くだらんアホカ http://diamond.jp/articles/print/164006 【第199回】 2018年3月20日 竹井善昭 :ソーシャルビジネス・プランナー&CSRコンサルタント/株式会社ソーシャルプランニング代表 文科省の介入以前に、前川氏の学校招聘はありだったのか 文科省の前事務次官にして、“日本の貧困問題研究家”(ただし若い女子限定)でもある前川喜平氏に、名古屋の市立中学が講演依頼。その講演内容について文科省が名古屋市教育委員会に問い合せメールを送った件が、大きな話題になっている。ネットでは意見も二分しているが、マスコミはだいたい批判的だ。その批判とは、「文科省が教育現場に介入することは許されない」というものだが、ここには「安倍政権が裏で動いているはずだ」という見方が透けて見える。そのあたりのことは現時点ではよく分からない。しかし、起きたことについての論評や考察はできる。そこで今回は、文科省が教育現場に介入する事の是非以前に、そもそも前川喜平氏を講演者として教育現場に招聘することの是非について考えてみる。 政治的思想を 教育現場に持ち込んではならない まず文科省の件だが、前述のとおり、マスコミは概ね文科省の問い合わせに対して否定的だ。文科省が授業の内容を問い質すことは教育現場への介入であり、教育の独立性を脅かすもので許されないという主旨だが、僕はむしろ文科省が教育現場に介入できないことに衝撃を受けた。当たり前だが、文科省は教育行政のトップだ。そのトップ組織が教育現場のヒアリングもできないようでは、それこそ教育現場は歪められる。実際、僕らの世代はその被害にあってきた。 「教育の独立性」と言えば聞こえはいいが、それは教師が好き勝手をやっていいということではないはずだ。教師とは、基本的に勉強を教えるのが仕事なのだが、かつて日教組がいまよりも力を持っていた頃は、中学や高校の授業で、教師が自分の「思想教育」を好き勝手にやっていた。その大半が、太平洋戦争当時の日本批判、天皇批判だ。 もちろん、教師がどのような政治的思想を持とうがどのような活動をしようが、それは個人の勝手だ。しかし、それを授業でやられたら、生徒は迷惑なだけ。生徒だってさまざまな政治的思想を持っているし、何よりも肝心の授業が進まないのは大問題だ。実際、僕が高校1年の時の英語教師はかなり政治色の強い教師で、政治の話ばかりして授業をなかなかしなかった。その結果、学年が終わっても、教科書の3分の1が残ってしまった。これは、僕ら生徒の「学ぶ権利」に対する侵害だったと思う。 進学校出身の方はご存じだと思うが、進学校では授業の進み方がとにかく早い。ちなみに僕は、高校2年の時に田舎の高校から都会の進学校に転校したのだが、英語の教科書などGW明けに終わってしまったことには驚いた。田舎の左翼教師が1年かけても終わらなかった勉強を、都会の進学校ではたった1ヵ月で終わらせていたのだ。これでは大学受験でも大きな差が付くのは当然で、僕も転校後の2年間、英語ではかなり苦労した。教育の自由が生徒に多大な迷惑をかけたケースだと言える。 改めて言っておくが、僕は、左翼的だろうが右翼的だろうが、教師が政治的思想を持つこと自体を批判しているわけではない。ただ強く言いたいのは、「その政治的思想を教育現場に持ち込むな」ということだ。生徒だって、中学生や高校生ぐらいになれば、自分なりの政治的思想や志向性を持つようになるだろう。だからこそ、教師にその思想を強制されるべきではないのだ。 政治的思想を学ぶのも勉強だ、という意見もあるだろう。しかし、そんなことは学校で教わらなくても、どこででも学べる。というか、政治的思想に関しては、音楽や映画や書物から生徒個人が自分で学ぶべきで、学校教育が介入すべきことではない。ただし私立学校は、宗教的、思想的なバックボーンがあって設立されているからまだ許されるとしても、公立学校はそうではない。公立学校は常に政治的、思想的に「中立」であるべきだが、そうではない学校や教師もいるのではないだろうか。 政治的思想は関係ないとしても、たとえば「いじめ問題」などで不適切な対応を取る学校も多いことはご存じのとおりだ。中学や高校で、酷いいじめによる自殺者が出ても、多くの学校はいじめの実態を解明もせず、隠蔽しようとする。それが教育委員会やマスコミにバレて、謝罪する。僕らは、そんな光景を何度見せられてきたのか。 それゆえに僕は、「教育の独立性」を担保すれば現場がうまくいく、とは到底思えない。反対に、文科省の査察権限や指導権限を強化すれば、教育現場の問題がすべて解決するわけでもない。これは、労基局があってもブラック企業がなくならないのと同じ。ただし、労基局の存在がある程度の抑止力になっているのも事実だし、査察や勧告、行政処分によってブラック体質が改まることもある。学校、とくに公立学校は閉じられた世界だからこそ、どこかがきっちりと監督・指導していかなければ、現場が歪んでしまうのではないのか――。 ちなみに、今回の名古屋市教育委員会に対する文科省からの問い合わせに関して、林芳正文科大臣は16日の記者会見で、個別の学校の教育内容について文科省が教委に問い合わせることは地方教育行政法で認められているとして、「一般的にあることだ」と述べている。 校長は、前川氏に 何を語らせたかったのか さて、そもそも前川喜平氏を講演者として学校現場に招聘することの是非についてであるが、前川氏を呼んだ名古屋市立中学の校長の話を聞いてもしっくりこない。なぜ、この校長は前川氏を講師として呼んだのか。そこがよく分からない。 当たり前だが、主催者が講演者を決める場合は、明確な理由がある。講演者に話してほしいテーマや内容があり、それを語れる人間を講演者として依頼するのがセオリーだ。ちなみに僕も、各地の行政やNPO、企業などに講演を依頼されるが、それは僕が『社会貢献でメシを食う』という社会貢献関連では異例のロングセラーを書いた著者だからであり、社会セクターで活動する人間だからだ。それゆえに、講演テーマも「ソーシャルビジネス最前線」とか「NPOマーケティング」とか、社会貢献に関するものばかりだ。 このように、講演会主催者は「この人なら、こういうことを語れるだろう」と考えて講演依頼するわけだが、この校長が前川氏に何を語ってほしかったのか、まったく分からない。ちなみに校長は、数年前に前川氏の講演を聞いて「その人柄に感銘を受けた」ことを依頼の理由としているが、人柄で講演者を決める主催者はいない。講演者はあくまで、その人間のバックボーン、どのような経歴で、どのような専門分野を持っているかで決めるものだ。この校長が、本当に前川氏の人柄だけで講演依頼を決めたとしたら、どうかしている。講演依頼の意味が分かっていないと言える。 ただ、文科省の元事務次官というバックボーンを理由に依頼したとしても、これも問題だ。ご存じのとおり、前川氏は文科省の天下り問題の責任をとって辞任した人物だ。そのような人物が、子どもたちに何かを語る資格があるのか。この校長は「天下り問題は文科省の組織の問題であり、前川氏には辞任と切り離して語ってもらった」と言うが、前川氏はその組織の問題の責任を取って辞任した人物であり、講演で話を聞くほうだって、とても切り離して聞くことなどできない。たとえば、データ改ざんで問題が発覚して社長を辞任した人物に、その業界のことを語らせるビジネスセミナーの主催者がいるだろうか。 仮に、前川氏が「組織が腐敗を生む構造と課題」みたいなテーマで講演するなら、それはそれでありかもしれないが、中学生に聞かせるような話でもないだろう。また、前川氏は文科省時代から出会い系バーに通い詰めて、そこで知り合った女性に金まで渡していた人物だ。もちろん、出会い系バーに通うことも、若い女性に金を渡すことも法的には問題ない。しかし、そのことが大きく報道され、自身でも認めているような人物に、中学生の前で講演させることはやはり適切ではないのではないか。なぜなら、出会い系バーは準風俗と言っていいような隠微な場所だからだ。隠微な場に通うような教育者を、世間は許すのだろうか。 かつて、卒業式を終えた直後にストリップ劇場に行った中学校の校長がいたが、それを週刊誌にすっぱ抜かれ、大きな批判を浴びたことがある。ストリップ劇場で大股開きのストリップ嬢の写真を撮り、ステージ上で野球拳に興じるところを報道されたのだが、法律的に違反したわけでもないし、勤務時間外に行っただけで職務上の問題もない。ただ、日本中を震撼させた酒鬼薔薇事件の犯人が通っていた学校の校長だったので世間の注目と批判を浴び、謹慎処分を下された。もちろん、酒鬼薔薇聖斗が起こした事件とこの校長とはまったく何の関係もないのだが、その校長がストリップを鑑賞しただけで大きな問題になった。 その意味で、文科省のキャリア官僚が出会い系バーに通い詰めることが問題でないとする、今回の校長の考え方は理解できない。出会い系バーに通うことはもちろん違法ではないが、教師が生徒に堂々と語れるようなことでもないからだ。もしどこかの教師が、朝の朝礼で「昨夜、出会い系バーに行ってさぁ。出会った女の子と焼き肉に行って楽しかったから、お小遣いあげたよ」みたいな話をしたら、それこそ大問題になるだろう。 僕は何も、中学生や高校生に話をするのは清廉潔白な人間でなければならない、とは言わない。たとえ、元ヤクザで人を殺して刑務所に行っていたような人間でも、更正さえしていれば、「更正」をテーマに語ることは、それはそれで大切な教育になると思う。風俗嬢はよく「5年前、10年前の自分に会ったら、風俗の仕事は絶対にしちゃダメだと言う」と語るが、そうした話もいいかもしれない。むしろ子どもたちは、大人と違って、その人間の肩書きなど関係なく人を見て、話を聞く。では、前川氏のことを子どもたちはどう受け止めたのだろうか。 校長は、前川氏の出会い系バー通いを「良心的な動機」と解釈しているが、少なくとも出会い系バーに行ったことがある人間はそんな言い訳など信じないし、貧困問題に取り組んでいる人間も信じないだろう。若者たちの貧困問題に関心があって、問題の本質を知りたいと思えば、貧困問題に取り組んでいるNPOはたくさんある。文科省のキャリア官僚という立場であれば、そうしたNPOからヒアリングすることは簡単なことだ。また、現場を見たいと思えば、まずその世界に詳しい人にアテンドしてもらうのが普通だ。どんな世界でも、素人がいきなり現場に行っても何もわからないからだ。しかし、前川氏は貧困問題のNPOにヒアリングもしていないし、詳しいライターなどにアテンドしてもらって出会い系バーに行ったわけでもない。それで「調査」と言われても、言い訳にしか聞こえない。たんに自分が行きたかっただけ、としか思えない。 もちろん、勤務時間外に出会い系バーに行きたいから行った、そこには何の問題もない。キャリア官僚が出会い系バーだろうが風俗に行こうが、それは勝手だ。問題なのは、明らかに嘘と分かる嘘を平然と語る人物の話を、子どもたちに対して聞かせようということ。この校長は何を聞かせたかったのか、ということだ。 校長は、「前川氏の話を聞いて子どもたちは感銘を受けた」と言っている。まあ、そうした生徒もいたかもしれない。しかし、大人の欺瞞に敏感な子どもはどうか。子どもは大人の欺瞞に敏感だ。中学生、高校生はとくにそうだ。教育現場に欺瞞を持ち込むことは、感受性の強い子どもたちを裏切ることになる。それが何を意味するのか、この校長は考えたほうがいい。 きわめて政治的な人間を 教育現場に招聘する意味 もう一点。いまの前川氏はきわめて政治的な人間であることも問題だ。いまでは“反安倍政権の旗頭”みたいな存在になっている。加計学園の件でも、前川氏は「行政が歪められた」と言っているが、一方で、元愛媛県知事で文科省時代は前川氏の上司だった加戸守行氏は「歪められた行政が正された」と発言している。このように、世間を大きく賑わし、議論も二分する政治問題で、前川氏は中心的な役割を担っているのだ。これは、彼がきわめて政治的な存在であると言える。 そのような政治的な人間を教育現場に招聘することを僕は否定するが、この校長は、このような政治的な人間を中学生の前で語らせることに、どのような意味があるのかをきちんと考えたのだろうか。考えたうえでの依頼だったとすれば、そこに大きな政治的バイアスがあるし、考えてなかったとすれば、やはりどうかしている。教育の本質がまったくわかっていない。 教育の本質は、「意味を考える力を養う」ということだ。物事の意味を知り、考える。その力を養うことは人間の成長に最も重要なことで、あらゆる教育はそこを目指すと言っても過言ではない。物事のすべてに意味がある。ビジネスにおいても、たとえば商品のひとつ、広告表現のひとつとっても、意味がある。松下幸之助が二股ソケットを開発したのはなぜか、スティーブ・ジョブズがMacやiPhoneを開発したのはなぜか。そこにはすべて意味がある。そうしたことを理解できる人間に育てる。それが教育の根本だ。 では、天下り問題という大きな問題を組織的に引き起こし、その組織の長として引責辞任し、出会い系バーという教育現場では語りたくないような場に入り浸っていたことが大きく報じられたような人物の話を、中学生に聞かせる。それはいったい何を意味するのか。事が大きく報じられた以上、校長には文科省の問い合わせとは関係なく、世間に対して説明する責任はあるだろう。それは、子どもたちの未来を預かる組織の長としての責任だ。その意味に説得力があれば、今回の前川氏の講演も、子どもたちにとっては有意義な教育だっただろう。しかし、そうでなければ、害でしかない。 マスコミも、アンチ安倍は無罪で、前川氏に関することは何でも擁護することはやめたほうがいい。マスコミが、日本の子どもたちの未来を本気で考えていればの話だが。 (ソーシャルビジネス・プランナー&CSRコンサルタント/株式会社ソーシャルプランニング代表 竹井善昭)
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