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「ネット右翼」を名乗る若者が琉球新報の記者になった!
http://85280384.at.webry.info/201804/article_22.html
2018/04/02 23:13 半歩前へ
▼「ネット右翼」を名乗る若者が琉球新報の記者になった!
ごく普通の高校生がネットで情報を仕入れ、読んでいるうちに気が付けばネトウヨになっていた。そんな若者が、のちに沖縄の有力紙「琉球新報」に入社し、記者となった。
「ネット右翼」を名乗る若者が、よりによって琉球新報の門をたたくとは意外だ。この若者は一体どんな人間なのか?何が目的で琉球新報の記者になったのか?
そんな疑問に答えるかのように、入社2年目の塚崎昇平記者(26)が、私は「ネット右翼でした」とのタイトルで琉球新報にコラムを書いた。
なぜ、「ネット右翼」になったのか。動機、きっかけは何だったのか。途中で心変わりがあったのか、なかったのか?塚崎記者は、「ネット右翼」だった過去をさらけ出した。
長文だがここに転載する。途中、ひと休みしながら読んでもらいたい。
タイトルは
「ネット右翼でした」 沖縄に暮らし、記者になって思うこと
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「ネット右翼でした」 沖縄に暮らし、記者になって思うこと
https://ryukyushimpo.jp/style/article/entry-691863.html
2018年04月02日 琉球新報
編集局内にある文化部教育班のブースで原稿を書く塚崎昇平記者=3月27日午後、那覇市天久の琉球新報社
2018年3月25日、琉球新報に掲載された1本の記事がインターネット上で話題を集めました。入社2年目の塚崎昇平記者(26)が書いた「ネット右翼でした」というタイトルのコラム。琉球新報の記者が「ネット右翼」だった過去を告白する内容は、ネットでの反応を見る限り大きな関心を呼んだようです。
なぜ「ネット右翼」だった彼が琉球新報の記者になったのでしょうか。どのような心境の変化、葛藤があったのでしょうか。「伝えきれなかった思いがまだあるはずだ」と思い、塚崎記者にインタビューしました。
ネットで考えを固めていた高校時代
―「記者ですが」は冒頭、「学生時代、私は『ネット右翼』だった」と書き出しています。なぜ、自分を「ネット右翼」と定義したんですか。
「ネット右翼」という言葉も定義はきちっと定まっているものではないと思います。ただ私が思う「ネット右翼」の定義としては、現場に行かないで、例えばインターネット上の情報で自分の考えを固め、「右」的な考えをネットで発信する。そういう意味で、自分は「ネット右翼」だったと思っています。例えば、「中国や北朝鮮を抑えるため、沖縄には基地が必要だ」と日本政府はそう説明。私もそれを無批判に受け入れていました。
ファクトチェックされていない情報うのみに
―影響されたネット上の情報というのはどのような内容ですか。
ファクトチェックを受けていない根拠のない情報や、個人の考えがそのまま載ってしまっているブログなどです。ネットだけでなく、本を読む際にも自分に都合のいい情報だけを集めていたように思います。
「ミリタリー好き」が入り口に
―自分が「ネット右翼」だと感じたのはいつごろからですか。
今考えると高校の後半ぐらいから「ネット右翼」のようなことをしていたと思います。自衛隊の航空ショーに出向くなど戦闘機や戦車などミリタリー(軍事)に関するものに興味がありました。そこから安保への興味につながりました。
―「沖縄には基地は必要だ」という考え方を持っていたと言っていましたが、「沖縄に基地は必要ない」という意見があることは知っていましたか。
それはもちろん把握していました。私が琉球大学に入学するために沖縄に来たのは2010年4月で、現在8年目になります。米軍普天間飛行場の県内移設に反対する県民大会(2010年4月25日)の前後だったと思います。その当時は民主党政権で、いったん白紙にされた米軍普天間飛行場の移設先について、数日ごとに新たな候補地が示されていくような時期でした。
せっかく自民党政権が苦労して名護市辺野古に移設先を決めたのに、なぜひっくり返すようなことをするんだろうと感じていました。
「沖縄には米軍基地が必要だ」を確かめるため
―進学を機に沖縄へ。琉球大学に進学した理由は何ですか。
「沖縄には米軍基地が必要だ」と思っていたので、それを自分の目で確認したいという気持ちがありました。政治や国際関係を専攻し、最初は「ネット右翼」のスタンスを維持していました。自分なりに正しいと思っていた国家論を振りかざしていましたね。
琉球新報の論調に怒りさえあった
―琉球新報に入社しましたがメディア志望だったんですか。
イラク戦争の時、米軍と共に行動しながら取材している記者のテレビ番組を見た時に、マスコミに興味を持つようになりました。いろいろな人に話を聞くことは楽しいだろうなと思った。
―当時、琉球新報についてはどのように思っていましたか。
ちょうど大学時代に東日本大震災があり、米軍の「トモダチ作戦」に共感を覚えていました。琉球新報は「トモダチ作戦」について米軍が自分たちの宣伝活動に使っているのではないか、と思われるような論調で報道していると受け止めていました。「現場の人たちは頑張っているのに何を考えているんだ」と怒り、そういう思いを自分のツイッターに書き込んだ記憶があります。
「論破してやろう」と辺野古・高江へ
工事資材を搬入する車両にプラカードを掲げ抗議する市民ら=2018年2月16日午前、名護市辺野古の米軍キャンプ・シュワブゲート前(塚崎昇平撮影)
―「記者ですが」に、「考えが変わり始めたのは友人と訪ねた辺野古や東村高江の現場を目の当たりにしてからだ」とあります。大学時代には辺野古や高江の現場をよく訪ねたんですか。
はい。大学3年だった2012年の夏、ヘリパッド(ヘリコプター発着場)造成に対する反対運動が行われている東村高江の現場に足を運びました。
座り込んで反対運動をしている人たちが何を考えているんだろう、ということに興味がありました。ただ、あわよくば、座り込みをしている人たちの考えを論破してやろうという思いもありました。
座り込んでいる人に声をかけ、活動をしている理由について尋ねると「生活を守るためにヘリパッドを造らせない」ということでした。米軍が沖縄に駐留していることについて、座り込んでいる人が「米軍の力に頼るのは疑問がある」と言ってきました。
それに対して私は「中国の公船が尖閣諸島の近くに入ってきているし、北朝鮮もミサイルを打ち上げている。米軍の力があるからこの程度で済んでいるのではないか」と反論しました。そうしたら、後方で話を聞いていた高江に住む男性から「おまえは違う」とぴしゃりと言われました。
自分が考えていることを主張して、「間違っている」と面と向かって指摘されたことは友人以外では初めてでした。その後のやりとりは覚えていませんが、現場に向き合い続けている人の言葉だったからこそ、心に突き刺さったのだと思います。もんもんとしたものを抱えたまま現場を離れました。
現場を知り、見えてきたこと
「止めよう新基地建設!みんなで行こう、辺野古へ。8・23県民大行動」に参加した琉球大学大学院在籍当時の塚崎昇平記者=2014年8月23日午後、名護市辺野古の米軍キャンプ・シュワブゲート前
―それが変わるきっかけになったということですか。
それをきっかけに時々、辺野古の現場にも行くようになりました。新基地建設に反対する集会にも足を運びました。住民が名護市辺野古に米軍キャンプ・シュワブを誘致したわけではないということにも気づくことができました。
その頃、安倍政権が誕生し、特定秘密保護法や集団的自衛権などの政策を次々と進めていきました。それらは日本の国の形を比喩ではなく、「戦争ができる国」にしてしまうのだろうなと思うようになりました。そして、そのような流れの中にある「沖縄」について考えるようになりました。
それと同時に安倍政権は沖縄県民の声を無視する形で強引に推し進めようとしていました。こんなに沖縄の人たちがあらがい続けているのにそれが通らない、県民が反対しても強行するというのはおかしくないか、と思い始めました。
この頃になると、自分のスタンスを維持し続けるのが論理的なことだけでなく、精神的にも苦しくなってきました。それなら、考えを変えた方が自分に正直ではないかと思いました。
そんなとき、2014年8月25日に米軍キャンプ・シュワブゲート前で開かれた県民集会に足を運びました。琉球大学大学院1年のころでした。琉球新報の取材を受け、記事として掲載もされました。
振り返ると、「ネット右翼」というスタンスから完全に離れたのは大学院生時代だったと思います。
「反対」の根底にある沖縄戦
ヘリコプター発着場(ヘリパッド)建設に反対し、抗議の座り込みをする市民らを囲む機動隊員=2016年10月20日、東村高江の米軍北部訓練場メーンゲート前(塚崎昇平撮影)(画像の一部を処理しています)
―学生時代に沖縄戦のことを学んでいたんですか?
大学では安全保障などを研究していたので、沖縄戦は教養の講義で学ぶ程度でした。ちょうど高校1年生のころ、文部科学省の高校歴史教科書検定で、沖縄戦における「集団自決」(強制集団死)の日本軍強制の記述削除・修正された問題で、教科書検定意見の撤回を求める県民大会がありました。
当時は大分県の高校生だったので、あまり記憶にはありません。その後の文科省と県内の対立ややりとりにも特段関心はありませんでした。
ですが、大会で高校生の代表2人が「この記述をなくそうとしている人たちは、沖縄戦を体験したおじい、おばあがうそをついていると言いたいのだろうか」と言っていたことだけはテレビで見て、鮮明に覚えています。
同世代の訴えだったからこそ、沖縄に特段関心のなかった当時の私にも、響いたのかもしれません。
沖縄戦のことをきちんと知るようになったのは入社してからです。入社後に教科書検定があり、文化部の教育担当になった私が沖縄戦に関する記述について、記事を書くことになりました。
当時の教育担当キャップに原稿を見せたら、「君は安保のことは詳しいかもしれないが、沖縄戦のことは何も分かっていないな」と言われました。ガツンときました。
入社二年目には、ちょうど教科書検定の県民大会から10年ということで、「集団自決」(強制集団死)のおきた渡嘉敷島に出向いたり、東京で教科書執筆者や編集者を取材したりして、当時を振り返る記事を書きました。
当時の新聞記事や資料を読み込んでから取材をしましたが、その取材の原動力となったのも、当時の教育キャップの言葉だったと思います。
辺野古の現場などに足を運ぶと、座り込んでいる人が沖縄戦について話してくれることがあります。沖縄戦の記憶は、体験した人の記憶だけではなく、ある種世代を超えて共有されているのだろうと思います。
それが脈々と残っているということが、私を変えた一因にもつながっているような気がします。
現場でデマだと実感
―「記者ですが」には県民大会に参加した際、「ネット上のデマが現実離れしていると感じた」と書いています。
「反対運動をしているのはお金をもらった人々」というデマです。現場に足を運ぶと、現場を見ていない人が言っているんだなということが分かりました。
現場には家族連れも普通の学生も、いろいろな立場や世代の人がいますから。
辺野古のゲート前で一日取材をして記事を出すと、どうしても内容は抗議行動をしている市民らが警察に排除されるというようなことを伝える内容になりがちです。ですが実は現場はずっと緊迫している訳ではありません。
大学の講義で「座り込みの時間の多くは暇だ」と言われたことを思い出しました。楽しげに歌を歌ったり、踊りを踊ったりして楽しげな雰囲気に包まれることもあります。
中国の人に会ったことない
資材搬入を阻止しようと座り込み、警察に強制的に移動させられる市民ら=2017年6月7日、名護市辺野古の米軍キャンプ・シュワブゲート前(塚崎昇平撮影)(画像の一部を処理しています)
―お金をもらっているから反対運動をしている、というネット上の言説に対しては間違いだと思いますか。
はい。むしろ現場に来るためにガソリン代やバス代などの負担は大きいと思います。ネットではよく中国などの勢力がお金を出して運動を扇動し、日米安全保障体制を崩そうとしている、とか、現場には中国人や韓国人がいっぱいだ、という記述をよく目にします。
実は私もそのように思っていた時期もありました。でも、私自身は辺野古や高江の現場に足を運んで中国の人に会ったことは一度もありません。もし、いたとしても一市民として、この状況が問題だと思って参加しているんだと思います。
「ニュース女子」(東京MXの番組)で高江の現場について「中国人はいるわ、韓国人はいるわ」と伝えていました。番組を見て「本当に現場に行ったことがあるのか」と怒りを感じました。
ただ、昔だったら信じてしまっていたのではないか、もしかしたら喜んでその主張に飛びついていたのではないか、とも思います。
両論併記についても昔は双方の意見をしっかり書くべきだと思っていました。でも今は、圧倒的に力の差がある中で両者の中間に立つということが本当に公平なのか、ということだと考えるようになりました。
批判は真摯に受け止める
―今回の「記者ですが」はかなり反響がありますね。どのように感じましたか。
「記者ですが」について意見が書いてあるツイッターなどSNSを数多く見ました。「こいつは何も反省していない」「自分は変わることができて良かったね」などという批判もたくさんありました。「ネット右翼で多くの人を傷つけていたことについての反省はないのか」という内容の指摘もありました。
確かに私は「ネット右翼」だった当時、特定の個人を「極左だ」とかレッテルを貼って周りの人に話をしていたことがありました。人を殴ったり、お金を盗ったりした訳ではないので、コラムが紙面に掲載されて、そうした指摘があるまで、私に罪の意識は正直ありませんでした。人を傷つけたという意識もありませんでした。だからこそ、「反省はないのか」などの批判は真摯(しんし)に受け止め、胸に刻みつけておかなければいけないと思っています。
ただ今回、批判も予測しながらも「ネット右翼でした」というタイトルでコラムを書いたのは、こんな私だからこそ、伝えられることがあるのではないかと思ったからです。
―「ネット右翼」と呼ばれる人たちからの反応もあったとか。
「『ネット右翼』だったと言っているのは嘘だろう」というような批判もありました。それに対しては「はい。ネット右翼でした」と答えます。「シールズの元メンバーだ」というような指摘もあります。私は大学院生時代、「ゆんたくるー」(若い世代に基地問題の現状を知ってもらおうと活動している県内の大学生らでつくるグループ)の集まりに参加したことはありますが、メンバーではなかったし、シールズのメンバーになったこともありません。ただ、もしシールズの元メンバーだったとしても特に問題はないと思います。
「実名を書いて言うことは勇気のいることだと思う」という内容の反応もあり、救われた思いもしました。いろいろな反応の中で、「『対話は意味がないものではない』と気付かせてくれたのはありがたい」という内容のものもありました。
人の思想を「左」「右」にレッテルを貼って分けることには違和感を覚えています。自分と違うスタンスにいる人に対しても意見を言ったり、意見を聞いたりすることは意味のあることだということを感じてくれた人もいたようです。
互いのレッテル≠乗り越えたい
―「記者ですが」掲載後の反響などを踏まえ、今どう感じていますか。
批判はあると思いますが、書いたことを後悔はしていませんし、別の題材で書けば良かったとも思っていません。4月から北部報道部に配属されますが、北部に行くに当たっての決意表明でもありました。
―「記者ですが」では、「かつて私のような人たちに現場の状況を理解してもらえるか、考え続けている」と結んでいます。
どんな立場や考えの人であっても、事実に基づいた力ある記事なら、人の心にちゃんと届くと思います。記事をきっかけに、例えば「一度ぐらいは辺野古の現場に足を運んでみようか」とか「現場に行った人に話を聞いてみようか」など、少しでも何かしらの行動につながればいいと思っています。
現場≠ノ行くことなど考えてもいなかった人や、「ちょっと怖そう」と思って敬遠している人も多いかもしれません。私が現場に行ったのは逆に、座り込みしている人を論破しようと思っていたということもあります。残念ながら、「琉球新報は左だ」などというレッテルが貼られているのも事実です。そのレッテルに邪魔されて、書いたことが真っすぐに届いていないと感じて苦しくなることもあります。
そんなレッテルは、私たちから打ち破る必要もあるかもしれません。そして、もしかしたら異なる立場から打ち破ってくれる人もいるかもしれません。
今さらですが「ネット右翼」という表現も、一つのレッテル貼りなのでしょう。そんな言葉こそが、対話の機会を遠ざけている要因の一つなのかもしれません。私が『ネット右翼だった』と自認すること自体も、過去の私にレッテルを貼る行為なのかもしれません。いつの間にかつくりあげてしまったレッテルの亡霊≠ノ邪魔されて、対話ができないような事態を飛び越えられるような記事を書いていくことができれば、と考えています。
そのためには私自身も、レッテルの亡霊から解き放たれる必要があるのだと考えます。今回のコラムがいろいろな論議を呼んだことも含めて、私自身がレッテルの亡霊から離れる一歩になったと考えています。
飛来したオスプレイにプラカードを掲げて抗議する市民=2016年12月23日、東村高江の米軍北部訓練場メーンゲート前(塚崎昇平撮影)
元のコラムもすごく伝わってくるものがあったけど、このインタビューでさらにグッときた。とくに「両論併記」に関するくだりにとても共感。頑張ってほしい。
— 雇用のヨーコ (@koyounoyooko) 2018年4月2日
「ネット右翼でした」 沖縄に暮らし、記者になって思うこと(琉球新報) - Yahoo!ニュース https://t.co/js9zp7nyH3 @YahooNewsTopics
有名無名問わず、日本中の全 #ネトウヨ #アホウヨ に読ませたい記事。
— tany (@tani83st) 2018年4月2日
まあほとんどの輩が、聞く耳を持てないアホレベルなんだろうけど、ほんの少数でも気が付いて改心してくれれば。
https://t.co/rVAvC8kexP @YahooNewsTopics
ネトウヨだった人が記者になるとはね。若さゆえの過ちというものも人生経験としては必要なことだと思うし、気づくのが早ければ早いほど、傷も浅くて住むものだ。
— 泉川理之 (@T_IZUMIKAWA) 2018年4月2日
ネトウヨだった奴でも目覚めてくれればそれで良いのさ。https://t.co/6mgRLtHn5Y
3月25日の紙面記事はリアルタイムで興味深く読んだ。1月3日村本大輔「大演説」の取材の際名刺交換した人ゆえ、余計に印象に残った。さらに彼の記事の意義を社内で掘り下げるインタビュー。素敵だ!➡「ネット右翼でした」沖縄に暮らし、記者になって思うこと-琉球新報Style- https://t.co/27GpzQFriY
— 渡瀬夏彦 (@natsuhikowatase) 2018年4月2日
「ネット右翼でした」#沖縄 に暮らし記者になって思うこと
— * peace * (@cyoki) 2018年4月2日
「間違っている」と
面と向かって指摘されたのは
友人以外初めて
それをきっかけに
時々 #辺野古 の現場にも
行くようになり
もんもんとした
思いを持ちながら
授業などで #沖縄の歴史 を
学ぶことになりましたhttps://t.co/IcYIUFBdJ7 pic.twitter.com/uSMclxsmSk
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