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みんなが騙された悪質なデマ _ 「御前会議」の内容を細大漏らさず、敵米国の駐日大使に通報していた、日本最大の売国スパイ=暗号名「ヨハンセン」とは吉田茂
世界の真実の姿を求めて!
日本最大の売国スパイ=暗号名「ヨハンセン」
http://oujyujyu.blog114.fc2.com/blog-entry-679.html
太平洋戦争の前夜に日本の対米英戦争を決定した1941.9.6の「帝国国策遂行要領」に関する所謂「御前会議」の内容を細大漏らさず、敵米国の駐日大使に通報していた、日本最大の売国スパイ=暗号名「ヨハンセン」とは吉田茂。
元自民党総裁選=麻生太郎の祖父。
また吉田茂元首相の再軍備問題のブレーンだった辰巳栄一元陸軍中将(1895〜1988年)も、米中央情報局(CIA)に「POLESTAR―5」のコードネーム(暗号名)で呼ばれていた。
「吉田は1878年(明治11年)、土佐自由党草分けの一人、竹内綱の五男として東京に生まれた。幼児に横浜の富裕な貿易商、吉田健三の養子となり、東京帝国大学政治科を卒業後、外務省に入省した。大久保利通の次男、牧野伸顕伯爵の長女、雪子と結婚。天津総領事、奉天総領事、イタリア大使、イギリス大使を歴任した。
吉田茂は取り巻く人間を通して、ロスチャイルドの影響を受けていた。
吉田茂の養父である吉田 健三。
吉田 健三(吉田茂の養父)は帰国後、横浜に移って英国商社・ジャーディン・マセソン商会横浜支店長に就任。日本政府を相手に軍艦や武器、生糸の売買でめざましい業績をあげる。
ジャーディン・マセソン商会はロスチャイルド系であり、設立当初の主な業務は、アヘンの密輸と茶のイギリスへの輸出。
富豪であった健三の急死後、わずか11歳の吉田茂に50万円(現在の六十億円に相当)もの莫大な遺産が残される。
そして吉田茂の妻となった牧野雪子。
牧野雪子はアリスを通じてモルガン=ロスチャイルドの洗脳教育を受けた。
在日大使ジョゼフの妻アリス・ペリー・グルーは、名前の示す通り「黒船ペリー」の末裔として日本・東京で育ち・教育を受けていた。アリスの「幼馴染」であり、華族女学院=学習院女子部時代から、常に、アリスと共に3人で行動し、アリスから世界経済・政治について「レクチャー」を受け、侵略者ペリーと、ロスチャイルド=モルガンの「情報操作教育=洗脳教育」を受けていたのが、クリスチャン・鍋島信子、と九条節子であった。九条節子は昭和天皇・裕仁の母であり、アリスの親友・鍋島信子の娘は秩父宮妃である。
このアリスの母の旧姓はキャボット。黒人奴隷売買と、麻薬売買で富を築いたキャボット一族である。
吉田茂は妻となった牧野雪子により、天皇ともつながりを持つようになる。
吉田茂ー牧野雪子ーキャボット=アリスー九条節子(昭和天皇・裕仁の母)=天皇
吉田もモルガン=ロスチャイルドに寵愛され、出世街道を上昇して行く。雪子は麻生太郎首相の祖母である。
麻生の正体
太平洋戦争の前夜に日本の対米英戦争を決定した1941.9.6の「帝国国策遂行要領」に関する所謂「御前会議」の内容を細大漏らさず、敵米国の駐日大使に通報していた、日本最大の売国スパイ=暗号名「ヨハンセン」こと吉田茂は、今の自民党総裁選の本命=麻生太郎の祖父だった(鬼塚英昭「天皇のロザリオ」上p403、成甲書房)。
その功績で、トルーマン米大統領と占領軍最高司令官Dマッカーサーの決定で、吉田茂が戦後最長の長期政権の首相になった。
麻生一族は、明治期に天皇が50万人の日本女性を拉致・連行して欧州へ女郎として売り払った時の石炭会社と石炭船運行会社のオウナーだった。それで儲けた麻生の会社は資本蓄積して発展した(「オルタナティブ通信)。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E7%94%B0%E5%81%A5%E4%B8%89
吉田 健三(よしだ けんぞう、嘉永2年(1849年) - 明治22年(1889年))は日本の武士(福井藩士)、実業家。、昭和期の内閣総理大臣・吉田茂は養子、英文学者・吉田健一は孫に当たる。
1849年、越前福井藩士・渡辺謙七の長男として誕生する。のち、絶家していた渡辺家の一門・吉田家を再興した。1864年に脱藩して大坂で医学を、次いで長崎で英学を学んだ。1866年にはイギリス軍艦でイギリスへ密航し、2年間、同国に滞在して西洋の新知識を習得した。
1868年に帰国。一時は新潟に居住するが、のち横浜に移って英国商社・ジャーディン・マセソン商会横浜支店長に就任。日本政府を相手に軍艦や武器、生糸の売買でめざましい業績をあげる。さらに3年後に退社して独立し、慰労金(1万円)を元手に様々な事業を展開する。英学塾を皮切りに、翌1872年には東京日日新聞の経営に参画。さらには醤油の醸造業や電灯会社の設立、ビールやトタン、フランネルの輸入など、実業家としての頭角を顕して横浜有数の富豪に成長した。
自由民権運動の高まりを見せていた当時、健三は自由民権・国会開設派の牙城であった東京日日新聞の経営参画を通じ、板垣退助や後藤象二郎、竹内綱ら、自由党の面々と誼を通じて同党を経済的に支援した。特に竹内とは昵懇で、1878年の保安条例公布によって東京を追放された際、横浜の吉田邸に身を寄せている。1881年8月には、竹内の5男茂を養嗣子とする。
生来心身頑強だったが、1888年の父謙七の死去後に病を得、横浜にて急死した。享年40。
家族 [編集]
妻は、儒学者佐藤一斎の孫・士子(ことこ)である。茂が養嗣子となった理由について、実子に恵まれなかった健三が竹内に対し、当時懐妊していた竹内の妾が生んだ子が男ならば自分の養嗣子として貰い受ける約束をしていたから、といわれる。
備考 [編集]
富豪であった健三の死後、わずか11歳の茂に50万円(現在の六十億円に相当)もの莫大な遺産が残される。茂はこれを「吉田財閥」と自嘲気味に称してはいるが、やがて遺産の大半を蕩尽してしまう。莫大な遺産を一体何に蕩尽したのか、今もって不明である。
横浜太田町に構えた本邸の表門は、小男であった健三の背丈にあわせて造られていた。政府高官や実業家などの訪問客が出入りしたが、低い門構えであるため、門内で待ち構えている健三に対して自ずとお辞儀をする羽目になったという。
茂の幼年期の回想によれば、健三は日の出前に起床するや、家族や女中らをたたき起こして毎朝大掃除をするなど、エネルギッシュな一面をもっていたという。
狩猟が趣味で、自ら狩猟協会を立ち上げて副会長に就任している。因みに、会長には公爵近衛篤麿を擁立している。
大磯における初期の別荘族として知られる。国府本郷村(現在の大磯町内)の海浜沿いの広大な地所を徐々に買い増し、1万坪もの別荘を営んでいる。戦後「大磯」は、首相となった茂の代名詞となった。
信心深かった健三は、後年菩提寺として光明寺(神奈川県横浜市南区所在)を建立している。同寺の山号(吉上山)は健三と盟友であった上郎幸八の一字ずつと取って命名されている。
ジャーディン・マセソン
ジャーディン・マセソン(Jardine Matheson Holdings Limited, 怡和控股有限公司)は、香港にヘッドオフィスを置くイギリス系企業グループの持株会社。ロスチャイルド系であり、米誌フォーチュン誌の世界企業番付上位500社の企業ランキング「フォーチュン・グローバル500」では世界437位。
前身は東インド会社で、元は貿易商社。1832年、イギリス出身のイギリス東インド会社元船医で貿易商人のウィリアム・ジャーディンとジェームス・マセソンにより、中国の広州(沙面島)に設立された。中国語名は「怡和洋行」。
中国での拠点は1844年に上海の共同租界、外灘(バンド)の中山東一路27号に移し怡和洋行大楼と呼ばれた。この場所の当時の地番は1号であり、ジャーディン・マセソンが最初に外灘(バンド)にて土地を獲得した。(現在は外貿大楼と呼ばれ上海市対外貿易公司や上海市外貿局等が入るが、間もなくサックス・フィフス・アベニューの中国1号店となる予定。)
1841年に大英帝国の植民地の香港に本社を移転(現在登記上の本社はバミューダ諸島・ハミルトン))。170年たった今でも、アジアを基盤に世界最大級の国際コングロマリット(国際複合企業)として影響力を持っている。
設立当初の主な業務は、アヘンの密輸と茶のイギリスへの輸出。同じロスチャイルド系の香港上海銀行(HSBC)は、ジャーディン・マセソンなどが香港で稼いだ資金をイギリス本国に送金するために設立された銀行である。
清とイギリスとの間で1840年から2年間にわたって行われたアヘン戦争に深く関わっている。アヘンの輸入を規制しようとする清朝政府とイギリスの争いが起こった際に、当時のアヘン商人の一つであるジャーディン・マセソン商会のロビー活動により、イギリス本国の国会は9 票という僅差で軍の派遣を決定した。陳舜臣の『阿片戦争』にも、ウィリアム・ジャーディンとジェームス・マセソンが登場人物として登場する。
香港が中国に返還されるまでは、イギリス植民地資本であるジャーディン・マセソンの役員や幹部らがイギリス植民地下の香港行政局(現在の行政会議 )の非官守(官職)議員として参加し、香港政庁の政策に影響力を行使していた。
日本での歴史 [編集]
日本では、幕末・明治期の重要人物であるトーマス・ブレーク・グラバーが長崎代理店として「グラバー商会」を設立。現在はグラバー園として公開されている。
幕末・明治の日本において、五代友厚(薩摩)、伊藤博文(長州)、坂本竜馬(海援隊)、岩崎弥太郎(三菱財閥)等を支援し、フランスに支援された徳川幕府打倒にも密接に絡んだたことで倒幕運動(明治維新)の黒幕としても知られる。
横浜(旧山下町居留地1番館、現山下町一番地)にも、1859年(安政6年)に上海支店にいたイギリス人ウィリアム・ケズィック(ウィリアム・ジャーディンの姉の子)が支店である「ジャーディン・マセソン商会」を設立。日本に進出した外資第1号としても知られる。 麻生太郎前首相の祖父である吉田茂の養父・吉田健三が一時期、同社横浜支店長を勤めていた。
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=212394
『日本の政界をコントロールする、スコットランド貴族達』(オルタナティブ通信)リンクより転載します。
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19世紀、江戸幕末の日本で倒幕の武力闘争を開始した薩摩・長州に鉄砲・弾薬の購入資金を提供したモルガン財閥のJ・ピアポント・モルガンは、明治維新政府の「生みの親」として、その代理人トーマス・ラモントを使い、日本の三菱財閥、三井財閥の「育成に力を注いだ」。モルガン財閥は、ロスチャイルド一族の代理人であった。
ロスチャイルドの代理人として、米国で、ロックフェラー一族に資金を注ぎ込む「窓口」となって来たのが、このモルガンであった。
1930年代、日本が中国侵略を行う際、その資金提供を行っていたロスチャイルド=ロックフェラー・ブッシュ一族。その資金提供の「交渉窓口」であった在日アメリカ大使ジョセフ・グルーも、また、モルガン=ロスチャイルド財閥の一族であった。ジョセフの従兄妹ジェイン・ノートン・グルーは初代J・P・モルガンの後継者ジャック・モルガンの妻であった。
この在日大使ジョゼフの妻アリス・ペリー・グルーは、名前の示す通り「黒船ペリー」の末裔として日本・東京で育ち・教育を受けていた。アリスの「幼馴染」であり、華族女学院=学習院女子部時代から、常に、アリスと共に3人で行動し、アリスから世界経済・政治について「レクチャー」を受け、侵略者ペリーと、ロスチャイルド=モルガンの「情報操作教育=洗脳教育」を受けていたのが、クリスチャン・鍋島信子、と九条節子であった。九条節子は昭和天皇・裕仁の母であり、アリスの親友・鍋島信子の娘は秩父宮妃である。
このアリスの母の旧姓はキャボット。黒人奴隷売買と、麻薬売買で富を築いたキャボット一族である。
九条節子等を通じ、昭和天皇以降の、「天皇に対する思想教育・思想洗脳」を「担当」して来たのが、奴隷貿易・麻薬貿易業者キャボットと、世界帝国の指揮官ロスチャイルドである。
天皇は、ロスチャイルドによる日本人奴隷支配のための「先兵」に過ぎない。天皇は、ロスチャイルドの「出先機関」である。
アリスの夫ジョセフ・グルーも、ハーバート大学時代、学生新聞「クリムゾン」の編集に携わっていたが、同じサークル仲間の友人に、キャボットが創立資金を出した麻薬専売会社ラッセル社の中国支配人であったルーズベルト一族のフランクリン・ルーズベルト(後の大統領)が居た。
一方、モルガン=ロスチャイルド資金で、倒幕に成功した明治政府の中核=薩摩藩士・大久保利通の息子は牧野家に養子に入り牧野伸顕を名乗っていたが、その娘・牧野雪子(大久保利通の孫)は年離れの親友アリスに「事実上、師事」し、国際情勢・政治経済の「教育」を受ける。モルガン=ロスチャイルドの洗脳教育である。牧野雪子は吉田茂の妻となり、吉田もモルガン=ロスチャイルドに寵愛され、出世街道を上昇して行く。雪子は麻生太郎首相の祖母である。
このアリスという女性の出自、日本での教育・土着の仕方、そして「政治的動きの奇妙さ」は、明らかに幼児期から英才教育を受けた諜報・スパイの動きである。
麻生首相の麻生産業グループの親会社が、ロスチャイルドの船舶会社ラファルジュであると言う経済的実態関係だけでなく、こうして、キャボット=アリス=天皇・吉田茂夫妻=麻生首相へと、有色人種(黒人、アジア・日本人)奴隷支配の「帝王学の系譜」は「継承されて来た」。
なおキャボット一族の「直営」研究所が米国ブルッキングス研究所であり、かつてはナチス・ドイツの侵略戦争の「資金繰り」を担当した財務大臣ヒャルマール・シャハトを輩出している。
また、米国の通貨政策はブルッキングス研究所が作り、FRBが実行すると言われて来たが、このFRB議長を長年、務めてきたのがグリーンスパンである。グリーンスパン自身が経営し、その会長を務めるコンサルタント会社タウンゼンド・グリーンスパン社は、ブルッキングス研究所の下部機関として調査・研究に「従事」している。
グリーンスパンの「ボス」が、キャボット一族と「弁護士を共有」している事は先述した。
また長年、日本の内需拡大策(日本の富を米国買収に持って来るな、という通貨政策)として「日本の高速道路計画」を策定して来たのは、かつての日本道路公団では全く無く、このブルッキングス研究所=キャボット一族である。日本の財政赤字を拡大させる「無駄な公共事業の元凶=道路族」の、バックボーンは、ここにある。
http://www.47news.jp/CN/200910/CN2009100301000210.html
吉田茂側近がCIAに情報を提供 早大教授が米公文書発見
吉田茂元首相の再軍備問題のブレーンだった辰巳栄一元陸軍中将(1895〜1988年)が、米中央情報局(CIA)に「POLESTAR―5」のコードネーム(暗号名)で呼ばれ、自衛隊や内閣調査室の創設にかかわる内部情報を提供していたことを示す資料を3日までに、有馬哲夫早大教授(メディア研究)が米国立公文書館で発見した。日本の再軍備をめぐり、吉田元首相の側近までも巻き込んだ米国側の対日情報工作の一端を示しており、戦後の裏面史に光を当てる貴重な発見だ。
有馬教授は同館で発見したCIAのコードネーム表、辰巳氏ら旧軍人に関する文書などを総合的に分析。「より強力な軍隊と情報機関の創設を願っていた旧軍人の辰巳氏は、外交交渉で日本に再軍備を迫っていた米国にCIAを通じて情報を流すことで、米国が吉田首相に軽武装路線からの転換を迫ることを期待していた」と指摘している。
CIAの辰巳氏に関するファイル(52〜57年)では、辰巳氏は実名のほか「首相に近い情報提供者」「首相の助言者」「POLESTAR―5」とさまざまな名称で呼ばれ、「保安隊の人選」「自衛隊」「内閣調査室」などの「情報をCIAに与えた」と記されていた。
辰巳氏は占領期、旧軍人による反共工作組織「河辺機関」の一員で、連合国軍総司令部(GHQ)の了解の下、新たな軍隊と情報機関の立案に参画していた。吉田は首相就任後、「河辺機関」のほとんどの旧軍人を遠ざける一方、辰巳氏を信頼し、50年の警察予備隊の幹部人選などを任せた。
http://oujyujyu.blog114.fc2.com/blog-entry-679.html
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真実は
ヨハンセン=吉田茂は、日帝が付けたコードネーム、CIAのものではない 2015年11月11日
https://blog.goo.ne.jp/ikagenki/e/c5ef37ee19cfd3c7f5c9757a1a00e846
ネットでは、いか@さま情報が横溢している。
おいらの愚ブログは、価値判断、認識では、かなりキチガイではあるが、事実関係は、案外、まともである。
いや、事実関係だけは、まともにしようと心がけているつもりではある。
なぜなら、キチガイな価値判断、認識だけでは、誰も読まなくなるからである。
もちろん、事実に基づかない「事実」は、ちゃんと、暗示している。
そして、確かな事実を、奇を衒って、表すことがある。読み手のリテラシーを高く見積もっているのだ。
例えば、「石ころの半分は酸素であり、残りの半分以上はシリコンだ」!
そんなおいらの衒奇記事を引用してくれた御方(決して、保守でもなく、ましては、愚ブログのように、ウヨでもない)が、引用していた情報=吉田茂が「CIAのエージェント」;
https://twitter.com/matu923/status/664007377578930177
そして、そのソース;
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=309206&g=132108
そのソース:; http://blog.goo.ne.jp/yamanooyaji0220/e/31b8776d983469bad82ffec40288122b
いや、いや、全然、全くの事実誤認。
コードネーム・「ヨハンセン」は、大日本帝国陸軍の諜報機関が、吉田茂に付けたコードネーム。
CIAとコードネーム・ヨハンセンは、全く、関係ない。
⇒ 愚記事:大磯 「ヨハンセン」邸炎上、参照のこと。
⇒ ⇒ wikipediaも参照のこと; ヨハンセングループ
確かに、戦後ぬっぽんは対米従属下にある。 文書公開で、 愚民党 自由民主党は組織的にCIAから資金援助を受けたことがあることが判明している(google)。
でも、吉田茂や岸信介のCIAコードネームは、未だに、確認されていない。
(なお、CIAが名づけ親ではないが、コードネームが公知なのは、彼だ!)
CIAコードネームが確認されている有名人は、正力松太郎、緒方竹虎、賀屋興宣などである;
有馬哲夫、『CIAと戦後日本』より;
https://blog.goo.ne.jp/ikagenki/e/c5ef37ee19cfd3c7f5c9757a1a00e846
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ヨハンセングループとは、第二次世界大戦末期の日本で活動していた吉田茂(のちの首相)を中心とする戦争終結工作グループ。1945年4月に憲兵隊により検挙・逮捕された。
「ヨハンセン」とは、彼らを監視していた軍部・憲兵隊当局の符丁(暗号)で、このグループの中心と目された吉田茂を意味し、「吉田反戦」(よしだはんせん)の略とされる。このグループは主旨・参加者などが明確な組織として存在していたわけではなく、それゆえ範囲も曖昧である。
経緯
グループの形成
外務省退官(1939年)以降浪々の身であった吉田茂は、1941年12月の日米開戦以前から、「親英米派」として開戦の回避をはかり、開戦後も岳父の牧野伸顕(同じく親英米派の重臣の一人)や元首相の「コーゲン」[1]こと近衛文麿、外務次官時代の上司の「シーザー」こと幣原喜重郎や「ハリス」こと鳩山一郎らと連絡を取り、樺山愛輔(実業家)・原田熊雄(元・西園寺公望秘書)らとともに、東条内閣の倒閣運動や戦争の早期終結を目指す工作を進めていた(さらに米内光政らの海軍「穏健派」までそのネットワークはひろがっていたとされる)。しかし、当然このような動きは陸軍当局・憲兵隊からは反軍部工作(および米英への通牒工作)とみなされ、「ヨハンセングループ」という呼称で牧野・近衛らとともに厳重な監視を受けていた(当時、平河町の吉田本邸および大磯の別邸には男女3名のスパイが潜入し、諜報活動に従事していたが吉田はこれを察知していなかった)。
「近衛上奏文」への関与
1945年に入り敗色濃厚となった戦局を憂慮した昭和天皇が、首相経験者の重臣を次々に参内させるようになると、吉田は近衛文麿の参内を通じて天皇を戦争終結の方向に動かそうと考え、2月12日参内のため上京した近衛との協議の上、いわゆる「近衛上奏文」を作成した。当時、吉田および近衛は陸軍(特に統制派)を「親ソ」とみなしていたため、上奏文はこれ以上の軍部独裁と戦争が続くならば日本が共産主義化するであろうと予測し、「国体護持」のため一刻も早い軍部勢力一掃と戦争の終結を天皇に訴えるものであった。近衛は2月14日参内して天皇に拝謁しこの上奏を行ったが、その前日13日、吉田に上奏文の草稿を示し、牧野伸顕に内容を知らせるため写しを取るよう指示していた。
逮捕、そして釈放
しかしこの「写し」の存在は先述のスパイにより陸軍および憲兵隊当局に筒抜けになっており[2]、4月15日、東部憲兵隊司令部は近衛上奏文の内容流布および陸軍当局の「赤化」中傷などをもって陸軍刑法第99条違反(「造言飛語」罪)とみなし吉田を逮捕、同時に近衛の秘書である殖田俊吉とジャーナリストの「イワン」こと岩淵辰雄も逮捕され、近衛・原田らも取り調べを受けた。大谷敬二郎憲兵隊司令官は吉田らに続いて原田・樺山・小畑敏四郎さらには近衛・牧野の逮捕も狙っていたとされるが、実際には吉田らの逮捕を通じた、体制内「反戦平和派」への恫喝に止まるとみられている。
したがって「造言飛語」罪による吉田らの立件はかなり無理があったため、結局のところ憲兵隊は吉田ら3名の容疑を立証することができず、5月2日、阿南惟幾陸相の裁断により吉田は不起訴処分となった。彼はその後5月25日の空襲で代々木の陸軍刑務所が焼けたため、仮の陸軍刑務所となった八雲小学校に5日ほど収監されたのち釈放された。
歴史的評価
吉田茂は奉天総領事在任時代(1925年〜1927年)に満蒙分離など対中国強硬策を唱えるなど(対米英協調の枠内ではあったが)、必ずしも「反戦的」外交官ではなかったにもかかわらず、第二次世界大戦後、GHQから「穏健派」政治家として高く評価されていたのは、開戦以前の駐日アメリカ大使グルーとの親交のほか、ヨハンセングループ事件による逮捕が大きく作用していたと言われる。
なお、ヨハンセングループによる終戦工作の具体化は「近衛上奏文」作成への関与に止まっているのであり、戦後、吉田の反軍部的側面を強調する吉田支持者と、吉田(および近衛・牧野)らが米英と密通していた(実証のない「陰謀論」である)とする批判者の双方によって、その活動が実体よりも過度に誇張されている面も否定できない。
注釈
1.^ 当局による暗号名。以下同じ。
2.^ 陸軍の兵務局と軍務局で逮捕する案を出したが、小磯内閣の杉山元陸軍大臣は署名しなかった。小磯内閣が退陣して鈴木貫太郎内閣になって、阿南惟幾陸軍大臣が署名したという。
参考文献
原彬久 『吉田茂 - 尊皇の政治家 -』岩波新書、2005年 ISBN 4004309719
備考
細野不二彦の漫画作品『ヤミの乱破』(『イブニング』)では、敗戦直後の日本を舞台に、主人公のスパイ・桐三五に指令を下す人物として「ヨハンセン」が登場する。
関連項目
土曜ドラマスペシャル 白洲次郎:NHK制作のドラマ。ヨハンセングループによる終戦工作の描写がある。
黒いオーケストラ
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