どっちもどっち。どっちも嫌だから市民はデモに出向いたはずなんだが。 どの組織、派閥も陰と陽からなるという事であれば工作員にだって裏事情はあるだろう。カネに目が眩んで連中の下についていた奴も、連中からの資金が滞ればすぐに寝返る。その時、味方に出来るかもしれない相手をいつまでも敵側に圧し留まらせる側が居るとすればそれもまた不道義であるだろう。違和感は互いから発し続けられている。自分の中の違和感を自分で排除できなくなったらその時こそほんとうの終わり。 一方の側を見て全体と思う事は誤り。 不用意に対立争いを煽る側には落ち度というものがある。確かにアグネスは創価の秘蔵っ子だろう。だが、かといってデモ全体が偽物だったという終わり方は違うだろう。一部偽物が紛れて扇動工作をしていたというのが正解だろう。消えた残りの数十万人は自分たちの参加したデモがSNSでどう扱われ、見られているかを知って愕然としただろうと思う。この広がりもまた一種異様なものだった。そして中共が勝利宣言をした。そういえばここもずっと中共を応援してたな?ドイツとクリントンらとの共謀で作られた世界ファンドを。習は案外、トラらとつるんでそれらを潰す役割を担っているかもしれないぞ。 それぞれの中にも陰と陽がある。陽に過ぎても感情レベルでバランスが偏れば陰となる。だから注意。善悪も一緒。言葉遣いは大事だが、人が本当に頂点に達した怒りは差し違え覚悟で発せられる。言葉遣いだけで片付けられないものもある。 どの立場を前にしても中立にいられる正しさに自分の心を置けることだけが望ましい。 もともと大人しい性質の雨傘革命=香港デモが単に「暴動」と呼ばれるようになったのも意図された工作だ。冷静に暴動だけを非難して排除するよう勧告し、デモの性質自体は応援すればよいものを、デモ全体をとりやめさせるよう、非難するだけになってしまったのは何故か?ヒステリーが渦巻いていた。何故か? デモが起こされた理由は政府に対して、また正統な根拠を掲げない中国政府に対する怒りの陳情であり、それが通らぬ憤りがあれだけの規模のデモを作り上げた。確かに台湾から櫻井勢の関わりらが応援にきたりとあれこれあったようだが、デモが起こされた背景とデモの純粋な参加者たちと、そこに紛れ込んだ「暴動の正体」そのもののとは存在を区別して扱うのが筋ではないのか。 それができなければ今後デモと名のつくものには誰も参加したがらなくなるだろう。デモ参加者が何を果たしたくて起こされたデモなのかよくよく考えてもらいたい。 デモが民衆の意志でなされたものかどうかの判別を難しくした原因は、そこに連動してデモ自体を非難した現場外からの連中の野次でもある。日本でも同様に工作員応援団が中心となってヘイトをはじめ、そこに絡んで利益に沿った連中が取り巻きとしてつく。 現場の雇われ工作員とSNSのやじは連動していたが、そこにはそれ以外のデモ参加者の声は殆どとりあげられてなかった。 工作の意図、目的は成功したのだろう。デモは散り散りとなり縮小し、中共が勝利宣言した。雇われた工作員は工作するという明確な意図を持って動かされていた。それが前面に出て暴動行為を働くというものにすぎない。 このことは明らかなのだから何故デモ全体が非難されなくてはならんのか。 工作は全体の民意の圧力を隠れ蓑、盾、鎧にして、紛れ込む。 結果的にデモに賛同して集まった人々の民意を深く傷つけた。 民意はもともとなかったものとされた。 彼らの民度は強くねじ曲げられることとなった。そして彼らは敗北した。 反対に、あのデモ全体が作られたものという結論で締めるなら一部の暴動はまるで意味を持たない。デモを貶める為の工作であればあの非道な暴動活動は合点が行く。もし全体が雇われだったとしたら最終的にも百万から数十万規模でまだ活動しているはずだろう。 そうした危うさがある。言ってみれば百姓一揆も米騒動も権力に対する抵抗である。それは我慢の限度、怒りが頂点に達するまで、生存権が危機に貧しているという証拠だ。
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