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80年前にドイツ軍がポーランドへ軍事侵攻するまでの経緯を振り返る
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201909040000/
2019.09.05 櫻井ジャーナル
今から80年前、つまり1939年の9月1日にドイツ軍がポーランドへ軍事侵攻、その2日後にイギリス、フランス、オーストラリア、ニュージーランドが宣戦布告した。一般的に、第2次世界大戦はここから始まると言われている。 しかし、そこから半年ほどの間、本格的な戦闘は行われていない。ドイツは戦争を拡大しようとせず、イギリスやフランスも動かなかった。この時期は「奇妙な戦争」と呼ばれている。イギリス軍やフランス軍はドイツ軍の電撃作戦で敗北したわけではなかった。 ドイツが軍事侵攻したのはポーランドとの領土問題がこじれた結果だ。第1次世界大戦でドイツが敗北したことを受け、その約4カ月後の1919年3月にポーランドは「大ポーランド」構想を打ち出す。 1919年6月に調印されたベルサイユ条約ではドイツとポーランドの領土問題を平和的に住民投票で解決することが決められたが、ポーランドはポーランド系住民を扇動、クーデターで領土を獲得しようとする。それに対してドイツの義勇兵や警官隊が武装蜂起を鎮圧、1921年3月に住民投票は実施されてドイツ系住民が勝利した。 そこでポーランド政府は炭田地帯のシロンスク(ドイツ語ではシュレジエン)で住民に蜂起させ、住民投票から2カ月後の5月にポーランド軍を侵攻させて支援した。そうした侵略行為に対してドイツのワイマール政権は何もできない。イギリス、フランス、アメリカからポーランドに抵抗するなと命令されたからである。アドルフ・ヒトラーがナチスの党首になったのは、この1921年のことだった。 ナチスの戦争犯罪を研究しているクリストファー・シンプソンによると、1920年代の後半になると、ドイツ企業への融資という形でアメリカから多額の資金がドイツへ流れる。 カネの流れを見ると、例えばITTはドイツの通信産業を、GMは大手自動車メーカーのアダム・オペルを、GEはエレクトロニクス関連のAEGやジーメンスをそれぞれ買収、またフォード・モーターはケルンに大規模な工場を建設、スタンダード石油は巨大化学会社のIGファルベンと合弁事業を展開している。 アメリカ商務省の統計を見てもヒトラーが台頭してからアメリカの対ドイツ投資額が急増している。ヨーロッパ大陸全域でアメリカの投資額が激減しているにもかかわらず、1929年から40年の間に約48.5%増えているのだ。アメリカからドイツへの投資はディロン・リードとブラウン・ブラザーズ・ハリマンを中心とする金融機関を通して行われた。(Christopher Simpson, “The Splendid Blond Beast”, Common Courage, 1995) ブラウン・ブラザーズ・ハリマンは投資会社のブラウン・ブラザーズをWAハリマンが買収して生まれた。ユニオン・パシフィック鉄道で有名なハリマン家のW・アベレル・ハリマンが所有していた。 WAハリマンが創設された際、社長を務めたジョージ・ハーバート・ウォーカーはジョージ・H・W・ブッシュの母方の祖父にあたる。言うまでもなく、Hはハーバートの、Wはウォーカーのイニシャルだ。ちなみに、ジョージ・H・W・ブッシュ父親はプレスコット。 ブラウン・ブラザーズの代理人を務めていたサリバン・クロムウェル法律事務所の共同経営者にはジョン・フォスター・ダレスとアレン・ダレスの兄弟も名を連ねていた。このビジネス上の関係からアレン・ダレスとプレスコット・ブッシュは親しくなったという。 本ブログでは繰り返し書いてきたが、こうしたアメリカの巨大金融資本、いわゆるウォール街は1933年から34年にかけてフランクリン・ルーズベルト大統領に率いられたニューディール派を排除するためのクーデターを実行しようとした。それは海兵隊の伝説的な軍人であるスメドリー・バトラー退役少将が阻止、議会で計画について詳しく証言している。少将から話を聞いて取材した記者によると、クーデター派はファシズム体制の樹立を目指していた。これも本ブログで何度も書いたことだが、関東大震災以降、日本はウォール街の影響下にあった。 ドイツでは「民主的」と言われたワイマール体制が倒れてヒトラーが率いるナチス体制へ移行するが、そのナチス体制のドイツとポーランドの関係は1939年の初めまで友好的だった。 第1次世界大戦後にドイツ本国と東プロイセンの間にポーランド領(ポーランド回廊)ができた。つまり東プロイセンは飛び地になった。その問題を解決するため、ドイツは住民投票を実施してドイツへ回廊を返還する意見が多ければ返還、その際にドイツはポーランドに鉄道やバルト海へ通じる高速道路を渡すという案を出した。 その案をポーランドは受け入れ、1939年3月21日に同国のジョセフ・ベック外相がドイツの首都ベルリンを訪問することになる。が、姿を現さなかった。ロンドンへ向かったのだ。その日、ロンドンではコントロール不能になったヒトラーをどうするかについて討議するため、各国の指導者が集まっていた。 参加国はドイツに共同して対抗するかどうかを議論、フランスはすぐに同意、ソ連はフランスとポーランドが署名することを条件に同意したが、ポーランドのベック外相はドイツよりソ連が脅威だという理由で24日にそのプランを拒否した。そして26日にポーランドはドイツに対して回廊を返還しないと通告する。 軍事的な緊張が高まる中、7月23日にイギリスはソ連に交渉を申し入れるが、イギリスの動きは鈍く、交渉が始まったのは8月11日。しかもイギリスは書類に署名できる立場の人間を送り込まなかった。歴史的にポーランドはイギリスの属国であり、ポーランドの動きはイギリスの指示に基づいていることは間違いないだろう。この主従関係は現在も続いている。 その一方、5月11日にノモンハン付近で満州国警備隊と外モンゴル軍が交戦、日本側は関東軍が「陸軍省と参謀本部の方針を無視して」戦闘を続ける。それに対して外モンゴル軍との相互援助条約に基づいてソ連軍が派兵。8月下旬にはソ連軍の機械化部隊が攻勢、日本軍は大敗した。ドイツとソ連が不可侵条約を締結するのは8月23日のことである。 |
- 何だよ歴史の復習かい?〜戦争の裏には大概「共同謀議」というものがある 仁王像 2019/9/05 19:40:28
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