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(回答先: 中国が南シナ海に築いたミサイルの「万里の長城」対決する米海軍は戦力の転換が必要に 日本に迫る危機:残る手は憲法の無効宣言 投稿者 うまき 日時 2018 年 11 月 29 日 21:07:44)
映画が悲しく伝えるナショナリズムの広がる時代
テクノロジーのもたらす限りない進歩の夢と戦争のための戦争
2018.11.29(木) 竹野 敏貴
フランス・パリの凱旋(がいせん)門で開かれた第1次世界大戦終結100年記念式典の様子(2018年11月11日撮影)。(c)BENOIT TESSIER / POOL / AFP〔AFPBB News〕
第1次世界大戦終結100年を迎えた11月11日、世界各地で追悼式典が行われた。
激戦の地フランスでは、休戦協定が発効した11時に式典が始まり、60か国以上の国家首脳や国際機関幹部ら120人を超える世界の要人が、無名戦士墓のある凱旋門で戦没者を追悼。
エマニュエル・マクロン仏大統領がホストを務め、フランス同様、連合国で参戦した米国の現首脳ドナルド・トランプ大統領、ロシアのウラジーミル・プーチン大統領も参席した。
しかし、世界のトップが雨降るシャンゼリゼ通りまでバスで乗り合わせ、凱旋門へと並び歩く列に2人の姿はなかった。
「世界協調」を示す演出に異を唱えるかのような超大国首脳のこうした「単独行動」は、世の現状を象徴。
式典でマクロン大統領は「Le patriotisme est l’exact contraire du nationalisme. (パトリオティズムとナショナリズムは真逆)」と語り、自国第一主義を掲げるトランプ大統領や各国のポピュリストたちを牽制した。
マクロン大統領は9日までの6日間、アルデンヌ、ソンム、マルヌなど特に犠牲者の多かった11県を訪れ「歴史」を再確認、式典後も「平和フォーラム」を主催、市民、企業、NGOなど社会の代表者とも、協調に基づく多国間主義を進めていく姿勢を見せている。
式典には、連合国もう1つの主力で、100万人近い犠牲者を出した英国のテリーザ・メイ首相が出席していなかった。
とは言っても、別に「Brexit」の影響、というわけではない。
時を同じくしてロンドンでも、エリザベス女王やチャールズ皇太子参席のもと、ドイツからフランク=ヴァルター・シュタインマイヤー大統領も招き、厳かに式典が執り行われていたのである。
英国では、例年、11月11日に「Remembrance Day」の式典が行われる。
メイ首相は9日にはベルギーを訪問しており、シャルル・ミシェル首相とともに、大戦最初の激戦地であり、最後の最後ようやく解放された地でもあるモンス(Mons)で、犠牲となった英兵の墓に、Red Poppy(赤いひなげし)の花輪を捧げている。
英国ではRed Poppyは「Remembrance Poppy」と呼ばれ戦没者を象徴する。
大戦に医官として従軍したカナダの詩人ジョン・マクレエが、戦死した友人の葬儀の際インスパイアされたという、Poppyが埋め尽くすフランダースの野に眠る戦死者の視点から語られる詩「In Flanders Field」に由来している。
メイ首相は、英軍最後の戦死者ジョージ・エドウィン・エリソンの墓に捧げた花輪に、西部戦線で赤十字に従事したローレンス・ビンヨンの詩「For the Fallen」からの引用を添えた。
そして、わずか17歳で最初の犠牲者となってしまったジョン・パーの墓には、ガリポリへと向かう病院船(hospital ship)で敗血症のため死亡した「戦争詩人」ルパート・ブルックの「The Soldier」が書かれたカードを添えられていた。
続いてフランスの激戦地ソンム県を訪問したメイ首相は、マクロン大統領とともに、7万人以上の英国と英連邦兵士を追悼した。
実は、マクロン大統領自身、ソンム県の生まれで、英国人である曾祖父がこの地で戦い、戦後、フランスで暮らしていたのである。
ここでは、Red Poppyにフランスでの追悼花「ブルエBleuet(de France)」をあわせた花輪が捧げられ、ソンムの戦いで行方不明となったジョン・ウィリアム・ストリーツの詩「A Soldier’s Cemetery」の書かれたカードが添えられた。
日本も連合国の一員として戦い、戦後、国際連盟の常任理事国にもなっているが、式典に出席したのは安倍晋三首相ではなく麻生太郎副総理だった。
日本でも式典は行われているが、あまり注目も浴びず、その「原因」、その「歴史的」意味合いが議論されることは少ない。
4年余り続いた第1次世界大戦開戦の「原因」は、一言でいえば、欧州列強の植民地政策を中心とした国家主義的膨張、となるのだろう。
しかし、同盟、民族、宗教、イデオロギー、経済など様々な要素が複雑に絡み合い、単純明快に答えることなどとてもできない。
戦いそのものも、国家間戦争と内戦が、革命と反革命が、民族自決と植民地再構成が混在。
戦線も西部戦線、東部戦線、オスマン帝国領、大西洋や地中海、さらにはアジア、アフリカ、オセアニアまで、文字通り世界中。
大戦直前には伊土戦争やバルカン戦争、直後には希土戦争やアイルランド内戦、さらには内戦続くロシアでのシベリア出兵のような干渉戦争まであり、主語を変えれば、もつ意味は大きく変わってくる。
かつては当然のようにドイツに責任を一任する分析がなされていたが、近年、冷静に参戦国それぞれにそれなりの責任を帰するようにもなっている。
それでも、全貌をイメージするため、あえて映画を1本だけ選んでみたいと思う。
ロシア革命も英国の三枚舌外交も青島の戦いも出てこないが、ブラックな笑いと当時兵士の間で歌われた歌の替え歌に包み、マクロン大統領同様の西部戦線の戦地巡りができるシニカルな寓話『素晴らしき戦争』(原題『Oh! What a Lovely War』)(1969)なら流れが掴めるのではないだろうか。
英国有数の海浜リゾート地ブライトンに建つロイヤル・パビリオンの豪勢な一室。
ドイツ帝国皇帝ヴィルヘルム2世、ロシア帝国皇帝ニコライ2世、レイモン・ポワンカレ仏大統領、エドワード・グレイ英国外相、モルトケ・ドイツ帝国参謀総長(小モルトケ)、レオポルト・ベルヒトルト墺外相など、欧州の王族、政治家、軍人たちが、「外交」にいそしんでいる。
欧州の王家は、婚姻による結びつきが強く、英国王ジョージ5世はもとより、ヴィルヘルム2世もニコライ2世の皇后アレクサンドラも、大英帝国の一時代を築いたヴィクトリア女王の孫。
帝国主義に覆われた欧州の「Balance of Power」を保つため、軍事同盟による集団的自衛権のみならず、気高き血筋「Blue Blood」による結びつきが重要な役割を担っていたのである。
「集合写真」を撮ろうと、狂言回したるカメラマンが声をかける。
(写真に入りきらないので)「イタリアとトルコ、もっと寄って!」
中心には、オーストリア・ハンガリー帝国を近々継ぐはずのフランツ・フェルディナント大公夫妻がいる。2人はカメラマンからRed Poppyを渡される。
シャッター音は銃声となり、大公夫妻は倒れる。カメラマンが叫ぶ。「オーストリア大公暗殺!」。
1914年6月28日、大公夫妻は、ボスニア・ヘルツェゴビナの首都サラエボで、セルビア人青年ガヴリロ・プリンツィプに暗殺された。
長くオスマン帝国の支配下にあったその地は、帝国の崩壊進む1878年のベルリン会議で、施政権がオーストリア・ハンガリー帝国へと移り、1908年、青年トルコ人革命の混乱に乗じ、「正式に併合」されていた。
そして、バルカン諸国、諸帝国、それぞれの思惑が交錯し起きた「バルカン戦争」が終わって間もない、宗教、民族・・・、様々な価値観が狭い地域にひしめく「世界の火薬庫」バルカン半島で、汎スラブ主義vs.汎ゲルマン主義という構図で語られる大セルビア主義の青年によるオーストリア・ハンガリー帝国後継者の暗殺が起きたのである。
オーストリア・ハンガリー帝国皇帝フランツ・ヨーゼフ1世は、ベルヒトルト外相に促され、宣戦布告書にサインする。
パビリオンでは、カメラマンが各国首脳に向って叫ぶ。
「皆さま、ご用意願います。いつも人気のWar gameの始まりです!」
同盟、協約など、それぞれの立場を語り、駆け引きを続ける国家首脳たち。
「ロシアが総動員令発令」「フランスも」
「ドイツ、ルクセンブルク侵攻」
もはや後戻りは自殺行為と小モルトケに諭され、ヴィルヘルム2世は戦うことを高らかに宣言。
静観する旨語っていたグレイ英外相も、ドイツのベルギー侵攻の報に、もはや参戦は免れないことを悟り、ベルヒトルト墺外相と「外交辞令」を交わす。
国家首脳たちの去った部屋には、無数のRed Poppyが届けられる。
フェルディナント大公暗殺後、1か月にわたり、列強諸国は、外交交渉を続けていた。
しかし、7月23日、ベルヒトルト外相の対セルビア強硬策のもと、オーストリア・ハンガリー帝国はセルビアに最後通牒を送付。
厳しい要求を突きつけられたセルビアは概ね受けいれたものの、それでは不十分とばかり、ベルヒトルトが開戦に慎重な皇帝を押し切る形で、28日、宣戦布告。
8月1日にはドイツがロシアに宣戦布告、翌日ルクセンブルクに侵攻し、3日にはフランスにも宣戦布告。
東西2面を強国に接するドイツは、中立国ベルギーを「通り」フランスを短期間でつぶし、のちにロシアと戦うという「シュリーフェン・プラン」の小モルトケ改訂案を、実行に移したのである。
かつてナポレオン・ボナパルトは「欧州の戦争はすべて内戦」と語った。
「光栄ある孤立」を守り続けた大英帝国も、他国の外交が歴史的転回を見せるなか、自らも日英同盟を結び、やがて、かつての敵対関係、友好関係を覆すかのように再構成された、英仏露の三国協商vs.独墺伊の三国同盟という対立の構図となり、8月には入り、次々と宣戦布告、「欧州の内戦」が始まるのである。
とは言いながら、三国同盟の一角イタリアは、「未回収のイタリア」をめぐりオーストリアと対立しており、当初中立を保持。
翌年になってロンドン密約を結び、同盟を放棄、協商国(連合国)側で戦うことになる。
10月同盟国側に加わり最後には大半の領土を失ってしまう「瀕死の病人」オスマン帝国ともども、映画での開戦前「集合写真」では端っこにいた・・・。
ブライトンの浜辺で休日を過ごす普通の英国人スミス一家。
楽し気な楽隊を追い、桟橋に辿り着けば、遊園地のゲートには「第1次世界大戦」との電光が点灯。
入り口でイ英国海外派遣軍(BEF : British Expeditionary Force)ダグラス・ヘイグ司令官から入場券を買ったスミス一家は、フランス軍の人形劇を見たり、射撃をしたり、楽しい時間を過ごしている。
やがて画面は戦場へと移行、ジャック・スミスは、塹壕で銃を構えている。
英軍最初の大きな戦闘、ベルギーでの「モンスの戦い」のさなか・・・。
ドイツの予想に反し、ベルギーは抵抗を見せた。8月4日には英国も宣戦布告。
9月のマルヌ会戦でその勢いが止まると、以後、「西部戦線」は汚く湿った塹壕で文字通り泥沼の消耗戦を続けることになる。
「東部戦線」でのロシアの攻勢も思いのほか早く、シュリーフェン・プランは破綻した。
こうして「欧州の内戦」は、西部戦線、東部戦線、大西洋や地中海、さらには隣接する中東でも展開されていくが、のちに米国も参戦、「世界の中心」たる欧州列強の帝国主義ならではの同盟、協約、植民地といった要素から、アメリカ、アジア、オセアニア、アフリカをも巻き込む「世界大戦」へと発展していくのである。
クリスマスイブも塹壕で戦う兵士たち。
ジャックが詩を読む。
「If I should die, think only this of me
That there’s some corner of a foreign field
That is forever England. There shall be
In that rich earth a richer dust concealed・・・」
聞こえてくる「きよしこの夜」の歌声。ドイツ兵たちのものだ。
塹壕を出、杯を交わす敵味方。しばし友となる。
「今後こっちからは発砲しない」「こちらもだ」
砲撃が始まり塹壕に戻る兵士たち。
「休戦」の報告を受けた士官は電話でどなりつける。
「何が親交だ。立派な反逆罪だ。死刑に値する」・・・
ジャックが読んだ詩はメイ首相が英兵犠牲者追悼の花輪に添えたブルックの「The Soldier」。いまも、亡くなった兵士に捧げる詩としてよく引用される。
当初、参戦国すべてが戦いは短期で決着をつけられる、と考えており、多くの兵士たちもクリスマス頃までには帰れる、と思っていた。
しかし、現実は、泥沼の塹壕戦。そんななか、「クリスマス休戦」が西部戦線各地で起きたのである。
「軍隊ほど楽しいところはない」
ヘイグを中心とした士官たちが「Oh! it’s a lovely war」を歌う。
後方には、1914年の連合軍犠牲者数150万を表示するスコアボードがある。
「昨日爆撃された。今日もあるだろう。爆撃機がやって来る。だけど弾孔には4人しか入れない」
塹壕の兵士たちは、厳しい日常を歌う。
「毒ガス攻撃があった。またあるだろう。ガスマスクは1つしかない。3人逃げてくれて助かった」
普通の市民たる一兵卒の目線と、彼らを消耗品のごとく扱う士官たちの視線が交錯し、シニカルな語り口で物語は展開していく。
ブライトンの桟橋でヘイグは語る。
「1916年の見通しは素晴らしい」
直属の士官が反論する。
「このままでは塹壕が伸びるだけです。膠着続きで決着はつかないのでは」
ヘイグは動じない。
「あと一押しだ。この種の戦争に英国はたけているのだ」
「これは戦争じゃありません。殺戮(slaughter)です。日に5000、時に5万の命が犠牲となっているのです」との反論にも動じず、ヘイグは更なる命令を下す。
「前線を歩いて突破せよ」・・・
前線は動かず、塹壕戦は膠着状態。お互い犠牲を重ねるだけの戦いの命令を士官は出し続ける。自分ではどうにもできない兵士たちは、文字通りの消耗戦で、次々と死んでいく。
ヴェルダン、モンス、イーペル、ルー、ヴィミー・リッジ。
桟橋で、箱を覗き込み、様々な戦いの映像を少年が観ている。
母親は言う「どれも同じでしょ」。
1916年、スコアボードはソンムの戦いの経過を表示する
初日の犠牲者6万人。同時に示される「Ground gains」は「0」。それでもヘイグは消耗戦を続行する。
戦場で孤立すれば、行くも地獄、帰るも地獄の兵士たち。胸には色鮮やかなRed Poppy・・・。
映画は、Red Poppyを兵士たちが死へと向かう象徴として使い続ける。
第1次世界大戦最悪の犠牲者を出したソンムの戦いは、後世まで記憶される英軍最悪の負の遺産。BEF総司令官となっていたヘイグは、「The Butcher of the Somme(ソンムの肉屋)」とさえ呼ばれた。
ソンムの戦いは、初めて本格的にフィルムに収められた戦いでもある。そのドキュメンタリー映画は、大戦のさなか欧州で上映され、2000万人が観た。
戦いには戦車も登場した。
大戦初期に比べてもテクノロジーは格段に進歩していた。
航空機や飛行船、Uボート、毒ガスなど、第2次産業革命は兵器の進歩に大いに貢献、大量殺戮を容易にし、戦争の質を一変させた。
大ヒット戦意高揚歌「Over there」の替え歌にのせ、星条旗を掲げ颯爽と進む一団が桟橋にやって来る。
歓迎する英国市民。勢いにたじろぐ英軍士官たち
1917年、のちの2大超大国が戦局を動かした。
3月のロシア革命、そして4月の米国参戦である。
ロシア市民は戦いに疲れ、経済も疲弊、鬱積した不満が、革命へと発展した。
ニコライ2世は退位。臨時政府は戦争を続行するが、11月、さらなる革命で政権を奪取したボリシェヴィキが、18年3月、ドイツと単独講和を結んだ。
最初の戦地モンスの地下壕(dugout)に再びやって来たジャック。
かつての仲間と出会い、話題となったのが「革命」。
「ドイツでは飢えがひどいらしい。ボリシェヴィキ化するって噂だぜ。海軍では反乱も起きったっていうし。ロシアみたいな革命になるかもな」
ドイツは西部戦線に総力を結集、春季攻勢が始まった。前線は膠着を脱し、西へと進んだ。
4月、進軍のスピードに物資補給が追い付けず、快進撃は止まった。
米国外征軍(AEF : American Expeditionary Forces)がついに前線に投入され、豊富な物資、体力、気力で、力を発揮。戦局は連合国側に大きく傾いていく。
11月5日、ドイツ北部、キール軍港で5万人の水兵と労働者の反乱が勃発。
蜂起の波は各地に広がり、9日には、ベルリンでゼネスト、決起した労働者たちの大規模デモとなった。
そして、社会主義共和国宣言をしようとするカール・リープクネヒトを出し抜くように、フィリップ・シャイデマンが共和国樹立を宣言。
ヴィルヘルム2世はオランダへ亡命した。すでにオスマン帝国もオーストリア・ハンガリー帝国も休戦協定にサイン。
戦いの終わりはすぐそこまできていた。
その頃、パリ北部コンピエーニュの森に停められた客車の中では、すでに、マティアス・エルツベルガー無任所相が、ドイツ帝国全権大使として、連合国軍総司令官フェルディナン・フォッシュ元帥と和平交渉を進めていた。
ガスマスクを着け、戦場へと出ていくジャック。
銃声とともに画面が赤くにじむ。フォーカスが変わると、そこにあるのはRed Poppy。
赤いテープに沿うように歩くジャック。
兵士に呼び止められ、地下壕に入る。
「無名戦士か?」
「いいえ、ジャック・スミスです」
「11時2分前、君が最後だ」
赤いテープに沿い、さらに地下へと進む。そこは、あのパビリオンの一室。国家首脳たちが休戦交渉を行っている。
ジャックには気づかない・・・。
11月11日午前2時15分、エルツベルガーは新政府の協定受諾の返事を受けた。
5時15分、休戦協定署名。11時、発効。
即時発効していればジャックも、現実の最後の犠牲者エリソンも、さらに多くの兵士たちが、命を落とさず済んだはず・・・。
そもそも、ドイツの「全権」大使が即時協定を結ばなかったのは、示された条件が予想をはるかに上回る苛酷なもので、署名に帝国中枢の承認を必要としたからだった。
翌年、ヴェルサイユ条約で、ドイツにはさらなる苛酷な賠償条件が課される。
多額の賠償金がドイツ国民の生活を圧迫し、ポピュリズムの空気、ファシズムを容認する社会を生み出した。
そして、さらなる世界大戦・・・。
協定の結ばれた客車のたどった数奇な運命は独仏関係の感情的根深さを物語っている。
第1次世界大戦が終わると、フランス国内の博物館に展示されるようになっていた客車は、1940年6月22日、協定を結んだ時と同じ場所に運ばれることになる。
第2次世界大戦勃発後、フランスに侵攻したドイツが、再び、その車内で休戦協定を調印することを選んだのである。
そして、その後はドイツ国内で保管、大戦末期には破壊されてしまう。
いま、コンピエーニュの森にある博物館には、そのレプリカ「休戦の客車」が展示されている。
11月10日、マクロン大統領は、アンゲラ・メルケル独首相と、その「休戦の客車」を訪れ、車内で記帳、「欧州と平和のための独仏和解の価値をこの地で再確認」と記された石碑の除幕も行った。
ジャックは、パビリオンを出た。
そこは一面Red Poppyの草原。
先に来ていた仲間たちの横に寝そべるジャック。
野はおびただしい数の墓が並ぶ墓地となり、映画は終る。
「すべての戦争を終わらせるための戦争(The war to end all wars)」と呼ばれた最初の「世界大戦」。
その犠牲者は統計により幅があるが、それまでの欧州での戦争犠牲者総数1000万をも上回り、多くの民間人を巻き込み、1800万人にも及ぶと言われている。
ロマノフ、ハプスブルク、ホーエンツォレルン、オスマン、歴史ある4つの名門の名が政治の表舞台から消えた。
米国という欧州列強とは別の超大国が出現、その対抗馬として異なるイデオロギー国家ソ連が登場した。
民族自決を是とする戦いで、解体縮小された多民族国家オスマン帝国の「被支配民族」だったアラブも、ユダヤも、クルドも、騙され、利用され、すぐさま「民族自決」には至らず、矛盾にみちた「中東」は、今に至るまで、世界の火種であり続けている。
「大戦の教訓が、他民族への恨みになってはならない」
マクロン大統領は11日の式典で、EU懐疑派や移民排斥を掲げるポピュリスト政党が台頭、ナショナリズムが伸長する右傾化社会に警告を発し、多国間連帯の重要性を訴えかけた。
しかし、マクロン大統領の支持率は30%を切り、ともに協調を訴えるメルケル首相は、党首を務めるCDU(キリスト教民主同盟)や提携政党が地方選で大敗したことを受け、21年の任期満了で首相の座を退くことを表明している。
それでも、「独仏枢軸」がEUの要であることに変わりはないが、一方で、プーチン大統領、レジェップ・タイイップ・エルドアン大統領、セバスティアン・クルツ首相、オルバーン・ヴィクトル首相、ロシア、トルコ、オーストリア、ハンガリーというドイツ以外の「消えた帝国」のいまのトップがすすめる政策は協調とはほど遠く、「皇帝」と揶揄される者さえいる。
第1次世界大戦でフランスと「連帯」した新旧「世界の中心」英米のBrexitもAmerica Firstのかけ声も、重くのしかかる。
「テクノロジーは人類に幸福をもたらし、人類は進歩し続ける」
19世紀終わり頃から続く「平和な欧州」「ベルエポック」の楽観の風潮を裏切り、大量殺戮の場となってしまった第1次世界大戦は、世界の力関係のみならず、テクノロジーと人間との関係、さらには人間としての根本的価値観をも、戦後、再構築する必要に迫られることになった。
いま、さらなるテクノロジーの進歩が、個人のありかたを根本的に変えつつある。
日本は来年平成の時代に幕を閉じる過渡期にもいる。
2045年には「シンギュラリティ」の世がやって来るかもしれない。
右傾化や排他的な動きが1930年代に似ているとの声もよく聞かれる。
そもそも、2つの大戦ではなく、20年ほどの休戦期間をおいた長い世界大戦、との見方もある。
グローバリゼーション華やかなりしいま、信条、宗教、民族、国家・・・、自らの価値観とは違う目を通し、「長い世界大戦」を招いた「歴史」を顧みることは、決して無駄にはならないはずである。
これからしばらく、様々な視点から、その過程を、振り返っていくことにしよう。
素晴らしき戦争
(再)826.素晴らしき戦争 Oh! what a lovely war 1969年英国映画
(監督)リチャード・アッテンボロー
(出演)ローレンス・オリヴィエ、ジョン・ミルズ、ジョン・ギールグッド、ラルフ・リチャードソン、ケネス・モア、ジャック・ホーキンス
平凡な英国人スミス一家が第1次世界大戦西部戦線で遭遇する死と隣り合わせの現実と、安全な場から彼らを消耗品のごとく使いたおす士官たちとのギャップを、兵士の間でも歌われていた歌の替え歌を交え、皮肉一杯に描く異色のミュージカル映画。
のちに『遠すぎた橋』(1977)『ガンジー』(1982)を監督する俳優出身のリチャード・アッテンボローの監督デビュー作である。
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/54768
2018年11月29日 Sarah McFarlane and Pat Minczeski
原油価格急落、5つのポイントを分析
投資家らは原油供給について突然考え方を変えた。過剰在庫が価格動向のカギを握る
原油価格急落
Photo:Reuters
つい10月初めには、アナリストらは原油価格が近く1バレル=100ドルに達するかもしれないと考えていた。その後に落とし戸が開き、価格は過去約8週間で約3分の2になった。2014〜16年の原油価格崩壊を投資家に連想させる大きな下落だ。
多すぎる石油
何が相場を反転させたのか。投資家と石油トレーダーは今後数カ月に世界市場に流れ込む石油の量について突然考え方を変えた。主な要因は、米国での生産ブーム、米国の制裁免除のためイラン原油の供給が予想より多いこと、主要産油国のロシアとサウジアラビアが夏から生産を増やしていることだ。
在庫の増加
供給の急増は、石油市場の強気陣営を支えた主なトレンドを反転させた。在庫が再び増加しているようなのだ。
国際エネルギー機関(IEA)は、経済協力開発機構(OECD)加盟国の石油在庫が近く5年平均を上回ると予想している。在庫の増加が続けば価格への下押し圧力が強まりかねず、在庫が膨らんで相場が下落した14年と同じ道をたどる可能性もある。
世界最大の独立系石油取引会社ビトル・グループの調査責任者ジョバンニ・セリオ氏はこう述べている。「サウジと石油輸出国機構(OPEC)は、当時(14〜16年)起きたような大幅な積み増しを避ける在庫水準を目標にしようと必死だ。OPEC諸国が基礎的な条件に反応し続ければ、在庫の激増はないと確信していいと思う」
米国産原油
直近の供給過剰は米国が中心だ。同国の原油在庫は、生産が過去最高水準をつけるなか9週連続で増加している。IEAによると、米国は23年までにエネルギーの純輸出国になるとみられる。米エネルギー情報局(EIA)のデータによると、米原油輸出の週間統計は6月に日量300万バレルのピークに達した。これは15年に米国産原油の輸出が解禁されて以降で最高の水準だ。
供給のボトルネック
世界有数の産油国に向かう米国の増産ペースは、その輸出に必要なインフラを整備するペースを上回っている。そのため米国の石油価格と国際指標油種の価格に格差が生じている。米指標油種のWTI(ウエスト・テキサス・インターミディエート)は国際石油取引の指標油種であるブレント原油よりも下げがきつい。予想されていたよりも大量の米国の供給が相場を圧迫している。
しかし、WTIとブレントの価格は来年遅くには収れんする可能性がある。追加の輸出インフラが開通し、特にテキサス州とニューメキシコ州にまたがるパーミアン盆地から、より多くの米国産原油を世界市場に出荷できるようになるからだ。米原油の最大の輸出拠点であるメキシコ湾岸都市コーパスクリスティ(テキサス州)に向かう新しいパイプライン3本(1日の輸送能力は合わせて約180万バレル)が開通を予定している。
BNPパリバの商品戦略責任者ハリー・チリンギリアン氏は「米国がパーミアン盆地とメキシコ湾をつなげば、同盆地の石油を定期的かつより大量に国際市場に出荷できる」と述べた。
石油価格のドラマ
最近の原油価格下落で市場のボラティリティーが高まった。一般に、原油相場の動きとボラティリティーは逆相関にあり、価格が下落すればボラティリティーは高まる。そして、価格は12月初旬のOPEC総会を前にボラティリティーが高い状態が続くと見られている。総会では、OPECが追加減産の態勢に入るのかどうかが明確になるだろう。
ワシントンのコンサルティング会社ラピダン・エナジー・グループのボブ・マクナリー社長は「産油国の最も恐れる大量の在庫と価格崩壊に(OPEC加盟国が)目を光らせている」と述べた。
原油価格の下落はガソリンにも波及するはずだ。米国のドライバーにとってはうれしい展開だ。個人消費や経済の他の部分も押し上げる可能性がある。
https://diamond.jp/articles/-/186920
- Sinopec副社長、米中貿易戦争による影響を懸念 原油急落にトランプ氏の影 ロシア産原油に目を向ける中国 弱気派正しい うまき 2018/11/29 21:20:06
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