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翁長知事が闘ったのはヤマトンチュウからの自由解放運動だ 怒怒哀楽劇場
https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/geino/235636
2018年8月18日 日刊ゲンダイ
翁長知事、辺野古移転反対闘争、本当にお疲れさまでした。でも、実は悔やみきれない、居ても立ってもいられなくなるのが、残された今の沖縄の実情だ。埋め立て工事は、日本政府の何食わぬ官房長官のシラケ顔とともに進んでいる。翁長氏の無念、残念、痛恨と同様、オレにも怒りしかない。
もしも今、オレが高校生か大学生なら、仲間ら20人ほどで誘い合い、基地反対闘争支援に、沖縄に飛んで、移設NOの県民大会に参加し、そのまま辺野古に野営テントを張って、皆で居座っていたかもしれない。ひょっとしたら海上反対デモを闘い、逮捕されて勾留されているかもしれない。
知事が亡くなった速報を聞くや、そんな白日夢を見た。大人なんかクソ食らえじゃ! 若者なら行動する以外に何があんねん! 阻止しかないやろ! と、すべての「反体制」に身悶えしていた昔の自分が浮かんだ。
年だけ取ってしまった自分が嫌になる。心臓が弱り、視力も衰え、気力も痩せ細ってきたそんな自分に毒づくもうひとりの自分がいる。
「こらっ! 映画ロケがあるから沖縄行きなんて無理だ?何を日和ったことをほざいてんだ。映画ごときが! どうでもええやろ!」
もうひとりがオレの喉元を睨んで怒鳴る。
「アメ公と約束したんだから普天間に基地は要らんだろ。それならどこだって要らんだろ。代わりに辺野古に押し付けるだけなら何が変わるんや。沖縄人の心と体の負担は何も変わらんわい!」
とさらに迫ってくる。
「だから、翁長知事はこのヤマトンチュウ(日本本土人)政府との半永久的反対闘争を闘う気でいたんだろが。志が果たせないんだから、その遺志を誰もが継がんとアカンちゃうのか!」と、こんなカッコいいアジテーションを昔の若いオレなら、どこかの街角でしかけていたかもしれない。
初めて、デモ隊の端っこに同級生2人で参列したのが16歳。69年「6・15反安保沖縄闘争」の大阪御堂筋デモの夕方の興奮。どんな顔をさらして生きていたころか、写真一枚残っていないが、警察に捕まったらどうしようなんて怯える余裕もなく、青春が高ぶっていた。ベ平連と全共闘のデモ隊が横列で難波の高島屋の下でうねり出すと、機動隊が割り込み、学生が石を投げるわ、機動隊が迫るわ、何人も捕まって拉致された。8ミリで撮りたくなった記憶がある。京大西部講堂前広場の反戦集会、70年「10・28国際反戦デー扇町公園デモ」も覚えている。でも、高校当局はオレたちの隠密行動は何も知らずじまい。知られたら退学させられていた。
翁長知事が断固として闘ったのは、米軍の基地撤去だけでなく、ヤマトンチュウからの自由解放運動だろう。ヤマトンチュウは沖縄の基地など日頃、何も感じてないし、観光名所のひとつぐらいにしか思わない。そこに知事は憤っていたと思う。ひょっとして、琉球独立政府まで夢見ていたのかもしれない。ご冥福を祈ります。
井筒和幸 映画監督
1952年12月13日、奈良県出身。県立奈良高校在学中から映画製作を始める。75年にピンク映画で監督デビューを果たし、「岸和田少年愚連隊」(96年)と「パッチギ!」(04年)では「ブルーリボン最優秀作品賞」を受賞。歯に衣着せぬ物言いがバラエティ番組でも人気を博し、現在は週刊誌やラジオでご意見番としても活躍中。
井筒監督、場所は東西違うけど、同じ感覚で生きていたんだ。あの時代のカッコよさは残念ながら、今は存在さえもしていない。
— もしかめ (@obusuma53) 2018年8月18日
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