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監視が「人の行動を変える」メカニズム
飲茶
ライフ・社会 正義の教室
2019.10.30 3:00
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哲学史2500年の結論! ソクラテス、ベンサム、ニーチェ、ロールズ、フーコーetc。人類誕生から続く「正義」を巡る論争の決着とは? 哲学家、飲茶の最新刊『正義の教室 善く生きるための哲学入門』の第9章のダイジェスト版を公開します。
本書の舞台は、いじめによる生徒の自殺をきっかけに、学校中に監視カメラを設置することになった私立高校。平穏な日々が訪れた一方で、「プライバシーの侵害では」と撤廃を求める声があがり、生徒会長の「正義(まさよし)」は、「正義とは何か?」について考え始めます……。
物語には、「平等」「自由」そして「宗教」という、異なる正義を持つ3人の女子高生(生徒会メンバー)が登場。交錯する「正義」。ゆずれない信念。トラウマとの闘い。個性豊かな彼女たちとのかけ合いをとおして、正義(まさよし)が最後に導き出す答えとは!?
Photo: Adobe Stock
「他者の視線」の恐ろしさ
前回記事『刑務所を「哲学」すると、正義の輪郭が見えてくる』の続きです。
「刑務所というシステムの要点を整理してみよう。それは次のふたつだ」
(1)「異常者(囚人)」を保護して「正常者(一般人)」に矯正する。
(2)そのためには、囚人を一定の規律に従わせ、その行動を監視する。
「さて、ここで特徴的なのは、監視という矯正方法だ。刑務所はけっして体罰などで囚人を痛めつけて、正常な人間に矯正しようとするわけではない。そうではなく、囚人を規則正しく起こし、食べさせ、働かせ、寝かせ、その日常を看守が監視することで正常な人間に矯正しようとする。なぜ監視が矯正になるのか?」
「たとえば、宿題をやらない子どもを思い浮かべてほしい。その子を矯正する方法として、手っ取り早く『殴る』というやり方があるだろう。だが、その方法では真の矯正は実現できない。なぜなら、仮にその子が宿題をやるようになったとしても、それはあくまでも痛みとの取引による打算的な選択にすぎないからだ。その証拠に、もし痛めつけられない環境に戻せば、きっと彼はまたサボるだろう」
「だから、彼を真に矯正したければ、こうすればいい。まず最初に、『宿題はみんな当たり前にやっている。それができないやつは、おかしな人間だ』という特定の価値観を信じ込ませる。そして、そう思い込ませたあと、後ろからずっと『見て』いればいいのだ」
「そうして、もし彼が『うわ、ボク、人に見られてる。おかしな人間だと思われたくない』という感覚を持ったとしたら、しめたもの。しばらく定期的に見ていれば、そのうち彼は誰も見ていないときでも『他者の視線』を意識するようになり、自分を律して自ら宿題をやるようになるだろう」
なるほど、そうなればひとりで勝手にやるようになるのだから、たしかに完璧な矯正方法だと言える。でも、それって、本当に善いことなのだろうか。なんだか都合よく、その子の思考を操作しているようにしか思えない。もっとも、その子自身は「ちゃんと自分で考えて行動してるよ」と言うのかもしれないが。
「さて、今のたとえ話から、刑務所における監視というシステムが、いかに人間を矯正するのに効果的であるかが、わかってもらえたかと思う。が、しかし、よくよく考えてみれば、この話は刑務所だけにとどまらない。他者の視線を気にさせて自分を律するように仕向ける―このやり口は、社会のいたるところにある。いや、社会全体がそうだと言ってもよいだろう。そう、我々が住む社会(コップ)は、実は『監視による矯正』という、刑務所と同じ構造で出来上がっているのである。そのことを指して、フーコーはこう主張する」
「『私たちは、ベンサムが設計した刑務所、パノプティコンの中で生きている』と」
―パノプティコン!?
思わぬ言葉に僕は凍りつく。それは隣の倫理と千幸も同様だった。僕たちは強張った表情で互いの顔を見合わせる。
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「見られているかもしれない」という恐怖
「見られているかもしれない」という恐怖
現代の哲学者フーコー……その口から、ベンサムというよく知る名前が突然出てきたことは単純に驚きだが、それ以上に衝撃的だったのが「パノプティコン」という言葉。それは教科書的にはベンサムが設計した刑務所の名前なのかもしれないが、僕たち生徒会にとっては特別なものを意味する。
それはもちろん―パノプティコン・システム。
生徒会最大の問題であり、「見守り君」という人型監視カメラの設置プロジェクトの正式名称だ。もっとも生徒会以外の生徒たちは、「見守り君」という呼び名は知っていても、正式名称の方にはあまり馴染みがない。だから、教室全体がざわつくようなことはなかった。
先生は、そのままパノプティコンの説明を続ける。それはかつて倫理から聞いたものと同じ説明であった。
刑務所の真ん中に高い塔が立っており、そこを中心にぐるっと囲むように牢屋が並んでいること。そして、その塔にいる看守からは囚人が丸見えだが、囚人からは看守の姿が見えない工夫が施されていること。
先生は黒板に絵を描きながら、パノプティコンの特徴を説明していった。
「ベンサムが発案したこのパノプティコンが画期的なのは、経済的にとても優れているところだ。というのは、囚人側からは看守の姿が見えないのだから、実は看守はいなくてもかまわない。囚人たちが、勝手に『見られているかもしれない』と思い込んでくれればよくて、『監視による矯正』はそれだけで十分に効果があると言える。キミたちだって、見られているかもしれない監視カメラの前で、モノを盗もうとは思わないだろう? だから、何も馬鹿正直に、毎日24時間分の看守の人件費を支払う必要はないわけである」
監視カメラというワードが出たところで、他の生徒たちもざわつき始めた。ようやく、いま先生が言っている刑務所のシステムが、自分たちの学校の「見守り君」と酷似していることに気づいたのだろう。
実際、学校には、こんな噂がある。
校舎に転がっている見守り君のうち、その大半は偽物であると。なぜなら、ネットの監視サイトで中継されている動画の数よりも、見守り君の数の方が圧倒的に多いからだ。だから、ほとんどの見守り君は、おそらくダミーだと思われる。が、しかし、それだって、いつ本物と置き換えられるかわかったものじゃないし、もしかしたらタイマー式で突然スイッチが入る仕組みなのかもしれない。
いずれにせよ、その「かもしれない」がある以上、見守り君の姿がそこにある限り、本物であろうと偽物であろうと、また、その監視カメラの向こうに人がいようといまいと、僕たちはそこに「他者の視線」を感じざるを得ない。たかが安物のぬいぐるみを、そこらにバラまくだけで、僕たちの意識が操作され、学校にとっての「正常者」に矯正できるのだから、たしかによくできたシステムだと思う。
「ようするに、パノプティコン―この『見られているかもしれない』という虚構を演出するベンサムの刑務所は、当時の人間が思いつく限りで、もっとも経済的で合理的な刑務所だと言ってよいだろう。そして、フーコーは、現代社会の構造がまさにこのパノプティコンと同じなのだとするどく洞察したわけだが―ここで時代を考えてみてほしい」
「フーコーが『監獄の誕生』を発表したのは、あくまでも1970年代のこと。まだ、ネットもスマホもSNSもなかった時代の話だ。これは私の考えだが、それから何十年も経ち、情報技術が進歩した今、パノプティコンはフーコーの予想を超えて、さらなる進化を遂げてしまったのではないだろうか?」
1970年代……僕がまだ生まれる前の話だ。たしかネットどころか、携帯電話やデジカメすらなかった時代だったはず。今となっては想像もつかないことだが。
次回に続く。
https://diamond.jp/articles/-/218889
スマホが「監視カメラ」と化したメカニズム
飲茶
ライフ・社会 正義の教室
2019.11.29 3:30
哲学史2500年の結論! ソクラテス、ベンサム、ニーチェ、ロールズ、フーコーetc。人類誕生から続く「正義」を巡る論争の決着とは? 哲学家、飲茶の最新刊『正義の教室 善く生きるための哲学入門』の第9章のダイジェスト版を公開します。
本書の舞台は、いじめによる生徒の自殺をきっかけに、学校中に監視カメラを設置することになった私立高校。平穏な日々が訪れた一方で、「プライバシーの侵害では」と撤廃を求める声があがり、生徒会長の「正義(まさよし)」は、「正義とは何か?」について考え始めます……。
物語には、「平等」「自由」そして「宗教」という、異なる正義を持つ3人の女子高生(生徒会メンバー)が登場。交錯する「正義」。ゆずれない信念。トラウマとの闘い。個性豊かな彼女たちとのかけ合いをとおして、正義(まさよし)が最後に導き出す答えとは!?
「監視社会」から「相互監視社会」へ
前回記事『監視が「人の行動を変える」メカニズム』の続きです。
「スマホの普及。今は、街を歩く人のほとんどが、スマホという情報機器を持っている。もし社会がフーコーの言う通り刑務所だとするなら、このスマホの普及は一体何を意味するのか?」
「それはおそらく―『囚人全員が監視カメラを日常的に持ち歩き、互いを監視し合っている状況』にほかならないのではないだろうか」
あ、と思った。言われてみればたしかにそうだ。たとえば、もし、僕がいきなり街中で落書きをしたとする。すると、すぐに誰かが「なんかおかしなやつがいるぞ」とその光景をスマホで撮ってSNSで晒す―かどうかはわからないが、少なくとも、そういうことをされるかもしれないし、されたら一発で人生が終わる時代になっていることは間違いない。
「これは私が学生だった頃―もちろんまだネットもなかった時代の話だが―その頃は横暴な振る舞いをする人間たちがたくさんいた。宿題を忘れただけで腫れるほど生徒の?を叩く先生。スピード違反で捕まえた市民を口汚く罵る警察官。後輩の私物を勝手に使って返さない先輩。昔はそういう理不尽な人たちが当たり前にいた」
「が、今ではそんなことはない。権力や立場を笠に着て横暴なことをする人間は―いなくなったとまでは言わないが―全体的にはかなりの割合で減ったように思える。それはなぜか?」
「今の人間が昔の人間よりも道徳的になったからだろうか? いいや、違う。それは『市民の誰もが監視カメラと盗聴器をポケットに忍ばせ、しかもその情報をいつでも公の場に発信できる時代になったから』である」
なるほど。善人が増えたのではなく、テクノロジーの発達により監視される機会が増えて、より矯正が徹底される社会構造になっただけ―ということか。
「監視社会から『相互監視社会』へ。そして、この変化は、実はもうひとつ別の意味を持つ。それは、我々が暮らすこの巨大刑務所パノプティコンがもはや『破壊不可能になった』ということだ。旧来のパノプティコンなら、中央の監視塔を爆破すればシステムを止めることができたかもしれない」
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社会が「人間」を作っている
「だが、現代のパノプティコンには中枢というものがない。なぜなら、囚人自身が監視の役割を担うようになり、いわば監視塔がネットワークとして刑務所全体に遍在してしまったからだ。これでは囚人全員を同時に爆破でもしないかぎり、もはやこのシステムを破壊しようがないだろう。そして、この破壊不可能という結論は、先に述べたポスト構造主義の結論とも完全に一致する」
「すなわち、『人間は、自分を支配する構造(社会システム)を、自らの意志で変えることも抜け出すことも絶対にできない』ということだ」
「だから、きっとこれからもパノプティコン、監視社会は続いていくだろう。監視される側が、囚人側が、どんな意志を持とうと関係ない。社会が、自らの発展のために『正常』な人間を求めて、監視システムを自ら強化していく。そして、その社会のために産み出された人間は、社会が規定する『正常』から外れることを恐れ、死ぬまで『他者の視線』を気にしながら生きていくのだ」
「わかるだろうか? もはや人間が『人間にとって正しい社会』を作っているのではない。社会が『社会にとって正しい人間』を作っているのだ。とっくに主従関係は逆転してしまっているのである。
「では、以上で倫理の授業を終わりにしたいと思う」
えっ……!?
教室に授業終了のチャイムが鳴り響き、先生は唐突に授業を打ち切った。終了の時間が来たのだから仕方がないのかもしれないが、本当にこんな終わり方でいいのだろうか。いや、さすがにこれはあんまりだと思う。
が、他の生徒たちは、さっさと片づけを始めて、欠伸まじりに次々と教室から出て行ってしまった。今の先生の話を聞いても何とも思わない人が大半だったようだ。でも、僕は―奇妙な虚脱感に襲われ、しばらく席から立ちあがることができなかった。
(『正義の教室』第9章 正義の終焉「ポスト構造主義」より抜粋)
【ダイヤモンド社書籍編集部からのお知らせ】
『正義の教室 善く生きるための哲学入門』
著:飲茶 価格:1500円+税 判型:四六並製、352ページ ISBN:978-4-478-10257-2
■30人の幼児と自分の娘、どちらを助ける?
ソクラテス、プラトン、ベンサム、
キルケゴール、ニーチェ、ロールズ、フーコーetc。
人類誕生から続く「正義」を巡る論争の決着とは?
■佐藤優氏(作家・元外務省主任分析官)
「抜群に面白い。サンデル教授の正義論よりもずっとためになる」
本書の舞台は、いじめによる生徒の自殺をきっかけに、
学校中に監視カメラを設置することになった私立高校。
平穏な日々が訪れた一方で、「プライバシーの侵害では」と撤廃を求める声があがり、生徒会長の「正義(まさよし)」は、「正義とは何か?」について考え始めます……。
物語には、「平等」「自由」そして「宗教」という、異なる正義を持つ3人の女子高生(生徒会メンバー)が登場。交錯する「正義」。ゆずれない信念。トラウマとの闘い。
個性豊かな彼女たちとのかけ合いをとおして、正義(まさよし)が最後に導き出す答えとは! ?
正義の教室
飲茶 著
<内容紹介>
ソクラテス、プラトン、ベンサム、キルケゴール、ニーチェ、ロールズ、フーコーetc。人類誕生から続く「正義」を巡る論争の決着とは? 本書の舞台は、いじめによる生徒の自殺をきっかけに、 学校中に監視カメラを設置することになった私立高校。異なる「正義」を持つ3人の女子高生の掛け合いから、「正義」の正体があぶり出される。
「あなたの臓器をください。人類のために」と言われたら?
ソクラテス『善い行いをしろと言ったら、嫌われて死刑になった』
「自殺したい、手伝ってほしい」と家族から頼まれたら?
幸福を哲学すると「快楽」に行きつく!
飲茶
https://diamond.jp/articles/-/221761?page=2
無意味な日々、希望も絶望もない状態をなんと呼ぶ?
「ニヒリズム」と「メランコリー」はどう違うのか
2019.11.29(金)
岩内 章太郎
本
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押井守監督のアニメ映画『スカイ・クロラ』には、戦闘機に乗って戦うキルドレと呼ばれる子供たちが登場する。彼らは、ただ与えられた日常を生きている。行為の意味が決定的に欠けていて、無意味な悲劇だけが積み重なっていく。気鋭の哲学者、岩内章太郎氏はその状態を「メランコリー」と呼ぶ。「ニヒリズム」と「メランコリー」はどう違うのか? 岩内氏が提示する、「生きること」と直結した哲学とは。(JBpress)
(※)本稿は『新しい哲学の教科書』(岩内章太郎著、講談社選書メチエ)の一部を抜粋・再編集したものです。
「ニヒリズム」
ニヒリズムという問題現象を人々のあいだに広く観察できるようになるのは20世紀中盤以降、すなわちポストモダンの時代からだが、私たちは、ニヒリストの典型をある19世紀の小説に見出すことができる。
ツルゲーネフの秀作『父と子』(1862年)である。この小説では、農奴解放前後の19世紀ロシアを舞台にして、伝統的な貴族文化と新しい世代の文化の摩擦が描かれている。大学を卒業して、久しぶりに故郷の田舎に帰ってきたアルカージイは友人のバザーロフも一緒に連れてくる。
バザーロフはあらゆる形式のロマンティシズムを蔑み、伝統的な貴族文化の内実は空虚だと考えている若者で、アルカージイも彼の影響を受けている。貴族文化のなかで育ったアルカージイの父親ニコライ・ペトローウィチと伯父パーヴェル・ペトローウィチはバザーロフの自由奔放な言動に戸惑い、バザーロフがいない食事の席でアルカージイにバザーロフとは何者なのか、と尋ねてしまう。
「バザーロフが何者ですって?」アルカージイは苦笑した。「伯父さん、なんなら、あの男が何者か、教えてあげましょうか?」「うん、教えてくれよ、アルカージイ」「彼はニヒリストです」「ええっ?」とニコライ・ペトローウィチはききかえした。
パーヴェル・ペトローウィチはバターの一片をつけたナイフをもちあげたまま、凍りついたようになってしまった。「彼はニヒリストですよ」とアルカージイはくりかえした。「ニヒリスト」とニコライ・ペトローウィチはつぶやいた。
「それは、ラテン語の nihil つまり無から出た言葉だな。そうとしかわたしには考えられん、とすると、この言葉は......なにものもみとめぬ人間......という意味かね?」「なにものも尊敬せぬといったほうがいいよ」とパーヴェル・ペトローウィチはいって、またバターをぬりはじめた。「何事も批判的見地から見る人間ですよ」とアルカージイはいった。
「で、なにかね、それはいいことかね?」と、パーヴェル・ペトローウィチがさえぎった。「人によりけりですよ、伯父さん。それでいい人もいるし、ひどくわるい人もいます」(ツルゲーネフ1998、36〜37頁)
「意味喪失の経験」
「意味喪失の経験」
ツルゲーネフは、伝統的権威を積極的に無化する人間としてバザーロフを登場させる。彼はいかなる権威にも従属しないことだけを信条としており、現実世界の絶対性に観念で対抗し、観念を観念の内側で論理的に正当化することで、自分を新しい人間だとみなしている。
だが、観念は観念以上のものではない。言葉が生きるためには、それがどこかで現実の世界に触れている必要があるが、この単純な事実にバザーロフはなかなか気がつかない。彼がようやくそのことに気づくのは、現実世界の方に――とりわけ美的なものに――つい誘われてしまうときである。
そのときやっとバザーロフは、伝統がロマンティシズムを生むのではなく、自己と他者の関係こそがロマンの源泉であることを知る。バザーロフは「なぜぼくが時代に属さにゃならんのだ? 時代のほうこそぼくに属させりゃいいんだよ」と現実の論理を嘲るが、ではバザーロフ自身の内側にはいかなるロマンティシズム(理想への憧れ)もないのか、もしあるとすれば、どのような現実的関係から立ち上がってくるのかという問いが、この作品を1つの「文学」にしているのだ。
ここで着目すべきは、バザーロフの対極には宗教や伝統といった「大きな物語」が控えており、その緊張関係のなかでニヒリズムが先鋭化していることだ。逆に考えると、ニヒリズムは何らかの無化すべき対象を必要とするものであり、そもそも無化すべき対象が存在しないところにはニヒリズムも存在しないと考えられる。
一般に、ニヒリズムとは「世界の一切は無意味である」という主張を指すが、この主張の前提にあるのは、かつては何らかの意味があったがそれはすでに失われてしまったということである。だとすれば、意味の無意味化の経験がニヒリズムの問題事象であることになるだろう(混辺 1975)。
つまり、意味があってやがてそれが失われること、たとえば、天皇制があってやがて敗戦があったこと、マルクス主義があってやがて学生運動の熱が冷めたこと、大きな物語があってやがて失墜したこと......。
簡単に言ってしまえば、ニヒリズムとは「意味喪失の経験」なのである。もちろん、ニヒリズムが世界全体の無意味を主張するにいたるまでには、特定の意味の無意味化の経験から、あらゆる意味の無意味化へと飛躍する必要がある。これも全体性に向かって究極の根拠を求める理性の本性に起因している。
「何をしたいわけでもないが、何もしたくないわけでもない」
ところが、ニヒリズムとは別の形態の意味喪失が存在する。何らかの強い意味があってそれが無化される(あるいは、それを積極的に無化する)のではなく、そもそも強い意味それ自体を見出しにくくなっている状態―私はこれを「ニヒリズム」とは区別して「メランコリー」と呼びたい。
ニヒリズムはつねに無化すべき意味を必要とするが、無化すべき意味すら見つからないのだとすれば、私たちは「欲望の挫折」(=ニヒリズム)ではなく、「欲望の不活性」(=メランコリー)を体験していることになる。
「大きな物語」が崩壊していくのを目撃したポストモダンの世代は「ニヒリズムの時代」を生きたが、「大きな物語」が崩壊してしまった後の世界に生まれた者たちは「メランコリーの時代」を生きているのではないか。これが私の舞台設定である。
ニヒリストは伝統的権威に対する「攻撃性」を持ち、あらゆるものは無意味かもしれないという「虚無感」に苦しむが、メランコリストにとっての問題は、欲望の鬱積から出来する「倦怠」と「疲労」、そして、いま手にしている意味もやがては消えていくかもしれないという「ディスイリュージョンの予感」である。
要は、「何をしたいわけでもないが、何もしたくないわけでもない」という奇妙な欲望をメランコリストは生きているのだ。あるいは、次のようにも言えるかもしれない。ニヒリズムは絶望の一形態だが、メランコリーには希望も、そして絶望さえもないのだ、と。
メランコリストの問い
メランコリストの問い
2008年に公開された押井守監督のアニメーション映画『スカイ・クロラ』には、キルドレと呼ばれる子供たちが登場する。キルドレは、暴力を目撃することでしか平和の意味を理解できない人々のために戦闘機に乗って擬似戦争を行なうが、戦死すると同じ顔をした代わりのキルドレが再生産される、という悲惨な運命を生きている。
その残酷な――そして無意味な生まれ変わりのサイクルに、周囲の大人もキルドレ自身も気がつかないふりをする。キルドレは基地に送られてきて相手企業のキルドレと戦い、戦死すると代わりのキルドレが送られてくる、という無限の循環を生きるしかないところが、この運命そのものに疑問を抱き、システムに抵抗を試みるキルドレが現われる。
そもそも自分はキルドレなのか、と思い悩むミツヤは主人公カンナミにこう打ち明ける。
ミツヤ「あなたはこの基地で一番信頼できる。だから聞きたいの。あなたたちがどうやって自分の気持ちを整理しているのか。同じことを繰り返す現在と過去の記憶をどんなふうにしてつないでいるのか。想像だけど多分、とても忘れっぽくなって、夢を見ているようなぼんやりした感情が精神を守っているはず。昨日のことも先月のことも去年のことも全然区別がない。同じように思える。ちがうかしら?」
カンナミ「僕のことだったらだいたいその通りだよ。小さいときからずっとこんなふうだった。ぽんゆりとして起きてるのか眠ってるのか分からないってよく言われた」。
ミツヤ「あなたたちキルドレは年を取らない。永遠に生き続ける。最初は誰もそれを知らなかった。知っていても信じなかった。でもだんだん噂が広がっていく。戦死しないかぎり死なない人間がいるって。分からない。私もキルドレなのかしら。いまあなたに話したこともどこで聞いたのか、何で読んだのか、ほんとうのことなのか。どことなく何もかも断片的な感じがするの。自分が経験したことだっていう確信がない。手ごたえが全然ないの。私だけがキルドレじゃないなんてそんな都合のいい話ってないよね。いつから私は飛行機に乗ってる? いつから人を殺しているのかしら? 一体どうしていつどこからこうなってしまったのか。毎晩思うんだ」。
キルドレはただ与えられた日常を生きている。唯一の義務は戦闘機に乗って敵と戦うことだが、何のために自分が戦うのかについてはまったく自覚がない。かつての日本のように天皇陛下や家族のために戦っているわけではないのだ。
『新しい哲学の教科書』(岩内章太郎著、講談社選書メチエ)
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行為の意味が決定的に欠けていて、無意味な悲劇だけが積み重なっていくが、その循環を止めることは誰もが諦めてしまっている。何かを変えたいと思っても、そのために何と戦うべきなのかは分からないのである。
「いつも通る道でも違うところを踏んで歩くことができる。いつも通る道だからって景色は同じじゃない。それだけではいけないのか? それだけのことだからいけないのか?」
カンナミの独言は次のように言い換えることができるだろう。
「高さも広さもない場所で現実的に生きていくことはできる。それだけではいけないのか? それだけの選択肢しかないことがいけないのだろうか?」
これがメランコリストの問いである。
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