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2018年12月13日 「ジャーナリスト同盟」通信
<世界平和研究所30年のまやかし>
12月12日に世界平和研究所の30周年の式典が、都内のホテルで開かれたという報道に、やや懐かしくなって昔のことを思い出した。中曽根康弘100歳、強運の人である。悪運の強い人が正しい評価かもしれない。読売・ナベツネを配下にすることで、それを可能にした。マスコミ利用の最初の首相だった。まねた安倍晋三も、会場に訪れて、改憲の支援を呼びかけたらしいが、本人はいない。風邪気味で欠席、肺炎を心配しているのであろう。研究所の名前は立派だが、やってきたことは、平和を破壊する改憲軍拡推進に徹してきた。昭和の妖怪・岸信介に対して、平成の妖怪と命名したのは筆者である。共に戦前の国家主義者だ。
<改憲軍拡・原発推進と平和は大矛盾>
この世界に冠たる日本国憲法のどこが悪いのか、権力のない、支配される多数国民にとって、最高にすばらしい憲法である。政府による圧政と戦争を禁じ、封じ込めた文句なしの憲法である。
憲法順守義務を実直に果たしている皇室に対して、これを破壊しようという安倍・自公と、国家神道を引きずる日本会議に、財閥以外の国民は支持しない。
戦後の悪しき国家主義政治は、岸を経由して中曽根、そして現在の安倍である。改憲軍拡と原発の推進派でもあり、国民が最も警戒しなければならない戦前派政治勢力であろう。
言及するまでもなく、アジアの波乱要因は、戦前を引きずる国家主義勢力といっていい。
<研究所の資金調達は竹下―金丸>
1988年に中曽根70歳の時に立ち上げた研究所の資金集めを引き受けたのが、竹下登と金丸信である。
松野頼三は「なぜ中曽根が、竹下を後継者にしたのか。それは平和研の資金提供を約束したからだよ」と二人だけのひそひそ話の時に打ち明けてくれた。恐らくそうであろう。
ロッキード事件児玉ルート21億円がまとわりついた中曽根は、主治医の活躍で児玉を封じ込めることに成功、極め付きの危機を乗り切った。
<ポスト大平で天下を取れなかった中曽根に秘伝>
中曽根の野望が実現するまでは、そう簡単な道のりではなかった。児玉の靴磨きまでしたし、田中角栄秘書で、筆者が所属していた東京タイムズ元政治記者の早坂茂三先輩を料亭に招いて、土下座して支援を要請したものだ。
ダブル選挙の途上で、大平首相が急逝した時、筆者は中曽根遊説に同行、確か富山県の天皇が泊ったことのある由緒ある温泉宿にいた。せっかくの機会なので、一人湯につかっていると、中曽根もそこにいたが、湯煙のお蔭で外見しか分からなかったのであいさつしなかった。
翌未明、記者団の部屋の扉を思い切りこじ開けて、中曽根が飛び込んできた。「いま宇野君が電話してきた。大平さんが亡くなった」という驚きの表情と、同時に彼の薄いバラバラの頭髪が顔を隠した異様な表情を、今も思い出すことが出来る。
政権は、大平参謀の鈴木善幸に決まった。中曽根は、一番やりたくなかった行政管理庁長官に収まった。傷心の彼は、記者団を日の出山荘に招待して酒を酌み交わした。この時、座敷に用意した座布団を「これは大作さんにもらったものだよ」と紹介した。信濃町の大将も気配り上手なんだな、と感じ入ったものである。
季節は初夏にはいっていたころか。天空には満月が輝いていた。縁台で数人の番記者と中曽根が座って、月を眺めながら雑談した。この時、彼に秘伝を教えてしまった。よかったのかどうか?
「中曽根さんが、なぜ政権をとれなかったのか。自分は、財界に顔のきく岩動道行さん(吉田茂御三家・林譲治の娘婿で、吉田首相秘書官を歴任)に様子を探ってもらった。結果は、中曽根は何をするか、危ない人物ということだった。要するに、中曽根さんあなたは、財界の信用が全く不足している」
「ところで、いまの財界は、土光さん(東芝出身)をはじめとして行政改革に熱心だ。中曽根さんの苦手な財界との関係強化を図れるポストが、いまの行官庁長官ではありませんか」
こうして中曽根と経団連の土光との関係が密になり、晴れて鈴木後継を手にすることが出来たものだろう。中曽根のもとで、土光臨調が注目を集めたことは言うまでもない。
中曽根が政権を担当するまで、彼に対して評価は低くなかったのだが、ワシントンを訪問してレーガンを前にして「日本列島不沈空母」と発言、その後に国会等で改憲発言をしたことから、彼への認識を変えた。国家主義の本領発揮を無視することが出来ずに、当然のことながら批判を加えるようになった。ついには「平成の妖怪」「大勲位 中曽根康弘」(健友館)を書いて、反撃ののろしを上げた。彼らは、筆者の糧道を断ち切ってきた。
二松学舎大学の教授職も断念するしかなかった。恩師・宇都宮徳馬は、岸に徹底して抵抗して生涯を終えた。筆者は中曽根に抗して、それを宇都宮の墓前に捧げた。ジャーナリストの責任である。
<金丸時代に小沢一郎浮上>
田中角栄は、中曽根の裏切りを阻止するため、側近の後藤田正晴を官房長官に送り込んだ。その代わり、危うい金丸を幹事長起用を呑んだ。この金丸体制の下で、小沢一郎が台頭する。金丸の不正は、番犬にやくざのハマコーを使っていたことである。
護憲派の後藤田は「わしの目の黒いうちは、絶対に改憲はさせない」と公約し、それを貫いた。共同通信の三喜田先輩も、同じような言葉を年賀状に書いてきた。
安倍・自公が強行する場面では、普段、家に閉じこもっている識者が街頭に飛び出してくるだろう。
<竹下を指名した中曽根は、宮澤と安倍晋太郎を排除>
中曽根は、後継者に竹下を指名した。護憲の宮澤は、最初から中曽根指名はなかった。安倍晋太郎と竹下の勝負だったが、世界平和研究所の資金集めを約束した竹下が、後継者となった。
最近になって、中曽根の筆者への色紙が見つかった。「暮れてなお 命の限り 蝉しぐれ」である。これも記念品である。訪中時の機内での記念写真は、今もあばら家の居間に飾ってある。ちなみに、玄関には小泉純一郎結婚式の引き出物の安っぽい電子時計が、今も動いている。
竹下は気配り名人だ。月一回の官邸での在京政治部長会との懇談では、よく彼の横に座った。すると、彼の両手の手のひらが見えるのだが、そこがかなり赤かった。造り酒屋の主人は、かなり酒好きで体力を壊していたのだ。彼は韓国、ついで中国に人脈を築いていった。
後継者の小渕恵三が天下人を目指すという相談を受けた時、即座に「中国に行きなさい」と諭した。彼はすぐに実行、人民大会堂で副主席の胡錦濤と会見した。この時、胡錦濤が「読んでほしい」といった本が、拙著の「中国の大警告」(データハウス)だった。筆者も驚いてしまった。
竹下はリクルート事件で失脚すると、後継者に中曽根側近の宇野宗佑を指名したが、渡辺美智雄に女性問題をぶつけられて、あえなく退陣、そのあとに海部俊樹を指名した。彼は護憲平和の三木武夫の側近で、演説が抜群にうまかった。竹下と料亭宴会の場で隣り合わせた。筆者の質問に「海部君は中央大学辞達学会だから、早稲田とはちがう。それで彼を指名した」と真相を打ち明けた。辞達学会はいま存在するのだろうか。
話を振り出しに戻すと、30年の世界平和研究所も幕引きの時だろう。カネを出す人間はいなくなる。倅の弘文にその力はない。護憲の研究所にして、親類の前川喜平に委ねれば、存続できるかもしれない。
平成の妖怪も、平成の時代も、まもなく幕を閉じる。
2018年12月13日記(東京タイムズ元政治部長・政治評論家・日本記者クラブ会員)
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