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東善作と言っても、今では知っている人は少ないかも知れない。
彼は、原子力の黎明期、「ウラン爺さん」と呼ばれた有名人だった。
それ以前に、彼は飛行機乗りとして日本航空史に大きな足跡を残した偉人だった。
1893年(明治26年)、石川県・羽咋郡(現在のかほく市)に生まれる。
学校を卒業して新聞記者となるも、米国人による曲芸飛行を見て感激しパイロットなることを決意。
渡米し苦学しながら飛行学校を卒業、操縦ライセンスを得る。
第一次大戦が始まると米陸軍航空隊へ志願。
関東大震災のときは、救済ビラをロスアンゼルス上空で撒き、義援金を日赤を通じて日本に送った。
1930年、自費により米・欧・亜三大陸横断による日本への訪問飛行を決行、
東京立川飛行場に無事着陸し、時の人となる。
昨今の内向きな日本人とは違い、とにかく明治生まれはスケールの大きな人が多かった。
当時の日本は開発途上国だったこともあるが、どの分野の人でも新しい知識や技術を習得するために
積極的に欧米に渡って学んだ。
それが日本の近代化に大きく貢献したことは言うまでもない。
1934年、日米関係が悪化する中、米国での生活を清算して帰国、日本で航空学校設立に奔走。
太平洋横断飛行も計画したが、戦争の時代はそれを許さなかった。
戦後は米軍との商売でかなりの資産を築いたようだ。
1953年、悠々自適の老後を送るはずだった還暦の彼に運命を大きく変える出来事が起きた。
原子力ブームである。
ウラン鉱脈を掘り当てようと日本中で多くの人が野山を探しまわりはじめた。
しかしそれに必要なガイガーカウンタは、当時の庶民にとって手の届くものではなかった。
幸か不幸か東善作には米国とのコネとお金があり、携帯用ガイガーカウンタを何台も
入手できた。
彼の元には、「ウラン鉱ではないか。測定してほしい」と全国から鉱石が送られてきたという。
「ウラン爺さん」 となった彼は日本中を探索し、1955年、ついに人形峠北部の小鴨鉱山で
ウラン鉱脈を発見、全財産をはたいて採掘権を得てウラン事業を始めた。
彼の元には巨万の富がころがり込み、ウラン長者になるはずだった、、、
しかし、それは夢に終わった。
ウラン鉱脈の品位が低く、またウランが買い手市場になったこともあり採算がとれなかったのだ。
やがて採掘中止となり、あとには大量の放射性残土が残った。
彼のウランに対する入れ込みは大変なもので、ウラン鉱石を溶かした風呂に入ったり、
ウラン入り肥料で育てた野菜を食べたりしたという。
おそらくそれが原因で、夫人も養女も、そして彼もがんで亡くなった。
現在の常識では考えられないことだが、放射能は体によい、プルトニウムは飲んでも大丈夫、
と言い放つ輩がいまだにいるわけで、彼のことを笑えないだろう。
輝かしいパイロットとしてのキャリア、そして「ウラン爺さん」 として脚光を浴びるも
事業に失敗した後半生。
光と陰のコントラストがはっきりしたダイナミックな人生であった。
ウラン爺さんの失敗が、そのまま原子力の暗い未来を暗示しているように思えてならない。
(関連情報)
「偉人 東善作」 (羽咋市歴史民族資料館)
http://www3.city.hakui.ishikawa.jp/rekimin/history/greatperson/archives/azumazensaku
「平成のラジウムおじさん」 (martingale & Brownian motion 2012/6/2)
http://d.hatena.ne.jp/martbm/20120602/1338601898
「日本男児ウラン爺さん東善作」 (ラッキィセブンティライフ)
https://plaza.rakuten.co.jp/tennjinn369/diary/201510190001/
「ある日本男児とアメリカ―東善作, 明治二十六年生まれの挑戦」 (鈴木明・著 中公新書)
「夢よりも深い覚醒へ――3・11後の哲学」 (大澤真幸・著 岩波新書)
「ニッポンの穴紀行 近代史を彩る光と影」 (西牟田靖・著 光文社)
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