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フリードマン・ケケナカ思想犯 周回遅れの市場原理主義
https://blog.goo.ne.jp/aibatatuya/e/293d9bed26f0fa2a5294f06b2e42a86c
2018年07月16日 世相を斬る あいば達也
失われた20年、いや、失われた時代は、今も続いているのが現実だ。安倍政権は、「選択と集中」というイデオロギー(安倍が理解しているかどうか不明)を、市場原理主義を導入することで、絵に描いた餅を、メクラ滅法な方法で、強権的に推し進めている。このようなイデオロギーによる国家運営は、国民の利益も「選択と集中」の中に取り込まれるので、その枠から外れた地域は、原則、法的保護を受けにくい地域ということになる。
つまり、“強きを助け、弱きを見捨てる”と云うのが、原理原則なイデオロギーで我が国は進み、世界が実証的に、市場原理主義は空理空論で、生きている人間社会を運営するには不適切な思想だと云う事が証明されていると云うのに、“走りだしたら止まらない”国家的性癖を理性的に制御することが出来ず、大失敗のアベノミクスを、大成功だと自画自賛している。一部、安倍政権の経済政策で潤う“点”はあるが、一般国民のレベルでは“面”において、マイナスの利益を押しつけるようになっている。
フリードマン・ケケナカ(竹中)らの考えでいけば、このような答えは当然で、仮に、成長のエンジンを失った経済圏で、この市場原理主義を強行すれば、「選択と集中」は加速化するわけで、問題はない。個別の住民感情に惑わされてはいけない。“強い者、強い地域を強くし、弱い者、弱い地域を切り捨てる”そうやって生き残るしかないのだ。自由主義でもあるのだあら、切り捨て地域に住むのが嫌なら、自助努力で、強い地域に移り住めば済むことである。或る意味で、強制的淘汰の論理だ。
この強い者、元気な者だけが生き残る世界は、弱い者や老いた者達を切り捨てることになり、いずれ市場から追放されるので、国家は、強いものと元気な者だけの世界になる。まぁ現実は、強者の世界でも、ふるい落としがが発生するので、今日の強者は、明日の弱者でもある。しかし、そこまで考えの至らない、若年層には好意を持って受けとめられるイデオロギーなので、安倍政権の強さの源にもなるのだろう。
宇沢弘文氏の薫陶にあずかった筆者にとっては、“それじゃ社会は成り立たたんでしょう”と言わざるを得ない。そりゃ、現状の生活レベルには、それなりの自己努力はつきものだが、自己努力、自己研さんといっても、その過程において、多くの公共財や人々に助けられて、今の現在があるわけだから、今と云う時期を切り取って、自分の人生だと主張する気にはなれない。考えてみれば、戦時の徴兵にしても、地方の次男三男が初めに狙われ戦場に刈りだされた。戦後の経済復興時においても、地方の次男三男が工場地帯の労働力として刈りだされたのだ。
その結果、地方の共同体は脆弱になり、衰弱の方向に向かっている。地方がこのような窮地に陥った原因は、歴史的に見れば、明治維新後の産業革命時点まで遡るわけだが、明治以降、中央は地方の犠牲の上に成り立つのが、資本主義の宿痾だと言ってもいいのだろう。それでも、一定の共同体意識があった時代においては、地方への配慮を行う行政がなされたが、小泉政権以降、安倍政権に至って、市場原理主義は容赦なく地方切り捨ての方向に走りだしている。
結局、日本の経済が総体的に疲弊して、地方への配慮などはしてはいられないので、一定の中核都市をコンパクトシティーに位置づけ、その部分に資源を集中させ、生き残り戦術を画策しているのが現状だ。大都会や中核都市に住む人々には、今までのような公共サービスを提供出来るが、そこから漏れた地域の公共サービスは途絶えることを意味している。公共サービスを受けたいのなら、自力でコンパクトシティーの域内に住む努力を国民に強制する仕組みだ。
このような考え方は、極めて身勝手だがイデオロギーの一種なので、全否定は難しい。しかし、人の営みには、経済学が領域としていない多くのものが混在してはじめて人間社会が成り立つているのだから、数値化出来るものだけとは思えない。経済学者の考える国家は、結果的に損得価値観の国家であり、世界全体を一国となぞらえた場合、その国は、総体的に「地方」に位置づけられるだろう。現実に、世界は、この市場原理主義を否定する方向に動いていると云うのに、我が国の行政は方向の転換が出来ないままだ。あの敗戦の教訓はいまだに生かされていないようだ。
首都大学東京教授の山下祐介氏は、安倍政治の政策を真っ向から受けとめて、批判しているが、カエルの面に小便だろう。人口減少は、テクニカルに移民にシフトすれば済むことで、特に問題はない。兎に角、「選択と集中」で限りある資源を使わなければならない。そう云う考えが、安倍政権にあるのは確実。ただ、キャッチコピー政治だから、無党派層は勘違いしてしまうし、弱者になる連中までが、言葉に浮かれて強者になったような気分にさせる。軍国少年のような老若男女がいるのも困ったものだ。
≪水道民営化法案とかやってる場合ですか
ゲスト:橋本淳司氏(水ジャーナリスト)
番組名:マル激トーク・オン・ディマンド 第901回(2018年7月14日)
200人を超える人命を奪った西日本豪雨では、27万戸を超える世帯が断水に見舞われた。1週間が経った今も、20万を超える世帯で水道が復旧しておらず、復旧・復興の足を引っ張っている。
今回は未曾有の大雨のため、取水施設や浄水場が水没したことによる断水もところどころで起きているが、とは言え断水の最大の原因は水道管の破断によるものだ。久しく言われていることだが、1960年〜70年代の高度経済成長期に一気に日本中で敷設された水道管の多くが今、耐用年数を過ぎ老朽化している。実際、災害時でなくても、古くなった水道管の破断に起因する断水や事故が毎年約2万5000件も起きているという。
老朽化した水道管は脆く、地震などの災害に対しても脆弱だ。大雨の場合も、土砂崩れや河川の氾濫によって道路が寸断される際に水道管が破断すると、そこから水が漏れ続けてしまうため、その系統上にある水道を全て止めざるを得なくなってしまう。これが断水の主たる原因になっている。
しかし、日本はこれまで水道事業は基本的に自治体が運営する公営事業であり、国際的に見ても水道料金が割安に抑えられてきたため、老朽化した水道管を更新するための予算が積み立てられていない。無論、地方自治体も地方交付税に依存している中、水道管の交換に自治体予算を回す余裕はない。
そこで政府が考えたのが、水道事業を民営化することだった。民営化の是非については、賛否両論があるだろうし、そのメリット、ディメリットがきちんと精査される必要があるだろう。しかし、実は水道民営化を推進する前提となる水道法の改正案が、実は今国会で既に先週衆院で可決し、終盤を迎えた国会で一気に成立してしまうところまで来ているのだ。
水は人間が生きるための基本財中の基本財だ。その水を供給する水道事業者には、災害や有事の際も水を提供する責任が伴う。水道事業を丸ごと民営化してしまうと、事業者には重い公共責任が伴うため、民間企業にとってはリスクが大きすぎる。
そこで今回政府が推進している「民営化」は、施設の所有権は現在のまま自治体に残しつつ、水道事業の運営権を民間企業に譲渡する「コンセッション方式」と呼ばれるものだ。
こうすることで、運営権を買い取った事業者は、経営を効率化し、より広域で水道事業が営むことも可能になるため、サービスの向上や雇用の創出などが期待できるというのが、コンセッション方式のメリットとして強調されている。
しかし、水問題に詳しい橋本淳司氏はコンセッション方式であろうが、他の形態であろうが、民営化では水道事業の公共性を守ることはできないと指摘する。
実は水道事業の民営化は欧米ではかなり以前から実施されている。しかし、実際はパリ、ベルリン、アトランタ、インディアナポリス、ブエノスアイレス、ヨハネスブルグなど多くの都市で、一度は民営化した水道事業を公営に戻している。そして、その主な理由は、民営化された都市のほとんどで水道料金が大幅に値上げされたことと、民間事業者を監督することの困難さだという。
電気などと異なり水道事業は地域独占となるため、値上げをされても住民はそれを拒否することができない。当然、値上げが正当化できるかどうかの外部監査・監督が必要になるが、運営権を取得した企業はあくまで民間事業者なので、情報公開にも限界がある。
パリ市の元副市長で再公営化当時の水道局長だったアン・ヌ・ストラ氏によると、パリ市は25年間の民営化の後に水道事業を再び公営に戻したところ、事業者が公表してたものよりも遙かに大きな利ざやを稼いでいたことが明らかになったという。民営化されている間にパリの水道料金は2倍近くに引き上げられていたそうだ。
水道事業は自治体が運営する公営事業のままでは、料金の引き上げに議会の承認などが必要となるため、値上げは容易ではない。しかし、民営化されれば、仮に契約時に一定の縛りをかけたとしても、基本的に民間企業の裁量となるため、料金の引き上げがやりやすくなる。しかも、住民は他に選択肢がないため、泣く泣く値上げを受け入れざるを得ない。
橋本氏は、コンセッション方式では、企業は利益が上げやすい大都市圏の大規模な水道事業にしか関心を示さないだろうから、利益が出にくい小さな自治体が切り捨てになる怖れがあると指摘する。実際、災害に見舞われる地域の多くは、地方の人口が少ない自治体の場合が多い。
とは言え、日本の水道インフラの老朽化が待ったなしの状態にあることも間違いない。今国会で政府が通そうとしている法案を通じて政府が主導しようとしている民営化には問題が多いとしても、水道事業をこのまま放置しておくこともできない。厚労省によると、現在日本には耐用年数の40年を超えた水道管の割合は14.8%(2016年度末時点)にも及ぶが、現在そのうち毎年0.75%ずつしか更新されていないそうだ。このペースでは全て更新するのに130年以上かかる計算になり、現実的ではない。
蛇口を捻れば美味しくて清潔な水がいつでも飲める国というのは、実はそれほど多くはない。日本はこれまで非常に水に恵まれた国だった。しかし、長年にわたり水道施設の更新を怠ってきたことで、日本の水道事業は大きな曲がり角に差し掛かっている。
今ここで周回遅れの民営化という安直な責任逃れを許すのか、水という国民の安全保障にも関わる重大な問題を真剣に議論し、いかにして水道事業を維持していくかについて国民的なコンセンサスを得るための努力を始めるのか。水道民営化法案の問題点と、先行事例としての海外の民営化事情などについて、橋本氏とジャーナリストの神保哲生、社会学者の宮台真司が議論した。
*橋本 淳司(はしもと じゅんじ) 水ジャーナリスト/アクアスフィア水教育研究所長 1967年群馬県生まれ。90年学習院大学文学部卒業。出版社勤務を経て94年より現職。水循環基本法フォローアップ委員会委員、NPO法人ウォーターエイドジャパン理事、NPO法人地域水道支援センター理事などを兼務。著書に『水がなくなる日』、『100年後の水を守る』など。
≫(ビデオニュースドットコム)
≪地方を「助けるフリ」をする、地方創生とアベノミクスの根深い欺瞞 AI投資の前にやるべきこと
■地方創生は「仕事づくり」ではない
平成26年9月にスタートした政府の「地方創生」(まち・ひと・しごと創生)は、事業開始からもうすぐ丸4年を迎えんとしている。
だが、それが何を目指しているのか、国民の間でいまだに十分な理解がなされていないようだ。
「地方創生って、何を目的にしたものだと思いますか」と、大学での授業や各地の講演で聞いてみることがある。
すると返ってくる答えは、「地方の仕事づくり?」「ふるさと納税ですか」といったものが大半で、あとはせいぜい「地方移住とか……」といった具合だ。
「地方創生」は「地方のもの」であり、首都圏には関係ない――まずそういうふうに多くの人がとらえてしまっている。
さらには、困っている地方のために首都圏が手助けする、あるいは疲弊している農山漁村を都市住民が支えるのが地方創生だと、そういう認識さえ作られてしまったようだ。
事業の中身についてもとくに、「地方仕事づくり」の印象が強いようであり、「地方には仕事がないので、仕事をつくって経済力をつけさせよう」――地方創生はおおむねそういうものとしてイメージされている。
だが、間違ってはいけない。
地方創生が本来目指しているのは、"日本全体の人口減少"の克服である。
そして人口減少の要因は出生数および率の極端な低下にあるので、まずは1.4程度しかない出生率(期間合計特殊出生率)を1.8(国民希望出生率)まで引き上げるということだった。
そのことで人口減少がこのまま進んでも、2060年に1億人程度は確保する――これが地方創生の目標だったのである(「まち・ひと・しごと創生長期ビジョン」11頁など)。
さらに地方創生で克服すべき課題としてもう一つ、"東京一極集中の是正"があげられている。
東京一極集中と人口減少との関係はこうだ。
最も低い出生率にとどまる東京に、若い子育て世代が集まっている(図1参照)。これでは人口は維持できない。
過度な東京一極集中を是正していくことで、地方での子育てを実現し、希望出生率の実現を目指す。
そのために地方での仕事づくりや地方への移住を進めていこう。そういうことだったのである。
図1:都道府県別合計特殊出生率(『平成29年版 少子化社会対策白書』より)
■「ローカル・アベノミクス」?
問題は日本の人口減少なのだから、その問題解決に汗をかくのは全国民のはずだ。
そして大切なのは仕事や経済ではなく、人口のあり方――とくに結婚や出産、子育ての問題――になるはずだ。仕事や産業はあくまで人口回復のための手段にすぎない。
では、なぜ全国民の問題が地方のものに、そして人口問題が産業・経済の問題に印象づけられるようになってしまったのか。
それはもちろん、実際の政府の地方創生政策・事業そのものが、当初の目的を大きく外れて、あるところから別のものへと転換してしまったからである。
詳しくは筆者の近著『「都市の正義」が地方を壊す 地方創生の隘路を抜けて』をご覧いただきたいが、簡単にいえば、それこそ安倍政権へのおもねりや忖度がそう変えた――そう表現してよさそうなことが地方創生の背後では起きていたのである。
地方創生の事実上の出発点となった「まち・ひと・しごと創生長期ビジョン」および「同総合戦略」の発表(平成26年12月27日)から約半年後の平成27年6月30日に、「まち・ひと・しごと創生基本方針 2015−ローカル・アベノミクスの実現に向けて−」が閣議決定されている。
すでに長期ビジョンがあり、それに対応して総合戦略が立てられているのに、そのあとに基本方針が出てくるというのは、どう考えても奇妙である。
そしてその意図を考えてみるなら、この基本方針にある副題、「ローカル・アベノミクスの実現に向けて」が気になる。
これはやはり、地方創生に「アベノミクス」の語を付け加えたかったからなのだろう。「アベノミクス」という、個人崇拝ともいえるこの政策用語を強調すること、それがこの基本方針策定の目的の一つであったと考えられる(その他、この転轍の事情はもう少し複雑だが、詳しくは前掲の拙著を参照)。
そして実際にこの平成27年あたりから、行政文書全体に安倍総理への個人崇拝的な臭いのする文言が滲み出てくるのであり、この点は以前本誌でも東日本大震災の復興政策の分析を進めた際に、「総理御発言」などという言い方が現実にあらわれていた様を取り上げておいた(拙稿「この国はもう復興を諦めた? 政府文書から見えてくる『福島の未来』」)。
地方創生は本来、人口減少=東京一極集中対策としてはじまったものである。
ところがそこに官邸や内閣府周辺の非常に強い意向が働いて、その内容が地方仕事づくり=ローカル・アベノミクスの推進へと変えられていった。
しかもそれが地方創生スタート後の比較的早い時期に行われたので、国民は地方創生がそもそも何を目指したものかよく分からないまま、現実に動いた事業に引っ張られて、冒頭に指摘したような印象を持つようになってしまったわけだ。
■アベノミクスで人口は増えるか
さて、もちろん人口減少問題、さらにはそれを引き起こしている東京一極集中の問題が、政府として素通りしてよいようなものなら、その内容をすり替えてもそう問題はない。
だが、政府自身が当初示したように、「人口減少への対応は、「待ったなし」の課題」(長期ビジョン8頁)である。
いやまたそれでも、アベノミクスで人口減少が解消し、日本の人口が人口維持へと転換する見通しがつくのなら、それはそれでよいわけだ。
しかし、産業経済政策で人口問題を解決するというのは、論理的にはまったく不合理なのである。
それどころか前掲の拙著で指摘しているように、現在、地方創生で進めている地方仕事づくり/産業政策は、かえって地方の人口を減少させ、出生率を押し下げることにつながりそうだ。
現実にこの間、出生率に関して言えば、2005年を底にして徐々に回復していたものが、地方創生が開始された2016年、2017年に再び低下をはじめているのである。
まじめにその回復を目指していれば、出生数増への転換まで進んでいたかもしれないのに、である(図2参照。ただし、産む女性の数が減り続けているので、出生数そのものは一貫して減少し続けている)。
図2:日本の出生数と合計特殊出生率の推移(内閣府HPより)
■「人口減少より経済成長」が政権の本音
しかし筆者が最も問題だと思うのは次の点にある。
現在の政策が、ただ人口回復を産業づくりでという「読み違え」で失敗しているのならまだよいのだ。
だがもしかすると今の政権は、人口減少問題を利用しただけで、真面目に取り組むつもりなどはじめからなかったのではないかと、そう疑える節が次第に随所に見られるようになってきたことである(拙稿「政府は『人口減少』に無関心?地方創生が地方を壊す未来がやってくる」も参照)。
そして筆者はつい最近、さらにその疑念を深めることとなった。それは首相官邸のウェブサイトで公開されたある動画を見たときのことである。
官邸では「アベノミクス」をどう説明しているのだろうとサイトを閲覧した際、アベノミクスの説明から誘導されていった「未来投資戦略」のページの中で、熱心に語る安倍総理本人の言葉に驚いてしまった。
総理はそこで、国民のみならず、全世界にも向けてこう発言しているのである。動画の最後にある台詞だ。
「人口が減ってもイノベーションによって成長できるのだという、第一号の証拠になることを日本は目指しています」(未来投資戦略2017−Society 5.0の実現に向けた改革−(YouTube首相官邸チャンネル)より)
「未来投資戦略2017−Society 5.0の実現に向けた改革−」−平成29年6月9日
まさかとは思ったがやはりそういうことだったのである。
安倍政権にとって、人口減少からの回復などはどうでもよいことなのだ。
経済成長さえできればよいのである。
そして経済成長は、人口がこのまま減り続けても、イノベーションで達成できるのだという。
そういう認識で描かれているものとして、この平成30年6月15日に新しく策定されたばかりの政府の「未来投資戦略2018」を読んでみれば、ゾッとするのは筆者だけではないはずだ。
政府はもはや、生まれてくる子どもたちがどんどん縮小しているという事態には向き合わず、「2020年までの3年間を生産性革命・集中投資期間とし、大胆な税制、予算、規制改革などあらゆる施策を総動員することとした」のだという。
第4次産業革命をもたらすために経済産業基盤に巨額の投資をし、各種現場のデジタル化と生産性向上を目指すのだそうだ。
筆者はこうした「未来投資戦略2018」の背後に、こんな奇態な思想を見る。
人口は減ってもよい。ただ経済が持続すればよく、そのためには絶えずイノベーションが起きる環境が整えばよい。それでこの国は成り立つのだと。
いやいや馬鹿を言ってはいけない。経済はAIやロボットが作るのではない。大切なのは人間だ。人間が生産し、消費してはじめて経済なのである。経済は人間の経済であり、イノベーションは人間のためのイノベーションでなくてはならない。人間がいて国家は成り立つのだ。
その人間がこれから次々と消えていく。このままでは人間がいなくなってしまう。イノベーションや生産性の前に、この事態こそ私たちは取り組まなくてはならない。そしてそれが、地方創生の本来の課題設定だったのである。
そんな大事な国民の課題をただ触れただけにして素通りし、おかしな政策を現実に作り上げ、国民にさらなる負担を求めている。しかもそれを、この国の総理が世界に向けて堂々と自信ありげに語っている。
■地方が「面白いこと」の犠牲になる
筆者は、地方創生を題材にこれまで、いくつかの政策批判書を重ねてきた(『地方消滅の罠』『地方創生の正体』『「都市の正義」が地方を壊す』)。
これらを通じて警告してきたのは、私たちの国家・日本は人口減少問題をはじめ、今大変危機的な状況に立たされているのにもかかわらず、それに対処しているようなふりをして、まったく別なことにこの国の大切な資源を投入しようとする、そういう政治・行政の暴走が現実にはじまりつつあるということであった。
人口減少というこの重要な課題を振りかざして国民を刺激した上で、話を意図的にそらしながら、自分たちがやりたい政策や事業をただ実現するためだけに利用している。
それが今実際に進んでいる地方創生の根っこにある政府の姿である。ここには、このところ加計学園の獣医学部新設で問題となった国家戦略特区も含まれている。
そして実はこうしたことは、東日本大震災・原発事故の復興の現場では先行して起きてきたのでもあり(拙著『「復興」が奪う地域の未来』および本誌の拙稿も参照「福島原発事故から7年、復興政策に『異様な変化』が起きている」)、また筆者はそうした暴走の別の側面を、このところまた再燃しているモリカケ問題でも確認してみた。
だがおかしなことは、もっと別の形でも起きているように感じる。
安倍政権を通じて、面白いこと、かっこいいこと、でかいことができればよいと、政治・行政全体がそういうことになってはいるのではないか。
さらにこうした風潮は、産業面をこえて、労働政策や、教育の問題など、私たちの暮らしの間近や、子どもたちの未来にまで深く広く影響を及ぼしつつあるようだ。
私たちは今の日本の政治をめぐる状態を甘く見ず、適切に事態を批判して、適正な政策形成機構へと日本の政治・行政が少しでも戻るよう、努力し続けなくてはならない。
著者もまだあきらめず、警告をつづけてみようと思っている。
≫(現代ビジネス:社会・首都大学東京教授・山下祐介)
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