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「フクシマからの報告 2019年春 息子と娘の甲状腺にのう胞としこり
医師『経過観察ですね』 母『先生、意味がわかりません』」
(烏賀陽弘道 note 2019/6/7)
https://note.mu/ugaya/n/n118b1aea67f0
私は、2011年3月の福島第一原発事故直後から8年間、故郷から他県に脱出し、避難生活を送る人々を訪ね歩く取材を続けている。
山形県や埼玉県、群馬県、兵庫県など、その旅は全国に及んだ。会った人たちとは今も連絡を取り続けている。そして時折会いに行く。その生活や考えがどう変化したか、しなかったのか、歴史の記録に残したいと願っているからだ。
原発事故から8年が経つ。私が取材してきた人たちは、次の3パターンに分かれる。
(1)故郷に戻った。
(2)そのまま避難先に定住した。
(3)妻子を避難させたまま父親だけが「単身帰還」。
私の取材し続けている人たちでいえば(1)の「戻った人」と(2)(3)の「事故前とは違う生活形態になった人」が半々である。
8年が経つと、避難者の生活がこの3パターンで定着したことがわかってくる。小学生だった子どもは、中学生や高校生、大学生になった。避難先の学校で友達ができたり部活動で活躍したり、生活の軸足が避難先に移った。母親も避難先の生活に慣れて定住した。
要するに、一時的な「避難」ではなく「転居」になったのである。
木下礼子さん(45)=仮名=(上の写真)とは、2012年1月に避難先の群馬県Q市で初めて会った(下の写真)。小学5年生の娘と3年生の息子、実母と夫の母親を伴っての避難だった。夫は勤務先から離れられず、そのまま南相馬市に残った。住んでいた家は、20キロの封鎖ラインからわずか3キロしか外側に離れていなかった。
群馬県に避難したのは、偶然、夫の親戚が住んでいたからである。2011年3月15日、軽四輪に一家を詰め込み、脱出した。アパートを借りて住んだ。他には知人も親戚もいなかった。生まれた時からずっと同じ南相馬市で暮らしてきた木下さんが、ある日突然、何の準備もないまま、見知らぬ街に放り込まれたのである。
その時の様子は拙著「原発難民〜放射能雲の下で何が起きたのか」(PHP新書)に詳しく書いた。「放射能が伝染る」とお嬢さんが小学校でからかわれた。それまで生まれ育った南相馬市でずっと暮らしていたのに、避難先には知り合いも友人もいない。地理すらわからない。木下さん自身も心身とも疲労.極限である。そんな話を聞いた。
群馬県で2年間の避難生活を送ったあと、故郷である福島県南相馬市に戻った。「娘も私も、もう精神的に限界」。木下さんは南相馬市に戻るとき、そう話していた。
その後も、私は折に触れて木下さんにメールなどで連絡を取り、南相馬市に行くたびに、会って話を聞くようにしている。南相馬市に住む詩人の詩集を送ってくれたこともある。
2019年3月、南相馬市を訪ねたときも、木下さんに会った。いつも会うファミレスで3時間話した。いつもどおり「何か変わりはないですか」尋ねる。避難生活を送った人たちの変化を記録する。そんなつもりで会う約束をした。
ところが木下さんの口から予期しなかった言葉が飛び出した。
「娘と息子の甲状腺にのう胞見つかった」「息子はのう胞の中にしこりがある」というのだ。
それは、私が原発事故被災地の取材で一番「聞かずに済むように」と祈っていた言葉だった。もう8年もやりとりしている人たちである。次第に打ち解けて、家族や仕事や、いろいろな悩みを話してくれるようになる。私も自分の家族や仕事の話をする。「取材先と記者」というよりは「友人」に近いやりとりになる。
原発事故被災地の子どもの定期検診(2年に一度)が続くなか、甲状腺がんが見つかり始めているという話はニュースで聞いていた。
(注)原発事故の後、福島県が実施している「県民健康調査」の検討委員会の第34回目会合=2019年4月8日=での報告では、甲状腺がんで悪性または悪性の疑いと診断された患者は、5人増えて212人。そのうち169人が手術を受けた。ちなみに調査対象は約37万人、受診者は約18万人である。
できれば、私の知っている家族にそれだけは起きてほしくない。避難生活の苦しみを十分に味わった人たちである。ようやく平穏な生活を取り戻したのに、残酷すぎる。記者としてというより、同じ人間として、私はそう願った。「何事も起こりませんように」と祈るような気持ちだった。
しかし現実は甘くなかった。私が8 人で取材している範囲でもそんな話が出てくるのだから、全体ではどれくらいの数になるのだろう。
あえて楽観的な事実を付言しておくと「のう胞」は体液がたまった袋にすぎない。それががんなど悪性の病気の前兆であるとは限らない。そのまま消えてしまうこともある。
成長期の甲状腺の検査をすると、原発事故による被曝がなくても一定数のう胞や結節が発見される。原発事故が起きると、周辺住民で検査を受ける人が増えるので、発見数そのものが増える。問題は、被曝の影響がない母集団と比較したときに、明確な増加があるかどうか、である。統計医学である「疫学」はそのへんは前提として織り込んで考える
1979年にアメリカで起きたスリーマイル島原発事故の周辺住民の健康調査をした3大学の疫学者をすべて取材した私の知見でいえば「がんなど病気の増減はあっても、30年後も、疫学者は『因果関係はわからない』としか言わない」である。
そして、その時に取材したアメリカの疫学者はすべて「甲状腺がんの潜伏期間は被曝からおよそ5年」と話した。つまり、福島第一原発事故でいえば、2016年以降の発症は因果関係を疑う対象になる。
木下さんの口からは、さらに不穏な話が出てきた。子どもたちの同級生が3人、相次いで自殺した。まわりで大腸がんになる人が多い。
もちろん、それが原発事故と関係があるとも、ないとも、わからない。木下さんにも私にもわからない。将来もわかことはないだろう。
ただ一つ私に伝わってきたことがある。
そんな不安な話が地元の口コミで耳に入るのに、相変わらず政府や科学者は楽観的な話しかしない。マスコミは沈黙している。
一方、子どもたちの成長は続く。現実は待ってくれない。止まってるわけにはいかない。前に進まなくてはいけない。どうすることもできない。
そんな現実の狭間で、木下さんが生きていることだ。
(インタビューは2019年3月16日、福島県南相馬市で行った。話が飛んでわかりにくい場所を整理した以外は、できるだけやりとりをそのまま再現するように努力した。木下さんは真顔のまま口調を変えずに冗談を言うので、文字にするとやや唐突な箇所があるが、あえてそのままにしておいた)
------(引用ここまで)--------------------------
同級生が3人自殺、大腸がん増加ということですが、南相馬の放射能汚染はすさまじく、
健康で長生きすることはまず不可能でしょう。
はっきり言って、この家族は死ぬために故郷に戻ったようなものです。
何の罪のない住民に、耐え難い精神的・肉体的苦痛を与え、ろくな補償もせず、
最後は死に追いやる政府、福島県の冷酷無情な暴政に強く憤りを感じます。
(関連情報)
「驚愕!!南相馬市立総合病院の患者数が公表される
原発事故前とくらべ成人甲状腺がんは29倍、白血病は10倍に上昇」 (拙稿 2018/10/9)
http://www.asyura2.com/18/genpatu50/msg/393.html
「福島の青年の甲状腺がんの手術のご報告です。 (河野美代子のいろいろダイアリー)」
(拙稿 2017/4/15)
http://www.asyura2.com/16/genpatu47/msg/780.html
「豪州でエコーを受けるとその都度、技師さんが一瞬凍りついている様子がわかります (k1970trans)」
(拙稿 2016/11/26)
http://www.asyura2.com/16/genpatu46/msg/839.html
「福島県南相馬市 法令の640倍の汚染地に戻される住民の悲痛 (女性自身)」 (拙稿 2016/7/29)
http://www.asyura2.com/16/genpatu46/msg/230.html
「福島・見捨てられた甲状腺がん患者の怒り(女性自身)」 (阿修羅・赤かぶ 2016/4/24)
http://www.asyura2.com/16/genpatu45/msg/542.html
「医学論文「甲状腺癌を発病した子供はたとえ手術をしても長生きすることは難しい」 (はなゆー)」
(拙稿 2016/1/19)
http://www.asyura2.com/15/genpatu44/msg/712.html
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