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天皇への否定的な感情はどこから生まれてくるのか。(谷間の百合)
http://www.asyura2.com/18/senkyo251/msg/858.html
投稿者 赤かぶ 日時 2018 年 10 月 08 日 22:50:05: igsppGRN/E9PQ kNSCqYLU
 

天皇への否定的な感情はどこから生まれてくるのか。
https://taninoyuri.exblog.jp/29783971/
2018-10-08 10:32 谷間の百合


わたしがブログを書きたいと思った動機の大きな部分に、天皇へのネガティブな言論にたいして、それは違いますと言いたいという「やむにやまれぬ」思いがありました。

きのういただいたコメントにそれに触れられた個所があり、反論ではなく、自分の日ごろの思いを書きたくなりました。

昭和天皇が原爆投下について、「やむを得なかった」と言っているのはわたしも聞きました。

では天皇はどう言えばよかったのでしょう。

もっと感情を込めて言えば良かったのでしょうか。

しかし、天皇にはそれができません。

そんな器用なことはできないのです。

わたしは、人の口から出た言葉より、媒体を通じて表現された言葉を信じます。

この件でいつも脳裏に浮かんでくるのが、いつかどこかで読んだ三島由紀夫の次の言葉です。

「ヒロシマ。ナチのユダヤ人虐殺。紛れもなくそれは史上、二大虐殺行為である。だが、日本人は「過ちは二度とくりかえしません」といった。原爆に対する日本人の民族的憤激を正当に表現した文学は、終戦の詔勅の「5内為ニ裂ク」という一節以外に、私は知らない。」(5内=ごだい=五臓六腑)

ヒロシマ、ナガサキの悲劇はさまざまに語られてきましたが、どれ一つとして天皇のこの6文字に適う言葉はなかったように思います。

口に出しては言えなかったもろもろの感情(アメリカや軍部に対する)もここには込められているのを感じます。

やはり、天皇一人が民族的憤激を代表していたということです。





明治天皇すり替え説はわたしには噴飯、荒唐無稽としか言いようがありません。

親が冗談に、お前は橋の下から拾ってきた子だと言うような類の話だと思っています。

幕末から明治にかけて歴史がいったんリセットされ人間もすべて入れ替ったとでも考えない限りあり得ない話です。

明治天皇は14歳で即位するまでに、多くの人と面識があったはずです。

幕末の志士、明治の元勲、公家などなど、かれらはみんなグルだったのですか。

口裏を合わせていたのですか。

西郷隆盛もグルだったのですか。

まして、人の口に戸はたてられないのに、どうして秘密が守られたのでしょう。

西郷隆盛は天皇の教育係として山岡鉄舟を招きましたが、二人は何も気がつかなかったとでも?

西郷隆盛が明治天皇を厳しく叱ったり、鉄舟が相撲で天皇を投げ飛ばしたりしたのは、相手が平民の大室寅之助だったからだとバカなことを言う人までいますが、いまの、中高生くらいの年ごろの天皇に対して、二人が本気になって愛情を注いだということがどうしてわからないのでしょう!

そもそも、すり替え説なるものはいつごろどこから出てきた話しなのでしょう。

ちょっと考えれば疑問が噴出してくるはずなのに、そのチョットを考えない人の多いことがかなしい。






 

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コメント
1. 2018年10月08日 23:19:44 : 1hFwhl5XF6 : A44FqszPm3Y[843] 報告
昭和天皇も周りの皇族たちも軍服を着ていたのだから、敗戦の責任をとる必要があったのに誰一人責任を取らなかった。

実際の事実は残酷なものだ。

2. 中川隆[-13389] koaQ7Jey 2018年10月08日 23:48:11 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-19081] 報告
>昭和天皇が原爆投下について、「やむを得なかった」と言っているのはわたしも聞きました。では天皇はどう言えばよかったのでしょう。


天皇家の敵は日本の一般民だ、革命を起こされると困るから やっつけてやったんだ


と言えばよかったんだよ

昭和天皇の原爆観__昭和天皇を襲った恐怖とは

アメリカの国立公文書館で発見された「米国陸軍軍事情報部真理作戦課『日本プラン』」

「日本プラン」は1941(昭和16)年12月、すなわち日本軍の真珠湾攻撃の直後に作成が開始されたもので、「天皇を平和の象徴(シンボル)として利用する」戦略が明記されていた。すべての戦争責任を、「軍部」に押しつけて天皇を免罪し、「象徴天皇制」のもとで日本を占領支配するという計画を立てていた。

1942(昭和17)年5月には「皇室に対するすべての攻撃は避けられなければならない」とする「英米共同指針計画」を出し、皇居への爆撃の禁止命令を厳格に実施させた。戦後駐日大使となったライシャワーはその当時、「日米戦争勝利後の“ヒロヒトを中心とした傀儡(かいらい)政権”」を提言し、「天皇は100万の軍隊駐留に匹敵する」と主張していた。

三井、三菱、住友、安田の4大財閥は、太平洋戦争中の4年間に重工業においては全国投資額に占める割合を18・0%から32・4%にふやし、金融では25・2%から49・7%へと急膨張を遂げており、「三菱は戦争のたびに大きくなった」と三菱電機社長はのべている。

 こうして1945(昭和20)年までの15年戦争で、日本の人民大衆は320万人以上が殺され、日本の都市の大部分は焼け野原となり、親兄弟、息子を殺され、家屋敷、家財道具を空襲で焼き払われて失い、塗炭の苦しみを味わった。だがこの戦争で、三井、三菱などひとにぎりの独占資本はボロもうけし、天皇を頭とする支配階級はアメリカによりすがり、アメリカの日本占領支配の下請機関となって生きのびた。そして戦後61年たった今、世界でもまれにみるアメリカの従属国家となっている。
http://www.h5.dion.ne.jp/~chosyu/320mannninngakorosaretadainizisekaitaisenn.htm

昭和天皇の誤算は,中国の正規軍がいくら弱くても,中国人ゲリラには勝てそうもないという事だった. 今のイラクやアフガニスタンの米軍と全く同じですね.

そのまま行ったらソ連が参戦してきて日本は占領されてしまう. そして,昭和天皇が中国で行った組織的財宝略奪と それをカモフラージュする為にやらせた(?)大虐殺の黒幕だったことが明らかになってしまう.

昭和天皇は戦犯として処刑され,天皇制は廃止,昭和天皇の悪逆非道な行為は世界中で永遠に語り継がれる事になる.

そこで昭和天皇が考えた(?)起死回生の名案とは:

対日戦争というのは、野蛮な日本の侵略をこらしめ、平和と民主主義のための参戦だったと欺瞞する。しかし、日露戦争後に、日本との戦争は必至と分析し、ハワイ攻撃を待って徹底的にたたきつぶし、無条件降伏させるという計画を持っていた。ライシャワーなどは、「戦争責任はすべて軍部にかぶせて、天皇を傀儡(かいらい)として利用する」といっていた。日本にかわって中国アジアを侵略するためであり、日本を占領支配するための戦争だった。そして、日本の人民が抵抗できないように、戦地では餓死、病死に追いこみ、内地では原爆投下、全国の都市空襲、沖縄戦でさんざんに殺しまくった。

あれだけ鬼畜米英でやっていながら、その後の占領は、今から見てもスムーズすぎる。アメリカは日本を侵略・占領するための戦争をやっていたのだ。日本の全土を焼き払って攻撃して、民間非戦斗員をぶち殺している。一般国民は自然の感情として、国を守らなければと思う。特攻兵士の心情などが端的だ。

アメリカや天皇は、それが次にはアメリカの占領とそれに従っていく自分らに反対して向かっていくのが怖いわけだ。「本土決戦」を叫んでいるが、真実がばれたらその矛先が自分に向く関係だ。だから、国民には竹槍を与えるが、鉄砲で武装させるということはなかった。「鬼畜米英」のインチキはそのへんにある。

あれほどスムーズにやれたのは、天皇がやったことと、そのために本土空襲や飢餓作戦で地獄の状況を作り、国民をへとへとに疲れさせたことによる。それをアメリカが計画的に作り出したし、日本の支配階級も望んだ。国内は戦意喪失で、軍隊は独断で解散していく。集団でも離隊していく。占領軍への抵抗なども起こりようがない。かなりの男は外地に行ってしまっていない。武装解除をさせて、しかも権力の空白ができないように、そこは米軍が来て占領する。そのうえマッカーサーは民間の銃剣をすべてとりあげる徹底した「刀狩り」までやった。

マッカーサーが無条件降伏から二週間後に上陸できたのは、安心しきっていたのだ。ずっと以前から日本の対応がわかっていて、武装解除の進行具合を把握していた。占領された敗戦国でこれほど組織的な抵抗がなかったところは世界的にもまれだ。

「戦後の方が食糧がなかった」というのが実態だが、占領軍が食糧を持ち去ってないような状況にして、「食糧援助」と称して恩義を売る。飢餓作戦をやっていた。

占領期の検閲問題なども暴露されていない。きれいにマインドコントロールされるようになっている。マッカーサーは45(昭和20)年9月15日、「プレスコード」(新聞紙法)を発したが、アメリカ占領軍の「検閲」の名による言論統制を四五年秋から非公然に開始した。検閲要員は1万人近くいた。その対象は、新聞・雑誌、放送・演劇脚本・映画、紙芝居・幻灯などのすべてにわたり、国民の手紙や葉書などの郵便物、電話の盗聴までやっていた。

そういうことについても、一切知らせてはならないと、徹底した検閲をやった。日本のメディアは、自分らで自主検閲するようにするし、朝日新聞なんかは自主検閲要領というのをプレスコードの線に沿ってつくっていた。それはいまでも続いているしもっとひどくなっている。一方で、GHQは新聞やラジオなどを直接にも利用して、宣伝していった。第2次大戦についてのアメリカ軍を美化する心理作戦でも、商業新聞に直接GHQが原稿を書いていたり、NHKの「真相はこうだ」という特集などもそうだ。

米軍について悪くいうことを徹底して封じた。だから原爆の実態や空襲実態についても徹底し隠した。沖縄戦なども典型的で、日本軍がみんな殺したようなイメージをつくり出す。マニラとか長沙などへのアメリカ軍の爆撃もみんな隠蔽していた。安岡の戦争体験者が長沙へのアメリカの空襲を近年朝日新聞に投稿したら、ボツにされたといっていた。

戦後のアメリカの検閲のやり方を見ても、報道内容をチェックするばかりではなく、郵便物や電話まで開封、盗聴する。しかも検閲してないような格好をしてやる。戦前の検閲は、伏せ字で検閲したことが分かる形だったが、アメリカの方はまだ陰険だ。内容は、原爆を公表してはならない、戦争の悲惨さを公表してはならない、反米的なものは許さないというものだった
http://www.h5.dion.ne.jp/~chosyu/aratanabaikokutosennsounosyuppatutenn.htm


真珠湾攻撃をやるまえに海軍自身が「石油は2年しかもたない」といっていたが、天皇も軍部も最初から負けるとわかっていてアメリカとの戦争に突っ走った.

天皇が一番怖かったのは日本のなかでの革命だった。満州事変のまえの2・26事件にしても、日本は農村恐慌で農民一揆も2000件もあり、社会不安が起こる危険性が高かった. ソ連や中国に負けるわけにはいかなかった、どうしてもアメリカに負けなければならなかった

そうした背景があって青年将校が事件を起こした。事件そのものは鎮圧したが、天皇や上のものは、共産革命が日本でも起こることを念頭においていただろうし、それをもっとも恐れただろう。

太平洋戦争でアメリカに負けたというが、そのまえに中国でさんざんにやられている。それが日本の敗戦を決定的にしたのだ。

 日本軍は中国人や朝鮮人を「チャイナ」とか「ヨボ」とかいってべっ視しきっていた。創氏改名をさせ、名前も宗教も認めない、日本に労働力として強制連行したり、兵隊にとっていた。中国に負けて撤退となると、「勝った、勝った」という大本営発表がうそだったということになり、国内で大混乱になる。それこそ革命が起こり、天皇の首が危なくなる。だから、「中国からの全面撤退」は絶対に認められなかった。それよりも天皇制を維持するために、負けるとわかりきったアメリカとの戦争に突入した。
http://www.h5.dion.ne.jp/~chosyu/utunomiyamutuo.htm


負けると分かった戦争に突き進み、いくら負けてもやめることはせず、原爆投下になって無条件降伏をした。45年2月、吉田茂などが関わり近衛文麿の天皇への上奏文がある。それは、米英は国体を守ってくれること、もっとも恐るべきことは敗戦にともなって起こる人民の革命だというものであった。

天皇とその側近がもっとも心配していたのは、国体が護持されるかどうか、自分たちの地位が守れるかどうかだけであった。だまされて死ににいかされた兵隊たちが返ってきたら、反乱を起こし、自分たちの支配の地位が剥奪されるという不安であった。
日米戦争に突き進むとき、すでに中国で打ち負かされており、戦死者は20万人近くになっていた。

ここで支配勢力が心配したことは、中国撤退となると、天皇の権威が崩壊することであり、反乱・革命が起きることであった。そして日米戦争に突き進んだ。

天皇を頭とする政治家、財閥などは、原爆投下を絶好のチャンスとして、アメリカに降伏し、命乞いをした。そして戦争に駆り立て犠牲を強いた人人には何の償いもせず、民族的な利益のすべてを売り飛ばすことでその支配の地位を守ってもらう道を選んだ。
http://www.h5.dion.ne.jp/~chosyu/beikoukanngagenbakutoukaseitoukawohatugen%20nihonsukuuzihibukaikouito.htm


日本は海外に巨大な権益を持つ帝国主義国であるがアメリカの屈辱的な植民地的隷属下にあるという特質を持っている。

 このような日本社会のさんざんな崩壊状況は第二次大戦に根源がある。
アメリカの対日参戦は、アジアをファシズム国の侵略から解放するためでも、社会主義ソ連とともに日独伊ファシズムとたたかって民主主義の世界を実現するためでもなかった。

アメリカは中国市場を奪う野望とともに、日本をたたきつぶし単独で占領するという明確な計画を持って臨んだものであった。

 そして天皇をはじめとする独占資本集団、政治家や官僚、大新聞など、戦争を指導してきた支配層は、人人には「鬼畜米英」「一億総玉砕」などとあおり立てながら、実際には「国体の変革」すなわち人民の革命を恐れ、米英に救いを求めていった。

自らすすんでアメリカによる日本支配を担うこと、日本の民族的な利益のすべてを売り飛ばすことによって、自分たちの支配の地位を守ってもらう道を進んだ。

現在むき出しにあらわれた日本社会の植民地的隷属状態は、日本の政財官界から新聞界などあらゆる支配勢力が、アメリカの利益のために自ら進んで日本の民族的利益を根こそぎ売り飛ばしてきたことによって進行した。

かつて旧満州を統治するのに六〇万余の軍隊を必要とした。

かつてマッカーサーは「天皇は一〇〇万の軍隊に匹敵する」といったが、
四万人ほどの米軍で日本を隷属支配しているのは、アメリカの意向をくんで自分から進んで働いて地位を得るという売国的な支配勢力の存在があるからである。
http://www.h5.dion.ne.jp/~chosyu/anpokaiei50nensengo65nenwotyokusi.html


アメリカの完全なる属国に 戦後の日本社会

 A 第二次大戦後の日本社会の基本構図をみなが実感している。

日本は帝国主義国であるがアメリカの完全なる属国だ。高度に資本主義が発達した植民地。
先進資本主義国が植民地になっているのは歴史上も例がない。
日本の独占資本やその代理人たる政治家であれ、官僚であれ、
日本の支配機構を使って植民地支配してきた。この支配階級の売国性がすごい。
アメリカに身も心も売り飛ばして、日本の民族的利益を根こそぎ売り飛ばした。
ブッシュは「日本支配がイラク占領のモデルだ」と公然と主張したが、そういうことだ。

 日中戦争で満州を支配するのに、関東軍は60万人配置されていた。
ピーク時には100万人だった。外国を占領しようと思ったらそれほどの人員を要した。

日本国内に駐留している米軍は4万〜5万人。それなのにどうして支配できるのかというと、日本の支配機構を使っているからだ。
大新聞も戦争を煽り上げた反省もなく、戦後は廃刊にもならず、
そのまま何もなかったかのように発行しはじめた。同じ敗戦国のドイツは新聞はみな廃刊になった。

日本は廃刊になったところは一社もなく、そのまま機能しはじめた。
天皇制もしかり。財閥もそう。


D ドイツの場合は独立性を持っている。日本はまるきり隷属。この違いは何か。
ドイツは連合支配だった。日本は単独占領だ。そのための原爆投下だった。
ドイツはアメリカもいるがソ連もいるし、フランスやイギリスなど欧州の国国もいるなかで共同管理になった。一国がなにもかも隷属させることはできなかった。
日本はアメリカの思う通りに戦後の大改革がやられた。
http://www.h5.dion.ne.jp/~chosyu/hinnkonntodokusaitosensounometubousurukunini.html

第二次世界大戦は、まぁ知っている人は知っているのですが、

海軍の上層部、山本五十六、米内光正、井上成美さんがコロッと洗脳されてしまって、日本敗戦への先導役を務めたというのは、まぁ知ってる人は知ってることなのですた。
ぇええ?

山本五十六ってあの真珠湾攻撃の時の日本連合艦隊、山本司令長官?
日本連合艦隊司令長官が奴らの手先?

何を言っているのだ、このバカキチガイ狸はと思う人も多いとは思うのですが、山本さんは最初からシナリオ通りに動いていただけのですた。

3百万以上と言われるにも多くの日本国民が戦死した太平洋戦争。
多くの日本人が無念のうちに死んでいった先の大戦は奴らが最初からシナリオを作り、そのシナリオ通りに動いた日本人たちによって引き起こされた。
信じたくなくても事実なのだからしょうがありません。

必ず戦争にはシナリオがある。

お互いにシナリオを決めて、さてこの線で始めますかなどとやっているのです。
ご多分にもれず、山本五十六さんたちは、日本を敗戦に導くようにわざと戦略上の失敗を繰り返します。

ミッドウェー海戦大敗北に至るまでの、数々のわざとらしい失策、別に戦史に詳しくなくても一般の人でも不自然に思うことでしょう。
あの戦争は、結局のところわざと負けたのですた。
http://goldentamatama.blog84.fc2.com/blog-entry-275.html


海軍の作戦を宮中の大本営で指導したのが、昭和天皇だった。

天皇は大本営を宮中に置き、参謀部の連中と連日会議を開き、ナポレオンと同様の波状攻撃を仕掛けた。

佐藤氏は太平洋の作戦全般を大本営の服部卓四郎や瀬島龍三ら下僚参謀が勝手に指揮したと書いているが、知ってか知らずか、さすがに本当は昭和天皇が指導したとは書いていない。

東京裁判で収監された東条英機は尋問に答えて、

「我々(日本人)は、陛下のご意志に逆らうことはありえない」と言った。
これは当時としては真実である。

しかし東条のこの発言が宮中に伝えられると天皇は焦ったと言われる。

責任が全部自分に来てしまい、自分が絞首刑にされる。
そして戦争指導の責任を全部、東条ら軍人(それも陸軍ばかり)に押し付けた。
大東亜戦争で米英と戦った主力は帝国海軍である。陸軍の主任務地は支那およびビルマやインドであって、太平洋を主任務地としたのは海軍であったから、あの太平洋での拙劣きわまる作戦で惨敗につぐ惨敗を喫し、国家を惨めな敗北に導いた直接の責任は、海軍にあった。

ところが、戦後は「海軍善玉論」がマスコミや出版界を席巻し、あの戦争は全部陸軍が悪かったという風潮が醸成された。多くの作家(阿川弘之ら)がそのお先棒を担いだ。
だから後年、阿川弘之が(あの程度の作家なのに)文化勲章を授賞したのは、海軍と天皇の戦争責任を隠してくれた論功行賞であったとしても不思議はない。
http://blog.goo.ne.jp/hienkouhou/e/bd61d9d5c3085df3fddc6adf68c4c7d2


最終通牒を遅らせた大使館員は戦後大出世

真珠湾攻撃には幾つかの不可解な事が起こっている。一つは宣戦布告の通知が遅れた事、そしてもう一つは攻撃の不徹底さである。通知が遅れた件に関しては此れは最初からそう仕組まれたものであったと云う他は無い。

 日本から発せられた最後通牒は時間的にも充分間に合う物であった。東郷外相の訓令は対米宣戦布告の最後通牒の手交をワシントン時間、12月7日、午後1時に行うものであっス。ところが野村、栗栖大使が実際に其れをハル国務長官に手交したのは午後2時であり、其の時真珠湾は既に猛火と黒煙に包まれていた。最後通牒の手交が何故遅れたかに就いては尤もらしい説明が付けられている。

 対米最後通牒の電報は14通から成り、其の内の13通は米国の12月6日中に日本大使館に到着し、既に電信課に依って暗号解読され、其の日の内に書記官に提出されていた。残り、即ち最後の14通目は翌7日早朝(ワシントン時間)に大使館に到着、同時に最後通牒の覚書を7日午後1時に手交すべく訓令した電報も大使館には届いていた。

 其の時の大使館員の様子は次の如くであったとされる

◆14通の電報は2種類の暗号を重ねた2重暗号であり、最初の13通は
 12月6日午後1時から入電を開始、粗同時に専門の電信官に依って暗
 号解読が始まった。午後8時半あ事務総括の井口貞夫参事官が解読作業
 中の若手外交官達を誘って行き付けの中華料理店”チャイニーズ・ラン
 ターン”の一室で夕食会を開く。此れは寺崎英成1等書記官の中南米転
 任送別会を兼ねていた。

◆7日、早朝13通分の電文タイプを開始、寺崎一等書記官は妻グエンと娘のマリコ、及び妻の母と共に郊外に車旅行、連絡も付かない状況であった。

◆7日の朝、大使館の電信課宿泊員で若い熱心な基督教徒である藤山楢一
 は14通目の電報ともう一通の「最後通牒」の手交時間訓令の電報を入
 手したが、其の日は日曜日であった為、教会の礼拝に出掛け、電信課の
 責任者であり前夜宿直していた奥村勝蔵首席一等書記官及び松平康東一
 等書記官に対し連絡を怠った。

 14通目の電報が7日の何時から暗号解読され始めたかの公式記録は無い。だが前日に受信した13通の電報が既に解読されており、事の重大性に大使館全員が気付かぬ筈は無い。重大であればこそ大使館員全員が待機して14通目の到来を待ち、其れ以前の13通分に就いても事前にタイプを済ませて何時でもハル国務長官に提出出来る様にして置くのが当然であったろう。だが実際にタイプが始まったのは7日午前7時半あからであり、14通目の暗号解読が終ったと推定される午前10時あ迄は奥村一等書記官に依るのんびりした調子(ペース)であった。

 ところが午前11時過ぎに最後通牒の手交時間が午後1時である事が解り、大使館は騒然と成った。だが日本の外務省から秘密保持の為タイピストを使わぬ様指示されていた日本大使館では慣れない奥村がタイプを打ち続け、終了したのが真珠湾攻撃開始後の1時25分、ハル長官に野村、栗栖大使が手交しスのは1時55分であった。

 此の外務省、日本大使館の動きは全く理解に苦しむのである。

 先ず外務省であるが、僅か残り数行に過ぎない14通目と最後通牒文である第901号電を何故態々其れ迄の13通より遥かに遅れて発信したのか。更に此の重要な時期に何故寺崎一等書記官を転任させる処置を取ったのか。又何故秘密保持と称して専門のタイピストを使用禁止にしたのか等である。

 大使館側にも深い疑惑は残る。大使館員十数人全員が丸で事の重大性を弁えぬ無神経、且つ怠慢な動きを取っている事である。此れは一体何を物語るものであろうか。答は二つ、外務省の大使館員は天下一の無能集団であるか、差もなくば確信犯であったと云う事である。真相は恐らく後者であろう。

戦後ポルトガル駐在公使だった森島守人が帰国するなり吉田茂外相に此の最後通牒手交遅延の責任を明らかにする様進言したが、吉田は結局此の件をうやむやに葬り去ってしまった。吉田茂こそ日本を敗北に導いた元凶の一人であった。当時の日本大使館員達は戦後何れも「功労者」として外務次官や駐米、国連大使となり栄進した。

 日米開戦の最後通牒が遅れ真珠湾攻撃が”卑怯な欺し討ち”になった事で米国人の世論は開戦派が以前の3%から90%に跳ね上がっている。日本の外務省と大使館の責任はまことに大きいと言わざるを得ない。
http://www.asyura2.com/2002/dispute3/msg/413.html
http://www.asyura2.com/08/wara4/msg/253.html


日本帝国海軍の中枢は欧米派であった。このため、日本海軍はあらゆる太平洋上の戦闘で不可思議な動きをする。それは、敵に手ごころを加え、まるで、負けることを目的としたかの如き戦いぶりであった。また、日本陸軍についても同様のことが言えた。大本営参謀本部の高級参謀たちはつねに無謀極まる作戦計画を立てては日本軍に多大な損害を与え、多くの将兵を失う結果を招来した。

国家としてあろうことか、日本はこのような売国的戦争指導者たちによって太平洋戦争を戦わなければならなかったのである。欧州では昭和14年第二次世界大戦が勃発していたが、欧州で苦戦を続ける英仏を救済しアメリカを参戦させることはフランクリン・D・ルーズベルトの基本戦略であった。ルーズベルトはチャーチルと共謀し、日本を追い込み、先に攻撃を仕掛けさせてアメリカの世論を激高させ、対独伊戦、対日戦を正統化しようと目論んだ。

山本五十六はルーズベルトとチャーチルに協力してハワイ真珠湾攻撃の構想をねった。真珠湾に集結していた戦艦はいずれも1910年〜1920年代に就役した旧式艦で攻撃しやすいように並べて停泊してあった。また真珠湾は海底が浅く、海底に沈座しても引き上げが容易で短期間で修理可能であった。真珠湾攻撃は一種の茶番劇であった。
宣戦布告の通知の遅れたのも仕組まれたものであった。大使館員全員無神経怠慢な動きをとっていることは、無能な集団でない限り確信犯である。戦後、その責任については吉田茂にうやむやにされてしまったが、当時の大使館員達は「功労者」としてその後栄進している。

また、真珠湾の陸上軍事施設対する攻撃不徹底も、アメリカ空母が真珠湾にいなかった日を真珠湾攻撃の日としたことも山本長官の策謀である。ミッドウェーで山本長官がなぜ空母のみを突入させ、自らは戦艦とともに安全圏にいたかは謎であったが、山本長官はルーズベルトやチャーチルとの約束により、ミッドウェーで日本の空母を壊滅させ次のガダルカナル、ソロモン海戦で日本軍敗北の総仕上げを行い、自らはブーゲンビル上空で自殺する。(山本五十六も辛かったんだね)
http://watch-fr-br.iza.ne.jp/blog/entry/926847/

真珠湾攻撃の計画はもともと「世界支配層」およびアメリカ、それに山本長官の深慮遠謀から生まれた計画であった。

  山本五十六は、連合艦隊司令長官にあるずっと以前、恐らくは海軍次官の頃からアメリカ側と連絡をとり、もし日米が開戦になった時は先ず真珠湾を奇襲し、アメリカの対独戦を合理化させると同時に、日本へのアメリカ国民の参戦気分を一気に高揚させるという計画を練り上げたに違いない。

 アメリカ側でこの計画を推進したのはもちろんフランクリン・D・ルーズヴェルト大統領であった。そしてこの計画にはヘンリー・スチムソン陸軍長官、フランク・ノックス海軍長官、ジョージ・マーシャル陸軍参謀総長、ハロルド・スターク海軍作戦部長、そしてコーデル・ハル国務長官が加わっていた。

 日本側でこの計画を知っていたのは、山本五十六以外にはほんのひと握りの人間であろう。それはもと首相や海軍大臣、そして外務省の高官たちなど最高度の機密を保てる者に限られていた。

  昭和15年(1940年)ルーズヴェルト大統領は米海軍首脳の反対を押し切って、それまで西海岸カリフォルニア州のサンディエゴ軍港にあった太平洋艦隊を年次演習の目的でハワイの真珠湾に進出させた。第2次大戦が勃発し、山本五十六が連合艦隊司令長官として対米戦を計画している最中であった。ルーズヴェルトは山本長官と共謀して、日本側に格好の攻撃目標を提供したのである。
http://www.asyura2.com/08/reki01/msg/105.html
http://www.daitouryu.com/iyashi/shinizama/shinizama29.html


東京裁判では絞首刑になったのは陸軍の軍人ばかりで、海軍で有罪になったのは3人だけだ。さらには米内光政は起訴さえされず不可解だ。単に米英派だったというだけで起訴を免れることが出来るのだろうか? 永野修身も米軍病院で謎の死を遂げているがルーズベルトとの密約をばらされない為の謀殺ではないかという疑いもある。

日本海軍をこのようにみれば大戦中の不可解な作戦もわざと負けるための意図があったと見れば納得がいく。ミッドウェイ海戦も戦力から言えば互角以上の戦力であり負けるはずのない戦闘で負けた。日本側の秘密情報が筒抜けであり、ミッドウェイ作戦も全く意味のない作戦であり、ミッドウェイを占領しても補給がつかない。

日米戦争を指導した海軍の上層部は、すべて英米派であった.

敗戦をとおして、日本は、アメリカの属国のような国になった。戦時中、英米派として憲兵隊に捕らえられ、戦後、首相になった吉田茂は、それを勝利とよび、憲法改正や国防に、いっさい、関心をしめさなかった。

強国の庇護の下にはいることが、長期的には、日本のためになるのだという敗戦革命の思想が、ニューマ(空気)として、国際派や海軍に浸透していたのであれば、海戦前夜から真珠湾攻撃、南太平洋における壊滅的敗北までの、日本海軍の不可解なうごきに、一応の説明がつくのである。

真珠湾攻撃を計画させたのも、ルーズベルトー永野修身のラインがさせた可能性が強い。ルーズベルトと永野修身とはハーバード大学で二つ違いの同窓生だった。山本五十六もハーバードの同窓生でありこの三人が共謀すれば真珠湾攻撃は成功間違いなしだ。
海軍の最高幹部が無責任極まりない発言を繰り返した背景には、永野や米内などはアメリカと共謀して「敗戦革命」を企んでいた可能性すら伺えるのだ。もちろん海軍だけではなく、外務省の吉田茂や白洲次郎や尾崎秀美など近衛のブレーンとなっているメンバーは「敗戦革命」を企んでいたのかもしれない。

確かに日本は大陸にずるずると深みに嵌って抜け出せなくなり、陸軍は陸軍で身動きが出来ない状況になり中国からの撤兵の目処が立たなくなってしまった。内閣はクルクルと総理大臣が変わり、5,15事件や2、26事件などで政府が軍部を統制することも出来なくなってしまっていた。しかし当時の軍人に当時の世界情勢が分かるわけではなく、海外からの謀略に引っ掛けられて戦争に突き進んでしまった。

このような情勢になれば「敗戦革命」を企むグループが出来てもおかしくないのであり、海軍の中にも米内、永野、山本、井上などのグループが敗戦を承知でルーズベルトと共謀した可能性がある。あるいは知らずに操られたのかもしれない。それほど真珠湾攻撃はアメリカにとっては都合が良かった作戦なのだ。

日本海軍をこのようにみれば大戦中の不可解な作戦もわざと負けるための意図があったと見れば納得がいく。ミッドウェイ海戦も戦力から言えば互角以上の戦力であり負けるはずのない戦闘で負けた。日本側の秘密情報が筒抜けであり、ミッドウェイ作戦も全く意味のない作戦であり、ミッドウェイを占領しても補給がつかない。

「日本は勝てる戦争になぜ負けたのか」という本に書いてある通りに、海軍の戦略や作戦には不可解な事が多く、このような疑問は最近になって指摘されるようになった。アメリカとの開戦は避けてインド洋に進む戦略をとれば、ドイツとの連携で勝てる見込みもあったと考える。開戦理由が石油の確保というのならばインドネシアはもとより中東の油田地帯の占領も考えるべきだったが、そのような作戦は全く検討されなかった。

山本五十六を海軍航空本部長から海軍次官に抜擢したのが永野海軍大臣で、山本海軍次官を連合艦隊司令長官に送りこんだのは、当時、海軍大臣だった米内である。

軍人である艦隊司令長官に、日米開戦の責任をおしつけるのは、筋違いである。真珠湾攻撃は、責任者が永野で、実行者が山本、陰であやつったのが、米内だった。戦後、GHQの協力者となった米内光政を、平和主義者として立てる論調が、とくに、親米保守派や文壇の大御所周辺でつよくなったため、そのことを、だれもいわなくなっただけの話である。

支那戦線拡大論者でもあった米内が、根回しして、対米主戦論者の永野が号令をかけたからこそ、対米非戦論者だった山本が、「ーこうなったら」と、掌を返したように真珠湾攻撃へつきすすんでいったのである。

ハーバード大学留学組で、長年の駐米武官を経験して、アメリカに友人や知已が多かった永野が、なぜ、やみくもに、アメリカと戦争をしたがったのであろうか。
戦後、だれも、真珠湾攻撃の不自然さを口にしない。真珠湾を攻撃しなければ、日本は、日米戦争に勝てた、ということも。それが、永野の怪死によって封じられた、日米戦争最大のタブーだったからである

当時、海軍内には、対米非戦派を中心に、山本五十六を海軍大臣に立てて、日米たたかわずの姿勢をはっきりとうちだすべき、という空気がつよかった。このとき、米内が、とつぜん「陸軍や右翼に狙われているので、海上勤務にする」と、山本を連合艦隊司令長官に任命、旗艦長門に送りこみ、真珠湾攻撃のプランを練らせる。

ルーズベルトも、二つ年下の永野が留学していたハーバード大学の卒業で、二人のあいだに、同窓会パーティなどで、接触がなかったと思うほうがふしぜんだろう。
日本にとって、百害あって一利もなく、アメリカにとって、参戦の切り札になる真珠湾攻撃について、永野とルーズベルトのあいだに、密約があったとすれば、戦後、アメリカが、永野を生かしておくだろうか。

戦後、GHQから、「なぜ、自決しなかったのか」と問われて、「陸軍の真似(阿南の切腹)と思われるのが不本意だったから」とのべた永野が、戦犯で収監中、巣鴨プリズンで風邪を引き、治療のために収容された米陸軍病院で、急死した。

当時、だれも謀殺の疑いをもたず、たとえ、もったとしても、口にはだせなかったろう。東京裁判で、ルーズベルトとのあいだに密約があったと、永野が証言したら、ルーズベルトが、真珠湾攻撃をあらかじめ知っていたどころの騒ぎではない。東京裁判で、日本側の被告は全員無罪になり、アメリカの原爆投下、都市空襲の非人道性が、あらためて、問われることになったはずである。
http://www.asyura2.com/07/bd50/msg/405.html


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6. 原爆投下まで

@第二次世界大戦は国際金融資本が金儲けのために仕組んだ。
原爆の開発目途はついていたので、それを使用することが目的のひとつであった。

Aその決定で、日英同盟が破棄され、アメリカでオレンジ計画がスタートする。

B日本の最高幹部と海軍は筋書きどうりに戦争を始めた。 陸軍はほとんど関知していない。
昭和天皇は命令どおりに動かされただけだ。

C昭和天皇とジョセフ・グルーは、終戦時期について討議したが、原爆を二発落とすまで終戦はさせてもらえなかった。
戦争が長引いたのは、原爆の開発が思った以上に遅れたからだ。

D広島は昭和天皇が決めた。だから、自分の嫌いな者達を広島に集合させ、見殺しにした。

E長崎はクリスチャンの教会が多いことで選ばれ、三菱のドックを目標とした。海軍は三菱にいたアメリカ人の捕虜を事前に救出していた。

F日本の情報機関は原爆の開発、投下時期、投下目標をすべて承知していた。もちろん昭和天皇も承知だ。
http://mayo.blogzine.jp/blog/2008/02/post_b7ff.html


ルーズベルトやトルーマンは単なる飾り物で、原爆を落とす命令はすべてスティムソンによってなされた。その情報は国務大臣、グルーによって日本の吉田、牧野、樺山、白州のヨハンセングループを通じ貞明皇后に伝わっていた。
http://mayo.blogzine.jp/blog/2008/07/post_3bbd.html


原爆を投下される迄 日本が頑張った理由

第二次世界大戦中、昭和天皇は、敵国の戦争省最高幹部であるドレイパーから兵器を大量に輸入し、日本軍に高額で売り付け、利益をスイス銀行に蓄財していた。

 天皇とドレイパーは、兵器密売の共同事業者として、兵器販売促進のため日米戦争を行っていた。

 戦後、来日したドレイパーが最初に行った事は、天皇への兵器密売の「売掛金=未払い代金の回収」であった(この点は、天皇の側近であった渡辺武の「渡辺武日記 対占領軍交渉秘録」東洋経済新報社を参照)。

 戦争末期、ドレイパーは、天皇が無条件降伏を申し出ると同時に、「戦争犯罪人として自分を処刑しないで欲しい」と命乞いをした事に対し、天皇の命の保証と戦後における天皇制度の維持を確約し、それと引き換えに、日本に原爆を投下し終えるまで無条件降伏を承認しない、という条件を出した。

天皇は広島・長崎への原爆投下を事前に承認し、それと引き換えに、自分の命と地位の延命を手に入れた。天皇は、自分1人が助かり、それと引き換えに、広島、長崎の市民の皆殺しを喜んで承諾した。

 これが、「同業者、兵器密売企業の共同経営者」天皇とドレイパーの密約である。
http://alternativereport1.seesaa.net/


アメリカのロックフェラー、モルガンという巨大な財閥が戦前の世界金融を支配していた。 

ロックフェラーとメロン両財閥は共同作戦をとり、ウラン爆弾の開発に乗り出した。すると少し遅れて、モルガン財閥もデュポンという巨大な化学トラストと組んで、プルトニウム爆弾の製造に着手した。ここに、新しくてしかも巨大な軍需産業が出現したのである。

ウラン爆弾は、ウラン238からウラン235を抽出し、このウラン235を使い原爆を製造する。プルトニウム爆弾は、ウラン238から原子炉を用いてプルトニウム(引用注:に変換後)を抽出し、これを使って原爆を製造する。

ウラン爆弾の製造は一九四五年の春には完成していた。しかし、プルトニウム爆弾の製造は遅れた。しかも、核実験しなければ実用の可能性があやぶまれた。一九四五年七月十六日、プルトニウム爆弾の実験がようやく成功する。時あたかも、トルーマン大統領とチャーチル首相(英国)、スターリン首相(ソ連)がポツダム会談をしていたときであった。

この実験が遅れたために、プルトニウム爆弾の完成が遅れたために、日本の降伏も遅れたと私は書いた。それは、核兵器カルテルのために日本の敗戦が遅れたことを意味するのだと私は結論した。

この原爆製造と投下の総指揮をとったのは、陸軍長官ヘンリー・ステイムソンである。彼はモルガン財閥の一員でもある。 アメリカのみのためではなく、モルガンのために、国際金融寡頭勢力のために、要するに核兵器カルテルのために、スティムソン陸軍長官は原爆投下の総指揮をとったのである。

そのために、スティムソンは日本の「あるルート」を通して昭和天皇との秘密交渉を続けた。原爆を完成し、これを広島と長崎に落とすまで、天皇に敗北宣言をさせなかったのである。

無条件降伏とは、原爆を落とすために考え出されたアメリカの謀略であった。何も知らない日本人は完全にスティムソンと天皇に騙されたのである:

「あるルート」 = ヘンリー・ステイムソン → ジョセフ・グルー
→ ヨハンセングループ( 吉田茂, 牧野伸顕, 樺山愛輔, 白洲次郎,岡田啓介, 米内光政) → 貞明皇太后 → 昭和天皇


第二次大戦末期、米国そしてロスアラモス研究所は、日本が米国に降伏の準備を行っているのを知りながら広島・長崎に原爆を投下した。 

ロスアラモスの目的は、原爆兵器の効果を広島・長崎で「人体実験」する事にあった。

米国は日本に対し戦争で勝つ事は十分に知った上で、人体実験のために広島・長崎に原爆を投下した。 何故ならロスアラモスもFEMAも、新型兵器の効果とそれが「どの位抵抗心を失わせ支配を容易にするか」の実験、研究を元々専門にした機関、つまり「心理戦争局」だったからだ。
http://satehate.exblog.jp/9318506/


プリンシプルのない男・白洲次郎の物語

前項の中で、私はグルーのもう一つの顔について触れた。その中でグルー[外部リンク]が太平洋戦争前から駐日大使を勤めた約十年間に、吉田茂、樺山愛輔らの間に、尋常ならざる交流を結んでいたことを書いた。この二人のルートで、グルーは御前会議の内容など日本の当時の最高機密を受け取り、アメリカ国務省や陸軍省に打電していた。この間の事情はグルーの著書『滞日十年』に書かれている。

このグループは"ヨハンセン・グループ"といわれていたこともすでに書いた。

ここでは一人の男を中心に、プリンシプルのない男たちの物語について書こうと思う。日本が、アメリカの原爆情報を受げ取り、原爆投下の日本での準備工作に入っていたことを知るためである。  

白洲次郎という男がいた。その男の書いた随筆や座談記録などが一冊にまとめられて、世に出た。その本の題名は『プリンシプルのない日本』(二〇〇六年)という。

白洲次郎の経歴が載っている。

一九〇二(明治三五年)、兵庫県芦屋の実業家の次男として生まれる。神戸一中卒業後、イギリス・ケンブリッジ大学に留学。帰国後は英字新聞記者を経て商社に勤務するが、一九四三(昭和一八)年、日本の敗戦を見越して鶴川村(現・東京都町田市)で百姓となる。四五年、吉田茂に請われて終戦連絡事務局参与となり、日本国憲法成立などに関与。その後、貿易庁長官に就任、通商産業省を誕生させる。以後、東北電力会長などを務め、一九八五年逝去。妻は白洲正子。

ケンブリッジ大学時代のことを妻・白洲正子は『遊亀』(一九八九年)の中の「わが師わが友白洲次郎」で、「次郎の趣味は、自動車と、大工と、ゴルフであった。ロビンと暮らした大学時代には、その頃は金持ちだったから、ベントレーのほかに、ビュザッティというレーシング・カーを持ち、自動車競争にしじゅう参加していた。そういうカー・キチのことを、英語では『オイリー・ボーイ』と呼んだが、彼は死ぬまでオイリー・ボーイであった」と書いている。

ここには重大なことがらが欠落している。白洲はケンブリッジ時代に突然貧乏になっている。父の経営する白洲商店が倒産したからだ。彼はウォーバーグ財閥の援助で大学生活を送り、その間、陸軍と三菱が闇貿易のためにつくった昭和通商の一社員として生活していたのであった。白洲次郎について書かれた本には、英国時代の記述がない。また、吉田茂は駐英大使時代、大使館に白洲を寄宿させている。常識では考えられないことである。白洲次郎はユダヤ財閥ウォーバーグの配下の情報員であり、陸軍と三菱の隠れたエージェントでもあった姿が浮かび上がってくる。

青柳恵介の『風の男白洲次郎』(一九九七年)には次なる記述がある。


当時白洲が最も信頼していた先輩が「吉田というガンバリスト」であった。吉田が昭和十一年にロンドンの大使館に赴任する前から岳父との縁で白洲は「吉田のおじさん」と呼んで親しかったが、「大人の付合い」が始まったのはロンドン時代からだった。セール商会[外部リンク]、日本水産の仕事で英国に渡った際の彼の常宿は日本大使館となった。

『白洲次郎の流儀』(二〇〇四年)の中に「白洲次郎年譜」が記載されている。


一九三七年(昭和一二年)三五歳三月、日本食糧工業(同月、共同漁業に吸収合併され、後に日本水産株式会社)の取締役(後に取締役外地部部長)に就任。鯨油の輸出に携わり、以後毎年、イギリスに赴く」とある。

前掲の『風の男白洲次郎』は白洲の伝記と銘打ってはいるが、日本水産株式会社時代の記述がほとんどない。白洲は鯨油の販売を担当したのは間違いのない事実である。しかし、この時代も、太平洋戦争が始まる直前の白洲は並みの行動をしてはいない。

白洲次郎は米英のための、具体的に書くならば、スティムソン、グルー、ウォーバーグたちのためのエージェントの仕事をし続けていたのである。原爆産業のエージェントであったといえよう。

柴田哲孝の『下山事件最後の証言』(二〇〇七年)に次なる記述がある。

「でも工藤さんは本当にいい人でした。確か昭和二〇年の春でした。灯火管制の時に、夜、工藤さんが突然すうっ……と来たんです。そして、玄関に出ていくと、ぼそぼそっと言った。私は本所(墨田区)に住んでいたんですが、あと二〜三日したらここは空襲になるから、荷物をできるだけ持って逃げろと。それで私は○○の方へ逃げたんです。本所が三月の九日か一〇日だと言ってました。そうしたら、本当にその日に東京大空襲があったんです……」

これも不思議な話だ。なぜ工藤孝次郎は東京大空襲[外部リンク]の日時を知っていたのか。
もし亜細亜産業が軍部から情報を得ていたとすれば、国は東京大空襲を知っていながら市民を見殺しにしたことになる。もしくは亜細亜産業は、戦時中から米軍と何らかの繋がりがあったのか……。

柴田哲孝はこの本の中で「亜細亜産業」について詳述している。下山事件との関係について書いている。戦前、この会社は闇貿易をしていた。前述した陸軍と財閥の癒着のなかから誕生した昭和通商と結びつきアヘン貿易に従事していた。この会社に白洲は出入りしていた。柴田哲孝の祖父が、この会社の重役であった。柴田は「我が家には白洲次郎と思われる人物が祖父や矢板玄(亜細亜産業社長)などといっしょに写った写真が残っている」と書いている。

この本や白洲次郎に関する有馬頼寧の日記を見てもわかるように、白洲次郎は、米英の諜報機関と深く繋がっていたと判断して間違いない。柴田は「もしくは亜細亜産業は、戦時中から米軍と何らかの繋がりがあったのか」との疑間を投げかけている。私は「大いにあった」と答える。次章以下で陸軍参謀本部と原爆の関係を追求するなかで、その証明をすることにしよう。

徳本栄一郎『英国機密ファイルの昭和天皇』(二〇〇七年)には次なる記述がある。

一九八五年、彼〔白洲次郎〕は生涯を閉じたが、英国流ダンディズムと気骨あるライフスタイルは、白洲ブームとも言うべき現象を起こしている。だがこの白洲次郎には、あまり知られていない、もう一つの顔がある。それは太平洋戦争直前、皇室や吉田茂の意を受け、英国政府との和平工作に奔走した"密使"であり、戦後は日本進出を狙う英国企業の"エージェント"としての顔だ。

徳本栄一郎の『英国機密ファイルの昭和天皇』には、「エピローグ 皇居を見据えるユニオン・ジャック」として、白洲次郎とウォーバーグ財閥について書かれている。

クリストファーによると、晩年の白洲は、S・G・ウォーバーグから肩書きも受け取っていなかった。しかも一九八二年、創業者のシグムンド・ウォーバーグ卿が亡くなった後も、彼はクリストファーの後見人役を続けた。
「ウォーバーグ卿と次郎の関係は、個人的な友情に基づいていました。そのウォーバーグ卿から頼まれた以上、それに応えるのは自然の事だったのでしょう。また次郎も、われわれの進出は日本のためになると信じていました」

「国際金融寡頭勢力」という言葉を私は使ってきた。この中心にいたのが、ロスチャイルドとウォーバーグのユダヤ財閥である。一度彼らのエージェントになった者は、死ぬまで、その任務を解かれることはない。

引用文中のクリストファーとあるのはクリストファー・パービスで、英国系投資銀行SGウォーバーグの幹部で東京支店長を勤めた男である。創業者のシグムンド・ウォーバーグは、ドイツのハンブルクに本拠を持つウォーバーグ家からイギリスに派遣され、SGウォーバーグをつくり、ロスチャイルドとともに、ヒトラーを育てたのである。そのウォーバーグ家の一族がアメリカに渡り、ロスチャイルドの血族シフ家と結ばれる。ロスチャイルドとウォーバーグ家は一枚の系図の中に入る。

FRB(連邦準備制度理事会)をつくりあげたのはポール・ウォーバーグ。その息子のジェームス・ウォーバーグはOSSの中に入り日本向けの情報担当官となる。

白洲次郎はウォーバーグのエージェントとなり、国務次官グルーからの情報を、ヨハンセン・グループに流していく。

白洲次郎の岳父が樺山愛輔。彼は昭和天皇の母貞明皇太后と深く結ばれている。貞明皇太后の周囲には、ヨハンセン・グループがたむろしていた。彼らのほとんどは、貞明皇太后と同じくクエーカー教徒であり、ヨハンセン・グループとの間には、同じクリスチャンという共通項が厳然と存在していた。そのルートで貞明皇太后は樺山愛輔から、アメリカとイギリスのニュースを入手していた。 徳本栄一郎が「それは太平洋戦争直前、皇室や吉田の意を受け……」とあるのはなんとも甘い表現である。 「白洲次郎はシグムンド・ウォーバーグの忠告を忠実に厳守し、国際金融寡頭勢力のために生涯を捧げた」と書き直すべきである。

父親からの仕送りがなくなり、貧乏のどん底に落とされた留学生白洲は、シグムンド・ウォーバーグの援助にすがって生きた。そこに、永遠のエージェントとならざるをえない状況が生じたのである。

白洲は日本水産から帝国水産と異動して何をしたのか。調査室室長であった。彼は帝国水産という会社を利用し、イギリスとアメリカの諜報機関のために日本の機密を流し、また同時に、日本へ、特に皇室、ヨハンセン・グループ、軍閥、三菱……に情報を伝えていたのである。

私は前著『日本のいちばん醜い日[外部リンク]』でヨハンセン・グループについて詳述した。

その中で、外務省編『終戦史録(5)』の中に掲載されている「大井篤手記−−天皇制と太平洋戦争」を紹介した。もう一度ここに紹介し、この項を終わりとする。この中に、皇太后と天皇が原爆投下について知っていたことが書かれている。私は「目標検討委員会初回会議覚書」(一九四五年四月二十七日)については詳述した。その中で、東京湾が原爆投下の目標地に入っていたことを書いた。この情報が白洲次郎のルートで日本に流されていたことは間違いのない事実である。

彼等は、天皇は間違っていると考えました。彼等には驚くべきまでに、機微な情報がその真実性は私には判りませんが−−入手されていました。彼等の見るところでは、天皇は弱虫だから終戦をいそがれているのである。原子爆弾が怖いのだ。その弱虫をさらに皇太后が焚きつけている。皇太后は御所内に堅固な防空壕を作ってくれと軍に催促されるが、資材不足でそれが出来ずにいる。そこへ原子爆弾の話が、尾ひれをはやして皇太后の耳に入ってくる。ジットしておられなくなって天皇に訴える。彼等はこの情報を信じておりましたし、又陸軍では一般に原子爆弾はそう恐しいものでないと信じられておりました。

後述するが、原爆の情報は、皇室、軍部、ヨハンセン・グループに流れ続けていたのである。しかし、原爆は広島と長崎に落とされた。その真因を追求し続けねばならない。
http://mblog.excite.co.jp/user/satehate/entry/detail/?id=9332877


昭和天皇に入れ知恵した(?)ジョセフ・グルーの正体

アメリカのジョセフ・グルーは1941年日米開戦までの駐日大使であったが、在任中10年間の間に牧野伸顕、吉田茂、樺山愛輔らと深く関わって、牧野らから御前会議の内容や日本政府の極秘事項をスパイさせていた。白洲次郎もその一味である。

 ジョセフ・グルーは、外交史ではよく平和主義者で、戦争末期には天皇制を認めて早期に終戦を図るべき努力したとなっているが、大ウソである。

  グルーはアメリカのモルガン財閥の血族の一人である。つまりモルガン財閥が対日工作のために送り込んだエージェントであった。戦争に反対した平和主義者とは、アメリカの走狗となり果てていた当時の(今も)マスゴミによって宣伝された顔なのである。グルーはトルーマン大統領に代わってから実質的な国務長官として、原爆投下に向けてスティムソン陸軍長官と共同歩調をとったえげつない人物である。
 
 原爆は国際金融資本グループが第二次世界大戦後の世界で、核兵器で大儲けをする計画でなされた実験であった。 それが長崎に投下されたプルトニウム爆弾であった。広島に投下されたウラン型の原子爆弾はとうに完成していたが、プルトニウムでの原爆は完成に時間がかかった。だからプルトニウム爆弾が完成するまで日本が降伏しないように指示をだしたのはグルーであり、それを日本側の吉田茂、牧野伸顕、樺山愛輔ら(おそらく海軍の米内光政も)に伝える役割を担ったのが白洲次郎であった。

 憲兵隊もそれを掴んでいて、吉田茂とその反戦グループの意味で彼らを「ヨハンセン・グループ」と呼んだ。ヨハンセン・グループは、アメリカのユダヤ国際金融勢力の意を受けたグルーの指示で日本の降伏を引き延ばしていた。

 白洲次郎はスティムソン陸軍長官(原爆の責任者)とヨハンセンに操られた“プリンシプルのない男である。

 白洲次郎の父・文平は綿貿易商「白洲商店」を興して巨万の富を築いた人物である。明治時代にハーヴァード大学を卒業しているから、このときすでにユダヤ財閥と関係を持った(工作員となった)はずである。 次郎はケンブリッジ大に留学する。学者を目指したとされるがウソだろう。神戸でチンピラやっていて、英国に行っても高級車を乗り回すしか能がない男が学問だなんて笑わせるんじゃない。工作員として教育されるためにケンブリッジ大学に呼ばれたと見るべきであろう。

 そのうち親元の「白洲商店」が昭和2年の金融恐慌で倒産して帰国せざるを得なくなる。一方で樺山愛輔も金融恐慌のあおりで理事をしていた十五銀行が閉鎖に追い込まれる。そのせいで米国に留学していた娘の正子も帰国させられ、そこで次郎と正子が出会ったことにされて、結婚に至るのだ。

 次郎はいきなり日本水産の取締に就任する。これも誰かの手が働いたのだろう。鯨油の輸出に携わり、以後毎年、イギリスに赴く。ロンドンでは駐英大使・吉田茂と親交を深め、日本大使館の2階が定宿となる。いくら知り合いだからといっても、吉田が白洲を日本大使館に住まわせてやるとは…。

 白洲次郎は日水時代に、近衞文麿の政策ブレーンも務め始める。ゾルゲ事件のあの尾崎秀実とともに、だ。いったい実業家とは名ばかりで、政治の勉強をしたわけでもなく、政治家を目指したわけでもない遊び人の男が、どうして近衛文麿首相の側近に食い込んでいけたというのか。白洲は情報を収集しては米英の工作機関に渡し、また指示を受けて近衛首相を操作したと思われる。日本を泥沼の支那事変に没入させ、勝算のない日米戦争に引き込まれたのは、直接的には白洲らの工作によるのである。

 ソ連の工作員だった朝日新聞の記者、尾崎秀実はゾルゲ事件に連座して死刑になったが、おそらく同じような工作を担当していた米英側の工作員・白洲次郎は生き延びて、さらに戦後GHQの手先まで務めたのである。アメリカ側が戦時中に白洲に手を出すなと日本の官憲に厳命した可能性はある。それは白洲も尾崎も同じ手先であったが、戦後は冷戦構造を演出しなければならなかったから、日本をアメリカの統治下におくので、ソ連系の尾崎は邪魔になったのだろう。尾崎は日米戦を実現させた意味で、勲一等ではあったが、アメリカ系スパイの白洲と組んでいたことがわかれば、まずいからではなかったか。

 ちなみに朝日新聞は、尾崎秀実を「信念の記者」と今もって褒めている。朝日のコラムニスト早野透がそう言っている。尾崎がスパイとして日本を支那事変の泥沼に陥れる工作に加担し、やがては敗戦直前にソ連軍に侵入させて多くの満州・朝鮮にいた日本人を陵辱させた、その人でなし尾崎を朝日は絶賛する。
 
 白洲次郎は米英のための、具体的に書くならば、スティムソン、グルー、ウォーバーグたちのためのエージェントの仕事をし続けていたのである。原爆産業のエージェントであったといえよう。

  Wikipedia にはこうある。

 1950(昭和25)年、講和問題で池田勇人蔵相・宮澤喜一蔵相秘書官と共に渡米しジョン・フォスター・ダレスと会談、平和条約の準備を開始した。

 1951(昭和26)年9月、サンフランシスコ講和会議に全権団顧問として随行する。この時、首席全権であった吉田首相の受諾演説の原稿に手を入れ英語から毛筆による日本語に書き直し、奄美諸島、琉球諸島(沖縄)並びに小笠原諸島等の施政権返還を内容に入れさせた。昭和27年(1952年)11月19日から昭和29年(1954年)12月9日まで外務省顧問を務めた。

 よく言うわ。講和交渉もサンフランシスコ条約も、本来、政治家でもない白洲ごときが口をだせるものではない。 白州がお目付役となって随行したにすぎまい。

 日本の敗戦時のポツダム宣言受諾「黙殺」と原爆投下はセットになっている。これはポツダム宣言が出た直後に、ときの総理・鈴木寛太郎が「黙殺」という言葉を使い、そのため米英国民世論が激昂し、それを受けてトルーマンが原爆投下を決断したとされる一連の動きに関してである。

 鈴木首相が「黙殺」と言ったから、原爆投下の正義、口実が確保されたということになっている。これは、スティムソン陸軍長官からヨハンセン・グループに「黙殺」という言葉を使えと指示が行き、それを受けて鈴木首相が「黙殺」と言わされたのだ、という。

 その「黙殺」という言葉を当時の同盟通信社が「ignore」と訳して世界に発信した。つまりわざわざ人騒がせな刺激的な言葉を選んで、アメリカに原爆投下の口実を与えるよう工作したのである。
 
 その同盟通信社はヨハンセン・グループの樺山愛輔の父・資輔が設立したものであった。樺山愛輔が天皇の意向を受けて「ignore」と訳して返事とした。そこに樺山の娘婿の白洲次郎が一枚かんでいるかもしれない。

 白洲次郎は日本に原爆を投下させる役割を担った悪魔というべきチンピラでしかない。
http://home-and-human-navi.blog.ocn.ne.jp/genki100/cat5132966/index.html


・ロスチャイルド財閥を中心とする国際金融同盟は、原子力に注目し、これに莫大な資金を投資し、ウラン鉱の買収を大戦中に始めていた。原爆の実験はそのために是非とも必要だった。日本がその標的にされた。スティムソン陸軍長官が(このことを)6月8日直前に天皇宛の文書でヨハンセン・グループのルートで送ったとみられる。P511
・あれだけの大惨事を見て、米内海軍大臣は“天佑”だと叫んだのである。天皇も「終戦の詔書」の中で一回触れたが、それからは一言も非難の声をあげなかった。その時だけが例外ではない。P521

・日本にとって、天皇にとって都合のよいことが原爆投下によってもたらされた。
天皇はこの直後に、アメリカから“天皇制護持”の約束を与えられていることだ。
そして、御前会議を開き、ポッダム宣言受諾を決定する。
間違いなく、原爆投下と交換条件である。

アメリカは、アメリカ国内よりも日本での非難を恐れていたと思う。…国際金融同盟の連中は、「さすが、スティムソン、よくやってくれた!」と快哉をあげたことであろう。「これで日本は、永遠に俺たちの奴隷の国になったぞ」と。P522

・天皇は原爆についての知識、投下の日、その場所を前もって知っていたはずである。ではどうして8月6日なのか。それは、この日までに、スイスの赤十字経由で天皇の貯蓄が無事処理をつけられる見通しがたったからである。

 この広島の原爆で、第二総軍の司令部の数々の建物は壊滅し、多数の死傷者が出たのである。8月6日8時ごろに、多数の第二総軍の参謀や将校が集まっていた。そこに原爆が落ちたというわけである。この日、間違いなく、第二総軍の全員は、8時ごろに集まって会議か、あるいは演習の準備に入っていた。ほとんどの第二総軍の人々は死に、あるいは傷ついていたのである。

ひとり、畑元帥のみが、この総司令部に行っていないのである。P524-528
http://www.asyura2.com/07/dispute27/msg/230.html

 「原爆の秘密 [国外篇] 殺人兵器と狂気の錬金術」 鬼塚英明著 成甲書房 を読みました。 

この本の著者鬼塚氏は、「どうしてアメリカは日本に原爆をおとしたのであろうか」と考えて資料を読みあさっているうちに、私たち日本人はだまされてきたのだと確信するようになりました。広島・長崎の悲劇を繰り返さないため、日本人は現実を直視しなければならないと、鬼塚氏は訴えています。

  日本がすでに終戦工作をしていたにもかかわらず、原爆投下は決まったこととして、進められ、ウラン、プルトニウムの両方を落とすために、終戦が引き延ばされたと著者は見ています。また、イギリス留学中に実家が破産してウォーバーグ財団の援助を受け、岳父が貞明皇太后と密接な関わりを持っていた白州次郎を介して、皇室と皇太后の周囲にいたヨハンセングループと言われる吉田茂らに情報が渡っていたと思われます。鬼塚氏は、アメリカが天皇制の存続を条件に、ポツダム宣言を「無視する」とのことばを天皇に言わせたと見ています。少なくとも天皇は事前に知っていたのです。

 鬼塚氏は、ルーズヴェルトは原爆を落とす前に日本に警告するべきと主張したので、殺されたのではないかと推理しています。次の大統領に成ったトルーマンも繰り人形に過ぎず、実際に指揮をとっていたのはスティムソン陸軍長官でした。スティムソンはエール大学でスカルアンドボーンズという組織(ジョージ・ブッシュや大統領候補だったケリーも入会していた)の会員で、ロスチャイルドのザ・オーダー(国際金融寡頭勢力)の中枢にはいっていた人物とのことです。

 マンハッタン計画の資料によれば、そのスティムソンが討議すべき問題として挙げているのは、「現在における」ではなく、「将来に置ける」兵器や国際競争です。ウォール街の利益のため、ザ・オーダーのために戦争を長引かせたのだという著者の主張が納得できる気がします。

 つまり、湯水のように税を投入したマンハッタン計画の効果を国民に見せるため、スペクタクルが必要だった。実際投下すると非難の声が上がり始めたので、犠牲者を減らすために必要だったと宣伝し始めた。もちろん投入された資金は原爆カルテルの懐に入り、それ以降も原爆産業として成立していったわけです。また、ソ連に見せつける効果もありました。

 日本に2発以上の原爆を落とす計画がうまく行くためには、天皇がポツダム宣言をその前に受諾しては困るので、国内にも協力する勢力があったはず、ということで、「原爆の秘密 国内篇」に続きます。
http://plaza.rakuten.co.jp/sawakai/diary/200808180000/


鬼塚英昭著「原爆の秘密 国内篇」(成甲書房)を読みました。

・広島の原爆で、爆心地近くに集められていた徹底抗戦派の軍人たちは全滅したのに、第2総軍司令部は山腹にあり、ほとんど死者を出していない。

・東京ローズがアメリカ軍向け宣伝放送で、第509航空群(原爆投下のために作られた航空群団)を名指しで挙げ、Rの記号がついているからすぐわかる、日本軍にやられないうちにおかえりなさい、と言っている。

・謀略機関で働いていた人たちは、戦後戦犯として裁かれるのを免れた上に、権力と富を手にしている。

・原爆投下数日前に爆心地近くに学童・生徒が集められていた。

・アメリカ兵捕虜は原爆投下時、長崎にいなかったので、犠牲者がいない。しかし投下後、アメリカのジャーナリストが取材にはいったときには存在した。どこから出てきたのか?


以上のことは何を表しているのでしょうか?

鬼塚氏は、天皇、日本の陸軍参謀本部とアメリカが終戦工作のために通じていたと考えます。

第509航空群団の飛行機にRのマークがついたのは、東京ローズの放送直前のこと、そんなことを知っているとは、そうとしか思えない。国策通信社である同盟通信社と陸軍参謀本部が作った原稿を東京ローズに読ませたのだろう、ということです。同盟通信社と吉田茂たち貞明皇太后周辺にいたヨハンセングループは深い関係にあった。同盟通信社の幹部だった松本重治、長谷川才次は、戦後ロックフェラー財団と気脈を通じて甘い汁を吸っているし、陸軍参謀本部の有末精三陸軍中将は「有末機関」をつくり、米軍に協力した。

参謀部は原爆投下を前もって知っていたので、助ける人と原爆死させる人を選別した、また、あらゆる人が犠牲になることでスペクタクルを盛り上げるべく、生徒たちが動員されたのだろうと、推測しています。

 考え過ぎかもしれない、と思う部分もありますが、世界の世論の非難をかわすために、放射能は存在しないことにされ、被爆者が見殺しにされたこと、高松宮が総裁だった日本赤十字が治療薬を断ってしまったことなどに対する著者の怒りには、共感せずにいられません。

 ペンタゴンがABCC(原爆病等調査委員会/アメリカの調査団と厚生省の国立予防研究所が協力してできた)に対し、データ収集のため、治療をしてはならないという内部通達を出していたこと、18000人がなお追跡調査対象になっていることが、2002年に、公表されたこと、ご存知でした?
http://plaza.rakuten.co.jp/sawakai/diary/200809160001/


昭和20年8月15日には、実は広島にあった陸軍の半分を指揮する第二総軍司令部は、8月6日の原爆で既に壊滅していた。だからクーデターは起こせない状況にあった。天皇一派は、陸軍による戦争継続を求めるクーデターを一番警戒していた。そのために終戦決定に当たっては、陸軍の叛乱が絶対に起きないように手を打っておかねばならなかった。  広島にあった陸軍の第二総軍司令部が原爆で壊滅したのは、偶然ではなかったのだ。

 天皇一族は、なんと昭和20年6月の時点で(!)ヨハンセングループを通じて、原爆投下の情報を実質的米国権力者のスティムソン陸軍長官からの指令で受け取っていた。ヨハンセングループとは、米国機密文書に出てくる秘密名の日本側組織であり、参加者は、牧野伸顕・吉田茂・樺山愛輔・岡田啓介・米内光政たちであった。このグループは、当然ながら戦犯に指定されていない。

 スティムソン陸軍長官からグルー駐日米大使、さらにヨハンセングループへとルートがあり、そのルートを通じて天皇一派は戦時中も米英勢力と繋がっていたのである。
昭和天皇は20年6月にスティムソン側から、原爆投下の場所と日時を決めるよう要請を受けた。そして広島に、8月6日午前8時頃と回答したのは、天皇一派であったのだ。その仲介をしたのがヨハンセングループであった。

つまり天皇は敗戦によって自分の生命と財産が保全されることが連合軍に保障されたので、ポツダム宣言受諾という形で敗戦を決めたが、それを陸軍に邪魔されたくなかったので、米軍に頼んで広島の陸軍司令部を叩き潰してもらったのであり、広島市民40万人はその犠牲にされたのである。

 当時の陸軍大臣阿南惟幾は8月15日未明に割腹自殺を遂げているが、その直前に部下に「米内(海相)を斬れ!」と言い残している。阿南陸相は一連の原爆攻撃から終戦工作の経緯を知っていたのかもしれない。

 ヨハンセングループの連中は、戦後、口を揃えて、原爆投下は終戦のための「天啓」だったなどとヌケヌケと発言したのであった。 それにしても、天皇やヨハンセングループが原爆投下の場所・日時を指定していたことは、ソ連参戦をも承知していたのであろう。ソ連軍が満州に侵攻する準備が整うまで、戦争を引き延ばしていたとも取れる。
http://blog.goo.ne.jp/hienkouhou/e/6670188e626bc9a6e9269a37b1c57f5e




[18初期非表示理由]:担当:混乱したコメント多数により全部処理

3. 2018年10月09日 01:16:58 : RLRvWaOozg : zdJmYNDwZWs[96] 報告
今の皇室を否定しているのはいわゆる右翼と呼ばれている連中だろう。妙な陰謀論に同調するスレ主も同類だろう。
4. 未来のTOW[370] lqKXiILMVE9X 2018年10月09日 01:22:10 : q9xAO9EosM : _R1c9fz5SmE[4] 報告

>>1のように、昔は天皇に反感を抱く奴も多かったように思うが、最近はすっかり絶滅してしまったらしい。

天皇の戦争責任。民主主義国での世襲君主。現代での男系絶対視に多額の皇室費。
あれだけ提起された問題も、最近は全然聞かなくなった。天皇バンザイというものばかりだ。

あの日本共産党でさえ、最近は国会の開会式に出席したり、「天皇制廃止論」も言わなくなってしまった。
共産党が世襲の君主を黙認なぞしていいのか、とは思うが。

よく考えてみると、天皇制廃止論や反天皇の風潮があったのはそんなに昔ではない。
当時ギャーギャー言っていた奴もほとんど生きているはずだ。
そいつらは、今どこで何をしているのだろう。天皇制が当然のものとなっている現状にイライラしたりしないのだろうか。
まさか、今頃になって「天皇陛下」とかほざいていたりして。

5. 2018年10月09日 01:45:00 : RLRvWaOozg : zdJmYNDwZWs[97] 報告
4は常連の
いわゆる右派ではあるがネトウヨではないと認識しているが。今の皇室は平和主義で極右政権に体する防波堤の役割を担っていると左派の連中も思っている。替え玉論とかいっているのもネトウヨの陰謀論者連中であり阿久根元市長の竹原信一市議なんかもその一人。
6. あおしろとらの友[1836] gqCCqIK1guuCxoLngsyXRg 2018年10月09日 08:15:53 : lzCPiq3jOU : er4kZRy8Wfg[6] 報告
 「天皇への否定的な感情」とは、ピンと来るのは、これしかない。自民党改憲草案には ”天皇は国家元首であり” とある。が、今上天皇は国民に向けたビデオメッセージで 現憲法の規定にある通り、日本国の ”象徴” であることを強調した。これは自民党改憲に反対であることを暗に示したことになる。しかしこの天皇メッセージを正面から否定するわけにもいかないのでこれが ”否定的な感情” となって出て来たと。
7. ぢっとみる[244] gsCCwYLGgt2C6Q 2018年10月09日 09:12:56 : LLC16YRhF6 : 2yUQTAqpjc8[244] 報告
> 天皇への否定的な感情はどこから生まれてくるのか。

> わたしがブログを書きたいと思った動機の大きな部分に、天皇へのネガティブな言論にたいして、それは違いますと言いたいという「やむにや
むにやまれぬ」思いがありました。

はっきり、私はいつもこの「谷間の百合」さんの記事を読むと無性に腹が立ちます。

私は小学生の頃から、たくさんある興味の対象のひとつが歴史でしたが、当時は近代の歴史についての本などは、市井には、なかなか見当たらず手にも入り辛かった。
小学4年生の頃、百科事典でシベリア出兵について読んだことがきっかけで、近代の日本および世界の歴史に興味を持つようになりましたが、小中高校と進んでも、学校教育ではその辺りからの歴史は巧妙に端折られていたように思います。
しかし、子供ながらに色々な本を集めていくうちに、昭和天皇関連の本だけで、天皇と身近に接していた人達の書いたものも含めて、今では三十数冊にもなりました。
それでも、全蔵書のほんの一部です。
私は昭和天皇の研究者でもなんでもありませんから。

人は、それぞれ生きていくうちに形作られる意見も様々だと思います。

しかし、誰が何と説こうとも、「起こされたしまった」事実は、あまりにも広範囲にわたり、悲惨を極めたものであることは間違いないはずです。

事実を脇に退けたままの、言葉の解釈だけに終始しての口説は空しいと思います。

だったら、読まなきゃイイだろーと言われるでしょうかね。

8. 新共産主義クラブ[-2340] kFaLpI5ZjuWLYINOg4mDdQ 2018年10月09日 12:53:56 : hXBAkTUfCU : e8lbq0Posq0[1] 報告
>>4 「未来のTOW」さん
 
 天皇制は廃止した方が良いが、今すぐに皇室を被選挙権を持つ一般の民間人にしてしまうと、靖国神社を一般の宗教法人として認めてしまったような愚を犯すことになる。
 
 天皇制は社会の上部構造であり、経済関係という下部構造も変えていかないと、天皇制廃止後も被選挙権を得た世襲の旧皇族に日本の政治を牛耳られていくおそれがある。
 
 現在の日本の政治風土を鑑みると、元皇室の人物が自民党公認で選挙に立候補して国会議員になり、首班指名されて日本の首相になり、安倍政権を超える長期政権を続ける可能性を否定できない。
 
 例えば、自民党の国会議員は世襲の議員が多いが、これは、下部構造である経済界での御手洗冨士夫キヤノン代表取締役会長CEOや豊田章男トヨタ自動車代表取締役社長執行役員ら世襲経営者の存在を反映している。
 
 上部構造である天皇制の廃止は、下部構造である日本の世襲制の資本主義社会を壊しつつ進めていかねばならない。
 

 

9. 新共産主義クラブ[-2339] kFaLpI5ZjuWLYINOg4mDdQ 2018年10月09日 12:55:54 : hXBAkTUfCU : e8lbq0Posq0[2] 報告
>>8(訂正)
 
 天皇制は社会の上部構造であり、経済関係という下部構造も変えていかないと、天皇制廃止後も被選挙権を得た世襲の旧皇室に日本の政治を牛耳られていくおそれがある。
 
10. 2018年10月09日 15:24:27 : RLRvWaOozg : zdJmYNDwZWs[101] 報告
相変わらずのエセ左翼の御講釈。自分では左翼のつもりなんだろうが。
11. 罵愚[6717] lGyL8A 2018年10月09日 15:41:33 : uz7lDD2pDc : EjeLi5CyXwY[49] 報告
 このスレッドが提議している話題を、わたしなりの回答を交えてレスると…

@ 基本的な日本の統治理念は封建主義とか軍国主義とか民主主義のような、時代の風向きで右往左往することのない“皇室宗家のフィクションのもとでの疑似家族国家”だと思う。西欧の観念で表現すれば国家元首であるところの天皇は、しかし、その権威を手元に保留したまま、権力を、時の権力者に移譲している。
 政治権力は時代の流れとともに、武士の棟梁の征夷大将軍や、民主主義の時代には主権者たる国民に委任されるが、それを超越したところで天皇は権威を保持し続けている。それが日本の“統治理念”だと思う。

A 敗戦をきっかけに、戦勝連合国が強制した歴史認識…自虐史観が蔓延した。戦勝国政府や為政者が兵士や国民の戦意高揚を謀ってねつ造した、プロパガンダとしての歴史認識が、戦後の日本人の占領統治政策に利用された。廃品利用が成功した実例だった。
 当初、占領政策に廃品利用された自虐史観だったのが、東西冷戦が激しくなるにつれて、今度は東側陣営に再々利用されて、社会主義・共産主義の普及に悪用されて、現在にいたっている。

 以上ふたつの“伝統的な日本の統治理念”と“正確で科学的な歴史認識”の喪失が「天皇への否定的な感情はどこから生まれてくるのか」への回答だと思う。

12. 新共産主義クラブ[-2337] kFaLpI5ZjuWLYINOg4mDdQ 2018年10月09日 16:01:05 : aO6mNkcCKI : SengwBLIvHc[2] 報告
>>10 RLRvWaOozg : zdJmYNDwZWsさん
>相変わらずのエセ左翼の御講釈。
 
 
 >>3 で「の皇室を否定しているのはいわゆる右翼と呼ばれている連中だろう」と、
 
 >>5 で「今の皇室は平和主義で極右政権に体する防波堤の役割を担っていると左派の連中も思っている」
 
と、おっしゃっている天皇制崇拝者の >>10 さんは、『真正左翼』でいらっしゃるようで、何よりです。
 
13. ぢっとみる[245] gsCCwYLGgt2C6Q 2018年10月09日 17:12:49 : LLC16YRhF6 : 2yUQTAqpjc8[245] 報告
粉微塵になって死んだんだ。
兵隊だけじゃない。
女も、子供も、年寄りも。
敵も味方も。
これをプロパガンダだと言えるのか。
戦争の真実だ。
「五内為ニ裂ク」どころでは決して無い。
14. 2018年10月09日 18:05:52 : RLRvWaOozg : zdJmYNDwZWs[102] 報告
12の社会帝国主義のイヌは相変わらず。40年以上前の教条主義をいまだに信じているのだろうき。
15. あおしろとらの友[1837] gqCCqIK1guuCxoLngsyXRg 2018年10月09日 19:03:51 : lzCPiq3jOU : er4kZRy8Wfg[7] 報告
>>13  ぢっとみる さん
天皇関連書籍30冊あまりお読みになったといわれるが、その結論が ”天皇には戦争責任がある” ということだけではどうも納得がいかない。その読書にはある ”傾向” というものがあるように思うのですが?。

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