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<視点>中国・習近平氏への崇拝 農村10億人の岩盤支持 論説委員・白石徹(東京新聞)
http://www.asyura2.com/19/china13/msg/360.html
投稿者 蒲田の富士山 日時 2024 年 5 月 28 日 07:53:42: OoIP2Z8mrhxx6 ipeTY4LMlXiObY5S
 

2024年5月28日 06時00分

https://www.tokyo-np.co.jp/article/329806

 中国内陸部の陝西(せんせい)省延安市に属する延川(えんせん)県梁家河(りょうかが)村に10年ほど前、新たな「革命の聖地」ができた。巨大テーマパークのように整備された村には連日、数千人の共産党員が押し寄せる。習近平(しゅうきんぺい)総書記(国家主席)が青年期を過ごし、農作業に汗水流した土地を見学するためだ。
 習氏は1969年から7年間、この村で暮らした。北京の中学校を卒業したばかりの15歳の少年は、毛沢東(もうたくとう)主席が発動した「文化大革命」によって極貧の村に送られた。
 黄土高原にある村の施設は修復されている。習氏が寝泊まりした横穴式住居「窯洞(ヤオトン)」、水をくんだ井戸、食事を作ったかまど…。すべてが「聖域」扱いで、文革史料館のような立派な展示室もできた。
 76年まで10年に及ぶ文革は1千万超の国民の命を奪い、社会秩序は崩壊。後継のケ小平(とうしょうへい)氏はその反省から「個人崇拝」を厳禁したはずだった。
 ケ氏は78年に改革開放政策を導入し、30年ほどで急速な経済成長を成し遂げた。
 都市部から虐げられてきた農村部は2006年に大転換を迎える。農業関連税がすべて廃止されたためだ。財政に余裕が生まれた共産党政権は本気になって農村改革に取り組み「2等国民」と呼ばれた農民の生活を一変させた。
 中国の農村社会を研究する田原史起(ふみき)・東大大学院教授は「中央政府の資金が農村に投入され、さまざまな補助金が出るようになった。各家庭にバイクが行き渡り、いまは3軒に1軒は自家用車を持つまで豊かになった」と話す。
 田原教授の近著「中国農村の現在」(中公新書)は各地の農村に住み込んで調査を重ねた力作だ。同書によると、農村居住者を抱える「県域社会」は総人口14億人のうち約10億人を占めるという。
 中国は22省・4直轄市・5自治区の1級行政単位の下に市―県―郷―鎮―村の行政組織があり、各級に共産党支部が置かれる。県級以下で平均人口約50万の県域社会は2千カ所以上ある。
 梁家河で苦労した習氏は28歳で河北省正定(せいてい)県の党幹部に就任。福建省、浙江省などの地方で25年のキャリアを積んだ。農村を熟知し、農民の統治手法を誰より心得ている。
 「県域住民は『大きな田舎』の一員として(中略)現状肯定のぬるま湯に浸り、安定感に身を委ねる」(同書)。結果的に10億の県域住民が習近平政権による一党独裁を支える構図が出来上がった。
 中国には9804万人(22年末)の党員も。3割弱は農漁民で、地方幹部として末端の村まで目を光らせてきた。
 過酷な都市封鎖、ハイテク機器を駆使した「ゼロコロナ政策」で監視・管理社会をほぼ完成させた中国。不動産バブル崩壊もあり、リベラルな富裕層は海外脱出を目指す。
 国際競争にさらされる都市エリート層と若者の政権への不満は募るが、10億を抱える県域社会の岩盤支持が揺らぐ気配はない。(論説委員)  

  拍手はせず、拍手一覧を見る

コメント
1. 蒲田の富士山[2365] ipeTY4LMlXiObY5S 2024年5月28日 11:17:09 : NzwDUC6hfk : QlNiem9RQmZPdEE=[2] 報告
「文革は1千万超の国民の命を奪い」の、1千万超という数字の根拠はどこにあるのだろうか?
他でも見たような気がするが、根拠なしに、数字だけが独り歩きしている。
犠牲者はでたのだろうと思うがね。
規模はわからない。
2. 知的上級者 さん[326] km2TSY_ji4mO0iCCs4Lx 2024年6月02日 17:42:46 : VTH59AY6XQ : WWk1VDA0bXVWVGM=[4403] 報告
<▽33行くらい>
中国の「文化大破壊」で1億人死んだとも言われる
おかしいではないか
10万人、100万人と死者が増えた時点で
政策の誤りに気付き、普通なら方向転換するはずだ

侵略者は武力によって国を制圧すると
実力者や学者を殺したり、その国の文化を破壊する

インカ・マヤ・アステカでも、スペイン人が武力によって制圧した後
文明の痕跡を消す作業が行われた


日本の明治維新と、中国の文化大破壊は全く同じものである
そして両方とも侵略者によって、その真実は隠された

明治維新は英国に最新の銃器を与えられた李氏朝鮮が日本を侵略したものである
それを坂本龍馬による民主化として美化している
仏教の天皇は朝鮮人の伊藤博文に殺され、
明治から神道の朝鮮人天皇が始まった

神道の朝鮮人なのである
明治政府は廃仏毀釈と言いながら、お寺や仏像の破壊、僧侶の虐殺の他に、城の破壊もしている
日本人は李朝日本政府に言いくるめられているが
神社神道なのは朝鮮人であり、神道はユダヤ教である

李朝日本は、首里城を再建して、そこに琉球王国の重要文化財を集めて、首里城ごと燃やす
古墳を次々と破壊するなど、地道な侵略者としての作業は続いており
能登半島地震もそれな気がする


そして話は戻って、英国の傀儡である李朝日本は、中国に100万の兵を侵入させ
漢民族の国民党を殲滅し、満州族の共産党を勝たせた
中国人にとって、日本軍と中国共産党は侵略者なのである

その前の大正時代の「シベリア派兵」
地味な名称で注目されないようにしているが
これまた日本軍が大量にロシアに侵入して
6年間に渡って極寒の地ロシアで狂ったように
日本が明治時代に開発したメタンフェタミンという覚せい剤を服用してたから実際に狂っているのだが
強姦、殺戮、村を焼き、暴れ回った

ソビエト赤軍とは、ハザール・ユダヤ人であり
日本軍とソビエト赤軍は、ロシア人にとって侵略者なのである
それで成功したロシア革命にしても、中国の文化大革命にしても
それは革命と呼ぶのは誤りで、明治維新という名称も誤りで
普通に侵略である

李朝日本は悪魔そのものであることが理解できたろうか
客観的に見て、存在してはならないものだ
今後の中露の報復で、日本の朝鮮族がせん滅されることを期待する

3. 蒲田の富士山[2372] ipeTY4LMlXiObY5S 2024年6月04日 14:32:39 : I8aNcFrUQA : V2tXcWNqdTAzVTI=[2] 報告
<▽43行くらい>
上級者さん、このお方が、ご登場すると、毎回、頭が大混乱になるのだが、阿修羅というところは、そういう場所なのねえ。

でも、ちょっと、お話を合わせなければ、と思い、以下2重投稿になりますが、引用させていただきます。(Wikiより。)

―――以下引用

トゥパク・アマルの父、マンコ・インカ・ユパンキは皇帝アタワルパの兄弟(一説に、マンコ・インカ・ユパンキはアタワルパの兄弟ではなく、下級貴族出身とも)だが、インカ帝国の内戦の際にアタワルパと対立したため、征服ののちピサロの傀儡としてインカ皇帝に擁立された。しかし、やがてマンコ・インカはピサロと対立し、1536年にクスコから脱走して反乱を起こした。反乱軍は先住民の大軍でクスコを包囲し、スペイン人を追いつめるが、やがて形勢は逆転し、撃退されて後退した。しかし、彼らが逃げ込んだウルバンバ川の奥地ビルカバンバは非常に峻険な地形であり、スペイン軍は容易に近づけなかった。そのため、彼らはその後約35年に渡ってこの地に独立した王国を維持し続けた。この間、スペイン勢力は宣教師を派遣して彼らの帰順を促したがうまくいかず、逆にピサロ一族とディエゴ・デ・アルマグロの、スペイン人同士の内乱に付け入って、アルマグロ派に接近することによって彼らは独立を維持し続けた。

即位と死
しかし、マンコ・インカは、ピサロに敗れたアルマグロ派のスペイン人兵士をかくまっていたところ、彼らの裏切りによって1544年に殺害され、その後、彼の3人の子どもが次々とインカ皇帝に即位した。最初に即位したのが長子サイリ・トゥパックであったが、彼は1555年、ビルカバンバを離れてスペインに下り、弟のティトゥ・クシが跡を継いだ。ティトゥ・クシは1571年に亡くなったが、死の直前、スペイン人の神父が彼に薬を与えていたため、これを毒殺と考えた先住民は神父たちを殺害し、これが契機となってスペイン勢力はついにインカ帝国残党の完全征服に乗り出した。トゥパク・アマルはティトゥ・クシの死後ただちに皇帝に即位したが、すでに新インカ帝国の勢力は衰微しており、トゥパク・アマルはほとんど何もすることはできなかった。即位から1年あまりのちの1572年4月にはスペイン軍の来襲によって山中の「ビルカバンバのインカ帝国」は滅亡した。トゥパク・アマルは捕らえられて、激しい拷問ののち、同年9月24日にクスコで斬首された。没年齢は26〜27歳。

処刑場での一幕
処刑の時、トゥパク・アマルが処刑台に登り、刑執行人が刀を取り出したとき、先住民の全群衆が悲しみの叫び声を挙げて涙を流した。この様子に、トゥパク・アマルは右手をさっと挙げて人びとを静まらせた。その毅然とした態度に、群衆は一瞬で静まりかえった。それを見ると、トゥパク・アマルは死を目前にしたものとは思えない立派な態度で群衆に対してケチュア語で話し始めたと伝えられている。

―――引用終了

http://www.asyura2.com/22/kokusai32/msg/352.html

4. 2024年6月22日 11:24:29 : hOZSeqFwkI : blUzQ29ZMm1zelk=[1510] 報告
 2氏のおっしゃる通りですね。
人が教え込まれている「歴史」はすべて捏造・創作であることは次第にわかて来ています。

 いわゆる「個人崇拝」について新聞などは色々言うようですが、
私なんかは特にどうとも思いませんね。
何故なら集団には必ずトップとなる者が存在し、トップが存在しなければ集団は崩壊するからです。
「集団指導」などというものは嘘ですね。
「中国共産党」はDSでありますから実態がどうであろうとも、
圧倒的な数の「国民」の耳に快い言葉でその実態を表現(或いは隠蔽)して見せる。
実際、「集団指導体制」の内側がどんなものだったのか我々は誰も知らない。

 大多数の国民庶民納税者の幸福を目指す政治を
牽引する者は常に集団ではなく「個人」だ。
 米国にはJFケネデイ。
 ロシアにはプーチン。
 中国には習近平。
 北朝鮮には金正恩。

 嘘で作り上げた「民主主義」国である英国、仏国、独国、...は皆崩壊の途上にある。
今や(嘘)アカデミズムが言うところの「政治学」など屁の突っ張りにもなりません。


 

5. 蒲田の富士山[2473] ipeTY4LMlXiObY5S 2024年7月30日 15:20:25 : p2matVE2aY : UURJOGpFZms4Ylk=[4] 報告
<▽35行くらい>
ツパマロス(Wiki)

URL省略

ツパマロス(Tupamaros トゥパマロス)は、ウルグアイの極左武装組織。ペルーの反乱指導者トゥパク・アマルU世(トゥパマロ)にちなんで命名されたが、ここでのトゥパマロスという名前は、直接的にはウルグアイの独立指導者で共和派のカウディージョ、ホセ・アルティーガス(英語版)の率いた解放軍の名前に由来する。1960年代から1970年代のはじめにかけて、南米最強の都市ゲリラとして知られていた。ツパマロス民族解放運動(Movimiento de Liberación Nacional - Tupamaros (MLN-T)とも呼ばれる。

歴史
ツパマロスは、1962年に、チェ・ゲバラに影響された社会主義者のラウル・センディック(英語版)ら20人によって結成され、武力による社会主義革命を目指した。ラウル・センディックは、当初は労働運動を指導する立場から、ウルグアイ北部の砂糖黍労働者を率いてモンテビデオへの行進を指導し、砂糖黍労働者の窮状を訴えた。だが、行進という平和的な手段が全く影響を与えなかったことに深い怒りを感じ、武力革命を目指すことになった。翌年、射撃クラブを襲撃して1ダースの銃を奪うことから作戦を開始し、1年半の準備ののち、政府機関への襲撃、要人の誘拐や暗殺、外国企業や銀行への襲撃などを行った。
1960年代のウルグアイは長期の経済危機にあり、彼らの体制批判は大衆に広く受け入れ、義賊とも呼ばれたが、その過激な活動は、1971年の大統領選挙で左翼政党「拡大戦線」が敗北してからいっそうエスカレートし、警察の拠点を襲撃したり、タクシー会社を襲撃して無線機を強奪するなどの暴挙を繰り返した。
1972年、実に30万人ものウルグアイ人を監視していたともいわれるウルグアイ軍内の「死の中隊」の軍人暗殺事件によって、ウルグアイは内戦状態に陥った。国内治安の回復を図るため、フアン・マリーア・ボルダベリー大統領は、軍・警察の総力を挙げツパマロス壊滅に努め、世論を味方につけることにも成功する。その結果、1973年までにセンディックら2000人のメンバーが逮捕され、ツパマロスは壊滅状態になった。しかし、こうして捕らえられた人々の中には、ゲリラとは無関係の労働組合員や、拡大戦線の党員、及び全く無関係の市民が多数含まれていた。こうしてウルグアイは、軍部の力が強大化し、1985年まで軍事政権が存続した。だが、民政移管とともに、ツパマロスのメンバーは釈放され、ツパマロスもテロを放棄して合法政党となり、拡大戦線に合流した。

6. 蒲田の富士山[2481] ipeTY4LMlXiObY5S 2024年8月02日 14:31:36 : p2matVE2aY : UURJOGpFZms4Ylk=[12] 報告
<■78行くらい→右の▽クリックで次のコメントにジャンプ可>
ツバクアマル2世(Wiki)

URL省略

ホセ・ガブリエル・コンドルカンキ(José Gabriel Condorcanqui Noguera、1738年3月10日(8日から24日の間) - 1781年5月18日)、またの名をトゥパク・アマル2世(Túpac Amaru II)は、植民地時代のペルーにおける反乱(スペイン語版)(1780年 - 1782年)の指導者である。
コンドルカンキは、インカ帝国の都であったクスコ南方140kmほどに位置するティンタ郡のクラカ(村長のようなもの)の家に生まれた(出生を1740年3月24日または1742年3月19日とする資料もある)。彼はインカ帝国最後の皇帝トゥパク・アマルの末裔と自称し、その確認を求めてリマのアウディエンシア(最高司法院)に訴え出たこともあった。そのとき提出された家系図によると、彼の祖先は土地の豪族ディエゴ・フェリペ・コンドルカンキと、その妻でトゥパク・アマルの娘ファナ・ピルコワコである、という。実際のところ真偽は不明であり、または純粋の先住民ではなく、スペイン人との混血メスティーソであったと言われる。クスコで、主として先住民の有力者子弟の教育を行う神学校サンフランシスコ・デ・ボルハ校で教育を受け、インカ帝国の公用語であったケチュア語とスペイン語に加え、ラテン語も習得した。26歳の時、ティンタ郡の3つの村のクラカの地位を受け継いだ。
当時スペイン植民地当局の先住民に対する抑圧と収奪は非常に激しく、それに対する反乱も各地で頻発していた。コンドルカンキも、植民地支配に対する反感を次第に募らせていったものと推測できる。
1780年11月4日、スペイン国王カルロス3世の命名日を祝う宴に招待されていたコンドルカンキは、その宴の席から途中で退席した。同じ宴には、コンドルカンキの上司に当たるティンタ郡のコレヒドール(代官)のアリアガも参加していた。彼は土地の先住民に対する強圧的な支配で悪名の高かった人物であったが、宴からの帰り道、彼の前に軍勢を引きいて立ちはだかったのが、先に退席していたコンドルカンキであった。
コンドルカンキは代官アリアガを捕らえると、彼に役場の金庫と武器庫からすべてのお金と武器を集めるよう命じる手紙に署名させて資金と武器を調達し、続いてティンタ郡のすべての人びとに集合を命じる手紙に署名させた。11月10日。集まった人々の前にコンドルカンキはインカ皇帝の礼装を模した服装で現れ、代官アリアガの数々の悪行を告発して、スペイン国王カルロス3世の命により、と称して彼を処刑した。そして、すべての代官はアリアガと同じ罪を犯しているとして、反乱を宣言した。
コンドルカンキは、多くの先住民を苦しめてきた鉱山や織物工場の強制労働の廃止を主張して各地の先住民を糾合したため、この反乱はたちどころにアンデス地域全体を揺るがす巨大な反乱へと発展した。反乱に参加した先住民は烏合の衆であったが、最初に大量の武器と資金を調達することに成功したこと、スペイン軍にとっては不意の出来事で、反撃の体制がまったく整っていなかったこと、そしてコンドルカンキが「スペイン国王の命令」を錦の御旗に掲げて反乱を正当化したこと等の要因によって、スペイン軍は反乱軍に対して敗北を重ねた。
勢いに乗る反乱軍は、スペイン軍の抵抗を排除しながらクスコに迫った。ところが、クスコ陥落が確実な情勢だったにもかかわらず、12月18日、コンドルカンキは突然反乱軍を反転させて。ティンタ郡まで後退した。その理由は定かではないが、クリオーリョら非原住民と原住民・大衆の乖離・分裂が一因だったようである。ともあれ、この後退が反乱の転換点となった。反乱軍は翌1781年1月に再びクスコに向けて進撃を開始したが、このときまでにスペイン軍は各地から増援を集めて体勢を立て直していた。また、最初は反乱を支持したクリオーリョが、先住民の力の増大を恐れて協力を拒絶した。先住民の多くは、戦争の経験も銃を扱った経験もなく、銃声に怯えるものも多かった。形勢は逆転し、反乱軍は撃退された。
勢いを失った反乱軍は、3月21日、ティンタ郡の北サンガララーにて、追撃してきたスペイン軍と交戦して壊滅し、コンドルカンキはスペイン軍に捕らえられた。コンドルカンキは何度か脱獄を試みるが失敗し、1781年5月18日、クスコにて馬に引かれて八つ裂きにされる刑で処刑された。39歳没(41歳没または43歳没との説もある)。有能な副官である妻ミカエラ・バスティダスも子女や郎党と共に処刑された。なお、妻子の処刑を見せられた後の処刑であった。10歳(または12歳)で末子のフェルナンドは処刑を免れ、生き延びている。
コンドルカンキの反乱は、5ヶ月で鎮圧されたが、この反乱によってスペイン植民地政府の威信は大きく揺らいだ。反乱はペルー南部の広範囲におよび、ペルー副王領の年間の国庫収入とほぼ同等の支出を強いるものだった。各地でコンドルカンキに連携した反乱が続発し、特に今日のボリビアのラパス近郊で1781年3月に蜂起し、ラパスを4ヶ月に渡って包囲したトゥパク・カタリの反乱は、コンドルカンキに匹敵する規模と影響力を持った。結局、スペイン植民地当局は続発する反乱によって次第に力を削がれ、40年後のシモン・ボリバルとホセ・デ・サン=マルティンによる南米の独立に至る。その意味で、敗れたとはいえコンドルカンキの反乱が南米各国の独立に果たした役割は、決して小さくはない。コンドルカンキの“Campesino, el patrón ya no comerá más de tu pobreza”(農民よ、地主は二度とあなたの貧しさを食いものにはしない)という言葉は近現代ペルーの政治でもたびたび引用されてきた。

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