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2023年8月6日 12時00分
https://www.tokyo-np.co.jp/article/268177
<連載 ナザレ園の記憶〜韓国で生きた日本人妻〜>
1945年の終戦前に朝鮮人と結婚し、現在の韓国へ渡った日本人妻らが晩年を過ごす社会福祉施設「慶州ナザレ園」が南東部の慶尚北道キョンサンプクト慶州キョンジュ市にある。両国の交流が深くなった現在は「日韓夫婦」も珍しくないが、彼女たちは日本の植民地支配や朝鮮戦争など激動が続いた時代を生きた。入所者の大半が他界し、風化しつつある記憶に触れようと現地を訪ねた。(慶州市で、木下大資、写真も)
◆「日本出身」を隠してきたが、ここでは
♪ナザレ園よいとこ一度はおいで ドッコイショ
大吉マツさん(98)は記者が日本人と分かると、にかっと笑って群馬県の草津節の替え歌を歌い出した。日本各地出身の入所者らが存命だったころ、みんなでよく歌っていたらしい。
「私、鹿児島の田舎。ナザレ園チョアヨ(居心地がいいです)」。施設によると、マツさんはナザレ園に身を寄せた2011年まで慶尚北道の田舎で暮らし、韓国語の方が得意という。同い年の入所者2人は寝たきりで入退院を繰り返している。マツさんは唯一元気な入所者だが、認知症もあり会話はかみ合わない。
終戦直後の1945年9月に日本を出て以来、一度も帰国していない。ある時、鹿児島に帰郷して親族に会う話が進んだが、急に「絶対に行かない」と言い出した。職員も理由は分からないという。
ナザレ園は当初、日本への帰国を望む人が一時滞在する施設だったが、さまざまな事情から帰国を断念した人が少なくない。そうした人たちには、余生を送るついのすみかになった。宋美虎ソンミホ園長(72)は84年に短期間のボランティアのつもりで来たが、お年寄りたちが「ここが天国」と話すのを聞いて離れられなくなった。以来住み込みで働き、約100人の入所者が生涯を終えるのを見送ってきた。
「おばあさんたちはここへ来た時は日本語を忘れ、韓国人と変わらなかった」と振り返る。韓国で植民地期の記憶が鮮明だったころ、日本人への視線は今以上に厳しかった。独立運動を記念する3月1日や光復節(終戦記念日)の8月15日には日本の統治を振り返るテレビ番組が放映される。「日本がこんなに悪いことをやったと知っていたら、韓国に来なかった」と話す入所者もいた。
日本出身であることを隠して韓国名で生きてきた女性たちは、ナザレ園では日本名で呼ばれて感激した。日本語が達者な宋園長や他の日本人妻に囲まれ、安心して過ごせた。施設内のあちこちには富士山の絵や写真があり、小さな日本のような空間だ。
ひと昔前の韓国内には数千人の日本人妻がいた。宋園長は各地を回って実態を調査し、ナザレ園に入所していなくても、生活の苦しい100人ほどに薬代を毎月送っていたが、ここ20年で次々にこの世を去った。把握する限り、健在なのはマツさんらがほぼ最後だ。
日本人の入所者がいなくなれば、ナザレ園は韓国人向けの施設に変わるという。宋園長は「苦労してきたおばあさんたちに残りの人生を幸せに生きてほしい。最後の1人が天国へ召されるまで守りたい」と話す。
慶州ナザレ園 1972年にキリスト教徒で福祉事業家の故金龍成(キム・ヨンソン)氏が開設した。朝鮮戦争で夫が戦死したり、貧困にあえいだり苦境にあった日本人妻らの帰国を支援。80年代までに147人を送り出した。その後も日本人妻らを順次受け入れ、多いときには30〜40人が共同生活を送った。
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