昨今は教育が大事だと語る人が多くてかまびすしい。では、教育とは何だろうか? ほめる/叱る 教育とはすなわち褒める(叱る)ことである。誰が何をどう褒める(叱る)かがすなわち教育論である。 それは人間の言語習得過程を考えれば明らかだ。赤ん坊が何か意味のある単語を発した時、親(あるいはそれに類する者)は大喜びして、さらに他の単語を言わせようとする。その喜びに応えるように赤ん坊は言葉を習得していく。しばらくすると、ただの単語を発するだけでは親があまり喜ばなくなる。それを敏感に察した子供は、親の喜びの反応を引き出すべく、意味のある文や上位の概念を習得しようとする。このサイクルが万人に共通する言語習得の過程であり、「教育」の原型だ。 言語習得とは生まれた時にすでに先行して存在していた世界のルールに巻き込まれてゆく過程そのものであり、習得者が顔色を窺っている相手は先行する世界のルールそのものである。 教育も同じだ。 「学ぶ」という語は「まねぶ(真似をする)」から来ている。子供は絶えざる社会的参照の繰り返しによって先行する世界のルールを習得してゆく。始めは親から、次に社会から。自ら「学ぶ」内容や対象(師匠)を選ぶ機会を得るのは一通りの自我を確立した後に出会う奇跡のようなものであって、基本的には先行する世界のルールをその体現者の顔色を窺いつつ内面化してゆく、つまり「巻き込まれてゆく」過程なのである。 公教育 公教育は国民国家の形成とともに生まれた。特に義務教育がなぜ義務なのかといえば、国民国家が国民に言語と世界と世界観を共有することを要請するからである。(だから国語は公教育の基本であり最大の目的である) よく「学校で教わることなんて何の役にたつの?」とか「もっと実用的なことを教えてほしい」などというぼやきも聞くが、これは公教育の目的から言えば心得違いもいいところで、公教育は言語・世界・世界観を共有する「一律の」国民として共有する部分を作るために存在するのであって、国民同士の争いで勝つ方法を教えることを目的としていない。特に企業が研究に金を出すかを判断する際の「何の役に立つのか」という問いはすなわち「カネになるか否か」ということだが、公教育で教えることとは「国民全員に無償で教えることが前提であること」なのだから、カネになどなるはずがない。(知識がカネになるのは知っている者と知らない者が混在する時だけだ) 公教育で教える内容は「次にわが国を担う世代はこんなことを知っていてほしい」という先行世代の願いがこめられたものであり、そこに同胞を出し抜く知恵など混じっていてはならない。 そして教師は伝えるべき先行世界のルールの体現者の役割を担っている。言語習得過程の赤ん坊にとって親が表情ひとつで「学ぶべきもの」と「学ぶべきでないもの」を指し示すのと同じように、教師は学ぶべきものを「教え」採点や指導などを通じて「育てる」。だから教師は聖職であり、偉い。聖人が教師になるのではなく、偉い人が教師になるのではなく、その役割がそう扱うべき役割なのだ。 「今の教育は問題だ」 さて教育、公教育とは上記のようなものである。そして今の教育を問題視する人は多いのだが、その中には様々な立場があるように思われる。中には私の目から見てかなり不純なものもあるように思う。以下挙げていこう。 先行世代の問題点を修正する ある意味真っ当なのが「現在の先行世代の行き詰まりを次世代の子供の教育で解消する」という視点だ。 「畢竟私の人生は失敗だった。しかし、この子だけは……」と考える親は(芥川龍之介によれば)多いそうだが、それの国家バージョンである。 ただ、視点が真っ当だからといって簡単に済む話でもない。 何しろこの視点で語られる教育改革は、先行世代の行き詰まりが前提にある。正しく問題を捉え適切な処方箋を出せるのなら良いのだろうがそれを考えるのが行き詰まってる当の先行世代なのだから、処方箋の正しさなど保証されたものではない(簡単に解決できるならそもそも行き詰まってない)。教育とは先行世代の作った世界に後進世代を巻き込むことである。自分たちの共有する世界「ではない」何かを受け継がせるとしたら相当な無理や嘘が必要になるし、自分たちの世界もそのままというわけにもいくまい。 単純な例を挙げれば「公教育の日本史ではもっと近現代史を教えるべきだ」という声は以前から強いが、そもそも我々は日本の近現代史について後進世代に教えるほど十分に総括ができているだろうか? あるいは「自分の意見が言えるような子を育てるために」やたらと意見を言わせたりディベートを行わせたりする傾向が年々強くなっていくが、そもそも我々の社会はそういういつでも「自分の意見が言える」人間を歓迎しているか? 本当に「自分の意見」を言わせようとしているか? 読書感想文のように、教師が望む『意見』を忖度して言わせようとしているのではないか? 国旗の掲揚と国歌の斉唱を拒否したらクビという脅しに従う教師が生徒に「自分の意見を述べなさい」と宣するなどブラックジョークにしか聞こえないのではないか? 現在の日本の停滞や引きこもりの増加は旧来の日本的自我とグローバル化が求める西洋的自我を同時に要請するダブル・バインドから来ているという研究もある。 ・本当に日本人は流されやすいのか(施 光恒) 文明開化や敗戦など先行世代の社会そのものも激変するケースならともかく、先行世代の抱える問題は後進世代も同じように抱えるのが普通だ。教育とは先行世代の世界に巻き込まれることなのだから。 (「自分の意見を持ちはっきりと発言できる良い子」の役を教師の望むまま演じる健気な子供の姿など想像するだに気の毒だ。またそういう子供が授業以外の場で周囲の子供と協調してゆくことは綱渡りのような注意を必要とするだろう) 子供の不満を解消する 次に、生徒の不満を解消する形で変化を求めるパターン。70年代の校内暴力から「詰め込み教育批判」が生まれ「ゆとり教育」が進められたような例だ。 昔「ドラゴン桜」という受験ファンタジー漫画があったのだが、そこでは底辺校の生徒に勉強の動機づけをさせるため「小学生レベルの問題をやらせ」「できたら大げさに褒める」というメソッドを使っていた。漫画だから作中ではそれで効果があったことにされるのだが、もちろん根本的に間違った対応である。上記の言語習得過程で言えばそれは五歳児が「ママ」と発言しただけで大げさに喜んで見せるようなものであり、発達段階にふさわしい反応を与えなければ褒められる側とて馬鹿にされたような気になるだろう。外形上大げさに褒めて見せても非言語的メッセージで「こんなのは小学生のやることだ」という本心が伝わってしまえばダブル・バインドも招きかねない。また「褒める」のも良し悪しで、アメリカの研究で「賢さ」を褒めた生徒は評価を落とすまいと難しい問題に挑戦する意欲を失い、「努力」を褒めた生徒はより積極的に難しい問題に挑戦したという。 ・より速く適切に学べる人、その理由:ほめ方の研究 つまり「頭いい」と褒めてしまうと生徒はその評価に居着いてしまう危険があるということだが、小学生レベルの問題が解ける段階に居着かれてはたまらない。かといって、小学生レベルの問題を解いて「努力」を褒められては明らかに馬鹿にされている気になるだろう。 まあ要するに完全に間違った対応なのだが、問題はなぜこんなトンチンカンな「処方箋」が発想されるかということだ。 それは「公教育をサービス業とみなし、生徒を顧客と位置づける」という視点が広まったからである。 日本の大衆消費社会化が進むに連れ、商売でない分野にも商売の視点が入るようになった。たとえば病院で患者を「患者さま」と呼ぶような。生徒を学校の「顧客」と見なすのもその流れである。生徒が「顧客」なら生徒が求めるサービスを提供しなくては「顧客満足度」が上がらない。「勉強ができないために自己肯定感を持てず、承認要求を持っている生徒」を単に「満足度の低い顧客」を見なすからこそ、「勉強ができなくても褒める」(ドラゴン桜のファンタジー処方や「個性を尊重する教育」など)という安直な方向へ話が進むのであろう。 だがそもそも生徒を「顧客」と見なすのが間違いなのだ。特に「お客様は神様です」という日本の通俗的な顧客概念の中では。神は人からものを学んだりしない(不満を感じたら祟るだけ)。教師に権威を持たせるのはそれが学びの場を効率よく回すための先人の知恵であり、その否定は何より生徒の学びにとってデメリットになるのである。 (ちなみに医者も同じで、患者から信頼されない医者のパフォーマンスはウィッチ・ドクターより低いと思う) 公教育を破壊する グローバリズムは国民国家を破壊するものである。公教育はその国民国家を構成する国民を作り出す装置なのだから、当然にグローバリズムの攻撃の対象になる。 教師の統制、過労、非正規化などは教師の社会的参照の資格を失わしめる。抑圧され疲れきっていて一人前の給料を貰っていない半人前の大人に認めてもらおうとして学びの回路を働かせる生徒は少なかろう。成果主義の導入は不正採点や不祥事の隠蔽を呼び込み、過度の経済化は生徒を階層化させ、一律の国民を作り上げる公教育の要請に応えられなくなる。また上に書いた生徒を顧客と見なす弊害も公教育の目的を破壊するものだ。 純粋に日本の教育を憂える人の中には、国民国家を解体したいというグローバリストの思惑に知らずに乗せられている人も多くいるのだろう。 たとえば、上に書いたが、国語とは公教育で同一のものを共有する国民を作る最大の目的である。ところが最近の文科省は英語の早期教育とか大学の講義や英語の授業の全英語化など、あらぬ方向へと公教育を誘導している。 ・英語化は愚民化 ・なぜ、文科省は自発的「植民地化」に邁進するのか! 明らかな公教育の破壊、そして母国語を二等言語として扱い日本を植民地化する暴挙なのだが、反対する声が少なく見えるのは、「本来なら金を払って英会話教室に通わせなければならないところを、公教育が代替してくれる」といういじましい消費者根性が背後にあるせいではないのか。
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