http://www.asyura2.com/18/senkyo240/msg/409.html
Tweet |
親友の死後「晋三を頼む」と後援者に頭を下げた竹下登 昭和の政治家たちの人心掌握術
https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/223890
2018年2月23日 岡崎守恭 元日本経済新聞政治部長 日刊ゲンダイ 文字起こし
「歌手1年、総理2年の使い捨て」というのが口癖で面倒見がよかった/(C)日刊ゲンダイ
田中角栄が退場し、竹下登の時代が到来した。田中の晩年の不遇への判官びいきもあって、竹下への風当たりは強い。だが、「自民党秘史 過ぎ去りし政治家の面影」(講談社現代新書)の著者で、元日本経済新聞政治部長の岡崎守恭氏は「竹下さんは気配りの人だった」と別の印象を話す。
「僕の記者としての基本的な立場を言うと、本籍・中曽根派、最終住所・田中派です。ずっと中曽根派の担当記者をやっていて、1982年に中曽根内閣が誕生しました。普通なら首相官邸のキャップをやって中曽根さんと運命を共にしていくわけですが、当時の僕の上司が立派な人で、『中曽根が総理になるまで見てきたのだからもういいだろう。これからは田中派へ行け』ということになった。田中派は当時の政治記者なら誰もがやりたい派閥。ただ、仕事は最もきつい派閥でした。なにしろ、抗争は激しく、議員の数も120人以上いたのです」
この頃、竹下邸の秘書の間で「4人組」と呼ばれる担当記者がいた。TBSの田中良紹氏、共同通信の後藤謙次氏、産経新聞の中司宏氏、そして岡崎氏だ。
「仲良しクラブというのではないのですが、120人もいると何人かで相互補完し合わないと持たないわけです。ルーティンワークとしては金丸信総務会長(当時=後に幹事長、副総理)を回っていましたが、派閥には将来を担う人として竹下大蔵大臣がいました。大蔵大臣の周囲には記者が10人も20人もいましたが、それは経済部記者であって、政治部記者はいわゆる“朝駆け、夜回り”に行っていなかったのです。その間隙を縫って僕らは竹下さんの家族やお手伝いさんとも親しくなったというわけです。
竹下さんからは『おまえらCDって知ってるか?』と言われ、よくちゃかされていました。CDとは譲渡性預金のことですが、キャッシュディスペンサーとか、中日ドラゴンズとか、クリスチャン・ディオールとか、とんちんかんに答えて笑われていたのです。話は少し脱線しますが、あの時、担当していた後藤さんや時事通信の田崎史郎さんがいまだに政治評論家のトップにいるということは、いかに当時の田中派がすごく、いかに勉強させてもらったかということでしょう」
竹下には、小ざかしい政治家のイメージが今も付きまとう。
「『歌手1年、総理2年の使い捨て』というのが口癖で、面倒見がよかった。最も胸襟を開いた政治家は福田派だった安倍晋太郎さんで、他派閥ながら共に親分に苦労している点で共通していました。竹下さんは中曽根裁定(1987年10月)で一足早く総理に指名されましたが、次は安倍に譲ろうと本気で思っていました。
ですが、安倍さんが病に倒れて91年に亡くなってしまいますから、それはかないませんでした。竹下さんは東京・代沢の自宅に山口県の有力県議らを招き、『後継者の晋三を頼む。竹下のこの願い、言葉は、安倍の願い、言葉と思ってほしい』と言ったほどです」
亡くなった盟友は皆が支えたくなるような男だったという。
親友の死後「晋三を頼む」と後援者に頭を下げた竹下登 https://t.co/psqDy1hSGe #日刊ゲンダイDIGITAL
— 伯楽 (@political_memo) 2018年2月23日
▲上へ ★阿修羅♪ > 政治・選挙・NHK240掲示板 次へ 前へ
投稿コメント全ログ コメント即時配信 スレ建て依頼 削除コメント確認方法
▲上へ ★阿修羅♪ > 政治・選挙・NHK240掲示板 次へ 前へ
スパムメールの中から見つけ出すためにメールのタイトルには必ず「阿修羅さんへ」と記述してください。
すべてのページの引用、転載、リンクを許可します。確認メールは不要です。引用元リンクを表示してください。