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森友は“安倍歴史観”を教え込む教育の場!
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2018/03/25 14:33 半歩前へ
▼森友は“安倍歴史観”を教え込む教育の場!
「日本会議」のメンバーでもある籠池が、“安倍歴史観”を教え込む教育の場を、幼稚園から小学校にまで拡大しようと動き、それを悪(あ)しからずと当初考えた安倍側が首相夫人の名を貸して結果的にこの籠池流の教育商法をサポートした。
多分、安倍政権下でなければ実現しなかった国有地払い下げであり、学校認可ではなかったか。
地元市議の追及がなければ、そのまま小学校は開校していたかもしれない。籠池、安倍両間のこの相呼応した相互関係が、戦前を知る藤井にとって、安倍政治に対する懸念をますます高めるものにしたようだ。
「籠池のような教育をする人間が、幼稚園はもちろんのこと、小学校を作ることを許されるのか。僕が安倍に一番言いたいのは、ああいう偏った歴史観を持った人が安倍をあるべき政治家の理想、シンボルだと思い込んでいることだ。そこをもっと反省してもらいたい」
「私は日中戦争がはじまった年(1937年)の4月に幼稚園に入ったが、『日中戦争に勝て』なんて話は一つもなかった。12月に南京陥落。その時だけは園内で旗行列したのを覚えているが、それ以外はあの時代ですら、幼児にあんな教育をすることはなかった」
藤井からすれば、戦前でさえそうだったのに、森友ケースは何をかいわんや、ということであろう。
あの時代から学ぶべきは教育勅語ではない。二度と戦争を起こさないためにどうするか、ということではないか。それを安倍政治はわかっているのだろうか。
そこで藤井は「政治家としての原点」として、二つの戦争体験を披露してくれた。
「一つは忘れられない記憶だ。44年8月から翌春まで東京・小平に学童疎開していた時に目撃した。はるか頭上で米機B29と日本の戦闘機が激しく撃ち合い、最後は戦闘機がB29に体当たり、ともに火を噴きながら墜落したことがあった」
「すぐさま友達と墜落現場に向かった。救出のためでもやじ馬でもない。情けないことだが、食料探しだった。米軍は食料を大量に持っていると聞いていた。毎日空腹だったからビスケットぐらいはあるんじゃないかと、期待した。
だが現場には、米兵の無残な遺体が横たわっていただけだった。8体ぐらいか、手足や胴体がバラバラ。女性通信士も乗っていたのか、赤いマニキュアの片腕もあった。惨状を目の当たりにして子供心に『戦争には勝者も敗者もない。国民に犠牲が出るんだ』と思った」
もう一つの体験は、敗戦の年の1945年5月、藤井が東京高等師範学校(現在の筑波大学)付属中学校1年の時のことだ。
学校の教師からいきなり「君、金沢に行ってくれ」と言われ、同学年から選抜された30人で、金沢市にあった旧制四高(現金沢大学)に缶詰めにされ、短期集中的に英才教育を施されたことがあった。
それは「特別科学教育」というものだった。戦争末期になって、科学力における彼我(ひが)の差を知った日本が、今さらながら科学振興の底上げをせんとしてなした教育プログラムであった。
44年9月、永井柳太郎によって「戦時穎才(えいさい)教育機関設置に関する建議案」が衆院で建議され、高等師範付属中学校を軸に全国ネットで俊才を集め、45年1月からその授業が開始された。
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老政治家から安倍への覚悟のこもったメッセージ!
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