリ党からも大量の造反者が出て、賛成234、反対56の圧倒的な賛成多数で大統領の弾劾訴追を可決した。すると2017年3月10日には、憲法裁判所が、朴パク槿ク恵ネ大統領に対する国会の弾劾判決に対して、裁判官の全員一致で「朴槿恵大統領を罷ひ免めんする(クビにする)」と発表したのだ。韓国史上初めて、大統領が弾劾訴追によって罷免されて失職し、ここからの奔流が、文在寅大統領の誕生へと進んでいったのである。
その歴史的犯罪を反故ほごにする朴槿恵のために立ち働いた日本の韓国大使・武藤正敏が、朴槿恵から勲章をもらって、いつしか日本で韓国通の仮面をかぶり、人権弁護士出身の人格者・文在寅を罵倒するという醜態を2018年10月にテレビ朝日モーニングショーで演じたわけである。つまり問題は、このように明々白々な歴史的事実を知ってか知らずか、武藤正敏を解説者として招いたテレビ朝日モーニングショーのディレクターの見識が問われているのである。安倍晋三とテレビ朝日の幹部が会食を重ねてきた。その結果、報道当日の誤報パネルを武藤正敏に創らせたはずである。
このテレビ番組は、私がこの2018年から報道番組をつとめて見るようにした中でも、評価できる解説者を招いて説明するので、かなり信頼できるはずだったが、韓国の裁判に関する解説者には、最も不適切な武藤正敏を招いて、日本政府の代弁をさせたのである。武藤発言に異議を唱えるべきレギュラー・コメンテイターの玉川たまかわ徹とおるが、おそらく本稿に記述している歴史的事実について知らなかったためと推測されるが、聞き役に終始して、ほとんど反論しなかった。ほか、ほとんどすべてのテレビ局も、みな同じレベルであり、元NHKアナウンサー有う働どう由美子までもが、歴史を何も知らずに移籍後のテレビ局で韓国批判を展開していた。つまりそれほど日本人(日本のテレビ報道界)は、朝鮮半島の戦後史の流れについて知らない人間が集まって、報道番組をたれ流しているのである。
肝っ玉の小さい安倍晋三と河野太郎に至っては、強制徴用労働者に関してこれから賠償を求められる日本企業を集めて、「賠償金を支払うな」と指導する犯罪を重ね、「日本企業の韓国内の資産が差し押さえられれば、韓国に対して報復関税を課し、日本製品の供給停止や、ビザ発給制限などの対抗措置」をちらつかせるほど、歴史についての無知もきわまり、国際的には、「これが日本の首相と外相か?」と疑われる存在であった。
しかしそれでも、問題の1965年6月22日の「日韓基本条約」を結んだ朴正熙
大統領が、軍事クーデターで政権を握って、国民を弾圧し続けたヒットラー並みの軍事独裁者であったぐらいの韓国の歴史は、日本の報道に携わる人間が知っていなければならない常識以前のことであろう。似たような歴史を持つ国で言うなら、南アフリカ共和国(南ア)ですさまじい黒人虐殺・弾圧のアパルトヘイトをおこなってきた白人政権が倒され、1994年に黒人解放運動の指導者ネルソン・マンデラが大統領に就任したあと、世界各国は、過去に極悪非道の白人政権と結んだ約束を楯に、外交を展開したのであろうか?たとえマンデラ大統領が、白人と黒人が憎しみを越えるよう願って宥ゆう和わ政策を進めたとしても、アパルトヘイト時代の南アの昔の政策を完全に否定することは、人間の良識として初歩の初歩であろう。韓国では、朴正熙以後も、全斗煥(チョン・ドゥファン)、盧泰愚(ノ・テウ)たち軍人が、長い間、韓国で強権を握る独裁的な大統領となり、その後も、李明博(イ・ミョンバク)と、朴槿恵(パク・クネ)が再び右翼的な大統領として、保守路線を復活させたことが、現在の大きな問題として再燃しているのである。そこに人権弁護士出身の文在寅政権が発足したのだから、韓国の政策が過去の悪夢を洗い流して大きく変らなければ、韓国は非文明国のままになってしまうではないか。
私が知っている韓国民の良識的感情を代弁するなら、日本人は歴史の中で犯した植民地統治の犯罪事実を認めるか、認めないか、と尋ねているのだ。暴言を吐いて根拠もなく韓国裁判を批判する武藤正敏・岡本行夫らを解説者として使う日本のテレビ報道界に、尋ねているのである。
では、テレビ報道界が、「何と心の狭い人間たちなのか」と馬鹿にされないようにするには、どうすればよいのだろう? 以下のように、頭を使えばよいのである、
◆韓国人が実行しようとしている歴史の清算とは何か
日本のテレビ・新聞報道界が、日韓関係について語る時、すぐに「反日」の言葉を口にし、韓国政府が反日であるかのように報道することが癖になっている。その原因は、韓国民が「歴史の清算」という言葉を使う時に、植民地統治時代に日本がおこなった従軍慰安婦や強制連行だけを対象としているという偏見に満ちた先入観を持っているからである。ところが韓国人は、以下に述べるような自分の国・韓国の軍事独裁政権がおこなった悪逆非道な行為も「歴史の清算」に含めているのだ。そのことを、日本人が知らないのである。
このような韓国における認識はそもそも、以下のように開花した。現大統領・文在寅が若かった頃、釜山で彼と共同弁護士事務所を開いた盧武鉉(ノ・ムヒョン)が、2003年2月25日に大統領に就任し、文在寅が大統領秘書室に入った翌年、2004年3月5日に、「日帝(大日本帝国)強占下強制動員被害$^相糾明等に関する特別法」がつくられたが、それだけではなかった。同年8月15日の光復節の祝辞で、盧武鉉大統領が「歪曲されたすべての韓国史を正す」方針を打ち出し、「過去の歴史で争点になってきた事案を、包括的に取り扱う真相糾明特別委員会を国会内につくること」を提案し、その真相糾明は「日本の植民地統治時代の反民族・親日行為」だけでなく「国家権力が犯した人権侵害と不法行為も対象にしなければならない」と明言してから、明確な国家事業となったのである。
そして翌年2005年5月3日に、問題となる過去の事件を法律的に再検討して整理する「過去事(または過去史と呼ばれる歴史的事件)整理基本法」が賛成159、反対73で韓国国会を通過し、「真実・和解のための過去事整理委員会(過去事委員会)」が設立された。この過去事委員会が5年間で明らかにした事件は、実に8000件にもおよび、後述する戦後間もない1948年の米軍と李イ承スン晩マン(初代大統領)による「済州島(チェジュド)四・三虐殺事件」や、朝鮮戦争前後の民間人集団死亡事件、国家公安権力による拷問のような反民主的・反人権的行為から、兵役中の自殺とされる疑問死などまで、膨大な数の国内事件の糾明があった。そしてこの歴史調査は、冤罪などで苦しめられてきた被害者を救済して、加害者の誠意ある謝罪によって被害者との「真の和解」を目的としたのである。言い換えれば、従軍慰安婦や強制連行問題は、そのうちの一つであるから、日本のテレビ・新聞報道界が「反日」という言葉を使うと、国の内外を問わずすべての事件で歴史の正義を明らかにしようと努力している韓国人には、日本人が何を言っているのか、理解できないのである。
テレビ報道だけでなく、新聞も含めて日本のほとんどの報道界は、韓国の政策の変化を「ついて行けない国」だという視点から論じているが、日本政府の外交政策もコロコロ変ってきたぐらいのことは、報道人の常識であろう。歴史の真相を調査し直し、誤っていた点について自分の考えを改めるほど人間にとって重要なことはない。
2018年12月20日には、韓国海軍の駆逐艦が北朝鮮の船を救助しようとレーダーを使って必死で探索し、漂流する北朝鮮の船舶1隻を発見すると、船員3人を救助して遺体1体を収容した。この捜索中に、日本の哨戒機がレーダー追跡範囲に入って来た。このことを安倍晋三の指令で日本政府が「韓国海軍の射撃統制用レーダーの使用は、きわめて危険な行為」であるとして外交問題化した際にも、TBSサンデーモーニングなどでは、司会者の関口宏はじめ、出演者のコメンテイターたちが一斉に、日本政府の言葉を借りて韓国政府と文在寅政権を批判した。2019年1月7日のテレビ朝日モーニングショーでは、安倍首相官邸と打ち合わせてきた海上自衛隊の元幹部・伊藤俊とし幸ゆきが、現場で何が起こったかについて正確な事実関係を説明できないにもかかわらず解説者となって、日本国民が興味さえ持っていない、勝手な軍事技術の説明をおこない、韓国政府を一方的に批判した。この制服組の人間の言葉を聞いて、日本の自衛隊という軍隊が「いつでも他国に喧嘩を売って戦争を起こしかねない」おそろしい存在であることを知って、私はぞっとした。冷静であるべき司会者・羽鳥慎一までもが伊藤俊幸に倣ならって同じ姿勢をとり、韓国の「反政府」右翼新聞・中央日報の記事まで引用していたのには驚いた。テレビ朝日の編集部ディレクターも、完全に反韓国政府の人材で固められているのか?
テレビ報道界とは、政治家以上に、国民世論が戦争やファシズムに走らないよう、「シビリアン・コントロール」の役割を認識していなければならない存在である。コメンテイターの一人ずつが、常に豊かな知識を持って冷静に物事を考える見識が求められる。報道界がその自覚を失えば、戦前に軍人の大本営発表のニュースを流して、国民を欺いたと変らない危険な方向に突っ走る。それに乗る国民世論もまた、実に危ういものである。こうして、テレビ報道界が日韓関係を悪化させることに余念がない姿を見て、「現在の日本の報道界にシビリアン・コントロールの能力はあるのだろうか?」という重大な疑問が湧いてきた。
この事件は、射撃統制用レーダーを使ったとしても、韓国海軍が砲撃態勢にはないことを日本の哨戒機が認識していた、つまり軍事的に危険ではなかったという事実がある。そして防衛省は、事務的に処理するつもりだったが、安倍晋三・首相官邸の指示で、両国が言い争うことになったのである。こういう軍事論争は友好国間ではあってはならないと戒められるべき話である。日本政府の態度は、道端に倒れている人を見て助けようとしている別の人に対して、通りかかったヤクザが「てめえ、ガンつけたな」と、からんでいるのと同じであった。この事件をテコに、安倍晋三らの軍国主義者が、憲法改悪への道筋をつけようとしていることは明らかであった。
日本のテレビ報道を見ていると、「韓国海軍が北朝鮮の船を救助した」という最も重要な事実には、どの局も一切触れなかったが、なぜなのか。日本のテレビ・新聞の報道界は、アホじゃないのか! 韓国軍が人命救助のためにいかなるレーダーを使おうが関係ないのである。にもかかわらず「言いがかりをつけて喧嘩を売る安倍晋三の態度は、きわめて危険な外交である」と、テレビ報道ではコメンテイターが日本政府をひと言も批判もしないのだ。日本と韓国が、この小さな問題でなぜ事を大きくする必要があるのか? 言うまでもなく、従軍慰安婦と強制徴用被害者の問題で、加害者である日本政府が歴史の真相究明を迫られ、日本企業が賠償を迫られているからである。
しかし日本のテレビ局と新聞社の頭もひどく悪い。2018年6月にトランプ大統領が金正恩委員長と第一回首脳会談をおこない、そのあとトランプが「米韓合同軍事演習」を中断させ、2018年10月には「米韓合同軍事演習を中止する」と発表したのは、すべて韓国の文在寅大統領が調停人(ネゴシエーター)となって、和平を働きかけたからである。そのアメリカ・韓国・北朝鮮の三者は「朝鮮戦争の完全終結」に向けて協議していた。そこに日本が介入していちゃもんをつけても、いずれ朝鮮半島に和平が訪れれば、やがて日本の報道メディアも、自分たちが騒いで日韓関係を悪化させていたのは何のためだったのかと、みっともない姿で黙りこむだけではないか。
今年2019年1月10日には、文在寅大統領が韓国での年頭記者会見で、強制徴用労働者の賠償問題についてNHK記者から質問を受けて発言し、短い言葉で「過去、韓国と日本にあいだには35年続いた不幸な歴史があった。これは韓国政府が作った問題ではないので、日本政府はもう少し謙虚な立場をとるべきで、日本の政治家や指導者たちがこれを政治の争点としてくり返し取り上げて拡散していることは賢明ではない」とだけ言って日本を批判した。この発言に対して、日本のテレビ報道は一斉に猛反発し、そこに文在寅大統領の「支持率低下」を引用して見当違いの評論をしたが、35年≠ニいう数字を聞けばすぐに分るはずの日本人の立場さえ、テレビ報道界は何も分っていなかった。
文在寅は、こうした態度をとる日本の政治家と、毎日のように韓国批判を続けるテレビ報道界の人間に対して、「日本が1910年から朝鮮を植民地統治した1945年までの35年間のことを、あなたたちはまだ自覚していないのか?」と、飛び回ってうるさいハエを追い払うかのように扱ったのである。つまり日本のテレビ報道界が日々のように主張してきた「韓国政府のために日韓関係が悪化した」というストーリーは、まったく責任の所在があべこべで、「日本のテレビ報道のために日韓関係が悪化した」のであった。なぜなら、2018年に日本を訪問した韓国人の観光客は753万人以上で、830万人の中国に次いで第2位で、日本人も韓国人も民衆は普段仲良くしている。ところが、日本のテレビ報道の相次ぐ焦点ズレの大誤報のために、韓国では一般民衆までもが「日本が1910年から1945年まで朝鮮を植民地統治したことを、あなたたち日本人はまだ自覚していないの? いまの日本人はネオナチなの?」と尋ねたくなるからである。
2019年1月13日のTBSサンデーモーニングに出演した元衆議院議員の田中秀征しゅうせいが、同番組コメンテイターのボスを気取って、「文在寅の言葉にムカッとした」かのように品位のない言葉を吐いたが、まさに田中秀征は、植民地統治時代の自分たち日本人が朝鮮人に対して何をしたかを忘れて、かつての南アのアパルトヘイト政権や、1950年代までアメリカ南部の白人が「分離すれども平等」とうそぶいて黒人を犬のように差別し続けたと同じ精神レベルの人間であることを印象づけた。長らく人権弁護士として闘ってきた文在寅は、そうした人間を、人間として扱うつもりはないし、他方、韓国民の機嫌をとって政治をする人間ではなく、人権第一政策は大統領就任以来まったく変っていない。加えて後述するように、実は「支持率低下」は韓国独特のニューライト(日本で言うネット右翼)によって作られた一種のフェイクニュースなのである。
賽さいの河原で石積みするように、このように無駄な議論をする時間があるなら、強制徴用された労働被害者に対してまったく賠償をしてこなかった現実を、日本人がどうすれば 償つぐなって解決できるかに、頭を使ったらどうなのか。日本が朝鮮を植民地統治した時代に、悪事をし尽くしたことは隠しきれない史実なのだから、日本政府と日本企業ばかりでなく、日本の報道界がまず率先して、その良識からスタートしなければならないはずであろう。このままの姿勢で日本のテレビ報道が続くようでは、私たち日本人は、韓国の人たちに恥ずかしくて顔向けできない。
これだけ述べても、まだ事情を納得できないテレビ・新聞報道関係者は、相当な数にのぼるであろう。なぜなら、その人たちは、感情的になって日韓関係を考えているからである。その感情豊かな人たちに、特効薬がある。百の論説を聞くより、最近の二本の名作韓国映画『弁護人』と『タクシー運転手』を見て、韓国の民衆が何を考えているかを知ることをおすすめする。
その一本は、1980年5月に 全チョン斗ドゥ煥ファンの軍部独裁政権が凄惨な市民虐殺を起こした光州事件を描いた映画『タクシー運転手』で、もう一本が翌年1981年9月に起こった「釜、山の学林、事件」、略して「釜林(プリム)事件」を描いた映画『弁護人』である。後者は、前年の光州市民虐殺事件を契機として学生運動が爆発したため、 全チョン斗ドゥ煥ファン政権が「共産主義分子を取り締まる」として学生運動団体すべてを反国家団体として弾圧した時、学生たちがそれに抵抗しようとソウルの「学林茶房(ハンニムタバン)」で会合を持ったところ、警察が学生と労働運動家24人を連行し、激しい殴打と水拷問・電気拷問を加え、国家保安法違反の罪で懲役2年から無期懲役までの宣告を下した。韓国南部の釜山でも、「学生の読書会」を根拠もなく「北朝鮮のスパイ」と断定するすさまじい拷問事件が起きたので、それが釜林事件と呼ばれた。この時、釜山でこれらまったく罪のない民主化運動の学生がすさまじい拷問を受けていることを知って立ち上がり、無償の弁護を買って出たのが若き弁護士時代の盧武鉉(ノ・ムヒョン)(のちの大統領)であり、盧武鉉と共同弁護士事務所を開いたのが、文在寅大統領であった。だがしかしその事件が起こった当時、盧武鉉は、まだ人権弁護士ではなかった。むしろ金かせぎが目的の高卒の弁護士として馬鹿にされていた。そうした盧武鉉をモデルにして「釜林事件」を描いた2013年公開の名作伝記映画『弁護人』は、韓国の観客動員数が1100万人を超える大ヒットとなったが、そこに登場するソン・ウソク弁護士こと盧武鉉を演じた俳優ソン・ガンホが、2017年に公開されて1200万人の観客動員を記録した光州事件の韓国映画『タクシー運転手』の主演俳優でもあった(『タクシー運転手』についてはのちにくわしく紹介する)。
このように市民や学生たちに対して相次ぐ凄惨な拷問と虐殺を加えて政権を維持してきたのが、1963〜1993年の30年にわたって朴パク正チョン熙ヒ、 全チョン斗ドゥ煥ファン、盧ノ泰テ愚ウと続いた軍事独裁政権の悪事であり、その政権を利用して日韓基本条約を結んだのが日本政府であった。その韓国の国家の悪事と今日まで戦ってきたのが、弁護士・文在寅だったのである。
このような韓国史の初歩さえ知らないあまりにも未熟な日本のテレビ報道コメンテイターとマスメディア関係者が映画『弁護人』と『タクシー運転手』を見ただけでは、一体これらのすさまじい虐殺・拷問弾圧事件が何を意味しているかを、深く理解できないはずである。感動的な映画『弁護人』に付け加えておかなければならないことがある。これらの事件は昔の出来事ではないのだ。「学林事件〜釜林事件」ですさまじい拷問を受け、被告となった無実の学生たちに対して、ほんの10年前の2009年に開かれた韓国の再審で、彼らはようやく「無罪」の宣告を受けた。さらに翌年2010年12月には、ソウル高等法院が学林事件の再審で「無罪」および「免訴」を判決し、判決文の中で「司法部の過誤によって被告人に苦痛を負わせたことに対して謝罪する。この判決がわずかでも慰めになることを願う」と裁判所が冤罪を謝罪し、2012年6月の最高裁(大法院)でこの事件に対する再審判決が下され、「無罪が確定」したのである。そしてこの判決が、同じ韓国の最高裁が「日本の徴用工の個人請求権は消滅していない」と判決を下した2012年5月と同じ年で、翌月の出来事なのだ。 この軍事独裁政権がおこなった拷問と虐殺は、植民地統治時代の日本人が35年間にわたって朝鮮人に対して続けた行為を、戦後に親日派%チ高警察の朝鮮人からそっくり受け継いだものだったのである。その史実に気づく時、読者がまともな人間であればおそらく、現在の日本のテレビ報道の姿勢が間違っていることにも気づくであろう。
韓国についても、青瓦台の大統領府についても、知識があまりに未熟な日本の若いマスメディア関係者が、こうした韓国の歴史の基本を知るための必読書として、朴永圭(パク・ヨンギュ)の著書『韓国大統領実録』がある。この分厚い書が、韓国で5年前の2014年1月に出版され、李イ承スン晩マン・朴パク正チョン熙ヒ・ 全チョン斗ドゥ煥ファン・盧ノ泰テ愚ウらの歴代大統領の強権政治の腐敗の軌跡と、金キム泳ヨン三サム・金キム大デ中ジュン・盧ノ武ム鉉ヒョン大統領時代からの民主的改革が貴重なドキュメントとして詳細に記述されたのである(邦訳は、2015年10月15日初版、キネマ旬報社発行)。韓国で200万部の超ベストセラーとなった『朝鮮王朝実録』(邦訳キネマ旬報社)を書いた同じ著者・朴永圭の手によって、このような韓国の戦後政治史に新たな光が当てられたのだから、日本のテレビ報道界は、日韓関係について語る時には、この本を座右の書として熟読してから口を開くようにすれば、恥をかかない。
名作映画『弁護人』と『タクシー運転手』を見ずに、また『韓国大統領実録』を読んでいない人間は、現在の韓国について論評する資格はないし、テレビ報道番組で司会者・解説者・コメンテイターをつとめる資格はない。羽鳥慎一、玉川徹、関口宏たち高い報酬を受け取っているテレビ報道の関係者であれば、映画『弁護人』と『タクシー運転手』のDVDと、『韓国大統領実録』の本ぐらいは買えるはずである。それほどの金と時間を惜しむなら、テレビ番組に出演して無責任に語る恥さらしをしないほうがよい。
これらの韓国文化については、このあと本稿の第二話「韓国ドラマと韓国映画が伝える人間の気概」の項で、さらにくわしく紹介する。
さて今後は、韓国だけでなく、戦後処理として国交正常化交渉をしていない北朝鮮に対しても、戦時中に強制徴用した労働被害者たちに対する巨額の賠償について、日本は国交正常化の第一歩からやり直さなければならない大きな罪の償いが残っていることを忘れてはならない。
日本と比較されるドイツは、リヒャルト・フォン・ヴァイツゼッカー大統領が、「過去に目を閉ざす者は、現在をも見ることができない」という格調高い演説をドイツ連邦議会でおこない、ドイツ人がナチス時代におこなった過去の行為について、被害国と被害者に対して誠実に謝罪し、賠償し、国内法によってネオナチ的行為を禁止できるようにしてきた。その結果、ドイツに対する戦時中の批判はまったく起こっていない。
ところが、戦後に周辺諸国に対して誠実に謝罪して、賠償責任を積極的に正しく果たそうとしてこなかった日本人は、「金を払えばいいのか?」という程度のレベルの低い認識しかなく、戦時中の行為を心から反省もしていない。特にテレビ報道界は、何か言われるとすぐに開き直って「それは反日だ」というキャンペーンを続けている。これからアジアの外国人労働者を数多く受け入れようとしているのが、日本の国ではないのだろうか? 「いつまでも人権を無視して、恥ずかしくないのか?」と尋ねたくなる。
◆韓国に独裁者を君臨させ、朝鮮戦争を引き起こしたアメリカ軍政と大日本帝国の売国奴
次に本稿で解き明かさなければならないのは、朝鮮半島で、なぜ同じ民族のあいだで朝鮮戦争≠ェ引き起こされたか、という歴史のミステリーである。たった今、この朝鮮戦争を完全に終結させようとしているのが、現在の文在寅と金正恩の南北首脳であるから、以下に述べるこの戦争の正確な歴史を知らずに、テレビ報道のコメンテイターが、目の前で進行している朝鮮半島問題に対する意見を語ることはできないはずである。
初代の韓国大統領・李承晩(イ・スンマン)から、実質的に彼を継いだ軍人大統領・朴正熙と、さらに彼に続く軍人大統領の全斗煥、盧泰愚たちが、長い間、韓国で強権を握って独裁者になることができたのは、なぜであろうか?
その理由もまた、日本が降伏した時代、1945年に戻ってみれば分る。
日本の植民地統治時代の売国奴であった親日派≠フ朝鮮人たちは、南朝鮮に乗りこんできた米軍の意を受けて、いきなり「共産主義反対!」と叫んで反共スローガン≠掲げ始め、その行動によって南朝鮮の愛国者≠ノ化けたのである。朝鮮民族の反逆者を愛国者に変身させる魔法となったのが、共産主義者を攻撃する運動であった。彼らは、日本の植民地・朝鮮統治時代に特高警察が完成した残忍無比の電気拷問などの技術を日本人から受け継いだあと、それにさらに磨きをかけ、長期間にわたって韓国の独裁政権を支える主柱のひとつとなって、韓国民に襲いかかる恐怖の組織となった。
その時、軍事独裁政権を育てたのが、ほかならぬ、光復節後に南朝鮮に進駐した米軍だったのである。その経過を、日本敗戦の年から振り返ってみよう。
1945年、ソ連が日本を占領することをおそれていたアメリカは、日本領土の代りに、朝鮮領土の北半分を与えてソ連を黙らせた。その結果、ソ連兵が進駐した北朝鮮では、共産党思想の確たる素地がなく、ソ連が頼るべき指導者もいなかったので、ソ連軍部は、朝鮮人民革命軍の指導者と称する金日成(キム・イルソン)を引き立てて、この男をソ連の操り人形として指導者に据えることにし、金日成は自分の郷里の平壌(ピョンヤン)に帰り、最高指導者に成り上がっていった(この経過はのちにくわしく述べる)。
占領軍である南朝鮮の「米軍」と、北朝鮮の「ソ連軍」は、いずれも朝鮮人の行動に深い関心を持たず、日本の植民地統治時代についても理解していなかったので、自分たちの朝鮮分割・占領行政だけに心を砕いた。本来であれば、分割されるべきは、朝鮮ではなく、ドイツと同じように敗戦国の日本であるべきだったが、南北に分断されて、占領されたのは、理不尽にも朝鮮半島の民衆であった。
日本降伏から2ヶ月後、こうした時期の1945年10月16日に、民族主義者と自称する李イ承晩スンマン(り・しょうばん)なる人物が、亡命先のアメリカ・ハワイから米軍の特別軍用機でソウルの金浦(キンポ)空港に連れて来られて、朝鮮に帰国した。ところが彼は、記者会見で朝鮮語をまともに話せない男であり、1875年生まれの彼はすでに70歳の高齢であった。それまでアメリカ政府は、「李承晩は朝鮮で人気が高い」と聞いていたので、政界が李承晩に握られるのを阻止しようと、アメリカで足止めしていた。ところが李承晩が、実際の朝鮮独立運動とまったく関係のない人物であり、やがて「李承晩がモルガン財閥と結びつきのある親米勢力で、反共主義者である」と判断して帰国を許したのである。この人選の過ちが、後年までアメリカ最大の失政となった。
このあと、李承晩が南朝鮮で政治的実権を握って、初代大統領に就任するまでには、国連を舞台にしたアメリカとソ連の数々の政治的駆け引きと、朝鮮人のさまざまな組織の対立があった。それは歴史的には面白いが、非常に複雑なので、本稿ではその経過を省略して、5年後に最悪の「朝鮮戦争」を招いたアメリカ軍政の動きを中心に述べる。
日本敗北の翌年1946年に入ると、1月15日にアメリカ軍政が南朝鮮に「国防警備隊」と名づけた朝鮮人の軍隊を創立し、この朝鮮軍をアメリカの傭兵ようへいとした。新設したこの国防警備隊の幹部に就いた朝鮮人は、英語を流暢りゅうちょうに話せる人間が米軍にとって利用しやすかったので、前年1945年12月5日にアメリカ軍政が設立した「軍事英語学校」の卒業生であった。ところが同校出身者110人のうち、植民地統治時代の「日本軍」出身の朝鮮人が87人で、実に79%の大半を占め、さらに日本軍の支配下にあった「満州国軍」の出身者が21人、その他が2人であった。つまりほとんど全員が大日本帝国軍の出身者という朝鮮売国奴の親日派≠ナ占められたのだ。そうした軍人の一人が、のちの韓国大統領・朴正熙(パク・チョンヒ)であり、「満州国軍」出身の彼は、日本敗戦後に朝鮮警備士官学校に入学し、その後、色々と紆余曲折の苦難の時代はあったが、すべて大日本帝国時代の親日派$謾y軍人が彼を出世の道に導き、軍事クーデターで権力のトップに立つと、やがて大統領のポストを手に入れた。そして朴正熙の部下だった全斗煥と盧泰愚が、朴の後を継いで軍人大統領となったのである。
こうしてアメリカは、朝鮮を大日本帝国の支配から解放したのではなく、日本の植民地統治時代の朝鮮人売国奴を軍の幹部に引き戻す主役を演じていたのだ。
加えて、この南朝鮮史の初期の過渡期に、軍人ではない李承晩も、米軍に従って「共産主義に反対する親日勢力」を味方につけようとしたため、かつて朝鮮を植民地にしようと日本に協力した親日勢力の売国奴≠フ戦争犯罪者が、李承晩政権を支える資産家のパトロンとして、続々と有利な立場に復帰し、李承晩政権は事実上の軍事政権となった。このようなアメリカ軍政と李承晩の反共政策のため、「朝鮮人が自力で朝鮮半島全土を統治する朝鮮政府を樹立する」という夢が完全に消え去って、北緯38度線による南北朝鮮の分断が確定してしまったのである。
◆南朝鮮の民衆が起こしたアメリカ軍政に対する反乱
しかしこの間、南朝鮮の民衆は、折角日本人を追い出したのに、自分の国で自分たちがいつまでも解放されない立場にあることに気づくと、当然のことながら次第に激しい憤懣ふんまんを覚えるようになり、アメリカ軍政と、それに追随する反共右翼と、戦時中の売国奴に対する抵抗運動が起こった。当時の一般の南朝鮮の民衆は、貧しいままで、救いようがない生活苦に追いこまれていたからである。というのも、日本の植民地統治時代には、日本人が南朝鮮の資産の90%以上を略奪して、裕福となった日本人が富を独占していた。日本敗戦後は、日本人が日本に帰国して朝鮮に残したその巨大な資産を、アメリカ軍政が本来の所有者である朝鮮人に返却すべきところ、すべて軍政下に置いてしまったのだ。そのうち一部の資産は、李承晩政権にコネを持ってアメリカ軍政に寄生する商人と、地主などの特権層にだけ、安価で払い下げられてきたのだから、大半の南朝鮮の民衆は、貧困のどん底から抜け出られなかった。
かくして1946年6月には、南西部地方、全羅南道(チョルラナムド)の光州(クァンジュ=17頁の地図参照)にある和順(ファスン)炭鉱の労働者が、こうしたアメリカ軍政の寄生者である警察と右翼に反対して決起し、無実で投獄されている者の釈放を要求してデモをおこなった。その時、米軍の歩兵部隊と、韓国警察の武装騎馬隊がこのデモを鎮圧し、500人以上が死傷する光州虐殺事件が起こり、大惨事となった。さらに7月には、同じ全羅南道の農民が決起して、南朝鮮における最初の農民闘争が勃発し、9月24日には、南朝鮮の釜山(プサン)の鉄道労働者8000人が決起して「米よこせ、テロ反対」のゼネストが起こり、鉱業、電気、印刷、郵便局など、労働組合傘下の産業部門の全土にストが拡大し、大都市の学生を含めて25万人が参加した。このゼネストをまたしてもアメリカ軍政が呵か責しゃくなく弾圧し、9月30日にはソウルの龍山(ヨンサン)駅の鉄道労働者のストライキに対して、アメリカ軍政の指示のもとに警察が一斉射撃を加えて500人以上を死傷させたのである。
10月1日には、南東部の大都市・大邱(テグ=17頁の地図参照)に「十月人民抗争」と呼ばれる大規模な反米闘争が起こると、民衆鎮圧のために、ここでも日本の植民地統治時代の売国奴が雇われた。これをきっかけとして、反米デモが南朝鮮全土に広がり、230万人の民衆が参加した。参加者のこの大きな数字は、南朝鮮におけるほとんど全国民の怒りを表わしていた。こうした反米闘争に対して、朝鮮の民衆の苦しみを
顧かえりみない失政の責任者である米軍は、「デモは共産主義者の煽動である」とアカ呼ばわりして非常戒厳令を敷き、警察と、警備隊と称する軍人のほか、反共右翼団体を動員して彼らに対して苛烈な武力弾圧をおこなった。この70日間続いた十月人民抗争における「公式発表」の死者は136人だったが、実際の死者・行方不明者は何と3900人以上、負傷者は実に2万6000人以上、検挙者1万5000人以上を数えたのである。こうして南朝鮮の各地でアメリカ軍政に反対するデモが続発した。
追いつめられたアメリカ軍政のホッジ司令官は、1946年12月12日に、南朝鮮の過渡立法院と称する臨時国会を開いて、南朝鮮の民衆に政治的な首輪をはめようとした。アメリカ軍政が立法権を完全に握っているのだから、この立法院に対して朝鮮人は何の権力もなく、加えて議員たちは買収工作のほか、警察とテロ団による暴力などの不正選挙によって選出される有様であった。
1947年3月1日には、日本の植民地統治時代に朝鮮人が三・一独立運動≠起こしたこの記念日に、朝鮮南部の済州島(チェジュド=17頁の地図参照)で3万人の民衆が結集し、烈しいデモをおこなっていたところ、前年の大テ邱グ抗争で民衆を弾圧した警官が出てきて民衆が虐殺された。3月22日には、南朝鮮全土で24時間ゼネストが実施されて、ソウルでは大規模デモが挙行され、その結果、ゼネスト参加者2000人が大量に検挙されたのである。
1947年6月3日には、アメリカの軍政庁を「南朝鮮過渡政府」と改称し、李承晩がアメリカの財閥と結びついて、アメリカ軍政下の資本関係を利用しながら権力の座についた。
一方この頃、日本に関して、1948年1月6日に、サンフランシスコのコモンウェルス・クラブでアメリカ陸軍長官ケネス・ロイヤルが不思議な演説をおこなった。「日本は現状のままでは食糧の飢餓に動揺し、内外の煽動主義者(共産主義者)に動かされて、(アメリカの)援助がなければ非民主主義的な侵略思想の餌食となるであろう。これまで日本の全体主義(天皇制軍国主義)に代る自由主義の土台を築くことを可能にしたのはGHQ司令官マッカーサー元帥らの功績である。しかし今後の政治的な安定のためには、日本に健全な自立経済がなければならないことを、陸軍省と国務省は認識している。戦後日本の戦争力を弱めるためにおこなってきたことが、この国の最も有能な実業指導者(戦争財閥)を無力化させてきた。こうした過度の措置(財閥解体)に修正を加えなければならない。日本に、自立し、かつ今後、極東に生ずる全体主義的(共産主義者による)戦争の脅威を食い止める対抗手段としての政治を建設することを、われわれの確固たる目的とする」と主張したのだ。
彼はなぜ唐突にマッカーサーの日本占領政策を批判し、明らかに「日本を反共の砦」として「日本再軍備の狼煙のろし」をあげる声明を発表したのであろうか。実は、このロイヤル陸軍長官と、彼の上官である初代国防長官ジェームズ・フォレスタルは、米軍の最高幹部でありながら、いずれも弁護士と投資銀行家であって、生粋の軍人ではなかった。つまりアジア極東の朝鮮半島と日本の情勢に対して、ウォール街を支配するモルガン=ロックフェラー連合の軍需財閥たち資本家の巨大な政治力が背後にのしかかってきたのである。それは、世界大戦で肥え太ったアメリカの軍部と軍需産業が、世界大戦が終ったあとに膨大な数の失業者を出している経済事情が原因であった。
1948年2月7〜9日には、李承晩が「南朝鮮における単独の選挙」をめざしていることに南朝鮮労働党傘下の労働者が反対し、南朝鮮と北朝鮮の分裂を食い止めようとゼネストを挙行し、農民と学生200万人がこの反対行動に参加して全国に広がり、検挙者・死傷者とも数万人に達した。続く4月3日には、済州島(チェジュド=17頁の地図)に武装蜂起という大事件が勃発し、これが米軍による四・三大虐殺事件≠招いた。韓国南部の現在のリゾート地・済州島全域で、朝鮮半島の南北分断政策をめざす李承晩派が南朝鮮だけの単独選挙を挙行することに反対して、島の人々が武装蜂起したのである。
この武装蜂起に対しては、最初からアメリカ軍政が警備隊を送りこみ、軍と警察が島に火を放って焦土化し、島民を虐殺しつくした。人口30万余の済州島で実に死者が3万人を超え、女性と子供だけでも1万人以上が殺される大虐殺を引き起こしたのだ。加えて、逮捕された無実の島民は、逮捕された意味も分らずに殴られ、激しい拷問を受け、軍法会議にかけられてアッという間に2530人にデタラメの有罪判決が下されたのである。
当時、米軍にとっての済州島は、日本における沖縄と同じ軍事基地であった。3つの軍用飛行場があり、中国本土とソ連のウラジオストック、ハバロフスクおよび日本を射程に入れた攻撃基地だったので、米軍は何としてもここを死守しなければならなかった。ここで朝鮮人を大量虐殺し、焦土作戦を強行した韓国軍の国防警備隊第9連隊の隊長・宋堯讃(ソン・ヨチャン)は、またしても大日本帝国軍の陸軍特別志願兵訓練所で教育を受けた売国奴であり、先に述べた米軍の軍事英語学校の卒業生であった。
この歴史的な済州島四・三大虐殺事件≠ノついては、島民の三つの地域の住民が、のちに最近まで韓国政府を相手どって賠償を請求する訴訟を起こし、すべて住民の勝訴が確定したので、歴史問題は解決したとみなされていた。ところがつい先年2013年に朴パク槿ク恵ネ政権が発足すると、四・三事件≠ヘ共産主義者が煽動した暴動だったと言い出し、政権高官が済州島を訪問したとき、処刑された無実の人々を事件の虐殺犠牲者と認定したことについて「再審査する必要がある」と暴言を吐いたため、済州島民の猛反発を受けてほうほうの体でソウルに逃げ帰った。2015年には、四・三事件追悼式典≠ヨの出席を朴槿恵大統領が拒否するという無ぶ様ざまな姿をさらけ出した。そこで昨年2018年4月7日には「済チェ州ジュの民衆を大量虐殺した責任は、李承晩政権とアメリカにある」として、韓国人の遺族がアメリカ大使館に抗議し、今年2019年1月17日には、事件当時に内乱罪などで軍法会議に引き渡され、懲役1年〜20年の刑に服した数少ない生き残りの元受刑者18人が訴えた再審裁判で、済チェ州ジュ地裁が「当時の軍法会議の有罪には根拠がなかった」と公訴棄却の「無罪判決」を下して、歴史の清算活動が、今になってようやく実ったばかりである。この時、裁判長は、実に70年以上前の事件で、高齢になるまで受刑者が冤罪によって味わってきた無念の思いに対して、「これまでご苦労様でした。裁判所の立場から、そう申し上げたいと思います」と、丁寧な言葉で 労ねぎらったほどである。
◆南北朝鮮で二つの独立国家が成立し、朝鮮戦争の開戦に向かった
さて、済州島の虐殺が進行する中で、1948年5月10日には、ロックフェラー財団理事長でアメリカ国連首席代表となるジョン・フォスター・ダレスの工作によって、国連に「朝鮮委員会」なるものが登場して、アメリカが国連を国際的な政治儀式に悪用し始めた。この日、国連の朝鮮委員会が監視し、米軍が戦闘準備態勢をとる中で、南朝鮮の憲法制定議会の議員選挙が実施され、議長にアメリカ軍政の木戸番・李承晩が選出された。以上述べたように夥しい数の南朝鮮の民衆の怒りを買う危機的状況のアメリカ軍政下で、この足固めの前準備を整えてから、7月20日に、制憲国会が大だい韓かん民国みんこくの「憲法」を制定して間接選挙による大統領選挙が実施されたのである。この時、李承晩の政敵がことごとく軍部のテロによって殺害され、大統領選挙中に謎の急死を遂げていたので、当然のように李承晩が大統領に当選した。かくして翌月の1948年8月13日に南朝鮮に韓国(大だい韓かん民国みんこく)という新国家が誕生し、初代大統領に李イ承晩スンマンが就任したのである。
こうしてアメリカ軍政の手の中で転がされるままに韓国という国家が成立すると共に、国軍組織法が誕生し、先に創設されていた国防警備隊が「陸軍」と改称され、海岸警備隊が「海軍」と改称され、韓国の正式軍隊が発足した。その中で、韓国全土の警察幹部に、日本の植民地統治時代の特高関係者が登用されるようになったのだ。
この建国時には、アメリカ軍政から韓国政府に政権が移譲されていなかったが、1ヶ月後の9月11日に「アメリカ・韓国間の財政および財産に関する最初の協定」が締結され、アメリカ軍政から韓国に政権が移譲された。ところが、韓国の軍隊に対する指揮権は米軍が掌握していたので、韓国軍はアメリカの傭兵 ようへいのままであり、発足した韓国政府は、最初からアメリカの言いなりに動くマリオネット(操り人形)たる傀儡かいらい政権であった。
一方、この少し前の1948年2月8日には、北朝鮮でも人民軍が創設されていた。韓国成立直後の8月25日には、北朝鮮でも南に対抗して、国会にあたる最高人民会議の代議員の総選挙が施行され、9月8日に朝鮮最高人民会議の第一次会議で憲法を採択して、翌日9月9日に「朝鮮民主主義人民共和国」が樹立された。首相に金日成(キム・イルソン)が就任して、こちらは共産主義国・ソ連の傀儡かいらい国家となった。
こうして1948年に、南に韓国、北に朝鮮共和国がほぼ同時に誕生したのである。
ちょうどそこに、これまでの民衆グループや組合運動が起こした反政府運動と違って、韓国の軍隊≠ェ李承晩に対して反乱を起こすという大事件が勃発したのである!!1948年10月19日に、先述の済チェ州ジュ島ド蜂起を鎮圧するために派遣される予定だった韓国最南端、全羅道(チョルラド)の麗水(ヨス)に駐屯する軍隊が、出動を拒否して反乱に決起したのだ。というのは、済州島では、韓国政府の成立後も警察と軍に対する島民の激しい衝突が続いていたので、李承晩はアメリカと組んで済州島の焦土化作戦を進めようとしていた。そのため10月19日夜から、済州島の抗争鎮圧に反対する麗ヨ水スの南朝鮮労働党の軍隊・第14連隊が、「朝鮮人同胞に対する虐殺を拒否し、米軍の即時撤退を求めて」反乱を起こしたのだ。数千人の軍人が同調して行動したのだから、組織的にも、ケタ違いの人数においても、これまでの反政府・反米行動とは違っていた。「李承晩打倒!」を掲げたこの反乱は、翌日10月20日に麗ヨ水ス郡から隣の順スン天チョン郡にも拡大したので、この反乱は麗ヨ順スン事件と呼ばれた。
10月24日には、麗水へ向かう韓国正規軍が反乱軍の待ち伏せに遭い、正規軍270人以上が戦死し、この間に反乱軍の主力1000人が北部の智異(チリ)山へ移動し、反乱軍がパルチザンとなって山中に潜伏して長期的なゲリラ闘争を展開した。ちょうどキューバ革命の成功前に、カストロとチェ・ゲバラが独裁者バティスタに山中からゲリラ戦を挑んだような大事件であった。
李承晩大統領と米軍は、大規模な軍部の反乱に衝撃を受け、韓国に駐在するアメリカの軍隊が鎮圧に乗り出した。この時の李承晩は、この反乱を利用して左翼を撲滅する絶好機ととらえて、直ちに米軍と共に鎮圧部隊を投入したため、10月27日までに反乱部隊を鎮圧し、反乱部隊だけでなく非武装の民間人8000人を殺害する大事件となった。反乱軍に加担した嫌疑で1万7000人以上の市民が裁判にかけられ、866人に死刑が宣告されたのだ。さらに、終身刑を言い渡された568人の将兵は、1950年の朝鮮戦争勃発と同時に、全員処刑されたのである【この「麗順事件」の犠牲者に関しても、前述の過去事委員会が調査をおこなった結果、不法に逮捕・監禁された事実が明らかにされ、今年2019年3月21日に韓国最高裁(大法院)で71年ぶりの再審開始が決定されたばかりである】。
1948年には麗順事件のあとも大邱(テグ)や光州(クァンジュ)、馬山(マサン)などの各地で反乱軍の決起が続発した。これら一連の反政府・反米事件では、いずれも、死者など被害者の数があまりに大きいことに驚かされるばかりである。
このように国民虐殺が横行する不穏な形で韓国という国家がスタートしたのが1948年であった。そのため済州島事件・麗順事件直後の11月30日に、李承晩が韓国国会で「米軍の長期駐屯案」を強行採決して、いよいよ北朝鮮との戦争に備える準備に入り、翌日の12月1日には、軍隊内の粛清に乗り出した。彼は自分に反対する人間を根こそぎ弾圧できるよう、「国家保安法」を公布したのだ。この法によって、「米軍の撤退」もしくは「南北朝鮮統一」を主張する平和主義者≠ヘ無期懲役に処せられ、翌年には国家保安法が改悪されて死刑が含まれるようになった。
この国家保安法は、北朝鮮を国家と認めず「反国家組織」と規定して、韓国の国民が許可なく(家族であっても)北朝鮮の人間や資料に接することを禁じ、最高刑は死刑に処すという鬼畜に等しい野蛮な法律であったため、1年間で逮捕者が11万人にも達し、軍隊内部では軍人4749人が摘発され、そのおよそ半数が銃殺刑で処刑されたのである。この処刑された者の中には、日本の植民地統治時代の1940年9月に創設された朝鮮の独立軍「光復軍」出身者が多数含まれていた。「光復軍」は、日本に宣戦布告して抗日運動を激しく展開した真の愛国者であった。1910年に韓国(朝鮮)が日本に併合され、朝鮮の民衆が一斉蜂起して日本に対して反乱を起こした1919年の三・一独立運動≠フ指導者も、李承晩はアメリカのCIAと手を組んで次々と投獄し、暗殺したのである。この粛軍の先頭に立ったのが、陸軍本部情報局大尉の金昌竜(キム・チャンリョン)であり、彼はのちに陸軍特務隊長となるが、またしても元日本軍の憲兵伍長であった。こうして韓国の大統領が、信じられないことに日本の植民地統治時代の売国奴を使って、朝鮮/韓国独立運動の英雄を惨殺しながら、軍事独裁者に成り上がっていったのである。またそれが、アメリカの指示によるものであった。このようにしてアメリカに支持された李承晩は、絶大な権力を持つ独裁者としての政権を確立したが、事実上、韓国内は無政府状態であった。
こうして1948年に成立した韓国の国家保安法は、日本が1925年に公布した最悪の法律「治安維持法」の条文をほとんどそのまま受け継いだものであった。つまり戦時中に日本国民の意見表明さえ弾圧して許さなかった「思想」を裁く民衆弾圧法であり、物証を必要とせず、拷問による嘘の自白だけで好きなように罪を問うことができるこの悪法が、韓国では現在まで生き続けてきた。同じ時期に日本を占領したGHQマッカーサー指揮下のアメリカは、大日本帝国時代の軍国主義を日本社会から根絶しようと、1945年10月4日に日本の治安維持法を撤廃して、特高警察を廃止させ、財閥解体のために活動しながら、一方で韓国の米軍は、まったく逆のファシズムを実行していたのだ。共産主義撲滅というイデオロギー実現のために……
私自身を含めて、われわれ日本人、とりわけ戦後世代に欠けているのが、この時代にアメリカ人によって苦しめられていた韓国人≠ノ関する知識だったのである。それは、戦後日本の重要な変革期なので、われわれの目は、当時の日本国憲法の成立など日本の変化だけに注がれて、朝鮮半島にまで頭が回らなかったからである。
しかし韓国でも近年、1998年に「国民の政府」を謳う金大中(キム・デジュン)が大統領に就任して民主化を強く推進するようになり、彼を継いだ盧武鉉(ノ・ムヒョン)大統領が「国家保安法は博物館に送らなければならない」と力説し、市民運動もあらゆる努力を傾け、何度も国家保安法の廃止が試みられた。若き弁護士時代の盧武鉉が韓国映画『弁護人』で「釜林(プリム)事件」の無実の学生を守ろうとした時に痛烈に批判して戦った相手が、この国家保安法であり、人間の思想まで統制し、拷問でも何でも警察に許したのが、この悪法であった。しかし盧武鉉大統領時代に与党が過半数を占めていながら、朝鮮民族に対する反逆者が反共≠叫んで愛国者に変身し、韓国経済の資本を動かす財閥が支配層を形成しているため、これら既得権を握った勢力の抵抗は強かった。その時、国家保安法の廃止を食い止めるファシズム運動の先頭に立ったのが、朴槿恵(パク・クネ)であり、2019年現在に至るも国家保安法の廃止が実現されていない。
日本人から見れば韓国は、人権の尊重を謳う近代国家であるはずだが、韓国映画界が製作する一連の歴史ドラマを見れば分るように、そこに横行する朝鮮王朝時代の官僚機構を支配した上層階級の両班(ヤンバン)と、老論(ノロン)派たちによる身分差別主義は、日本の江戸時代の士農工商による差別どころではなかった。現在まで、その封建時代の身分制度と、何事にも父親の了解を求めなければならない家父長制度を引きずっていると言われるのが韓国である。一方で、学歴重視社会が企業内にはびこって、高校卒・中学卒の会社員が大学卒から激しいイジメを受けるという、韓国の会社員の差別問題も深刻である。そうしたサラリーマンとオフィスレディーの正視に耐えない姿は、現代の韓国ドラマ『未生(ミセン)』など数々の作品に描かれている。
言い換えれば、このような朝鮮・韓国の身分制度や、生まれつきの貧富の差と、学歴が人生を決めるという国民の学歴差別主義を痛烈に批判して描くのが、現代の韓国ドラマの脚本の柱であり、それを演ずる韓国トップスターである芸能人・文化人のすぐれた反骨精神がそこに見事に表われているのである。またその著名な役者とストーリーに拍手を送って喜ぶのが現在の韓国の6〜7割を占める国民である。
それら歴史ドラマ・現代ドラマのすぐれた映像に加えて、韓国民の進歩的な動きを加速させるのに大きな役割を果たしたものがあった。それが先に必読書として挙げた『韓国大統領実録』(朴永圭(パク・ヨンギュ)著、金重明(キム・チュンミョン)訳、キネマ旬報社)であった。李承晩・朴正熙・全斗煥・盧泰愚らの歴代大統領の強権政治の腐敗の軌跡と、中途半端な大統領・金泳三(キム・ヨンサム)のあと、金大中・盧武鉉大統領時代からの民主的改革と、李明博(イ・ミョンバク)大統領による再保守化が貴重なドキュメントとして詳細に記述され、同書最後の「未完の章」の大統領が朴槿恵(パク・クネ)にあたり、韓国民がそのあと、文在寅大統領を迎えて韓国の歴史的変化を体現しているところである。したがって文在寅は、そうした知性的な反骨精神の流れに乗って登場した人物であり、歴史の清算に取り組む彼の誠実な姿勢が多くの韓国民から支持されてきた所以はそこにあった。
日本人の新聞記者・テレビ記者は、こうした現在の韓国の激動を知らずに、過去の古い知識に基づいて語る自称・専門家や、もと外交官と称する肩書人間にものを尋ねている。韓国民と共に活動したことがなく、韓国の国民の意識の変化をまったく読むことさえできないこれらの人間が解説者・コメンテイターとなって、朴槿恵を退陣させた2016〜2017年以降の韓国情勢をテレビ報道が解説しても、出がらしの茶のように、ほとんど意味がないのである。
◆北朝鮮の日本人がたどった地獄の逃避行
ここまで、南朝鮮に韓国が誕生した時期の動乱について述べてきたが、それに対して、北朝鮮側はどうだったのであろうか。1948年9月9日に「朝鮮民主主義人民共和国」として新国家が誕生した北朝鮮で、光復節からこの日まで、日本人と朝鮮人の「民衆」がどのように生きてきたかについて、われわれ日本人はほとんど知らされてこなかったが、そのうちの重要なことだけ述べておく。以下文中の「北朝鮮」は、1948年の建国前、は、「国家」としての北朝鮮(人民共和国)ではなく、北緯38度線より北部の朝鮮を示す。
1945年8月にソ連兵を迎えた北朝鮮には、日本人が28万人ほど居住していたが、そこに満州から避難してきた日本人が7万人ほど加わって35万人ぐらいだったとされている。2015年11月24日の朝日新聞に掲載された「各地からの引揚者数」の図では(旧厚生省の『援護50年史』の数字として)当時の北朝鮮にいた民間日本人のうち1割にも達する3万4000人という大量の人が、南北朝鮮の分断時期に死亡したとされているのである。「南朝鮮」では1946年春までに、一般の日本人はほとんどが引揚げ船で帰国できたのに対して、「北朝鮮」ではなぜ日本人がかくも大量に死亡したのか、その理由と経過をまず先に述べる。この日本敗戦当時の経過は、2014年8〜12月にかけて東京新聞夕刊に長期間掲載され、証言に基づくすぐれた連載記事「終戦と朝鮮半島 在留邦人の軌跡」を参考に記述する。ただし各地の事情は、北朝鮮の広い地域ごとにかなり異なっていたと考えられるので、全体的に以下のような悲劇があったと理解して読み進められたい。
まず1945年8月9日に、ソ連軍が海上に進攻してきたのを認めた朝鮮最北部の日本の警察と憲兵隊は、ソ連軍の上陸を予想して自ら庁舎の爆破を開始した。8月12日にソ連軍が北朝鮮の要港・羅津(ラソン)と清津(チョンジン)(17頁の地図参照)に上陸し、ソ連軍の空襲で紡績工場などの重要施設が破壊された。そのため、北朝鮮の日本人住民は一斉に南に向けて避難を始めた。そのため移動中の日本人は、驚いたことに日本が無条件降伏した「8月15日」後も日本敗戦を知らずにいた。北朝鮮に日本軍は12万人いたが、彼らも8月19日までソ連軍と戦闘を交え、ソ連軍機による朝鮮北部への爆撃もこの日まで続き、そのあと日本軍は日本の無条件降伏を知ってようやく投降し始めたのである。ソ連軍が、北朝鮮の中心都市・平壌(ピョンヤン。のち北朝鮮の首都)に進攻したのは8月24日であった。
その後のソ連軍は、北朝鮮に駐屯していた12万人の日本軍兵士を捕虜としてシベリアに抑よく留りゅうし、朝鮮総督府の幹部や警察官を拘束した。当時のソ連は自国内が史上最大の「スターリングラードの攻防戦」など、ヒットラーのドイツ軍との激戦で大破壊されていたため、勝利後のソ連の復興に必要な工業施設を手に入れるため、日本人が北朝鮮に設置した工業施設の機械類と資材を根こそぎ撤去して持ち去った。加えてこの初戦当時、北朝鮮に進駐したソ連兵は正規のロシア人兵士ではなく、中央アジアの監獄から釈放された「囚人の戦闘部隊」が多数いたため、略奪などの犯罪を平気でおこなう凶暴な兵士が多く、一般日本人の被害はすさまじく、特に女性たちはソ連兵に強姦されることが日常で、被害から逃れるために恐怖の日々におののいた。
南朝鮮では、前述のように呂ヨ運ウ享ニョンが指揮した朝鮮人の建国準備委員会が、治安部隊を組織して日本人に暴力を加えることなく日本帰還に協力するよう努めたが、それと違って、北朝鮮に誕生した朝鮮人の保安隊は、それまで植民地統治時代に、苛酷な鉱山労働やチッソ工場に駆り出された奴隷労働などで、日本人から牛馬のような扱いを受けてきたことに対する当然の仕返しを望んだので、民間の日本人は、ソ連兵と朝鮮人によって自宅から追い出され、あらゆる暴行と略奪が続いたので、行くあてもなくさまよい歩いた。空腹の中、あてがわれた食料がごくわずかだけで、餓死に直面し、朝鮮人の農家に食べ物を無心しながら生き続ける人もいた。ソ連の憲兵隊が進駐して北朝鮮の秩序を回復し始めたのは、終戦から3ヶ月もたって、ようやく1945年11月頃からであった。
このような地獄に投げこまれた民間の日本人は、暴行と略奪から逃れて生き延びようと、日本に向かう港がある朝鮮半島南端の釜プ山サンをめざして避難しようとしたが、真夏の熱暑のなかを歩き続けて、8月22日頃に初めて日本の敗戦を知って打ちのめされた。加えて8月25日に、ソ連が北緯38度線を封鎖したため、南への避難路も断たれてしまったのである。チッソがあった東部の工業都市・興南(フンナム)に隣接する咸興(ハムフン)では、9月26日になって、市外の荒れ地に追放されていた日本人がようやく市内に戻ることを許されたが、元遊廓や民家、学校、倉庫、兵器庫、機関車の車庫などに収容され、ひどいところでは一畳に4人というスシ詰めになって起居し、寒村の収容施設や日本軍の兵舎跡にも追いやられた。そこでは朝鮮人の保安隊が監視して外出も許されず、次々と死者が出て、それらの収容施設は死滅の村≠ニ呼ばれた。
北朝鮮での日本人の扱いは、植民地統治時代の立場が逆転したのだから、ソ連兵ばかりでなく朝鮮人からも激しい憎悪を受けて、扱いが冷酷だったため、寒い冬になると、生活はますます厳しくなり、栄養失調の飢餓に加えて、発疹チフスが蔓延して治療もなく、2年目に入った1946年春までに、日本人死者は興南(フンナム)で3000人を越え、平壌(ピョンヤン)と咸興(ハムフン)ではいずれも6000人を越え、北朝鮮全土の死者は2万5000人に達した(前掲の数字では、このあと1万人近くが死亡したことになる)。
それでもこの生活に耐えられずに避難路を探し続けた日本人は、雨露をしのぐ屋根さえもない中を1ヶ月も2ヶ月も歩き続けて釜プ山サンをめざした。途中、朝鮮人に見つかれば全身検査で金品を強要されて奪われながら、北朝鮮から南朝鮮に脱出した日本人は1945年内に7万7300人で、1946年3月下旬から6月までの3ヶ月で一挙に約10万人にも達した。陸路ではなく、木造の密航ボロ船で南に逃げた日本人もいた。最も悲惨だったのは、中国残留孤児と同じような戦争孤児たちであり、この罪もない子供たちは、この時代に最悪の日々に苦しみ喘あえいだのである。
南朝鮮のホッジ中将が、北からの大量の日本人の避難民流入に驚いてソ連に抗議したが、当初は北緯38度線で日本人の避難を食い止めていたソ連は、北朝鮮の食糧が不足しているので、日本人の集団脱出を黙認して、むしろ南に追い出したのである。かくして28万人(+満州からの流入者7万人)を数えた北朝鮮の日本人のうち、南朝鮮を経由して日本に帰国した日本人は19万人を数えた。米ソが送還船による引揚げ協定を結んだのは1946年12月18日で、その時に北朝鮮に残っていた日本人はたった8000人になっていた。つまり、ほぼ35万人の日本人は、死ぬか、かろうじて脱出するかして北朝鮮からほとんど消えたのである(厚生労働省統計では、最近2016年3月31日までの北朝鮮からの引揚者は32万人である)。
しかし南朝鮮にようやく脱出できた日本人も、空腹で疲労困憊 こんぱいしており、病気の蔓延をおそれる米軍によって、鉄条網に囲まれたテント村に隔離されて収容された。朝夕に与えられるトウモロコシのおかゆだけでひもじさをしのぎながら、時には米軍の缶詰にありつくこともあったが、引揚げ船に乗船できるまでに1週間〜10日間も待たされた。1946年12月になってソ連がようやく日本人の引揚げに着手し、12月16日に興フン南ナム港から2000人が長崎県の佐世保に向けて出航した。12月18日に米ソが送還船による引揚げ協定を正式に結び、以後、ソ連が日本に送還した日本人の数は8000人でしかなかった。
この時点で北朝鮮に残っていた日本人8000人のうちおよそ3000人は、北朝鮮側から建国に協力するよう請こわれ、優遇されて残った日本人技術者と家族であった! 日本敗戦時の1945年に、朝鮮北部にあった日本の工場群は、チッソの水豊水力発電所や興南工場はじめ、大日本紡績の工場や、三菱系の製鉄所などの重要施設があったが、進攻してきたソ連軍の空襲と略奪を受けたり、日本人技術者がいなくなって使えなくなっていた。植民地統治時代の北朝鮮には金属、機械、化学、電力、鉄道、鉱山、造船所、製鉄所、製紙工場、セメント工場などの工業用プラントがあっても、日本人は植民地支配のため朝鮮人には一切技術を教えず、朝鮮人を肉体労働だけの下級労働者として使役したので、朝鮮人の技術者が皆無であった。そのため、1945年10月頃から北朝鮮側に日本人の技術が求められるようになって、彼らは北朝鮮政府に請こわれるまま残ったのである。
◆北朝鮮に朝鮮民主主義人民共和国が成立した経過
以上のように悲惨な運命をたどった日本人に対して、戦争の勝者側になった朝鮮人は、占領軍のソ連によって厚遇された。そのうち共産主義国家の中核となるべき朝鮮人の主な左派政治グループとして、当時は四つが存在したとされる。それは@朝鮮国内の共産主義者、A中国系の共産党員、B中央アジアなどにいたソ連派の朝鮮人、C満州の抗日ゲリラ出身のソ連軍人、であった。
のちに北朝鮮の最高指導者となる金日成(キム・イルソン)は、Cソ連軍人の満州グループであり、北朝鮮ではごく少数の勢力にすぎなかった(金日成の出自については、その真偽に諸説あって疑念も出されているが、本稿では深入りしない)。
1945年10月10日には、北朝鮮の中心都市・平壌(ピョンヤン)で共産党中央組織委員会の創立大会が開催され、この日が、北朝鮮で今日まで続く「朝鮮労働党」の創建記念日となり、国民の祝日となった(こうして労働党委員長のポストが北朝鮮の「国家主席」格となったので、アメリカのトランプ大統領と会談した金キム正ジョン恩ウン(金キム日イル成ソンの孫)が労働党委員長だったのはそのためである)。
この時点で、ソ連の独裁者スターリンは、「金日成がたとえ少数派でも、ソ連軍人の仲間だった」という理由から、すでに彼をトップに据えることに決めていたので、10月14日に北朝鮮の平壌で、金日成の帰国歓迎市民集会を開かせ、10月16日にソ連が北朝鮮全土の行政権を北朝鮮の民衆に移管した。ここで重要なことは、ソ連政府が賢明にも、米軍が南朝鮮でおこなったような強圧的な軍政を敷かず、「朝鮮人民による独立国家の建設を援助する」と表明したことであった。そこで、朝鮮民衆の自発的な意思に基づいて組織された人民委員会(内閣)が誕生し、ソ連軍がそれを認めて、北朝鮮の行政権をすべてこの人民委員会に移譲したのである。
この時点で、ソ連の敵意は主に大日本帝国の日本人の軍人と残党に向けられていたので、当時、57万人という膨大な数の日本人捕虜がシベリア抑よく留りゅうなどで苦しめられてソ連を恨んだが、ソ連は朝鮮人に対しては強圧的な態度をとらず、よく気を配って厚遇したので、朝鮮人から見ればアメリカ軍政よりはるかに民主的であった。
年が明けて1946年2月8日には、北朝鮮に金キム日イル成ソンを主席(首相)とする臨時人民委員会が成立し、これが北朝鮮の行政を実行する内閣として活動を開始した。そこで金日成は、ただちに3月5日、北朝鮮臨時人民委員会の名で、民衆が農地を平等に所有できるようにする「土地改革令」を発布した。この土地改革が3月末に完了するという迅速な行政能力を発揮した結果、これまで土地を占有していた4万5000人の地主は、土地100万町歩(30億坪)という広大な財産を没収され、それらの土地が「人口の半分にあたる農民」に無償で分配されたのである。しかも土地を没収された地主も、自ら耕作する場合には、ほかの土地に移されて、規定の土地を分与されたので、農産物の収穫を減らすことなく収量は向上し、非常にすぐれた政策であった。この国民平等政策が功を奏して、北朝鮮の下層に生きる農民階級では、金日成に対する評判が一気に高まり、6000人余りにすぎなかった朝鮮共産党の北朝鮮分局の党員数が、一挙に20倍を超える13万5000人へと爆発的に急増したのである。
戦後の日本で1946年10月11日から実施されて成功した第二次農地改革は、この北朝鮮に半年ほど遅れてスタートし、ほぼ同じ内容の改革であった。
かくして金日成による農地解放の平等政策の成果が南朝鮮(韓国)に伝わると、当然、南朝鮮の左翼が「共産主義のほうがすぐれている」という大宣伝を展開することになり、驚いたアメリカ軍政が南朝鮮の共産党員に弾圧を加えるようになり、左翼的な新聞社を急襲して大量に逮捕した。南朝鮮では朝鮮共産党は不法組織として禁止され、左翼系の刊行物は徹底的に弾圧された。ついにはアメリカ軍政がソウルのソ連総領事館を閉鎖したため、ソ連総領事館員は全員がソウルを離れ、北朝鮮の平壌に向かった。
戦時中の日本統治時代の朝鮮半島の産業の特色を説明すると、「南部(南朝鮮)」は平地が多いので主に農業と衣類・食料の小売り業が中心だったのに対して、満州に接する「北部(北朝鮮)」は山が多いので農地が少なく、農業生産と食糧が不足がちで、主に日本植民地の鉱山・工業地帯として利用され、水力発電ダムによる電力も豊富に持っていた。そこで戦後の北朝鮮は、強引なアメリカ軍政下で苦しむ南朝鮮(韓国)に比べて、金キム日イル成ソンが工業的な自立を進める政策をめざそうとしたが、先述のようにソ連が工業施設の機械類と資材を根こそぎ撤去してソ連に運び、水豊ダムの発電機も7基のうち2基しか残っていなかったので、残留してくれた日本人技術者を手厚く優遇して、工業施設を復活させる作業に傾注した。
そこで、1946年6月24日には、日本人が残した北朝鮮の工業施設を復旧させるため、農地改革に続いて、工業社会向けの「労働法令」が発布され、「労働時間8時間」が決められたほか、「男女の区別なく、同一労働に対しては同一賃金を支払うこと。労働者には有給休暇と社会保険制度を定めること。少年労働を禁止すること」など、現代に照らしても理想的な労働条件を定める法律が制定された。日本人が経営してきた小野田セメント平壌工場は、戦後間もない1945年10月から国営工場となっていたが、1946年8月には、人民委員会が「北朝鮮技術者徴用令」を発布して、日本人技術者を北朝鮮にとどめる優遇政策を打ち出した。チッソ興南工場もその復旧対象の一つであった。
これら北朝鮮における民主的な土地改革令(農地改革)と、工業社会の労働法令の実施が、奴隷化されていた南朝鮮の朝鮮人民衆にとって羨望 せんぼうの的となり、アメリカ軍政に反対する意思をますます強めた。そこでアメリカ軍政は、南朝鮮の民衆に北朝鮮の進歩的な政治事情を知られないようにするため、朝鮮人の北緯38度線の国境通過を禁止し、南北朝鮮の交通を遮断する布告を出して目隠し政策をとったほどであった。
1946年8月10日には、北朝鮮の臨時人民委員会が「産業国有化法」を公布し、北朝鮮の共産主義政策が実施に移された。これによって、交通機関、郵便、銀行など、主要産業が国有化され、日本人と朝鮮人売国奴が所有していた重要産業は没収され、国家がこれらの重要機関を管理・経営しながら、国民にその利益を還元し始めた。しかも、正当な朝鮮民族資本家が所有する企業の活動は法的に保護され、奨励された。
つまり現在の南北朝鮮のあいだにある「北朝鮮は民衆を苦しめる国家」という概念はなく、当時はまったく逆で、少なくとも朝鮮人にとっては「南朝鮮が民衆を苦しめる国家」であり、北朝鮮は「理想郷」と呼ぶにはほど遠くとも、はるかに民主的で、生活の向上に向けた労働条件が整っていたのである。
1946年8月28日には、北朝鮮の共産主義勢力である共産党と新民党が合併して「北朝鮮労働党」を結成し、名誉議長にスターリンが就任し、副委員長・金キム日イル成ソンのもと、すべての行政がソ連の主導でおこなわれた。それを知った南朝鮮でも、11月23日に朝鮮共産党指導者・朴憲永(パク・ホニョン)が中心になって左翼グループの人民党・新民党・共産党が合併して、「南朝鮮労働党」を結成した。ところが彼らが戦闘的な路線に転換したので、アメリカ軍政が逮捕しようとしたが、朴憲永は北朝鮮に逃げのびた。ソ連の独裁者スターリンは、金日成と、朴憲永をモスクワに呼び出して面談し、二人を天秤にかけて、ソ連の言いなりになる金日成を北朝鮮の最高指導者に選び、アメリカと同様に、北朝鮮の単独政府樹立をめざすことになった。しかしのち1953年の朝鮮戦争休戦後に、朴憲永は金日成に「アメリカのスパイ」という濡れ衣を着せられて粛清された。
3年目が明けた1947年に入ると、2月22日に北朝鮮人民委員会が正式に成立し、委員長(首相)に金日成が就任した。ところが3月12日に、アメリカでトルーマン大統領が上下両院合同会議で米ソ冷戦の進行を全世界に告げるトルーマン・ドクトリン≠宣言した。トルーマンは「武装した少数派や、外圧による征服に抵抗している自由な民族をアメリカが支援しなければ、共産主義のドミノ現象が起こる」と主張し、アメリカが世界の紛争に介入する政策を打ち出したのである。これで第二次世界大戦中のアメリカとソ連の協力関係が完全に断絶し、アメリカが共産主義と対決する事実上の「東西冷戦」の宣言となった。
しかし朝鮮半島では、すでに1945年の光復節から南北が分断されてきたので、東西冷戦は既定の事実であり、トルーマン演説によって何か特別な変化が起こることはなかったが、朝鮮を愛する民族主義者が南北朝鮮を統一しようとする願いが、冷戦宣言のために叶わぬ夢となったことは明らかであった。南朝鮮だけの単独政府を樹立しようとする李承晩の南北分断政策が、このトルーマン・ドクトリンによって公認されることになったのである。
こうした中で、先に述べた通り、1948年8〜9月に韓国と北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)が、相次いで独立国家として誕生したのである。米ソが結んだ日本人送還協定によれば、ソ連軍の北朝鮮からの撤退開始がこの時期の1948年9月であったため、北朝鮮に残って建国に協力してきた日本人技術者と家族3000人はこの米ソ冷戦に巻きこまれ、複雑な事情で日本に帰国できなくなり、シベリア抑よく留りゅう者や受刑者となり、やがて1950年からの朝鮮戦争の戦火の中で命を落とす日本人もいた。
◆北朝鮮に比べて韓国の生活水準と経済力はひどく劣っていた
韓国のアメリカ軍政と李承晩政権は、経済的にも民主的にも先を進んでいる北朝鮮に追いつく必要に迫られたので、翌年の1949年になってようやく、李承晩が韓国の経済的な土台を築くために、北朝鮮をそっくりまねて農地改革を実施し、アメリカの援助資金を基盤にした経済復興計画案を打ち出した。日本の植民地支配が終った光復節の時点では、南朝鮮の大半を占める80%が農業に従事していたが、その農民のほとんどが小作農であり、ごく少数の地主が農地の大半を占有していた。したがって、ほとんどの農民は、地主に雇われた使用人(小作人)という立場にあった。李承晩は、北朝鮮に倣ならって左翼出身の者を農林長官に任命して農地改革を実施させたので、政権末期の1960年までに、小作農民の90%が自作農になることができた。李承晩が国民につくした政治的な業績は唯一これだけであった。
このような政策と共に、韓国にも工業的な産業が少しずつ広がり、アメリカの農産物が入ってきて農業人口が減少し、都市住民の人口が増えていった。しかし、韓国民の生活水準と工業力は、北朝鮮よりはるかに低かった。韓国民の生活は、この時期の1949年から14年後の1963年、つまり「朝鮮戦争の停戦」から10年後に朴パク正チョン熙ヒが大統領に就任した年になっても、国民1人あたりの所得が80ドル程度で、世界で最も貧しい国の水準にあり、ソ連と東ヨーロッパの社会主義諸国の支援を受けて復興し始めた北朝鮮に大きく引き離されていた。その1963年には、6月28日に北朝鮮政府が、韓国の食糧飢餓国民に対して、白米1万5000トンの無償提供を申し入れたほどであった。韓国人1人当たりの国民所得が北朝鮮と同じレベルに追いついたのは、ようやく1972年頃だったのである。
しかし朝鮮戦争が開戦する前年の1949年には、韓国より進んでいた北朝鮮でも、短期の人民経済2ヶ年計画に着手したばかりだったので、まだこれからようやく国民生活の改善に着手できるかどうかという段階にあった。
そうした中で1949年1月1日に、アメリカ政府が最もおそれていた出来事が起こった。当時、中国で北平(ペーピン)と呼ばれた北ペ京キンに、毛沢東もうたくとう率いる中国人民解放軍が入城して、「人民政府」を樹立したのだ。続く4月21日には、毛沢東が中国全土に進撃命令を下し、共産主義勢力が南下して揚よう子す江こう( 長ちょう江こう)を渡ると、4月23日に解放軍が南京ナンキンに入城し、5月27日には 上シャン海ハイを解放した。かくして中国のほぼ全土を解放軍が軍事的に制圧して、10月1日に30万の大群集が天安門広場に集まって建国式典が挙行され、北平を北京と改称して「中華人民共和国」が成立したのである。中央人民政府主席に毛沢東が就任し、首相・外相に
周しゅう恩来おんらいが就任した。中国の共和国なので「中共」と呼ばれたこの新国家は、公式には臨時憲法で社会主義を謳うたっていなかったので、この時点では共産主義国・社会主義国ではなかったが、明白な共産党政権だったため、アメリカは中国からの撤退を余儀なくされることになった。
ヨーロッパでは、この6日後の10月7日に、東ベルリンでドイツ民主共和国の建国が宣言され、共産主義国・東ドイツが成立していた。
蔣しょう介かい石せき率いる中国の国府(反共軍)は、毛沢東軍に追い立てられて1946年5月1日に重じゅう慶けい(チョンチン)から南京 ナンキンに首都を移していたが、この時期の1949年12月7日には、国府軍の首都が大陸の南京から、台湾の台タイ北ペイに追い落とされて移転し、3日後の12月10日には蔣介石自身も四し川せん省の省都「成都」から台北に逃れ、翌年1950年3月1日に台湾で正式に中華民国の総統にようやく復帰する状況であった。
このように相次ぐ共産主義勢力の台頭に対抗して、この1949年半ばに、韓国大統領・李承晩が、北朝鮮に進軍して首都・平壌を占領する「北進統一論」という危険な大言壮語を吐くようになり、反共政策を掲げるアメリカに、万事仰せの通りひたすら追随する軍事指導者となった。李承晩は1948年7月20日に大統領に当選した時に、傲慢にも「韓国政府は朝鮮半島における唯一の合法政府であり、武力によってでも北朝鮮に対する主権を回復する権限を有する」と宣言していたので、その政策の実現に踏み出したのである。北緯38度線の国境での武力衝突は1000回近くになり、いよいよ南北の開戦が近づいていることは明らかであった。韓国軍が北朝鮮の首都・平壌を攻めて占領すると公言しているのだから、北朝鮮軍としても座視することはできなくなった。
◆日本で進められた軍国化
一体、「朝鮮戦争」とは何であったのか、という巨大な謎を解いているのだが、以上述べてきた南朝鮮と、北朝鮮と、アメリカ軍政と、ソ連と、中国に続いて、六番目の鍵は、この時の「日本」の経過にあった。次のような経過から、非常に興味深い歴史の謎を解くことができるのである!
アメリカ本国政府は、韓国軍が軍事的にも工業技術においても未熟なので、北朝鮮軍と互角に戦えるとは考えていなかったので、急いで日本に軍事力を持たせる必要性を感じていた。先に述べたように、1948年1月6日にアメリカ陸軍長官ケネス・ロイヤルが「日本を反共の砦とする声明」を発表し、5月18日には、はっきりと日本の再軍備を提唱したのはそのためであり、これまでのマッカーサーの政策と正反対の「日本を軍国化する」流れが生まれていた。続く1948年10月7日には、アメリカの国家安全保障会議(NSC)が、以下のような「アメリカの対日政策に関する勧告」を承認した。
──(アメリカの占領を終らせて日本を独立させる)講和条約は、日本に対する懲罰をナシとする。横須賀と沖縄のアメリカ海軍基地を今後も強く維持し、日本の警察力を強化する。連合国軍GHQ最高司令官マッカーサーの日本政府への統制力は弱めるべきである。戦争遂行に関与した日本人の公職追放を緩和する。日本工業界の非軍事化は最小で一時的な制限に限定すべきである──
このように、日本をはっきり中国・北朝鮮と対立する軍事国家として利用する路線に政策を転換したのである。そうして韓国南部で麗ヨ順スン虐殺事件が起こった10月21日には、たたみかけるように国防長官ジェームズ・フォレスタルが、「陸・海・空軍を持つ日本の再軍備≠フ検討を開始する」と公式に言明したのだ。【フォレスタルは第二次世界大戦前まで大手投資銀行ディロン・リード社長だった男だが、驚くべきことに赤軍恐怖症で、翌年1949年3月に消防自動車のサイレンを聞いてソ連から襲撃を受けたと勘違いし、パジャマ姿のまま家から飛び出して「赤軍が上陸した!」と叫び、5月22日に、ワシントン郊外の海軍病院の16階の窓から投身自殺を遂げた。この頭のおかしな国防長官を雇っていたディロン・リード社の創業2代目で会長のユダヤ人ダグラス・ディロンはロスチャイルド一族で、アメリカをベトナム戦争に引きこみ、1972年からロックフェラー財団理事長となる。このような人間たちが、この時代の日本と朝鮮半島の軍事情勢を動かしていたことを知れば、寒気がする話である】。
一方、韓国では、ほぼ同時期の1948年9月7日に、日本の植民地統治時代に親日派≠セった売国奴を政界から追放するための反民族行為処罰法が、憲法制定議会の141議員のうち103人(73%)が賛成する圧倒的な支持で可決され、続いて反民族行為特別調査委員会が組織され、親日派を一掃する活動がスタートしていた。ところが親日派≠フ売国奴だった資産家を政治基盤に抱える李承晩大統領が、この動きを阻止しようと動きだし、翌年の1949年8月22日には、韓国国会に圧力をかけ、この調査委員会を「廃止する」議案を強引に通して、委員会が闇に葬られてしまったのである。これによって親日派の追放≠ェ雲散 うんさん霧む消しょうしてしまったのだ。
8月29日には、アメリカの軍需産業が巨大化して暴走するのに対抗して、ソ連がシベリアで最初の原爆実験に成功し、地球上にもう一つの危険な国家が生まれた。アメリカ軍部にとって、原爆の独占が破られたこの事件は、きわめて深刻重大だったので、翌年、朝鮮戦争開戦直後の1950年7月17日に、ニューヨークでジュリアス・ローゼンバーグがアメリカの原爆製造機密をソ連に伝えたスパイとしてFBIに逮捕され、朝鮮戦争末期に妻エセルと共にシンシン刑務所の電気椅子で死刑に処せられた。
ソ連の原爆成功翌年の1950年早々には、1月26日に「アメリカ・韓国相互防衛援助協定」が調印され、ついにアメリカが韓国政府と正式な軍事協定≠結んだ。今さら結ぶ必要もない軍事協定だと思われるが、この協定は、韓国に駐留する米軍が「軍事顧問団設置に関する協定」を結んで、アメリカが韓国に軍事援助をおこなう見返りに、「韓国の軍隊と警察に対するすべての指揮権をアメリカが所有する」と規定するものであった。つまりこれは、「目前に迫ってきた北朝鮮との戦争に米軍が参加して指揮する」という軍事戦略を定めた協定であり、この協定を進めたのは、トルーマン政権の国務長官だったディーン・アチソンであった【アチソンは火薬と原爆材料プルトニウムの製造でかせぐ死の商人<fュポン社の顧問弁護士であり、前年の1949年4月4日に西側12ヶ国の軍事同盟NATO(北大西洋条約機構)の設立に調印して、「東西陣営の軍事対立」を確立した国務長官であった。このアチソンの 女むすめ婿むこウィリアム・バンディーは、弟のマクジョージ・バンディーと共にベトナムへの軍事進出政策を立案し、積極介入を提案してアメリカをベトナム戦争への泥沼に導く男であった】。
こうしてアメリカと韓国が、北朝鮮に対する開戦準備をスタートした時期、1950年1月31日に、アメリカ国防総省(ペンタゴン)トップの初代統合参謀本部議長オマール・ブラッドレーが、何と陸・海・空の三軍長官を引き連れて、極東の軍事情勢を確認するため来日し、「沖縄と日本本土における軍事基地を強化する声明」を出したのである。翌日2月1日からは、彼らがGHQ司令官マッカーサーと日本の軍事体制を強化する具体的な方策について会談したので、この滞日10日間で、日本を拠点に米軍が韓国/朝鮮半島に展開する軍事作戦の青写真をつくりあげた。かくして2月15日に、アメリカ議会でジョゼフ・コリンズ陸軍参謀総長が「日本に駐屯する米軍は数ヶ月以内に戦闘準備が完了する」旨を証言したことが公表されたのである。この時、アメリカの海軍と空軍が、トルーマン大統領の命令で朝鮮戦線と台湾海峡で、軍事行動を開始していた。
そこに、火に油を注ぐ事件が起こった。2月9日に、アメリカ上院議員ジョゼフ・マッカーシーが「国務省に57人の共産党員がいる」と爆弾演説を放ったのである。アメリカ国内での東西対立を激化させる赤狩りマッカーシー旋風≠ェ吹き荒れ始め、ハリウッド映画界を赤狩り騒動が巻きこんでいったのが、この時期であった。
日本では2月10日に、GHQが「沖縄に、米軍の恒久的な基地建設工事を2、3ヶ月以内に開始する」と発表して、沖縄の米軍基地を強化する道を開いたため、沖縄は今日の辺へ野の古こ基地建設まで続く、救いがたい米軍支配の状況に陥った。ここでマッカーサーは、韓国軍の具体的な戦力を確認するため、韓国大統領・李承晩に来日するよう招請し、2月16日に李承晩が来日して会談し、反共政策について両者が相談した。
しかしアメリカ政府は、対北朝鮮および対中国に向けて日本を本格的に軍事利用するには、韓国で失敗したような反米気運を生まないよう、日本国民の同意を得て挙国的に進めなければならないという政治戦略を描いていたので、日本政府および日本人に対してアメ≠与えることにした。それは、日本に対するアメリカの占領を終らせ、日本を独立させる国際的な講和条約の締結に踏み切る、という政策であった。これは、アメリカが真珠湾攻撃を受けて以来、日本軍と展開した太平洋戦争から180度転換するというきわめて重要な政治的選択であった。
そのため1950年4月6日に、アメリカ最大財閥のロックフェラー財団理事長<Wョン・フォスター・ダレスが、トルーマン大統領から日本を独立させる講和条約担当の国務長官顧問・国務省顧問として任命され、事実上の「外交トップ」に据えられた。そして早くも4月27日には、この強烈な反共主義者ダレスが、日本との講和条約の早期締結を提唱して、事態が急速に動き出した。ここで、「対日講和条約を早期締結することによって、同時に日米安全保障条約(軍事条約)を締結し、日本を軍国主義化する」方向へと、アメリカの政策が固まったのである。
ところが翌月5月30日に、韓国で第1回総選挙が実施されると、李承晩率いる与党の大韓民国党が候補者437人を立て、反対派の政治勢力に呵か責しゃくないテロと弾圧を加えていながら、当選はわずか57人の13%で、選挙に惨敗したのである。この選挙で李承晩の独裁政治が韓国民の激しい怒りを買ったのを見た米軍は、このままでは韓国全体を「反共の砦」にはできないと読んで、李承晩に相変らずの国民弾圧政治を続けるよう求め、6月13日に、韓国に「準非常戒厳令」が敷かれた。
そして同時に日本の独立と再軍備を急がせることにし、同時期の6月6日、日本でもGHQの方針が転換され、共産主義者を粛清するレッドパージが始まった。この日、マッカーサーが吉田茂首相に対して、徳田 球きゅう一いち、野坂参さん三ぞうらを含む日本共産党中央委員24名の公職追放を指令し、翌6月7日には機関紙「アカハタ」関係者17名の公職追放を指令した。このようにして大々的にスタートしたレッドパージは、共産主義者粛清に名を借りた反戦・平和運動弾圧≠フ赤狩りであった。6月16日からは、警察本部が全国的にデモと集会を厳重に禁止し、ヴァイオリン・コンサート禁止まで吉田茂内閣に求めた。
6月17日には、ジョン・フォスター・ダレス本人がトルーマン大統領特使として、ついに初めて来日した。そして翌日6月18日には、アメリカ国防長官ルイス・ジョンソンと統合参謀本部議長オマール・ブラッドレーという米軍最高幹部二人が来日して東京会議を開き、ダレス/マッカーサーと共に、日本および極東の防衛・軍事体制の検討に入り、日本本土の軍事情勢を詳細に解析した。
ダレスはそこから韓国に渡り、国境地帯である北緯38度線の韓国軍を視察して、最前線の韓国将兵を激励した。6月19日に韓国の国会に立ったダレスは、「諸君が力を発揮する時は近い」と、北朝鮮との戦争を予告する演説をおこない、ダレスの前に立った李承晩がこれに応えて「共産主義撲滅のために最後まで戦う」と宣言した。
その日に北朝鮮では、最高人民会議が、「全朝鮮」立法機関の設置を含む「南北朝鮮の統一」案を採択して、韓国に和平を求めたが、李承晩はこれに応じなかった。
6月21日にダレスが再び日本に戻って、マッカーサーと講和条約について会談し、6月22日に吉田茂首相と会談した際には、日本に「講和(独立)後の再軍備」を要求したが、吉田茂は、その要求をアメリカとの政治的な取引き材料のカードにできると考えて、反対した。
◆朝鮮戦争が勃発した
かくして、ダレス、マッカーサーだけでなく、李承晩および米軍最高幹部たちのあわただしい行動から予測された通り、1950年6月25日に、朝鮮戦争が勃発したのである。
以下、戦争勃発の経過は、日本の京都大学経済学部を卒業した歴史学博士である白宗元(ペク・ジョンウォン)氏の著書『検証 朝鮮戦争──日本はこの戦争にどうかかわったか』(三一書房、2013年6月15日初版)を参考にして記述する。著者は、日本の植民地統治時代の1923年に中国国境に近い朝鮮最北部の平安北道(現・北朝鮮領)に生まれ、北朝鮮の事情に精通しているからである。
1950年6月25日の早朝4時に、北緯38度線の全線にわたって、北朝鮮軍ではなく、韓国軍が攻撃を開始し、北朝鮮領内1〜2キロメートルまで侵入したので、北朝鮮政府は李承晩政権に対して戦争行為の即時停止を要求し、停止しない場合には反撃する、と警告を発した。しかしアメリカ本国の国務省は、韓国駐在のアメリカ大使ジョン・ムッチオから曖昧な開戦第一報≠受け取ると、戦況の確認もせずに「北朝鮮が韓国を不意に奇襲した」と言い立て、同日、国連で安全保障理事会を開催させたアメリカが、「北朝鮮の敵対行為(戦争行為)の即時中止」を要求するアメリカ決議案を採択させた。
ところがこの決議案は、開戦前にアメリカ国務省内ですでに作成準備が進められていたものであったから、アメリカにとって開戦は予定通りの行動であり、この予定調和の経過が実証していた通り、攻撃を仕掛けたのは北朝鮮軍ではなく、韓国軍であった。「朝鮮戦争の開戦日=1950年6月25日」という歴史の定義が、そもそもおかしな話であった。
というのは、南朝鮮軍はその3年前の1947年から北緯38度線を越えて270件もの北朝鮮侵攻事件を起こしており、1948年に韓国が誕生してからはその軍事規模が大きくなり、1949年にはアメリカ軍事顧問団の指揮下にあった韓国軍の師団と共に、虎林部隊、白骨部隊などの特殊部隊までが動員され、北朝鮮の開城(ケソン)市、甕津(オンジン)半島、江原(カンウォン)道など多くの地域で、戦闘が続発して朝鮮人が虐殺され、1949年8月の武力衝突では300人以上という多数の死者を出していたのである。1949年9月には海上からも、韓国軍の艦隊が北朝鮮の西海岸に侵入しており、このように南北の境界線では両軍がたびたび衝突していたのだから、「1950年6月25日に北朝鮮の奇襲によって突然に朝鮮戦争が勃発した」というストーリーは、アメリカと韓国側の一方的なプロパガンダであり、「国連という国際的な機関」が北朝鮮に対する軍事攻撃に加担するレールを敷いた日付が6月25日だった、というにすぎなかった。
先述の通り、経済的にいまだ苦難の途上にあった小国の北朝鮮は、6日前の6月19日に「南北朝鮮の統一」案を採択して韓国に和平を求めていたのだから、原爆を保有する世界最大の軍事大国アメリカを敵に回して無謀な戦争を仕掛けるなどということは、軍事的な動機として根拠がまったくなく、あり得ない選択であった。したがって事実上は、北朝鮮侵略を公言していた韓国軍が、強大な米軍を後ろ楯にして、朝鮮戦争を起こしたことは明白であった。
こうして6月25日に、「国連」が朝鮮戦争に巻きこまれたのである。その国連の儀式は、韓国代表だけが国連に招請されて北朝鮮批判をおこなうという形でおこなわれた。もう一方の戦争当事国である北朝鮮は、アメリカの圧力で国連に参加できなかったので、提出された北朝鮮非難の決議案は、戦争当事国が不参加という、明白な国連憲章違反のものであった。加えて北朝鮮の後ろ楯をつとめるソ連は、5月1日に中共を国連に加盟させようとして反対されたため、国連安全保障理事会をボイコットして欠席していたので、アメリカがその裏をかいて強引に北朝鮮非難決議案を採択させたのである。
なお、南/北の朝鮮が国連に加盟したのは、これから実に41年後の1991年9月17日に、国連総会が「北朝鮮と韓国の国連同時加盟」を全会一致で承認した時なので、そもそも北朝鮮も韓国も、国連に悪用されて朝鮮戦争を戦わされることになったのである。
朝鮮戦争の経過を述べる。
北朝鮮軍は14万人で、その中に毛沢東の指揮下で中国での実戦経験を持つ4万人の老練兵士たちが含まれ、ソ連製の戦車部隊を擁していたので、戦車部隊を持たない兵力6万5000人の韓国軍を相手にせず、たちまち韓国北部にある首都ソウルを占領した。そのため李承晩大統領は、開戦3日後に早くもソウルを放棄して逃げ出し、臨時首都を水原(スウォン)→大田(テジョン)→大邱(テグ)→釜山(プサン)へと、次々と南に後退させなければならなかった(17頁の地図参照)。米軍が7月1日に韓国南端の釜山に上陸して反撃を開始してからも、ソ連の強力な軍事支援を得た北朝鮮軍が、圧倒的に有利な態勢で進み、初戦には韓国領土のほとんどを北朝鮮軍が支配したのである。
ソウルを逃げ出した李承晩は、ソウル市民に向かって「北朝鮮軍をすぐに撃退するから安心しろ」と気休めをラジオ放送したため、この放送を聞いて安心して居残っていたソウル市民は、続々と進軍してくる北朝鮮兵士の姿を見てようやく危険を察して避難し始めた。ところがこの時、避難路であった大河・漢江(ハンガン)にかかる鉄橋を、韓国軍が爆破したため、ソウル市民は南に逃げることもできなくなった。
さて、アメリカが頼りにしていた工業国・日本は、この戦争でいかなる役割を演じたのであろうか?
日本では開戦9日後の1950年7月4日に、吉田茂内閣が閣議を開き、「朝鮮におけるアメリカの軍事行動に協力する」との方針を了承し、韓国向けの軍需品の輸送対策に着手した。その4日後、7月8日にマッカーサーが吉田首相宛ての書簡で、警察予備隊7万5000人の創設と、海上保安庁8000人の増員を指令し、8月10日に警察予備隊が発足して日本の再軍備がスタートした。ほんの3年前の1947年5月3日に施行されたばかりの日本国憲法が、「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない」と定めていた憲法第9条の条項が、いとも簡単に足あし蹴げにされて、朝鮮戦争のために自衛隊の前身となる「警察予備隊」が発足して、7000人が入隊したのである。
しかし勿論、太平洋戦争で日本軍と戦ってきたことを忘れないGHQは、この再軍備が、旧大日本帝国の軍隊と縁のない組織にすることを原則としていた。つまりここで生まれた日本軍は、「朝鮮戦争の予備軍」と位置づけられ、米軍が朝鮮半島に出動した時、軍隊がいなくなった日本国内の治安維持を目的として育てる計画であった。そのため警察予備隊の幹部からは「旧陸軍」が徹底的に排除されて、警察出身者が大半を占めた。
8月25日には、GHQが日本の産業界に対して大量の軍需品を直接発注する「朝鮮特需」がスタートした(特需については後述する)。
米軍の本格的な反撃がスタートしたのは、北朝鮮軍が韓国の奥深くに攻め入って戦線が伸びきった隙を突いて、9月15日にマッカーサーがソウルの横腹を狙って仁川(インチョン)への米軍上陸作戦を成功させてからであった。ここで一気に形勢が逆転し、開戦3ヶ月後の9月26日には、米軍が首都ソウルを奪還した。ところが国連軍の反撃によってソウルに戻った李承晩は、 夥おびただしい数の韓国市民が彼の失政のため逃げられずソウルにとどまり、北朝鮮軍の占領下で苦しんでいたのに、「北朝鮮に協力した」という罪名を着せて、銃殺したのである。おそるべき韓国大統領であった。
10月3日には、韓国軍と米軍が北緯38度線の国境を突破して北進し、10月19日に大反撃を開始して北朝鮮の首都・平壌(ピョンヤン)を占領した。
この時期の「日本の再軍備の経過」は、今から半世紀以上前の出来事だが、現在の朝鮮半島情勢と密接な関係を持っているので、ここでくわしく述べておく。日本の再軍備の経過を知る読者にこの記述は無用と思うが、テレビ報道界の人間は若くてこの経過を知らない。現在のアジア情勢を知る上で、これこそが現在必要な新しい発見になるので、知っている人も無駄と思わず、改めて再軍備の経過を確認していただきたい。
1950年9月14日に、トルーマン大統領が「対日講和」と「日米安全保障条約」という軍事条約を締結する予備交渉の開始を国務省に許可したので、翌日9月15日に国務省顧問ジョン・フォスター・ダレスがワシントンで「日本再軍備に制限を加えない」と演説した。それを受けて日本側も、10月には、元海軍軍人の吉田英ひで三みが、GHQの方針に反して、「旧軍人の実力を復活させなければならない」と、詳細な海軍復活プランを日本政界に配布し始めた。
一方の北朝鮮軍は、開戦直後から、艦船が接触すると爆発する機雷≠海中に設置していた。そこでこの北朝鮮の機雷を掃蕩 そうとうするため、この10月、アメリカ海軍が日本の海上保安庁の掃海 そうかい艇ていに戦闘地域である朝鮮水域≠ヨの出動命令を出し、国会の承認なしに°g田茂首相がこれを承認した。この時に、日本人の朝鮮戦争への実戦参加が始まってしまったのである。そして10月7日から、元海軍大佐の田村 久きゅう三ぞうを総指揮官とする海上保安庁の46隻の「特別掃海隊」が派遣され、ほぼ2ヶ月にわたる戦地での機雷掃蕩活動を開始した。防衛研究所の戦史部所員・石丸安蔵による「朝鮮戦争と日本の関わり 忘れ去られた海上輸送」によれば、「およそ8000人の日本人が、アメリカの命令で朝鮮戦争の軍事作戦に参加させられ、判明しているだけで朝鮮戦争勃発から半年間で56人の日本人が命を落とした」とされているのである。
さてこの時、10月下旬から米軍と韓国軍が北朝鮮に進攻して、中国国境(旧満州)に迫ってきたのを見た中国は、ついに挙兵命令を出した。10月25日に中国人民義勇軍20万の大軍が朝鮮国境の鴨おう緑りょく江こうを越えて朝鮮戦線に出動し、「中国軍+北朝鮮軍」対「米軍(国連軍)+韓国軍」の対決となった。というのは、第二次世界大戦中の朝鮮人は、大日本帝国軍および蔣介石軍から満州を解放するため、中国の革命軍と共に戦ってきたので、この一帯の中国東北部(旧満州)にはおよそ200万人の朝鮮人が居住していたからである。さらに日本降伏後は、朝鮮人部隊が中国軍(中共軍)と共に活動してきたので、中国・北朝鮮国境には大きな軍事戦力ができており、彼らが韓国軍・米軍に対して決起したのだ。アメリカ軍需産業は、第二次世界大戦後に急激な縮小を余儀なくされ、大量の失業者を生み出していたので、その結果、軍需産業が待望していた本格的な大戦争に突入した。ところが米軍と韓国軍は、中国人民義勇軍の大攻勢に耐えられず、12月には興南から撤退し始め、年が明けて1951年1月〜3月にかけて、再びソウルを放棄して南に後退せざるを得なくなった(のちの大統領・文ムン在ジェ寅インの両親たち興南住民が米軍によって韓国南部に輸送されたのがこの時期、1950年末であった)。
1951年1月25日には、ジョン・フォスター・ダレスが大統領特別代表として再び東京に来訪して吉田茂首相と会談したが、この時、前年から大日本帝国時代の軍人の復活を呼びかけていた元海軍大佐・吉田英ひで三みらが「日本海軍の再軍備計画」の私案をダレスに手渡すと、ダレスがそれに関心を示して、GHQが吉田英三に詳細な資料の提出を求めた。この吉田英三私案が、当時7万3000人に達した戦争関係者(実質的な戦争犯罪者)の公職復帰をアメリカに要望したため、これがホワイトハウスに伝えられて、トルーマン大統領も動き出し、1月29日には、ダレスが日本の防衛力増強を強く求め始めたのである。
この1951年に、「マッカーサー解任」という大事件が日本に起こった。GHQ最高司令官マッカーサーは、朝鮮戦争の指揮をとる国連軍の最高司令官でもあったので、戦争の膠着状態を破るため「中国への原爆投下」を大統領に要請したが、すでにソ連が原爆保有国なので、ソ連との戦争に拡大する事態をおそれたトルーマン大統領に拒否された。そこでマッカーサーは3月20日に下院議長に、大統領と自分の意見が対立していることを直訴する書簡を送り、3月24日に「中国本土攻撃も辞せず」と声明して大攻撃を強行しようとした。この独断専行が大統領の怒りを誘い、1951年4月11日にトルーマンが「軍部の暴走を食い止めるため、マッカーサーを解任する」と発表して、後任にマシュー・リッジウェイ中将が任命されたのである。マッカーサー解任は、日本政府にとって寝耳に水の大事件であった。4月16日、日本の国民から絶大な感謝と敬愛の言葉を贈られながら、戦後日本に大きな足跡を残した71歳の老兵マッカーサーが日本を離れ、リッジウェイが代って第2代GHQ最高司令官に就任し、朝鮮戦争の指揮をとった。新GHQは、ただちに政策をアメリカ財界代理人ジョン・フォスター・ダレスの方針に切り換えて、6月21日に、「戦時中にアジア侵略戦争を主導した財閥」の解体に関する法令の原則廃止を打ち出し、日本の財閥解体を進めてきた委員会の解散を命じて、マッカーサーの政策を次々に葬ったのである。
しかしトルーマン大統領が、朝鮮での戦争拡大をおそれたという話は妙である。マッカーサー解任の5ヶ月前、1950年11月30日に、トルーマン大統領当人が「朝鮮戦争で原爆使用もあり得る」と記者会見で発言して全世界から批判されていたのである。また1951年1月27日からアメリカ本土の西部ネバダ州で大気中の原爆実験を開始して、アメリカ兵を原爆被爆のモルモットに使った訓練をスタートしていた通り、米軍は対ソ戦を想定した原爆の実戦使用さえも計画していたのである。
さらに翌年の1952年2月21日には、中国の国営・新華社通信が「1月28日〜2月17日に米軍が北朝鮮と中国東北部で細菌を撒布した」と報道して、恐怖の細菌兵器の使用が明らかになった。アメリカは、日本が開発した悪魔の細菌戦≠V31部隊の殺人技術をひそかに引き継ぐため、東京裁判で731部隊を免責してきたが、彼らから聞き出したBC兵器(Bio-Chemical Weapon──生物化学兵器)の技術を、ついに朝鮮戦争で米軍が実際に使用したのである。
朝鮮半島には、空から色々な物が降ってくるようになり、死んだ動物の肉片が降ることもあった。この不思議な天からの贈り物のあと、ハエの入った容器が降ってきた。ハエはほとんどが産卵直前のメスで、すでに腐りはじめていた動物の死骸に群らがると、卵を産みつけ、すさまじい勢いで増殖し、一帯の村をハエの火山と変えていった。しかもそれは、腸の伝染病を媒介するハエであった。ある時は、木の葉が山のように桑畑や綿畑の上に舞い散った。この場合には、特に人体に有害な細菌類は見つからなかったが、その木の葉は、桑や綿に取りついて、植物の伝染病を蔓延 まんえんしはじめた。ちょうど農民がこれらを生活の糧かてとしている地帯で起こった出来事である。ある時は港の沖合に、黄こ金がね虫むしの異様な集団が突然現われた。なぜここに黄金虫が発生したのか、と不審に思って調べてみると、どれもみなチフス菌に感染しており、その港はただの港でなく、豊かな漁場として栄え、多くの魚が一帯から水揚げされていた。
ベルギーのブリュッセルに本部を置く国際民主法律家協会がこうした数々の噂を伝え聞いて、急ぎ調査団を朝鮮半島に送りこんだ。オーストリアのグラーツ大学教授ハインリッヒ・ブランドワイネルを団長とし、ローマ最高裁の弁護士のほか、イギリス、フランス、ベルギー、ブラジル、中国、ポーランドなど、各国からの精鋭を揃えたメンバーであった。彼らが調べあげた内容は、──急性コレラ、ペスト、チフス、赤痢など、さまざまな種類の伝染病菌が空の降下物から検出され、その降下物はネズミ、ハエ、南京虫、クモ、カブト虫、貝、植物類と、あらゆるものが利用されていた。毒ガス弾も次々に発見された。それらが米軍の飛行機から落とされた──という報告書にまとめられ、すさまじい事実が判明した。すでに1951年から細菌兵器が使用されていたのである。
◆サンフランシスコ講和条約によって日本が独立した
この朝鮮戦争中、今や日本に対する主権を握ったのは、巨大軍需財閥であるモルガン=ロックフェラー連合の代理人ジョン・フォスター・ダレスであり、1951年7月20日から、アメリカ政府は、日本を独立させるサンフランシスコ講和会議への参加を、全世界50ヶ国以上に呼びかけた。しかしアメリカと戦闘を交えている中国は、8月15日に 周しゅう恩来おんらい首相が日本との講和を非難した。ネルー首相のインドも、中国とソ連が調印しない講和条約はアジアの平和にとって無意味であるとして、不参加を表明した。
こうして朝鮮戦争の激戦が続く中、1951年9月4日にアメリカが強引に開催したサンフランシスコ講和会議で、9月8日に日本の独立を認める講和条約の調印式がおこなわれ、対日平和条約に次々と署名が始まり、最終的に会議参加52ヶ国中の49ヶ国が調印した。アジアで署名したのはカンボジア、セイロン(現スリランカ)、インドネシア、ラオス、パキスタン、(アメリカが反共政策を進めていた)フィリピンと、(フランス軍統治下の)ベトナムだけで、第二次世界大戦中の日本によるアジア侵略の最大の被害国≠ナある中国、台湾、韓国、北朝鮮、インド、ビルマ(現ミャンマー)など主要なアジア諸国は出席もせず、ソ連、東西ドイツ、東ヨーロッパ諸国も署名しなかった。
このうち韓国は、サンフランシスコ講和条約の締結時に、戦勝国(連合国)側としての参加を要求したが、「第二次世界大戦中に韓国は参戦していなかった」としてアメリカとイギリスに拒否された。実は、吉田茂首相が韓国を講和会議に参加させることに反対し、アメリカが求める日本の再軍備を取引き材料にして、アメリカに対して「韓国の参加拒否」を呑ませたという説がある。この事情は複雑であった。というのは、そもそもサンフランシスコ講和条約は、「署名国は、日本が植民地支配時代におこなった人権侵害や略奪・虐殺行為の責任を問う外交保護権を放棄する」というアメリカ政府が打ち出した前提条件に従うので、日本の戦争犯罪・侵略犯罪を認めずに無賠償にしてしまう内容であったから、アジアの戦争被害国にとっては受け入れられないはずのものであった。それを、アメリカが経済支配力などのさまざまな圧力を加えて参加国に認めさせようとしたわけである。
逆に日本から考えれば、この条約に韓国を署名させてしまえば、植民地支配時代の戦争犯罪を問われないですむので、韓国の参加を望むはずであった。しかし一方で、日本政府は国内の在日朝鮮人に対する戦時中の補償問題を抱えており、「もし韓国が連合国として署名すれば、100万人前後の在日朝鮮人が連合国の人間として補償を受ける権利を得ることになる」として吉田茂内閣が反対し、アメリカも朝鮮戦争で日本を利用するために、日本政府の要求を受け入れたと言われる。この説の真相は不明だが、この時、アメリカが韓国にかけた圧力が、先に述べた1965年の日韓国交正常化の基本条約締結時に、朴正熙(パク・チョンヒ)大統領の上にしかかっていた政治力であり、戦後のアメリカは、韓国政府より日本を優先していたと考えられるのである。
アメリカがこのように「日本の独立」を認めた目的は、朝鮮戦争で必勝を期すことにあったので、次の三つが目標であった。@米軍の発進基地に利用できる日本国内の恒久的な土地を確保する……A米軍が日本の軍事工業力を活用する……B米軍の指揮に従う範囲で日本人の兵員を確保する。つまり「米軍基地と、日本の兵器製造産業と、日本兵」……この三つの確保を急いで実現するために、講和条約を締結して、日本を「アメリカの属国」として形式的に(名目上)独立させることにしたのである。吉田茂たちはこの条約によって日本が独立したという政治的成果を誇ったが、そうではなかったのだ。
当時の日本国民の世論は、アメリカなど西側の資本主義国だけとの「単独講和」に賛成する者はたった21%しかなく、ソ連・中国の社会主義国を含めて東西の両陣営と分けへだてなく講和条約を結ぶべきだとする「全面講和」を求める者が圧倒的に多く、59%であった。ところが敗戦後の日本人が本来求めていたこの平和志向は無視され、主要なアジア諸国が出席しないまま、米軍が日本の軍事力を利用するために「日本独立」のサンフランシスコ講和条約が結ばれた。したがって、その裏には、とんでもないオマケがついていた。
講和条約と同じ日、1951年9月8日に、サンフランシスコ郊外のプレシディオ陸軍基地第6兵団駐屯地で締結された「日米安全保障条約」が、それであった。アメリカが日本を植民地統治するのと同様に、米軍の一方的な駐留継続を取り決めたこの「軍事条約」は、日米協定の内容さえ国会で議論もせずに吉田茂首相が調印したものであり、日本国民に対して、今後の軍事基地と米軍の行政についても、協定の内容を何ら公表しなかった。アメリカの上院議員が「米軍の日本駐留は無制限だ」と語り、外国のUP通信社が「アメリカの空軍基地は10ヶ所となり、アメリカ海軍が横須賀・佐世保をそのまま維持する」と報道しながら、日本の国会議員と、報道界をはじめ、日本人は何も知らされなかった。
こうしてモルガン=ロックフェラー財閥の代理人ダレスが打ち出した新路線によって、日本の戦争関係者に対する公職追放令が白紙にされた。そして、日本が1945年8月15日に無条件降伏した時に受け入れたポツダム宣言【十二条】に、「日本国民の自由意志による政府が樹立されれば、連合国占領軍はただちに日本から撤退する」という条文があったにもかかわらず、米軍はそれを無視して、日本駐留を継続することに成功したのである。そして同日、日本政府がGHQの承認を得て、戦時中に拷問をくり返して日本国民を苦しめた恐怖の旧特高警察関係者336人の復帰(追放解除)を発表した。日本国内の反戦平和主義者の一掃をはかるため、特高警察の内務省関係者が、どっと復権したのがこの時であった。
翌月の1951年10月31日には、アメリカ政府が日本の海上保安庁の軍事利用を考え、日本政府にその旨を指示したので、Y委員会≠ニ称する日本の海軍創設極秘委員会の第1回会合が開かれ、海軍の再軍備がスタートした。会合には、先に登場した吉田英ひで三みら「日本再軍備案」の計画者をはじめとする海軍組が計8人、海上保安庁側2人の合計10人が参加し、そこにアメリカの顧問も参加した。海軍組はトップを「旧海軍の軍人」が掌握する軍隊創設を主張したが、海上保安庁側はあくまで警察力にとどめる意見を主張して対立した。この議論がおこなわれたのは朝鮮戦争中であり、すでに米軍に命令されて掃海出動した海上保安庁が、朝鮮近海で攻撃を受けて死者を出していたので、平和憲法をないがしろにした軍隊行動だとの反発が強かったからである。海上保安庁は軍隊化を嫌い、海上保安庁長官の傘下にある警備救難艦の下に入る新組織を主張したが、海軍組は、海上保安庁長官直属で独立行動をとれる軍事組織を主張して譲らなかった。結局は1952年2月15日に、アメリカが海軍組の意見を採用して、独立行動をとれる軍事組織の発足を決定すると、4月25日にこの極秘委員会がアメリカに軍艦の借り受けを要請し、Y委員会を解散して、翌日4月26日に海上警備隊が海軍として発足したのである。
一方、その少し前に、日本の兵器生産がスタートしていた。1952年3月8日のGHQ覚書が、日本政府に「兵器製造許可」を指令し、実質的に日本企業に対して米軍向けの兵器や砲弾などの生産命令が下されて、7月1日には「兵器生産協力会」が早くも発足した。かくして軍隊と軍需産業の復活が、同時になされたのである。ハワイ真珠湾攻撃を強行した東とう條じょう英ひで機き首相は戦後にA級戦犯となり、東京裁判の結果、1948年12月23日に絞首刑で処刑されていたが、戦時中に東條内閣顧問だった三菱重工業の会長で、自らもA級戦犯容疑者だった郷ご う古こ潔きよしがその兵器生産協力会の初代会長に就任し、この組織は1953年から「日本兵器工業会」と改称して、再軍備促進と軍需産業のリーダーとして息を吹き返した。経済団体連合会(経団連)は、1953年11月15日にミサイル研究会を発足させ、軍需産業を独占的に支配する三菱重工を中心に動き出した。国民からは再軍備反対の声が強く、誘導弾という言葉を使うことさえタブーだったため、彼らは誘導ミサイル(guided missile)の頭文字をとり、ひそかにGM懇談会と称して、ミサイルの研究にとりかかった。一方で、吉田茂内閣の国務大臣・山縣やまがた勝かつ見みが、米軍の基地輸送を肩代りする「米船運航」会長に就任して朝鮮戦争に貢献し、なんとこの山縣やまがたと郷ご う古こは、子供同士が結婚して、兵器工業会と米船運航が見事な個人的利権を結実させていた。こうして日本の防衛産業は、三菱重工を中心にした兵器工業会が、防衛庁/防衛省から三菱グループが圧倒的な大量受注を受ける現体制を確立したのである。兵器工業会は1988年に日本防衛装備工業会と改称した。
こうした過程の中で、翌年1952年4月28日に、サンフランシスコ講和条約が発効し、それと同時に日米安保条約も発効した。「日本が独立し、占領軍GHQ≠ェ消滅した」とは言うが、まるで奇術師マギー司郎が「ほら、変ったでしょ。分らない? ほうら見なさい……変ったじゃない!」と、観客を疑う口調で、縦縞たてじまのハンカチを横縞よこじまに変えるマジックのように、GHQが米軍に入れ替わって′式に駐留し始めたのがこの日であった。その結果、GHQの公職追放令が無効となり、戦争犯罪者であった岸信介のぶすけ(安倍晋三の祖父)らおよそ5700人が大量に社会復帰し、戦後の日本の軍国主義者を監視してきたアメリカ、イギリス、ソ連、フランス、オランダ、オーストラリア、カナダ、フィリピン、中国(中華民国=台湾)、インド、ニュージーランドの11ヶ国で構成される国際組織の極東委員会も廃止された。
日本で外国人登録法が公布され、在日朝鮮人が公式に日本国籍を喪失したのがこの時であった。東京のアメリカ大使館が再開され、戦時中の企業幹部がどっと復帰しはじめた。朝鮮戦争によってすべての過去が帳消しとなった、奇々怪々な日本の独立であった。
1952年7月14日(朝鮮戦争開戦2年後)には、警察予備隊が大日本帝国時代の旧軍部の大佐ら236人を大量に採用し、軍部が復活し始め、同年10月15日には、警察予備隊が保安隊に改組されて発足し、軍事力が強化された。日米安保条約の発効を前にして駆けこみで設立された海上警備隊は、米軍指揮下で海上保安庁の内部に組織され、旧海軍出身者が深く関与するようになった。
こうした時期の1953年7月27日に、「朝鮮戦争の休戦協定」が結ばれ、韓国と北朝鮮の戦闘がようやく幕を閉じたのである(朝鮮戦争の休戦の経過はのちに述べる)。
すると翌年1954年3月8日に、日本とアメリカが相互防衛援助協定(MSA協定──Mutual Security Agreement)に調印した! MSA協定という名は、聞き慣れないが、この協定によって日本は、有事の安全保障のために「日本の国土に米軍を配置する」ことを認め、「日本は自国の防衛に責任を果たす」ことが義務づけられ、その防衛の目的で「再軍備する」ことが認められたのである。したがって、米軍にとっても、日本にとっても、これが実戦上で最重要の軍事協定であった。そして同日、日本はこのMSA協定に基づいて、防衛庁設置法と自衛隊法を制定し、保安隊を自衛隊に改組した。
吉田茂内閣は、1954年3月11日に防衛庁設置法案と自衛隊法案を国会に提出すると、これが5月7日に衆議院、6月2日に参議院を通過して、法案が成立した。かくして1954年6月9日に、防衛庁設置法と自衛隊法が公布され、7月1日に同法が施行されて、防衛庁の傘下に、陸・海・空の三軍方式に拡大された自衛隊が発足したのである。MSA協定はアメリカと結んだ協定であるから、アメリカのために、防衛庁と自衛隊が生み出されたのである。
外敵への防衛任務を担う軍隊が発足したので、保安隊(旧警察予備隊)と警備隊(旧海上警備隊)が自衛隊となって、海上自衛隊の幹部ほとんどを旧海軍軍人が占めた。生みの親であった吉田英ひで三みは海上自衛隊高官に出世し、以後、歴代の海上幕僚長は、海上自衛隊を大日本帝国海軍の継承組織という認識で指揮するようになった。
南北朝鮮の同胞民族が殺し合い、戦わされていた時代の真っ最中に、日本で進行した再軍備は、以上のような経過であった。
しかし一体、日本の再軍備とは何であったのか?
読者は、以上述べてきたマギー司郎をしのぐマジックを、妙だと感じないだろうか?
日本のテレビ報道界のすべてのコメンテイターにお尋ねするが、これほどの奇術で生まれた日本の軍事力を、今日まで一切批判しなかった諸君が、現在の北朝鮮の秘密の軍事力を云々できるとお考えなのか? できるんだよねぇ、諸君は頭がいいから。
◆日本と韓国は独立国家ではなかった
自衛隊が発足した年の前年に戻って、この事態を考えてみよう。
アメリカでは1953年1月20日に、朝鮮戦争の行き詰まりで支持率が20%近くにまで急落した民主党のハリー・トルーマン大統領に代って、第二次世界大戦の凱旋将軍である共和党のドワイト・アイゼンハワーが、「朝鮮戦争を終らせる!」と国民に約束して新大統領に就任した。それに対してソ連では、3月5日に独裁者ヨシフ・スターリンが死去して、最高指導者ニキタ・フルシチョフを迎える時代に突入した。かくして朝鮮戦争を開戦した時の米ソの両首脳がこの世から消えて、7月12日には、休戦に反対してきた李承晩が、アメリカの説得によってアメリカへの協力を約束した。その結果、南北朝鮮軍の戦力が拮抗して一進一退をくり返し、膠こう着ちゃく状態になっていた泥沼の朝鮮戦争は、
1953年7月27日に、国連軍(アメリカ)と、敵対する北朝鮮軍・中国軍の代表が、北緯38度線の国境・板パン門ムン店ジョムで朝鮮戦争の休戦協定に調印したのである!
この時、李承晩が「韓国軍が休戦協定に調印すること」に反対したため、韓国から正式の代表の派遣は認められなかったので、2019年現在まで、韓国は休戦協定に調印せず、形式上は、現在も南北朝鮮のあいだで戦闘が続いていることになる。しかしこの休戦協定によって、1950年6月25日以来、3年間におよぶ朝鮮戦争が一応の戦闘停止をみて、ようやく朝鮮半島での大戦争が幕を閉じたのであった。
この戦争による死者は、前掲書『韓国大統領実録』によれば、南北朝鮮の総人口3000万人のうち、250万人が死亡または行方不明となり、280万人が負傷し、戦争による死傷者は全人口のほぼ20%、「5人に1人」におよんだとされる。しかしこの戦争犠牲者の正確な数字は確認されておらず、韓国内では「500万人説」も出るほど多くの犠牲者を出し、南北が完全な分断国家として生き続けなければならない現在までの朝鮮半島史を生み出した。一方、主にアメリカを中心とした国連軍の死者・行方不明者も4万3000人以上、負傷者は11万5000人以上であった。中国軍の死者・行方不明者は、それよりはるかに多い20万6000人以上、負傷者は72万人近くに達した。
したがって、参加国すべての犠牲者の総数は、3年間で死者・行方不明者はおよそ275万人、負傷者はおよそ364万人、「死傷者の総計639万人」という、とてつもなく巨大な犠牲者の数であり、10年以上続いたベトナム戦争の犠牲者と比べても遜色ない数であった。そして南北の国境線によって同じ民族の家族が離散させられる大悲劇を招いて、家族が離れ離れになった人は1000万人以上に達したのだ(文在寅大統領の母も家族と離散したが、2004年になって幸運にも離散家族再会の対象に選ばれ、北朝鮮にいた唯一の身寄りである妹と、54年ぶりに再会した)。この悲劇の中で膨大な数の戦争孤児が生み出され、韓国から海外に養子縁組された人は、朝鮮戦争後の60年間でおよそ20万人にも達したとされる。さらに物的被害として、北朝鮮の産業生産施設の80%が破壊され、韓国の国家基盤施設の60%が消失したのである。
これほど痛ましい大被害を受けたのが朝鮮戦争であるという事実を、現在の日本人の何人が知っているだろうか。また本稿で、多くの人が知っている戦後の「日本再軍備のプロセス」を改めてここに記述したのは、なぜであろうか?
それは、南北朝鮮の対立、つまり壮絶な悲劇である「朝鮮戦争」の真ん中に、日本の戦後史を置いて、重層的にとらえる視点がわれわれ日本人に欠けているからである。朝鮮戦争は、北朝鮮と韓国が戦った戦争ではない! 当時は、第二次世界大戦後に全世界に大きな翼を広げたアメリカの軍事戦略が、日本にも、南朝鮮(韓国)にも、同時に覆いかぶさっていた。1945年の光復節以来の歴史をここまで見てきたように、朝鮮人は南・北とも、アメリカ軍政とソ連の支配下にあって、自由な行動が許されなかった。とりわけ韓国の場合は、朝鮮戦争の開戦17日後の7月12日、「韓国軍の統帥権を国連軍(米軍)司令官に移譲する協定」(大田(テジョン)協定)が締結されていた。「韓国軍に対する作戦指揮権は米軍に属する」という重大な規定が決められて、マッカーサー総司令官が朝鮮戦争における国連軍の最高指揮官となり、韓国が独立国家としての自主権を放棄していたのである。「戦時において韓国軍に対する作戦指揮権は米軍に属する」と定めたこの規定は、驚くべきことに2019年現在も維持され、決定の判断権を米軍が握っている。したがって「韓国大統領の同意がなくとも、米軍が朝鮮半島/韓国内で自由に軍事行動をとれる」という米韓関係はおかしいと、文在寅政権になって議論が起こされているのである。
その一方で日本は、サンフランシスコ講和条約を結んで「独立した」と言いながら、独立は言葉だけで、その後、ますますアメリカの言いなりになったのであった。日本の再軍備は、ここまで見た通り、すべてアメリカがお膳立てした通りであった。
日本の再軍備によって自衛隊を誕生させた先述の日米相互防衛援助協定(MSA協定)は、朝鮮戦争のために「反共軍事同盟」の確立を目的としたものだったが、この協定は「日本がアメリカの友好国である」ことを動かない事実として定め、政治的にも、経済的にも、軍事的にも、日本がアメリカに従属することを強要する内容であった。つまりこの時、軍事協定と同時に、余剰農産物の購入協定など一連の経済協力協定が締結され、アメリカの余剰農産物も日本が買い取らなければならないという約束が結ばれ、まるで日本がアメリカのゴミ箱のように利用されていたのである。
したがって、日本も韓国も、ワシントンの手の中で転がされるアメリカの属国であり、独立国ではなかったのである。
ここまで記述した以上の歴史が現代に何を意味するか、しばらくじっと考えていた時、突然に昨年2018年の出来事が衝撃のように、私の脳裏に甦った。2018年4月27日と5月26日に、金正恩と文在寅が二度の南北朝鮮の首脳会談をおこない、続いて6月12日にシンガポールで金正恩とトランプの米朝首脳会談が実現したあと、9月18日に三度目の南北朝鮮の首脳会談が北朝鮮の平壌で開催された一連の出来事が、輝かしい歴史として 眩まばゆいばかりに浮かび上がってきた。三度目の南北首脳会談では、「 平ピョン壌ヤン共同宣言」を発表し、その付帯文書で「南北朝鮮双方が軍事境界線地帯で武力行使をおこなわない」ことに合意し、経済問題を含めて、和平に向かう実践的な行動を打ち出したのである。金正恩と文在寅の二人が抱き合って互いを認め合うと、「朝鮮戦争の終戦」と平和協定の締結をめざして話し合った。2018年の三度にわたる南北朝鮮の首脳会談を思い起こして、私は初めて、日本の左翼の論客も、右翼の論客も、歴史学者も、すべての日本人が、勿論、私自身も含めて……今日までずっと気づかなかったことに、気づいたのである。
金キム正ジョン恩ウンと文ムン在ジェ寅イン二人の姿は、戦後の光復節後に初めて、朝鮮半島の同じ民族が一心同体となって、アメリカから離れて真の独立≠ノ向かって立ち上がったことを示していたのだ。
そこで、ハッとしてわれわれの国を振り返って見た時、サンフランシスコ講和条約を結んでも、日本が現在までまったく独立していないことに気づいた。それは、人間の気概として独立していない、という意味である。朝鮮戦争が起こった1950年代は昔の出来事ではあるが、日本は当時と変らず現在も未熟な国なのである。韓国と北朝鮮が2018年からアメリカのトランプ大統領を巧みに利用しながら、ひそかにアメリカと手を切って、朝鮮民族として独立への道を歩み始めようと第一歩を踏み出しているのに、日本でテレビ報道に登場する人間たちが、この事実に気づいていないのである(その精神状態については、このあと第二話にくわしくその意味を述べる)。
改めて述べると、ここまで本稿では、日本の植民地統治時代が終ってからの南北朝鮮の成り立ちを説明し、その中で、南朝鮮(韓国)の民衆が、どれほどアメリカ軍政によって弾圧されて苦しめられ、翻弄されてきたかを見てきた。だが、それと同じアメリカ軍政の手は、GHQが戦後の日本を風呂敷のように包んでいた。
ただし日本では、韓国と違っていた。乗りこんできた占領軍司令官のマッカーサーとGHQが、最初は日本の軍国主義者を掃討して、治安維持法を廃止し、日本国憲法(平和憲法)の制定にも貢献してきた。そこで、われわれが日本の戦後史を見る時には、自衛隊の誕生は、「日本国内の軍国主義者と右翼」の復活が日本の再軍備を成功させたという視点で、この日本占領時代の歴史を見てきた。
そして1950年6月25日からの「朝鮮戦争と日本の関わり」は、再軍備よりむしろ、開戦2ヶ月後の8月25日に、GHQが横浜に米軍兵站へいたん司令部を設置して「朝鮮特需」がスタートした時から、だと思っていた。兵站とは、兵器や車輌から軍人の衣類・糧食まで、一切の軍需品を確保する組織だったので、これが世に言う朝鮮特需を招来したのである。米軍から日本に対して大量に発注された朝鮮戦争の必需品を、日本の全産業が製造し、朝鮮の戦場における塹壕ざんごう工事などに必要なセメント……パイプ……鉄条網……軍人用衣類の生産を急がせ、鉄鋼や繊維産業など日本の基幹材料メーカーを活気づかせた。その特需を起爆剤として、日本が再び兵器生産に猛進し、そこから戦後の日本経済の復活が始まったのだ。これは動かない事実である。そこでわれわれは、朝鮮戦争が日本に与えた最大の影響はこの「朝鮮特需」にあり、朝鮮民族が分裂して殺し合わなければならなかった時に、日本国民はその 屍しかばねの上に戦後の奇蹟の復興を成し遂げたという程度にしか、認識していなかった。勿論それでも、朝鮮半島を植民地統治した日本人としては、大変な無責任さではある。
しかし、南朝鮮におけるアメリカ軍政の横暴さは、李承晩大統領の残忍無比の独裁ぶりと相まってすさまじいものがあった。その同じアメリカ軍政が、日本に再軍備させる過程で、大日本帝国時代の日本の軍人と軍国主義者を復権させたのである。70年前の韓国と日本の両国の歴史を重ねて、アメリカ中心主義、つまりトランプ大統領が言う「アメリカ第一(America First)」の目で、このように同時に見たことがあっただろうか。
米軍は、大日本帝国時代の日本軍は戦闘能力が高いと買いかぶって、日本の自衛隊と軍事工業力を「反共の砦」として育てようと決断した。日本が反共の砦になるなら、韓国軍の兵士は使い捨てで、いくら殺されてもいい「将棋の捨て駒」と見ていた可能性がある。それが朝鮮戦争の時代であったとすれば、何ともおそろしい歴史である。
南朝鮮と日本を、同じアメリカ軍政下の国として重ねて見る時、日本は独立していなかったのである。独立できなかったのである。そして今も独立していないのである。
第二話に続く
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