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「首相は、証拠を示せ、と言う。だが、忖度って、証拠がないから忖度なのである。だから、自分や妻は具体的な質問には答えないくせに、忖度を具体化してみろ、という」 https://t.co/hEpVvefAz6
— 吉岡正史 (@masafumi_yoshi) 2018年5月6日
「空気を操縦する政権」に、ふざけるなと言い続けることの意味
2018.4.30 主導権を握られないためにも 武田 砂鉄 フリーライター 現代ビジネス
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/55402
■「精一杯擁護するぞ」と意気込む人たち
「こんなの、今までだったら何回も政権が吹っ飛んでいるはず」という突っ込みというか愚痴を方々で聞く。しかし、安倍政権は吹っ飛ばずにいる。
森友学園問題、加計学園問題、イラク日報問題、財務事務次官セクハラ問題、裁量労働制の不適切データ問題……政権やその周辺で山積する問題の特徴は、「ない」が堂々と「ある」に変わるということ。毎日、新聞をめくるたびに、何がしかが「発見」され、誰かが形だけ謝ったり、しらを切ったりしている。
そこにもうひとつの特徴を見出すとすれば、生じた問題に対して「そんなに大した問題ではないだろ」という手厚い擁護が向かうこと。「ない」とされていたものがあったり、会っていないと言っていたのに会っていたり、セクハラしている音声は自分の声だと言う人が多いけど、自分の声というのは、自分の体を通じて聞くので分からない、と言ってみたりする人たちを、手厚く擁護するのだ。
その度に呆れる。呆れた後で、無理があると分かっているのに押し通す気持ちっていかほどだろう、朝起きて「今日も精一杯擁護するぞ」と意気込むのも大変そうだなと、相手の気持ちを勝手に想像してみたりもする。回避する方法として、もうちょっとテクニカルな方法もあるはずなのだが、あえて稚拙で愚直な方法を選んでいるようにも見える。
議論を単純化すれば、いかなる議題でも争う構図を作ることが出来る。どんな証拠が出てこようが「記憶の限りでは会ってない」と言えば、その真偽について、あっちとこっちに分かれ、騎馬戦状態が出来る。こちらは、グラウンドが汚れていますよ、と指摘しているだけなのに、いつの間にか、そのグラウンドで騎馬戦を行うことになる。絶対数が味方の騎馬になってくれるという自覚があるから、そういうことを言う。
■忖度の証拠を出せ、という矛盾
新著『日本の気配』の「はじめに」で、そのタイトルをつけた理由をこのように記した。
「なぜ、空気ではなく、気配なのか。空気読めよ、とは言われるが、気配読めよ、とは言われない。気配なんて読めないからだ。
今、政治を動かす面々は、もはや世の中の『空気』を怖がらなくなったように思える。反対意見を『何でも反対してくる人たち』と片せば、世の中の空気ってものを統率できる、と自信に満ち満ちている。
『空気』として周知される前段階を『気配』とするならば、その気配から探りを入れてくる。管理しようと試みる。差し出された提案に隷従する私たちは、『気配』から生み出される『空気』をそのまま受け流す。それは政治の世界だけに留まらず、メディアの姿勢にしても、個々人のコミュニケーションにおいても同様ではないか」
昨年、流行語大賞に「忖度」が選ばれたが、長年言われてきた、空気を読むのを得意とする日本人の心性を、改めて別の言い方で形容したに過ぎない。明確な意思決定がなくても、いつのまにか物事が一つの方向に流れていく。強制する人間の意図が明確ではないのに、強制が絶対化する。
「私や妻が関係していたということになれば、首相も国会議員も辞める」という安倍晋三首相の具体的な発言があちこちで忖度を発生させたが、具体的な発言と忖度の発生に因果関係を明示することは簡単ではない。首相の関与があったのではないですかと具体的に尋ねても、ありません、と答えることがいつまでも可能なままである。無理あるだろ、と多くの人が思っているが、ありません、をひとまず受け止めるしかない。
逆に首相は、証拠を示せ、と言う。だが、忖度って、証拠がないから忖度なのである。だから、自分や妻は具体的な質問には答えないくせに、忖度を具体化してみろ、という。
作家・橋本治が、忖度という言葉の仕組みについて、こう述べている。
「『他人の胸の内を推し量る』が『忖度』なのだから、『忖度』には実体がない。『忖度』自身は曖昧模糊としていて、『忖度して○○をする』になって、やっと実体が生まれる。でも、『忖度』は『○○をする』になるための媒介だから、実体が生まれてしまった時に、『忖度』はどうでもよくなって消滅してしまう」(「ちくま」2018年5月号・連載「遠い地平、低い視点」)
忖度は、その立証が難しい。この1年間、忖度を実体にする動きと、空気のままにしようとする動きのせめぎ合いが続いているが、橋本が言うように、忖度があったのか、なかったのか、という問いは、「総理のご意向」や「首相案件」という文言が発掘されてもなお、立証することが難しい状態にある。指示がないから忖度なのだ。
じゃあ、忖度の証拠を出せ、というのは響きとして矛盾しているのだが、その矛盾を知った上で、証拠がないなら些末な問題だと繰り返し、手厚い擁護を呼び寄せている。
■「とにかく通しちゃえば後はどうにかなんだろ」
日本は「空気」に弱いとされてきた。空気が同調圧力を生む。豪華客船が沈没しかかった時、どうすれば乗客を海に飛び込ませることができるかという「沈没船ジョーク」の答えは、アメリカ人が「飛び込めばヒーローになれます」なのに対し、日本人は「みなさんはもう飛び込みましたよ」だった。
指を差して「ほら、オマエ、飛び込め!」と言わなくても、大量に飛び込ませることができる。「顔色をうかがって判断する」という伝統芸が、政権の中枢で相次いでいる。
今、政治を動かす面々は、もはや世の中の「空気」を怖がらなくなったように思える、と書いた。為政者に、空気くらい操縦できる、との自覚があるのではないか。問題が生じ、それをメディアが問題視し、野党が糾弾し、国民が怒る。その都度対応しながらも、静まるのを待つ。
すると、本当にその問題について議論が静まってしまう。特定秘密保護法にしろ、安保法制にしろ、共謀罪にしろ、世の中の反感を受けながらも、あしらいながら嵐が過ぎ去るのを待った。そのそれぞれが彼らの成功体験となった。
安保法制の議論を思い出す。そこには「とにかく通しちゃえば後はどうにかなんだろ」との心づもりがバレてしまう、国民の葛藤を舐めきった言い分がいくらでも転がっていた。
高村正彦自民党副総裁(当時)は「国民に十分に理解が得られていなくても決めないといけない」と言ったし、麻生太郎財務大臣はSEALDsの存在について「自分中心、極端な利己的考え」とツイートした武藤貴也議員に対して「自分の気持ちは法案が通ってから言ってくれ」と言った。
安保法制が成立したのは2015年9月の大型連休・シルバーウィーク前だったが、連休前の成立を死守したのは、大型連休を挟めば国民が忘れてくれるという算段があったから。その子供騙しの作戦に憤ったものの、結局、大型連休を挟むと、マスコミ報道は低調となり、既成事実として浸透していった。どうせすぐに静まるだろうと高をくくられていたのだ。
■気配を先取りして自爆する
日本社会は、空気というものが絶対権威のように力を持っている、と記した山本七平『「空気」の研究』は、日本人論のテキストとして頻繁に持ち出される。いつまでそのテキストに頼っているんだ、という気もする。そこでの「空気」の説明は、空気とは「教育も議論もデータも、そしておそらく科学的解明も歯がたたない何か=vであり、「空気の責任はだれも追及できないし、空気がどのような論理的過程をへてその結論に達したかは、探究の方法がない」とある。
「空気」を辞書でひけば、「その場の状態や気分。雰囲気。また、社会や人々の間にみられるある傾向」(大辞林)と出てくる。「こんなの、今までだったら何回も政権が吹っ飛んでいるはず」なのに、吹っ飛ばないのはなぜか。彼らが「空気」を操縦しているからだ。
そのために、「空気」の前段階である「気配」=「周囲の状況から何となく感じられるようす」を見定める。長い間、「他よりマシ」を最大の支持理由に延命してきた政権は、つかみどころのない支持を守るために、自分のそばにいない人に対して怒りが向かうような空気を作り、そばにいない人たちとの争いごとを維持し、空気を司ってきた。
仲間内の愛国心を肥大化させる言論は心地よいのだろうが、排斥することで得られる快感に参画してはいけない。そんなのは言うまでもないこと。極端であればあるほど愛国ポイントカードにスタンプが押される仕組みが、日本の空気を作り上げていいはずがない。
では、掴むことができないのに、違和感がまとわりつく感覚はどこで芽生えているのか。「なんか気持ち悪い」を作り出しているのは誰なのか。
不公正、不公平、不透明、不祥事のインフレを起こし、日が経つにつれ、そのそれぞれがどうでもよくなり、物申すこともしなくなる。いちいち突っ込むことを諦めてしまう。そうやって諦めることを、力を持つ人たちが待望している。忘れろ、と願っている。で、忘れてしまう。空気が支配する国だったものが、空気の前段階である気配を先取りして自爆しているのではないか。
■空気や気配にからめとられてはいけない
たとえばこのエピソードを知ると、皆さんはどう思うだろう。
2017年1月の施政方針演説の終盤で、安倍首相は、土佐で始まったハマグリの養殖についてのエピソードを持ち出した。
江戸時代、土佐藩の重臣・野中兼山が江戸からハマグリを持ち帰ると、兼山は、港で待ち構えていた地元の人々に食べさせるのではなく、海に投げ入れ、「このハマグリは、末代までの土産である。子たち、孫たちにも、味わってもらいたい」と言ったのだという。「兼山のハマグリは、土佐の海に定着しました。そして350年の時を経た今も、高知の人々に大きな恵みをもたらしている。まさに『未来を拓く』行動でありました」と語った。
しばらくして、今、ハマグリは「高知の人々に大きな恵みをもたらして」いない、との記事が出た(東京新聞・1月31日)。高知県の漁業関係者や居酒屋店主は、「ハマグリはそんなに捕れない」「70歳ぐらいの人は『昔は捕れた』と言うが…」「店で販売しているのは千葉県産」と困惑するものばかりだった。
国民に向けて今年の方針を演説する大切なスピーチで、本人やその周辺が、少しのファクトチェックもせずに、イイ感じの話として放ってしまう。
イイ感じの話をする、イイ感じの未来を用意する。空気を作るために気配を読む。多少間違っていようが、しらを切れると知っているので、とにかくイイ感じの話を優先する。今、日本を覆う空気を、中枢が作り出す空気を、私たちは緩慢に許しすぎていないか。
政権を揺さぶる諸問題についても、彼らは解明する気などなく、私たちが忘却してくれるのを待っている。いつまでやってんの、の声がデカくなるのを待っている。彼らが管理する空気や気配に安直にからめとられてはいけない。
「ない」が堂々と「ある」に変わったならば、そこに対して、またかよと思いながらも「ふざけるな」とぶつけなければならない。それを怠ると「そんなに大した問題ではないだろ」がたちまち主導権を握ることになってしまう。
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