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吉田豪 前川喜平インタビュー書き起こし (ゆるい感じの前川さん、面白い!)
http://www.asyura2.com/18/senkyo238/msg/445.html
投稿者 更年期オバチャン 日時 2018 年 1 月 15 日 00:56:35: 7xxqlJkPYl7SE jViUTor6g0mDb4Ngg4ODkw
 


吉田豪 前川喜平インタビュー書き起こし 2018/1/4 AbemaTV


https://miyearnzzlabo.com/archives/46657

吉田豪さんがAbema TVで前川喜平・前文部科学省事務次官にインタビュー。その模様を書き起こししました。

*****

みやーんZZ @miyearnzz

吉田豪さんの前川喜平さんインタビュー、面白い! リンク先で無料で視聴できます!
ニュースの渦中にいた人物たちが語る真実と本音 @AbemaTV で無料配信中 https://gxyt4.app.goo.gl/Nd21

12:24 - 2018年1月4日

*****(現在AbemaTVの配信は終了していますが、Facebookなどにアップされている模様)

(ナレーション)安倍総理の友人、加計孝太郎氏の獣医学部新設を巡る総理の関与疑惑。総理の忖度はあったのか? 昨年、野党から連日激しい追求が続き、総理はその弁明に追われた。そのきっかけはこの発言からだった。「あったものをなかったものにはできないということで、公正・公平であるべき行政のあり方が歪められたという……(前川喜平)」。前・文部科学省事務次官、前川喜平。一躍時の人になったこの男だが、果たしていま、なにを思うのか?

(前川喜平)よろしくお願いします。

(吉田豪)よろしくお願いします。

(ナレーション)いままで数千人のインタビューを行った吉田豪がその本音を聞き出す。

(吉田豪)あの、基本僕、そんなに頭よくないので、そのレベルで話していただけると助かります。

(前川喜平)いやー、私もそんなに……(笑)。

(吉田豪)そうなんですか? 超エリートじゃないですか(笑)。でもね、気になるポイントがいくつかあって。パソコンの画面がゲバラだったっていう(笑)。

(前川喜平)アハハッ、最近は出腹(でばら)なんですけどね……(笑)。

(吉田豪)あ、そういうネタも入れてくるタイプの? ダハハハハッ! そう。控室で一緒だったんですけど、意外とゆるい感じで安心したんですよ。

(前川喜平)ゆるいっすよ(笑)。かなりゆるいですよ。

(吉田豪)メディアのイメージがだいぶそういうイメージ、出ていないじゃないですか。

(前川喜平)国会の参考人で行った時にね、こんな調子で話はできませんわね。

(吉田豪)そりゃそうです(笑)。

(前川喜平)だからまあ、あの姿しか知らない人はね、「超真面目人間だろう」と思ってらっしゃるかもしれませんけども。まあ、基本的にはゆるいですよ。

(吉田豪)そっち系の。

(前川喜平)「決まりを守らなければいけない」とあんまり思っていないところがありますね。赤信号、渡りますよ。

(吉田豪)ダハハハハッ! そうですか。そう言えるタイプ。今年でこんなに運命が変わった人もいないと思うんですよ。

(前川喜平)そう、ねえ。まあ、運命が変わった人はいろいろといるでしょうけども。私の場合はもともとね、まあ今年中には役人を辞める退職の時期にはなっていたので。

(吉田豪)ただ、結果ものすごい知名度は上がりましたよね?

(前川喜平)それはね、全く望んでいないことで(笑)。

(吉田豪)とは思いますけども。

(前川喜平)早く顔は忘れてほしいです。

(吉田豪)いろいろと不便?

(前川喜平)不便。道を歩いていても、駅を歩いていても、時折声をかけられるんですよ。年配の女性が多いんですけどね。昔からの知り合いであるかのようにやって来られて、「まあ、前川さん!」って来るわけですね。「うーん、どこかで会ったかな?」って思うんだけど、「やっぱり会ってないな……」と思いながらも、「どうもどうも」なんて言っていると、「がんばってくださいね!」なんて言われて握手を求められたりして。まあ、悪い気はしないですけどね。

(吉田豪)結構賛否両論の多い人というとあれですけども、英雄視する人と敵視する人がはっきり分かれていると思うんですよ。

(前川喜平)ああー、だからまあ、どっちも困りますね。

(吉田豪)どっちも?(笑)。

(前川喜平)うん。だから敵視する人はするでしょう。それはしょうがないですね。

(吉田豪)ああいうことを言った以上?

(前川喜平)うん。それは私の言動が非常に都合が悪いという人はいるはずだから。そういう人にとってみれば、それは敵でしょうけどね。でも、私の言動が困るという人はごくわずかなはずなんで。そのごくわずかな人につられている人がいるのかもしれないですけどね。それはちょっと、まあよくお話をすればわかってくれるのかもしれませんけどね。

(吉田豪)実害があったわけではないけど、「なんだ、これは?」と怒っている人たちという。

(前川喜平)うーん……ネット上にいろいろと、いろんな情報があふれているように見えるけど、その情報を作っている人たちってほんの少しだろうと思うんですよね。


☆「出会い系バー通い」報道 その真相は?

(吉田豪)僕も仕事であの出会い系バーに潜入取材したんですよ。

(前川喜平)ああ、そうですか?

(吉田豪)で、潜入取材をした結果、「前川さんの言い分はこれ、8割方は正しいんじゃないか?」っていう結論になりました。

(前川喜平)そうですか(笑)。

(吉田豪)かなりフラットな目線で行って。

(前川喜平)出会い系バーってそれは売春・買春の巣窟みたいな言われ方をしていたじゃないですか。

(吉田豪)完全に風俗店みたいな言われ方、していますよね。

(前川喜平)そんなことはないと思うんですよ。もちろん、そういう目的で来る男女もいると思うけど。

(吉田豪)もちろん。

(前川喜平)だけどほとんどが……まあ、僕の会った子のほとんどはお話をして、ご飯をおごってもらったり、お小遣いをもらったり。そういうことが目的の子が多かったです。女性の場合は、あそこでタダで飲んだり食べたりできるから。

(吉田豪)そうなんですよね。

(前川喜平)ある意味、一種の居住空間になっているんだよね。

(吉田豪)携帯の充電ができて、ドリンクが無料で、ご飯が食べれて。で、男の人におごってもらったり。

(前川喜平)同じ店に行ったんですか?

(吉田豪)そうなんですよ。完全に調べて行きました。

(前川喜平)あ、そうなんだ。ああー。

(吉田豪)で、いろいろと口コミで女の子に話を聞いたりとかして、納得しましたよ。「いわゆる右側の人たちの世論誘導の方がおかしい」という結論です。

(前川喜平)いやー、私はいくらなんでも読売新聞があんな記事を書くとは思わなかったですよ。本田真凜ちゃんのファンなんだけど、最近本田真凜ちゃんが読売新聞のコマーシャルをやっているんでね、悲しいんですよね……。


(吉田豪)ダハハハハッ! 複雑な感情が?(笑)。

(前川喜平)まあ、それは全然話が違うけども。

(吉田豪)全然大丈夫です(笑)。

(前川喜平)まあ、読売新聞は、あれはちょっとね、やっぱり10年後でも20年後でもいいから、やっぱり反省すべきだと思いますよ。少なくとも、権力との距離という意味では非常に問題ですよね。メディアのあり方としてね。


(前川喜平)ただ、これはメディアはメディアの中で浄化作用を考えるべきであるから。私はメディア人の人たちがこの読売の姿勢というものを批判すべきであって。


☆ 賛否「出会い系バー通い」 その真相は?

(ナレーション)読売新聞は前川・前文部科学省事務次官の出会い系バー通いの報道に関して昨年6月3日付けの朝刊で「教育行政トップである人物が違法行為が疑われるような店に出入りすることは不適切である。公共の関心事である公共目的にかなう」と説明した。

(吉田豪)そもそも風俗店ではないという前提の上で、まあ風俗店だとして行っていたらなんだ?っていう話じゃないですか(笑)。すごい特殊な報道でしたよ。

(前川喜平)読売新聞に報道が出たのが今年の5月22日だったですけども、その3日ぐらい前から読売新聞からはアプローチがあったんですけども。「まさか、書くまい」と思っていたんですよ。そうしたら、前日の5月21日に官邸にいる総理補佐官の和泉さんっていう人から間接的に「会って話がしたい」という趣旨に受け取れるような打診があったんだよね。これは僕は「お前の嫌なことを書かれたくなかったら、しゃべるな」あるいは「しゃべったことを取り消せ」という、一種の取引あるいは脅しかなと思いましたね。そういうことがなければちょっと考えられない。

(吉田豪)うん。

(前川喜平)もともと、私の非常に個人的な報道だけど、それをほじくってどうする?っていう話なんでね。私はでも、面白かったですよ。本当に個人的な関心で行っていたわけで。全く個人的な行動ですよ。だからまあ、一種の社会勉強っちゃあ社会勉強だけども、いろんな境遇の女性と話をしていて「なるほどな」って。本当に根無し草的に暮らされている子もいるし、それからもう子供を抱えているという人もいたし。男で失敗を繰り返しているような人もいたしね。まあ、経済的にはどの人も困っている人が多かったのは事実ですけども、やっぱり家庭環境を聞いてみると、両親が離婚しているという人が非常に多かったという印象がありますね。

(吉田豪)貧困調査という発言に「そんなわけないだろ」みたいな反応がすごい多かったんですけども。僕も行ったら意外と納得はできました。

(前川喜平)まあ「調査」という言葉がね、「そんなことないだろ? じゃあ、調査報告書はどこにあるんだ!」とか。まあ、それは比喩ですからね。別に調査報告書があるわけじゃない。でも、私の記憶の中にはいろいろと「なるほどな」という話は残っているんですよね。

(吉田豪)実際にだってそれぐらい立場のある人がなにか、女性を買うとかだったらいくらでももっと、立場を隠せるところがあるわけで。すごい納得はしましたよ。

(前川喜平)うーん。そこはまあ、私もコメントは差し控えますけども……(笑)。

(吉田豪)ダハハハハッ! ある雑誌で女の子をつかまえてきて証言をさせていたの、あったじゃないですか。

(前川喜平)あれはよく見つけたなと。

(吉田豪)すごいですよね。「前川さんは何もなかった。むしろいい人」っていう表現(笑)。女の子サイドから出てきたという。あれは画期的でしたよ。

(前川喜平)あれ、よく見つけてきたなと思ってね。「また行こうかな」という気もないことはないんだけど。

(吉田豪)ないことはないんですか(笑)。

(前川喜平)あるメディアの人から伺ったんですけど、あそこのマスターがね、「また来てください」って僕に伝言を……(笑)。

(吉田豪)ダハハハハッ!

(前川喜平)うーん、まあ落ち着いたら行ってもいいかなとは思っていますけども(笑)。あそこのマスターの作るロコモコ、結構美味かったんですよ。

(吉田豪)意外と宣伝効果はあって、男は増えていましたね。

(前川喜平)あ、そうですか?

(吉田豪)で、女性は全然知らなくて。「ここ、なんか話題になってんのー?」ぐらいの感じで。

(前川喜平)ああ、そう?(笑)。まあでもね、私の……文部科学省の中でも私の性格を知っている人はね、「前川さんならやりかねないな」って思っているという。ちょっと突拍子もない、普通の役人だったらやらないようなことをするということは、知っている人は知っていると思うんですよ。全く性格は違う話だけど、2年前の9月18日の安保法制が国会に通ろうという時、国会の正門前に入ってね、SEALDsの連中とともに「安保法制反対!」って。

(吉田豪)やっていたらしいですね。

(前川喜平)やったとかね。これだって普通の役人だったらしないことなんですよね。

(吉田豪)「官僚がやっていいんだっけ?」みたいなやつですよ(笑)。

(前川喜平)いやいや、いいんですよ。だって一個人として別にやって構わないことはやって構わないわけで。個人としてしたいことをしているという意味では、出会い系バーに行っているのと、国会正門前でデモをやっているのと、同じことなんですよね。なんかね、ちょっと「公務員だから」といって自粛というか自己規制しすぎていますよね。みんなね。

(吉田豪)「これはやっちゃいけないんじゃないか?」みたいに考えて。

(前川喜平)忖度。自分で自分に鎧を着せているというか、衣を着せているというか。拘束服を着せているようなね、そういう人が多いと思うんですよね。そういう組織の中で仕事をしていても、心は自由でないと本当にいい仕事はできないと思うんですけどね。


☆ 前川流映画『シン・ゴジラ』論

(吉田豪)『シン・ゴジラ』についての話も出てきていて。

(前川喜平)ああ、『シン・ゴジラ』? あれは私、見ましたけども、面白かったですけども。ちょっとね、官房副長官があれ、ヒーローになっているのね。

(吉田豪)でしたね。

(前川喜平)官房副長官があそこまでヒーローになるっていうのは、ちょっと考えにくい話で。まあ、それがフィクションなんですけども。「官房副長官のモデルになったのは僕だ」とかっていう人がいてですね、まあ萩生田さんなんですけども。萩生田さんが官房副長官でらっしゃった時に、週に1回、事務次官等連絡会議っていうのが官邸であるんですね。そこは官房副長官と各省の次官が集まって一緒にお昼ごはんを食べて。それで他愛もない話をして帰るというのがこの事務次官等連絡会議なんですけども。その場で「『シン・ゴジラ』はぜひ見るべきだ!」というお達しがありまして。

(吉田豪)フフフ(笑)。

(前川喜平)「じゃあ、ちょっと見に行こうか」って見に行ったんですけどもね。まあ、なんだろうね? 核兵器を使いかねない状況が現れるわけですよね。あのへんが非常に乱暴だなという風に思うんですよね。まあ、結局最終的にはそれを阻止して、シン・ゴジラをやっつける別の方法を見つけて、それで核兵器を使うという選択肢を使わずには済むわけですけども。なにか、とにかく大きな問題が起きた時に、解決の手段として「核兵器」って行く発想そのものが非常に危険ですよね。あの映画はそっちに行かないという結論にはなっているけども、そもそも核兵器を使うという選択肢があるんだ、みたいなことが問題。

(吉田豪)うん。

(前川喜平)これは「シン・ゴジラ」を「北朝鮮」と置き換えて考えた時に、非常に危険な話だなと。

(吉田豪)原発事故のメタファーなんだろうけど、そういう風にも捉えられるという。

(前川喜平)そうですね。やっぱり危険な映画だと思いますよ。あれはね。

(吉田豪)ほう。官邸側の人間からすると。

(前川喜平)あれはね、「やっぱりだから緊急事態条項は必要でしょう?」みたいな話に持っていかれかねない。緊急事態条項はね、いまの憲法改正の柱にも入っているわけですよ。「緊急事態条項を入れる」っていうのはね。だから緊急事態条項も「ゴジラが出現した場合に限り」とか入っていればいいんですよ。

(吉田豪)ダハハハハッ! 限定していればね、まだ。

(前川喜平)「国難だ」「脅威だ」「緊急事態だ」って誰かが言えばそうなっちゃうっていう危険性があるわけで。私はそういう方向に行きかねない危険性を持っている映画だという気はしていますけどね。

(吉田豪)うーん。「前川は左だ」とか、そういう単純な話じゃないっていうことですよね。

(前川喜平)うん。まあ、どっちかって言えば左ですけどね。

(吉田豪)フハハハハッ!

(前川喜平)だけど、世の中が右に行っちゃっているからそう見えるだけで。私はもうど真ん中にいるつもりでいるんだけど。

(吉田豪)文科省では浮いていたかもしれないけど……っていう感じですよね。

(前川喜平)まあ、浮いてもいないですよ。

(吉田豪)そうですか? 意外とそういう感じの人もいる?

(前川喜平)まあ、どうかな? でもね、事務次官になっちゃったんですよ。私ね。不思議でしょう?

(吉田豪)こういう感じで(笑)。

☆ 前川喜平が評価 元レスラー文科大臣 馳浩

(吉田豪)ものすごいどうでもいい話をしていいですか?

(前川喜平)はい。

(吉田豪)事務次官時代、馳浩さんとも交流があるわけですよね?

(前川喜平)ああ、もちろん。もちろん。

(吉田豪)どんな人でした?

(前川喜平)いい人ですよ。知ってます?

(吉田豪)もちろん。昔、取材したり。プロレスラー時代に接点があって。

(前川喜平)ああ、そうかそうか。いや、あの人はね、ある意味稀有な政治家だと思いますよ。ただのプロレス出身の国会議員じゃない。

(吉田豪)大仁田厚とかとは違って。

(前川喜平)大仁田厚さんとは全然……(笑)。これはね、一緒にしちゃかわいそう。

(吉田豪)ですよね。同じプロレスラー枠で。

(前川喜平)大仁田厚さんはちょっとね……いや、本当にひどかったよ。

(吉田豪)ダハハハハッ! やっぱり?

(前川喜平)だって、もう国会の中でもプロレス並に暴れていましたからね。物理的に。肉体的に。あれはね……ひどかった。馳さんはもともと高校の古文漢文の先生ですからね。

(吉田豪)ちゃんとできる人ですからね。

(前川喜平)話をしていると時々、『源氏物語』の一節とかが出てくるわけですから。特に殊の外、私は仲がいいですね。私は隠れて喫煙する派なんですけどね。あんまり大っぴらに「煙草を吸います」とは言えないんですけども。馳さんも煙草を吸う人なんですよね。ところが、大臣の時には自分の部屋で煙草を吸わずに、私の部屋に来て煙草を吸うんですよ。

(吉田豪)へー。そういう仲だったんですね(笑)。

(前川喜平)うん。だから、私がお客さんと話をしているじゃないですか。私の部屋、事務次官室で。するとそこに馳大臣がノコノコッと入ってくるわけです。「僕はいないと思って続けてください」とかって言って入ってきてね、勝手に座って煙草を吸っているんですよ。

(吉田豪)へー!

(前川喜平)だからいつものことだから、「ああ、あの人は放っておいてください」って言って、僕は僕のお客さんと話をしているわけ。そしたら、勝手に話に入ってくるわけね。いや、「いないもんだと思ってくれ」って言っているんだから、いないフリをしてくれないと困るんだけど、こっちの話を聞いていて、その話に入ってくるわけ。だから、困っちゃうんですよね。いつの間にか大臣が入ってきちゃってね。で、僕のお客さんは僕に会いに来ているわけだけど、まさか大臣が入ってくるとは思っちゃいないから、びっくりしちゃうわけなんですけどね。

(吉田豪)まあでも、「ラッキー」ぐらいの感じですよね。向こうは。

(前川喜平)で、最後にじゃあ、一緒に写真を撮ったりして帰ったりしてね(笑)。

(吉田豪)ダハハハハッ! へー!

(前川喜平)まあ、そんな感じで馳さんとは本当にフランクにお付き合いをさせていただいて。馳さんっていう人は陽の当たらないところでいろいろと苦労している人たちに光を当てる。そういう仕事をずいぶんしてこられたんですね。去年の12月にできたフリースクールと夜間中学を支援していくという法律があるんですけども。教育機会確保法って言いますけどね。この法律を一生懸命に作る中心になっていたのも馳さんなんですよね。だから気は優しくて力持ちっていうのは馳さんみたいな人のことかなと。……ちょっと褒めすぎているかな?(笑)。

(吉田豪)「自民党の敵」ぐらいの立場になっている前川さんがこれだけ褒めるっていうのはね、説得力がありますよ。

(前川喜平)いや、自民党の中には立派な人もたくさんいますよ。ずっと私も自民党の大臣にお仕えしてきたので。「うーん、ちょっと困るな……」っていう人もいますけどね。真っ当な人もたくさんいるんですよ。まあでも、変な人がいちばん多いのは自民党だと思うけども。

(吉田豪)まあ、人数も多いですからね。

(前川喜平)……ちょっと言いすぎたかな?

(吉田豪)ダハハハハッ! トーク、面白いじゃないですか。前川さん、トーク面白いですよ。

(前川喜平)いや、ちょっといま言いすぎましたね。まあ、自由人だからいいけども。


☆ 退官後は「夜間中学」で高齢者を対象に教師

(ナレーション)そんな自由人の前川さん。馳議員が力を入れたあることにいま取り組んでいると言います。勉強をする高齢者のみなさん。いったいここで何をしているのか? いま、前川さんは自主夜間学校と呼ばれる学校で勉強を教えているんです。なぜこんなことをしているのか?

<自主夜間学校VTRスタート>

(前川喜平)それはやっぱりね、夜間中学というものを文部科学省がほったらかしにしてきたっていう責任を感じているんです。本来、非常に大事なものなのに文部科学省としてきちんと教育行政の対象として捉えてこなかった。

(ナレーション)ここの生徒の多くは学びたくてもいままで勉強をすることができなかった生徒たち。読み書きもできない人も多く、最近では引きこもりだった方も増えているという。前川さんは去年の3月から福島と厚木でそんな人たちに勉強を教えています。

(前川喜平)「教育」って言っても、ここは学習の場なんですよね。1人1人の生徒さんが自分で勉強したいことを勉強するっていう場だから。そこがいちばんいいですよね。

(インタビュアー)公務員時代と比べて?

(前川喜平)それはこっちの方がずっと楽しいですよ(笑)。

(ナレーション)そんな前川さんを、生徒たちは……。

(生徒1)ああいうところにいる人は、もう話がわからない、学校ばかり出た頭でっかちな人だなと思っていたんですけど、全くそうじゃなかったので。本当にびっくりしました。

(生徒2)気取らないというか、気さくでいいと思います。

<自主夜間学校VTRおわり>

(吉田豪)学校の生徒は前川さんのことをどういう風に把握しているんですかね?

(前川喜平)福島の方では、新聞を使って勉強したりもしているんですよね。新聞を日遂げて、一面の記事の中からどれか「これを読みたい」というのを選んでもらって。そうして読んでいると、私の名前が出てきたりするわけですよ(笑)。で、「ああ、これは僕なんですけどね」なんて言いながら話をしたりしていましたけどね。前文部科学事務次官だということを知っている人は、いまや多いですよ。

(吉田豪)お話を聞くと、あんまりお金にはならなそうな……。

(前川喜平)お金にはならないです(笑)。これはボランティアスタッフでやっているんで。

(吉田豪)稼いでいるのかと思ったら、そうでもなさそうじゃないですか。

(前川喜平)まあ、そうですね。稼いではいませんね。交通費はもらうけども、講演料っていうのは、別にこっちからは「くれ」とは言ってないですけども。くれる場合はせいぜい3万円ぐらいですかね? まあ1万円だったりっていうこともあるし、5千円っていうこともあったかな? まあ、ゼロっていうこともありますよ。だからとにかく、くれるものはもらうけども、こっちからは「くれ」とは言わないから。だいたい私を呼んでくれるような組織、団体っていうのは非常に零細なね、不登校の子供たちの親の会とか、それこそ自主夜間中学をやっていますという人たちとか。非常に草の根で地道に、地味に活動しているという人たちが多いんでね。そんな、1回に10万円、20万円なんていう講演料が払えるような人はいないんですよ。

(吉田豪)ねえ。元官僚の講演っつったら、そのぐらいの単価が当たり前ぐらいかと思っていたら、全然。

(前川喜平)いや、くれるところからはもらいますよ。

(吉田豪)ダハハハハッ! そうですか?

(前川喜平)だからたまにね、「あれっ? こんなもらっちゃっていいのかな?」っていうのもあるんですよ。どこからいくらもらったとは言いませんけども。そりゃあ、くれるものはもらいますよ。私、いま基本的に無職ですから。

(吉田豪)なるほど、なるほど(笑)。


☆ 加計学園問題と安倍総理

(吉田豪)こんな感じで前川さんを呼んで、一切「加計学園」っていう名前も出ないという、結構画期的なインタビューだと思うんですよ(笑)。

(前川喜平)ああ、そういえば出てこないですね。まあ、加計の話はね、私自身が提供できる情報はもう全て提供しちゃったんで。私もいまは一国民として、後から出てくる情報を見ながら、「ああ、そうだったのか。そうだったのか。なるほど」と。たとえば、この前の特別国会でも自由党の森ゆうこさんとかね、あるいは共産党の田村智子さんとかね、女性の国会議員が政府を追求するので活躍していますよね。あの方々の、いろいろと新しく突いていくポイントを聞いていると、「なるほど、そうなのか」って。私の見えないところがだんだん見えてきて。

(吉田豪)ちなみに安倍総理に思うことっていうのはあります?

(前川喜平)安倍総理……まあ、この加計学園問題に関しては逃げるしかないから、お気の毒だとは思いますけどね。ひたすら逃げ続ける以外に道はないと思うんですよね。だけど、通常国会が始まって2月、3月には連日予算委員会が開かれますからね。そうすると、森ゆうこさんとか田村智子さんみたいな人がガンガン行きますよ、きっと。森ゆうこさんの質問、聞いたことあります?

(吉田豪)軽く。はい。

(前川喜平)あれはね、はっきり言って面白い。実は森ゆうこさんっていう方は民主党政権時代に民主党におられたのでね、文部科学副大臣だったんですよ。私も森ゆうこ副大臣にお仕えする立場でいろいろと接触があったんですけどね。まあある意味、すごい猛烈な人なんですよね。だから役所としてはやや手こずるところはあったんだけど。だけど、前進する時はすごい破壊力っていうか前進力があってね。もう極めて頼もしい人なの。味方にしたらすごく頼もしい。敵にしたらものすごく怖い。Abema TVをご覧の方もいっぺん、森ゆうこさんの質問はおすすめしますよ。

(吉田豪)そういう視点で見ると楽しいと。

(前川喜平)楽しい。

政権との向き合い 変化したのはいつ?
(前川喜平)文部省に入ったのが1979年。昭和54年ですけども、文部省に入る時から自分の個人の考えと組織の論理っていうのは噛み合わない部分があるだろうっていうのは予期していましたしね。だからはじめからズレはあったんです。

(吉田豪)でも入ったら、とりあえずその組織の考えでやっていこうという覚悟は?

(前川喜平)それはもう、そうせざるを得ないだろうと思うけども、自分が組織の中に入って、組織の中でできることはできるんじゃないか。できないことはできないだろうけども。

(吉田豪)少しずつ変えることはできるんじゃないか?って。

(前川喜平)ある程度はね。だからそれは、自分でできることはしてきたつもりではありますけども。あとはまあ、そういう集団主義的、国家主義的、ファシズム的な力っていうのは常にあるんですよね。それに対して、個人の自由を守る側に押し返すような、そういうせめぎあいっていうのは常にありましたよね。文部科学省の中では。道徳教育なんかもそうですよ。来年から検定教科書を使って道徳教育が始まりますけどね、今回検定で通った教科書の中には相当ひどいものがあって。

(吉田豪)うん、うん。

(前川喜平)文部科学省がなんて言っているのか?っていうと、「特定の道徳的価値を教え込むような授業をしてはいけません」って言っている。「子供たちが自分たちで考え、議論をする道徳が必要です」と。「自ら主体的、対話的に深く学ぶアクティブ・ラーニングが大事なんです」と。道徳においてもね。

(吉田豪)はい。

(前川喜平)無条件に価値あるものとして覚えるということではないんだと。そう考えればね、「国を愛する心」とかって言われてもね、「本当に国を愛する心って必要か?」っていうところから議論すればいいんで。国って人間、個人が存在する前にあるものなの? そうじゃなくて、1人1人の人間が集まって作っていくのが国なんじゃないの? とかね。「国ってそもそも何?」っていう議論とか、「国を愛するって何なの? 愛せない国だってあるでしょう?」とかね、「生まれたから愛せるってわけでもないだろう?」とか。だから、政治家たちが言っている、「こういう道徳を教え込むんだ」とかっていうのと文部科学省は実は現場に伝わるレベルで言っている話っていうのはかなり食い違ってますよ。

(吉田豪)ああー。

(前川喜平)これは一種の面従腹背なんですよ。


☆ 前川氏が懸念する文科省とニッポンの教育

(前川喜平)突然ですが、質問です。次のうち、正しい挨拶の仕方は何でしょう? 1、お辞儀をしながら「おはようございます」と言う。2、「おはようございます」と言ってからお辞儀をする。3、お辞儀をしてから「おはようございます」と言う。「おはようございます」と言う時のいちばん正しい挨拶の仕方はどれか?っていう。どれだと思います?

(吉田豪)1番のつもりでやっていましたけどね。

(前川喜平)1番。「おはようございます」と言いながら頭を下げる。……ブーッ!

(吉田豪)フハハハハッ!

(前川喜平)正解は、「おはようございます」と言ってから、お辞儀をする。だからこうやって、面と向かってまずは頭を下げて「おはようございます」と言って、その後にお辞儀をする。これが正しいんだって言うんですよ。これが小学道徳1年生の教科書に書いてあるわけ。「正しい挨拶」って。これはね、私から言わせれば悪しき正解主義の中でも最悪の部類だと思いますね。いま、「アクティブ・ラーニング」って言っているのは、正解のない問題をみんなで考えていくということ。自分で一生懸命考えて。正解は予め用意されていない。自分でその正解にたどり着く努力をする。それで正解がどうか?っていうのは最後までわからない。いろいろと検証しながら、自分でたしかめて行くしかない。世の中ってそういうものだし、世の中で生きていくということはそういうことなんだけど。

(吉田豪)前川さんが事務次官だったら、止められたんですか?

(前川喜平)いや、これはもう止められないです。政治の力だから。組織の論理に一応は従いつつ、あわよくば違う方向に行こうという方向性を持ちつつね、粘り強く生きるっていう術を身に着けたわけ(笑)。


☆ 政権と対立……身の危険は?

(前川喜平)今年の5月に記者会見をした時には、あれはまだ読売の記事が出てから3日後ぐらいの話だったんで。「駅のホームの端っこは歩くな」とか、そういう忠告をしてくれる人もいて。

(吉田豪)痴漢冤罪で引っ張られる可能性とか。

(前川喜平)痴漢冤罪とかね。読売新聞の記事が出た時に「これはちょっと法的に自分の身を守る必要があるな」と思って、代理人弁護士を依頼したんですよ。その弁護士さんが記者会見の時に随行してくれたんだけど、彼はやっぱり「用心のため、これ着てください」って買ってきたシャツがあるの。それは防刃シャツっていうんですよ。防刃シャツっていうのもがあるんですね。それを着たんですよ。5月25日の記者会見の時にね。

(吉田豪)へー。

(前川喜平)あれは弁護士会館というところで記者会見をやったんですけど、空調のスイッチを入れてなかったのね。だから、ものすごく蒸し暑かったんですよ。部屋の中が。

(吉田豪)防刃シャツは通気性悪そうですね。

(前川喜平)そう。防刃シャツを着ているから、なおさら暑くてね。それでもう汗がタラタラ出てきてね。それで出会い系バーについて聞かれたっていう。

(吉田豪)ダハハハハッ!

(前川喜平)だから、もともと汗を流していたんですけどね。

(吉田豪)なるほど、なるほど。まあ、籠池夫妻とかを見ていても、ねえ。本当にあのへんに逆らうと大変なんだなとは思いますね。

(前川喜平)いや、たしかにキャラが立っているというかね。見ていてまあ、単純に言って面白かったですね。

(吉田豪)そして心が折れない感じの。

(前川喜平)ただやっぱりね、私は教育勅語を幼稚園児に暗唱させるっていうのは、これは全くいただけないですね。

(吉田豪)はいはい。いちばん反発しているところですね。

(前川喜平)あれはちょっと考えられない。だから、彼らを教育者とは到底認められないですけどね。構造としては加計学園と森友学園はよく似た構造で。規制改革という名のもとで特権的に、特定の学校法人にだけ便宜を図って。それでハードルを下げて設置認可を認める。これはよく似ていますよね。そういう特定のお友達に便宜を図るということがこの政権内で相当行われているということの一端だと私は思いますけどね。他にもあるだろうと思います。


☆ 伝えたいこと

(前川喜平)行きがかり上、このAbema TVに出させていただくことになったんですけども。この番組をもしご覧になった方がいらっしゃったら、見終わった後は私の顔を忘れていただきたい。

(吉田豪)フフフ(笑)。

(前川喜平)私としてはあまりもう、派手にメディアに出るつもりはないんですね。あとは、安倍政権のおかしいところはちゃんとおかしいと言う、他のメディアや言論人、あるいは政治家の方々に追求していっていただければと思っているのでね。「私の顔は忘れてください」と。ぜひ、伝えたいことはそれですね(笑)。

(吉田豪)忘れられないですよ(笑)。さらに刷り込まれましたよ(笑)。

(前川喜平)いやいや。まあ、道で見かけても声をかけないでください。勝手に行きたいところに行かせてください。

(吉田豪)まあ、自由ですからね(笑)。でも本当、今日話して、人としては信用できる人だなと思いましたよ。

(前川喜平)ありがとうございます(笑)。

(吉田豪)まあ、見ていた人はどう思うかわからないですけども。でも、だいぶ人間性は伝わったと思います。

(前川喜平)どうも、恐れ入ります。

<書き起こしおわり>

 

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コメント
 
1. 中川隆[-5851] koaQ7Jey 2018年1月15日 01:07:30 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]
エロい感じの前川さん、面白い!

日本の教育を滅茶苦茶にした前川喜平がやっていた事教えてあげる

文科省の前事務次官、前川喜平氏(62才)が「実地調査」で通い詰めた店である。7月初旬のある夜、本誌もまたここで働く女性の生態を“調査”すべく、店に入った。南国のモンステラの葉が壁一面を覆う店内には、カウンター席の他、ガラスで仕切られた向かい合わせの席がある。

1時間1ドリンク付きで3500円、2時間4800円。女性は無料。ドリンク飲み放題、スナック菓子食べ放題。席に座ると、男性の手元にはピンク色のメッセージカードが置かれる。ニックネーム、職業、血液型書き、「食事」「カラオケ」「飲み」「女の子におまかせ」の4項目から1つを選択。全て記入したら店員経由で気になる女性に送る。先方がOKの場合、相席して“次の予定”を交渉する。

この夜、店内には9人の女性がいた。ミニスカワンピの20代前半から、スーツを着たアラフォーまで、さまざま。グラスを片手にスマホをいじり、男性からの指名を待つ。一晩遊ぶ男を求め、あるいは交際相手を求め、店に集った素人女性である。

「ま、多くが“ワリキリ”目的だけどね。要は、エンコー。お金のために割り切って寝ますってこと。前川さん、よく来てました。あたしも指名されたことあるんで。貧困調査なのかなぁ。教育問題とか難しい話をしてたけど。『このあと外出る?』みたいな交渉もあった。アタシは断ったけど、ついてく娘もいた」

出会い系カフェは、いわばグレーゾーンの商売であり、自由恋愛が前提になっている。出会って気に入れば自由恋愛に発展するし、気に入らなければ断ることができる。「文科省の前事務次官、前川喜平氏(62才)が「実地調査」で通い詰めた店」もそのようなお店であり、話では断られることが多かったようだ。

60代のおっさんでは、よほどのことがない限りワリキリに応じてくれる子はいないだろう。あったとすれば自由恋愛ではなく個人売春に近いだろう。このような人物が文部科学省の事務次官をしていたのだ。そして何人かの子と個人売春までしていたのだろう。状況的にそうなる。
http://2013tora.jp/kabu395.html


2017年07月02日
事務次官とは何か、前川前次官で注目エリート集団


この人が騒いでいる本当の理由は、「自分の方が総理大臣より身分が上だ」という事です。
引用:http://blogc.fujitv.co.jp/simg/blogimg/6db29/90119/537660_pcl.jpg


総理より地位が高い事務次官

加計学園をめぐる「忖度」騒動は前川喜平・前文部科学事務次官の告発から騒動が広まった。

なぜ前川氏はこのように安倍首相を憎み、敵愾心を露にして噛み付くのか、事務次官という身分階級を知らないとわかり難い。

各省庁の事務次官は「次官」なので文字を読んだだけでは「2番目の事務員」かなと思うが、実際には省庁の大統領のような地位にある。

         

事務次官は表向きの法律では大臣を補佐する役割だが、実際には大臣を上回る最高権威です。

大臣と事務次官の関係については、2001年に小泉内閣で外務大臣を(9ヶ月だけ)勤めた田中眞紀子議員が良く喋っていた。(喋りすぎた)

その前に田中眞紀子が外務大臣に選ばれた理由を説明すると、2001年4月の自民党総裁選で小泉純一郎を当選させた功労者だった。


超不人気だった森首相が退陣し、次の首相は橋本龍太郎で決まりと言われていて、国民は「またあのバカ総理か」と失望していた。

小泉純一郎は出馬しても負けそうなので立候補するつもりはなかったが、当時人気絶頂だった田中眞紀子が「あんた出なさいよ」とけしかけたと言われている。

人気者の眞紀子に後押しされて小泉旋風が吹き、めでたく総理大臣になり田中眞紀子は論功行賞で外務大臣になった。


欧米メディアは「次の総理は田中眞紀子」「初の女性総理誕生へ」と報道し、小泉自身より人気が高かったほどだった。

その大功労者が些細なことで外務官僚と対立して、クビになったのは田中眞紀子大臣の方だった。

日本政府の方針と異なる発言を、外相として勝手に発言したり、外相会談のドタキャンなど様々な出来事があった。


官僚を激怒させた安倍首相の行為

だが一番の対立点は「外務大臣と事務次官のどちらに人事権があるか」という事で、眞紀子大臣は自分に逆らう事務次官の更迭を小泉首相に要求した。

結果は書いたとおり、クビになったのは大臣のほうだったので、大臣の人事権は事務次官が握っているが、逆はありえない。

法律はどうであれ大臣より事務次官のほうが地位が上なのが日本の制度であり、主要な省の事務次官となると総理大臣より地位が上である。


ロッキード事件で田中角栄元首相が逮捕されたが、事務次官は決して逮捕されず、責任を取らされたりもしない。

思い出して欲しいがあらゆる政治スキャンダルで責任を取るのは大臣と総理だけで、事務次官や官僚はマスコミから責任の追求すらされない。

もし事務次官が責任を取らされるような事が起きれば、明治以来の大事件であり、絶対に有り得ない筈だった。


朝日新聞は平気で天皇や総理大臣の悪口を書くが、それでいて事務次官の悪口を絶対に書かず、官僚は神聖にして汚すべからずを貫いている。

朝日新聞も日本の最高権力者が怖いのであり、許認可権から逮捕権、裁判権まで握っている官僚たちには逆らいません。(最高裁判官も官僚)

その有り得ないはずの事が森友、加計騒動の根源である文部科学省で起きていて、事務次官がクビになっていました。


「キXXX」の言い分

前川喜平前事務次官は退職した文部官僚が民間機関に天下りする仲介役をしていて、2017年1月20日に辞職した。

2017年3月に懲戒免職になる予定だったが、文部省側は猛反発しして自主退職になったうえ、退職金5000万円以上が支払われた。

軽い処分で済んで助かったように見えるが、官僚目線では「どうして上司である事務次官が部下である総理大臣から追放されるのか」という事になる。


ニュースを見ていると異常な事件で犯人が意味不明な事をしゃべる場合があるが、「キXXX」の言い分は彼らにしか分からない。

前川喜平と官僚たちには「総理大臣風情がでかい面しやがって」「今に見ておれ小僧」という恨みだけが残ったようです。

そして文部科学省は自分のスキャンダルである森友、加計を暴露する事で安倍首相を糾弾するという捨て身の戦法に出た。


過去の政治スキャンダルで責任を問われたのは政治家だけで、官僚が罪に問われた事は無いので、こうした戦法は実は良く行われている。

大阪地検や東京地検は森友加計を捜査しているが、検察官僚の身内である文部官僚は決して捜査対象にならない。

うまく行けば前川喜平前事務次官は高給で天下りできるだろうし、それどころか政治家として権力を握る事もできる。


突き詰めると官僚と総理のどちらが上か、どちらが日本の権力者かという対立です。
http://www.thutmosev.com/archives/71597964.html


天下り官僚に翻弄される私大の悲惨

私大を渡り歩いて5億円を荒稼ぎ!
天下り官僚に食い物にされる私大

官僚時代は数百億円の予算を動かしていただけに金銭感覚がズレすぎているという。私大には文科省、経済産業省、財務省など多くの官僚が天下りし、教授の座に収まっている。

「“渡り鳥稼業”の天下り役人は会議の欠席はザラなうえ、仕事の知識もない。仕事は部下に任せてゴロゴロしているだけ。それでも年俸は最低2500万円。さらに5年勤めて退職金が3000万円。これで3〜5つの大学を渡り歩いて計5億円は稼ぎます」

 もっとも何もしないのならマシな部類で、元官僚と悪徳教授が手を組み、大学を食い物にするケースも多々あるそうだ。濱野氏がいた都内の女子大では40億円が消えたこともあったという。

「彼らが株式や投資信託を駆使してマネーロンダリングをやったようですが、証拠が出なかった。また、翌年に取り壊しが決定していた校舎の大規模修繕に3億をつぎ込み、さらに塗装で1億2000万円と、計4億2000万円を無駄遣いしたことも。すぐに跡地に新しいビルを建てるところまで計画済みで、旧ビルでどんなインチキがあったのかはウヤムヤになってしまった。巧妙に証拠が残らない工作だけは一流のため、追跡調査もできなかった。もちろん大学の事務職などは真相を知っていましたが、黙殺したまま。ヘタに口にしようものなら簡単に左遷されてしまいますからね」

 別の学校ではこんなケースも。

「もっとひどいのは、研究業績が大学院生ほどもないクズ教授を学長に仕立て、自分は定年のない常務理事のポストに就いた天下り官僚がいました。さらに、部課長などの大学の要職を、仲間や部下で固め、付属の建物の増改築で稼ぐなど好き放題だった。さらに、法人側の私立学校法違反事項を目ざとく見つけると、理事長選で教授会をけしかけ、当主を追い出し自分が理事長の座に座り、そのまま学園を乗っ取ったヤツもいた。都内有数の伝統校でしたが、その後は、学問はそっちのけとなり、今では生徒の確保にも困るほど疲弊してしまいました」

 悪質な実例はまだまだあるという。

「今時、わざとド田舎にキャンパスを購入し、引っ越さなくてもいい学部の建物まで建てて都内一等地のキャンパスを売却し、その取り壊しとキャンパス移転で数十億を着服する天下りもいました。ゼネコンのリベートで稼いだんです。その大学は生徒集めに窮し、今は中国やベトナムからの留学生で細々と命脈を保っていますが、近々、倒産の噂も聞こえてきます。もちろん、天下り役人はその前にいなくなるでしょうね」

 悪徳教授や官僚を受け入れる私学の側にも落ち度があるとの指摘もあるが、濱野氏はそれは違うという。

「教授会が天下り官僚は採りたくないと考えていても、彼らは巧妙に法人側の上席ポストを占めてしまう。そうなれば、自動的にかつての役所の部下を雇いこむルートができてしまうんです。大学が悪いのではなく、行列を作って乗っ取りに来る方が悪いんです」

 今年3月、松野博一・文部科学大臣は、省庁退職者が許認可や補助金の支出対象である大学や財団に再就職することを当面自粛すると明らかにしたが、果たして実効力がどれだけあるのか。はなはだ疑問と言わざるを得ない。
http://diamond.jp/articles/-/137283


内田樹の研究室 2017.11.03 大学教育は生き延びられるのか?

ご紹介いただきました、内田でございます。本日は、国立大学の教養教育の担当の人たちがお集まりになっていると伺いました。ずいぶんご苦労されてると思います。日々本当に胃が痛むような、苛立つような思いをしていらっしゃると思います。今回のご依頼をいただいたとき、かなり絶望的な話をしようと思ったんですけども、先ほどみんなを励ますようなことをお話しくださいと頼まれましたので、なんとか終わりの頃には少し希望が持てるような話にできればと思っています。

「大学教育は生き延びられるのか?」という問いの答えは「ノー」です。それは皆さん実感してると思います。大学教育は生き延びられるのか。生き延びられないです。今のまま状況では。

でも、仕方がないと言えば仕方がないのです。急激な人口減少局面にあり、経済成長の望みはまったくない。かつては学術的発信力でも、教育水準でも、日本の大学は東アジアの頂点にいましたけれ。でも今はもう中国やシンガポール、韓国にも台湾にも抜かれようとしている。急激に大学のレベルが下がっているのです。そして、急激に大学のレベルが国際的に低下していることについて、当の大学人たちにも教育行政の当局にもその自覚がない。これが危機の本質だと思います。

私は今もいくつかの大学で客員教授や理事をして、大学の現場とのかかわりを維持していますけれど、フルタイムの大学教員ではありません。ですから、好きなことを言わせてもらいいます。

正直に言って、日本の大学は、このままではもう先はないです。教育制度は惰性が強いですから、簡単には潰れはしません。民間企業のようにいきなり倒産するということはない。でも、じりじりと駄目になってゆく。長期停滞傾向が続いて、20年、30年経ったあたりで、もう本当に使い物にならなる。それでもまだ組織としてはもつでしょう。医療とか教育というのは「それがなくては共同体が存続しえない」本質的な制度ですから、最終的には現場にいる人たちが身体を張って守ります。ですから、どんなにシステムがおかしくなっても、公的な支援が途絶えても、それでもなんとか持続はします。でも、それはほんとうに現場の人が命を削ってもたせているからもっているのであって、公的制度としてはもう破綻している。ブラック企業と同じでです。フロントラインに立ってる生身の人間が必死になって現場を回しているわけで、その人たちがばたばた過労死しているおかげでかろうじてシステムの体をなしている。大学もそういう状況にいずれなりますし、局所的にはもうそうなっている。

医療の世界でかつて「立ち去り型サボタージュ」という言葉が使われました。小松秀樹さんの書かれた『医療崩壊』という本がその事実を明らかにしました。小松先生とは一度お会いしたことがありますけれど、その時に教えられたのは、「医療崩壊」というけれど、医療もやはり惰性の強いシステムなので、簡単には崩壊しないということでした。それは現場に立って医療の最前線を守っているドクターやナースは自分の健康や家庭生活を犠牲にしても医療を守ろうとするからです。そういう「業」を抱えた人が医療の現場に立っている。だから、制度的に破綻していても、簡単には崩壊しないんだ、と。でも、生身の人間ですから、彼らのオーバーアチーブメントに頼って支援の手当をせずに放置しておけば、いずれ一人倒れ二人倒れ、前線の維持が難しくなる。そういうお話でした。

10年ぐらい前に医療で起きたのと同じことが今、大学で起こっているような気がします。教育現場で働いてる人間を支援するという体制が国にも自治体にもメディアにも市民社会にもない。逆に、公的な制度やメディアが現場の教職員たちを追いつめている。精神的にも身体的にも「まだ働き方が足りない」と負荷をかけている。
それでもなんとか現場がもっているのは、教育に関わる人間もまた医療人と同じようにある種の「業」を抱えているからです。教員という職業を選ぶ人には一定の傾向性があります。医療を職業に選ぶ人たちと同じように、教員は学校という場が好きなんです。教室で若い人たちの前に立って何かを教えることが好きで、研究が好きで、アカデミアで異なる領域の知性と出会うことが好きで、という人が学校教育の場には引き寄せられてくる。だから、常軌を逸した負荷がかかっていても、なんとか踏みとどまろうとする。家庭生活や健康を犠牲にしても、自分の職域を守り抜こうとする。今の日本の大学がこれほど否定的環境にありながら、なんとか保っているのは、教育人たちのこの「業の深さ」のおかげです。

でも、生身の人間が蔵している生命資源は本来であれば他のことに使わなければいけないものです。一家団欒とか、文化活動とか。運動したり、遊んだり、自分の好きな研究をしたり、そういう本当にしたいことを断念して、その資源を学校の管理業務とか文科省の命じてくる意味のない作業に割かなければならない。

僕は選択定年制で大学を5年早く辞めたのですが、最大の理由は会議と書類書きが受忍限度を超えたからです。研究することも教育することも大好きなんですけれど、会議と書類書きが大嫌いでした。50代の途中からは6年間管理職でした。授業のない日に会議のためだけに登校するということが何度もありました。だから、あと5年いても、退職まで管理職が続くことがほぼ確実だったので、申し訳ないけれど60歳で退職しました。そういう意味では僕も「立ち去り型サボタージュ」の一人なんですよね。でも、これ以上いると、自分自身が干上がってしまうと思った。60歳になって、残りの人生のカウントダウンが始まったのに、まだやり残した仕事がたくさんある。研究の領域でもありましたし、武道家としてもやらなければならないことがたくさんありました。大学を守るためには現場に残って、僕も仲間たちと激務を分担しなければいけないということは理屈ではわかっていたのですが、会議と書類書きで自分の時間をこれ以上費やすことに耐えられなかったのです。その点では忸怩たる思いがあります。そうやって現場を棄てた人間の慚愧の思いを込めて、今日本の大学教育が一体どういうところにあるか、お話をしたいと思います。

まず具体的な実態から、お話します。2002年から日本の学術研究は質、量ともに国際競争力が低下しています。2015年の「人口あたり論文数」は世界37位。中国、台湾、韓国のはるか後塵を拝しています。現在の日本の学術的発信力はOECD諸国の中では最下位レベルです。

論文数の減少が著しいのが、かつて国際競争力が高かった分野だというのも気になります。工学系は2004年以降論文数が減少し、競争力は低下している。生命科学系、農学系、理学系も低下傾向です。社会科学系では論文数はそれほど減っていませんが、もともと国際競争力のない分野です。総体として、日本の大学の国際競争力は過去15年間下がり続けています。

でも、この「人口当たり論文数」が先進国最低という事実をメディアは報道したがりません。代わりによく報道するのが「教育に対する公的支出の比率」です。公的支出の中に占める教育費の割合は先進国最低。それも5年連続です。この事実についての反省の弁を政府部内から聞いた記憶が僕にはありません。この国の政府は教育研究の支援には関心がないということです。ですから、今のシステムが続く限り、教育に対する公的支出比率先進国最下位という定位置に日本はとどまり続けることになります。

なぜ、日本の大学の学術的発信力がこれほど急激に衰えたのか。僕は35年間大学の教壇に立ってきましたので、この経年変化を砂かぶりで観察してきました。はっきりした変化が始まったのは1991年の大学設置基準の大綱化からです。

誤解して欲しくないのですが、設置基準の大綱化そのものが研究教育能力の劣化をもたらしたわけではありません。大綱化を導入せざるを得なくなった歴史的な教育環境の変化があり、それが日本の大学の学術的な生産力を損なったのです。でも、これについて教育行政当局は何も分析していない。先進国の中で日本の大学教育のアウトカムが最低レベルにまで下がったという事実については「全部大学の責任」であり、教育行政には何の瑕疵もないという態度を貫いている。悪いのは文科省ではなくて大学であるわけですから、失敗の原因を探求するのも、対応策を講じるのも全部大学の自己責任であるという話になっている。ですから、文科省の仕事はそういう「できの悪い大学に罰を与える」ことに限定されている。そうやって毎年助成金を削り、学長に権限を集中させて教授会自治を否定し、大学の自由裁量権を奪い、自己評価自己点検作業を強要し、次から次への大学への課題を課して、研究教育のための時間を奪っておいて、その上で「どうして研究教育がうまくゆかないのか」について会議を開き、山のような報告書を書くことを義務づけている。

文科省は大学に自己評価を求めていますが、僕はまず文科省自身が自己評価する必要があると思います。過去25年間の教育行政を点検して、現状はどうか、なぜこんなことになったのか、どうすれば改善できるのか。大学に要求するより先に、文科省自身がPDCAサイクル回してみればいい。どんな点数がつくかみものです。

先ほど申し上げましたが、転換点は91年の大学設置基準の大綱化でした。それまでの日本の大学はよく言われる通り「護送船団方式」でした。いわゆる「親方日の丸」です。箸の上げ下ろしまでうるさく文部省が指図する代わりに、面倒は全部見る。そういう家父長制的な制度だった。

でも、大綱化によって、細かいことに関しては、大学の自由に任せようということになった。家父長的な制度がなくなって、大学が自由にカリキュラムを作ることができるようになったことそれ自体はたいへんよいことだったと僕は思います。当時も僕はこの方向性を歓迎しておりました。「自己決定・自己責任」でいいじゃないかと僕も思いました。でも、文科省が大学に自由を与え、権限委譲することに裏がないはずがない。実際にそれが意味したのは大学の淘汰を市場に委ねるということでした。

91年段階で、今後18歳人口が急激に減ってゆくことが予測されていました。60年代には250万人いた18歳人口は以後漸減して76年に156万まで減りましたが、その後V字回復して1992年に205万人に戻しました。そして、そこから減り続けた。2017年では120万人。25年間で40%減少したことになります。

大綱化は18歳人口がピークアウトして、以後急減局面に入り、増え過ぎた大学定員を満たすことが困難な局面に入るということがはっきりわかった時点で導入されました。これから大学の数を減らさなければいけないということは文科省(当時は文部省)にもわかっていました。もう護送船団方式は維持できない。文部省と大学はそれまで親鳥とひな鳥のような関係でした。親鳥はひな鳥を扶養する代わりにあらゆることについて口出しした。でも、親鳥が増え過ぎたひな鳥を扶養できない時代がもうすぐ来ることがわかった。護送船団のロジックからしたら、ひな鳥が死んだらそれは親鳥の責任になる。こんな弱い鳥を産んだお前が悪いということになる。でも、これから後、ひな鳥はばたばた死ぬ。だから、親鳥の仕事を放棄して、「これからは自己裁量で生き抜きなさい」と言い出した。なぜ、淘汰圧に耐えられないような高等教育機関をなぜ認可したのか。なぜそこに税金を投入したのか。そういう問いに対して文部省には備えがなかったからです。

でも、それはある意味では当然のことでした。明治の近代学制の導入以来、日本の教育行政の最大の使命は教育機会の増大だったからです。国民にいか多くの、良質な就学機会を提供するか、それが近代日本の教育行政の本務だった。だから、学校を増やすことを正当化するロジックでしたら教育官僚は無限に作り出すことができた。そして、実際にそのロジックを駆使して、国民の就学機会を増やし続けたのです。それは敗戦後も変わりませんでした。敗戦国日本は軍事力や外交力ではなく、むしろ経済力や教育力や学術的発信力によって国際社会に認知される道を進むべきだということについては国民的な合意が形成されていました。

だから、ある意味で文部省の仕事は簡単だったのです。でも、80年代になって難問に遭遇しました。18歳人口が減ることがわかってきたからです。しばらくは大学進学率の上昇が期待できるので、大学定員は満たせるだろうけれど、それもどこかで天井を打つ。そのあとは大学を減らさなければならない。でも、文科省にはどうやって教育機会を増やすかについての理屈はあるけれど、どうやって教育機会を減らすかのロジックがなかった。護送船団方式でそれまでやってきたわけですから、自分が認可し、自分が指図して育てて来た大学に対して「お前は失敗作だったから廃校しろ」というわけにはゆかない。製造者責任を問われるのは文部省自身だからです。

そこで大学の淘汰は市場に委ねるというアイディアに飛びついたのです。強者が生き残り、弱者は淘汰されるというのは市場では自明のことです。自分の生んで育てたひな鳥を殺す仕事を親鳥は放棄して、市場に丸投げしたのです。これが91年の大学設置基準大綱化の歴史的な意味です。これは明治維新以降の教育行政の決定的な転換点でした。でも、その時点では僕も僕のまわりの大学人も、この変化の歴史的意味に気づいていなかった。18歳人口が減ってゆく以上、大学が生き残りをかけてそれぞれに創意工夫を凝らすことは「当たり前」のことであり、その淘汰プロセスで大学教育研究の質は向上するに違いないと、僕も信じておりました。

けれども、この期待はまったく外れてしまった。市場に委ねるということは、それぞれの大学に好き勝手なことをしてくれということではなかったのです。というのは、求められたのは、どの大学が「要らない大学」であるか可視化することだったからです。そのためにはシンプルでわかりやすい指標に基づいて大学を格付けしなければならない。市場はそれを要求してきたのです。

この場合の「市場」というのは、どの大学のどの学部を受験するか選ぶ志願者たちとその保護者のことであり、また彼らが就職する先の企業のことです。志願者と保護者が求めたのは「そこを卒業すると、どれくらいの年収や地位が期待できるか」についての情報であり、採用先が求めたのは「そこを卒業した労働者にはどれくらいの能力と忠誠心を期待できるか」についての情報でした。

大綱化というのは自由化のことだと僕は勘違いしていました。でも、そうではなかったんです。それは「どの大学から順番に淘汰されてゆくかを可視化して、市場に開示せよ」ということだったのです。

僕は大学のカリキュラムの自由化によって、それぞれ日本中の大学が、それぞれの教育理念と教育方法を持ち、それぞれの教育プログラムを編成して、それぞれ異なる達成目標をめざすということになると思い込んでいた。でも、大綱化から後、大学に求められたのは均質化・同質化でした。「自由に競争してよい」というものの、その競争の結果出てくる優劣の差はわかりやすい仕方で表示されなければならない。それは競争することは自由になったけれど、教育や研究のあり方が自由になったわけではない。むしろそれはより不自由なものにならざるを得なかった。というのは、格付けのためには全ての大学の活動を同じ「ものさし」で考量する必要があったからです。格付けというのはそういうことです。複数の教育機関の優劣を判定するためには、同じ「ものさし」をあてがって差を数値的に表示しなければならない。入学者の偏差値であるとか、就職率であるとか、卒業時点でのTOEICスコアであるとか、そういう共通性の高い「ものさし」を当ててみせないと大学間の優劣は可視化できない。そして、そのためにはものさしが当てやすいように教育内容を揃えることが全大学に求められることになった。

まことに逆説的なことですけれど、「好きにやってよい。その結果について格付けをする」と言われたのだけれど、よく考えてみたら「同じようなことをしないと格付けができない」以上、日本中の大学が自発的に相互模倣する他ないという倒錯的な事態が生じることになったのでした。

でも、それと同じことはすでに研究領域でも起きていたのでした。若い研究者たちは専任のポストを求めて競争することを強いられています。でも、研究領域がばらばらで、テーマがばらばらで、研究方法もばらばらだと、研究成果の優劣は確定しがたい。それよりは、研究者たちができるだけ同じ研究領域に集中して、同じ研究方法で、同じ研究課題に取り組んでいてもらう方がひとりひとりの出来不出来を比較しやすい。当然です。その結果、若い研究者たちを競争的環境に投じたら、研究者ができるだけたくさんいる領域を選んで専攻するようになった。誰も手がけない、前人未到の領域こそが本来なら研究者の知的関心を掻き立てるはずですけれど、そういう領域に踏み込むと「研究成果が査定不能」というリスクを負うことになる。「格付け不能」というのは市場からすると「無価値」と同義です。だから、リスクを避ける秀才たちは「誰も手がけない領域」ではなく「競争相手で混み合っている領域」に頭から突っ込んでゆくようになった。そうやって日本の学術研究の多様性は短期間に急激に失われていったのでした。

部分的に見ると適切なように見えるものも、少し広めのタイムスパンの中に置き換えると不適切であり有害であるということがあります。大学の格付けというのは、まさにそのようなものでした。大学の優劣を可視化するという社会的要請はそれだけ見れば合理的なものに思えますけれど、その帰結が大学の均質化と研究成果の劣化だったとすれば全体的には不適切なものだったという他ない。

自己評価というのも今ではどこの大学も当たり前のようにやっていますけれど、そもそも何のために自己評価活動が要るのかというおおもとのところに還って考えるということをしていないので、膨大な無駄が生じている。はっきり言って、こんなものは日本の大学には不要なものです。でも、アメリカでは大学の評価活動を熱心に行っているから日本でもやろうということになった。それは社会の中における大学のありようが日米では全然違うということがわかっていないから起きた重大な誤解です。

アメリカの大学の中にはとても大学とは言い難いようなものがたくさんあります。大学設置基準が日本とは違うからです。アメリカの場合、ビルの一室、私書箱一つでも大学が開校できる。校地面積であるとか、教員数であるとか、蔵書数であるとか、そういうことについてうるさい縛りがない。教育活動としての実態がないのだけれど、「大学」を名乗っている機関がある。そういう大学のことをDegree millとか、Diploma millと呼びます。「学位工場」です。学士号や修士号や博士号を単なる商品として売るのです。

学位工場はアメリカの商習慣から言うと違法ではありません。というのは、一方には金を出せば学位を売るという大学があり、他方には金を出して学位を買いたいという消費者がいて、需給の要請が一致してるからです。売り買いされているものが無価値な、ジャンクな商品だということは売る側も買う側も知っている。無価値なものを売り買いしており、その価格が適正だと双方が思っているなら、法的な規制はかけられない。そうやってアメリカ国内には無数の学位工場が存在している。
そこでアメリカの「まともな大学」が集まって、「まともな大学」と「学位工場」の差別化をはかった。でも、「学位工場」のブラックリストを作ることはできません。それは彼らの営業を妨害することになり、場合によっては巨額の賠償請求を求められるリスクがあるからです。合法的に経営されている企業の活動を妨害するわけにはゆかない。だから、「この学校はインチキですよ。この大学の出している修士号とか博士号とかはほんとうは無価値なんですよ」ということはアナウンスできない。できるのは「私たちはまともな大学であり、私たちの出す学位は信頼性があります」という自己主張だけです。でも、自分ひとりで「うちはまともです」と言っても十分な信頼性がない。だから、世間に名の通った「まともな大学」を集めて、「まともな大学同士でお互いの品質保証をし合う」という「ホワイトリスト」の仕組みを作った。それが相互評価です。

でも、日本にはそんな相互評価の必要性なんかありませんでした。だって、学位工場なんか存在しなかったからです。日本の大学は厳しい設置基準をクリアしてきて創立されたもので、教育しないで、学位を金で売るようなインチキな大学は存在する余地がなかった。

でも、確かにある時点からそれが必要になってきた。それは小泉内閣以後の「規制緩和」によって、大学の設置基準も緩和されたからです。厳しい設置基準審査は割愛する。その大学が存在するだけの価値があるかどうかの判定は市場に委ねる。「事前審査」から「事後評価」へというこの流れは「護送船団方式」から「市場へ丸投げ」という大綱化と同じ文脈で登場してきました。

2003年に規制緩和路線の中で株式会社立大学が登場しました。「構造改革特区」においては学校法人ではなく、株式会社にも学校経営への参入が容認されたのです。それ以前は私立学校の設立母体となることができるのは学校法人だけでした。規制緩和によって、2004年から続々と株式会社立大学が設立されました。でも、株式会社立大学のその後はかなり悲惨なものでした。

全国14キャンパスを展開したLECリーガルマインド大学は2009年度に学部が募集停止。2006年開学のLCA大学院大学も2009年に募集停止。TAC大学院大学、WAO大学院大学は申請に至らず。ビジネス・ブレークスルー大学は2012年度の大学基準協会の大学認証評価で「不適合」判定を受けました。実質的に専任教員が置かれていないこと、研究を支援・促進する仕組みが整備されていないこと、自己点検評価・第三者評価の結果を組織改善・向上に結びつける仕組みが機能していないことなどが指摘されましたが、これは経営破綻に至った他の株式会社立大学にも共通していたことでした。

でも、僕はこの失敗についても株式会社立大学を推進した人々からまともな反省の弁を聞いたことがありません。導入時点では、財界人たちからは、大学の教員というのはビジネスを知らない、マーケットの仕組みが分かってない、組織マネジメントができていない、だから駄目なんだということがうるさく言われました。生き馬の目を抜くマーケットで成功している本物のビジネスマンが大学を経営すれば大成功するに決まっているという触れ込みでしたが、蓋を開けてみたらほとんど全部失敗した。それについても、なぜ失敗したのかについて真剣な反省の弁を聞いたことがありません。誰の口からも。もし大学人に足りないのはビジネスマインドだというのが本当なら、この「ビジネスマン」たちもかなりビジネスマインドに致命的な欠陥を抱えていたということになります。でも、それよりむしろ学校教育に市場原理を持ち込むという発想そのものに誤りがあったのだと僕は思います。

これらの出来事はすべて同一の文脈の中で生起したことです。これらの出来事に伏流しているのは「市場は間違えない」という信憑です。学校教育の良否を判定するのは市場であると考えたビジネスマンたちは、消費者が喜びそうな教育商品・教育サービスを展開すれば、必ず学生たちは集まってくると考えました。株式会社立大学はいろいろな手で志願者を集めましたが、それは商品を売る場合と同じ考え方に基づくものでした。駅前で足の便がいいとか、スクーリングなくて一度も登校しなくても学位が取れるとか。でも、消費者を引き付けようとするなら、最終的に一番魅力的な訴えは「うちは勉強しなくても学位が取れます」ということになる。そうならざるを得ない。市場モデルでは、学習努力が貨幣、単位や学位が商品とみなされます。最も安価で商品を提供できるのがよい企業だという図式をそのまま学校教育に適用すれば、学習努力がゼロで学位が取れる学校が一番いい学校だということになる。実際に、そう信じて株式会社立大学の経営者たちは専任教員を雇わず、ビデオを流してコストカットに励み、学生たちには「最低の学習努力で卒業できます」と宣伝した。それは学位工場に限りなく近いかたちの大学を日本にも創り出そうとしたということです。でも、幸いにもその企ては成功しなかった。果たしてその失敗の経験から、株式会社立大学の導入を進めた人々は一体何を学んだのか。たぶん何も学んでいないと思います。今も「大学では実学を教えろ」とか「実務経験者を教授にしろ」と言い立てている人はいくらもいます。彼らの記憶の中では株式会社立大学のことはたぶん「なかったこと」になっているのでしょう。

その後に登場してきたのが「グローバル教育」です。これも表向きは経済のグローバル化に対応して云々ということになっていますけれど、実態は格付けのためです。大学の優劣をどうやって数値的に可視化するかということが90年代以降の文科省の教育行政の最優先の課題でしたけれど、グローバル教育はまさにそのためのものでした。つまり、「グローバル化度」という数値によって全大学を格付けすることにしたのです。これはたしかに賢い方法でした。「グローバル化度」は簡単に数値的に表示できるからです。受け入れ留学生数、派遣留学生数、海外提携校数、英語で行っている授業のコマ数、外国人教員数、TOEICのスコア・・・これは全部数値です。これらの数値のそれぞれにしかるべき指数を乗じると、その大学の「グローバル化度」がはじき出される。電卓一つあれば、大学の「グローバル化度」は計算できる。

でも、留学生の数とか、海外提携校の数とか、外国人教員数とか、英語での授業の数は大学の研究教育の質とは実際には何の関係もありません。今の日本の大学生は日本語での授業でさえ十分に理解しているとは言い難い。それを英語で行うことによって彼らの学力が向上するという見通しに僕はまったく同意できません。

今、どこの大学でも「一年間留学を義務づける」ということが「グローバル化度」ポイントを上げるために導入されています。学生からは授業料を徴収しておいて、授業は海外の大学に丸投げして、先方が請求してくる授業料との「さや」を取る。何もしないで金が入ってくるのですから、大学としては笑いが止まらない。25%の学生が不在なのですから、光熱費もかからない、トイレットペーパーの消費量も減る、教職員もその分削減できる。いいことづくめです。そのうち「いっそ2年間海外留学必須にしたらどうか」と言い出す知恵者が出てくるでしょう。さらにコストカットが進んで利益が出る。すると誰かさらに知恵のある者が「いっそ4年間海外留学必須にしたらどうか」と言い出すかもしれない。そうしたら校舎も要らないし、教職員も要らない。管理コストはゼロになる。でも、そのときは大学ももう存在しない。でも、自分たちがそういうふうに足元を掘り崩すようなリスクを冒しているということを、この「グローバル教育」推進者たちはたぶん気づいていないような気がします。

シラバスというのも、そのような学校教育への市場原理の侵入の一つの徴候です。もちろんそれまでも授業便覧・学修便覧は存在していたわけですけれど、シラバスはそれとは性格がまったく違います。あれは工業製品につける「仕様書」だからです。含有物質は何か、どういう規格に従って製造されたのか、どういう効用があるのか、そういう情報を消費者に開示するためのものです。ある意味では契約書です。「こういう授業をいついつにする」と教師は約束する。学生はそれが履行されることを教師に要求できる。予定通りに授業をしなかった場合、所期の学習効果が得られなかった場合、学生は教師に対して「契約不履行」でクレームをつけて、謝罪なり補講なりを請求できる。そういう趣旨のものです。

でも、大学の授業は工業製品じゃありません。本来は生身の教師が生身の学生たちの前に立ったときにその場で一回的に生成するものです。そこで教師が語る言葉にはそれまで生きてきて学んだこと、経験したこと、感じたことのすべてが断片的には含まれている。それが何の役に立つのか、そんなことは教師にだって予見不能です。どうしてこの科目を履修することになったのかは学生にだってわからない。学んだことの意味がわかるのは、場合によっては何年も、何十年もあとになることさえある。そういうものです。

スティーヴン・ジョブズは大学時代にたまたま「カリグラフィー(書法)」の授業を履修しました。どうしてそんな趣味的な授業を自分が毎週聴いているのか当時は理由がよくわからなかった。でも、何年か経ってスティーヴ・ウォズニアックと最初のマッキントッシュを設計したときに、フォントの選択と字間調整機能を標準装備として搭載したときに大学時代に「美しい文字を書く」授業を受けたこととの関連に気がついた。

授業がどういう教育効果をひとりひとりの学生にもたらすことになるのか、それは教師にも学生自身にも予見できません。もちろんシラバスに適当なことを書くことはできます。でも、シラバスを目を皿のようにして読んで履修科目を選ぶ学生なんて、実際にはいません。このコマが空いているからとか、友だちが受講しているからとか、この先生面白そうだからとか、試験がなくてレポートだけだからとか、そういう理由で履修科目を選んでいる。

私が在職中にとった統計でわかったことは「シラバス通りに授業をしているかどうか」ということと学生の授業満足度の間には統計的に有意な連関がないということでした。それ以外のすべての質問は学生の授業満足度と相関がありました。「時間通りに授業を始めるか?」とか「板書が見やすいか?」とか「十分な準備をして授業に臨んでいるか?」といった問いは満足度と相関していました。でも、全部の質問の中でただ一つだけ何の相関もない質問がありました。それが「シラバス通りに授業をしているか?」です。学生たちはシラバス通りに授業が行われることに特段の重要性を認めていない。それはアンケートの統計的処理の結果でも、僕の教壇での実感でもそうです。

だから、「シラバスを細かく書け」という文科省からの命令を僕は無視しました。だって意味がないんだから。いやしくもこちらは学者です。論理的にものを考えるのが商売です。シラバスを事細かに書くと授業効果が上がるということについて実証的根拠があるなら、それを示してくれればいいだけの話です。それを示さずに、もっと細かく書けとか英語で書けとか同僚の教員同士でチェックし合えとか、どんどん作業を増やしてきたのです。

僕が教務部長のときにうちの大学のシラバスに「精粗がある」という理由で助成金の減額が告げられました。これは教育行政として自殺行為だと僕は思いました。シラバスを書かせたかったら「それには教育効果がある」という理由を示せばいい。何の教育効果があるのか命令している文科省が知らない作業を現場に頭ごなしに命令して、違反者に処罰を課す。それも「助成金の減額」という「金目の話」に落とし込んできた。僕はこれを「教育行政の自殺」だと言ったのです。仮にも大学教育ですよ。文科省は「大学の教員というのは『金を削る』と脅したら意味がない仕事でも平気でやる生き物だ」という人間観を公然と明らかにしているわけです。財務省あたりが言うならわかりもするが、教育行政を担当する省庁が「人間は金で動く」という人間観を本人も信じ、人にも信じさせようとしていることを少しは恥ずかしいと思わないのか。まことに情けない気持ちがしました。

シラバスは氷山の一角です。大学人全体がこういうやり方にいつの間にかなじんでしまった。意味がないとわかっていることでも、「文科省がやれと言ってきたから」というだけの理由でやる。意味のないことのために長い時間をかけて会議をして、分厚い書類を書いて、教職員たちが身を削っている。腹が立つのはそれが「大学における教育研究の質を高めるため」という大義名分を掲げて命じられていることです。教員の教育研究のための時間を削って、体力を奪っておいて、どうやって教育研究の質を上げようというのです。

問題はこの理不尽に大学人が「なじんでいる」ということだと思います。仮にも学術を研究し、教育している人たちが「理不尽な命令」に対して、「逆らうと金がもらえないから」というような俗な理由で屈服するということはあってはならないんじゃないかと僕は思います。無意味なこと、不条理なことに対して耐性ができてしまって、反応しなくなったら、悪いけど学者として終わりでしょう。目の前で明らかに不合理なことが行われているのに、「いや、世の中そんなもんだよ」とスルーできるような人間に科学とか知性とかについてっ僕は語って欲しくない。

今、日本中の大学でやっていますけれど、評価活動というのはナンセンスなんです。何度も申し上げますけれど、無意味なんです。これは自らの失敗を踏まえて申し上げているんです。神戸女学院大学に教員評価システム導入の旗振りをしたのは僕です。当時、評価に関するさまざまなセミナーや講演に出ました。製造業の人から品質管理についての話も聞きました。そういう仕組みを大学にも導入すべきだと、もっとビジネスライクに大学のシステムを管理しなければいけないと、その頃は信じていたのです。でも、はじめてすぐに失敗だということに気づきました。

僕が考えたのは、大学内の全教員の研究教育学務での活動を数値化して公表し、それに基づいて教員の格付けを行い、予算配分や昇級昇格に反映させるというものでした。さすがに教授会では昇級昇格に反映させるという僕の案は否決されましたけれど、教員たちの評価を各学科・部署の予算配分に反映させるというところまでは同意をとりつけました。

僕は教員の個人的な評価なんて簡単にできると思っていたのです。教育だったら、担当クラス数とか、ゼミで指導している学生数、論文指導している院生数などを数値化して、それを足せばいい。研究だったら年間にどれくらい論文を書いているか、レフェリー付きのジャーナルに書いているのか紀要に書いているのかで点をつける。学務は管理職なら何点、学部長なら何点、入試委員なら何点、というふうに拘束時間の長さや責任の重さで配点を変える。それを電卓一つで叩けば年間の教員の活動評価なんか出せると思っていたんです。でも、それが短慮でした。

配点を決める委員会でいきなり引っ掛かったのが著作でした。単著一つで何点と決めるときに、同僚から待ったがかかった。「年間5冊も6冊も書き飛ばした本と、20年かかって書いた1冊では価値が違う。それが同じ配点というのはおかしい」と言われた。これはおっしゃる通りなんです。年間5,6冊書き飛ばしているというのはもちろん僕のことなんですが、その1冊と、その先生が20年かけて書き上げた畢生の労作d1冊を同点にするのはおかしいと言われたら、たしかにおかしい。でも、そう言われたら全部そうなんです。授業を何コマ担当しているかと言っても、「ウチダ君のように何の準備もしないで、その場で思いついた話をぺらぺら漫談のようにして90分終わらせる教員」と何時間も真剣に下準備をしてから教場に出かける教員の1コマが同じ1コマとして扱われるのは不当である。内容の違いを配点に反映させろと言われたら、こちらはぐうの音もありません。ほんとうなんだから。
何より、気の毒だったのは、教員たちの実際の働きや貢献度を公的な立場から採点することを求められた方々です。だって、そういう人たちはすでに学部長とか学長とかしているわけです。そういう役職に選ばれる人たちというのは教育面でも学生の面倒見がよくて、研究でも高いアクティヴィティを誇っている方々です。そういうただでさえ忙しい人たちに同僚の査定をするという余計な仕事を押しつけることになった。評価活動というのは、そもそも研究教育を効率的に行い、質の向上を果たすために導入したものです。でも、やってみてわかったのは、そんなことのために査定システムを考案したり、合意形成をもとめて会議をしたり、あれこれ書類を書いたりしていたら、それは全部研究教育学務のための時間に食い込んでくるということでした。評価コストは評価がもたらすベネフィットを超える。研究教育の向上のための評価が研究教育の劣化をもたらすという事実に、僕は評価活動をはじめて半年ほどで気がつきました。

僕が教員評価にこだわったのは、教員の中に、あきらかに給料分の働きをしていない教員たちがいたからです。ろくに仕事をしないで高給を食んでいる人たちが手を抜いているせいで、学務の負担が他の教員に回ってくる。さぼる教員のせいで、他の教員たちの研究教育の時間が削られている。それがどうしても許せなかった。そういう怠け者をあぶり出して、仕事をさせなくちゃいけないと思って、教員を管理する仕組みを考えたのです。

でも、これはまったく失敗だった。だって、怠け者の教員というのは評価しようとしまいと関係ないからです。休日を返上してセクハラ講習会を開いても、セクハラ教員はそういう講習会には来ないのと一緒です。絶対にセクハラなんかしそうもない人たちだけが集まってまじめに研修している。そういうのは時間の無駄なんです。働かない人は評価システムがあろうがなかろうが働かない。せいぜい給料分ぎりぎりしか働かない。でも、評価システムを制度設計し、立ち上げ、維持運営するために、これまで研究教育で高い成果を上げて来た教員たちの時間と労力を奪うことになった。この人たちはこれまでもらう給料の何倍もオーバーアチーブしていたわけですけれど、その人たちの足をひっぱることになった。だから、評価システムの導入は、トータルでは、大学全体の研究教育のパフォーマンスを下げることにしかならなかった。

国立大学の場合はもっと悲惨です。独立行政法人化から後、日本の大学の学術発信力は一気に低下しましたけれど、それも当然なんです。法人化があって、学部改組があって、カリキュラム改革があって、そこに自己評価や相互評価が入ってきて、次はCOEだとかRU11だとかグローバル人材教育とか、ついには英語で授業やれとか言われて、この15年くらいずっとそういうことに追い回されてきたわけです。そういう仕事を担当するのは、どこの大学でも30代40代の仕事の早い教員たちです。頭がよくて手際のよい教員たちが、そういう「雑務」を押しつけられた。会議とペーパーワークだけで研究者として脂の乗り切る10年間を空費してしまったという教員が日本中の国立大学に何百人となくいるのです。この人たちがその時間を研究教育に充てていたら、どれぐらいの学的達成が蓄積されたか、それを思うと失ったものの大きさに言葉を失います。

今は定年前に辞める教員がどこの大学でも増えています。専任教員として教えなくても、授業だけすればいいという特任教員の給与や著述での収入だけで生活が成り立つという人はそういう方を選んでしまう。だって、あまりにばかばかしいから。グローバル人材育成と称して、今はどこでも英語で授業をやれというプレッシャーがかかっている。どう考えても、日本人の学生相手に日本人の教員が英語で授業やることに意味があるとは思えない。

実際にそういう大学で働いている人に聞きましたけれど、オール・イングリッシュで授業をするとクラスがたちまち階層化されるんだそうです。一番上がネイティヴ、二番目が帰国子女、一番下が日本の中学高校で英語を習った学生。発音のよい順に知的階層が出来て、いくら教員が必死に英語で話しても、ネイティヴが流暢な英語でそれに反対意見を述べると、教室の風向きが一斉にネイティヴに肩入れするのがわかるんだそうです。コンテンツの当否よりも英語の発音の方が知的な位階差の形成に関与している。

これも英語で授業をしている学部の先生からうかがった話ですけれど、ゼミの選択のときに、学生たちはいろいろな先生の研究室を訪ねて、しばらくおしゃべりをする。その先生のところに来たある学生はしばらく話したあとさらっと「先生、英語の発音悪いから、僕このゼミはとりません」と言ったそうです。その方、日本を代表する批評家なんですけれど、学生はその名前も知らなかった。

そういうことが今実際に起きているわけです。ではなぜこんなに英語の能力を好むというと、英語のオーラルが教員の持っている能力の中で最も格付けしやすいからです。一瞬で分かる。それ以外の、その人の学殖の深さや見識の高さは短い時間ではわからない。でも、英語の発音がネイティヴのものか、後天的に学習したものかは1秒でわかる。

『マイ・フェア・レディ』では、言語学者のヒギンズ教授が出会う人たち一人一人の出自をぴたぴたと当てるところから話が始まります。『マイ・フェア・レディ』の原作はバーナード・ショーの『ピグマリオン』という戯曲です。ショーはヒギンズ教授の口を通して、イギリスでは、誰でも一言口を開いた瞬間に出身地も、職業も、所属階層も分かってしまうということを「言語による差別化」(verbal distinction)としてきびしく告発させます。ヒギンズ教授は誰でも口を開いて発語したとたんに、その出身地も学歴も所属階級もわかってしまうというイギリスの言語状況を批判するためにそういう曲芸的なことをしてみせたのです。すべてのイギリス人は同じ「美しい英語」を話すべきであって、口を開いた瞬間に差別化が達成されるような言語状況は乗り越えられねばならない、と。だから、すさまじいコックニー訛りで話す花売り娘のイライザに「美しい英語」を教えて、出身階層の軛から脱出させるという難事業に取り組むことになるのです。

でも、今日本でやろうとしているのは、まさにヒギンズ教授がしようとしたことの逆方向を目指している。口を開いた瞬間に「グローバル度」の差が可視化されるように英語のオーラル能力を知的優越性の指標に使おうとしているんですから。それは別に、英語がネイティヴのように流暢に話せると知的に生産的だからということではなく、オーラル能力で階層化するのが一番正確で、一番コストがかからないからです。

日本中の大学が「グローバル化」と称して英語教育、それも会話に教育資源の相当部分を費やすのは、そうすれば知的生産性が向上するという見込みがあるからではないんです。知的な生産性という点から言ったら、大学ではできるだけ多くの外国語が履修される方がいい。国際理解ということを考えたら、あるいはもっと現実的に国際社会で起きていることを理解しようと望むなら、英会話習得に教育資源を集中させるよりは、外国語履修者が中国語やドイツ語やトルコ語やアラビア語などに散らばった方がいいに決まっている。でも、そういう必要な外国語の履修については何のインセンティブも用意されていない。それは、英語の履修目的が異文化理解や異文化とのコミュニケーションのためである以上に格付けのためのものだからです。

TOEICはおそらく大学で教えられているすべての教科の中で最も格付けが客観的で精密なテストです。だからみんなそのスコアを競うわけです。競争相手が多ければ多いほど優劣の精度は高まる。前に申し上げた通りです。だから、精密な格付けを求めれば求めるほど、若い人たちは同じ領域にひしめくようになる。「誰でもできること」を「きわだってうまくできる」ことの方が「できる人があまりいないこと」を「そこそこできる」ことよりも高く評価される。格付けに基づいて資源分配する競争的な社会は必然的に均質的な社会になる。そうやって日本中の大学は規格化、均質化し、定型化していった。

若い人たちは今でも地方を出て東京に行きたがります。そして、ミュージシャンだったり俳優だったり、カメラマンだったり、デザイナーだったり、とにかく才能のある人が集まっているところに行きたがる。それは精密な査定を求めてそうしているのです。故郷の街にいて、どれほどまわりから「町で一番才能がある」と言われても、それでは納得できないのです。もっと広いところで、たくさん競争相手がいるところに出てゆきたい。正確な格付けを求めてそうするのです。競争相手がたくさんいる領域に突っ込んでいって、低い格付けをされても、それは自分のようなことをしている人間が自分ひとりしかいない環境で、格付けされないでいるよりはまだましなんです。狭いところで「あなたは余人を以ては代え難い」と言われることよりも、広いところで「あなたの替えはいくらでもいる」と言われる方を求める。それは自分の唯一無二性よりも自分のカテゴリー内順位の方が自分のアイデンティティを基礎づけると彼らが信じているからです。「そんなことをしているのは自分しかいない」という状態が不安で仕方がないのです。「みんなやっていることを自分もやっている」方がいいのです。たとえどれほど低くても、精度の高い格付けを受けている方が安心できるのです。これは現代日本人が罹患している病です。そして、日本の大学もまたそれと同じ病に罹っている。

大学に格付けを要求するのは社会全体からの要請です。あなたの大学がどういう大学であるのかは、「他の大学を以ては代え難い」ところの唯一無二の個性によってではなく、日本のすべての大学を含む単一のランキングにおいて何位であるかによって決定される、そういう考え方に日本中が同意しているのです。そのせいで、大学の多様性が失われた。本当にユニークな研究教育活動は比較考量ができませんから、格付けすると「評価不能」としてゼロ査定される。研究教育活動がユニークであればあるほど評価が下がるという仕組みがもう出来上がっているのです。そのせいで日本の大学の学術的発信力は致死的なレベルにまで低下している。しかし、文科省はその学術的発信力の低下を「グローバル化が不十分だから。実学への資源投資が不十分だから」という理由で説明して、さらに全国の大学を均質化し、規格化し、競争を激化させ、格付けを精密にしようとしている。その結果、ますますユニークな研究教育のための場所は失われている。

そんなことをしているんですから、日本の大学に未来がないのは当然なんです。多様なできごとが無秩序に生起している場所でのみ、それらのうちで最も「生き延びる」確率の高いものが際立ってくる。

「ランダムさのないところに新たなものは生じない」(Without the random, there can be no new thing)。

これは『精神と自然』の中のグレゴリー・ベイトソンの言葉です。日本の大学教育はまさにその逆の方向に向かって進んでいる。でも、すべてが規格化され、単一の「ものさし」で比較考量され、格付けされるところからは、いかなる新しいものも生まれません。
教育の目的というのは、一言にして尽くせば、どうやって若い同胞たちの成熟を支援するか、それだけです。格付けとは何の関係もない。精密な格付けをすれば、若い人たちがどんどん知性的・感性的に成熟するというエビデンスがあるというのなら、大学からイノベーティヴな発見が次々世界に向けて発信されているというエビデンスがあるというのなら、格付けしたって結構です。でも、そんなエビデンスはどこにもありません。あるのは、大学が評価や査定や格付けにかまけてきた間に日本の大学の学術的発信力は先進国最低レベルに低下したという冷厳な事実だけです。

今、子どもたちの貧困が大きな社会問題になっていますけれど、貧困層の再生産には残念ながら子どもたち自身も消極的には加担してるんです。それは貧困層の人たちに対しては学校でも地域社会でも、「貧乏人らしくふるまえ」という強いプレッシャーがあるからです。貧しい人間は身を縮めて生きるべきだ、イノベーションを担ったり、リーダーシップをとったりすることは許されない。そういう考え方を持つ人が多数派です。そして、貧困層自身も、そういう社会観を自身のうちに内面化してしまっている。自分は貧しいのだから、楽しそうに生きてはいけない。明るくふるまってはいけない。新しいアイディアを提出してはいけない。リーダーシップをとってはいけない、そういう外部からの禁圧をそのまま内面化してしまっている。

以前、ある子育て中の母親がそう訴えていました。その人はシングルマザーで、確かに生活は苦しい。本当なら、親が貧しいことと子どもたちがのびのびと暮らすことの間には関係ないはずなのだけれど、貧しいというだけで、子どもたち自身が委縮してる。貧しい人間はにこにこしてはいけないと思っている。貧しくて不幸だという顔をしなくてはいけない。周囲がそういうふるまいを期待しているので、子どもたちはそれに応えてしまっているんじゃないか、と。

これは例えば生活保護を受けてる人がパチンコやったら許さないとか、芝居や映画見に行ったら怒るとかいうのと同じですね。主婦が子どもを保育園に預けて演劇見に行ったら、「ふざけるな」と怒鳴る人がいる。意地悪なんです。それが社会的なフェアネスだと本気で思って、意地悪をする。異常ですよ、皆さん。でも、日本はもうそういう異常な人が自分のことを「異常」だと思わないくらいに異常な社会になっているんです。

同じことが大学生自身にも起きている。低いランク付けをされると、自動的に自己評価も下方修正してしまう。あなた方はランクが低いんだから、もっとおどおどしなさい、もっといじけなさいって言われると、大学生の方も納得してしまって、おどおどして、いじけるようになる。格付けのせいで、いじけて、怯えて、自己評価を下げて、自分には何もたいしたことなんかできやしないと思っている若者たちを今の日本社会は大量に生み出しています。そんな人たちがどうして未来の日本を支えてゆくことができるでしょう。

冒頭に結論を申し上げましたけど、とにかく日本の大学は、今行われているような仕組みを是認されるのであれば、先はないです。日本の大学は滅びます、遠からず。どこかで抵抗するしかありません。「もういい加減にしてくれ」って、声を上げるべきです。文科省だってそんなにバカばかりじゃない。官僚の中には過去25年間の教育行政がことごとく失敗だったということを素直に認める人だってきっといると思います。でも、役人はその性として「間違えました」「すみません」とは言いません。

だから、大学側で声を合わせて言うしかないんです。国立大学の先生は立場上なかなか声を出しにくいかも知れませんけれど、でも声を出して欲しい。どうしたら教職員がイノベーティブになれるか。どうしたらキャンパスの中がもっと明るくなるか。教職員も学生も笑顔でいて、知的な刺激に満ちている環境をどうやって作るか。それについて考える事が最優先の課題だと僕は思います。

このまま手をつかねていたら、日本の大学は滅びます。皆さんが生活を犠牲にして、命を削って、大学のフロントラインを死守していることを僕はよく存じていますし、それに対して敬意も持ってます。でも、生身の人間ですから、無理は効きません。どこかで燃え尽きてしまう。だから、燃え尽きる前に、声を上げて欲しいと思います。「もういい加減にしろ」って。ちゃぶ台をひっくり返して頂きたい。日本中の学校で先生たちが一斉にちゃぶ台返しをしてくれたら、日本の未来も大学教育も救われるんじゃないかと思ってます。どうぞ頑張っていただきたいと思います。

ご清聴ありがとうございました。

(2016年5月19日、国立大学教養教育実施組織会議特別講演・サンポートホール高松にて)
http://blog.tatsuru.com/

土台から崩れゆく日本の科学、疲弊する若手研究者たち
これが「科学技術立国」の足元
http://wedge.ismedia.jp/articles/-/11186

 国内の大学の最高峰、東京大学。その将来有望な若手研究者が働く研究室─―そこは、そのイメージとはほど遠い苦境に陥っていた。


(12か月/AFLO)

 東大で物理学を研究する高山あかり助教は、研究室の現状をこう語る。

 「プリンターのトナーや紙、そういった必需品の購入にも気を遣います。研究室の机と椅子も、他のところで不要になったものを譲ってもらいました。研究のための本は自腹で買うことも多いですね」

 こうした物品の購入など研究を行うための経費は、基本的に各研究者に配られる「国立大学運営費交付金」から支払われる。これは文部科学省から各国立大学の財布に入り、そこから各研究者に配分される補助金だ。国立大学の研究者にとって運営費交付金は何にでも使える「真水」であり、研究の基盤となる資金だ。

 昨今ノーベル賞を受賞した研究も、こうした自由に使える基盤的経費が充実していた恩恵が大きいことは、2015年にノーベル物理学賞を受賞した東大教授の梶田隆章氏も指摘している(Wedge本誌12月号17頁にインタビュー掲載)。また、東大名誉教授の安井至氏は「ノーベル賞学者たちが助教の頃は、研究室ごとに現在の価値で1000万円ぐらいは基盤経費が入っていただろう。私が東大から退いた03年でも光熱費・水道代は大学が支払った上で、別途で200万円ぐらいは支給されていた」と語る。


運営費交付金
http://wedge.ismedia.jp/articles/-/11186
(出所)文科省資料を基にウェッジ作成

 しかし1990年代の行財政改革の機運の中、国立大学にも効率化が求められるようになった。2004年に国立大学が法人化されると、基盤的経費は「運営費交付金」として再定義され、国の財政難を背景に前年比で1%ずつ削減されることになった。運営費交付金は法人化から13年間で12%(1445億円)が削減された。

 現在、ある工学系の東大准教授の研究室に支給される運営費交付金は200万円にはとても届かない額だという。さらに研究室の光熱費・水道代、場合によっては大学内の実験施設の賃借料も引かれるようになったため、削減幅は額面以上に大きい。ある理学系の東大研究者は「運営交付金は大学によって金額が異なるが、100万円交付されればかなり高いほうで、多くの研究者はギリギリでやりくりしている」と語る。東大ですら運営費交付金だけでは十分な研究などできないのが現状だ。


不安定になる若手のポスト


 一方で、研究者への研究資金として重視されるようになったのが、科学研究費助成事業(以下、科研費)を代表とする競争的資金だ。科研費は自動的に下りてくる運営費交付金とは違い、文科省に研究テーマを申請し、同じ分野の研究者による審査を経て交付の可否が決定する。17年度で2284億円の予算がつき、04年度から454億増加している。

 だがこの競争的資金への偏重が問題であると、日本より良い研究環境を求めて香港科学技術大学に移籍した川口康平助教授は、次の通り指摘する。

 「科研費は将来にわたって確保できるかどうか予測ができない。使途や期間も限られており、研究者やスタッフを長期間雇用するための人件費に使えない」

 加えて科研費では「真水」である運営費交付金とは違い、申請した研究テーマに使う実験器具などにしか使えないのだ。

 また運営費交付金の減少は、研究資金面以外でも若手研究者たちに死活問題をもたらしている。ポストの不安定化だ。

 東京工業大学の西田亮介准教授は「労働法制上、既存のポストは手をつけにくいので、新規雇用の際に人件費のコントロールが容易な任期つき教員への置き換えが進められている」と指摘する。

 文科省の調査によれば、07年度に39%だった40歳以下の任期つき教員の割合は、17年度には64%に増加している。「3年の期限のある競争的資金で雇われた研究者は、1年目はその分野を学び、2年目に研究して論文を書き、3年目にはその成果をもって次のポストを探すことになるだろう。腰を据えて研究する時間は短い」(梶田教授)


任期つき教員の割合
http://wedge.ismedia.jp/articles/-/11186?page=2
(注)40歳未満の研究者が対象 (出所)文部科学省資料を基にウェッジ作成


 加えて目減りした運営費交付金の影響で、若手研究者は研究時間も奪われている。スタッフを雇ったり外注化したりできず、研究室の雑務も若手研究者が行わざるを得ないためだ。高山助教も、自身で経理や総務的な仕事までこなしているという。科研費申請の書類作成も2週間近く要する。もちろん、大学教員として研究室の学生への指導も行っている。

 文科省の科学技術・学術政策研究所の調査によると、国立大学の教員の勤務時間中、研究に充てられている時間は02年の50・7%から13年には42・5%に減少している。若手はさらにひどいようで、高山助教は「体感で1割程度しか研究に充てられない」という。また工学系のある東大准教授は「准教授以上はまず科研費などの研究費をとってくることが仕事になる。そのため研究は実質的にできていない。若手が厳しいのはもちろん、教授でも時間のない実態は変わらない」と語る。

「ノーベル賞受賞者は生まれなくなる」


 こうした運営費交付金の減少は、日本の科学技術に対し重大な悪影響をおよぼす。

 まず科研費に依存した研究体制は国がどの分野を重視しているか≠ニいう政策的な動向によって、研究内容が左右されてしまう。たとえば「理学系での最近の科研費は『情報分野』に重点が置かれている」(東大の若手研究者)という。重視すべき分野に集中投資されることは研究費の選択と集中を促すという面でメリットもあるが、多様性が失われたり、短期的に成果が見えにくい基礎研究分野が軽視されたりする懸念がある。


(出所)科学技術・学術政策研究所資料を基にウェッジ作成 写真を拡大

 また、研究成果である論文数も減少する。自然科学分野の15年の論文数は、米、英、独、仏、中、韓の主要国が04年比でその総数を大きく伸ばしている一方で、日本のみ減っている。イギリスの高等教育専門誌「Times Higher Education」の「THE世界大学ランキング」04年版では東大は12位、京大は29位、東工大、大阪大学、東北大学、名古屋大学が200位以内にランクインしていたが、最新の18年版では東大は46位、京大は74位に後退し、他の大学は200位以内から転落している。


自然科学分野の15年の論文数
http://wedge.ismedia.jp/articles/-/11186?page=3
(注)2000年以降にノーベル賞を受賞した研究者に限定 (出所)政策研究大学院大学専門職の原泰史氏の 研究データなどを基にウェッジ作成 写真を拡大

 日本は00年以降、自然科学分野で15人のノーベル賞受賞者を輩出し、科学技術大国とされてきた。しかしそれらの受賞の多くは研究者が20代後半から40代前半の若手のころにに行われた研究が後年になって評価されたものだ。次世代のノーベル賞を生む土壌は既に崩壊し始めている。梶田教授は「このままでは日本からノーベル賞受賞者は生まれなくなる」と危機感を隠さない。

 ではどうするべきか。安井名誉教授は「すぐに成果が出る研究は民間がやる。先進国として、あくまで科学技術立国を目指すのならば、運営費交付金を増やすべきだ」と語る。梶田教授や16年にノーベル医学・生理学賞を受賞した東工大教授の大隅良典氏など、運営費交付金増額を求める声は大きい。

 しかし財政難の時代に運営費交付金を増額することは現実的に考えて難しい。川口教授は現状のジレンマをこう分析する。

 「運営費交付金を戻すのはセカンドベスト(次善の策)だ。いったん戻すべきだという危機意識は正しいが、財政難という時代の中で誰にもファーストベスト(最善の策)がわからない。そうこうしているうちにこのままでは大学が崩壊するというところまで来てしまった」


[12初期非表示理由]:管理人:混乱したコメント多数により全部処理

2. 知る大切さ[11462] km2C6ZHlkNiCsw 2018年1月15日 07:05:53 : R9FCqA2vYc : rrJKS_dywEM[2179]
>1
精神疾患の阿修羅の迷物中川隆には
前川喜平氏がとても眩しいんだろうね。

彼の人としての良さが妬ましくて仕方がないんだろうね。


3. 2018年1月15日 09:06:37 : LymIVo3M2M : Z2CoELgu47E[2]
>>1. 中川隆[-5851] koaQ7Jey 2018年1月15日 01:07:30 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]
> 日本の教育を滅茶苦茶にした前川喜平がやっていた事教えてあげる

前川喜平がやっていた事が良く分かった。
また、教育制度の問題点も良く分かった。

> しかし財政難の時代に運営費交付金を増額することは現実的に考えて難しい。

在日外国人への違法な生活保護費の支給を止めれば1200億円を教育へ回せる。
自活できない在日外国人は本国へ強制送還すべきである。
日本国民には彼等を税金で養う義務は無い。

[1] 外国人への生活保護費は年間1200億円、国籍別では韓国・朝鮮人が約2万8700世帯と最多
2014年10月31日12:00 | カテゴリ:在日韓国・朝鮮人
http://hosyusokuhou.jp/archives/41033851.html
永住外国人の受給世帯増加 自治体を圧迫
外国人の生活保護受給世帯は年々増加しており、地方自治体の財政を
圧迫する一因ともなっている。

生活保護法をめぐっては最高裁が7月、「法の適用対象に永住外国人は含まれない」として、
永住外国人は生活保護法に基づく保護の対象ではない−との初判断を示した。

しかし、実際には、人道的観点から外国人への同法の準用を認めた昭和29年の
旧厚生省通知に基づき、各自治体が永住外国人や難民認定された外国人に対して
生活保護を支給しているのが実情だ。

矛盾した運用が行われている背景には、もともとこの通知自体にあいまいさが
内包されていることがある。

厚生労働省の最新調査(平成24年度)によると、生活保護の受給世帯総数は
月平均155万8510世帯で、うち外国人世帯は4万855世帯と全体の約2・6%。
総数が伸びる中、外国人世帯も10年前の約1・7倍に増加した。

国籍別(23年7月時点)では、韓国・朝鮮人が約2万8700世帯と最も多く、
フィリピン(約4900世帯)、中国(約4400世帯)、ブラジル(約1500世帯)と続く。

外国人の受給世帯の増加が続く背景には、不景気が長引いたことや
高齢化の影響があるとみられる。

生活保護費は全体で年間約3兆6千億円で、厚労省の概算によると、
外国人に対する生活保護費はそのうち約1200億円に上る。

生活保護費は4分の3を国が、残りを自治体が負担しており、日本人に加えて
外国人の受給世帯の増加が、地方自治体の財政を圧迫する結果になっている。


4. 知る大切さ[11465] km2C6ZHlkNiCsw 2018年1月15日 09:20:52 : R9FCqA2vYc : rrJKS_dywEM[2182]
>3
又【腐翼】なコピペ魔人が発生した。

前川氏は文部科学省の役人だが、、、
生活保護はいつから文部科学省が担うようになったんだ。

間抜けな【腐翼】は無駄にコピペコメントが長い。


5. 木曽の山猿[386] ltiRXYLMjlKJjg 2018年1月15日 10:38:07 : UcHH8ZvSDA : _8JQknR5X2k[17]
お願い。

阿修羅サイトに、

1>> の如く、
無内容で脈絡もなく長々と、
根拠なく戯言を書き連ねただけの投稿を、
キーワードで自動的にスキップできるボタンを用意することはできませんか。

以上。


6. 木曽の山猿[387] ltiRXYLMjlKJjg 2018年1月15日 10:55:46 : UcHH8ZvSDA : _8JQknR5X2k[18]
訂正

5> です。

無内容で脈絡もなく長々と、
根拠なく戯言を書き連ねただけの投稿、

ではなく、

無内容で脈絡もなく、
ただ長々と他人の文章のコピペしただけの投稿、

でしたね。


7. 2018年1月15日 13:04:30 : FieXiNBWLk : tqFS9X@7p2I[295]
中川氏>>1の異様に長い妨害コメントは悪質過ぎる。
出入り禁止にしてくれ。

8. 2018年1月15日 17:14:45 : Z0LaAKC6JA : al@Ndw@9NG4[392]
2,5,7さんに、全面的に賛成します。

1のクソ野郎バカ川は、雇われ先から前川氏対策の係を命じられているのか知らないが、前川氏の記事には必ずまっ先にしゃしゃり出てくる。
汚いバイト屋のバカ川にとって、前川さんへの悪質な工作が良い稼ぎになるのだろうか、1字いくらの割増料金でも貰っているとしか思えない。アベや官邸にとって、それだけ前川氏の正義の姿勢が邪魔で邪魔でたまらないだろうことが見て取れる。
あるいはもしかしたら公務員で、休日手当のようなものまでもらってぼくらの税金を無駄使いしているのだろうか。

品性下劣の中でも最低の最低以下のバカ川は、高潔な前川氏を貶めることによって、自分がいかに度し難いレヴェルの色情狂でありかつ救いがたい低能であるかを雄弁に物語るのが好きなようだ。

非常識きわまる異様な長さのコメントで善良な阿修羅の民の妨害をするバカ川よ、おまえはダニ以下だ。

バカ長いコピペが最初の方にあると電気代の無駄になるし、阿修羅を愛する人たちにとって精神衛生上大変良くないのではと心配しています。ただでさえ、時々テレビに出てくる低能首相の悪相にうんざりしているのにそのうえこんなコメント…あまりに下劣なものはなるべく見たくないですよね。

こんなゲスのコメントはカットすべきではないですか。
管理人さん、阿修羅の今後のためにも真剣に考えていただきたいと思います。
自由と批判的知性と友情あふれる楽しい場である阿修羅のために、ぜひ。


9. 2018年1月15日 21:41:36 : DbKHEH6Tnc : sB7cKCTwLQc[4]


itmediaビジネスオンライン

なぜ前川さんは「出会い系バーで貧困調査」という苦しい釈明をしたのか (1/4)

2017年05月30日 08時00分 公開

[窪田順生,ITmedia]
http://www.itmedia.co.jp/business/articles/1705/30/news049.html

(略)

 ご存じのように、文部科学省は教育を所管している。待機児童やイジメ問題の現実を見るために身分を隠して保育所や教育委員会に潜り込むとかならばまだしも、マジックミラーごしに女性をチョイスし、小遣いをちらつかせて店外デートの行き先を「交渉」するような大人の社交場で、女性の貧困を潜入調査してくれなんてことは国民は誰も頼んでいない。

 百歩譲って、前川さんがおっしゃるように、援助交際に走る女性たちと実際にメシを食ったり小遣いを渡したりしなくては見えない「文科行政、教育行政の課題」というものがあるとしても、ひとつの店に多い時は週3日も通いつめて「常連」になる理由はまったくない。

(略)

もしも加計学園問題の全貌を本気で解明しようというのなら、前川さんの「出会い系バー通い」が本当に「貧困調査」なのかという検証も避けては通れない。というよりも、このあたりの釈明から、一連の獣医学部新設をめぐるドタバタの「本質」が見えてくるのではないかと考えている。なぜなら、前川さんという方が官僚としての「面子」をなによりも重くとらえていることが、この苦しい言い訳から痛いほど伝わってくるからだ。


官僚トップの「面子」があった!?
http://www.itmedia.co.jp/business/articles/1705/30/news049_2.html

前川さんが「正義の告発者」になるまでの背景
http://www.itmedia.co.jp/business/articles/1705/30/news049_3.html

支離滅裂なロジックを言ってしまう
http://www.itmedia.co.jp/business/articles/1705/30/news049_4.html


ーーーーーーーーーーーーーーーー


itmediaビジネスオンライン

だから世界的に「メディア不信」が広がっている (1/4)

2017年07月20日 08時00分 公開

[山田敏弘,ITmedia]
http://www.itmedia.co.jp/business/articles/1707/20/news016.html


10. 知る大切さ[11468] km2C6ZHlkNiCsw 2018年1月15日 22:37:15 : R9FCqA2vYc : rrJKS_dywEM[2185]
>9
の【腐翼】は前川氏がお嫌いのようだ。
http://www.asyura2.com/acas/s/sb/sb7/sB7cKCTwLQc/100000.html
この手のコメント主で前川氏を評価するコメントを見た事が無い。

皆ハンコを押したように、コピペ並みに似たご意見。

(前川喜平)うーん……ネット上にいろいろと、いろんな情報があふれているように見えるけど、その情報を作っている人たちってほんの少しだろうと思うんですよね。


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