urlは貼れない。「広告」だそうだから。 「星」 人間は太古の昔から座標と方角を得るために星を見てきた。だから我々には、世界を語る座標や方角を必要とした時、目印となるものを「星」になぞらえて理解する癖が抜きがたく存在する。 もちろん「座標」「方角」といっても三次元空間のそれのことではなく、政治で言えば政治的スペクトルのようなもののことだ。政治の世界の全体像を語ろうとする際に軸を(多くは)二つ設けて平面を作り、政治的グループに座標を与えてマッピングしたものを政治的スペクトルと呼ぶが、それをまるで星図のように不動の・実在の・実態を表したものとして捉えてしまう傾向があるということだ。 軸と座標 そもそも軸を設けて平面を作るといっても、その軸が現存する政治勢力の違いを測るのにふさわしいものでなければその分布図に意味などない。軸の意味するところが政治状況にとって無用のものであったり無意味な分類であったりしても同じである。そしてその無意味さは、本当の争点を覆い隠すために意図的に作られている場合もある。 ・対立軸・偽軸 何度も同趣旨のことを書いてきたが、現在の政治状況は全世界的に「多国籍企業優先主義vs自国民優先主義」(グローバリズムvs反グローバリズム)という軸に収斂するしかない。だが日本の政治スペクトルでこの対立軸を設けたものはない。それは日本の政治的立場のすべてが「グローバリズム推進という平面」上に置かれていることを示している。そんな平面上でTPPや移民を巡って本気の与野党の攻防が行われるなど夢物語だろう。そもそも不正選挙で「粛清」されているのはこの平面上から外れた政治家ではないかとも思われる。 ・「小沢一郎」という軸 ・粛清手段としての不正選挙 星図が平面になるのは奥行きを無視するからだ。オリオン座のベルトは真横(三ツ星)に並んでいるように見えるが、実際は真ん中の星だけ他の二つに比べ倍以上地球から離れているそうだ。だが星図にそれは現れない。 「グローバリズムvs反グローバリズム」という喫緊の対立軸を捨象したスペクトルでも、同じような錯覚が起きているのではないか。 極と方角 地球の方角を決めているのは地の動きである。太陽の昇る方角が東で沈むのが西。回転する天の中心が(北半球では)北で逆が南。これらはすべて地球の自転が決めている。 北極星は天の中心にある。だが天の中心を決めているのは地の動きであって、北極星がそこにあるのはたまたまだ。だからもし北極星が何かの事情で大きく動いてしまったとしたら、北極星の位置と関係なく「真北」を示す極が存在することになる。そもそも極からずれた星を「北極星」と呼ぶこと自体に語弊があるだろう。星に合わせて地の動きが変わったりはしない。ただの目印だ。 だからそういう場合に「北極星のある位置が依然として真北だ」とか「北極星に合わせて地が動きを変えるべきだ」とか「もう真北には無いが北極星は北極星だ」とか「北極星が無くなったので北も無くなった」などと主張するのは倒錯である。 実際には星がそうそう(地球から見た位置が)動いたりすることはないから上記はありえない仮定だが、不動の星を基準に自然世界に座標を設けるのと違い、人間が作った言葉や概念を基準に社会や思想をマッピングすると「刻舟求剣」の故事のようなことがよく起きる。人間社会の在り方など時代や環境によって目まぐるしく変化するし、言葉の中身も徐々に変遷したり形骸化したりするが、言葉自体が消えることは少なく、その変遷も自覚されにくいからだ。 つい2年ほども前、安倍は「右」で「保守」、安倍を批判する者は「サヨク」で「売国奴」と言われていた状況があった。(いまだに安倍をナショナリストとか言う阿呆もいる。)「右」「左」という極が意味のある目印として実在し、安倍がその一方の中心に鎮座ましましてるものとして平気で語られていたわけだ。私からすれば今時「右派」「左派」などと言われても「勤皇派」「佐幕派」くらいの無意味な言葉にしか聞こえないし、安倍が何らかの政治的立場を体現しているとしたら「奴隷的売国」くらいしか思いつかないのだが、当時はそれがリアルなものとして語られていた(2017年の衆院選の後にわざわざジェラルド・カーティスが念押しに来ていた気がする)。フランス革命直後の政治状況を語るために作った目印が二百年以上後の極東の政治状況に当てはめられると無批判に考えるのは人間社会のあり方を地の動きと同じように一定と見なすようなものだし、安倍が「右」という極の目印だと言われたら安倍批判をすべて「サヨク」呼ばわりするのは人という移ろいやすい存在を北極星のような不動のものと見なすようなものだ。刻舟求剣どころの騒ぎではなかろう。 万物流転。諸行無常。有為転変。そんな言葉を知っていながら、我々は与えられた政治的スペクトルを不変のものとして見なしてしまいがちだ。暦のずれは天文学者の怠慢だが、政治スペクトルのずれは政治学者の怠慢だ。政治学者の怠慢ははなはだしいものがある。 トランプ現象 私は現在の政治状況は全世界的に「グローバリズムvs反グローバリズム」の軸に収斂するしかないと思っている。そして反グローバリズムの極にいるのは、少なくともアメリカにおいては、トランプである。 もちろん就任後のトランプの行動にはがっかりすることも多いが、その幻滅を表現しようと思えば「トランプの行動が十分にトランプ的でなかったから」と表現するほかない。2016年の大統領選でトランプが掲げた公約はすでにアメリカにおける反グローバリズムを体現しており、当選してそれは極になった。この間セクハラだのレイシズムだのロシアゲートだの旧勢力によるトランプ攻撃は熾烈だったが、これらはすべて「搦め手」からの攻撃である。それはトランプの掲げた極に真っ向から戦っても勝てないことを彼らが承知しているからに他ならない。だから支持者が離れない。 ・「擬似民主主義」 私はトランプを英雄であると書いた。英雄とは民衆の、地霊の声に応える者のことだ。英雄を英雄たらしめているものは英雄が極にいるからで、極を決めるのは地の動き、つまり民衆である。当選後のトランプがふらふらと動いても民衆の定める「トランプ」という極は動かない。トランプから支持者を奪えるのはトランプよりも「トランプ的」な候補が現れた時だけだろう。ゆえにトランプは極なのである。 (もちろん「刻舟求剣」的な誤謬が起きないよう気をつけなければならないが。もう起きているかも知れないが) 天皇・小沢・鳩山 もちろん反グローバリズムの旗手はトランプだけではない。エリツィンに売られたロシアを再独立させたプーチンはその魁と言っていいし、イタリアの五つ星運動やマリーヌ・ルペンなど、グローバリストの執拗な嫌がらせに負けず戦う指導者は世界にいる。 問題は、日本でそのような指導者が生まれうるかだ。 反グローバリズムをローカリズムと呼ぶ人もいる。日本という地域で長く人間の序列の極として存在してきたのは天皇家だ。(何しろ北極星にたとえるくらいだ)。また「国民の生活が第一」という真っ向からグローバリズムに対抗するスローガンを掲げ政権を取りグローバリストの総攻撃に潰された小沢と鳩山も、まだ命脈を保っている。 毀誉褒貶の絶えない三者だが、彼らが日本のローカリズムのまだ見えぬ「極」の近くにいるのは間違いないと思う。 というか、日本のローカリズムを彼ら抜きに打ち立てようとするのは、現段階ではちょっと想像がつかない。 日本の現在の政治状況は悲惨極まりないが、曙光が差すことがあるとしても、それがローカリズムに向かうとは限らない。お隣の韓国の「キャンドル革命」なるイベントでパククネの首が飛びムンジェインという「まともな」大統領が現れたことになっているが、私の目には米韓FTAと財閥解体で売るものがなくなった韓国がグローバリストの忠実な僕として安定を与えられているように見える。「狡兎死して走狗烹らる」というが、パククネという走狗が煮られたからといってウサギが戻ってくるわけでもない。あの「キャンドル革命」なるイベントの最中でもTHAADの配備が進んでいたことを忘れてはなるまい。 大アルカナで「星」は希望を表すという。破滅・災害・自己破壊を示す「塔」の次のカードである。311や安倍の売国というグローバリストに作られた災厄の次に現れる「希望」が、またぞろグローバリストによる作り物であってはかなわないと思う。 「リベラル」の罪 現在の政治言論状況を作り出したのは自らを「リベラル」と規定する集団である。「リベラル」に対置する語が多すぎるからだ。 ・「リベラル」を整理する 観測地点が「リベラル」だからこそ「リベラルの対極」が多く存在する。彼らが敵と見なしたもの、プロレスの相手と見なしたものに名前をつけていった過程で生まれたのが数多くある偽軸の類だ。現在のニセモノの政治的スペクトルは言わば「リベラル」を地球に位置付けた天球儀だ。 だから現在の政治言論状況の悲惨さについて最も責を負う者は、自らを「リベラル」と位置付ける政治的言論人である。「保守」を詐称する売国集団が悪いのは言うまでもないが、連中が「保守」でないという認識が広まるのに時間がかかったのは、「リベラル」側が自分たちと通底する部分を前景化させなかったということでもある。
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