http://www.asyura2.com/19/genpatu52/msg/404.html
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ほとんど知られていないが、大正時代末期、山田延男という優秀な研究者がフランスに留学し、
放射性元素を発見したキュリー夫人の元で研究し、帰国後、放射能被ばくが原因で
若くして亡くなっている。
1896年(明治29年)生まれ。
1916年に東北大学理学部を卒業後、東京帝国大学(現・東京大学)航空研究所の助教授となる。
1923年から2年半、フランスに派遣されキュリー夫人の元で研究。
1926年、日本へ帰国したが体調を著しく損ない脳腫瘍と判断され、わずか31歳で逝去。
以下、ウィキペディアからの引用である。
「山田延男」 (ウィキペディア)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E7%94%B0%E5%BB%B6%E7%94%B7
「
山田の研究対象のうち、ポロニウムは非常に放射能の強力な元素であり、体内に入ると生物学的影響が非常に大きく、数百ナノグラムの摂取で死亡する可能性があり、トリウムもまたラジウムよりもずっと強力な放射能を放つ元素である。しかし当時の放射線防護の知識と技術はまだ不十分だったため、研究中の山田は放射能に対する防御策をほとんど行なっておらず、研究を行っていた部屋には換気装置や防御スクリーンすら備え付けられていなかった。ラジウム研究所での研究中の写真が1枚だけ残されているが、後にこれを見た専門家たちが皆「こんな軽装では、どれほどの放射線を浴びたことか」と漏らすほどの無防備状態での研究であった。
帰国時点で山田はすでに、家族が驚くほど痩せており、入退院を繰り返すうちに、眉毛が薄くなり、皮膚がボロボロと剥げ、両目が失明に近くなり、耳も聞こえにくくなり、付き添いなしでは歩けないほどの病状となっていた。当時は放射能発見から間もなかったため、放射線障害についての医学認識も低く、同様の症例が少ないこともあって、医師の診断でも病気の原因は不明であり、親族たちからは「奇病」としてあつかわれた。しかしながら山田自身は自分の病気と放射能との関係を疑っており、イレーヌに対し、放射線による中毒患者の症例がフランスにあれば教えてほしいとの手紙を書いている。これに対するイレーヌからの返信は、焼失したものと見られている。息子の光男も、父の死の当時は3歳の若さだったために父の記憶がほとんどなく、母の浪江も後に再婚したために再婚先への配慮から山田のことをほとんど話さなかったこともあり、光男は父の死因を奇病と周囲から伝えられていた
」
忘れられた存在になったのは、研究成果をあげる前に亡くなったこと、遺族が原因不明の奇病を
嫌って事実を伏せたこと、関東大震災、そして第二次世界大戦の空襲で本人に関する資料が
焼失したことなどが原因らしい。
キュリー夫人一家の健康被害も凄まじい。
キュリー夫人は再生不良性貧血で死亡。
夫のピエール・キュリーは馬車に轢かれて死亡(おそらく放射線宿酔が原因)
母親の助手から研究者となった長女のイレーヌもその夫のフレデリックも
白血病で50代で死亡。
次女のエーヴだけは研究の道には進まず、キュリー夫人伝を執筆、102歳で大往生。
「私の家族でノーベル賞を受賞していないのは私だけです」と苦笑したという。
キュリー夫人の研究用ノートは100年後の現在でも強い放射線を発している。
(関連情報)
「マリ・キュリー」 (ウィキペディア)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%AA%E3%83%BB%E3%82%AD%E3%83%A5%E3%83%AA%E3%83%BC
「キュリー夫人の研究用ノートは100年が経過した今も放射線を出している (Gigazine)」
(拙稿 2015/9/7)
http://www.asyura2.com/15/genpatu43/msg/774.html
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