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専守防衛を逸脱…安倍政権が「電子攻撃機」配備で北を挑発(日刊ゲンダイ) :政治板リンク 
http://www.asyura2.com/18/warb22/msg/264.html
投稿者 赤かぶ 日時 2018 年 7 月 31 日 17:23:15: igsppGRN/E9PQ kNSCqYLU
 

専守防衛を逸脱…安倍政権が「電子攻撃機」配備で北を挑発(日刊ゲンダイ)

http://www.asyura2.com/18/senkyo248/msg/515.html


 

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1. 2018年8月10日 07:50:26 : jXbiWWJBCA : zikAgAsyVVk[1278]
2018年8月10日 鰐部祥平 :HONZ
日本初の「特殊部隊」が陸自ではなく海上自衛隊に作られた事情
『自衛隊失格 私が「特殊部隊」を去った理由』完全燃焼を目指した男がぶつかった官僚組織という壁』

 著者、伊藤祐靖は自衛隊初の特殊部隊である海上自衛隊の「特別警備隊」の創設に携わり、部隊創設後は先任小隊長として技術の向上に努めた人物である。本書は日本初の特殊部隊を創設した男の半生を綴った自伝であり、自衛隊という国防の最前線のリアルを描いたノンフィクションでもある。

 『自衛隊失格 私が「特殊部隊」を去った理由』完全燃焼を目指した男がぶつかった官僚組織という壁』
『自衛隊失格 私が「特殊部隊」を去った理由』完全燃焼を目指した男がぶつかった官僚組織という壁』
伊藤 祐靖、新潮社、256ページ
 そもそも日本は旧帝国陸海軍の時代から特殊部隊という特殊戦の専門部隊というものを持ったことがない。そんな日本がなぜ特殊部隊を創設する事になったのか。しかも、白兵戦を旨とする陸上自衛隊よりも先に海上自衛隊で。実はその発端となる事件の現場に伊藤祐靖自身がいたのである。

 その事件とは1999年3月23日に発生した能登半島沖不審船事件である。イージス艦「みょうこう」は富山湾において「特定電波を発信した不審船の捜索」を命じられる。湾の中にいる何百隻という漁船の中から、北朝鮮の特定電波を発信した工作船を見つけるのである。不可能なように思われた任務だが「みょうこう」はその日の午後に不審船を発見、追尾する。

 度重なる威嚇射撃の末に北朝鮮の工作船は停船。自衛隊史上初となる「海上警備行動」が発動される。つまり自衛隊員が工作船に乗り込み、立ち入り検査を行うことになったのだ。だが、海上自衛隊は艦同士の沈めあいを趣旨とする訓練しか行ってきていない。高度な軍事訓練を受けている北朝鮮の工作員と銃撃戦を交わすなど、まったく不可能な状況であった。

 当時、検査時に携行することになっていた武器である拳銃に触ったことのある隊員など、幹部を除いてほぼ皆無。また防弾チョッキも積み込まれていない。乗り込めば確実に自衛官は殺される。著者、伊藤祐靖は「みょうこう」の航海長としてこの現場に立ち会い、生きて帰れない任務に直属の部下を送り込む立場に立たされるのだ。

「海上警備行動」が発令された時、隊員たちに動揺が広がる。平成の世の中で、自分が戦死する。そんな事態を想定している自衛官など90年代には皆無に近い。そんな中で、立ち入り検査隊に選抜された伊藤直属の部下が抗議に来る。伊藤は抗議に来た部下に言い放つ。

“つべこべ言うな。今、日本は国家として意思を示そうとしている。あの船には拉致された日本人がいる可能性が高いんだ。国家はその人を何が何でも取り返そうとしている。だから我々が行く。国家がその意思を発揮する時、誰かが犠牲にならなければならないのなら、それは我々だ。その時のために自衛官の生命は存在する。行ってできることをやってこい。”

 すがるような目つきだった部下はその言葉で「わかりました!いってきます!」と言い放つ。伊藤はこの時、面食らったという。正直、部下に反論して欲しかったのだ。現状では任務達成は不可能だ。この命令は間違っている。当該の部下が「行かせるなら、装備を整え、訓練をしてから行かせるべきだ!」と上司である自分の言葉に反論してくれれば、伊藤は救われる気がしたと、その時の内心を吐露する。

 だが、部下は清々しい表情で自分の死を受け入れてしまった。そして伊藤は自分の人生観、死生観、職業観を部下に押し付けた事を恥じる。それは、半世紀以上前に行われた特攻と同じ事ではないのか。

 と同時に伊藤は、このような任務は彼らには向いていないと思った。確実に訪れる死を受け入れる事で精一杯の彼らは、美しくはあっても、その先にある任務の完遂という目的にまで思考がまわらないのである。死ぬ事を当たり前として受け入れ、なおその先になる任務の完遂を考えられる特殊な死生観を持った連中が世の中には確実にいる。伊藤は確信する。「そういう特殊な人生観の持ち主を選抜し、実施すべき」なのだと。そして自分もそのような類の人間なのだと。

 伊藤祐靖は1964年東京で生まれ、茨城で育つ。中学の頃までは不良少年であったが、高校生の頃に人生観が変わり、陸上部で短距離走競技にのめりこむ。進学先の日本体育大学でも陸上に全力で取り組む。とにかく「本気」で生きる人生を望んでいた。

 大学卒業後は高校の教諭として内定も決まっていたのだが、「ガキ」を相手に一生を過すことに疑問を感じる。このままでは人生を不完全燃焼で終わるのではないか。完全燃焼したい。そう考え続けた著者は自衛官という道を選択する。しかも大卒が目指す幹部候補ではなく、中卒、高卒者を対象とした一兵卒として入隊することになる。「軍隊」ならば常に本気で生きていけるはずという思いと共に。

 著者が軍隊という道を選んだのは、とりわけ父の影響が大きいようだ。父は戦前、陸軍中野学校というスパイ養成所出身者であったのだ。著者の父は徹底して無私の人であり、自分の信念に忠実に生きる事を人生の至上命題にしているような人物だ。戦中に受けた蒋介石暗殺命令が実行に移される前に終戦をむかえるが、命令は取り消されていないとして、蒋介石が亡くなるまで、暗殺の訓練を行っていた。

 完全燃焼した一生を送りたい!そう願って自衛官を選んだ著者だが、期待は裏切られる。一兵卒から幹部にいたるまで、官僚的思考が蔓延る自衛隊は、いかに本気を出さずに、本気の様な振りをするのかという行動様式が蔓延していたのだ。当然、本気で生きたいと願う伊藤と組織としての自衛隊との間で多くの摩擦が発生する。官僚的組織の中で苦闘するエピソードは驚きと興味深いエピソードで満載だ。また、伊藤と自衛隊組織の摩擦のみならず、日本の国防がどのような行動様式の組織に委ねられているのかという視点を得ることができる。

 個々の自衛官は優秀で、心の奥底では国や社会に貢献したいという熱い思いを秘めている。しかし組織の歯車として生きていくうちに、次第に官僚的に振舞うのが当たり前になってしまう。組織文化に抗っていた著者自身も、幹部となり自衛隊の中堅的な立場に立つ頃には、艦や兵士の錬度よりも自分の仕事を減らし、楽をする生き方が身についてしまっていたという。そんな時に起きたのが「能登半島不審船事件」とその後と特殊部隊発足だ。

 強い希望で特殊部隊の創設メンバーに加わった著者はまた落胆する。今度こそ国も自衛隊も国防に本気になったかと、勇んで着任してみれば、部隊創設メンバーは伊藤を入れて4人だけ。それも3ヵ月で第一期生の訓練を開始しなければならない。なんのノウハウも無い中でそれは無理というものだ。また、形だけを作ればいいという自衛隊の悪癖が現れていた。

 しかし、伊藤と初代部隊長は本気であった。組織の思惑を無視して、本気で特殊部隊の創設にまい進する。創設後は8年にわたり「特別警備隊」のレベルを引き上げることに専念するのだが、突然、それも終わりをむかえる事になる。官僚組織の壁に阻まれて。

 実は著者は以前にも『国のために死ねるか』という著作で自身の半生を綴っている。本作とも重複する話も多い。評者も前著のレビューをHONZに書いている。それでも今回、また本書のレビューを書いたのは、『国のために死ねるか』ではあまり詳細に描かれていなかった、自衛隊の内幕が詳しく書かれていたからだ。この部分だけでも読む価値があると思う。安全保障問題で混迷を極める極東地域にあって、自衛隊のリアルを知る事ができるのだ。


(HONZ 鰐部祥平)


2. 2018年8月27日 20:15:55 : jXbiWWJBCA : zikAgAsyVVk[1380] 報告
陸上自衛隊の情報軽視は改まるか
体制整備以上に重要な意識改革と人事
2018.8.27(月) 森 清勇
英秘密情報部、初のテレビCM開始 人材多様化狙う
英首都ロンドンにある秘密情報部(MI6)本部(2010年11月23日撮影、資料写真)。(c)AFP PHOTO / BEN STANSALL〔AFPBB News〕

 大東亜戦争で日本が敗戦した要因は敵情見積が不足し、第一線で戦う部隊への補給が続かなかったことが大きい。

 また、戦後処理を謳ったヤルタ会談の秘密協定情報を入手しながら、大本営が適切に対処しなかったことも明らかになっている。

 これはひとえに、情報・兵站の重要性に関する認識を欠き、教育訓練を疎かにした上に、適切な人を得なかった人事からである。

 そうした諸々の欠陥の反省の上に立ち、創設された防衛庁(現在は防衛省)・自衛隊(以下では陸上自衛隊を対象にする)であったが、教訓が十分に生かされてきたとは言い難かった。

 対処する相手国の変化も然ることながら、戦術・戦法においても大部隊の正面衝突というよりも、指揮中枢の撹乱など、情報・技術戦の様相が大きくなっている。陸上自衛隊の大改革はそうした時代の要請にフィットするのだろうか。

 自衛隊の創設当時は治安維持的な任務が重視され、また脅威は北方のソ連(当時)からと想定されていた。そこで、部隊の編制装備はほぼ均一を基本とし、配備の重点は北海道防衛を担当する北部方面隊に置かれた。

 しかし、ソ連の崩壊で北方の脅威は低減したが、改革開放で経済的発展を続けた中国が長年にわたり2ケタの軍事力増強を続け、脅威の正面は九州方面に移転した。

 しかも、中国の脅威はソ連型の大規模部隊による着上陸侵攻と異なり、サラミ戦術と称される脆弱な部分を見つけて少しづつ侵略する戦法ともみられている。

 好例が南シナ海の岩礁などを埋め立てて人工島に変容させ、航行の安全などに資するためと称して国際社会を欺きながら、今では軍用基地に変容させたことである。

 米国のドナルド・トランプ政権はオブラートに包まれがちな国家の姿をむき出しにしている。同盟国と雖も甘えが許されない日本である。米国に頼りきりの安全保障体制であった日本にとっては試練の時であるが、改革のチャンスでもある。

情報はすべての行動の基本
 軍隊が関わる情報と言えば、戦場における戦いの情報と局限されがちである。

 しかし、それはあまりに狭い見方で、より重要な情報は、軍隊の規模に始まり、その編制や装備、さらには錬成の度合いなどであり、とりもなおさず国力判断に資するものである。

 また、軍隊の運用などは国家の歴史や伝統に由来することが多く、敵対する相手側にとっては存亡にもかかわる重大事である。

 このように、軍隊が関わる情報は、軍隊の運用や組織、教育・訓練の重点など広範に及び、軍隊内の問題というよりも国家(存亡)の問題と言える。

 今日の状況に照らしていえば、北朝鮮の核・ミサイル開発や中国の軍事強国への変化などは、かの国の国家戦略にかかわる情報であり、国家的見地からの対応がなければ収集・処理などは叶わない。

 そうした中で、脅威の焦点が中国にあることは言うまでもない。

 中国は孫子の国だけあって、正面から武力を以ってガンガン攻めてくるという形ではなく、普段は世論戦・心理戦・法律戦といわれる三戦や歴史戦・経済戦、さらには孔子学院などの文化侵略、またサイバー攻撃による知財窃盗など、あらゆる資源を駆使した超限戦を仕かけている。

 このような深謀遠慮でカムフラージュした中国の戦略を見極めることもなく、米国をはじめとする先進国は支援で近代化させることによって価値観を同じくする中国が出現するとみてきた。

 しかし、全く違った結果をもたらしている現実に直面し、困惑しているのが実情である。

 ところが、戦後の日本は軍隊を保有していないこと、また、防衛庁が後発官庁で省として独立していなかったことなどもあり、情報に対する意識が疎かにされてきた。

 そこには、情報=諜報=スパイ行為といった短絡思考も重なり、日本的感覚から毛嫌いされたこともあろう。

 ましてや、国家戦略に関わる情報の収集・分析や戦略兵器に携わる人物の一貫した体系に基づく養成などは行われてこなかったといえよう。したがって、組織的な教育のカリキュラムで専門家を養成するのではなく、現場主義で賄ってきたという以外にない。

 国家の真の姿は、歴史や伝統に裏打ちされていることは言うまでもないが、国家の表向きの言動で見るだけでは得られない。

 裏に回って、あの手この手で入手しなければならないものであるが、戦後の日本はそうした手法などを「汚い」の一言で避けてきた感がある。

 情報は国家存続の基本であるという視点が日本人には欠落していた。

 国家の評判を気にするあまりの結果でしかないが、英国のようにきれいな印象を与えている国家が世界最強の情報収集組織を持っていることからも分かるように、情報は国家意識を強固にもった国民の支えがなければ集めることはできない。

 場合によっては、相手国家を支配下に収めたいと企図する「思い上がり」の国家があるかもしれない。そうした企図の察知は、表面的な対処からだけの情報では得られない。

「中国情報」では負けてならない日本
 日本は中国の近隣国であり、中国の政治や経済の影響を最も受けやすい。極論すれば、中国情勢の見極めは、日本の運命に直接的に関わってくる重要事である。

 日本人でありながら米国の一流紙誌で論陣を張り、ワシントン条約体制会議でも意見を聴取されたカール・カワカミは、ワシントン条約体制を主導した米国は中国について最も詳しい日本の意見に耳を傾けることなく行動して中国を増長させ、体制崩壊をもたらしたと述懐した(『支那大陸の真相』)。

 日本こそが、中国の真の姿をつかみ、米欧などの先進国をはじめ、世界の国々に向かって発信すべきであったが、戦後の日本は「日中友好」の美名のもとに、中国の「真の姿」を正しくとらえる努力を怠ってきた。

 国家主権が最も尊重される時代にあって、日本は国家主権を蔑にするかのように対中外交に於いてはへりくだり、媚中外交と陰口さえ叩かれる状況であった。ましてや相手が脅威の存在になるなどとはつゆほども想定せず、ODA(政府開発援助)で支援し続けた。

 「友好」にかまけて、表面的な言動の収集だけにとどまり、中国が秘めた企図、軍事的な「脅威」の見積りを怠ってきたのである。

 こと軍事問題に関しては、防衛省・自衛隊の責任範疇である。第1次世界大戦以降は総力戦と言われるように工業技術などが重要視されるようになり、軍隊に対する精神的な教育訓練だけでは不十分となってきた。

 第2次世界大戦で連合軍を有利に戦わせたものは、優れた情報能力と継戦能力を支える多量の兵站物資、さらには軍の運用・展開を科学的に考察するオペレーション・リサーチなどの科学技術であったことも分かってきた。

 情報や兵站なくして戦えないと分かっていながら、戦後の日本は双方を疎かにしてきた。端的に言えば、日米同盟をいいことに、米軍頼りで甘えてきたからである。

米軍が指摘した情報問題
 ここで、日本が先の大戦で情報に関して、いかなる状況にあったかを確認しておきたい。

 戦後の昭和21年4月、米軍は「日本陸海軍の情報問題について」という調査書を米政府に提出した。

 その結言の一節は以下の通りである。なお、「注」は大東亜戦争中の大本営情報参謀で、戦後は自衛隊の情報分野で活躍した堀栄三氏による(『大本営参謀の情報戦記』)。

 「日本の陸海軍情報は不十分であったことが露呈したが、その理由の主なものは

(1)軍部の指導者は、ドイツが勝つと断定し、連合国の生産力、士気、弱点に関する見積りを不当に過小評価してしまった(注、国力判断の誤り)

(2)不運な戦況、特に航空偵察の失敗は、最も確度の高い大量の情報を逃がす結果となった(注、制空権の喪失)

(3)陸海軍間の円滑な連絡が欠けて、せっかく情報を入手しても、それを役立てることができなかった(注、組織の不統一)

(4)情報関係のポストに人材を得なかった。このことは情報に含まれている重大な背後事情を見抜く力の不足となって現われた(注、作戦第一、情報軽視)

(5)日本軍の精神主義が情報活動を阻害する作用をした。軍の立案者たちは、いずれも神がかり的な日本不滅論を繰り返し声明し、戦争を効果的に行うために最も必要な諸準備を蔑にして、ただ攻撃あるのみを過大に強調した。その結果彼らは敵に関する情報に盲目になってしまった(注、精神主義の誇張)」

戦前の情報軽視
 このような結果をもたらした陸軍の情報に関する姿勢はどのようなものであったか。

 米軍の調査書は「日本では陸軍大学校や航空将校養成学校にも、情報学級もなければ特殊な情報課程もなく、わずかに情報訓練が行われたこともあったが、それも戦術や戦史、通信課程の付随的なものに過ぎなかった」と総括している。

 戦術教育では彼我部隊の勢力や配備状況などを「想定」として与えられる。その一例は以下の通りである。

1.軍は敵を豊橋平地において撃滅すべく諸般の準備を行っている。
2.第○師団は、軍の先遣兵団として○日夕、岡崎付近に集結を完了した。
3.○日午後6時までに第○師団長の承知した敵情は次の通りである。

(1) 敵の先遣部隊の兵力は、少なくも一個師団を下らず、東海道を西進中で、本夕には天竜川の線に達すると判断される。

(2) 軍主力の終結は順調にて、明○日、三梯団となって豊橋平地に向かって前進を始める予定である。

(3)・・・

4.○日夕6時、第○師団長は軍司令官より、師団は速やかに豊橋平地に進出し、軍の作戦を容易ならしめるべき軍命令を受領した。

 これを受けて、学生は課題として、「師団長の決心」や「作戦主任参謀の作戦命令」などを起案することになる。本来は、師団長の決心を問う前に、敵の配置や勢力をいかにして把握するかなどが問われなければならない。

 しかし、そうした設問は、戦前ばかりでなく、戦後の自衛隊における戦術教育においても一切不問にされてきた。

 こうした結果、情報は「自分で取るもの」ではなく、「与えられるもの」となり、国家の運営に関わる戦略情報の段階から、第一線の戦闘に関わる戦術情報の収集手段や分析のやり方など、ことごとく空白であったのだ。

 大東亜戦争中は大佐で大本営参謀の任にあり、敗戦直後は東久邇宮内閣総理大臣秘書官を務め、戦後自衛隊に入隊して陸上自衛隊最高幹部の陸上幕僚長になった杉田一次氏は『情報なき戦争指導』で、「情報」について次のように書いている。

 「旧軍においては教範類の中でも、情報の重要性が強調されず、為さざると遅疑するとは、指揮官の最も戒しむべき所とす、として積極果敢型を望ましい指揮官像と見做し、思考堅実型を斥け、情報マン養成の人事が軽視された。そのうえ,戦略や戦術の教育においても、情報は教官(統裁官)より与えられ、情報が如何にして求められ、審査や評価されたかは不問に付され、与えられた情報はすべて真実であるとして受け入れられていた」 

自衛隊の不適切な人事
 堀栄三氏は懇願されて自衛隊に入隊する。沖縄沖航空戦における大本営発表の「大戦果」を「信用できない」として名を馳せたように、分析力に優れ、自衛隊の情報分野になくてはならない人物であったからだ。

 その堀氏が自衛隊入隊時に受けた訓示の取り扱いについて辛辣な所見を述べている。

 入隊直後に幹部候補生学校で1か月間の訓練を受けたとき、陸上自衛隊の最高幹部である陸上幕僚長が訓示を行ったが、野党の耳に入れば不具合なことを話したらしく、翌日、筆記した者はノートを提出させられたことについてである。

 戦時中は南方で山下奉文大将にも仕えたことのある堀氏である。「恐らく山下大将であったら、取り消しなんて、見っともない事は喋らないし、喋ってもその言葉に責任を持ったであろう」という。

 「自衛隊の作戦命令を貰って行動を起こした途端、あれは取り消しだとなったら、誰が一体責任をとるのであろうか」と疑問を投げかけ、「まず第一に失望してしまった」と率直に吐露する。

 そして、「どうやら自衛隊のボスたちは、政治家たち上の方を見て、部下たち下の方は見ていないようだった」として、次のようなエピソードを紹介する。

 エジプトがスエズ運河を国有化すると発表した時期、陸上自衛隊は全国から高級幹部を集めて、那須野ヶ原演習場で大規模は図上演習を計画していた。師団長等は演習に参加するため部隊を留守にするか否かが問われる事態となる。

 情報担当の第2部長が判断することになり、「おーい、国外班長(堀氏)! 戦争になるか、ならんのか?」と、追求が急であったと述べる。

 部長は「東大出で、官界をとんとん拍子で歩いてきて、いまや旧軍の陸軍中将の位」についていて、次の異動で「師団長に栄進できるかどうかの試練の時」で、失敗は許されなかったのだ。

 在京外国武官の動向をはじめ、関係大使館の状況の変化や米空軍基地の警戒態勢、報道機関の論調の変化、石油会社の危険度の感じ方、ニューヨークやロンドンの株式の動き、さらにダレス米国務長官の動きなどなど、考えられるあらゆる情報から、堀氏は「戦争になりません」との判断を進言する。

 部長は「どこで聞いてきたのか? まさかエジプトまで行ったのでもないのに」と反問し、「君、もし間違ったらどうするか? それこそ首が飛ぶぞ!」と凄まれるが、「責任者は第2部長ですから、あなたは首では済まないでしょう。間違ったときは自決をする以外に責任を取る方法はないでしょう」と皮肉を交えていったと述べる。

 部長は堀氏の回答に自信が持てず、「情報に明るい専門家や、外務省の局長クラス、課長クラスで、第2部の顧問会議を作って、そこで決めて貰うのはどうだろうか?」などを提案してきた。

 「我々が責任を持つ仕事」だと堀氏が言っても部長はまだ釈然とせず、「幕僚長以下各部長に集まってもらって、部長会議に堀の案を提案して決めてもらう」と言い出す始末。

 堀氏は自分一人で駆けずり回ったことも踏まえ、「自衛隊の情報は組織でするのではなく、1、2名の職人的勘でする情報である実態を暴露」したという。

 また「責任者が責任を逃げて、会議で行う統帥であることも判明してしまった」と嘆き、「情報はまだその日暮らしである」と、情報に対する責任感の無い不適切人事を糾弾している。

自衛隊の情報関係者育成
 戦前の反省を踏まえ、自衛隊の幹部要員を養成する防衛大学校は情報や兵站など科学技術に明るい幹部が必要であるという認識から理工系とし、また組織の軋轢などを除去する目的で陸海空幹部要員が共同生活する形をとる。

 戦闘にかかわる「普通科(旧軍の歩兵)」、「特科(同砲兵)」、「機甲科(同戦車)」職種や、後方支援に分類される「武器科」「需品科」「輸送科」「衛生科」など、また両用的な「通信科」「施設科(旧軍の工兵)」などの14職種がある。

 隊員は職種部隊に所属し、それぞれの職種教育を行う学校(武器科は武器学校、通信科は通信学校など)で学ぶことが必須とされている。

 しかし、「情報」職種はつい8年前の2010年まで存在しなかった。情報はすべてに関係するため、職種としての分類に馴染まないという好意的解釈もできるが、ざっくり言って「軽視」ないし「無視」という評価が正しかったのではないだろうか。

 従って、情報に携わる組織は各職種から派遣された隊員で構成される混成部隊でしかなかった。

 防衛および警備のため必要な知識や技能を取得させる教育訓練機関として調査学校(旧軍の中野学校に相当)が存在したが、職種学校ではないため、情報に携わる者にとっての必須の教育機関ではなかった。

 また、ここで学ぶ隊員には中・高齢者も多いことから、それぞれの職種部隊で「使い物にならない」「排除された」隊員が学ぶところという偏見・悪評さえ囁かれる状況であったと仄聞した。

 筆者は武器職種であったにもかかわらず、在隊間の多くを情報関係で勤務し、中でも戦略兵器情報に携わることが多かったが、調査学校で教育を受けて情報マンになったわけではなかった。

 偶々大学の専攻が電気で、大学院でさらに科学技術(核融合専攻)を学んだ結果、兵器・技術の情報を収集する部署に配属され、何時しか生涯の仕事として歩むことになったということである。

 情報に対する陸自の戸惑いは「情報」を教育する学校の消長からも考察できる。情報や情報専門家がますます必要になるであろう内外情勢下にあって、拡大どころかなんと縮小さえ行われてきたのである。

窮る情報意識の欠如
 平成22年版防衛白書は、「近年、防衛分野における情報の重要性が高まってきたことを受け、情報にかかる専門性の高い識能を保持する隊員を育成し、陸上自衛隊の情報機能を強化するため、10(平成22)年3月に新たに情報科職種が創設された。新たな職種の創設は、陸上自衛隊創隊以来、初めてのことである」と述べる。

 「情報の重要性が近年高まってきた」という認識を、読者の皆さんはどう思うだろうか。ピントはずれもいいところだ。これでは、大東亜戦争の反省どころか、冷戦崩壊後の国際情勢、中でも北朝鮮や中国の状況を全く反映していないという以外にない。

 筆者は、陸幕調査部で技術担当をしていた折、偵察衛星の研究を前任者から引き継ぎ、関係企業などの協力を得て防衛庁(当時)・自衛隊での開発推進を図った。

 しかし、上司や要路に諮っても、「宇宙の軍事利用はしない」政府方針に反するとしてほとんど聞く耳がなく、国際情勢に鑑みた打開策追求の熱意などは微塵も感じられなかった。

 その後、何年かたって北朝鮮がテポドンを打ち上げ、政府が「多目的情報収集衛星」に言及するに及び、各企業などが研鑽してきた偵察衛星研究が役立ったことは言うまでもない。

 白書は続けて、「情報科職種の創設により、情報を専門とする人材を安定的かつ継続的に確保するとともに、長期的視野に立った段階的かつ計画的な人材育成が可能となり、情報に係る人的基盤の強化を図ることができると考えている」と書いてある。

 「情報」をいかに軽視していたかが伺える。

 筆者は相手に勝つためには鹵獲兵器等を入手し、徹底的な調査研究が必要である旨の提案をしたことがあったが、要路者はカタログ性能で良しとする安易な道をとるものが多かったことも、情報にかかわる人材を得ていなかったからではないだろうか。

 英語表記で「Intelligence School」と記された「調査学校」の経緯からも、陸上自衛隊の「情報」に対する認識が読み取れる。

 1954年9月、「陸上自衛隊調査学校」は小平駐屯地に創設されるが、その後、越中島(1956年)に移転し、再度小平(1960年)に帰ってくる。

 しかし、2001年3月、調査学校は廃止され、同場所に存在した業務学校に吸収・合併される形で「小平学校」となり、その中の情報教育部・語学教育部として格下げの形で存続する。

 今年(2018)3月の大改革で、情報教育部・語学教育部を母体に富士駐屯地に陸上自衛隊「情報学校」が新編され、年度末には教育支援部隊として情報教導隊も新編される予定となっている。

おわりに
 1937年の南京における追撃戦は中国共産党の国家をあげた捏造で「南京大虐殺」とされているが、これよりはるかに熾烈で、日本軍を手古摺らせた上海攻防戦がその前にあった。

 精鋭と謳われた金沢の第9師団は戦死将兵3833人、戦傷8527人を出し、戦力の66%が損害を被り、中でも将校は狙撃で狙われた。

 中国軍はドイツの将軍を顧問として招聘し、ドイツの兵器や訓練で防備を固めていたが、日本軍はそうした情報を察知しておらず、支那事変の発端となった盧溝橋事件程度にしか見ていなかった。

 堀氏は「諜報戦の時代に、現在の自衛隊の軍事諜報組織は、実に貧弱な統合幕僚会議の第2室と、その下に陸海空三自衛隊の情報部または調査部があるだけで、仕事の内容も陸海空がそれぞれ自分本位の立場からの狭い視野で情報をとらえる旧軍時代と一向に変わっていない」と、平成元年に喝破していた。

 その後、統合幕僚会議が統合幕僚監部になり、堀氏が指摘したような欠陥を是正するために、第2室と陸海空の情報部の一部を合併して1997年に「情報本部」を立ち上げたが、縷々述べたように、日本人の「情報」に対する意識は、いまだ萌芽し始めたばかりという程度ではないだろうか。

 戦前の駐在武官に相当する「防衛駐在官」は、いまだに外務省への出向で、「一等書記官兼ねて一等陸佐」の肩書でしかない。

 外務省要員が先にあり、防衛省要員は付け足しでしかないのだ。ここにあるのは省庁の序列意識で、国家の存亡にかかわる重責意識は感じられない。

 国際社会で飛び交う情報からエキスを抽出して日本を健在させるためには、一等陸佐ではなく「大佐」(さらには少将)で、大使に次ぐ処遇くらいが与えられなければ、諸外国の要路に接近できないことは言うまでもない。

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