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<とんでもないニュースが飛び込んできた!>翁長知事の県民葬を知事選後に遅らせる安倍政権の卑怯  天木直人 
http://www.asyura2.com/18/senkyo249/msg/373.html
投稿者 赤かぶ 日時 2018 年 8 月 17 日 12:25:05: igsppGRN/E9PQ kNSCqYLU
 


翁長知事の県民葬を知事選後に遅らせる安倍政権の卑怯
http://kenpo9.com/archives/4100
2018-08-17 天木直人のブログ


 とんでもないニュースが飛び込んできた。

 なんと翁長知事の県民葬を沖縄知事選の後に遅らせて行う事を安倍・菅暴政コンビが画策しているというのだ。

 これまで県民葬が行われたのは、屋良朝苗、西銘順治、大田昌秀の3知事であるという。

 いずれも49日より前に行われているという。

 法要の常識からみて当然だろう。

 しかし、沖縄県知事選の投開票日は9月30日と既に決まっている。

 その前に県民葬が行われると、ただでさえ弔い合戦で不利なところへもってきて、一気に翁長知事の追悼モードになる。

 これはまずいと焦った安倍・菅暴政コンビが、今回に限っては知事選の後の10月9日にするように画策しているというのだ。

 とんでもないよこしまな政治利用である。

 もちろん、報道はそれが安倍・菅コンビの画策であるとはどこも書かない。

 あくまでも沖縄県幹部が日程を沖縄県与野党会派と協議の上決めると書いている。

 しかし、その決定に日本政府の意向が反映されないはずがない。

 安倍・菅暴政コンビへの忖度が働かないはずがない。

 問題は、すでに県民葬が選挙後の10月9日になりそうだと書かれているところだ。

 こんな譲歩を「オール沖縄」がするようでは、知事選の勝利はおぼつかない。

 翁長知事に申し訳が立たない。

 県民葬は何があっても9月30日の知事選前の9月19日に行われなければいけない。

 県民葬の日程から目が離せない(了)


























 

  拍手はせず、拍手一覧を見る

コメント
1. 2018年8月17日 12:40:45 : FDOEyoSrUQ : WzB@FjvQvMc[3] 報告
翁長知事の県民葬、選挙後の10月か 安倍首相らにも参加呼びかけ
2018年8月17日 07:52 沖縄タイムス

 県は、8日に死去した翁長雄志知事を追悼する県民葬を那覇市の県立武道館で実施する方針を固めた。16日、県議会各会派に説明した。原則、死去から四十九日以内に開催する考えだが、議会の中には知事選期間中は避けるべきとの意見が強く、10月の開催になる可能性がある。

 県は、基地問題を全国に訴えたことや、子どもの貧困対策への取り組みなど多大な功績を挙げたこと、現職知事の死去で県民の追悼する気持ちが大きいことを開催理由としている。

 県は当初、9月19日と10月9日を最有力案として提示した。ただ、与党会派の一部は、四十九日以内に実施すべきと主張する一方、新里米吉議長や野党会派は知事選を終えて落ち着いた環境で開催すべきとの考えで、県はいったん持ち帰り、近く会派代表者会に案を再提示する。

 県は昨年7月に実施した大田昌秀元知事の県民葬を機に「実施基準」を作成。この中で開催は原則として「四十九日以内」としているが、今回は「選挙期間だと政治利用との批判が起きる」(議会関係者)と懸念する声がある。

 また県民葬は県や県議会などによる実行委員会が主催し、実行委員長は県知事が務める。野党会派は「新しい知事の下、全ての県民が参加できる形が望ましい」としている。県関係者によると、9月30日の知事選の当選証書交付式は10月4日を予定している。

 葬儀は1500人規模の想定で、安倍晋三首相や衆参両議長、政府関係者らにも参加を呼び掛ける予定。

http://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/299939

安倍首相にも参加を呼び掛ける。

これまた、とんでもないことだ。

2. で爺[78] gsWW6g 2018年8月17日 13:02:53 : VuTLLmNtHo : 5eF6b6N3dwo[1] 報告
棺を担いで練り歩くような政治はあざとすぎて、日本人の性に合わないんじゃないの。パレスチナでは普通だが(笑)

沖縄タイムズの書き方からすると、県政与党内にも慎重論があるようだし、弔い合戦的な効果を、天木某ほど過信していないのではないかな。むしろ、政治利用と批判を受ける可能性があると。弔い合戦的を強調することにプラス効果はあるが、やり過ぎれば、逆効果になると思っているのかも。

3. 2018年8月17日 13:05:14 : 6P1vuUUZMQ : uTAm4h3Afoc[4] 報告
なんで安倍やらよばんとならんのだ、故人をしのぶ気持ちのあるもの、県民有志でやりゃいい事。

4. 2018年8月17日 13:26:17 : KGp1N05tIM : meyXBhaS0YA[1] 報告
選挙が控えてるから、その良し悪しはともかく画策くらいはするのでは
最後は沖縄がどういう選択を取るのか、見極めなければ
5. 2018年8月17日 13:48:06 : FDOEyoSrUQ : WzB@FjvQvMc[4] 報告
翁長氏県民葬、10月9日軸に調整 県政与党には知事選期間中を求める声も
2018.8.16 18:24 産経新聞

 沖縄県は16日、県議会会派幹部に対し、8日に死去した翁長雄志(おなが・たけし)知事の県民葬について、10月9日を軸に那覇市の県立武道館で行う方向で調整していることを伝えた。

 関係者によると、これまで3回行われた知事経験者の県民葬は四十九日が終わる前に行われた。このため、県は15日に新里米吉(しんざと・よねきち)県議会議長に対し、9月19日を含む複数の候補日を提示した。

 新里議長は「知事選期間中では批判する人が出る。各会派が一致協力してやれる日程を考えてほしい」と述べ、知事選後の県民葬を求めたという。

 翁長知事を支えた県議会会派の中には、「弔い合戦」の雰囲気を醸成するためにも知事選期間中に県民葬を行うよう求める声があった。16日に県側から説明を受けた翁長氏系の県議会会派幹部は「議長の言っていることは腑に落ちない」と反発している。

 県はこれまで、知事経験者の屋良朝苗(やら・ちょうびょう)、西銘(にしめ)順治、大田昌秀の3氏の県民葬を催した。翁長氏の県民葬を催す理由について、県は沖縄の基地負担軽減を全国に発信したことなどを挙げている。

http://www.sankei.com/life/news/180816/lif1808160018-n1.html

>16日に県側から説明を受けた翁長氏系の県議会会派幹部は「議長の言っていることは腑に落ちない」と反発している。

6. 2018年8月17日 14:05:20 : 1RFEkLSxKM : GDNH4KJh0Mc[3727] 報告
無視して県民葬をやればいい
どっかの踊りのやつを見習えばいい
7. 2018年8月17日 14:16:20 : 25aDDSUv7A : @JamTucudSA[1] 報告
>>6
同意
そうですよね沖縄の意思を見せつけましょう

ただ日本の腐ったテレビ局は阿波踊り騒動のようには
報道しないで無視するかも知れませんね

8. 2018年8月17日 15:41:11 : k3RUO3N5jE : Ik09hnQdh0k[4] 報告
死者の霊をガスようなことがあってはいけない。

最低限 まもられねばならない 人の道であろう。

翁長知事の争議をまず済ませて、すがすがしい気持ちで 次の知事を選ぶのが

常道だろう。オール沖縄の皆さんの正道をつらぬいてほしい。

9. 2018年8月17日 17:00:29 : cnnmIxJ41g : NJ9INAFxmPw[124] 報告
何れ安倍晋三も必ず死ぬ時が来るはず。

その時は、「赤坂自民亭」でこれ以上の嬉しいことはないと、

ど派手な葬送の宴になるんだろうな。

10. 2018年8月17日 18:52:43 : B5jUAVwOgo : @q0pLXaGlcw[34] 報告
ま、こんな悪魔に我国を治めさせている悪魔がアメリカ支配層なんだけどな。
それにしてもうちなー流の冠婚葬祭はどうなっているんだろう?!
11. 2018年8月17日 19:26:17 : vYZbcjMmUY : WyAq3cgBXrc[24] 報告
安倍が夫婦でイスラエルに出向き、検察とマスコミによる森友家計疑獄追及もみ消し工作、それから自身の独裁弾圧売国棄民暴政総理継続を湯田菌ナチスの頭目ネタニヤフに懇願、その見返りに更なる日本売国国民遺棄暴政を誓った、そして大阪北部地震や西日本豪雨災害の人工災害テロ惹起、沖縄の知事も医療界に巣食う湯田菌マフィアの常套手段「ガン治療」暗殺で葬られ、安倍が地元山口で政敵を潰すために暴力団に捏造スキャンダル工作を依頼した事実を、再び追及していたジャーナリストをこれまた常套手段の駅の階段突き落とし(ホーム突き飛ばしも奴らの手口)
で重症を負わせ、安倍依頼の政敵追い落とし捏造スキャンダル工作を証言した人物は現在行方不明、その日本を蹂躙し続ける安倍の穴持ちイスラエルの湯田菌ナチスの頭目ネタニヤフが、起訴されるかどうか。


異常な暑さは、大地震が準備されているから<外資カジノマネーロンダリング法案を通すためのHAARP大地震>
http://www.asyura2.com/17/jisin22/msg/571.html
投稿者 国際評論家小野寺光一 日時 2018 年 7 月 16 日 14:58:39: 9HcMfx8mclwmk jZGN25VdmF@Jxo@sluyOm4z1iOo

34. 2018年8月17日 19:13:41 : 4UCt9mKsHs : fej0uzj97ak[20] 報告
▲△▽▼
人工地震も人工台風も人工豪雨もみな、湯田菌の専売特許、依頼したり使用いたり
するたびに、安倍自公不正選挙政権陣営とその穴持ち財界が「使用料金」を湯田菌に支払っております。故に相当の軍資金を安倍自公不正選挙政権は、国庫や財界からせしめねばならないわけです。
大阪北部地震や西日本豪雨災害の前に、安倍夫婦がイスラエルに出向き、湯田菌
ナチスの幹部ネタニヤフに、検察とマスコミによる森友家計疑獄追及もみ消しと
自身の独裁弾圧売国棄民暴政総理継続を懇願し、その見返りとして更なる日本亡国
売国棄民政策推進を約束、その結果、湯田菌特許の気象兵器攻撃や地震攻撃が展開
されているというわけです。
津波や地震や原潜沈没や台風発生を受注したイスラエルの原潜が世界中どこにでも
出没しているではありませんか。

6. 2018年8月17日 19:01:01 : jdC8BHPV5Y : cOGGWQ82sLE[2] 報告
▲△▽▼
湯田菌の衛星やハープを使った海洋加熱、電磁波による加熱や水蒸気生成や大粒豪雨を引起すための安倍のわが軍のケムトレイル、イスラエル原潜の海洋温度上昇、これら気象兵器攻撃自体、湯田菌ネオコン戦争屋の特許、莫大な使用量を日本が支払い豪雨災害や台風攻撃を、行っているということで、それは多国籍傭兵リクルートテロ支援事業「ISIS」、集計マシンとマスコミを使った「不正選挙」発注
システムと同様と考えるべきでしょう。


「5日連続で台風が発生」させましたか、安倍ちゃん応援団の朝鮮悪の皆さん?

2018年8月17日 12:21 午後

私が前からカキコしている持論ですが、「今の気象改変はもはやNASAではなく、日本の朝鮮悪が直接やってるのでは?」と。

なぜなら、どう考えても「トランプさんが登場したのに、NASAがいまだにそんな悪事を続けられるはずがない」と思うからです。

私はやはり「トランプ大統領誕生」=「ユダ金本拠地のアメリカ政府の陥落」時に、危険を察知したNASAが「唯一残った裏社会政府支配国家で、しかもNASAの気象兵器を運用可能な技術を有している所」=「日本」に『譲渡』したのでは?……と本気で考えています。

譲渡といっても、別に現物を地上で受け渡すわけではないから、衛星へのアクセスコードの譲渡くらいなものでしょう。

当初はもしかしたら、トランプ大統領による「粛正」から気象改変衛星を守るため、日本に「一時避難」させただけだったのかもしれません。

ハザールユダヤ「おい、ちょっとだけ預かっていてくれねえか朝鮮悪どもよ。その間に何とかトランプを暗殺してヒラリー大統領を誕生させるから、その間はお前らに全部任せるわ。もちろん、気象改変テロを自由にやってOKだぞ」

……なんて頼まれてね。

ところが、暗殺はことごとく失敗し、アメリカでのハザールユダヤ復権はもはや不可能になったので、気象改変衛星は日本の朝鮮悪に預けられたまま……ということでは?

そうなったらあの薄汚い朝鮮悪どもですから、自分たちのピンチを誤魔化すために、そんな秘密兵器を使わないわけがありません。

さらには、気象改変なんて素晴らしいものを急に与えられたから、「主人たるハザールユダヤ悪に代わって今や自分たち朝鮮悪が世界をコントロールしてるんだ!!」なんて舞い上がった発想を持ち、調子に乗ってしまい、それがまた衛星をフル稼働させている原因になってるのではないでしょうか?

その「譲渡先」=「実際に運用している所」が、JAXAなのか自衛隊なのかは知りませんが(もちろん命令を出しているのは安倍李晋三朝鮮悪政府なのは間違いないですけど)、何にしろ私は、上記のようなことになってるのでは?と以前から考え始めています。

[スレ主【赤かぶ】による初期非表示理由]:その他(アラシや工作員によくあるコメントはスレ主が処理可能)
場違い記事多数。

12. 2018年8月17日 20:50:17 : GtdaGR8wpM : 8ermKABlLck[17] 報告
バカ木さんは秘書官の今井を知らないようだ
こいつが日本の裏天皇だと知らないようでもある

アヘもガースーも顔見りゃわかるが、ただのバカな役者にすぎない
今井は総監督だが、最近では現場で指示を出すのは子分の佐伯のようだ
柳瀬そうだったが、秘書官連中に共通するのは経産省出身ということで、今の日本を仕切っているのは経産省だと簡単にわかる
連中はユダヤとつるんでおり、自分らにとって都合のいい悪法を連発させているのは当然である

アベガー、ガースーガーと、いつも表面をあげつらうだけで、いつも深い部分はダンマリ
こんな小ネタでドヤ顔したいのだろうか
役人連中の非難は一切やらず、ユダヤのユの字も言わない
オマエも今井達とグルなんだろ?
どうなんだ?バカ木さん


[スレ主【赤かぶ】による初期非表示理由]:2重投稿(アラシや工作員によくあるコメントはスレ主が処理可能)

13. 2018年8月17日 21:24:38 : FG3Cx4xXtM : UQBQjwvcoso[1] 報告
翁長と安倍の関係がよく判る

http://k.pd.kzho.net/1534302997496.jpg

18/08/15(水) 12:18:34
http://kzho.net/jlab-giga/

14. 2018年8月17日 22:13:36 : xk8RhRwJrV : xg9iACF_eJk[-954] 報告
何時もゲスな書き込みしかしないでしゃばり爺にも糞蠅同様、担当のポンポン砲の連射を浴びせてやってくれw^^



[18初期非表示理由]:担当:言葉遣いが適さないコメント多数により全部処理

15. 2018年8月17日 22:14:21 : tW8SmQ2926 : R_YLt5oYhtY[215] 報告
沖縄県ガンバレ!

16. 2018年8月18日 10:22:08 : oBWVXODPas : u0IEyuKMV9g[2] 報告
 
沖縄県民による沖縄県民の追悼は、ルールに則り粛々と行われるべきだ。

>>13
http://k.pd.kzho.net/1534302997496.jpg

凄い写真だねえ。目は口ほどにものを言い。いや口以上に、だねえ。
 

17. 投稿のあんちゃん[144] k4qNZYLMgqCC8YK_guGC8Q 2018年8月18日 11:25:26 : ec5C2vDjSU : aSHPXHF@09I[300] 報告

 翁長知事は結局のところ、どんな成果をあげて人生を終わらすことになったのだろか。

 彼が亡くなる前、どこかで「 翁長知事のやっていることも同じであろう。そんなことをやってもそれを支持する人間が極端に増えるわけでもない。義理でやっているようなものであろう。 」と書いた。

 辺野古の問題。いったんけりが付いたかに見えたものを、再度足を引っ張る方法を打ち出して、うまくいかないとなると別なものをまた出すという繰り返しをおこなった。まるで時間の無駄遣い(予算の無駄遣いといってもいい)だけを政府に対して強いていた。

 結局のところ辺野古の環境悪化や住民を心配していたわけでもなく、本音は「沖縄から米軍は出ていけ」さらには「日本から米軍は出ていけ」ということが言いたかったわけでる。彼を持ち上げた連中もそうなのであろう。

 日本国は言ってみれば戦前のように軍拡競争はできない状況である中で、米軍を金で雇って安全を確保するという方法をとっている。それが政府の政策である。アメリカとしても勢力保持のためにはその方が都合がいい。

 したがってトランプの言うがごとく、グアム島まですべての米軍を引き下がらせて、あとは自分で何とかしろとなったら、困るのはむしろ日本政府である。軍拡でもやるのか。原爆の開発でもやるのか。(そんな声も上がっているが)

 翁長知事が言っていたのは、沖縄ではなくて他のどこかに米軍基地を持っていけということである。そのためには代換となる具体的な場所(たとえば佐賀県のどこそことか山口県のどこそことか、あるいはグアム島でもいい)を示すべきだったのである。そうなれば解決策になってくる。しかし、そういうわけにはいかないので、先に書いたように義理を果たすことばかりに始終していた、ということになった。

 辺野古の問題というよりは、沖縄の問題であり、日本国の問題である。もっと言えば周辺国の力関係の問題である。彼とその取り巻きが駄々をこねるようなことをしても解決はしない。うまくはいかない。

 


18. 2018年8月18日 15:18:15 : Xq11O9BNWk : 4T3@8Uvdz6s[5] 報告
バカウヨ「安倍将軍様に逆らう奴は非国民だ!」

[18初期非表示理由]:担当:言葉遣いがおかしなコメント多数のため全部処理
19. 豊岳正彦[96] lkyKeJCzlUY 2018年8月18日 20:22:41 : AKB67GaCh2 : rOxK_DunrP0[97] 報告
仏教聖典(第237版本)

おしえ  

第二章 人の心とありのままの姿

 第一節 変わりゆくものには実体がない

 一、パーリ、律蔵大品一−六

 身も心も、因縁*によってできているものであるから、この身には実体はない。
この身は因縁の集まりであり、だから、無常*なものである。

 もしも、この身に実体があるならば、わが身は、かくあれ、かくあることなかれ、と思って、その思いのままになし得るはずである。

 王はその国において、罰すべきを罰し、賞すべきを賞し、自分の思うとおりにすることができる。
それなのに、願わないのに病み、望まないのに老い、一つとしてわが身については思うようになるものはない。

 それと同じく、この心にもまた実体はない。
心もまた因縁の集まりであり、常にうつり変わるものである。

 もしも、心に実体があるならば、かくあれ、かくあることなかれ、と思って、その通りにできるはずであるのに、
心は欲しないのに悪を思い、
願わないのに善から遠ざかり、一つとして自分の思うようにはならない。


 二、パーリ、相応部五六−一一

 この身は永遠に変わらないものなのか、それとも無常であるのかと問うならば、誰も無常であると答えるに違いない。

 無常なものは苦しみであるのか、楽しみであるのかと問うならば、生まれた者はだれでもやがて老い、病み、死ぬと気づいたとき、だれでも、苦しみであると答えるに違いない。

 このように無常であってうつり変わり、苦しみであるものを、実体である、わがものである、と思うのは間違っている。

 心もまた、そのように、無常であり、苦しみであり、実体ではない。

 だから、この自分を組み立てている身と心や、それをとりまくものは、我(が)とかわがものとかという観念を離れたものである。

 智慧*のない心が、我である、わがものであると執着するにすぎない。

 身もそれをとりまくものも、縁によって生じたものであるから、変わりに変わって、しばらくもとどまることがない。

 流れる水のように、また燈火(ともしび)のようにうつり変わっている。
また、心の騒ぎ動くこと猿のように、しばらくの間も、静かにとどまることがない。

 智慧あるものは、このように見、このように聞いて、身と心に対する執着を去らなければならない。
心身ともに執着を離れたとき、さとりが得られる。


 三、パーリ、増支部五−四九・四−一八五・三−一三四

 この世において、どんな人にもなしとげられないことが五つある。
一つには、老いゆく身でありながら、老いないということ。
二つには、病む身でありながら、病まないということ。
三つには、死すべき身でありながら、死なないということ。
四つには、滅ぶべきものでありながら、滅びないということ。
五つには、尽きるべきものでありながら、尽きないということである。

 世の常の人びとは、この避け難いことにつき当たり、いたずらに苦しみ悩むのであるが、仏の教えを受けた人は、避け難いことを避け難いと知るから、このような愚かな悩みをいだくことはない。

 また、この世に四つの真実がある。
第一に、すべて生きとし生けるものはみな無明*から生まれること。
第二に、すべて欲望の対象となるものは、無常であり、苦しみであり、うつり変わるものであること。
第三に、すべて存在するものは、無常であり、苦しみであり、うつり変わるものであること。
第四に、我(が)も、わがものもない*ということである。

 すべてのものは、みな無常であって、うつり変わるものであること、どのようなものにも我がないということは、仏*がこの世に出現するとしないとにかかわらず、いつも定まっているまことの道理である。

仏はこれを知り、このことをさとって、人びとを教え導く。


****用語解説*****

*因縁(hetu-pratyaya)___
 因と縁とのことである。因とは結果を生じさせる直接的原因、縁とはそれを助ける外的条件である。あらゆるものは因縁によって生滅するので、このことを因縁所生などという。この道理をすなおに受け入れることが、仏教に入る大切な条件とされている。世間では転用して、悪い意味に用いられることもあるが、本来の意味を逸脱したものであるから、注意を要する。なお縁起*という場合も同様である。

*縁起(pratityasamutpada)___
 因縁生起の略である。あらゆる存在が互いに関係し合って生起することである。仏教の教えの基本となる思想である。あらゆる存在のもちつもたれつの関係を認めるから、「おかげさまで」という感謝となり、報恩という奉仕も生まれてくる。この縁起思想は、さらに哲学的な展開を遂げ、煩瑣な組織をもつに至る。転じて寺院や仏像の由来や伝説を指したり、吉凶をかつぐのに用いられるようになったりするが、因縁*同様本来の意味を忘れて逸脱していることに注意を要する。

*無常(anitya)___
 あらゆる存在が生滅変化してうつり変わり、同じ状態には止まっていないことをいう。仏教の他宗教と異なる思想的立場を明示する一つである。あらゆるものは、生まれ、持続し、変化し、やがて滅びるという四つの段階を示すから、それを観察して「苦」であると宗教的反省の契機とすることが大切である。これもいろいろな学派の立場から、形而上学的な分析がなされてきたが、単なるペシミズム、ニヒリズムの暗い面のみを強調してはならない。生成発展も無常の一面だからである。

*智慧(般若prajna)___
 普通に使われている”知恵”とは区別して、わざわざ仏教では”般若”の漢訳としてこの言葉を用いているが、
正邪を区別する正しい判断力のことで、これを完全に具えたものが”仏陀”である。
単なる知識ではなく、あらゆる現象の背後に存在する真実の姿を見ぬくことのできるもので、
これを得てさとりの境地に達するための実践を”般若波羅密”という。

*無我(anatman)___
 仏教の最も基本的な教義の一つで、「この世界のすべての存在や現象には、とらえられるべき実体はない」ということである。それまでのインドの宗教が、個々の存在の実体としての”我(が:atman)”を説いてきたのに対し、諸行無常を主張した仏教が、”永遠の存在ではあり得ないこの世の存在や現象に実体があるわけはない”と説いたのは当然である。なお”我”は他宗教でいう霊魂にあたるといえる。

*無明(avidya)____
 正しい智恵のない状態をいう。迷いの根本である無知を指す。その心理作用が愚痴であるという。
学派によって分析、解釈はさまざまであるが、いずれも根源的な、煩悩を煩悩たらしめる原動力のようなものと把えられている。
したがって、例えばあらゆる存在の因果を十二段階に説明する十二因縁説では、最初に無明があると設定しているくらいである。
生存の欲望の盲目的な意志と把えてもよいであろう。

*仏(佛陀 Buddha)____
 梵語の”さとれるもの”という意味の単語を漢字に音写したものが”仏陀”で、その省略が”仏”であり、”ほとけ”とも読ませる。普通”覚者”・”正覚者”と漢訳され、もともとは、仏教の創始者である”釈迦牟尼仏(ゴータマ・シッダルタ)”を指した。仏教の目的は、各人がこの”仏”の状態に到達することで、その手段や期間等の違いによって宗派が別れている。
 大乗仏教の場合、歴史上の仏である釈迦牟尼仏の背後に、様々な永遠の仏の存在が説かれるようになる。例えば、阿弥陀仏・大日如来・毘盧遮那仏・薬師如来・久遠実成の釈迦牟尼仏といった仏が、各宗派の崇拝の対象とか教主として説かれている。
 なお日本では、死者のことを”ほとけ”と呼ぶが、これは浄土教の”往生成仏”思想の影響で、死者が浄土に生まれ、そこで”仏”になるという信仰に由来する。
 

 第二節 心の構造

 一、迷いもさとりも心から現われ、すべてのものは心によって作られる。
ちょうど手品師が、いろいろなものを自由に現わすようなものである。
 
 人の心の変化には限りがなく、その働きにも限りがない。
汚れた心からは汚れた世界が現われ、清らかな心からは清らかな世界が現われるから、外界の変化にも限りがない。

 絵は絵師によって描かれ、外界は心によって作られる。
仏の作る世界は、煩悩を離れて清らかであり、人の作る世界は煩悩によって汚れている。

 心はたくみな絵師のように、さまざまな世界を描き出す。
この世の中で心のはたらきによって作り出されないものは何一つない。
心のように仏もそうであり、仏のように人びともそうである。
だから、すべてのものを描き出すということにおいて、心と仏と人びとと、この三つのものに区別はない。

 すべてのものは、心から起こると、仏は正しく知っている。
だから、このように知る人は、真実の仏を見ることになる。


 二、ところが、この心は常に恐れ悲しみ悩んでいる。
すでに起こったことを恐れ、まだ起こっていないことをも恐れている。
なぜなら、この心の中に無明と病的な愛着とがあるからである。

 この貪りの心から迷いの世界が生まれ、迷いの世界のさまざまな因縁も、要約すれば、みな心そのものの中にある。

 生も死も、ただ心から起こるのであるから、迷いの生死(しょうじ)にかかわる心が滅びると、迷いの生死は尽きる。

 迷いの世界はこの心から起こり、迷いの心で見るので迷いの世界となる。
心を離れて迷いの世界がないと知れば、汚れを離れてさとりを得るであろう。

 このように、この世界は心に導かれ、心に引きずられ、心の支配を受けている。迷いの心によって、悩みに満ちた世間が現れる。


 三、すべてのものは、みな心を先とし、心を主(あるじ)とし、心から成っている。
汚れた心でものを言い、また身で行なうと、苦しみがその人に従うのは、ちょうど牽(ひ)く牛に車が従うようなものである。

 しかし、もし善い心でものを言い、または身で行なうと、楽しみがその人に従うのは、ちょうど影が形に添うようなものである。
悪い行ないをする人は、この世では、悪いことをしたと苦しみ、後の世では、その悪い報いを受けてますます苦しむ。
善い行ないをする人は、この世において、善いことをしたと楽しみ、後の世では、その報いを受けてますます楽しむ。
(第966版本「悪い行いをする人は、その悪の報いを受けて苦しみ、善い行いをする人は、その善の報いを受けて楽しむ。」)

 この心が濁ると、その道は平らでなくなり、そのために倒れなければならない。
また、心が清らかであるならば、その道は平らになり、安らかになる。 

 身と心の清らかさを楽しむものは、悪魔の網を破って仏の大地を歩むものである。
心の静かな人は安らかさを得て、ますます努めて夜も昼も心を修めるであろう。


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[shudo27.2795] 「長周新聞HPへ投稿しました」長文ごめん

長周新聞 『骨が語る兵士の最期』 著・楢崎修一郎
https://www.chosyu-journal.jp/review/8762

↓投稿

2018.08.15 Wednesday
資料・FBでみつけた軍曹の戦争話は詳細であり、聞き手の受け取り方は正直である★
onomar.jugem.jp/?eid=5162#comments

日本が敗戦した八月十五日


ソ連軍の参戦を知っていた満州在の帝国陸軍は
自らの家族をいちはやく日本に帰し、みずからも密かにとんづら。
情報を伏せられて置き去りにされた民間人は
満州、朝鮮、中国で自力逃避行を強いられ、
数多の犠牲者がでました


民間人であるオノマ一家五人も満州、朝鮮を転々とし、
日本にもどったのは戦後一年ほど後のことです


逃避行が始まる前、
我が家にソ連兵たちが入ってきた光景を覚えています。
大きな兵隊たちの脚を蹴る幼児・オノマを
兵隊たちは面白がったそうです


日本人は外出すると難にあうので家から出るのが難しく
ひっそり暮らしたそうです。
さいわい父たちは近隣の中国人たちと仲良くしてたので
彼らが買い物をしてくれ、
その品物を塀越しに母へ渡していた光景を覚えています


夜間、徒歩での逃避行中に
防空壕に転がり落ちて見上げると裸電球、
引き揚げ船に乗り込むときや船内での混乱、
大人たちのあさましさ
・・などがオノマ@四歳の脳に刻み込まれ、
そうした光景やその時に感じた気持ちは
今でもよみがえってきます


ボートから母船に乗り込むのは
幅ひろい網をよじ登っていったのですが、
母船から水滴がポタポタ落ちてきて顔にあたり、
見上げると暗い夜空があったこと、
幼児・オノマを押しのけたおばさんがいたのでそのお尻をつねったこと、
振り向いたおばさんのマヌケ面もよみがえってきます



オノマの戦争体験はこのくらいにして、
ほんじつはFBでみつけた、生々しい記事を転載します


戦争に関する文献をいろいろ読んできましたが、
無名の人が書いたこの記事は出色、貴重な記録だと思います


安倍晋三さんとか石破茂さんとかいう連中はこういった
生々しい光景を疑似体験できる能力が欠落していると思います。
観念的な戦争観でもって勇ましいことをしゃべくりまくっている、
いざ戦争が始まったら自らの保身を最優先させる、
知的生命体としてはできそこないのサル・ニンゲンであると
モノリスは判定し、抹消することでしょう。


書かれた方に、転載して良いかをメールで照会したのですが、
届かなかったのかお返事がありません。
ダメの返事が来たら直ちに消します



<歴史の授業> 僕の先生は軍曹だつた。

広島県の山懐にある小さな町での思い出である。
私が中学生の時の話だったから、何十年も前のことになる。
その頃、私の在籍した中学校には屋内体育館がなかったので、
雨天の体操の時間には通常の教室での自由時間に振替えられた。
振り替えの授業は楽しかった。
なにを勉強してもいい自由時間だったからだ。
体操の担任教師の名前は「グンソー」といった。


それは彼が兵隊にいたとき、
「軍曹」の階級にあったからだ。
彼の本名を呼ぶ者は誰もいなかった。
彼は体操の振り替え時間には決まって、
戦争の体験談を生徒たちに話して聞かせた。
だからいつの間にか、
彼は「グンソー」という呼び名になってしまったのだが、
彼は戦争での経験をまるで手柄話のように語った。


グンソーの話から、
戦争の真実を生徒たちに伝えたい思いもあるようには見えたが、
それよりも、
好奇心が強く血気盛んな中学校2年生ぐらいの男子生徒たちに、
自分が戦争の中でいかに勇ましかったかを
おもしろく話したかったように思えた。
今になってみると彼は戦争の話をしながらも、
いろいろのことを生徒たちに伝えたかったのかも知れない。
しかし彼が亡くなってしまった今となってはよくわからない。
彼が話したのは、
平和を作る話よりも
戦争をする話の方がはるかに多かった。
戦争そのものについてであった。
グンソーは肌黒く、
みるからに目玉も大きくいかつい顔をしていたので、
生徒たちは、
彼がいったいどのように勇ましい戦争をやってきたか、
興味はつきなかった。
僕たち中学生は夢中になって耳を傾けた。・・・・・


ー今日は雨降りだ。
生徒たちは、グンソーが教室に入ってくると、
まるで教室が割れんばかりの大きな声で、
「グンソー、グンソー・・・・話をしてー、話をしてー」
と、話をねだった。
すると彼は、嬉しそうに見えながらも
なにか躊躇しているようにも見えた。
彼の態度から、
「これは自分自身から好き好んで戦争の話をしたのではない、
生徒たちに求められたから、
わしは戦争の話をしたのだ」
と言いたかったのかもしれない。
グンソーはいつも
戦争での体験談を身振り手振りで語った。


「わしが初年兵の時じゃった。
わしが初めて人を殺したときのことじゃ。
中国人の捕虜を処刑せよと命ぜられてのう。
困ったようのう。
そこでわしは捕虜を広いコーリャン畑に連れていって、
日本刀で首を切ろうとしたんじゃ。
じゃが日本刀は首に当たらず、
肩に当たったので、
捕虜は大声をあげて喚きながら逃げていった。
人を殺すというのはすごいことじゃ。
わしが捕虜を逃がしたということになると大変じゃけえのう。
わしは必死で
コーリャン畑の中を捕虜を追いかけていってのう・・・・
捕虜は肩から血を流しながら、
広いコーリャン畑の中を逃げ回ってのう・・
そして最後にはわしが
捕まえてコーリャン畑の中で射殺したんじゃが、
わしが初年兵の時じゃった。」


ー敵兵の処刑について、
グンソーは事細かに語った。
おそらく彼は相当数の処刑を担当させられたのだろう。
彼はそのときの様子を、
黒板に簡単な線で絵を描きながら語った。


 「軍人が処刑を行うときにはのう、
囚人にまず目前に穴を掘らせ、
その前に囚人を座らせるのじゃ。
穴は全部自分で掘らせるんじゃ。
処刑は日本刀で首を切り落とすのじゃが、
首の皮一枚を残して切り落とすのが
上手いやりかたじゃと言われておった。
もう殺されるとわかってくると
囚人も観念したように見えて、
彼らがいったん「メーファーズ(没法師)とつぶやいたら、
完全に死を覚悟したように見えたんじゃ。
刀を思い切り振り下ろすと、
切断された首からは
血がビューとものすごい勢いで噴出したんじゃよ。
そしてその体を穴の中に蹴落とすんじゃ」


とそのときのその生々しい話を
グンソーは
刀で切り落とす格好をしながら事細かに語った。
なんともショックな話だった。
時には
捕虜を10人ぐらい並ばせて、
片方から鉄砲を撃って銃殺したことも話をした。
5〜6人まで弾が届いたというが、
なんでもないように軍曹は語った。


ー「市外戦のときじゃった、
ときどき街角の路上で、
敵兵とバッタリと鉢合わせすることがあった。
そのときはお互いびっくりするもんじゃ。
恐ろしいもんでぇ。
すぐにどちらもピストルをを撃ち合ったときのことじゃ。
戦いは誰でも恐いが、
お互いに向き合った時には、
逃げ出さずに最初に少しでも早く勇気をもった方が
戦いには勝つんじゃのう。
わしは、そのときに逃げずにすぐに
後ろから撃ったんじゃ。
ピストルを撃つときは、
こうやってピストルを
頭の上からゆっくり下ろすようにして照準を合わすんじゃ」
グンソーは
ピストルの撃ち方をゼスチャーでして見せながら語った。


ー「あるときわしは敵の視察を命じられてのう。
斥候というんじゃが、
その途中にわしが森の中で野糞をやっていたらのう、
ふと背後の茂みがごそごそするので、
なんじゃ、ろうかと思って股下から覗いてみると、
なんとのう、
2人の「中国兵」がわしの尻に
鉄砲を突きつけているのを目にしたんじゃ。」
グンソーは苦笑いをしながらも
恐怖に満ちた目つきをした。


「あああ・・殺される!」とわしが思った瞬間、
わしの頭髪はすべて逆立ったんじゃよ。
ほんまじゃ。ほんまじゃ。
髪の毛が逆立つとはほんまの話じゃ。
髪の毛が立つんでぇ。恐ろしいよのう!」
とグンソーは何ども何度も繰り返して言った。
「わしゃ殺される!」と思ったんで、
大便をしたままの姿勢で
「ウオーーーーー」というような大声をはりあげて
いきなり立ち上がったんじゃ。
すると、その声に驚いた敵兵は、
あわてて逃げて行ったよ。
ああ、
間一髪のところでわしは助かったんじゃ。
怖かった。
髪の毛が逆立つとはほんまの話じゃ。」 


ー「南京の市街に入って行った時のことじゃ。
ある民家で、
きれいな中国女性を屋内で見つけたんじゃ。
・・・・・女は日本への留学経験もあり、
言葉も話せる知的で美しい女性じゃった。」
グンソーはその女性が知的できれいだったことを
しきりに強調した。
おそらく会話もしたのであろう。
そして言った。
「じゃがその女性が他の日本兵に見つかるとのう、
強姦されて酷いことをされてしまうというので
可哀想じゃったが殺してしまったんじゃ、
可哀想じゃった。」
とグンソーが悔いているように語った。


 中学生とは言え、
まだ幼かった僕たちには、
強姦というのは何を意味しているのか、
よくわからなかった。
しかし、
大人の世界には、
子どもにはわからないような世界が
たくさんあるようにも感じられた。
僕にはある疑問が湧いてきた。
なぜグンソーがその
女性を殺してしまったのか、
その理由がどうしてもわからない。
よく考えてみるにグンソー自身が彼女を
強姦したのではなかったのか、
それを隠すために
殺したのではなかったのか。
他の兵隊から守るために女を殺してしまった
とグンソーは言ったが、
あれは嘘に違いない。
グンソーが女性を強姦して殺したんだ。
それを僕たちに伝えることができないために・・
でもそのことは話にしたいために語ったに違いない。
その証拠にグンソーは、
「戦争ではなんでもできる。
戦争ほどおもしろいものはない」
と言ったではないか?
でもそんな恐ろしい酷い体験を
平気で子どもたちに話せるだろうか?
やはり彼は女を強姦していないのではないか・・・
・・・いろいろ考えたが今となっては事実はわからない。


戦争中、グンソー自身が
中国女性を強姦したという話は、
何もしなかったが、彼の話しぶりからは、
戦争中にはグンソーを含めて
日本の軍人たちはどのような
酷いことでも平気でやっていた
ということがよく伝わってきた。
事実はどうであれ、
真実を話せない体験が
山ほどあるに違いない。


雨の日には、
グンソーは決まって、
戦争の話をした。
そして時々思い出したかのように、
「戦争は酷(むごい)いもんじゃ」といったが、
そのあとには必ず
「戦争ほどおもしろいものはない。
戦争ではなんでもできるけえのう!」
と断言した。・・・
・・・そうか、これが
日本軍が行っていた戦争の実態だったのだ。


しかしこれは
中学校での授業の中での話だから、
義理的に
「酷い(むごい)」とつけ加えたのだろうが、
実際には
職業軍人にとっては酷くもなんでもなく、
戦争は彼らにとっては
無限におもしろかったのではないか
とも感じた。
その当時、
日本軍の食料は、すべて
現地調達であったという。
つまり
中国の人々の食べ物を略奪せよ
と命ぜられていたのだ。
わずかの食料で生きている人々なのに、
そうした人々の食料をとりに行ったとき、
どんなに残虐な行為が待ち受けていたことか。
抵抗した人々はほとんどが殺されたに違いない。


しかし話の中に、
中国大陸や朝鮮半島などで、
日本軍が残虐な戦争を続けて
おびただしい人々を殺したことへの反省などは、
微塵もなかった。
今から考えてみると、
普通の公立学校だったら、
このような話も聞けなかったかも知れない。
その学校には私立中学校で、
定年退職した教師や満州帰りの教師など
さまざまな職歴や人生体験を持った教師がいたからだろうと思う。


 あるとき、その日は雨の日ではなかったが、
突然グンソーが血相を変えて教室に飛び込んできた。
そして教壇に上がって大声で言った。


「だれだ!だれかが今、
人殺し!と叫んだ。
出て来い!」
と叫んだ。
渡り廊下を歩いていたグンソーをだれかが
「グンソー人殺し・・・・」と呼んだらしい。
彼はそれを聞いて逆上したのだ。
「だれが言った?おい!出て来い!
おまえらは卑怯じゃ」
グンソーは教壇で大声を張り上げた。
クラスの全員をまるで犯人のように
睨み付けながら執拗に犯人探しを続けた。
誰がその言葉を言い放ったのか
僕たちは知っていたが、
グンソーには何も答えなかった。


そういうことがあってからグンソーは、
戦争については再び語ることはしなくなった。
生徒たちもグンソーの話をもう
聞きたくはなかった。
人殺しの話はもう十分だったのである。
私もグンソーの話を聞くのは好きだったが、
彼の性格や生き方は嫌いであった。
グンソーを人殺しだと感じていたからだ。
しかし考えてみるに、
その当時の日本軍人は、
父も含めてすべてが「人殺し」を演じていたのだ。
軍人とは、
いかなることであれ命令を受ければ、情け容赦なく
人を殺していた存在だからだ。
女でも子どもでも。
日本軍人たちは、
どれだけたくさんの人々を殺してきたことか!
それは朝鮮半島や中国大陸だけではなく、
太平洋地域や東南アジア全地域でも同じことだ。
すべてが日本の領土を拡張するためで
人々の資産を奪おうというものだった。
グンソーは自らの体験を語ってくれたが、
ほかの人たちは黙して語ろうとはしない。
誰も口を開こうとはしない。
伝えていこうともしない。


日本と中国の戦争では、
中国大陸だけで1000万人から
3000万人の人々が殺されたといわれている。
日本側の公式な計算でも
1000万人以上は殺されているというのだから、
いったい大陸で何があったか
推して知るべしなのである。
南京で虐殺された人々は30万人ではなくて、
実はもっと少なかったかもしれない。
しかし仮に10万人であったとしても
それは異民族支配の中では
恐ろしい数字として
歴史に残っているのは事実なのだ。


この数字の検証は、
中国と日本の
双方でやっていくべきものであるが、
しかし現在では
30万人の虐殺は全く存在しなかった
という論争にとどまらず、そうした
虐殺自身が存在しなかった
という動きが日本にはあるが、
こうしたことを主張する彼らは
戦争の実相を決して
見ようとしてはいない。
彼らは
日本が起こした戦争を
悪いとは思っていない存在だからだ。
だからどんなに人々が(日本軍人に)
殺されても、その
数字を認めることは決してしない。
彼らは
どんな事実を突きつけられても
平気で否定する人々なのである。
恐ろしいことだ。


人間は完全には出来ていない。
歴史の中で絶えず
間違いを犯している存在だ。しかし
侵略した事実をきちんと認めて、
政府として謝罪することで
日本人として歴史の中でより
真摯な生き方ができるし、
信頼し合うこれからの共同体を
作り上げていくにつながる。
1991年、私はユネスコの仕事で
北京に行ったとき、たまたま
戦争博物館を見学したことがある。
その博物館は、展示品と言ってもほとんどが
写真と新聞記事だけで構成されているものであったが、そこに
展示してあった当時の日本の
新聞記事に
大きな衝撃を受けた。
これは当時の毎日新聞の前身である
東京日日新聞の実際の記事であったが、
大見出しには実名で
「南京攻略時に「百人斬り競争」を行った」日本軍の
将校の二人の発言が報道されていた。


この競争の模様は、
1937年11月30日付けの
東京日日新聞(現在の毎日新聞)によって報道された。
その報道によると、日本軍が
南京へと進撃中の無錫から南京に到る間に、日本軍の
向井敏明少尉(歩兵第9連隊-第3大隊-歩兵砲小隊長)と
野田毅少尉(歩兵第9連隊-第3大隊副官)の
どちらが早く100人を斬るか,の競争を行っていると報じた。
東京日日新聞記事では、
無錫−常州間で
向井少尉は56人、野田少尉は25人の中国兵を斬った
と報じている。
また、1937年12月13日付けの記事では、
12月10日に記者と会った時のインタビューとして、
すでに向井少尉は106人、野田少尉は105人の中国兵を殺害しており
100人斬り競争の勝敗が決定できず、改めて
150人を目標とする殺害競争を始めると報じている。


これは戦時中のことだから、
新聞もかなり誇張して書いたかも知れず、
(近年は虚報だと言う意見もあるらしく)
事実であるかどうかはわからない。
しかし当時の日本の新聞が
こうした記事を掲載していたことを考えると、
これに近い虐殺は当時、
面白半分に、手柄半分に
日本軍人によって行われていたことは
容易に想像できる。


敗戦から70年が過ぎた今、
戦争はまるで
天災や自然災害と同じだった
ような感じで
報道がなされている。
敗戦国として
アメリカに踏まれた者の痛さとしての悲惨な
「東京大空襲」や
「広島の原爆投下」や
「沖縄戦」のことは、
TVでよく上映されている。しかしその
内容はと言えば、ほとんどが反戦映画とは言っても
「東京大空襲」や
「広島の原爆体験記」など
被害を受けた一般市民の視点だけであり、
グンソーのように
中国大陸や朝鮮半島で実際に
「人を踏んだ者」や
「人々を殺しまくった軍人」の
体験談をする番組はほとんどない。


マスコミもあえて
この問題に触れようとしない。
殺(や)られたということだけであって、
殺(や)ったということは決してしない。
要は
うしろめたい体験はすべて
隠そうとしているのだ。そして
否定しようとするのだ。
従軍慰安婦について、
河野官房長官の談話の中での
唯一の謝罪があるが、こうした
談話すら否定しようとする動きが現在
政府の中にある。
これは本当に
恥知らずで
無責任な性格をよく
表している。
「文書がない」という理由で
水に流そうとしているのだ。


考えてもみよう。
中国や韓国の人々が、
日本の戦争責任を口にするときには、
彼らは戦争中、
言葉で表現できないような、
悲痛な体験をしてきているのだ。
そして語り継いできているのだ。
もしもあなたの
家族が百人斬りの中の
犠牲者になっていたら、
もしもあなたの
家族が強制連行で
従軍慰安婦として働かされていたら、
もしもあなたの
美田が強制
徴収にあっていたら・・・・
その恨みや辛さを永遠に
語り継いでいくのは当然のこと。
恨みや辛みは永遠なのだ。
もし日本人が
中国や韓国の人々から
非情な仕打ちを受けていたら、それを
後世忘れないのは当然だろう。


アメリカとの戦争では、
沖縄を除いて、
顔の見えない戦争(東京大空襲、原爆投下にしても人々の接した
戦争は地上戦ではなかった)であったが、
大陸では
顔の見えるなまなましい
戦争であった。
しかし実態として、
現代の日本人のどれだけの人々が
戦争で行った「心の痛み」を深く感じながら、
自らの国が、
自らの肉親たちが行った
残虐な行為を
「慙愧の念」をもって
振り返っているであろうか?
そして
語り継いでいこうとしているであろうか?
「人の心の中に平和の砦(とりで)を!」という言葉があるが、
平和を口にする前にまず
戦争についての”実態や事実を”きちんと
次世代に語っておく必要がある。
そうでないと
戦争は我らの世界から消えることはない。そして
前世代のやった残虐な行為を
背負って、
次世代が育っていくのだから。


「なぜ日本軍は大陸に侵略していたのか?
なぜ朝鮮半島を植民地にしていたのか?
なぜ日本は満州国をつくっていたのか?
なぜ多くの人々を殺しまくっていたのか?
なぜ軍隊はいつも女性を強姦するのか?
なぜ人間は
物欲が余りにも深く
他の存在を支配しようとするのか?」


しかしこうした
体験や考えは今や
風前の灯になって
消え去ろうとしている。
みんな
黙して語らないからだ。
過去の体験をひたすらに
水に流そうとしているのだ。
沈黙のまま
墓場まで持って行こうとしている。


ああ、
歴史は必ず繰り返す。
日本人は、
被害者であった以上に
加害者であったことを
引き継いで伝えていかなければならない。
人に踏まれたことより
人を踏んだことを・・
そう、戦争中、
最も悲痛であったのは、
被害者であったからだ。
政治家がやったことを決して
忘れてはいけない。
そしてそれに追随して
破局に陥ったことを・・・
今日本では、
間違った歴史観が育っている。
人を踏みつけても
なんとも思わないような歴史や、
あったことでも存在していなかったように
真実を覆い隠そうとする
歴史観が広がっていっている。


そうした中からは、
決して
正しい意味での
”日本人の誇り”とか
”日本人の愛国心”が
育っていく訳がない。
愛国心とは、
国境を越えて
世界中の人々を
愛することができる
ことをいうのだ。
決して
狭い人間観ではない。
狭い国家観がどれだけ人間を
閉鎖的で
残忍な存在にしてきたか、
近代の歴史を見れば
一目瞭然であろう。
愛国心は悪漢の最後の隠れがだという
有名な言葉もあるぐらいだ。そして
三流学者が
自虐史観という名称をつけては、
自らの行ってきた罪業を
闇に葬ろうとしているのが
現在の日本の歴史教育の流れとなろうとしている。
そして再び、
軍産学が手に手を取り合って、
コンピュータを搭載した兵器産業を日本の
主翼な産業に成長させようとしている。そして
安倍内閣は、
戦争法を強行し、
平和憲法9条を改悪しようとしている。


グンソー先生!あなたは
生徒たちにいろいろ言われながらも、そのような
なまなましい体験を語ってくれて、ありがとう!
あなたたちが
中国や韓国でやってきたこと・・
人々を踏みつけてきたこと。それは決して
忘れませんから。そして同時に
子どもたちは、
いつの時代にも、
大人の本当の気持ちや真実を
知りたいと思っていることを。
グンソー、グンソーと言われながら、
反面教師かなにかわからないけれど、
中学生に自らの赤裸々な
戦争体験を一生懸命に
語ってくれていた先生!あなたが
話してくれたからこそ、
今、こうやって
ブログを通して
多くの人々に
伝わっていっているんです。
ありがとうございます!! 


田島伸二

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オノマ師のブログのこのページ(↑)のコメント欄へ仏教聖典から以下を転記した。(↓)


コメント


 第四章 煩悩

 第一節 心のけがれ

 一、仏性(ぶっしょう)を覆いつつむ煩悩に二種類ある。

 一つは知性の煩悩である。
二つには感情の煩悩である
(一つは道理に迷う理性の煩悩である。
二つには実際に当たって迷う感情の煩悩である)。

 この二つの煩悩は、あらゆる煩悩の根本的な分類であるが、このあらゆる煩悩の根本となるものを求めれば、
一つには無明(むみょう)、
二つには愛欲となる
(この二つの煩悩は、無明と愛欲となる)。

 この無明と愛欲とは、あらゆる煩悩を生み出す自在の力を持っている。
そして、この二つこそ、すべての煩悩の源なのである。

 無明とは無知のことで、ものの道理をわきまえないことである。
愛欲は激しい欲望で、生に対する執着が根本であり、見るもの聞くものすべてを欲しがる欲望ともなり、また転じて、死を願うような欲望ともなる。

 この無明と愛欲とをもとにして、貪(むさぼ)り、瞋(いか)り、愚かさ、邪見(じゃけん)、恨み、嫉(ねた)み、へつらい、たぶらかし、おごり、あなどり、ふまじめ、その他いろいろの煩悩が生まれてくる。


 二、貪りの起きるのは、気に入ったものを見て、正しくない考えを持つためである。
瞋りの起きるのは、気に入らないものを見て、正しくない考えを持つためである。
愚かさはその無知のために、なさなければならないことと、なしてはならないこととを知らないことである。
邪見は正しくない教えを受けて、正しくない考えを持つことから起きる。

 この貪(むさぼ)りと瞋(いか)りと愚かさは、世の三つの火といわれる。
貪りの火は、欲にふけって、真実心を失った人を焼き、
瞋りの火は、腹を立てて、生けるものの命を害(そこ)なう人を焼き、
愚かさの火は、心迷って仏の教えを知らない人を焼く。

 まことにこの世はさまざまの火に焼かれている。
貪りの火、瞋りの火、愚かさの火、生・老・病・死の火、憂い・悲しみ・苦しみ・悶えの火、さまざまな火によって炎々と燃えあがっている。
これらの煩悩の火はおのれを焼くばかりでなく、他をも苦しめ、人を身(しん)・口(く)・意(い)の三つの悪い行為に導くことになる。
しかも、これらの火によってできた傷口のうみは触れたものを毒し、悪道に陥(おと)し入れる。


 三、貪(むさぼ)りは満足を得たい気持ちから、瞋(いか)りは満足を得られない気持ちから、愚かさは不浄な考えから生まれる。
貪りは罪の汚れは少ないけれども、これを離れることは容易でなく、
瞋りは罪の汚れが大きいけれども、これを離れることは早いものである。
愚かさは罪の汚れも大きく、またこれを離れることも容易ではない。

 したがって、人びとは気に入ったものの姿を見聞きしては正しく思い、気に入らないものの姿を見ては慈しみの心を養い、常に正しく考えて、この三つの火を消さなければならない。
もしも、人びとが正しく、清く、無私の心に満ちているならば、煩悩によって惑わされることはない。


 四、貪り、瞋り、愚かさは熱のようなものである。
どんな人でも、この熱の一つでも持てば、いかに美しい広びろとした部屋に身を横たえても、その熱にうなされて、寝苦しい思いをしなければならない。

 この三つの煩悩のない人は、寒い冬の夜、木の葉を敷物とした薄い寝床でも、快く眠ることができ、むし暑い夏の夜、閉じこめられた狭苦しい部屋でも、安らかに眠ることができる。

 この三つは、この世の悲しみと苦しみのもとである。
この悲しみと苦しみのもとを絶つものは、戒めと心の統一と智慧である。
戒めは貪りの汚れを取り去り、正しい心の統一は瞋りの汚れを取り去り、智慧は愚かさの汚れを取り去る。


 五、人間の欲にははてしがない。
それはちょうど塩水を飲むものが、いっこうに渇きが止まらないのに似ている。
彼はいつまでたっても満足することがなく、渇きはますます強くなるばかりである。

 人はその欲を満足させようとするけれども、不満がつのっていらだつだけである。

 人は欲を決して満足させることができない。
そこには求めて得られない苦しみがあり、満足できないときには、気も狂うばかりとなる。

 人は欲のために争い、欲のために戦う。
王と王、臣と臣、親と子、兄と弟、姉と妹、友人同士、互いにこの欲のために狂わされて相争い、互いに殺し合う。

 また人は欲のために身をもちくずし、盗み、詐欺し、姦淫する。
ときには捕らえられて、さまざまな刑を受け、苦しみ悩む。

 また、欲のために身・口・意の罪を重ね、この世で苦しみを受けるとともに、死んで後の世には、暗黒の世界に入ってさまざまな苦しみを受ける。


六、愛欲は煩悩の王、さまざまの煩悩がこれにつき従う。

 愛欲は煩悩の芽をふく湿地、さまざまな煩悩を生じる。
愛欲は善を食う鬼女、あらゆる善を滅ぼす。

 愛欲は花に隠れ住む毒蛇、欲の花を貪るものに毒を刺して殺す。
愛欲は木を枯らすつる草、人の心に巻きつき、人の心の中の善のしるを吸い尽くす。
愛欲は悪魔の投げた餌(え)、人はこれにつられて悪魔の道に沈む。

 飢えた犬に血を塗った乾いた骨を与えると、犬はその骨にしゃぶりつき、ただ疲れと悩みを得るだけである。
愛欲が人の心を養わないのは、まったくこれと同じである。

 一切れの肉を争って獣は互いに傷つく。
たいまつを持って風に向かう愚かな人は、ついにおのれ自身を焼く。
この獣のように、また、この愚かな人のように、人は欲のためにおのれの身を傷つけ、その身を焼く。


 七、外から飛んでくる毒矢は防ぐすべがあっても、内からくる毒矢は防ぐすべがない。
貪りと瞋りと愚かさと高ぶりとは、四つの毒矢にもたとえられるさまざまな病を起こすものである。

 心に貪(むさぼ)りと瞋(いか)りと愚かさがあるときは、口には偽りと無駄口悪口と二枚舌を使い、身には殺生と盗みとよこしまな愛欲を犯すようになる。

 意の三つ、口の四つ、身の三つ、これらを十悪という。

 知りながらも偽りを言うようになれば、どんな悪事をも犯すようになる。
悪いことをするから、偽りを言わなければならないようになり、偽りを言うようになるから、平気で悪いことをするようになる。
 
 人の貪(むさぼ)りも、愛欲も恐れも瞋(いか)りも、愚かさからくるし、人の不幸も難儀も、また愚かさからくる。
愚かさは実に人の世の病毒にほかならない。
 

 八、人は煩悩によって業(ごう)を起こし、業によって苦しみを招く。
煩悩と業と苦しみの三つの車輪はめぐりめぐってはてしがない。

 この車輪の回転には始まりもなければ終わりもない。
しかも、人はこの輪廻(りんね)から逃れるすべを知らない。
永遠に回帰する輪廻に従って、人はこの現在の生から、次の生へと永遠に生まれ変わってゆく。

 限りない輪廻の間に、ひとりの人が焼き捨てた骨を積み重ねるならば、山よりも高くなり、また、その間に飲んだ母の乳を集めるならば、海の水よりも多くなるであろう。

 だから、人には仏性があるとはいえ、煩悩の泥があまりに深いため、その芽生えは容易でない。
芽生えない仏性はあってもあるとはいわれないので人びとの迷いははてしない。


第四節  迷いのすがた

 一、この世の人びとは、人情が薄く、親しみ愛することを知らない。
しかも、つまらないことを争いあい、激しい悪と苦しみの中にあって、それぞれの仕事を勤めて、ようやく、その日を過ごしている。

 身分の高下にかかわらず、富の多少にかかわらず、すべてみな金銭のことだけに苦しむ。
なければないで苦しみ、あればあるで苦しみ、ひたすらに欲のために心を使って、安らかなときがない。

 富める人は、田があれば田を憂え、家があれば家を憂え、すべて存在するものに執着して憂いを重ねる。
あるいは災いにあい、困難に出会い、奪われ焼かれてなくなると、苦しみ悩んで命まで失うようになる。
しかも死への道はひとりで歩み、だれもつき従う者はない。

 貧しいものは、常に足らないことに苦しみ、家を欲しがり、田を欲しがり、この欲しい欲しいの思いに焼かれて、心身ともに疲れ果ててしまう。
このために命を全うすることができずに、中途で死ぬようなこともある。

 すべての世界が敵対するかのように見え、死出の旅路は、ただひとりだけで、はるか遠くに行かなければならない。


 二、また、この世には五つの悪がある。

 一つには、あらゆる人から地に這う虫に至るまで、すべてみな互いにいがみあい、強いものは弱いものを倒し、弱いものは強いものを欺き、互いに傷つけあい、いがみあっている。

 二つには、親子、兄弟、夫婦、親族など、すべて、それぞれおのれの道がなく、守るところもない。
ただ、おのれを中心にして欲をほしいままにし、互いに欺きあい、心と口とが別々になっていて誠がない。

 三つには、だれも彼もみなよこしまな思いを抱き、みだらな思いに心をこがし、男女の間に道がなく、そのために、徒党を組んで争い戦い、常に非道を重ねている。

 四つには、互いに善い行為をすることを考えず、ともに教えあって悪い行為をし、偽り、むだ口、悪口、二枚舌を使って、互いに傷つけあっている。
ともに尊敬しあうことを知らないで、自分だけが尊い偉いものであるかのように考え、他人を傷つけて省みるところがない。

 五つには、すべてのものは怠りなまけて、善い行為をすることさえ知らず、恩も知らず、義務も知らず、ただ欲のままに動いて、他人に迷惑をかけ、ついには恐ろしい罪を犯すようになる。


 三、人は互いに敬愛し、施しあわなければならないのに、わずかな利害のために互いに憎み争うことだけをしている。
しかも、争う気持ちがほんのわずかでも、時の経過に従ってますます大きく激しくなり、大きな恨みになることを知らない。

 この世の争いは、互いに害(そこな)いあっても、すぐに破滅に至ることはないけれども、毒を含み、怒りが積み重なり、憤りを心にしっかり刻みつけてしまい、生をかえ、死をかえて、互いに傷つけあうようになる。

 人はこの愛欲の世界に、ひとり生まれ、ひとり死ぬ。
未来の報いは代わって受けてくれるものがなく、おのれひとりでそれに当たらねばならない。

 善と悪とはそれぞれその報いを異にし、善は幸いを、悪は災いをもたらし、動かすことのできない道理によって定まっている。
しかも、それぞれが、おのれの業を担い、報いの定まっているところへ、ひとり赴く。


 四、恩愛のきずなにつながれては憂いに閉ざされ、長い月日を経ても、いたましい思いを解くことができない。
それとともに、激しい貪りにおぼれては、悪意に包まれ、でたらめに事を起こし、他人と争い、真実の道に親しむことができず、寿命も尽きないうちに、死に追いやられ、永劫に苦しまなければならない。

 このような人の仕業は、自然の道に逆らい、天地の道理にそむいているので、必ず災いを招くようになり、この世でも、後の世でも、ともに苦しみを重ねなければならない。

 まことに、世俗のことはあわただしく過ぎ去ってゆき、頼りとすべきものは何一つなく、力になるものも何一つない。
この中にあって、こぞってみな快楽のとりことなっていることは、嘆かわしい限りといわなければならない。


 五、このような有様が、まことにこの世の姿であり、人びとは苦しみの中に生まれてただ悪だけを行ない、善を行なうことを少しも知らない。
だから自然の道理によって、さらに苦しみの報いを受けることを避けられない。

 ただおのれにのみ何でも厚くして、他人に恵むことを知らない。
そのうえ、欲に迫られてあらゆる煩悩を働かせ、そのために苦しみ、またその結果によって苦しむ。

 栄華の時勢は長続きせず、たちまちに過ぎ去る。
この世の快楽も何一つ永続するものはない。
 

 六、だから、人は世俗のことを捨て、健全なときに道を求め、永遠の生を願わねばならない。
道を求めることをほかにして、どんな頼み、どんな楽しみがあるというのか。

 ところが人びとは、善い行為をすれば善を得、道にかなった行為をすれば道を得るということを信じない。
また、人が死んでまた生まれるということを知らず、施せば幸いを得るということを信じない。
すべて善悪にかかわるすべてのことを信じない。

 ただ、誤った考えだけを持ち、道も知らず、善も知らず、心が暗くて、吉凶禍福が次々に起こってくる道理を知らず、ただ眼前に起こることだけについて泣き悲しむ。

 どんなものでも永久に変わらないものはないのであるから、すべてうつり変わる。
ただ、これについて苦しみ悲しむことだけを知っていて、教えを聞くことがなく、心に深く思うことがなく、ただ眼前の快楽におぼれて、財貨や色欲を貪って飽きることを知らない。


 七、人びとが、遠い昔から迷いの世界を経めぐり、憂いと苦しみに沈んでいたことは、言葉では言い尽くすことができない。
しかも、今日に至っても、なお迷いは絶えることがない。
ところが、いま、仏の教えに会い、仏の名を聞いて信ずることができたのは、まことにうれしいことである。

 だから、よく思いを重ね、悪を遠ざけ、善を選び、努め行なわなければならない。

 いま、幸いにも仏の教えに会うことができたのであるから、どんな人も仏の教えを信じて、仏の国に生まれることを願わなければならない。
仏の教えを知った以上は、人は他人に従って煩悩や罪悪のとりこになってはならない。
また、仏の教えをおのれだけのものとすることなく、それを実践し、それを他人に教えなければならない。

はげみ

第1章 さとりへの道 

 第一節 心を清める

 一、人には、迷いと苦しみのもとである煩悩がある。
この煩悩のきずなから逃れるには五つの方法がある。

 第一には、ものの見方を正しくして、その原因と結果とをよくわきまえる。
すべての苦しみのもとは、心の中の煩悩であるから、その煩悩がなくなれば、苦しみのない境地が現われることを正しく知るのである。

 見方を誤るから、我(が)という考えや、原因・結果の法則を無視する考えが起こり、この間違った考えにとらわれて煩悩を起こし、迷い苦しむようになる。

 第二には、欲をおさえしずめることによって煩悩をしずめる。
明らかな心によって、眼・耳・鼻・舌・身・意の六つに起こる欲をおさえしずめて、煩悩の起こる根元を断ち切る。

 第三には、物を用いるに当たって、考えを正しくする。
着物や食物を用いるのは享楽のためとは考えない。
着物は暑さや寒さを防ぎ羞恥を包むためであり、食物は道を修めるもととなる身体を養うためにあると考える。
この正しい考えのために、煩悩は起こることができなくなる。

 第四には何ごとも耐え忍ぶことである。
暑さ・寒さ・飢え・渇きを耐え忍び、ののしりや謗(そし)りを受けても耐え忍ぶことによって、自分の身を焼き滅ぼす煩悩の火は燃え立たなくなる。

 第五には、危険から遠ざかることである。
賢い人が、荒馬や狂犬の危険に近づかないように、行ってはならない所、交わってはならない友は遠ざける。
このようにすれば煩悩の炎は消え去るのである。


 二、世には五つの欲がある。

 眼に見るもの、耳に聞く声、鼻にかぐ香り、舌に味わう味、身に触れる感じ、この五つのものをここちよく好ましく感ずることである。

 多くの人は、その肉体の好ましさに心ひかれて、これにおぼれ、その結果として起こる災いを見ない。
これはちょうど、森の鹿が猟師のわなにかかって捕えられるように、悪魔のしかけたわなにかかったのである。
まことにこの五欲はわなであり、人びとはこれにかかって煩悩を起こし、苦しみを生む。
だから、この五欲の災いを見て、そのわなから免れる道を知らなければならない。


 三、その方法は一つではない。
例えば、蛇と鰐(わに)と鳥と犬と狐と猿と、その習性を別にする六種の生きものを捕えて強いなわで縛り、そのなわを結び合わせて放つとする。

 このとき、この六種の生きものは、それぞれの習性に従って、おのおのその住みかに帰ろうとする。
蛇は塚に、鰐は水に、鳥は空に、犬は村に、狐は野に、猿は森に。
このために互いに争い、力のまさったものの方へ、引きずられてゆく。

 ちょうどこのたとえのように、人びとは目に見たもの、耳に聞いた声、鼻にかいだ香り、舌に味わった味、身に触れた感じ、及び、意(こころ)に思ったもののために引きずられ、その中の誘惑のもっとも強いものの方に引きずられてその支配を受ける。

 またもし、この六種の生きものを、それぞれなわで縛り、それを丈夫な大きな柱に縛りつけておくとする。
はじめの間は、生きものたちはそれぞれの住みかに帰ろうとするが、ついには力尽き、その柱のかたわらに疲れて横たわる。

 これと同じように、もし、人がその心を修め、その心を鍛練しておけば、他の五欲に引かれることはない。
もし心が制御されているならば、人びとは、現在においても未来においても幸福を得るであろう。


 四、人びとは欲の火の燃えるままに、はなやかな名声を求める。
それはちょうど香が薫りつつ自らを焼いて消えてゆくようなものである。
いたずらに名声を求め、名誉を貪って、道を求めることを知らないならば、身はあやうく、心は悔いにさいなまれるであろう。

 名誉と財と色香とを貪り求めることは、ちょうど、子供が刃(やいば)に塗られた蜜をなめるようなものである。
甘さを味わっているうちに、舌を切る危険をおかすこととなる。

 愛欲を貪り求めて満足を知らない者は、たいまつをかかげて風に逆らいゆくようなものである。
手を焼き、身を焼くのは当然である。

 貪りと瞋(いか)りと愚かさという三つの毒に満ちている自分自身の心を信じてはならない。
自分の心をほしいままにしてはならない。
心をおさえ欲のままに走らないように努めなければならない。


 五、さとりを得ようと思うものは、欲の火を去らなければならない。
干し草を背に負う者が野火を見て避けるように、さとりの道を求める者は、必ずこの欲の火から遠ざからなければならない。 
                                     
 美しい色を見、それに心を奪われることを恐れて眼をくり抜こうとする者は愚かである。
心が主であるから、よこしまな心を断てば、従者である眼の思いは直ちにやむ。

 道を求めて進んでゆくことは苦しい。
しかし、道を求める心のないことは、さらに苦しい。
この世に生まれ、老い、病んで、死ぬ。
その苦しみには限りがない。

 道を求めてゆくことは、牛が重荷を負って深い泥の中を行くときに、疲れてもわき目もふらずに進み、泥を離れてはじめて一息つくのと同じでなければならない。欲の泥はさらに深いが、心を正しくして道を求めてゆけば、泥を離れて苦しみはうせるであろう。


  六、道を求めてゆく人は、心の高ぶりを取り去って教えの光を身に加えなければならない。
どんな金銀・財宝の飾りも、徳の飾りには及ばない。

 身を健やかにし、一家を栄えさせ、人びとを安らかにするには、まず、心をととのえなければならない。
心をととのえて道を楽しむ思いがあれば、徳はおのずからその身にそなわる。

 宝石は地から生まれ、徳は善から現われ、智慧は静かな清い心から生まれる。
広野のように広い迷いの人生を進むには、この智慧の光によって、進むべき道を照らし、徳の飾りによって身をいましめて進まなければならない。

 貪(むさぼ)りと瞋(いか)りと愚かさという三つの毒を捨てよ、と説く仏の教えは、よい教えであり、その教えに従う人は、よい生活と幸福とを得る人である。


 七、人の心は、ともすればその思い求める方へと傾く。
貪(むさぼ)りを思えば貪りの心が起こる。
瞋(いか)りを思えば瞋りの心が強くなる。
損なうことを思えば損なう心が多くなる。

 牛飼いは、秋のとり入れ時になると、放してある牛を集めて牛小屋に閉じこめる。
これは牛が穀物を荒して抗議を受けたり、また殺されたりすることを防ぐのである。

 人もそのように、よくないことから起こる災いを見て、心を閉じこめ、悪い思いを破り捨てなければならない。
貪(むさぼ)りと瞋(いか)りと損なう心を砕いて、
貪らず、瞋(いか)らず、損なわない心を育てなければならない。

 牛飼いは、春になって野原の草が芽をふき始めると牛を放す。
しかし、その牛の群れの行方を見守り、その居所に注意を怠らない。

 人もまた、これと同じように、自分の心がどのように動いているか、その行方を見守り、行方を見失わないようにしなければならない。


 八、釈尊がコーサンビーの町に滞在していたとき、釈尊に怨みを抱く者が町の悪者を買収し、釈尊の悪口を言わせた。
釈尊の弟子たちは、町に入って托鉢(たくはつ)しても一物も得られず、ただそしりの声を聞くだけであった。

 そのときアーナンダは釈尊にこう言った。
「世尊よ、このような町に滞在することはありません。他にもっとよい町があると思います」
「アーナンダよ、次の町もこのようであったらどうするのか」
「世尊よ、また他の町へ移ります」

 「アーナンダよ、それではどこまで行ってもきりがない。
わたしはそしりを受けたときには、じっとそれに耐え、そしりの終わるのを待って、他へ移るのがよいと思う。
アーナンダよ。
仏は、利益・害・中傷・ほまれ・たたえ・そしり・苦しみ・楽しみという、この世の八つのことによって動かされることがない。
こういったことは、間もなく過ぎ去るであろう」

 第二節 善い行ない


 一、道を求めるものは、常に身と口と意の三つの行ないを清めることを心がけなければならない。
身の行ないを清めるとは、生きものを殺さず、盗みをせず、よこしまな愛欲を犯さないことである。
口の行ないを清めるとは、偽りを言わず、悪口を言わず、二枚舌を使わず、むだ口をたたかないことである。
意の行ないを清めるとは、貪(むさぼ)らず、瞋(いか)らず、よこしまな見方をしないことである。

 心が濁れば行ないが汚れ、行ないが汚れると、苦しみを避けることができない。だから、心を清め、行ないを慎しむことが道のかなめである。


 二、昔、ある金持ちの未亡人がいた。
親切で、しとやかで、謙遜であったため、まことに評判のよい人であった。
その家にひとりの女中がいて、これも利口でよく働く女であった。

 あるとき、その女中がこう考えた。
「うちの主人は、まことに評判のよい人であるが、腹からそういう人なのか、または、よい環境がそうさせているのか、一つ試してみよう」

 そこで、女中は、次の日、なかなか起きず、昼ごろにようやく顔を見せた。
主人はきげんを悪くして、「なぜこんなに遅いのか。」ととがめた。

 「一日や二日遅くても、そうぶりぶり怒るものではありません」とことばを返すと、主人は怒った。

 女中はさらに次の日も遅く起きた。
主人は怒り、棒で打った。
このことが知れわたり、未亡人はそれまでのよい評判を失った。


 三、だれでもこの女主人と同じである。
環境がすべて心にかなうと、親切で謙遜で、静かであることができる。
しかし、環境が心に逆らってきても、なお、そのようにしていられるかどうかが問題なのである。

 自分にとって面白くないことばが耳に入ってくるとき、相手が明らかに自分に敵意を見せて迫ってくるとき、衣食住が容易に得られないとき、このようなときにも、なお静かな心と善い行ないとを持ち続けることができるであろうか。

 だから、環境がすべて心にかなうときだけ、静かな心を持ちよい行ないをしても、それはまことによい人とはいえない。
仏の教えを喜び、教えに身も心も練り上げた人こそ、静かにして、謙遜な、よい人といえるのである。


 四、すべてことばには、
時にかなったことばとかなわないことば、
事実にかなったことばとかなわないことば、
柔らかなことばと粗いことば、
有益なことばと有害なことば、
慈しみあることばと憎しみのあることば、
この五対がある。

 この五対のいずれによって話しかけられても、

 「わたしの心は変わらない。
粗いことばはわたしの口から漏れない。
同情と哀れみとによって慈しみの思いを心にたくわえ、
怒りや憎しみの心を起こさないように」と努めなければならない。

 たとえばここに人がおり、鋤と鍬を持って、この大地の土をなくそうと、土を掘ってはまき散らし、土よなくなれと言ったとしても、土をなくすことはできない。このようにすべてのことばをなくしてしまうことはのぞみ得ない。

 だから、どんなことばで語られても、心を鍛えて慈しみの心をもって満たし、心の変わらないようにしておかなければならない。

 また、絵の具によって、空に絵を描こうとしても、物の姿を現わすことはできないように、
また、枯草のたいまつによって、大きな河の水を乾かそうとしてもできないように、
また、よくなめした柔らかな皮を摩擦して、ざらざらした音を立てようとしてもできないように、
どんなことばで話しかけられても、決して心の変わらないように、心を養わなければならない。

 人は、心を大地のように広く、大空のように限りなく、大河のように深く、なめした皮のように柔らかに養わなければならない。

 たとえ、かたきに捕らえられて、苦しめられるようなことがあっても、そのために心を暗くするのは、真に仏の教えを守った者とはいえない。

どんな場合に当たっても、
 
 「私の心は動かない。
憎しみ怒ることばは、わたしの口を漏れない。
同情と哀れみのある慈しみの心をもって、その人を包むように。」と学ばなければならない。


 五、ある人が、「夜は煙って、昼は燃える蟻塚。」を見つけた。
ある賢者にそのことを語ると、「では、剣をとって深く掘り進め。」と命ぜられ、言われるままに、その蟻塚を掘ってみた。

 はじめにかんぬきが出、次は水泡、次には刺叉(さすまた)、それから箱、亀、牛殺しの刀、一片の肉が次々と出、最後に龍が出た。

 賢者にそのことを語ると、「それらのものをみな捨てよ。ただ龍のみをそのままにしておけ。龍を妨げるな。」と教えた。

 これはたとえである。
ここに「蟻塚」というのはこの体のことである。
「夜は煙って」というのは、昼間したことを夜になっていろいろ考え、喜んだり、悔やんだりすることをいう。
「昼は燃える」というのは、夜考えたことを、昼になってから体や口で実行することをいう。

 「ある人」というのは道を求める人のこと、「賢者」とは仏のことである。「剣」とは清らかな智慧のこと、「深く掘り進む」とは努力のことである。

 「かんぬき」とは無明のこと、「水泡」とは怒りと悩み、「刺叉」とはためらいと不安、「箱」とは貪り・瞋り・怠り・浮わつき・悔い・惑いのこと、「亀」とは身と心のこと、「牛殺しの刀」とは五欲のこと、「一片の肉」とは楽しみを貪り求める欲のことである。
これらは、いずれもこの身の毒となるものであるから、「みな捨てよ」というのである。

 最後の「龍」とは、煩悩の尽きた心のことである。
わが身の足下を掘り進んでゆけば、ついにはこの龍を見ることになる。

 掘り進んでこの龍を見いだすことを、「龍のみをそのままにしておけ、龍を妨げるな。」というのである。


 六、釈尊の弟子ピンドーラは、さとりを得て後、故郷の恩に報いるために、コーサンビーの町に帰り、努力して仏の種をまく田地(でんち)の用意をしようとした。
コーサンビーの郊外に、小公園があり、椰子の並木は果てもなく続き、ガンジスの洋々たる河波は、涼しい風を絶え間なく送っていた。

 夏のある日、昼の暑い日盛りを避けて、ピンドーラは、並木の木陰の涼しいところで座禅していた。
ちょうどこの日、城主のウダヤナ王も、妃たちを連れて公園に入り、管弦の遊びに疲れて、涼しい木陰にしばしの眠りにおちいった。

 妃たちは、王の眠っている間、あちらこちらとさまよい歩き、ふと、木陰に端座するピンドーラを見た。
彼女らはその姿に心うたれ、道を求める心を起こし、説法することを求めた。
そして、彼の教えに耳を傾けた。

 目を覚ました王は、妃たちのいないのに不審をいだき、後を追って、木陰で妃たちにとりまかれているひとりの出家を見た。
淫楽に荒んだ王は、前後の見境もなく、心中にむらむらと嫉妬の炎を燃やし、「わが女たちを近づけて雑談にふけるとはふらちな奴だ。」と悪口を浴びせた。
ピンドーラは眼を閉じ、黙然として、一語も発しない。

 怒り狂った王は、剣を抜いて、ピンドーラの頭につきつけたが、彼はひとことも語らず、岩のように動かない。

 いよいよ怒った王は、蟻塚をこわして、無数の赤蟻を彼の体のまわりにまき散らしたが、それでもピンドーラは、端然と坐ったままそれに耐えていた。

 ここに至って、王ははじめて自分の狂暴を恥じ、その罪をわびて許しを請うた。これから仏の教えがこの王家に入り、その国に広まるいとぐちが開けた。


 七、その後、幾日か過ぎて、ウダヤナ王はピンドーラをその住む森に訪ね、その不審をただした。

 「大徳よ、仏の弟子たちは、若い身でありながら、どうして欲におぼれず、清らかにその身を保つことができるのであろうか。」

 「大王よ、仏はわたしたちに向かって、婦人に対する考えを教えられた。
年上の婦人を母と見よ。
中ほどの婦人を妹と見よ。
若い婦人を娘と見よと。
この教えによって、弟子たちは若い身でありながら、欲におぼれず、その身を清らかに保っている。」

 「大徳よ、しかし、人は、母ほどの人にも、妹ほどの人にも、娘ほどの人にもみだらな心を起こすものである。
仏の弟子たちはどのようにして欲を抑えることができるのであろうか。」

 「大王よ、世尊は、人の体がいろいろの汚れ、血・うみ・汗・脂など、さまざまの汚れに満ちていることを観(み)よと教えられた。
このように見ることによって、われわれ若い者でも、心を清らかに保つことができるのである。」

 「大徳よ、体を鍛え、心を練り、智慧をみがいた仏弟子たちには容易であるかも知れない。
しかし、いかに仏の弟子でも、未熟の人には、容易なことではないであろう。
汚れたものを見ようとしても、いつしか清らかな姿に心ひかれ、醜さを見ようとしても、いつしか美しい形に魅せられてゆく。
仏弟子が美しい行いを保つには、もっと他に理由があるのではあるまいか。」

 「大王よ、仏は五官の戸口を守れと教えられる。
目によって色・形を見、耳によって声を聞き、鼻によって香りをかぎ、舌によって味を味わい、体によって物に触れるとき、
そのよい姿に心を奪われず、またよくない姿に心をいらだたせず、よく五官の戸口を守れと教えられる。
この教えによって、若い者でも、心身を清らかに保つことができるのである。」

 「大徳よ、仏の仰せは、まことにすばらしい。
わたしの経験によってもそのとおりである。
五官の戸締まりをしないで、ものに向かえば、すぐに卑しい心にとらわれる。
五官の戸口を守ることは、わたしどもの行いを清らかにするうえに、まことに大切なことである。」


 八、人が心に思うところを動作に表すとき、常にそこには反作用が起こる。
人はののしられると、言い返したり、仕返ししたくなるものである。
人はこの反作用に用心しなくてはならない。
それは風に向かって唾(つばき)するようなものである。
それは他人を傷つけず、かえって自分を傷つける。
それは風に向かってちりを掃くようなものである。
それはちりを除くことにならず、自分を汚すことになる。仕返しの心には常に災いがつきまとうものである。


 九、せまい心を捨てて、広く他に施すことは、まことによいことである。
それとともに、志を守り、道を敬うことは、さらによいことである。

 人は利己的な心を捨てて、他人を助ける努力をすべきである。
他人が施すのを見れば、その人はさらに別の人を幸せにし、幸福はそこから生まれる。

 一つのたいまつから何千人の人が火を取っても、そのたいまつはもとのとおりであるように、幸福はいくら分け与えても、減るということはない。

 道を修める者は、その一歩一歩を慎まなければならない。
志がどんなに高くても、それは一歩一歩到達されなければならない。道は、その日その日の生活の中にあることを忘れてはならない。


 十、この世の中に、さとりへの道を始めるに当たって成し難いことが二十ある。

   一、貧しくて、施すことは難く、

   二、慢心にして道を学ぶことは難く、

   三、命を捨てて道を求めることは難く、

   四、仏の在世に生を受けることは難く、

   五、仏の教えを聞くことは難く、

   六、色欲を耐え忍び、諸欲を離れることは難く、

   七、よいものを見て求めないことは難く、

   八、権勢を持ちながら、勢いをもって人に臨まないことは難く、

   九、辱められて怒らないことは難く、

   十、事が起きても無心であることは難く、

  十一、広く学び深く究めることは難く、

  十二、初心の人を軽んじないことは難く、

  十三、慢心を除くことは難く、

  十四、よい友を得ることは難く、

  十五、道を学んでさとりに入ることは難く、

  十六、外界の環境に動かされないことは難く、

  十七、相手の能力を知って、教えを説くことは難く、

  十八、心をいつも平らかに保つことは難く、

  十九、是非をあげつらわないことは難く、

  二十、よい手段を学び知ることは難い。


 十一、悪人と善人の特質はそれぞれ違っている。

悪人の特質は、
罪を知らず、
それをやめようとせず、
罪を知らされるのをいやがる。

善人の特質は、
善悪を知り、
悪であることを知ればすぐやめ、
悪を知らせてくれる人に感謝する。

 このように、
善人と悪人とは違っている。

 愚かな人とは自分に示された他人の親切に感謝できない人である。

 一方賢い人とは常に感謝の気持ちを持ち、
直接自分に親切にしてくれた人だけではなく、
すべての人に対して思いやりの心を持つことによって、
感謝の気持ちを表そうとする人である。

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仏教聖典おしえ第一章因縁第三節第三項 (華厳経)

 この世の中には、
三つの誤った見方がある。
もしこれらの見方に従ってゆくと、
この世のすべてのことが否定されることになる。

 一つには、
ある人は、
人間がこの世で経験するどのようなことも、
すべて運命であると主張する。
二つには、
ある人は、
それはすべて神の御業(みわざ)であるという。
三つには、
またあるひとは、
すべて因も縁もないものであるという。

 もしも、すべてが運命によって定まっているならば、
この世においては、
善いことをするのも、
悪いことをするのも、
みな運命であり、
幸・不幸もすべて運命となって、
運命のほかには何ものも存在しないことになる。

 したがって、
人びとに、
これはしなければならない、
これはしてはならないという希望も努力もなくなり、
世の中の進歩も改良もないことになる。

 次に、
神の御業であるという説も、
最後の因も縁もないとする説も、
同じ非難が浴びせられ、
悪を離れ、
善をなそうという意志も努力も意味もすべてなくなってしまう。

 だから、この三つの見方はみな誤っている。
どんなことも縁によって生じ、縁によって滅びるものである。

(A6文庫本p45)
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 法句経の現代語訳から

「自分よりも愛しいものはない。
同様に他の人々にも、自己は愛しい。
故に自己を愛するものは、他人を害してはならない。」

「生き物を自ら害すべからず。
また他人をして殺さしめてはいけない。
また、他の人々が殺害するのを容認してはならない。」

「あらゆる生物にたいして暴力や悩みを与えてはならない。」

「世界はどこも、とどまってはいない。
すべての方角も揺れ動いている。
私は、安住の地を求め探したが、どこにもなかった。
すべて、
死や苦しみにとりつかれている所ばかりだった。
殺そうとしている人々を見よ。
武器をとって打とうとしたことから恐怖が起こった。
すべてのものは、燃えている。
欲望と怒りと愚かさによって。」

「怨みは怨みをもって止まず。怨みを捨ててこそ止む」

「人の価値とは、生まれや身分によるものではなく、清らかな行いによって決まる」

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http://www.asyura2.com/15/senkyo198/msg/416.html#c30

仏教聖典p85

おしえ第四章煩悩第一節心の穢れ第七項( パーリ、本事經二四)


 外から飛んでくる毒矢は防ぐすべがあっても、
内からくる毒矢は防ぐすべがない。
貪(むさぼ)りと瞋(いか)りと愚かさと高ぶりとは、
四つの毒矢にもたとえられるさまざまな病を起こすものである。

 心に貪りと瞋りと愚かさがあるときは、
口には偽りと無駄口悪口と二枚舌を使い、
身には殺生と盗みとよこしまな愛欲を犯すようになる。

 意の三つ、口の四つ、身の三つ、これらを十悪という。

 知りながらも偽りを言うようになれば、
どんな悪事をも犯すようになる。
悪いことをするから、
偽りを言わなければならないようになり、
偽りを言うようになるから、
平気で悪いことをするようになる。
 人の貪りも、
愛欲も恐れも瞋りも、
愚かさからくるし、
人の難儀も不幸も、
また愚かさからくる。
愚かさは実に人の世の病毒にほかならない。


___________________________________
___________________________________
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仏教聖典 はげみ 第二章実践の道 第二節 さまざまな道 A6文庫本p177〜

十二、(パーリ、本事經三九、四〇)

 おのれに恥じず、他にも恥じないのは、世の中を破り、
おのれを恥じ、他にも恥じるのは、世の中を守る。
慚愧(ざんぎ)の心があればこそ、
父母・師・目上の人を敬う心も起こり、
兄弟姉妹の秩序も保たれる。
まことに、
自ら省みて、
わが身を恥じ、
人の有様を見ておのれに恥じるのは、
尊いことといわなければならない。

 懺悔(さんげ)の心が起これば、もはや罪は罪でなくなるが、

懺悔の心がないならば、罪は永久に罪として、その人をとがめる。

 正しい教えを聞いて、いくたびもその味わいを思い、これを修め習うことによって、教えが身につく。

思うこと修めることがなければ、耳に聞いても身につけることはできない。

 信と慚(ざん)と愧(ぎ)と努力と智慧(ちえ)とは、この世の大きな力である。
このうち、智慧の力が主であって、他の四つは、これに結びつく従の力である。

 道を修めるのに、雑事にとらわれ、雑談にふけり、眠りを貪るのは、退歩する原因である。

_______________


仏教聖典p229第三節もろ人のために から転載する。


一、(長阿含經第二、遊行經)

 ここに国家を栄えさせる七つの教えがある。【七不衰の法】

 一つには、
国民はしばしば会合して政治を語り、
国防を厳にして自ら守り、

 二つには、
上下心を一つにして相和し、
ともに国事を議し、

 三つには、
国風を尊んでみだりにあらためず、
礼を重んじ義を尊び、

 四つには、
男女の別を正し、
長幼の序を守って、
よく社会と家庭の純潔を保ち、

 五つには、
父母に孝し、
師長に仕え、

 六つには、
祖先の祭壇をあがめて祭儀を行い、

 七つには、
道を尊び徳をあがめ、
徳の高い師について教えを仰ぎ、
厚く供養することである。

 どんな国でも、
この七つの教えをよく守って破ることがないならば、
その国の栄えることは疑いがなく、
外国の侮りを受けることはないであろう。
「七不衰法」


二、(華厳経第三四、入法界品)

 昔、大光王は、自分の王道を次のように説いた。

 「自分の国家を治める道は、まず自分を修めることである。

自ら慈の心を養って、この心をもって国民に臨み、
人びとを教え導いて心の垢を除き去り、身と心を和らげて、
世の中の楽しみにまさる正しい教えの喜びを得させる。

 また、貧しいものが来たときには、蔵を開いて心のままに取らせる。
そしてこれを手がかりとして、すべての悪から遠ざかるように戒める。

 人びとは各々その心をもととして、見るところを異にする。
この城中の民にしても、この都を美しいと見るものもあれば、また汚いと見るものもある。
これは各々、その心、その環境がそうさせるのである。

 教えを尊び、心の正しい素直な人は、木石にも瑠璃の光を見るのであるが、
欲が深くて自分を修めることを知らない者は、どんな立派な御殿でもなお美しいと見ることはできない。

 国民の生活は、万事みなこのとおり、心がもとになっているから、わたしは国を治める大もとを、民にその心を修めさせることに置いている。」

三、(金光明經第一二、四天王護国品)

 大光王のことばどおり、政道の大もとは、民にその心を修めさせることにある。

 この心を修めることはさとりの道に進むことであるから、政治の上に立つ人は、まず仏の教えを信じなければならない。

 もし政治を行う人が、仏を信じ、教えを信じて、慈悲深く徳のある人を敬い、これに供養するならば、敵もなく、恨みもなく、国家は必ず栄えるに違いない。

 そして、国が富み栄えるならば、他の国を貪り攻めることもなく、また他を攻める武器の必要もなくなるであろう。

 したがって国民も満足して楽しみを受け、上下和らいでむつみあい、善を増し徳を積んで互いに敬愛し喜び合うから、
いよいよ人は栄え、寒さ暑さもととのい、日も月も星も常の程度を失わず、風雨が時に従うようになり、
こうしていろいろの災いも遠ざかるようになるであろう。

四、(大薩遮尼ノ子所説經)

 王たるものの勤めは、民を守ることにある。

王は民の父母であり、教えによって民を守るからである。

民を養うことは、父母が赤子を養うようなもので、
父母が赤子のことばを待たず、湿ったものを取り替えて新しい布を当てがうように、
いつも民に幸いを与えて悩みを去るよう慈しみ養うのである。
まことに王は、民をもって国の宝とする。
これは、民が安らかでなければ政道が立たないからである。

 だから、王たるものは、民を憂えてしばらくも心を離さない。
民の苦楽を察し、民の繁栄をはかり、
そのためには常に水を知り、風、雨を知り、実りの善悪を知り、日照りを知り、
民の憂いと喜びを知り、
罪の有無と軽重、功績の有無などをよく知って、賞罰の道を明らかにする。

 このように民の心を知って、
与えなければならないものは時をはかって与え、
取るべきものはよく量って取り、
民の利を奪わないよう、
よく税を軽くして民を安らかにする。

 王は力と権威によって民を守り、
このようにして民の心になって民をよく見守るものが王と呼ばれる。


五、この世の中の王を転輪王というが、転輪王とはその家系が正しく、身分が尊くてよく四辺を統御し、
また教えを守るところの王である。

 この王のゆくところには、戦いもなく恨みもなく、よく教えによって徳をしき、民を安らかにして邪と悪を下す。

 また転輪王は、殺さず、盗まず、よこしまな愛欲を犯さず、偽り、悪口、二枚舌、むだ口を言わず、貪らず、瞋らず、愚かでない。
この十善を行って民の十悪を去らせる。

 また、教えによって政治を正すから、天下において思いのままになすことができ、
そのゆくところには戦いがなく、恨みもなく、互いに相犯すこともない。
したがって、民は和らぎ、国は安らいで、民にいよいよその生を楽しませることができる。
だから教えを守る王といわれるのである。

 また転輪王は、王の中の王であるから、
もろもろの王はみなその徳を喜び、その教えに従って各々その国を治める。

 このように転輪王は、もろもろの王をして各々その国に安んじさせ、正しい教えのもとに王の任を果たさせる。


六、また王は罪を裁決するにも、慈悲の心をもととしなければならない。

明らかな智慧をもってよく観察し,五つの原則をもってよく処置しなければならない。

 五つの原則というのは、

 一つには、実によって不実によらない。
これは、事実を調べて、その事実によって処断することである。

 二つには、時(じ)によって非時(ひじ)によらない。
これは、王に力のあるときが時(じ)であり、力のないときが非時(ひじ)である。
力のあるときは罰しても効果があるが、力のないときには罰しても混乱があるだけであるから、時を待たなければならない。

 三つには、動機によって結果によらない。
これは、罪を犯すものの心に立ち入って、それが故意であるか故意でないかを見きわめ、
故意のことでなければ許すのをいう。

 四つには、親切なことばによってあらいことばによらない。
これは、罪が規則のどれに当たるかを明らかにして罪以上の罰を与えないようにし、
また柔らかい優しいことばで諭してその罪を覚(さと)らせるのをいう。

 五つには、慈悲の心によって瞋(いか)りの心によらない。
罪を憎んで人を憎まず、慈悲の心をもととして、
罪を犯したものにその罪を悔いあらためさせるように仕向けるのである。


七、もし王の重臣であって国家の大計を思わず、
ただ自分の利ばかりを求め、
賄賂を取って政道を曲げ、
人民の気風を頽廃させるならば、

人民は互いに相欺くようになり、
強い者は弱い者をしいたげ、
貴い者は卑しい者を軽んじ、
富んだ者は貧しい者を欺き、
曲がった道理をもって正しいものを曲げることになるから、
災いがいよいよ増長するようになる。
 
 すると忠実な重臣は隠れ退き、
心あるものも危害を怖れて沈黙し、
ただへつらう者だけが政権をとって、
みだりに公権を用いて私腹を肥やし、
民の貧しさは少しも救われないようになる。

 このようになると、政令は行われなくなり、
政道はまったくゆるんでしまう。

 このような悪人こそ、
民の幸福を奪う盗賊であるから、
国家のもっとも大きな悪賊といわなければならない。
なぜなら、上を欺き下を乱して、一国の災いの源となるからである。
王はこのような者を、もっとも厳しく処罰しなければならない。

 また教えによって政治をしく王の国において、
父母の生育の恩を思わず、
妻子にだけ心を傾けて父母を養わず、
あるいはまた、
父母の所有を奪ってその教えに従わないものは、
これをもっとも大きな悪の中に数えなければならない。

 なぜなら、
父母の恩はまことに重くて、
一生心を尽くして孝養しても、
し尽くせないものだからである。
主君に対して忠でなく、
親に対して孝でない者は、
もっとも重い罪人として処罰しなければならない。

 また教えによって政治をしく王の国の中においては、
仏と教えと教団(仏法僧)の三宝に対して信ずる心がなく、
寺を壊し経を焼き、
僧侶を捕らえて駆使するなど仏の教えを破る行いをする者は、
もっとも重い罪の者である。

 なぜなら、
これらはすべての善行のもとである民の信念を覆すものだからである。
これらの者は、
みなすべての善根を焼き尽くして、
自ら自分の穴を掘るものである。

 この三種の罪がもっとも重く、
したがってもっとも厳しく処罰しなければならない。
その他の罪は、これらに比べると、
なお軽いといわなければならない。」

八、正しい教えを守る王に対して逆らう賊が起こるか、
あるいは外国から攻め侵すものがあるときは、
正しい教えの王は三種の思いを持たなければならない。

 それは、
第一には、
逆賊または外敵は、ただ人を損い人民を虐げることばかりを考えている。
自分は武力をもって民の苦しみを救おう。

 第二には、
もし方法があるなら、刃(やいば)を動かさないで、逆賊や外敵を平らげよう。

 第三には、
敵をできるだけ生け捕りにして、殺さないようにし、そしてその武力をそごう。

王はこの三つの心を起こして、
それから後に部署を定め訓令を与えて戦いにつかせる。

 このようにするとき、
兵はおのずから王の威徳をおそれ敬ってよくその恩になずき、
また戦いの性質をさとって王を助け、
そして王の慈悲が後顧の憂いをなくすことを喜びながら、
王の恩に報いるために戦いに従うから、
その戦いはついに勝利を得るだけでなく、
戦いもかえって功徳となるであろう。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「8月15日TBSテレビからの電話」完結編

【官邸とe-GOVに出しました】
https://www.kantei.go.jp/jp/forms/goiken_ssl.html
https://www.e-gov.go.jp/policy/servlet/Propose


今日8月15日午前中2歳の子どもが咳がひどいと来院して診察中に、
東京のTBSテレビから電話があって診察中だから30分後にかけ直してくれと言って切って、
男の子と両親と祖父の4人が帰った後に再度電話がかかってきた。


熱中症の治療と予防について実名であちこちに書いて8月3日の長周新聞に記事を掲載したからそのことかなと思って話を聞くと、
若い女性の声で「今朝周防大島で行方不明になってた2歳男児が3日ぶりに元気で見つかったけど、(うん知ってるよ無事で良かったね―私)、
番組で子育てコーナー(みたいな?)やってるので、2歳がなんで3日もひとりで元気だったのは何故か、子どもの専門科の小児科医に聞きたい」という話で、
(私)「なんで大島から30kmも離れた私に聞くんだね?見つけてくれた70歳ボランティアの大分県の男性にインタビューしなさい」というと、
「いや、現場の状況を小児科医に診てもらってうんたらかんたら(うちは岩国市で豊岳小児科やってるんです)」というので、


「何で私が行く必要がある?小児科じゃなくても誰でも分かるだろ、この3日間暑い日が昨日まで続いて2歳の子どもが草木の葉が茂る涼しい山のなかで陽射しをしのぎ、
夜も暖かく昨夜から台風の遠い影響で小雨が降ったけど木々の枝葉が重なり合って木陰が殆ど濡れてなかったから無事に見つかったことくらい誰でも分かるだろ。
(アナウンサー:その現場を子どもの専門科の小児科医に確認してきて欲しい)
だから現場に系列のレポーターに行ってもらって映像と見つけてくれた70歳男性に詳しい状況を話してもらえばよっぽどわかりやすいだろ。
わたしが小児科医だからと言って30kmも離れた山の中を知ってるわけがなかろう(ちと怒りました笑)
なんで君等の系列だけで済む仕事に私が現場へ行ってわざわざコメントせにゃならんの?


だいたい君等のテレビ局にいつも出演する医者が居るんだろ?
医者という者は国家試験で全科目合格しなければ免許を貰えないから、医師免許を持ってれば小児科から内科から外科から眼科耳鼻科皮膚科もろもろとにかく医師免許だけで全科の診療が出来るんだぜ。
君等の系列局の現場リポートを君等の専属の医者と一緒に見て医者の目で番組にコメントして貰って放送せいよ。
もし小児科じゃないから分からないって専属医者が云うならば、そんなやつは医者じゃないからな」
って言うとぷんすかして「わかりました」つって切ろうとしたから、


「ちょっと待て。この子は元気に見つかったから良かったけど、フランス女性がまだ行方不明だろ。
こどもは迷子というものがあるから行方不明でも無事なことが殆どだけど、大人の女性が行方不明の場合は十中八九犯罪に巻き込まれているから、
フランスからご家族が来日して必死に探しておられるからそっちをもっと放送しなさい」というと、
「分かりました!」と捨て台詞(笑)してガチャ切りされました(笑)


とにかく女は気が短い(笑)ので、「熱中症の予防はかき氷」だと教える暇がなかったけど、ちょっと面白い出来事だったので書いてみました(笑)終わり

https://community.m3.com/v2/app/messages/2986407?pageNo=-1
「豊岳正彦」さんの「周防岩国で父母に生んでもらい育ててもらい安芸広島で元服した私」に対する返信
_________________

熱中症については次のブログへ投稿しています。 書きかけだけど。

http://burogu321.cocolog-nifty.com/blog/2015/07/post-ae75.html#comment-117200780

【続報:修道学園27期生MLに返信しました】

2018年8月17日 1:19 shudo27@mlc.nifty.com
[shudo27.2794] Re: [shudo27.2793] Re: Re: 「8月15日TBSテレビからの電話」

いや、わしはテレビをみんから、
うちの女房が「フランス人女性が行方不明いうんと、こどもも大島で行方不明になったんと、両方とも心配じゃねえ」
と教えてくれたからネットでふたりでチェックして気にしとったんで、

15日の朝早く大島で子どもが無事見つかったのmsnニュースをネットで見て(女房が教えてくれた)、

おじいちゃんが「わしの責任じゃけ夜もよう寝られんかったが、
大分から来てくれた人が前にも同じボランティア捜索の経験があって希望を抱いておったら見つけてくれて、
子どもが目を開けとるのを見たら感激で泣いた、見つけてくれた人にはありがとうじゃ済まないくらいありがたいことじゃ」
と、話した記事を見たときにはわしも朝からもらい泣きしたでよ(笑)

ほんで女房と二人でこっちはよかったけどフランス女性のほうは家族が来日して必死で捜しとるのにかわいそうじゃねえ、
ゆうとって、
そのあと10時過ぎ頃子どもが咳がひどいゆうて大竹から受診した2世代4人連れの診察しよったときにTBSから電話があったんよ。
ほいじゃけ電話であんなことをいうたんです。

ちょっと意地悪爺医じゃったのが済まんかったと思ったんじゃけど、まあゆうてしもうたことはもどらんけえ
子どもが無事じゃったこともあってなんか愉快で面白くもあったんで書いてみたら面白そうじゃったけえあげたんですわ。
あの電話のTBSの若い子には悪かったと思うとる。ポチ君からごめんなさいと伝えて貰えたら幸せです。

じゃけど、フランス女性はもっともっとテレビで全国的に取り上げて放送して欲しいのは女房とわしの本心です。

みんなおおげさじゃけ弱ったでよ。ほんとうはこの程度の悪爺じゃけ、もう高下駄履かさんでかんべんしてえな。

長杉ゴメン

じぇんじぇん2組寝坊遅刻魔下駄履き小野田に怒られ豊岳正彦@岩国

-- Original Message --
From:
To:
Sent: Thursday, August 16, 2018 11:35 PM
Subject: [shudo27.2793] Re: Re: 「8月15日TBSテレビからの電話」


豊岳先生(&みなさま)

弊社RCC系列のTBS番組スタッフが
失礼な電話をして、
大変すんませんでした。
ちなみに井上君、私の推薦ではありません。

何となく想像はできます。

「周防大島町に岩国市は近い」
「岩国市で小児科は豊岳か」
「TBSが頼めば
現地に行ってくれるだろう」

単なる私の想像ですが、
というようなことから。
剣道の達人とも知らず、
豊岳先生に電話をして、
返り血を浴びたということでは
ないでしょうか?

と言って、
女性スタッフについても、
たぶん
他局とは違う報道がしたかったんでしょう。
気持ちは分かります。
もし、
この女性スタッフの連絡先が分かれば、
豊岳先生の
熱中症に関する一連のご高説を送り、
これで番組企画を作るように
勧めようと思います。

ポチこと
7組 柴田


-- Original Message --
さすが豊岳先生 さばきが冴えとる、美しい!
大島の子供はほんとに良かった、最近の遭難系のニュースは辛かったけど、これは驚きをもって喜ぶことが出来た。
その裏でこんな話があったとは、さすが山口県の名士、誇り、 豊岳大先生!
だてに酔ってるわけではないのね。

田舎に引っ込んでから 三ヶ月 先月は甲子園に行きました、ジョンソンが投げてカープが勝ちました。

皆さん 暑さに負けず しっかり生きようで!


>2018年8月16日 13:37 井上祥一
同感同感。
豊岳先生はさすがじゃ。
テレビに出れるとなるとその距離が30kmだろうが1000kmだろうがホイホイ出たがる奴が多い中でさすがじゃ(わしならゴキブリみたいにホイホイ行くが、誰も頼まん)。
TBSの社員は、テレビに出してやるオーラがあったのかい?
ひょっとして系列のポチくんのアドバイスで豊岳先生が浮上したのかな?いや、ポチくんもそんな危険なことはせんか。

ちょっと待てのフランス女性の切り返しもすごい。

最近豊岳先生は冴えとるの、文章長いが。

熱中症対策は豊岳先生のお言いつけに準拠しておる。

井上祥一@2組

************************
日本精鉱(株)技術課 高嶋
************************

20. 2018年8月18日 23:41:18 : Mut0RSjzGQ : R7sLCeSuvVs[17] 報告
>>17さん

> 翁長知事が言っていたのは、沖縄ではなくて他のどこかに米軍基地を持っていけということである。そのためには代換となる具体的な場所(たとえば佐賀県のどこそことか山口県のどこそことか、あるいはグアム島でもいい)を示すべきだったのである。そうなれば解決策になってくる。しかし、そういうわけにはいかないので、先に書いたように義理を果たすことばかりに始終していた、ということになった。

 辺野古の問題というよりは、沖縄の問題であり、日本国の問題である。もっと言えば周辺国の力関係の問題である。彼とその取り巻きが駄々をこねるようなことをしても解決はしない。うまくはいかない。

この辺りは少し違うと思う。

この問題は、沖縄の問題。沖縄がどうしたいかが肝。沖縄が反対している様を見て、それを「駄々をこねている」としか思えないようでは、自分の意志を捨てた権力に飼いならされたポチと言われても文句は言えない。
合わせて、無理矢理、日本だとか周辺国だとかに関連付ける必要もない。これらはネトサポ・ウヨの方々が良く使うこじつけ論法に同じ。


沖縄県が移設先を指定すべきだというが、そこまでする必要はない。
必要なのは、辺野古に基地はいらない・造らせないと意志を示すこと。。。
「沖縄がダメならどこにしたらよいか」これを考えるのは国の仕事。
また、それでも沖縄というのなら、それを丁寧に、県民が納得できるように説明していくのが当たり前。

沖縄に基地を置かせてくれと国が頼んでいる。建てさせてくれと、その承認を県知事に求めたのである。そして、基地反対の公約の元、知事となった仲井真元知事が、どういうわけだか、これを承認したために建設が進められているというのが現状であり、これが国側の大元の建設根拠である。

国にとって、どうしても必要なものなら、誠心誠意、口説くのが筋ではないか?


21. 2018年8月19日 08:46:53 : gn2rCU3ghU : QBGgO1z0z_M[1] 報告

>>沖縄で基地反対する気持ちはわかるが、実際に基地反対「運動」に参加すると狂人になっていくのは何故?

オイ「老害」!!

じゃ〜、聞くが米軍も不必要としている基地を強引に造ろうと画策している「富ヶ谷」の然る高貴?な御方達は、幼き時から「狂人」「キチガイ」なのは何故ですか〜?

それから、「19」ヨ!!

コピペ長文は迷惑だから、止めろ!!!。

自分の意見を読んで貰いたいのなら「お金」出して『ブログ』造って、そこでやってくれ!!。

ま〜ぁ、支離滅裂だから、誰も読まないがネ〜♪。

22. 豊岳正彦[97] lkyKeJCzlUY 2018年8月19日 10:04:39 : AKB67GaCh2 : rOxK_DunrP0[98] 報告
>>21

おい、21よw

えらそうに沖縄の基地問題に口を出すんじゃない。

>>19を読めば日本人が戦後日本政府を田中角栄政権だけ除いてどう見てるかが分かるだろ。

おまえは政府の人間だろうが、しっかり書いてあるだろう。

>>19は戦後日本政府は田中角栄政権を除いて全部「戦争の犬」だっつって書いてあるんだよw

日本語が読めんのならもういっぺん安倍と一緒に成蹊幼稚園からやり直してこい。

哀れなやつだ、金の奴隷か。

すみからすみまで>>19読んで慚愧して懺悔して三宝に帰依しなさい。

聖徳太子よりもはるか昔から、民のかまど仁徳天皇のおじいちゃん武内宿禰とおばあちゃん神功皇后も佛教に帰依しとったじゃろうが(笑)

これを見い↓

「神功皇后紀を読む会」通信(主宰・福永晋三)

https://blogs.yahoo.co.jp/nqqyx393/35556844.html

23. 投稿のあんちゃん[145] k4qNZYLMgqCC8YK_guGC8Q 2018年8月19日 19:07:45 : ec5C2vDjSU : aSHPXHF@09I[301] 報告

 普天間基地飛行場というのは沖縄戦の間に建設が始まり、日本本土決戦にそなえて整備されたという歴史を持つ。人口密集地にあり、危険な飛行場である。何故、人口密集地なのか。飛行場建設の後で人口が増えたとする説と、もともと人口が多かったとする説があってはっきりしない。いずれにせよほっておけないことである。そこで辺野古へ基地移転の話が持ち上がった。辺野古でなければそれほど遠くない日本のどこかが基地になる。(少なくとも米軍がグアム島まで引き下がるつもりがなければそうである。日本政府としてはそれは想定していない。)

 沖縄あるいは日本がそうしてまで米軍駐留地である必要があるのかどうかは、やはり周辺国(アメリカを含む)の力関係を考えなければ分かり得ない。

 沖縄から出ていけ、だけ言っていても解決しない問題であろう。


24. 投稿のあんちゃん[146] k4qNZYLMgqCC8YK_guGC8Q 2018年8月20日 13:24:11 : ec5C2vDjSU : aSHPXHF@09I[302] 報告

 普天間→辺野古というのも住民運動があったればこそとは思う。その結果やっとこぎ着けた方法がこれなのである。それさえもご破算にしようという努力ははたして、どれだけ意味があるのだろうか。

 成田空港建設に伴う三里塚闘争を思い出してしまうのであるが、他の場所(日本本土)に持ってくることはより困難をかかえることになる。原発を新たに建設するようなものである。


25. 投稿のあんちゃん[147] k4qNZYLMgqCC8YK_guGC8Q 2018年8月20日 20:15:53 : ec5C2vDjSU : aSHPXHF@09I[303] 報告

 沖縄からグアム島へ海兵隊基地を移転するということも、実際に計画があるらしい。(日本政府が金を出してその整備を受け持つような話であるから、政府としての努力もあるわけである。)

 ただ全面的にグアム島側もそれを歓迎するかというと、そうではない。やはり原発と同じでアメリカ海兵隊はどこに持って行っても歓迎されないわけである。

 そして日本政府としても全面的にグアム島にアメリカ軍が行ってしまうのが良いとは思っていないはずである。

26. 投稿のあんちゃん[148] k4qNZYLMgqCC8YK_guGC8Q 2018年8月21日 00:56:34 : ec5C2vDjSU : aSHPXHF@09I[304] 報告

 そして何度も言うが、周辺国との力関係を考えると、アメリカにとっても日本政府にとっても、今のところ沖縄のアメリカ軍の戦力は欠かせないものであると考えられる。

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