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追悼ECD! 反原発、反差別、反戦…がん闘病中も声を上げ続けた戦いの軌跡! 最後まで「黙らねえ」と
http://lite-ra.com/2018/01/post-3758.html
2018.01.25 追悼!ECDは最後まで「黙らねえ」と リテラ
2016年には本サイトのインタビューにも応じていただいたECD氏。
本日、かねてよりがんと闘病中であることを告白していたミュージシャンのECD氏が入院先の病院で息を引き取っていたことが明らかになった。57歳だった。
ECD氏は1980年代後半から活動を始めた日本のヒップホップシーンの先駆者。1996年には、日比谷野外音楽堂にてイベント・さんピンCAMPを主催しており、ライムスター、キングギドラ、BUDDHA BRANDなど日本のヒップホップの歴史において重要なグループが多数出演したこのイベントは、いまでも伝説的なイベントとして語り継がれている。
21世紀に入ってからは、ミュージシャンとしての活動はもちろん、アルコール依存症との闘病を告白した『失点・イン・ザ・パーク』(太田出版)をはじめとした文筆家としての仕事や、デモに参加するなど社会的なイシューに積極的に関わっていくアクティビストとしての顔も知られるようになっていく。
安保法制に反対するSEALDsの国会前デモでしばしば聞かれたシュプレヒコール「言うこと聞かせる番だ俺たちが」は、12年にリリースされたラッパー・田我流の楽曲「STRAIGHT OUTTA 138」に客演した際、ECD氏がラップした歌詞から引用されたものである。
ECD氏はSEALDsのデモでもコーラーとしてシュプレヒコールを先導していたが、元SEALDsの奥田愛基氏は「AERA」(朝日新聞出版)2017年7月31日号のなかで、そのような流れにいたった経緯やECD氏の人柄についてこのように語っている。
「著名人の方がデモに参加する場合は、こちらからお願いして来てもらうケースも多くて。もちろんそれでもいいんですが、ECDさんは誰に言われたわけでもないのに来て、誰とも話さずに帰っていく。アーティストではなく、あくまでもいち国民、ワン・オブ・ゼムとして参加してくれていたんです。ただ、いま思うのは、やっぱり類いまれなワンっていうか、唯一の存在だったんだなって」
本サイトでは、16年の3月にECD氏にインタビューを行っている。そのインタビューでは、00年代初めからデモに参加し続けている彼に、サウンドデモ(サウンドカーに乗ったDJやミュージシャンの鳴らす音楽に合わせて参加者が踊りながら行進する形式のデモ。イラク戦争反対などを訴えた)からSEALDsにいたるまでの日本国内におけるデモの変遷について聞いているが、そのなかでECD氏は自身がデモに参加し始めるきっかけを9 .11の自爆テロと、それに端を発したアメリカによる報復戦争であると語っている。
ECD氏は9.11をめぐる状況を見て「これからの世界がどこへ向かうのかわからなくなったし、『戦争』というものが自分にも無関係なものではなくなった」と恐怖に苛まれたと語る。彼のなかで「戦争」がリアリティをともない始めたのだ。
■ECDがラップで訴えた反原発や反レイシズムに対する思い
ECD氏は07年に出版した著書『いるべき場所』(メディア総合研究所)のなかでそのときのことをこのように綴っている。
〈三月十九日、イラク開戦の前日、仕事を終えた僕は開戦に抗議するひとびとが集まっているというアメリカ大使館に向った。しかし、アメリカ大使館周辺の大通りから大使館に向う道の入口は全て機動隊によって封鎖されていて近付くことはできなかった。大通りの舗道では右翼が星条旗を掲げて立っていた。その余りのバカバカしさと、普段自由に通行できるはずの通りが封鎖されているということへの怒りによって僕の中でカチリとスイッチが入る音がした。今回ばかりは傍観してはいられない。デモでも何でも参加してやる、そう心に決めたのだった〉
その翌日、イラク戦争開戦当日となる03年3月20日、彼は職場のテレビでニュース映像に釘付けになる。そのニュース映像では、世界各地の人々が戦争に抗議するためデモを起こしている模様を報じていた。
そのとき、日本でも日比谷公園に集まった反戦デモ参加者がアメリカ大使館に向かっているのだが、その情報を知っていてもたってもいられなくなったECD氏は、仕事が終わるとその足でデモの行われているアメリカ大使館へ向かい、「戦争反対」のシュプレヒコールをあげたという。
このときの〈怒りによって僕の中でカチリとスイッチが入る音がした〉という状況は以後も続いていき、東日本大震災以後の反原発デモや、レイシストへのカウンター活動にも積極的に関わっていく。
そういった動きはもちろん自身の音楽にも強く反映される。前述した「STRAIGHT OUTTA 138」では原発問題を扱い、〈人が死ぬのをわかってて止めない反対すると非国民扱い/なにかに似てるとにかく狂ってる/67年前のボロ負けで終わったはずのあの戦争を続けたかった奴らの夢/それが原発だ間違いねえ/だからもうとっくの時代遅れ/死に損ないジジイのノスタルジー(勃たなくなったチンポの代わりの)/シンボルそれがいきりたつ原子炉/そんなもんに付き合ってられるか/署名投票デモンストレーション/言うこと聞かせる番だ俺たちが〉とラップしている。
また、13年に発表した「The Bridge 反レイシズムRemix」では、タイトル通り差別について踏み込み、〈足すくむ震え止められない/わめき声「殺せ叩き出せ」って聞いて/泣き出すの無理ねーだって自分が今/大好きなアーティストがスターがアイドルが/何人かどーかでそんないわれかた/どんだけ悲しい悔しい恐ろしい/そいつがレイシズムそしてヘイトスピーチ/こんな世界があっていいわけがねー/いいわけがねー/いいわけがねー〉と歌っている。
■ネトウヨに叩かれ続けたECDだが、彼は負けずに「黙らねえ」とラップした
自身の作品やデモへの参加のほかにも、ECD氏はツイッターを通じて日常的に社会的なイシューに関して意見を表明してきた。安倍政権を強く批判する投稿も多いことから、彼のツイッターアカウントはネトウヨにより恒常的に荒らされるような状態となっていたのをご存知の方も多いだろう。
しかし、彼はそのような状況に臆することは決してなかった。
ネトウヨから日々罵詈雑言を浴びせられて平気だったわけはないだろう。オリジナルアルバムとしては生前最後の作品となった15年リリースのアルバム『Three wise monkeys』収録の楽曲「LINK」では〈できるなら三猿/目も耳も口も/両手で塞いでなにも見ないいっさい/なにも聞かない/なにも言わないいっさい/やり過ごすこと許されるとしたらどれだけ/深く眠れることだろうとは思う/だけど資格じゃないけどなんか要るんだろきっと/そんな人生手に入れるためには〉とラップして、そのつらさを表明していた。
ただ、彼は「見ざる、聞かざる、言わざる」にはならなかった。同アルバムに収録されている「DAMARANE」では〈車椅子に乗るようなジジイになったって俺はマイク離したりしねえ/死んじゃいねえってラップするはずだそのときは間違いねえ/最低あと30年はやる予定/パーティーそれはオールマイライフ/だって楽しいだろもちろん/自分の葬式のときだって棺桶から這い出してでもラップしてやる/黙らねえ/黙らねえ/黙らねえ/黙らねえ/黙らねえ/黙らねえ〉と決意表明を歌い、実際その通り亡くなる直前まで黙ることはなかったのだ。
権力に対して異議申し立てをしたり、反原発を訴えたり、レイシズムに対してアンチテーゼを唱えたりした人間に対し罵詈雑言が浴びせられる異常な状況はこれからもしばらく変わることはないだろう。
しかし、だからといって臆することはない。「DAMARANE」の精神をもち続けること。ECD氏が最後までそうであったように。
(編集部)
追悼ECD! 反原発、反差別、反戦…がん闘病中も声を上げ続けた戦いの軌跡! 最後まで「黙らねえ」と https://t.co/cRSUoLVVLc
— litera (@litera_web) 2018年1月25日
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