http://www.asyura2.com/18/senkyo249/msg/316.html
Tweet |
リベラルな気持ちって、弱きを見殺しにしないことだと思う。自己責任という考えが罪なのは、見殺しをせっつくからだろう。このことを「火垂るの墓」というアニメを通して考えた
https://blog.goo.ne.jp/nrn54484/e/56443ec08ea318686b656372761773e6
2018年08月15日 のんきに介護
きっこ@kikko_no_blog
久米宏さん「今の天皇陛下って日本で一番リベラルな人なんじゃないかと思うんですよ。美智子さまも含めて」
— きっこ (@kikko_no_blog) 2018年8月12日
吉永小百合さん「私もそう思います。日本の平和のこと、世界の平和のこと、一番考えていらっしゃるのは、私も両陛下だと思います」
(TBS「今晩は 吉永小百合です」8月12日)
戦争責任を
あれは、ああいう時代だったということで
済ましていない
厳しさを両陛下から感じる。
リベラルという言葉から
「平和を愛する人」のイメージが伴うのは、
この責任感ゆえだろう。
ところで、
日本で責任と言えば、
席巻しているのは「自己責任」。
この責任概念の横溢から、
皮肉なことにかえって多く、
日本人は、
本来、自分が背負うべき「責任」に頬被りしてきたのではないか。
それを考える題材として、
NHKスペシャル「祖父が見た戦場 〜ルソン島の戦い 20万人の最期〜」がある。
この番組において
アナウンサーの小野文恵さんが
取材を通じ、ルソン島で戦死したとされる
「会ったことのない祖父」の悲惨な戦争体験や最期に迫る
という迫真の内容だったそうだ
(リテラ「NHKスペシャルで小野文恵アナが祖父の“戦争加害”に向き合うレポート! ネトウヨ議員・和田政宗が早速圧力」参照)。
この番組について、リテラは次のような報告をしていた。
――小野アナが祖父の所属した部隊の手がかりとして、マニラの要塞の街・イントラムロスの地下牢を訪れた。大勢のマニラ市民が日本軍によって地下に閉じ込められ、焼殺、銃殺されたという。小野アナは、その地下でしゃがみこみながら、神妙な面持ちでこうつぶやいていた。
「ここに生きている人がいて、その人たちにガソリンをかけて焼くなんて」
「酷なことに駆り立てられた人が、結局のところ私たちの誰かのおじいさんだったわけですもんね」
さらに、小野アナは祖父の足取りを辿った旅の最後に、「どうしても知りたいことがあった」と言い、もう一度マニラに向かう。10万人の民間人が殺害されたことについて「フィリピンの人たちに、祖父たち日本兵の姿はどう映っていたのか。旅の間中、ずっと気になっていました」という小野アナは、当時13歳で、日本兵による性暴力の現場に居合わせた女性に会いに行ったのだ。
現在86歳になったその女性、イザベル・ウィルソンさんは、多くの女性たちが日本軍によってホテルに連行され、性暴力の被害にあい、そのショックから自殺した友人もいたと語る。インタビューする小野アナに対し、このように話していた。
「私たちはまさに戦争の犠牲者でした。多くの友人がレイプされました。あの当時、日本人は敵だったのです」
「私は過去を乗り越え、いま別の人生を生きています。私は日本を許しました。でも絶対に忘れません。二度と繰り返してはならないからです」――
☆ 記事URL:http://lite-ra.com/2018/08/post-4189_2.html
歴史修正主義と言われる安倍ら、ネトウヨらの言動によって、
日本は、
「百田尚樹の『永遠の0』が代表するように、戦争をヒロイックな“悲劇の物語”に回収するフィクションが流行してしまう状況」(上掲リテラ記事参照)
にある。そんな中にあって、とても貴重な取材番組だったのではないか。
日本の兵士が360万人だったか、多く死んだ。
戦争の悲惨は、
そこをだけ見るのでなく、加害の事実もしっかり見つめるべきだ。
しかし、そういう良心の問題になるや、和田政宗議員など分からず屋が
「NHKは何にも左右されず事実に基づく報道を行うとしての受信料徴収の根拠を失っているのではないか」
(同議員のツイート〔21:38 - 2018年8月11日〕参照)
もうNHKはメディアとして死んでいるというのが、昨年からの第二次大戦に関するNHKスペシャルの流れ。独自の検証もせずソ連側の主張や米軍の「戦犯」裁判の資料を一方的に肯定。もう私もNHKは擁護しない。NHKは何にも左右されず事実に基づく報道を行うとしての受信料徴収の根拠を失っているのではないか
— 和田 政宗 (@wadamasamune) 2018年8月11日
と難癖をつける。
「受信料徴収の根拠(!)」という、
この大上段な物言いでNHKを委縮させるのだな。
委縮する方も委縮する方だが、
和田は、
教育現場に度々登場するモンスターペアレントさながらだ。
日本の加害的事実に触れるや、
「独自の検証もせずソ連側の主張や米軍の「戦犯」裁判の資料を一方的に肯定」と
断罪する姿は、
言葉狩りの域を超えて、良心狩りになってしまっている。
違うだろうか。
そこで粘着され、良心の声が圧し潰される状況がままあるんではないか。
ツイッターで
「火垂るの墓」という
高畑アニメ作品について、
『火垂るの墓』が反戦ではないなら、じゃあ、何なんですか?https://t.co/SxBvws5g7B
— 町山智浩 (@TomoMachi) 2018年8月15日
という悲憤にも似た町山智浩さんのコメントに接して、
あゝ、良心の声って、
こんな風に圧死させられるのかと思った。
すなわち、映画では、
主人公が自分を責めて妹の死を嘆くストーリーになっている。
その姿を見て、多くの人は、
話の筋だけで言えば清太くんの自己責任で節子を殺したことになりますね。野坂さんも高畑監督も反戦作品を作った訳ではありませんし。
— 小川 洋 (@bachchonihe) 2018年8月13日
という。
こんな風に自己責任は、
周りの人間の加害責任を風化させる役割を担う。
その責任は、
駅で死にそうな清太におにぎりを置いていくことで
清算されるわけではない。
高畑監督が『火垂るの墓』を反戦映画と呼ぶことを拒否した。
しかし、それは、
時代のせいにしたくなかったからだと
町山さんは分析される。
しかし、自分の責任は自分の責任であるとしても、
その責任は、
弱者を見殺しにする責任だということ。
つまり、
戦争する責任だ。
実際、戦争がなければ、浮浪児と言われた
「駅の子」たちは、
死なずに済んだのだ。
『火垂るの墓』は「駅の子」たちの物語です。戦争はただの背景ではなく、原因です。https://t.co/3JN8mbDMWS
— 町山智浩 (@TomoMachi) 2018年8月15日
という町山さんの視点は、
偽らざる
人間としての良心の声と思う。
そして、みんな、この声を持っている。
この声を自ら圧殺するようなことはしてはいけない。
圧殺したとき、
戦争に加担することになるのではなかろうか。
▲上へ ★阿修羅♪ > 政治・選挙・NHK249掲示板 次へ 前へ
投稿コメント全ログ コメント即時配信 スレ建て依頼 削除コメント確認方法
▲上へ ★阿修羅♪ > 政治・選挙・NHK249掲示板 次へ 前へ
スパムメールの中から見つけ出すためにメールのタイトルには必ず「阿修羅さんへ」と記述してください。
すべてのページの引用、転載、リンクを許可します。確認メールは不要です。引用元リンクを表示してください。