超A級戦犯 昭和天皇の戦争責任 公開処刑 鬼頭久二(1916年8月生まれ) 第16師団歩兵第33連隊 第1大隊
南京戦の時、当時の宮さん〔朝香宮〕から命令があって、その命令は中隊長か小隊長から聞いたけど、 「犬も猫も含め生きている者は全部殺せ」 ちゅう命令やった。 天皇陛下の命令やと言ったな。 当時のことを書いた日記帳は終戦の時に全部焼いた。 http://www.geocities.jp/kk_nanking/ http://www16.atwiki.jp/pipopipo555jp/m/pages/468.html 今、ヒロヒトを殺してきた。 300万人大虐殺した罪を泣いて悔いていたが、 後悔は地獄でしてもらうことにした。 部屋の角に追いつめたヒロヒトに柄の長さが九十pはある斧を振り下ろせば四肢は次々と切断され、たちまちのうちに苦悶の表情人間だるま。 切り口には焼きコテを当てて止血、やすやすと失血死はさせない。 その断末魔の引きつり濁った絶叫が1時間2時間とコンクリートの防音壁に響く。 くすんだ瞳でまだ哀れみの表情を俺に投げつける。 ヒロヒトが苦しむのは嬉しいがさすがにこちらの鼓膜が辛い。そろそろ終わりにしよう。 斧の血を洗い流して研ぎ直し、気合いもろともヒロヒトの額に一撃を加えるとヒロヒトの頭蓋は断ち割られ、 血と脳漿が天井まで吹き上がった。 仕上げに首をバッサリと刎ねる。俺はヒロヒトの血で全身紅に輝く。 ヒロヒトよ。地獄で苦しめ。これはお前が自ら望んだ結末なのだ。 今夜は良い夢が見られそうだ。 http://anago.2ch.net/test/read.cgi/emperor/1347415555/ 天皇家の秘密 天皇家では2000年に渡る近親相姦が原因で
大正天皇は知恵遅れ
昭和天皇は殺人鬼 平成天皇はIQ80 の魯鈍 今の皇太子は知恵遅れ 愛子も精神薄弱 秋篠宮は美智子と入江侍従長の不倫の子供? 詳細は 語られ始めた皇太子「退位論」は説得力があるか・・が、語られるだけでも適応失調の天皇家! http://www.asyura2.com/12/social9/msg/352.html
あなたの知らない「天皇家」の謎 皇室の祖先にワニがいた!? http://www.asyura2.com/10/bd59/msg/256.html 東京ホロコースト 西岡昌紀 http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/479.html 君はアジアを解放する為に立ち上がった昭和天皇のあの雄姿を知っているか? http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/312.html 昭和天皇が戦争狂になった訳 http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/321.html 原爆投下が日本を救った_ ユダヤ人とトルーマンと昭和天皇に感謝 http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/327.html この人を見よ _ 人間の屑 福沢諭吉のした事 http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/485.html 部落と近親相姦話 http://www.asyura2.com/12/lunchbreak52/msg/773.html 被差別部落出身の有名人は?_ 天皇家からは知恵遅れしか産まれない http://www.asyura2.com/11/lunchbreak45/msg/860.html 現代顔面考_ 紀宮が不細工になった理由 http://www.asyura2.com/09/dispute30/msg/833.html 宮崎の山村に伝わる「百済王伝説」の謎 http://www.asyura2.com/12/lunchbreak52/msg/849.html 収奪と悪徳の限りを尽くした平安貴族 _ 朝鮮から渡って来た華僑は日本の支配階級となったが… http://www.asyura2.com/12/lunchbreak52/msg/850.html 弥生人の起源 _ 自称専門家の嘘に騙されない為に これ位は知っておこう http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/547.html 39 :名無しさま:2012/10/27(土) 21:50:39.21 ID:cBebZvZs
山本五十六は言ってるじゃないですか一年ぐらいはもつって、勝った勝ったでいくだろうと。 だけど後はもう知らんて、そしたら天皇はそれでもいいからやれちゅーわけですよ。 やらないと自分の身が危ないと、スキャンダルをみなばらされて全部失うと、スイスに貯めた金も失うと。 なぜ石油があったか考えてみたことありますか、これはですね戦争のときにアメリカは、 日本には石油を売らないと、ところがパナマ国籍の船ならば石油を積んでいって日本に売っても、 自分達は攻撃できないというような理屈で、日本に石油を間接的に売るわけです、本当の話です。 でこれに三菱が作った昭和通商という会社がそれを引き受けるわけです。 で昭和通商と三菱は同じですけど、そこでまずいので日本水産という会社が代行するわけです。 魚を運ぶということではなくて魚の代わりに石油をパナマ国籍からもらって持って帰るので戦争は長引くわけです。 太平洋でいっぱい戦争しました、あれはアメリカの石油をもらってアメリカの石油を使った軍隊と、 戦争ゴッコをやったっちゅーことですよ、そしてある時になってもう石油をやらないというときに、 天皇は気がつく、ああ遂に終わりがきたかと、これが真相なんですよ。 御文庫といって、天皇の宮殿の地下深くに御文庫を作りそこに大本営を置いて天皇が参謀たちを集め、 図面を置いて毎日毎日、今度はここ行けここ行けと指図をするわけ、 それを指図ができると、 東条が受けてですね、やるわけです、 だから参謀たちが天皇を大参謀に、参謀たちが戦争計画を作り、それを東条に渡すわけです、首相の東条は大文庫に、御文庫の中には入れないわけです他の連中も。 そういうシステムで戦争が進んでいくわけです。 http://www.youtube.com/watch?v=eugXzHoKnes http://anago.2ch.net/test/read.cgi/emperor/1347415555/ 02. 中川隆 2013年8月17日 05:21:51 : 3bF/xW6Ehzs4I : W18zBTaIM6 マスコミ報道等では、第二次世界大戦は日本の軍部が独走し、天皇は仕方なくそれに引きづられた・・という事になっている。 そのため戦争中首相であった東条英機は戦争犯罪者として処刑され、天皇は罪を問われなかったという事になっている。 1944年7月20日、天皇の東条英機あての勅語。
あなたは(東条は)、朕(天皇)の行う戦争において、朕の指導の下に十分職務を果たした。・・()内部、筆者の注 ここで天皇自身「が」主体となって戦争を行っている事、つまり軍部に引きづられて戦争が行われているのでは無い事、
東条が「天皇の指導の下」にその命令通りに戦争を行って来た事を、天皇自身が証言している。 天皇は、自分の行った戦争の責任を全て東条に押し付け、東条を処刑させ、自分だけ生き延びたのである。 戦争中、東条は1日に3回天皇を「御機嫌うかがい」のため訪問し、政界では「ゴマすり東条」と批判されていた。 東条を始めとした政界軍部が「強引に戦争を行い」、天皇がそれに引きづられる等という事は、この東条と天皇の「力関係」から見て有り得ない。 天皇は東条に全責任を押し付け、自分だけ生き延びたのである。 http://alternativereport1.seesaa.net/article/49704032.html 昭和天皇の身代わりに処刑された東条英機 1947年の大晦日、東条への直接尋問のなかで、〔木戸の〕弁護人ログマンはこう質問した。
天皇の平和に対してのご希望に反して、木戸侯爵が行動をとったか、 あるいは何かを進言したという事実を何か覚えていますか? 東条 そういう事例はもちろんありません。私が知る限りにおいてはありません。 のみならず、日本国の臣民が、陛下のご意思に反して、かれこれすることはあり得ぬことであります。 いわんや、日本の高官においておや。
裁判長(ウェッブ) 今の質問がどのようなことを示唆しているかは、よく理解できるはずである。
まさしく、それは誰もが知っていたことだった。http://www.retirementaustralia.net/rk_tr_emperor_13_3_4.htm 03. 2013年8月17日 05:29:52 : W18zBTaIM6 310 :名無しさま:2013/06/06(木) 18:59:20.26 ID:J57cLiJHあやしい動きがあった。 1.吉田茂、他のヨハンセングループは原爆投下の都市、日時を知っていた。 手下の白洲次郎がグルーと連絡していた。 2.終戦直前に香淳皇后の名前で国際赤十字に1千万スイスフランを寄付 天皇家の銀行である横浜正金銀行からスイス国立銀行へ送金 3.徹底抗戦派(陸軍・阿南大臣が中心)と終戦派(海軍大臣・米内など)の確執があり、原爆とソ連参戦は終戦派にとって好都合であった。 好都合と言うより、出来レースと言った方が良いのではないか。 4.敗戦後の8月22日の閣議(当時は戦争中の体制)で満州からの日本人の帰還は禁止になり、残留日本人はシベリアに抑留された。 この閣議に、瀬島隆三が満州より駆けつけ、指令を受け、シベリアに自ら抑留されにもどった。 その後の瀬島は伊藤忠の会長、中曽根内閣での臨調の実質リーダとなった。 証言、傍証など、マスコミではタブーになっているが。 http://anago.2ch.net/test/read.cgi/emperor/1347415555/
04. 2013年8月17日 07:30:58 : W18zBTaIM6 ヒロヒトは生きるために真珠湾奇襲も東条英機が自分をだまして犯したという嘘もはばからなかった。 1946年9月、ヒロヒトはニューヨークタイムズとの書面インタビューで曖昧で冗長な話でこれを幾度も強調した。 真っ赤な嘘だ。 当時、外務省のある無関係がヒロヒトの侍従長、木下道雄に送った報告書はこのように証言している。 「ロボットではない今上(天皇)が統治者として責任があるのは明白だ。」 彼はその証拠としてヒロヒトが開戦理由と戦争準備、艦隊配置およびその任務内容、米国との最終交渉が成立した場合、艦隊を撤収させる方案、そして開戦時期などを理解し許諾したし、はなはだしくは休日という理由で日曜日を攻撃日に定めたことまで知っていたと聞いた。 (‘敗北を抱きしめて’ジョン・ダワー) こういう詐欺が通じたのは容易な占領統治のためにヒロヒトを利用しようとした米国の計算と合致したためだ。
マッカーサーとヒロヒトの側近らはこのためA級戦犯容疑者らを相手に天皇にどんな責任も転嫁されないようにすると誓わせた。よく組まれた脚本だったが東条英機が戦犯裁判で 「日本で天皇が分からないことは一つもない。 日本国民の誰も天皇がさせなかった仕事をする人はない」 となにげなく暴露(?)することでこの詐欺は破綻一歩寸前まで行った。 http://kimsoku.com/archives/7901881.html 05. 2013年8月17日 09:16:08 : W18zBTaIM6 私が会った皇室家族の二人は、私との会話に、1926年からの日本の支配者、裕仁天皇についての、いくつもの物語を滑り込ませていた。こうした物語は、印刷物として報じられたことはなく、私は最初、皇室内のゴシップとして聞き流した。 しかし、後にその全体の文脈で見ると、そこには取り上げるべき重要さが潜んでいた。 たとえば、真珠湾攻撃の夜、裕仁がマラヤからの短波放送を聞いていたとか、 彼はかって、息子をもつため、人工授精による出産をおこなっていたとか、 彼の誕生は、一般に言われているより一年早かったとのうわさがある、などなどである。 こうした話から私が確信することは、裕仁が、少なくとも、そのように見せようとしているような、素直な歴史の被造物なぞでは決してないということである。
彼の侍従の話では、彼は、強力な独裁制の主唱者として登場してきたという。 彼は、卓越した知性の持ち主とも言われている。 1945年までは、彼は、政府のあらゆる詳細に明るく、すべての分野の官吏と逐一協議しており、常時、世界情勢についての全体的視野を保持していたという。 彼の、民事、軍事、宗教上の力は、絶対的なものと受け止められておりながら、 彼はそれをただ儀礼的に、かつ国務大臣の推奨を追認するのみで執行していたとも言われている。 また、どの話の中でも、彼は常に大臣の構想に遅れを取らずに助言を与え、 そして、彼が受け入れられるような推奨案へと舵取りしていたことが次々と語られている。 また、時には、反対する見解をも採用し、少数意見も受け入れ、あるいは、 ひとつの推薦案を丸々無視したとすらも認められていた。 裕仁天皇は、米国との戦争の布告に署名をしていた。それは、彼の意思にはそわずにされたものと言われていたが、戦争開始数ヶ月後の、近衛首相の退陣までに作成された記録には、そうした記述は残されていない。また、もし彼が戦争を差し止めようとしたならば、暗殺されたかもしれないとも言われている。しかし、こうした主張は、こじつけのようである。というのは、兵士も将校もすべて、天皇のために死ぬ備えをしており、彼を暗殺するほどにかけ離れた日本人は、戦争に反対の西洋化した銀行家や外交官だけであったからである。 裕仁天皇は、1937年、軍隊を華北へ送る命令に判を押した。これも後に、意思にそわずに行われたものと言われ、また、その二ヵ月後には、華中、華南へ出兵する命令にも判を押した。 彼は参謀本部の躊躇した「軍国主義者」の忠告に従い、華南の命令の執行を不本意に延期した。彼は、戦局を自ら掌握できるよう、皇居のなかに、大本営を設置した。 当時の首相が天皇のあまりな傾倒に苦言を呈しているように、彼は戦争計画に没頭するようになった。 そして遂に、彼の伯父は、中国の首都、南京攻撃の命令を引き受け、南京のあるホテルに居を移し、彼の軍隊が、10万人を超える無防備の軍民双方の捕虜を殺しているのを傍観していた。それは、第二次大戦でおこなわれた最初の集団虐殺で、この伯父が東京に戻った時、裕仁は、自らでかけて、伯父への名誉の勲章を与えた。 それをさかのぼる1931年から32年、裕仁は、満州領有に許可を与えた。これも後になって、不承々々のものとされたが、彼は、自らが代表する天皇の統帥機関により生じた企ての全的責任を負うことに躊躇していた、と当時の記録は明確に記録している。そしてふたたび、この領有が完了した時、彼はその実行者たちに勲章をあたえ、その大将を自分の侍従武官兼軍事輔弼〔ほひつ:天皇への助言者〕の主席にさせている。 こうした明白な諸事実より、天皇裕仁の行為と、後年、彼について語られた言葉との間には、大きな食い違いがあると結論付けうる。 私は、資料文献を読みながら書き留めたノートのすべてを見直しかつ再考察し、日本の近世の歴史は、第二次大戦以来提起されているように、一部、参謀本部の逆諜報専門家や、一部、皇室取巻きの上層部によって、戦争末期に捏造された幻想に巧に由来している、と確信するようになった。 こうした日本の表向きの物語は、何度も、すでに生じていたことがその結果にように引き合いに出され、論理的に逆転している。偶然な出来事や自然発生した大衆行動が、高官レベルで、それに先立つ数ヶ月あるいは数年前に、実際に議論されていたことを、その時々の資料は、一度となく示している。天皇の主席政治輔弼、内大臣(訳注)は、慣例のように次期首相を任命し、現職首相の職が危ういような政府の危機の際には、それに先立つ数週間ないし数ヶ月間は、「彼の特務期間」と呼ばれた。そのやり取りは記録として残されてもおり、その中で内大臣は、続く二代の政府の組閣構成やその成果を、正確に見通している。 終戦時、オーストラリア、ニュージーランドそして中国の高官はすべて、裕仁天皇は日本の君主であり、日本の戦争責任者のリストの先頭におかれるべきであることに同意していたことを、キャンベラの書庫で発見して、私には心をやわらげられるものがあった。彼らは、その後、マッカーサー将軍の決定――天皇を国際法の下の戦争犯罪人とするより日本の復興のために用いる――(私自身、これは賢明な決定と思う)に従った。 私の調べた確証から浮かび上がる天皇の姿は、公式の伝記にあらわれる姿とは、まるで写真のネガとポジのように異なっていた。 私の見方では、裕仁は、献身的で、衰えを知らず、利巧かつ細心で、そして忍耐力を備えた、卓越した戦争指導者だった。 彼は、アジアから白人を追放するというその使命を、大祖父から引き継いでいた。だが、国民は無関心かつ後進的であったので、人々をそうした役務にかりだすため、戦争の20年前から、心理的、軍事的に準備を重ね、巧みにあやつっていった。 公式の人物像は、これとは逆に、裕仁を、魅力に乏しいところの多い、文化的な隠居した生物学者で、自らの公務は将官や総督にゆだね、そのすべてのエネルギーをおだやかに、きのこや小さな海洋生物につぎこむ人、と描いていた。 その年の一月、私の調査が終わろうとしていた時、原書房という東京の小さな出版社が、戦時中の陸軍参謀総長、杉山元〔はじめ〕大将が1940年から44年に書きとめた備忘録〔『杉山メモ』〕を出版した。これは、日本国家の最高位の軍事将校による歴然たる手書き資料である。杉山は日本が降伏した1945年に自殺しており、彼の記録を装飾する機会はなかった。記録のほとんどは、無味乾燥な軍事的詳細か、さらに単調な軍事用語で満たされていた。しかし、そのうちのいくつかは、裕仁との会話の言葉どおりの記述である。 それらは、裕仁が、真珠湾攻撃の数ヶ月前、軍事的、経済的計画について、詳細な質問をしていることを記していた。 それは、マッカーサー将軍が語ったという、裕仁が戦後将軍に告白した――1941年にはすべての軍事的、経済的事柄については無知であった――という発言と真っ向から食い違っていた。 最も驚くべきことは、1941年1月、対米戦勃発の11ヶ月前、裕仁が独自に、真珠湾への奇襲攻撃のフィジビリティー調査を命じていることを、『杉山メモ』が記録していることである。 それ以前では、欧米の歴史家は、少なくとも1941年11月までは、裕仁は真珠湾奇襲攻撃計画については何も知らなかった、と信じていた。1941年当時の侍従長、鈴木貫太郎は、戦後、裕仁は真珠湾攻撃計画については、それが実行されるまでは知らなかった、とはばかることすらなく記している。 『杉山メモ』はまた、裕仁は、真珠湾計画に、彼の公式軍事輔弼がそれを告知される丸六ヶ月前の段階で、参加していたことを明らかにしている。極東国際軍事法廷の連合軍判事たちに提示され、また、宣誓のもとでの目撃証言や緻密な調査によって検証された証拠は、裕仁を戦争にまで引きずり込んだとされる「軍国主義者」の誰もが、1941年8月まで、真珠湾計画を知らなかったと結論ずけている。 国際軍事法廷は、日本人指導者に「侵略戦争への陰謀」との判決を下し、1928年から1936年の間の日本を運命付けた少なくとも八件の主要陰謀を明白とさせた。また、陰謀は、日本文化においては、古くから、由緒ある地位に置かれてきた。戦前の日本の領土軍〔植民地配属軍のことか〕は、公式に「謀略部」と称する参謀チームを設けていた。
私は、その連合国判事が判明させたリストに、さらに六件の陰謀を加え、それらのすべてを、裕仁を中心とする皇室がからむ陰謀とした。裕仁は、秘密裏に少数派に働きかけ、最初は日本を欧米との戦争に導き、そしてそれに敗北すると、その記録を隠蔽した。 欧米の歴史家は、日本人をえがくにあたって、集団ヒステリーの産物という考えでもってあまりに懲り固まっているようだった。 日本経済の記録は、そうした思い込みが誤りであることを示している。わずか一世紀昔の1868年、日本の経済発展は、1485年にヘンリー七世が王座にあった英国に相当すると見られていた。 過去一世紀の変貌は、常軌を逸した不可解な人々によって成し遂げられたのではなく、もっとも勤勉で知的な人々によってなされたのである。 私は、これまでの生涯、日本人に畏敬とそれを知ることの喜びを感じてきた。日本の指導者たちが、欧米の指導者たちと同様に、極めて賢い人たちであるということは、この著作の基本的前提である。 1945年、連合軍がドイツを制圧した際、何百万ページもの国家文書が発見された。これに対し、連合軍が取り決められた日本の占領を始めた時、戦争終結からまだ2週間しかたっていないにもかかわらず、アメリカ人の手に入ったもので、何らかの重要性をもつ文書は、日本人によって自発的に提供されたものであった。 1937年より1945年まで皇居において天皇が議長を勤めて行なわれた天皇本部の会議議事録は、すべて焼却されたと言われている。陸軍参謀本部、海軍参謀本部、特高警察のファイル類の大半も、同様であった。 http://www.retirementaustralia.net/rk_tr_emperor_04_choshakara.htm 06. 2013年8月17日 09:23:24 : W18zBTaIM6 ある60才代の風変わりな華族は、私に英語で以下のように告げた。 「もちろん、貴君は私をたぶらかそうとしていると思う。貴君は私に何を言わせたいのかね。 私は裕仁を子供の頃から存じている。 彼は、戦争好きの馬鹿ロマンチストだったし、たぶん今でもそうだと思う。 しかし、もう数十年もご無沙汰している。私は、自分の古い時代に乱されたくはない。もし、貴君が私の名前をあげるなら、私が貴君には会ったこともないことにする。」 http://www.retirementaustralia.net/rk_tr_emperor_04_choshakara.htm 07. 2013年8月17日 09:26:41 : W18zBTaIM6 昭和天皇は若いころから、宮中の書斎にはナポレオンの胸像が飾られていた(有名な話らしい)。パリを訪問したときに土産として自分で買ったもので、珍重していた。
「ナポレオンの軍隊は安上がりの徴集兵で」彼は「この軍隊を愛国心に燃える兵隊の群れに仕上げた。日本の軍隊は葉書一枚で徴兵された“民草”といわれる安上がりの軍隊で、ナポレオンの軍隊以上に愛国心に燃えていた。 ナポレオンは補給のほとんどを現地補給とした。天皇の軍隊はこれを真似た。 ナポレオンは参謀部をつくり、機動力にまかせて、波状攻撃を仕掛けた。天皇は大本営を宮中に置き、参謀部の連中と連日会議を開き、ナポレオンと同様の波状攻撃を仕掛けた。」 「あの真珠湾攻撃は、そしてフィリピン、ビルマ、タイ…での戦争は、ナポレオンの戦争とそっくりである。」 と鬼塚氏は書いている。そう言われれば確かにそうだ。 つまり、昭和天皇はナポレオンを崇拝し、彼にならって大戦争を仕掛けるという壮大な火遊びをやったのである。真珠湾攻撃が「成功した」と聞くと、狂喜乱舞したと言われる。2・26事件当時の侍従武官・本庄繁の『日記』には、天皇がナポレオンの研究に専念した様子が具体的に描かれているそうだ。 終戦の玉音放送が流れる日の朝 侍従が天皇を書斎に訪ねると、昨夜まであったナポレオンの胸像がなくなっており、代わってリンカーンとダーウィンの像が置いてあった この変わり身の素早さには驚かされる。つまりもう占領軍が来てもいいように、好戦的なナポレオンの像は撤去し、アメリカの受け(好印象)を狙って、リンカーンを飾り、自分は生物学に専念している(政治に無関心な)人間なのだとの印象を与えるためダーウィンを飾ったのであった。 天皇は書斎からしてこうなのです…といえば、戦争責任が回避でき、マッカーサーに命乞いできるという思惑である。 戦後、天皇が海洋生物の研究家になったのは、ただひとえに自分が専制君主ではなかったというポーズであり、戦争中の責任を隠す念のいった方便だった。 国民もそれに騙された。 そして戦争指導の責任を全部、東条ら軍人(それも陸軍ばかり)に押し付けた。 東京裁判で収監された東条英機は尋問に答えて、 我々(日本人)は、陛下のご意志に逆らうことはありえない と言った 東条のこの発言が宮中に伝えられると天皇は焦ったと言われる。 責任が全部自分に来てしまい、自分が絞首刑にされる。 それで天皇は部下を遣わして、東条と軍部に戦争責任を負わせるべく工作をした。 それから天皇は東京裁判のキーナン検事に宮廷筋から上流階級の女性たちを提供し、自分が戦犯に指名されないよう工作した。 キーナンはいい気になってしきりに良い女を所望した キーナンに戦争の責任は全部東条ら陸軍軍人におっかぶせるからよろしくとの意向を女を抱かせることで狙った。女優・原節子がマッカーサーに提供されたという噂は、噂ではあるが、当時から根強くあったのは有名である。 みんな天皇一人が責任を回避するためであり 東条らが天皇を騙して戦争を指揮したというウソの歴史をつくるためであったhttp://blog.goo.ne.jp/hienkouhou/e/bd61d9d5c3085df3fddc6adf68c4c7d2 339 :通りすがらない:2013/08/10(土) 16:25:08.95 ID:2ZbcfN0U 最終的な決定を下したのは天皇である。なんて言葉がでるのは、おそらくあなたは戦前の日本は絶対君主制であったと考えているのではないでしょうか。合ってますか? それは大きな間違いです。 当時の日本は立憲君主制であり絶対君主制ではありません。 よって、一番大きな間違いは>昭和天皇が最終的に判断した。というところ。 345 :名無しさま:2013/08/11(日) 06:00:00.94 ID:8112lniq >>339 誤っていませんよ。
帝国憲法でも最終決定を下す権利は天皇大権として定められており、憲法運用上立憲君主的な振る舞いをしたかどうかは問われません。 また、いわゆる終戦の「聖断」を鈴木貫太郎首相が天皇に求めたのも歴史的事実です。事実を知らない無知な人はあなたですね。 347 :通りすがらない:2013/08/11(日) 09:16:19.56 ID:I8Rka9rn >>345 あなた方が批判の的としていつもこれが挙げられるが、昭和天皇が自らの意志で政治的決断を下したのは非常事態のみ。 終戦の決断およびニ・ニ六事件のみである。
352 :名無しさま:2013/08/11(日) 17:24:44.39 ID:8112lniq >>347 >終戦の決断およびニ・ニ六事件のみである。
あなたは独白録にまんまに騙されていますね。 この文書はもともとは昭和天皇が言い訳するために起こされた口述筆記ですが、 まさにあなたのような無知な人が引っかかるよう想定されたものです。
今現在ならいくつもの文献によって、それがウソであることが証明されてます。 知らないというのはある意味では幸せなのかも知れません。 353 :名無しさま:2013/08/11(日) 17:34:14.10 ID:8112lniq 伊藤博文の「憲法義解」や憲法制定のためにドイツに赴いて教えを乞うたシュタインとのやり取りでも明らかですが、伊藤は天皇の存在を「国教」と同等の存在として憲法に明記し、かつ、山県有朋との確執から軍の統帥を天皇に直属させ、 軍と政治を二分させた上で、それを束ねる存在として天皇を上に置きました。 ですから、欧州の先進的な立憲君主制とは異なり、「君臨すれど統治せず」とはしないで各種の大権を有する存在としました。 この「神権天皇制」は、絶対君主(王権神授)とも、立憲君主(君臨すれど統治せず)とも異なった、大日本帝国憲法独自の様相であり、大正デモクラシーの一時期を経て、国体明徴に至る条件を持っていたということです。 355 :名無しさま:2013/08/11(日) 22:01:42.75 ID:8112lniq 国家のシステムである以上、天皇であっても個人の意思はあくまでも個人的なもの。 公人としての天皇は間違いなく大権を持つ主権者でした。 360 :名無しさま:2013/08/12(月) 09:17:29.90 ID:uHV+uFJv
「建前として天皇は国務大臣の輔弼によって国政をなさるのではあるが、 時には強い御意見をのべられることもある。 天皇が御納得されない場合は、 概ねの場合問題はそのままサスペンドされて決定が延ばされるか内閣の方が考え直すのを例とした。」(木戸幸一日記) 「陛下の御政務には・・陛下にご覧にいれる認可を受ける書類はたくさんあるんです・・・ このご允裁も、納得のいかないものには『可』とお押しにならないで、ご自分の別の引き出しに入れておしまいになる」(海軍侍従武官・山澄貞次郎) 368 :名無しさま:2013/08/12(月) 18:27:12.92 ID:sSqbgZ9o 帝国憲法時代の首相の指名は天皇の専権事項でした。 元勲や重臣会議などで首相の候補を決め、天皇に推薦します。天皇はその候補者に対して問題ないと思えば裁可し、不満があれば質問や先延ばしなどによって再考することを求めます。 当時の天皇はあからさまに不満を表明せず、そういった言動によって間接的にNoを突きつけることを慣習的に行ってきました。 組閣に関しては首相や重臣らによって協議され(最後の元勲、西園寺公望死去以降は宮内府がそれをリードしました)、天皇に内奏します。また、国務大臣は首相の優越という現在の制度とは違い天皇個が別に任命する仕組みになっていたため、組閣に失敗するケースも度々ありました。 384 :名無しさま:2013/08/16(金) 08:05:20.84 ID:mNkU3foM
昭和天皇の戦争責任を語るときに、責任が無かったと主張している人の中に「専制」ではなかったことを主張してる人が少なからずいますが、その人は「では親政は?」という問いには答えられません。 国体明徴宣言や国体の本義では神州日本は天皇が親政を行うことが明示されています。 389 :名無しさま:2013/08/17(土) 23:29:59.24 ID:N/DfdXNp 木戸幸一日記」によれば、対英米戦開戦に際して、高松宮から海軍の厭戦気分を伝え聞いた昭和天皇は海軍大臣らを呼び出して事情を確認しました。その上で、首相の東条に対して 「予定の通り進むる様」下命し、翌日の御前会議で開戦の決定をするよう促しました。 昭和天皇の口述筆記「独白録」では、自分は一切の主張を差し挟まず、 開戦についても立憲君主らしく東条に従ったと言っていますが、 実情は御前会議(これは儀式であり天皇を含む事前の調整作業で決まっているのが慣行)で、「一言も云はなかつた」としているのはあくまでも建前であり、また、東京裁判対策です。 独白録編纂段階では天皇の戦争責任が回避されるかは微妙な情勢でした。 (GHQと極東委員会との力関係がはっきりせず、アメリカが押し切る確証が持てなかったため) 以上のように昭和天皇はちゃんと最終決定者として、政治家として舞台裏で動いていました。 文字通り「補弼者」らの補弼(助力)を得ながら重大決定を自ら決めていたわけです。 http://anago.2ch.net/test/read.cgi/emperor/1347415555/ 10. 2013年8月18日 08:24:16 : W18zBTaIM6 明治憲法は法学で言う憲法には該当しない 法学では 憲法は、国民を統治者の横暴から守る為に統治者に課する規定 法律は、統治者が統治の為に国民に強制する規定 を定めたものだ。 “明治憲法”では @主権は天皇がもち、天皇の位は血筋によって代々受けつがれる。 A立法権・行政権・司法権は、すべて天皇の大権(統治権)に属する。 B天皇は陸軍・海軍の大元帥として、軍隊・軍備・戦争など軍事に関することを決める権限(軍事権)をもつ。 C天皇は議会を通さずに、一定の範囲で法律を定めたり、予算を決めたりできる。 D天皇は議会を通さずに、条約を結ぶ、戦争を始める、戦争をやめる、戒厳令(非常事態の時に軍隊を出動させる権限)を発する、勲章をあたえるなどを行うことができる。 とあり、天皇が絶対権力を持っていたわけだから、憲法としての基礎的要件を満たしていないのさ。 内閣や内閣総理大臣に関する規定は、憲法典ではなく内閣官制に定められた。内閣総理大臣は、国務大臣の首班ではあるものの対等な地位とされ、国務大臣(各省大臣)に対する指揮監督権や任免権もないため、明文上の権限は強くない。 しかし、内閣総理大臣は機務奏宣権(天皇に裁可を求める奏請権と天皇の裁可を宣下する権限)と国務大臣の奏薦権(天皇に任命を奏請する権限)を有したため、うまく天皇のご機嫌を取れれば実質的な権限は大きかった。 逆に言えば、天皇の意志に反したら、内閣総理大臣でも何もできなかった。 統帥権は、慣習法的に軍令機関(陸軍参謀本部・海軍軍令部)の専権とされ、陸海軍は政府の指示に従う必要は無かったので、内閣や内閣総理大臣の決定を無視した行動を取ってもよかった。 即ち、天皇が命令しすれば開戦でも虐殺でも何でも天皇の思い通りにできた。を有したため、実質的な権限は大きかった。 http://sentyusenngo.seesaa.net/article/44284311.html 345 :名無しさま:2013/08/11(日) 06:00:00.94 ID:8112lniq 帝国憲法でも最終決定を下す権利は天皇大権として定められており、憲法運用上立憲君主的な振る舞いをしたかどうかは問われません。 また、いわゆる終戦の「聖断」を鈴木貫太郎首相が天皇に求めたのも歴史的事実です。 346 :名無しさま:2013/08/11(日) 06:04:59.16 ID:8112lniq ベルギー憲法は明治政府が憲法を定めようとしたときに最初にモデルにして上奏されましたが、天皇の権限が弱い、あまりに民主的な内容だといわれ採用を見送られました。 その結果、採用されたのは君主の権限が強いプロシャの憲法です。 353 :名無しさま:2013/08/11(日) 17:34:14.10 ID:8112lniq
伊藤博文の「憲法義解」や憲法制定のためにドイツに赴いて教えを乞うたシュタインとのやり取りでも明らかですが、伊藤は天皇の存在を「国教」と同等の存在として憲法に明記し、かつ、山県有朋との確執から軍の統帥を天皇に直属させ、軍と政治を二分させた上で、それを束ねる存在として天皇を上に置きました。 ですから、欧州の先進的な立憲君主制とは異なり、「君臨すれど統治せず」とはしないで各種の大権を有する存在としました。 この「神権天皇制」は、絶対君主(王権神授)とも、立憲君主(君臨すれど統治せず)とも異なった、大日本帝国憲法独自の様相であり、 大正デモクラシーの一時期を経て、国体明徴に至る条件を持っていたということです。 355 :名無しさま:2013/08/11(日) 22:01:42.75 ID:8112lniq 公人としての天皇は間違いなく大権を持つ主権者でした。 http://anago.2ch.net/test/read.cgi/emperor/1347415555/ 11. 中川隆 2013年8月18日 08:35:09 : 3bF/xW6Ehzs4I : W18zBTaIM6 昭和天皇が開戦命令や虐殺命令を出せば、政治家や軍人がいくら奮闘しても戦争も虐殺も止められない。
南京大虐殺を止めさせる為に奮闘した広田弘毅だったが… 廣田弘毅は、極東軍事裁判で裁かれたA級戦犯の中で、唯一、文官として絞首刑になった人物である。
何故、廣田が連合国側の一方的な裁判で裁かれなければならなかったのか? 廣田弘毅内閣が発足したのは昭和11年3月である。「二・二六事件」があった直後であったので、廣田も当初は拒み続けていたようだ。 組閣時には、陸軍から横槍、干渉がかなり入っていたので、とても自前の内閣とは言えなかった。多くの政治家たちは軍部の暴力に震え上がって、言いなりになっていた雰囲気があったのだが、廣田は在任中、平和外交を粘り強く進め、強大化する軍部に抵抗し続けていた。 しかし軍部は、統帥権を盾に暴走し、広田首相の思惑とは正反対の方向へと日本を引き摺っていったのだ。それなのに廣田は敗戦後にA級戦犯として、極東軍事裁判の被告人となった。 廣田の判決を巡っては11人の裁判官のうち中、3人が反対したそうだ。オランダのベルト・レーリンク判事は「廣田が戦争に反対したこと、そして彼が平和の維持とその後の平和の回復に最善を尽くしたということは、疑う余地が無い。」と、無罪を主張したのであった! この著しく公平さに欠ける裁判に於いて広田弘毅は、戦争回避に努めたとは言え、結果として軍部の圧力に屈する事となり、戦争を阻止できなかった責任を自らに科していた。 http://blog.livedoor.jp/metabolic_oyaji/archives/781688.html 南京大学歴史学部博士課程指導教官で、南京大虐殺研究所副所長の張生教授を取材した際、昨年、米国立公文書館で南京大虐殺に関する資料を収集していたときに、極めて価値のある最高機密文書を発見したことを話してくれた。 日本の広田弘毅首相が1938年1月17日、東京から米国の日本大使館に発信した機密電報だ。米国はそれを解読していた。 (実際には広田自身ではなく、『マンチェスター・ガーディアン』の記者ティンパリーが書いたニュース) 電文の内容は 「数日前、上海に戻り、日本軍の南京とその他の一部地方での残虐行為に関する報道について調べた。信頼できる目撃者が直接数えた、また信頼度の極めて高い一部の人の書簡にもとづけば、それは十分に証明できるであろう。 少なくとも30万の中国平民が殺戮に遭い、その多くは極めて残虐で血なまぐさい虐殺だった」 というものだ。張生教授は 「これまでに収集した資料のなかでは、最も早く南京の30万人市民の殺戮に言及しており、証拠となるものです」 と指摘。さらに 「米国や欧州などでも、第三者による史料の発見が相次いでいます。個人的な判断や細部の描写はやや異なるものの、南京大虐殺が一つの歴史事実であることは広く認められているのです」 と強調した。 「北京週報日本語版」より2007年12月15日 ベイツは日本大使館に南京の惨状の報告を毎日のようにしており、その報告は日本外務省に届けられていた。この報告を読んだ、広田弘毅の直属の部下、石射猪太郎は『外交官の一生』に
「南京は暮れの一三日に陥落した。 わが軍のあとを追って南京に帰復した福井領事からの電信報告、続いて上海総領事からの書面報告がわれわれを慨嘆させた。 南京入城の日本軍の中国人に対する掠奪、強姦、放火、虐殺の情報である」 と書いた。広田弘毅も同様の認識であったと見るほかない。
事実、アメリカ駐日大使ジョセフ・グルーは、外務大臣広田弘毅とベイツの報告について話し合っていた。その会見の様子はグルー自身がさらに南京のアメリカ大使館に電報で知らせ、ベイツもそれらの電報を直々に読んで確認していたのである。 http://wiki.livedoor.jp/nankingfaq/d/%B3%B0%CC%B3%BE%CA%A4%AC%C3%CE%A4%C3%A4%C6%A4%A4%A4%BF%A4%C8%A4%A4%A4%A6%A4%CE%A4%CF%B1%B3 当時の外務省東亜局長・石射猪太郎は、1938年1月6日の日記に、
「上海から来信、南京に於ける我が軍の暴状を詳報し来る、掠奪、強姦、目もあてられぬ惨状とある。 嗚呼、之が皇軍か」 と記述している。 ※元資料:石射猪太郎 『外交官の一生』 中公文庫P.332〜P333 (1998年) http://jseagull.blog69.fc2.com/blog-entry-496.html 南京大虐殺の真相 鬼頭久二(1916年8月生まれ)第16師団歩兵第33連隊 第1大隊
南京戦の時、当時の宮さん〔朝香宮〕から命令があって、その命令は中隊長か小隊長から聞いたけど 「犬も猫も含め生きている者は全部殺せ」ちゅう命令やった 天皇陛下の命令やと言ったな 沢田小次郎(1915年9月生まれ)第16師団歩兵第33連隊 第1大隊某中隊指揮班
この中隊には男も女も子どもも区別なしで殺せという命令が出ました。 つまり虐殺でした 残虐な攻略戦で、その残虐さは南京に入ったらすぐそうでした。 南京攻略戦はちょっとやりすぎでした。反日の根拠地というので、南京に入るまでは家を全部焼けという命令がずっと出てました。 するとまた後続部隊が泊まる所がないからといって、家を焼くのを中止したんです。 とにかく家は全部焼いて人間は全部殺せという命令でした。 命令が出てなかったらこっちはしませんよ。 北支の戦争では兵隊以外の者は絶対に怪我人を出したらあかんという命令が出ていました。 だから北支は戦争しにくかったです。 でも南京攻略戦は手当たり次第やったので、戦争がしやすかった。 それももちろん命令があったからです。 皆伝え聞いて分かっていました。中支では、上陸してからずっとやりたい放題にやっとったんですhttp://members.at.infoseek.co.jp/NankingMassacre キーナンは、自分が技巧的に追及してきたその判決を聞いた日の夜、 彼の切り札証言人、田中隆吉と一杯飲みに外出した。彼は酔いにかまけつつ、 「馬鹿げている、まったく馬鹿げた判決だ」と口にした。彼が最も反対してきた判決は、松井――南京攻略の際、その命令が悪用された痛ましい小柄な大将――の死刑だった。 公正は私に、被告に有罪を決定する際、天皇の免責について再考するよう、求めている。 http://www.retirementaustralia.net/rk_tr_emperor_13_3_4.htm 南京強奪の不気味な作戦は、1937年8月15日に開始されるべく、すでに着手されていた。
その日、松井岩根大将――戦犯を祀る熱海の神社の女神官と親族であり、「南京の虐殺者」と歴史上に名を残すこととなる男――は、天皇裕仁に召喚され、宮中へと向かっていた. その前日、松井には近衛師団長より通知があり、裕仁が中国での命令を彼に与えようとしていることを知た。それは、彼にとって大きな名誉で(10)、その召喚に直ちに応じた。 松井は、中国との友好の主唱者であったので、彼にとってこの召喚はことのほかの喜びであった。ほんの二ヶ月前には、中国との全面戦争を避けるための工作を計画していた(11)。彼はそれを知らなかったのだが、特高警察の報告により、その件は天皇のもとにも届いていた. 突然に天皇が姿を現した。松井は、めまいを感じながら、深く頭をさげ、光栄であることを表し、さらに、日本の計画をめぐって、中国人に用いられなければならない平和的方法についての自身の信念について説明を始めた。 裕仁は理解したかのようにうなずき、上質紙の公式書類を広げた。松井を一瞥し、天皇は、その甲高い声でそれを読み始めた。近衛師団長よりそっとつついて促され、松井はそこにひざまづいた。裕仁は彼に、華中日本軍司令官を命じ、彼の新たな命令を象徴する司令杖をさずけた。 二日後の中国への出発の前夜、東亜連盟の役員たちによって壮行会が開かれた席で、松井大将はこうあいさつしていた。「私は前線へ敵と戦いに行くのではありません。わが兄弟と和する志をたずさえて行くのです」。 9月の初め、裕仁は、宮中内部に人的配置計画を彼独自で監視できる大本営(17)の設立を要求した。その役務が天皇の出席――神の存在――においてなされるという、この組織の人員構成と原則は、当然にその正体を物語っており、この大本営の存在は、11月半ばまで、明らかにはされなかった。裕仁は、一部、上海の情勢の行き詰まりを、一部、9月初めに参謀本部への彼の指示が、作戦部の部長、石原莞爾少将の書類入れのなかで眠らされていたことを理由として、その設置を主張した。 鈴木は、裕仁が最もよく知り、最も信頼をおいた2、3人の若い軍人の一人であった(25)。鈴木は、南京の強奪を、京都にある第16師団本部の机上より、無線によって管理監督した。 彼はおそらく、その机上作業を、飛行機による前線との間のすばやい往復で補強していただろうが、彼の視察の回数と頻度についての〔東京法廷での〕証言(26)は、混同かつ矛盾していた。彼は、30年前、東京の参謀大学時代以来、蒋介石を知っており、過去何回か、裕仁の私的密使として(27)、蒋介石のもとへ出向いていた。加えて、彼は陸軍の経済面の指導的な専門家でもあった。 つまり彼は、二重の役割を果たす能力を備えていた。ひとつは、南京強奪が進行中、蒋介石と近衛首相との間の秘密の無線交渉における仲介者の役を演じており、他は、侵攻のコストのみかえりとして、南京での組織的略奪を行うその第16師団を指揮していた。 上陸後の三日間で、第6師団は、上海郊外へ向かう64キロの行程うちの40キロを、焼き払いそして爆破して進んた。そして三日目には、松江〔スンチャン〕の町を占領した。9週間後、ある英国の特派員は、松江に何が残されているかをようやくにして目撃することができた。そしてこう書いている。「建物は焼き尽くされ、残っている建物はほとんどない。くすぶる廃墟やひとけのない通りは、薄気味の悪い雰囲気を漂わせている。目に入る生き物といえば犬のみだが、死体を食って異様に太っている。およそ十万人が住む人口密度の高い松江だが、私が見たのはたった5人の中国人で、フランスの教会施設に涙ながらに隠れていた。」 華北から派遣されてきた「黒い」艦隊の16師団は、夜陰に乗じて揚子江河口をさかのぼり、パイモウ入江という、トーチカ線のちょうど背後の、中国軍の北の弱点に上陸した。海路を使った日本軍の挟み撃ち攻撃の「黒」側は、その勢力では敵と互角であった。かくて、南京の処刑係が到着することとなった。 この新師団は、京都の例の鈴木によって指揮されており、前線では、中島今朝吾〔けさご〕中将――55歳、小さなヒムラーといった男で、思想取締り、脅迫、拷問の専門家――がその指揮者だった(39)。この中島が、南京虐殺をめぐるその細部の監督に当たろうとしていた。 戦後、蒋介石政府は、中島の第16師団と、「阿修羅」との名をもつ谷の第6師団を、南京攻略の際に39万人の生命を奪った罪で告発した 中国軍の退却が始まった後も、前線の日本軍師団はその追撃の手を緩めなかった。東京の参謀本部は、地図上に線を引きながら、そこが進攻の止まる停止線と発表し、欧米の報道陣に一大ショーを披露していた。 その線上で、兵員は再編成され、天皇よりの秘密指令を受け取るやいなや、ふたたび行動を続けた。 だが、そうした命令の存在は、1964年に、退役した大将たちのグループが本を出版するまで、公表されることはなかった。 当時、外国人報道陣向けに、前線にいる兵士たちはもはや手に負えず、統制がとれなくなっている、との印象が意図的に作られていた。 だが真実は、兵士たちは大本営が皇居で設立され、自分たちの行動が神的な天皇自身によって監視されていることを知っていたため、それほどに周到で従順な兵は、かっていなかったことである。 最初の停止線は、揚子江デルタを横切り、11月4日に引かれた。11月24日に、すべての師団がそこに到着した時、天皇の命令(45)により、それは解除された。 参謀本部は、同じ日、80キロ西方に、第二の停止線を設定した。裕仁は、非公式には三日後に、公式には七日後にそれを解除した。 松井にあてた最初の電報(48)はこう告げていた。 南京攻撃への一致した決定を得るべく、当本部の面々は着実な議論に取り組んでいるが、最終決定にはいまだ至らず。ともあれ、決定は間近であるので、安心されたし。 松井のもとの参謀将校たちにあてた、第二の、極秘、至急電報(49)はこうなっていた。 余は、余の最高幹部の決定いまだ得ずとも、当本部の核心は南京攻撃に傾注しつつあり。しかるに、これを理解し、予断を打ち捨て、前進計られたし。 ここに言う「当本部の核心」とは、電報を打った下村少将を別にして、天皇裕仁のみであった。また、「最高幹部」とは、もちろん、苦闘する多田中将のことである http://www.retirementaustralia.net/rk_tr_emperor_10_1.htm 残忍な部隊が南京に接近している時、松井大将は、揚子江デルタの蘇州〔サンチョウ〕の前線本部で、結核の熱のため、寝たきりでいた。
またその5日前の12月2日、天皇裕仁は、松井の責務から、前線部隊の人的監督を除いて安心させ、華中方面の総司令官へと格上げした。そして南京地区軍の司令官としての松井の地位に代わって、裕仁は、自分のおじ、朝香宮〔あさかのみや 鳩彦〕を任命した。 朝香宮の前線への任命は、他のいかなる権威をも超越する天皇の意向によるもので、病床にある松井大将の指揮権はまさに蹂躙されようとしていた。彼は部隊を引き上げ、南京の城壁の外3、4キロの場で、三集団に再編成するよう命令した。 それは、城市内に進駐するのは、統制のとれた数大隊に限り、占領が「中国人の目にも輝かしく、日本のもとでも安心できると思わせる」ように、実行されるためであった(55)。 そして彼は、彼の管轄下の将校を蘇州の病室に呼び、通常の指揮としては極めて異例な以下の命令書を手渡した。 帝国陸軍の外国首都への進入は、世界の耳目を集める、わが国の歴史における偉大な出来事である。しかるに、秩序を乱す部隊は、市内に進ませない。城市内に入る部隊は、この目的に沿って、所轄の師団司令官によって特別に選別されたものとさるべきである。そうした部隊には、留意すべき事項と、城市の人々の権利と利益の地位保全が前もって通知される。それらは、略奪者とはまったく縁のないものにさせなければならない。必要に応じ、見張り兵が配置される。進入部隊とともに、多くの憲兵、補助憲兵を城市内に入れ、これをもって不法行為を予防する 朝香宮は、彼の判を押し、「極秘、破棄せよ」と付記した一連の命令を発した(60)。それは単に、「すべての捕虜を殺せ」とあった。中国軍兵士は、姿勢の変化を察知し、南京の城壁内へと逃げこみ始めたが、少なくとも、四分の三の兵士が、もう一日、生きて戦った。残りの七万五千人は、南京城市内部に閉じ込められ、実質上、この首都強奪を目撃した欧米の観察者による犠牲者の統計に加わった。 朝香宮の諜報参謀の中佐(#)は、その「殺せ」という命令を自ら率先して偽造した〔訳注〕、と友人に告げている。もしそうだとすれば、彼が軍法裁判にかけられなかったことが注目されるが、1945年6月、沖縄の洞窟壕で中将として死ぬ〔自決〕まで、軍人としての経歴をまっとうした。 (#) 長勇(ちょう いさむ)。さかのぼる1931年、宮中の支援のもと、二件の擬似クーデタ〔1932年の三月(血盟団)事件と5.15事件〕の組織を助けた。これにより、情勢は混沌と化し、満州征服に伴う国内政治の危機の〔軍部主導による〕沈静化をもたらした。 〔訳注〕 この命令の作成にあたり、松井総司令官はそれを制止しようとしたが、長中佐がそれを無視したらしい。
天皇のおじ、朝香宮の命令は、すべての捕虜を殺せという厳格なものであった。 南京を占領する、武藤、中島、朝香宮によって解放された8万余りの兵士は、勝手にできる場では、強姦、殺人、略奪、放火を重ねた。 上官の指揮のもとにある場合でも、酔っ払ったり規律を無視して見境なく行動したが、それも組織的であった。こうして南京の虐殺は、中島が南京に入った12月14日より始まり、6週間それは続いた。そして、世界中からの抗議にも拘わらず、近衛宮が裕仁に、もはや蒋介石を失権させる以外に希望はないと認めるまで、それは止まなかった。 日本兵は、川岸における毎夜の鬼畜な任務にあたらされる一方、昼間、盗みに使用された。 南京に居た米国人教授の一人、社会学者のルーイス・スマイスは、略奪は隠れた事業として始まったという。 「日本軍は重い負担を軽減するため、非公認の略奪引受人を必要としていた」と彼は書いている。すでにスマイスは(109)、中島の到着以後、「上官の目の前で、店という店を組織的に荒らし回る」光景を目撃していた。そして彼はこう書いている、「収容所や避難所にいる難民の多くは、日本軍によるしらみつぶしの探索の際、わずかな財産からでも、現金や貴重品しか持ち出せないでいた」。 そして、日本軍によって発見された膨大な量の戦利品は、個々の兵士の背嚢にしまわれたのではなく、公に軍の倉庫に運び込まれていた。 三ヶ月後、安全地区委員の一人は、自分の家から略奪されたピアノの行方を追っていた。彼は、ある日本人将校により、二百台のピアノがしまわれている軍の倉庫へと案内された(110)。別の倉庫には、じゅうたん、絵画、マットレス、毛布、骨董の屏風やたんすなどが満たされていた。中島を含む多くの将官たちは、ヒスイ、磁器、銀などの小さな宝物を懐にいれていた(111)。だが、ほとんどの略奪品は、後に売られて、その代金は軍の費用をまかなうために用いられた。 そうした犯罪においてことに南京が銘記されることとなったのは、12月15日の同じ日、それが組織的遊戯と化したことだった。言葉達者な将校に率いられたトラックが、安全地区の難民避難所を回り、「尋問」との理由で、若い女性を満載して運び去った時、集団強姦が始まった。いくつかの場面では、兵士たちが、女性がトラックに載せられる前から公衆の面前で強姦におよぶにいたって、それが口実と早くも露呈してしまっていた。 教育があったり、あるいは美貌の女性は、通常、それぞれの獲得物から選りだされ、大佐や大将のハーレムにおいて、質の異なる者らのために仕えさせられた。だが、そうと違って運に恵まれぬ女たちは、兵士たちが宿泊する公共施設や公会堂などに運ばれた。多くは、一晩に十人とか二十人とかの男に強姦され、翌朝に解放されたが、後日、幾度も他のトラックにより呼び戻された。多くは暴力を振るわれ、そのあげくに殺された。 未熟な少女は、そうした虐待に我を失い、まもなく命を絶っていった。気丈夫な人妻たちはしばしば、小隊あるいは隊全体の奴隷として使われ、昼間は洗濯をさせられ、夜は売春婦としての役目を負わされた。多くの若い女性は、ただベッドに縛りつけられ、あたかも永久の付属物かのように、やってくる者だれもの利用に供された。そして、彼女らが、欲望を果たすには余りに泣きくれたり病気であったりすると、すぐさま処分された。路地や公園には、その死後、切り刻まれたり詰め物をされるなどの屈辱を受けた、いくつもの女性の死体が放置されていた。 凱旋入城
12月17日金曜日の朝、南京の大虐殺は、小男、松井大将の凱旋入城の式典のために、その度がゆるんでいた。慢性結核のぶり返しのため熱を出していた松井は、海軍のランチで川を遡上し、車に乗り換え、市の東側にある三重のアーチを持つ、損傷した中山門付近へ到着した。 パレードに参加していた兵士の奇声や外見、そしてホテルでの宴会で耳にした言葉などから、松井は、南京で何が起こっているかについて、深い疑念を抱いていた。選ばれた数大隊のみが市内に駐留せよとの彼のことさらの指示は、まぎれもなく無視されていた。彼は晩餐を早めに切り上げて、参謀会議を招集した。参加していた将校によると、彼は中島と武藤をしかりつけ、すべての不必要な部隊を市から出すように命令した。宿営担当の武藤は、農村地区に新たな宿泊地を設けることを言明した(116)。 翌朝、メトロポリタンホテルで目を覚ました時、松井は憂鬱な気分にとらわれていた。彼の民間人補助役のひとりからその理由を聞かれた松井はこう答えた。「我々が知らないうちに、この都市で、もっとも許しがたいことを成してしまったことを、私はここで覚らされた。南京から避難した多くの中国の友人の気持ちや心情、そして両国の将来をを考える時、私は落胆を禁じえない。私は非常に孤独で、この勝利を祝賀する気持ちになぞ毛頭なれない。」(117) その朝の記者会見の場においても、彼は義務的に東京の立場を口にしたが、大言壮語の中に、悲嘆の表現を忍び込ませていた。「将来の我が軍の作戦は、蒋介石と国民政府のとる姿勢に全面的にかかっている。私は個人として、人々がこうむった悲劇を申し訳なく思う。我が軍は、中国を悔やませるようなことを続けてはならない。今は冬だが、この季節は熟考の時間を与えている。私は私の弔意と深い同情を、百万の罪なき人々にささげる。」 彼が市を去るやいなや、残虐行為は再び開始された。 上海にあって松井は、南京で毎日繰り返されているさらなる残虐行為について耳にしていた。彼は、それを止めさせる力のないまま、朝霞宮の評判について「いたく憂慮」していた。朝香宮が市内に移ったクリスマスの日、松井は、ニューヨークタイムスの特派員、ハレット・アベンドによるインタビューの中で彼の懸念を表し、同記者には、松井が「感じよく」また「痛ましい」人との印象を与えた(132)。ニューヨークタイムス紙の記事を通し、天皇裕仁へのその間接的懇願にかすかな希望を託して何らかの良き結果期待し、そして松井は、その翌日、朝香宮の参謀に以下のような文書を送った。 「不法な行為が行われているとのうわさがある。・・・ことに、朝香宮が我々の司令官であるからこそ、軍紀はいっそう厳密に守られなければならない。誤った行為を働くものは、いかなる者といえども、厳しく処罰されなければならない。」(133) 新年の乾杯の席で、松井は、私見としてある日本人外交官にこう語った。「私の部隊が、とてつもなく悪く、きわめて遺憾なことを行ってきている。」(134) 後年、部隊は言うこときかなくなり、凶暴化したのか、との質問に対しては、「規律は良好だが指導と行いがよくないと考えた」、と答えている。
1946年より1948年までの極東国際軍事法廷で、各国より選抜された判事による二年間の審問によって認められた数字によれば、最終的には、南京では、2万人の女性が強姦され、市の民間人の少なくとも四分の一に相当する、二十万人以上が殺された(###)。市の三分の一は(137)火災によって灰燼と帰した。価値あるもののすべては廃墟から搬出され、日本軍の倉庫に納められた。 南京での犠牲は、明らかに、偶発的なものではない。十万人の人が二十万人を殺すことは、不注意や、酒酔いや、違法行為があったとしても、容易になせることではない。 しかし、世界中からの抗議にも拘わらず、当時の日本政府によって、そうした犯罪者の誰も、何の処罰も受けなかった。戦地における部隊が狂暴となり、それには手の施しようがない、というのが東京の公的見解であった。 しかし、いったん南京から兵の帰還が始まると、その多くはそれとは異なった見方――彼らが見、そして行った、胸を悪くする話――を語った。「強姦と強盗以外に軍隊で学んだことはない」とか、ただ機関銃の効果を試すために捕虜を撃たなければならなかったとか、中国女の扱いについて、上官から「ことをすました後は、金を払うか、辺鄙な場で殺すか、とちらかにせよ」と命令されたとか、と苦言をこぼした 南京陥落の日、天皇裕仁は、皇后の大おじで陸軍参謀長の閑院宮に、「極めて満足」と表現し(143)、また、閑院宮は、松井大将に祝電を送り、「これほどの目覚しい軍事的進展は歴史上かってない」と述べ(144)、さらに、一月末、ファシスト的な皇后のいとこ賀陽宮は、南京から戻って天皇に、その地で見てきたことの全面的報告をし、そして、ひと月後の2月26日、天皇裕仁は、葉山の御用邸に、熱のある松井、王侯然たる朝香宮、そして熱血漢の柳川を迎え入れ、それぞれに銀の台に菊の紋を浮き出させた一対の勲章を授与した、ということである(145)。 裕仁は、これらの戦争犯罪人のいずれにも、名誉を与えこそすれ、その一人をも処罰せず、今日まで、血縁、朝香宮とともに、温情厚く、生きてきている。 そのすべての責めを一身に担ったのが、結核病みの小男、松井大将であったのは、南京における最大の逆説である。 彼は、熱海の神社に祀られている他の六人とともに、極東国際軍事法廷にかけられた。同法廷の15万ページにのぼる記録には、本章で見てきたように、その強奪における松井にかかわる論旨が発見できる。だが、松井がその強奪の秘密の命令を出したとの証拠は、そのどこにも見当たらない。その告発にあたった連合軍の検事も、決して松井の誠意について問責しておらず、一つの嘘をも指摘していない。 http://www.retirementaustralia.net/rk_tr_emperor_10_1c.htm 12. 中川隆 2013年8月18日 08:40:18 : 3bF/xW6Ehzs4I : W18zBTaIM6 昭和天皇が2・26事件を起こさせた本当の理由
ねず氏は、天皇は自分の統帥権が犯され、統帥権が奪われようとすることには敏感に反応するのであって、統帥権を断固維持しようと腐心する。これは天皇家の歴史的本能だ、という。
2・26事件は為替相場を不当に操作して儲けるために起こさせたものだった. 2・26事件が起きると、当然のことながら日本の国家信用が落ちて、為替や株価が暴落した. もし、天皇があらかじめ為替や株価でも儲けを企図し、シナリオを書かせていたとしたら、事件で暗殺される「重臣」たちが青年将校らによって殺されることも計算のうちに入っていた、あるいは気に入らない「重臣」を消すために事件を起こさせたとも考えられる。 青年将校らにとっては、いわば天皇親政によって昭和維新を断行するのだと夢見ていたのだろうが、実際の天皇はそういう人ではなかった。つまり天皇は飾り物にされ、周囲の奸臣・奸官に取り巻かれているから正しい政治が行われないと善意に解釈していたが、そうではなくいわば奸凶は天皇自身だったのである。 2・26事件がおきると、天皇はその40分後には情報を得て、ただちに彼らを反乱軍と断じ、鎮圧を命令している。決起した将校らにしてみれば、天皇にまさかの裏切りにあったのである。しかし、この天皇の裏切りは、「将校らにしてみれば」なのであって、私は彼ら将校は天皇・財閥側が仕掛けたワナにハマっただけではないかと思う。 天皇は、決起将校らを私利私欲に基づくものと激怒したが、当の将校らは無私の心で決起した心づもりだから、まるで話がかみあわない。むしろ、天皇のほうが、私利私欲で自分の資産の運用だけの思惑で動いていたのだ。 なにしろ、戦前の天皇家は世界一の金持ちとも言われるほどの天文学的資産家であった。天皇は、大財閥や主要銀行、大企業などの大株主であったから、国家から予算として年額150万円を支給されていたとは別に、その配当は巨額なものであった。 だから戦争をやれば、こうした大企業が巨利を得ることになり、それがそのまま皇室の持ち株への巨額配当となって返ってくる仕掛けだった。事変=戦争を起こし、植民地で搾取すればするほど皇室の懐が潤う仕掛けである。 だから天皇家は、日本が満州事変、支那事変、大東亜戦争へと打って出ることに反対しなかった。2・26事件の将校を断罪するなら、なんで満州事変や支那事変を主導した軍部を断罪し止めなかったのだ? それは昭和天皇が、立憲君主ではなく、実は専制君主であったからであり、実際、戦争に反対するどころか積極的に戦争を押し進めた。 大東亜戦争中は、なんと宮中に大本営を置き、作戦を指揮し、認可していたのが真相である。 2・26事件のときだけ政治的に介入し鎮圧を命じて、あとのときはすべて「君臨すれども統治せず」を貫きとおし、終戦のときだけ仕方なく決断したなんてことがありようか。http://d.hatena.ne.jp/rainbowring-abe/20060825 2・26事件が起きることを天皇はあらかじめ知っていたのではないか。財閥から情報が入っていたに違いないのである。というよりも、そもそも天皇と財閥(とその代理人)が2・26事件を仕掛けたと見るべきではなかろうか。 事件発生から終息までの2日間もちゃんと前もって計算されていたのであるまいか。仕掛けた闇の勢力は当然、真崎らがどう動くか、どう終息させるかも読んでいたか、指示していたに違いない。 クーデターが起きれば為替も株も暴落するのは、あらかじめわかりきった話である。それをあえて事前にわかっていながら反乱を阻止しなかったこの不自然さ。 反乱を起こす予定の将校らには財閥から資金が流れていたし、将校らには官憲が張っていたのだ。彼ら将校は六本木第一師団司令部(防衛庁跡地)前の中華料理屋でしきりに会合(飲食?)を開き、談論風発をやって、決起、決起と気勢をあげていた。それが官憲に筒抜けにならないわけがなかろう。それなのに、将校が事件直前に弾薬庫から実包(実弾)を運び出しても黙って通過せているのだから、こんな見え見えの策謀はない。 皇室も財閥も「クーデターによって為替の相場を下落させて、売買の操作によって利を求めるドル買い事件にすぎなかった」この2・26事件を、すべて芝居でやらせたのではなかったか。 つまり、すべては財閥と天皇の書いたシナリオに従っていただけで、すべては企画された事件だったのではあるまいか。 http://blog.goo.ne.jp/hienkouhou/e/6863442c2632a11902486caa91a0cb55 昭和天皇は、自分の恋(つまり後の良子(ながこ)香淳皇后との恋)を成就させるために、右翼勢力の力を借りた。そのために右翼の台頭を許してしまい、かえってみずからの統帥権をその右翼壮士らに脅かされる事態になったので、その動きを壊滅させるために、右翼の首領で日本政治に隠然たる力を行使していた頭山満を使って2・26事件を起こさせ、一気に理屈をこねる右翼を壊滅させたと鬼塚氏は見る。
そして自らの統帥権をしっかりと把持すると、いよいよユダヤ国際金融資本の陰謀に乗せられて、支那大陸へ、東南アジアへと戦争を仕掛けていくのである。 昭和11年2月が2・26事件であり、翌年8月には第二次上海事変が起きて、一気に支那事変が拡大していく。
これを見れば、あきらかに天皇や財閥が、支那へ戦争を仕掛ける意図をもって、事前に2・26事件を起こしたらしいことが見てとれる。 http://blog.goo.ne.jp/hienkouhou/e/bd61d9d5c3085df3fddc6adf68c4c7d2 本来であれば、忘れ去られてしかるべき歴史的事件が、今もなお、「昭和史最大の謎」として話題になるところは、2・26事件のすごさでしょう。 1年半前に我々がとりあげた鬼塚英昭さんの「日本のいちばん醜い日」は8・15クーデター未遂事件は、天皇側が仕組んだ偽造クーデターと考えています。そしておそらく2・26事件も。 また、8・15事件のシナリオを書いて、細かな演出をしたのは塚本誠憲兵中佐だと紹介しています。 驚くことに、8・15クーデター事件の背後で暗躍していた塚本誠中佐は、2・26事件のときも背後にいました。 塚本は当時、上海で憲兵をしていましたが、昭和「11年11月に(大阪の留守宅で)三男が生まれた」とありますから、昭和11年2月ごろ日本にいたようです。おそらく上海をベースにしながら、偽クーデターが起きるように日本にちょくちょく帰って煽って歩いていたのではないかと思われる。 記述のない前日まで日本で暗躍して、当日はアリバイ作りのために上海にいたのではないかと思われます。鬼塚さんは2・26も8・15も、天皇側が仕組んだ偽クーデターと考える。 またシナリオと演出は塚本誠憲兵中佐だとバーミガニの記述を紹介。 「塚本は、1934年に陸軍大学における北進派即ち征露派の陰謀を暴露するのに 、宮廷の密偵を助けたことで、天皇の注意を惹いた。彼はそれから1935年の間 じゅう、大阪で皇叔東久邇宮の下で様々な秘密計画に携わった。その1つは(略) 永田軍務局長の殺人であった。」 http://www.asahi-net.or.jp/~VB7Y-TD/220305.htm http://www.asahi-net.or.jp/~VB7Y-TD/220216.htm 13. 中川隆 2013年8月18日 09:48:52 : 3bF/xW6Ehzs4I : W18zBTaIM6 金の亡者だった昭和天皇 _ 昭和天皇が戦争狂になった背景 「戦前、皇室には予算として年額450万円が国家予算から計上されていたが、一説によれば天皇の総資産は少なく見積もっても約16億円であるという。 だが、宮内庁のこの数字は嘘で、本当の資産総額は、海外へ隠した資産を含めれば、信じ難いような天文学的金額であるともいわれている。 皇室予算だけではこのような金額を貯蓄することは不可能であるが、当時皇室は横浜正金(後の東京銀行)、興銀、三井、三菱ほか、満鉄、台湾銀行、東洋拓殖、王子製紙、台湾製糖、関東電気、日本郵船等、大銀行、大企業の大株主であり、その配当総計は莫大なものであった。 すなわち、これら企業・銀行の盛衰は、そのまま皇室に影響を及ぼすわけである。こうなると戦争で、財界が植民地から搾りとるほどに皇室は豊かになるということになる。」 戦前の天皇家と国家、あるいは天皇家と資本家の関係がこれで言い尽くされているであろう。 天皇は昭和の大戦争に深く関与した。 いかにユダヤ金融資本から仕掛けられた戦争であろうとも、大企業、大銀行はみんな戦争経済へと誘導したのであって、その大株主であった天皇が戦争を指導したのだから、責任なしとは言えない。私は先の戦争に関して連合国に謝る理由はないと思うが、天皇に戦争の責任は重大だったと思う。 天皇家と日本郵船は明治期から深い仲にあった。日本郵船の大株主は天皇と三菱財閥であった。当時は海外渡航といえば船舶しかなく、日本郵船は日本貿易の命綱である。この日本郵船が大量の移民をアメリカに送り込んだ(数十万人といわれる)し、また大量の若い女性を海外に運んだのである(娼婦にするためである!)。 日本郵船だけでなく、天皇は大阪郵船の大株主でもあり、これを使って、日本は手に入れた外地へ、人間や物資を運ばせ、莫大な利益をあげさせた。 鬼塚英昭氏の『天皇のロザリオ』(成甲書房)によれば、福沢諭吉は「賎業婦人(娼婦)の海外出稼ぎするを公然許可するべきこそ得策なれ」と主張している。外貨稼ぎに日本の女性を使えと言ったのであるから、どこが「天は人の下に人をつくらず」だ! つまり諭吉は、娼婦の海外輸出は天皇と三菱に利益もたらすから「得策だ」と平然と言ったのである。 慶應義塾とは日本資本主義と天皇を支える私立の重要な学校であった。財界人を多く輩出したのは慶應義塾や官製の東京帝国大学であった。 そこを出た財界のトップたちは、 2・26事件を影で操り、そこから一気に戦争経済へ主導し、政府要職にも就くなどして日本を大戦争とその果ての破局へと導くのである。 鬼塚英昭氏の『天皇のロザリオ』には、戦前の皇室が銀行支配も徹底していたことを書いている。皇室は日本銀行の47% の株を所持していた。 だから紙片を発行し、公定歩合を調整するたびに、莫大な利益が皇室に流れた、とある。日銀は発足当初からユダヤ国際金融資本の日本支店であるから、これでいかに天皇家とユダヤ資本が深い関係かがわかるだろう。 さらに鬼塚氏は天皇とアヘンの関係も暴露している。 「同じ手口(米国に移民を送って儲けた話)を皇室と三菱は考えた。ペルシャ(イラン)からのアヘンの輸入であった。皇室と三菱は三井も仲間に入れることにした。三井を入れなければ内乱が起こる可能性があったからだ。三井と三菱は隔年でアヘンをペルシャから入れ、朝鮮に送り込んだ。満州という国家はこのアヘンの金でできた。 天皇一族はこの利益を守るために秘密組織をつくった。厚生省という組織に、天皇は木戸幸一(後に内大臣)を入れ、アヘン政策を推進させた。1938(昭和13)年12月に興亜院がつくられ、アヘン政策を統括した。日本でもケシ栽培をし、朝鮮にほうり込んだ。中国でも熱河省でケシ栽培をした。この利益も皇室の財産の形成に大きく貢献した。 多くの(ほとんどと言うべきか)軍人たちが、三菱と三井のアヘンの利益の一部をもらって遊興にあけくれた。」 天皇も、財閥も、軍人も、アヘンという恥ずべき巨悪に手を染め、巨利を得ては遊興に使うために、戦争を次々に仕掛けたのだった。 このゆえをもって、天皇はついに終生、中国と朝鮮には足を踏み入れることができなかった。ちなみに沖縄も、天皇は自らの助命と引き換えに、米軍の永久使用を提供したので、これまたついに沖縄を行幸することはできなかった。 「皇室は蓄えた資産をモルガン商会を通して海外で運用していたが、金塊、プラチナ、銀塊などがスイス、バチカン、スウェーデンの銀行に預けられていた。さらに取り巻きの重臣たちもそれに倣って同商会に接触し、そのおこぼれに預かっていた。 中立国スイスには敵対する国の銀行家同士が仲良く机を並べて仕事をしている奇妙な現象が見られるが、なかでも国際決済銀行、通称バーゼルクラブは、世界の超富豪が秘密口座を持つ銀行で、治外法権的な存在であった。同行は不安定な紙幣ではなく、すべてを金塊で決算する銀行であった。 内大臣・木戸幸一は、日米英戦争末期の昭和19年1月、日本の敗北がいよいよ確実になると、各大財閥の代表(銀行家)を集め、実に660億円(当時)という気の遠くなるような巨額の皇室財産を海外に逃すよう指示した。皇室財産は中立国であるスイスの銀行に移され、そこできれいな通貨に“洗浄”されたが、その際皇室財産は、敵対国にばれぬようナチスの資産という形で処理された。スイスは秘密裏にナチスに戦争協力したので、ナチスの名のほうが安全だったわけである。」 昭和天皇は大東亜戦争中、宮中に大本営を置いて陸海軍の下僚参謀を指揮して作戦を実行した。それの実態が連合軍にバレれば自分も戦犯として処刑されるという恐怖と、せっかく築いた莫大な資産が取り上げられることを心配したのだ(むろん実態は連合国は承知していた)。 だから彼は、資産をスイスや南米の銀行に預けた。海軍の潜水艦を私的に使ってアルゼンチンに金塊を避難することまでやった。 そして進駐軍がくると、マッカーサーに卑屈に叩頭し、朕はキリスト教徒になってもいい、日本をカソリックの国にしてもよいと申し出た。宮中の女性を東京裁判のキーナン検事に提供して歓心を買い、戦争中の陸軍軍人の内輪情報を(田中隆吉を使って)チクっては責任を全部東条らに押しつけて、彼らが絞首刑になるよう誘導した。みんな、自分の命乞いのため、そして資産保全のためである。 「中島知久平(中島飛行機 ゼロ戦の製造で有名)は、陸軍が(支那事変で)未だ戦線を黄河あたりにまででとどめようとしているとき、閣僚の一人として漢口まで行かねばならないと主張した。もっとも大胆に(中国戦線)拡大を唱えたのは、鐘紡社長津田信吾である。彼は中国との全面戦争とともに、イギリスとの戦争を説いた。彼の強硬論は鐘紡の高利益の基礎に外地会社の多角経営があり、これを積極的に中国領内に拡大する希望を持ったこと、(中略)中国国内に原材料基地を見出さねばならぬという因果関係からくるものであろう。」 中島知久平が閣僚になって戦争を主張したように、また王子製紙社長の藤原銀治郎は、海軍顧問、商工大臣、国務大臣。軍需大臣を歴任し、その地位を利用して戦争でしこたま儲けたクチである。 戦後、自民党の大物議員で60年安保時に外相を務めた藤山愛一郎も戦前、大日本製糖社長として、戦争を煽った人物である。彼は台湾での製糖事業を一手に握っていたが、さらに南方と中国南部に製糖工場を広げるべき軍部と結託した人間である。 こうした三井.三菱以外の中小財閥も、積極的に戦争経済を推進しようと図ったのである。それを最も喜んだのはこれらの会社の大株主だった天皇であった。 こうして見てきたように、天皇は莫大な蓄財を行うために、財閥と組んで国民を売りとばし、戦争を仕掛けて国民を殺してきた。責任はすべて軍人と国民とに押し付けた。血も涙もない、とはこのことではなかろうか。 終戦後、彼は「人間宣言」のあと、全国を巡幸して歩いた。その映像は今も残る。敗戦で打ちひしがれた国民を激励すると称して(膨大な予算を使って)行幸したときの姿は、 わざと古着にすり減ったクツを履いて、軍部に騙された気の毒な天皇という哀愁を演出してみせたのだった。 彼は1901年生まれだから、巡幸のころはまだ40代後半なのに、わざと猫背にして60歳くらいの老人のように見せているように、映像や写真からは伺える。 何を説明しても「あ、そう」と答えたことは有名になったが、これも自分は戦争を指揮したりしない、言われるがままの人間だったという印象を与えるためだろう。 戦前には絶対に大衆の前に姿を晒さなかった彼が、大衆に向けてソフト帽子をふりふり、愛想笑いを浮かべて「平和天皇」を演じてみせたことは、戦犯から除外してもらうための進駐軍へのポーズでもあったし、見事に国民をも騙すことにも成功したのであった。 戦後もついにマッカーサーをも騙しきって、資産を守った天皇が、なんで古着にボロ靴なのか。その心根の深奥をわれわれ国民は知るべきであろう。 http://blog.goo.ne.jp/hienkouhou/e/b2add89dad958852f4994fb54f0874b0 昭和天皇の代わりに処刑された A級戦犯
天皇の7人の最も「忠実な下僕」が絞首刑に、18人が占領の間中の投獄、そして、天皇自身は皇位から退位もせず、「立派な自由主義的な紳士」となった。
1948年12月22日、絞首台に向かおうとする東条、松井ほか5名の男たちは、全員で天皇に「万歳」――裕仁朝廷の永世を誓う――を唱和した。 その処刑に立合う責を負った連合軍の外交代表は一列となって、死刑判決を受けた者らの冷徹なユーモアとも映る行動を、深い印象と共に目撃していた。 裕仁のみが生き長らえ、そして記憶にとどめられていた。 戦争後の四年間、彼は戦前からの擦り切れた背広のみを着て、人々とみじめさを共有する姿勢を表した。 そして1949年、アメリカの新聞が彼をぼろを着て散歩していると報じたと家臣が告げたことを契機に、彼は、彼の結婚25周年を記念して、背広を新調することを受け入れた。 その数年後、作家、小山いと子が、皇后良子について小説を書いた時、その新しい背広について書いて話を終わらせていた。 天皇はイソップやアンデルセンを好み、この作家は、彼女の「天皇の新しい服」という喩えが、彼の好感をさそうだろうことを予期していた。 「天皇の新しい服」は、喩え話として、1950年代を飾った。1940年代の西洋の判事と報道記者の執拗な疑念は忘れ去られた。 http://www.retirementaustralia.net/rk_tr_emperor_13_3_4.htm 松井石根 花山信勝『平和の発見』より 「南京事件ではお恥しい限りです。南京入城の後、慰霊祭の時に、シナ人の死者も 一しょにと私が申したところ、参謀長以下何も分らんから、日本軍の士気に関するでしょうといって、師団長はじめあんなことをしたのだ。 私は日露戦争の時、大尉として従軍したが、その当時の師団長と、今度の師団長などを比べてみると、問題にならんほど悪いですね。日露戦争の時は、シナ人に対してはもちろんだが、ロシヤ人に対しても、俘虜の取扱い、その他よくいっていた。今度はそうはいかなかった。 政府当局ではそう考えたわけではなかったろうが、武士道とか人道とかいう点では、当時とは全く変っておった。 慰霊祭の直後、私は皆を集めて軍総司令官として泣いて怒った。 その時は朝香宮もおられ、柳川中将も方面軍司令官だったが。 折角皇威を輝かしたのに、あの兵の暴行によって一挙にしてそれを落してしまった、と。ところが、このことのあとで、みなが笑った。 甚だしいのは、或る師団長の如きは「当り前ですよ」とさえいった。 従って、私だけでもこういう結果になるということは、当時の軍人達に一人でも多く、深い反省を与えるという意味で大変に嬉しい。折角こうなったのだから、このまま往生したいと思っている」 http://www.geocities.jp/yu77799/gunjin.html#matuiiwane キーナンは、自分が技巧的に追及してきたその判決を聞いた日の夜、 彼の切り札証言人、田中隆吉と一杯飲みに外出した。彼は酔いにかまけつつ、 「馬鹿げている、まったく馬鹿げた判決だ」 と口にした。彼が最も反対してきた判決は、松井――南京攻略の際、その命令が悪用された痛ましい小柄な大将――の死刑だった。 公正は私に、被告に有罪を決定する際、天皇の免責について再考するよう、求めている。 http://www.retirementaustralia.net/rk_tr_emperor_13_3_4.htm ____
広田弘毅 漫才三唱 :「天皇陛下漫才!!!!!! 天皇陛下漫才!!!!!!」 三階から処刑第一組として土肥原、松井、東条、武藤の四人の順で、列をつくって降りて来られた。
『三誓偈』の初めの三頌を声高らかに私は読んだ。四人は頭を下げて、静かに瞑目して聞いておられ、終った時、「非常に有難うございました」とお礼をいわれた。それから松井さんが音頭をとって「天皇陛下万歳」を三唱、さらに「大日本帝国万歳」三唱を共に叫ばれた。 仏間に戻って、再び用意して待っているところへ、第二組の三人、 板垣、広田、木村さんが降りて来られた。
顔を合せると、すぐ広田さんが真面目な顔で、 「今、マンザイをやってたんでしょう」 といわれた。 「マンザイ? いやそんなものはやりませんよ。どこか、隣りの棟からでも、聞えたのではありませんか」 私も真面目に、こうこたえた。 「いや、そんなことはないが・・・・・・」 お経の終ったあとで、広田さんが、 「このお経のあとで、マンザイをやったんじゃないか」 といわれた。私も、やっと気がついて、 「ああバンザイですか、バンザイはやりましたよ」 といった。それでやっと、マンザイがバンザイだとわかって、 「それでは、ここでどうぞ」というと、広田さんが板垣さんに、「あなた、おやりなさい」とすすめられ、板垣さんの音頭で、大きな、まるで割れるような声で一同は「天皇陛下漫才」を三唱された。 花山信勝 「巣鴨の生と死」 http://www.c20.jp/1948/12senpa.html 14. 2013年8月18日 10:24:07 : J6exH8dwKo しればしるほどいやになるおとこ ヒロヒト 15. 2013年8月18日 18:35:46 : LCH7BQoWRk 注意すべきことは、中川隆先生の精神構造は 中国大陸の人間とも朝鮮半島の人間とも違うということ。 いい加減中川先生に「反天皇=在日認定」を阿修羅の見物人は辞めること。 中川先生の立ち位置は西洋史にたとえると「シンポテキプロテスタント= アンチ『守旧派』=アンチローマ教皇派」である。 だからこそ中川先生は、シンポテキプロテスタント人脈の 悪行を暴露する時に限っては、そこのラスボスの 個人責任を追及する方法を敢えて書かない有能なスパイである。 まあオレはどっかの誰かさんから「工作投稿しろ」と命令されても 工作員にすらなれない屁垂れだから、中川先生の投稿を 批判的に注意しながら参考にするしかないね。 『守旧派』カトリック的な存在にも、弱肉強食されるは蒙御免だから。 16. 2013年8月21日 00:17:54 : jJyTzaKEqE 中川っておかしい 特に、南京の話 ちゃんと検証しなきゃいかんだろ 戦争中に、南京でなんかあったという話はなかった。 戦後ふって湧いたように言われた話だ。 原爆投下の正当性を主張したい、アメが必至に主張 する、日本軍悪玉論を鵜呑みにする中川の幼稚さ にへどがでる! 17. 2013年8月21日 01:51:01 : W18zBTaIM6 悔しかったら、まずこれをすべて否定してね: 南京大虐殺資料集 http://www.geocities.jp/kk_nanking/ 南京事件の真実 虐殺否定派の解釈の誤りと捏造のすべてを明るみにだします by タラリ http://www.nextftp.com/tarari/index.htm 18. 中川隆[-11065] koaQ7Jey 2018年4月23日 07:55:01: b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-11947] ▲△▽▼ 日本兵の残虐行為は覚醒剤が原因だった あなたは知っていますか?日本の軍隊は太平洋戦争で心の高揚に『ヒロポン』を常用させていました 覚せい剤服用 日本は、1941年大日本製薬メタンフェタミン製剤「ヒロポン」(覚醒剤)武田長兵はアンフェタミン製剤「セドリン」(覚醒剤)を海軍、陸軍に大量に納入しました。 特効薬として特攻隊員に菓子袋に入れてカジュアルに支給しました。 製品は、「ヒロポン」の周りをチョコレートで包み『菊のご紋章』を付けて納入していました。
出撃前に注射やチョコレートを特攻隊員に食べさせていました。それを食べた若者は、意気揚々と戦地に出撃し散っていきました。むごい、悲しいことです。これを書くと、涙がでます。
九州の基地では、1036人の特攻隊員に「アンプル」を投与。国を守るため計6000人が玉砕していきました。悲しい事実です。 精神を高揚させ、人間性を失くす「ヒロポン」は慰安婦問題や、南京事件を起こした悲しい現実があります。
日本政府は、大日本製薬 武田長兵商店に、覚醒剤の製造中止を勧告、昭和26年(1951年)覚醒剤取締法が制定されました。 西堀貞夫の父、西堀孝一は軍医として特攻隊のヒロポン支給の恐ろしさを知り、軍上層部に進言、ニューギニアの戦地アインで戦死しました。
この想いが私たちの原点です。患者の会には、この真実を知るたくさんの遺族の方がお見えになります。 映画「永遠の0」では明かせなかった特攻隊員の死の真実。彼らはヒロポンで人間性を失くし玉砕しました。 http://www.onkyo.tokyo/guntai.php
ドーピングを誘発しやすい社会だから覚醒剤が浸透していく
1945年、日本の敗戦の後、どさくさに紛れて売られていたのが「ヒロポン」と呼ばれる薬だった。
ヒロポンというのは、文字通り「疲労がポンと取れる」という意味で付けられた安易なものだったが、その内容は今で言うところの「覚醒剤」だった。 戦時中は兵士や特攻隊の士気を鼓舞させ、労働者や女工たちに眠気防止で武器弾薬を作るために使われていて、大日本製薬の主力の薬のひとつだった。 この当時はヒロポンの成分であるメタンフェタミンが強い依存性を持つことが知られていなかったので違法ではなかった。新聞にも、堂々と「除倦覚醒剤」と銘打って売られていた。 「除倦覚醒剤」とは要するに「疲れを除き、覚醒する薬」という意味で、このメタンフェタミン系のドラッグを「覚醒剤」というのはここから来ている。 戦中は軍民共に戦争に駆り立てられていたので、「疲れた」などと言っている場合ではなかったのである。 だから、軍需企業・民間企業共に、ヒロポンを大量にストックしていたのだが、敗戦後、この薬が闇市を通して社会に大量流通するようになった。 終戦後の作家は、みんなドラッグ漬けだった
ヒロポンは社会の底辺で広がっただけではない。有名人でもみんなこの薬を使っていた。何しろそれは違法ではなかったのである。 漫才トリオの正司歌江、ミヤコ蝶々、中村八大、桂文楽、六代目笑福亭松鶴等はみんなこのヒロポン中毒になっていた。作家で言えば、『堕落論』で知られている無頼派の坂口安吾もヒロポン中毒だった。 無頼派と言えば、織田作之助も田中英光も同じジャンルに入るのだが、この2人もまた坂口安吾と同じくヒロポン中毒だったと言われている。 織田作之助などはヒロポンを注射しているところを写真を撮られて、それが出回って話題になったという。 何か物を書くというのは孤独で単調な作業だ。そして、集中しなければならないので、精神的にも激しい疲労が蓄積する。当時の作家は、それをヒロポンで乗り切っていたのである。 芥川龍之介は小説『歯車』で幻覚を描いているのだが、この幻覚はヒロポンから来ているという説と、睡眠剤から来ているという2つの説がある。 そこには、歯車が見えたとか、銀色の翼が見えたとか、黄色いタクシーが見えたとか、過去の罪の残像が繰り返し現れるとか書かれていて、その幻影に主人公が怯えている。 ストーリーもなく、ただ意識の変容を揺れ動いているだけなので、どちらかと言えば睡眠剤のような雰囲気がある。詳しくは分からないが、精神的には相当追い詰められていたことが窺い知れる。 この小説の最後は、誰か自分が眠っているうちにそっと絞め殺してくれるものはいないか」となっている。実はこの小説は芥川龍之介が服毒自殺した後に発表されたものだった。その「死にたい」という述懐は本心であったと思われる。 荒正人という小説家もいたのだが、この人は自分だけでなく妻にもお手伝いさんにもヒロポンを飲ませて、一家総ヒロポン依存症になっていたという。 萩原朔太郎はヒロポン中毒ではなかったが、コカイン中毒だった。しかし、ヒロポンでの幻影は小説『猫町』で触れている。 私たちが今、日本の戦後文学としてありがたく詠んでいる文学は、その多くが覚醒剤で「ドーピング」された精神状態の中で書かれていた可能性がある。 無頼派作家、坂口安吾。執筆はヒロポンと共にあった。
ヒロポンがもたらす集中力は凄まじい効果だった
ヒロポンが意識集中のために使われていたというのは、覚醒剤依存者が48時間ずっと麻雀をやっていたとか、賭け将棋をしていたという逸話からも読み取ることができる。 凄まじい集中力が得られるので、ヒロポンが合法だった時代の学生は、東大受験のためにヒロポンを使うのが当たり前だったという。 この「受験のためにヒロポンを使った」というエピソードを聞くたびに私が思い出すのは、タイで知り合ったあるレディーボーイのことだ。 英語を流暢に話す彼はいったいどうやってその英語力を磨いたのか。もちろん、そこには仕掛けがあった。アンダーグラウンドでは、記憶力でさえも金で手に入ったのである。 (記憶力でさえ金で手に入れる。危険な方法が裏で流行している) http://www.bllackz.net/blackasia/content/20131023T0342460900.html 別にこのレディーボーイのやっていることはおかしなことではない。欧米のエリートたちも、スマートドラッグを使って同じようなことをやっている。
アスリートはドーピングで最強の身体的パフォーマンスを手に入れるが、エリートたちもまた「スマートドラッグ」というドーピングで最強の頭脳を手に入れていたということだ。 言うまでもないが、このスマートドラッグも覚醒剤とよく似た成分(アンフェタミン系)が入っているので、言ってみればヒロポンの現代版である。 副作用はもちろんある。しかし、副作用があったとしても、現役時代に最高のパフォーマンスが発揮できれば、地位も収入も約束されるわけで、これで人生を逃げ切ることができると考える人たちもいる。 ヒロポン錠。「疲労の防止と恢復に!」と堂々と宣伝されていた。この薬は1951年に覚醒剤取締法が制定されるまでは「合法」だった。
覚醒剤には潜在的に巨大な需要があるとも言える
戦後の混乱期にヒロポンを使っていた人は、どちらかと言えば快楽が欲しいというよりも、もっと労働したい、疲労を取りたい、馬力が欲しい、という切実な発想から摂取されたので、皮肉なことに真面目な人であればあるほど依存地獄にハマっていった経緯がある。 そして、ヒロポン依存になると、虫が身体を這い回るような幻覚や、わけの分からない幻聴に悩まされるようになり、暴れ回るような異常行動を引き起こす。 そのため、1951年には覚醒剤取締法が制定され、警察が大々的な摘発を行ったので、乱用者は激減していった。 しかしヒロポンは覚醒剤として生き残り、現代でも有名な歌手や野球選手が次々と覚醒剤依存に堕ちて逮捕される姿が繰り返されている。 今後も、「大物」が逮捕されるような流れが続くだろう。 覚醒剤はいったん地下に潜ることはあっても、絶対に廃れることがなく歴史を刻むのである。欧米でも、覚醒剤は「メス」「スピード」「アイス」と言われて依存者が減るどころか増え続けている現状がある。 覚醒剤はそれ自体に快楽があるというよりも、自分がこれからやりたいことを猛烈な集中力で取り組める「ドーピング作用」が強い。それが、恐ろしい魔力なのである。 自分の潜在的な能力を、一瞬にして最強フルマックスの状況に持っていけるのが覚醒剤である。そんなものを覚えてしまったら、覚醒剤のない人生など考えられなくなる。 現代社会は、常に人々に最高のパフォーマンスを求める時代である。そうしたプレッシャーは誰にでもかかる。言ってみれば、ドーピングを誘発しやすい社会なのだ。 そのプレッシャーは坂口安吾や芥川龍之介の時代よりも、はるかに強いと言える。だから、覚醒剤は今でも潜在的に巨大な需要がある。覚醒剤の流行はこれからも起きていく。 いかにも作家という雰囲気を醸し出している芥川龍之介。晩年は睡眠薬のベロナールやらジアールを大量に飲んでおり、結局は服毒自殺に追い込まれた。 http://www.bllackz.net/blackasia/content/20160316T0122080900.html
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