http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/690.html
Tweet |
(回答先: 実録犯罪史シリーズ『浅虫温泉放火事件 お母さんは犯人じゃない』 (フジテレビ 1993年) 投稿者 中川隆 日時 2019 年 9 月 25 日 22:44:03)
実録・昭和の事件シリーズ 2 子供たちの復讐 〜開成高校生殺人事件〜 コレクターズ
監督:恩地日出夫
原作:本多勝一(朝日新聞社 刊)
脚本:柴 英三郎
音楽:佐藤允彦
製作:テレビ朝日、オフィス・ヘンミ
放送日 1983年10月31日
動画
https://www.youtube.com/watch?v=aBJzXxUbIUg
▲△▽▼
キャスト
出演:石橋蓮司
出演:宮本信子
出演:坂上忍
出演:左時枝
出演:清洲すみ子
出演:橋爪功
出演:加藤嘉
▲△▽▼
原作
子供たちの復讐 (朝日文庫) – 1989/5
本多勝一 (編集)
https://www.amazon.co.jp/%E5%AD%90%E4%BE%9B%E3%81%9F%E3%81%A1%E3%81%AE%E5%BE%A9%E8%AE%90-%E6%9C%9D%E6%97%A5%E6%96%87%E5%BA%AB-%E6%9C%AC%E5%A4%9A-%E5%8B%9D%E4%B8%80/dp/402260820X
2007-05-27
本多勝一『子どもたちの復讐』
https://talpidae.hatenadiary.org/entry/20070527/p1
先週から本多勝一『子供たちの復讐』を読んでいる。いまさら本勝なんて向きもあるかもしれないが、なぜ今頃この本をあえて読むのかというところまで踏み込めば、分かる人には分かってもらえるかもしれない。昨年あたりから親殺しの急増が問題になっており、最近になってまた起こった。で、ぼちぼちこうした傾向を説明する議論も出始めているようだが、まだそれなりに納得いくような説明が与えられているようにも思えない。で、よく分からないときには、事件そのものをあれこれするよりも、昔のよく似た話がどんな感じだったのか見てみるにかぎる。
本多が取り上げているのは「開成高校生殺人事件」(1977年)と「祖母殺し高校生自殺事件」(1979年)なので、事件そのものは典型的な親殺しとは言えない。それでも、1970年代後半になって急増した不登校、いじめ、家庭内暴力といった新しい学校問題・青年問題の行き着く先として親殺しが見すえられており、その背景にあるのは何よりも受験戦争だ。
で、読んでみると不思議な感慨に浸された。事件を読み解くなかで考察が焦点を結ぶのは、この事件が社会を象徴するものなのかどうかということであり、もちろん、読み解く本多は現代社会を象徴するものとして事件を共感的に語る。しかも、その語り口はきわめて「疎外論」的だ。だが、いまではこの手の事件を共感的に語ることがどれほど難しくなってしまったことか!また、「罪悪感が感じられない」等々今でも言われそうな指摘が散見される一方、受験戦争を問題視する口調は現在との懸隔を感じさせる。この本で明らかにされる親殺しのメカニズムはおおよそ以下のようなものだと言ってよい*1。
父親とうまく関係を作れない母親が、その分だけ過剰に子どもに愛情をふりそそぐ。こうした環境におかれた子どもは、たいていおとなしいよい子に育つが、甘やかされて育ってきた分だけ耐性がない。ママは、幼い頃は何かと手をかけ、過剰に世話をやいていたのが、子どもが進学の年頃になると急に「教育ママ」へと変貌をとげる。子どもはよい子としてママの期待に応えようとするのだが、中2あたりになると次第にそれがめいっぱいになってしんどくなるし、また、次第にママの期待の身勝手さも見えてくる。だったら、ママから離れていけばよいのだが、過剰に母親に依存して育った子どもにはママから離れることにも不安がある。離れたいのに離れられない。このとき、ママに逆らいながらママに依存する格好のやり口が「家庭内暴力」だ。また、ママの期待から脱落していく自分を主観的に合理化するために採用されるのが、本来なら自分がのるはずだった「エリート意識」を逆手にとることだ。自分はスゴいんだから他のヤツと同じにすることなんてない、と。しかし、いつまでもこれを通すのは無理がある。いきづまって矛盾の最終解決法に選ばれるのが親殺しであり自殺だ。
本多は、こうした事件が「実質的には無理心中事件」だと語り、受験戦争を強いる社会と家庭の犠牲者として子どもを位置づける。社会や家庭にたいする「子どもたちの復讐」が始まったというわけだ。受験戦争のような社会に共有された枠組みを所与にすれば、この手の事件に共感を寄せることはわりと容易なことだったように思われるし、また、当時がモーレツ・サラリーマンの時代であったことを鑑みれば、子どもに大人と同じ競争社会の苦しさを見出すこともできたかもしれない*2。じゃあ、一体何が変わって、何が変わらなかったのだろうか?
まず、一方の問題点とされる家庭だが、分析には常に「父親不在」といういまとなっては懐かしくもある言葉がつきまとう。当時と比べれば現在は家庭志向が強まっており、多くの父親は家庭を顧みるようになっている*3。そうした意味では「父親不在」はかつてほどではないと言えるのかもしれない。しかし、この本で言われている「父親不在」とは、単純に父親が家庭に場所を占めているかどうかという問題ではない。ぶつかってくる子どもに「びしっとモノを言って」しっかり向き合うことができるような古典的な〈父親〉がいなくなったという『父性の復権』的な話である。それでいけば、家庭を顧みる父親はむしろ「二人目のママ」なっている方が実情に近いわけで、そうした意味では、「父親不在」はより深刻化しているといってよいかもしれない。
さらに、もう一方の母親たちだが、こちらはどうか?ちなみに、この本に収録されている斎藤茂男の一文には次のような希望的観測が書かれていた。
“
「夫と子どもに献身し、そのかわりに夫は職業生活で存分に自己実現させることによって社会的・経済的に上位の位置を占めるようになってもらい、また子どもにも一流大学から一流会社へというように成長してもらう---という具合に、自分以外の人間に夢を仮託して間接自己実現をはかる妻・母の立場から、脱けだそうとしている」(167頁)。
だが、現実はそうはいかなかったようだ。子どもへの過剰な配慮は、商売もからんで「公園デビュー」「習い事」「お受験」---と、ちょっとよい家庭ではどこまでも逆コースに進んでいきそうな気配だ。個人的にも、大学の「父母会」(!)にやってくるお母様方のおつきあいをさせていただいて、嫌というほど子ども依存を思い知らされるている。「うちの子どもは大丈夫でしょうか?」。とすれば、本多が確認している家庭の趨勢はのきなみひどくなっていると言ってよさそうだ。
他方で、家庭をとりまく社会環境の方だが、当時はいわゆる「よい大学に入って、よい会社に入って」という「受験戦争」の時代である。こちらは以前ほど苛酷ではないように感じられるのだが、近年の事件の少なからずも受験・教育問題がらみのように見える。これをどう考えればいいだろうか?意外に感じられるかもしれないが、いまから振り返ってみると、この受験戦争とは自分で目的を定められないまま他人に依存して生きていかなければならない人たちのための最期の砦だったように思われて仕方がない。どいういうことか?
本多の本を読み進めると、「経済市場主義」下の「文部省が作った」「単一の」「大人の」「一本のモノサシ」価値観の犠牲になって式の懐かしい紋切り型が続くのだが、たとえ押しつけという評価が正しかったにしても、さらに、こうした物言いができるということそれ自体までもが考察の対象にされてよい。どういうことかといえば、大学進学を考える親子は、「受験戦争」という枠組みを使って、自分たちの行動を説明したり正当化することができる。親がなぜ「勉強しろ」と言ってくるのか、なぜ自分が勉強しなければならないのかも、「受験戦争」を引き合いにすれば不条理さはつきまとうにもせよ一応説明がついてしまう。つまり、「受験戦争」は自分の行動を意味づけるために利用できる意味論的資源でもあったのだ。しかも、こうした意味論的資源を採用することで、とりあえず自分がどう生きればいいのかさしてまじめに考えなくてもすむようになる。親としても子どもとしても、ある意味これ以上楽なことはない。受験体制を乗り切ることだけを考えればよかったのだから。
その後に起こったことは、こうした自分たちの行動(受験等)を説明する社会的な枠組み・意味論的資源の解体だったのだといってよい。高度消費社会化の進展と不況をきっかけとした構造改革の進展は、一部の人たちが賞揚してきたし、いまも賞揚している「個人の多様性」や「個性の尊重」といった価値観を少なくともたてまえとしては否定できないものにした。でも、それは進むべきルートを自分たちで考えなければならなくなったということでもある。しかも、自由で競争的な社会で有利な立場を占めようとすれば、将来を左右しかねない文化資本をあらかじめどれだけ身につけておくかが勝負になる。だから、英才教育にも拍車がかかる。
その結果、広がっていったのは「公園デビュー」「お受験」等々、あるいは「ご近所のどこそこは」といった親たちの教育マニュアル探しであり、それが意味するのは、子どもにいつごろからどのような教育を受けさせるかをますます親が個人的な趣味や価値観から左右できるようになったということだ。しかし、こうして決まる望ましい教育経路は、「受験戦争」が提供した意味づけとは違って、子どもにも腑に落ちるようなかたちで意味づけられているとは限らない。そもそも、もう文科省を悪者にはできない。とするなら、みんなが同じことをすればいい「受験戦争」は、かえって、こうした親の恣意から子どもを守る一面があったように思われてくるのだ*4。
親の選択に大幅に依存した教育経路の決定は、それが度を超せば、「受験戦争」時代のそれよりも子どもにとってよほど苛酷で理不尽かつ不条理なものとして映りやすいに違いない。すでに確認したように、受験戦争時代なら、親が子どもに勉強させる理由はそれなりに明確だった。社会全体がそのような方向で動いていたからだ。それはときとして理不尽であったかもしれないが、親がそうした理不尽な価値観を仕向ける理由を理解するのもさして難しいことではなかったし、だからまた、その分だけそこに親の愛を認めるのも容易だったかもしれない。
しかし、「受験戦争」のような社会的に共有された枠組みがなくなってしまえば、子どもの教育経路は親の教育方針から決まることになる。つまり、押しつけられる苦痛の源泉はストレートに親に結びついてくる。自分がなんでそんなことをしなくちゃならないのかを考えると、それを求めている親がいる。しかも、その方針は常に理にかなったものとはかぎらないし、周囲を見れば友だちがみんな同じことをしているわけでもない。となれば、「ボクはなぜ---」という疑念が生まれやすくなることはみやすい。
そのうえ、親が自由に教育目的を決めることができるならば、オマケに我が子の具体的な比較対象も好きなように決めやすくなるだろう。「どこそこの誰々ちゃんを見なさい」。この手の理不尽なお小言に憤懣やるかたない思いを抱いた子ども時代の記憶を持つ人は少なくないのではないか。なにせ、こうした叱り方は比較対象を親が勝手に決められるのだから。「なんでいつも藤田君なわけ?」。そのうえ、具体的な子どもが比較対象に選ばれるときに比べられるのは成績ばかりではない。その人物のすべてだ。素行のすべてが比較されかねないなんてたまったもんじゃない。受験戦争にあっては、競争相手はまず何よりも見えない全国の受験生だったわけだが、こうした背景が希薄化して、それだけ濃密に比較できる条件が整ってくる。
ところで、いちばん比較対象にされやすいのはいちばん身近なところにいる兄弟姉妹じゃないだろうか。親殺しやそれに類する事件の少なからずで兄弟姉妹がからんでいるように見えるのはおそらく偶然ではない。だが、言うまでもなく、兄弟姉妹だからといって比べられるような似たような人生をおくらなければならないわけじゃない。
親の子どもへの愛情は不信と裏腹だ。過剰に子どもの「ためを思って」何かをするとき、軽んじられているのは子ども自身の考え方だ。愛が子どもの自由を過剰に束縛するとき、愛は逆のものへと転化する。親がなぜその経路を選んだのかが子どもに理解できないとすれば、それはなおさらのことだろう。この点でも、斎藤茂男はすでにこう書いていた。
“
「もともと親が子どもに期待をかけるのは当然であり、それ自体悪いことではない。だが、その期待の内容が、子どもの人間的な成長を心から願うものではなくて、その夢を現実のものとすることによって、実は母親自身が自分の誇りを満足させることができ、親類や交際範囲の夫人たちの間で”賢母”として面目をほどこすことができる−というようなことが、願望の赤裸な正体である場合が多い」(162頁)。
ボクがこうして本多の本を読みながら確認してきたのは、現在、子どもは以前よりもさらに耐性が弱くなり、しかも、おかれている状況は当時よりしんどくなっているのかもしれないということだ。もちろん、よく分からないところで書いているからあくまでも推測にとどまる。最初は、こうした事件を横目に受験戦争はボクらの頃ほど大変というわけでもなかろうにと思っていたのだが、そこだけを見て評価するのは間違っているのかもしれない。子どもがますます親の自由にされかねない状況は、「子どもの道具化」を促進し、それだけ子どもを理不尽かつ不条理な環境におきやすくする、という道筋が考えられそうだからだ。これは逆に過剰にかまってもらえずにいる子どもが増えているということからも指摘できる。
不条理かつ理不尽な環境にさらされるとき、われわれは不条理かつ理不尽な妄想をいだきやすい。だって、何がまともなことだか分からなくなっているのだから。かつて本多の紹介する子どもたちが自分たちの「復讐」を正当化するために持ち出してきた「エリート意識」は、たとえそれがどれだけゆがんでいようとも、近年の不可解な事件と比べれば、まだそれなりに理解できるものではあった。当時の事件でも、子どもたちの「罪悪感の欠如」が指摘されていたわけだが、親殺しの実態が心中であったのなら、まだそこに罪悪感を見ることもできた。
しかし、いまではそうした共感を抱くことはますます難しくなっている。なぜなら、おそらく、子どものおかれている理不尽で不条理な環境は、「受験戦争」といった言葉で社会的に統一して語ることのできるものではなくなっており、その分だけいっそう不条理さを増しているからだ。そうした個人化した不条理を埋めてくれる道具になるのは、多分ゲームだとか音楽だとかいった、その子たちの身近なところに転がっているアイテムなのだろう。しかし、そうしたアイテムに過剰にこだわるべきではない。むしろ、問題にすべきなのは、その子の気質的な問題をおくなら、不条理な妄想を抱く子どもたちが、それに見合うだけの過剰に不条理な環境にさらされてきたのかもしれないということの方なのだ。
考えてみると、そもそもそこまでして子どもの将来にこだわらなければならないのが何故かよく分からなくなってくる。昔と違って、子どもが老後の面倒をみてくれるなんてまずあてにできないことはわかりきっているはずだ。それがメディアや周囲から煽られての不安や見得でしかなかいのであれば、頭を冷やすためにも、子どもに投資することが自分にとって得なのか損なのかを少しぐらい考えてみてもいいのではないか。また、子どもの将来を決める自由をどこまで親が持っているのかを少し真面目に考えてみてもいいんじゃないだろうか?
*1:たとえば、アメリカと比べれば、日本の親殺しでは、父親殺しだけでなく、母親殺しも目立つらしいのだが、こうした傾向はこの手のモデルを見るだけでも納得がいくはず。
*2:本多は、全集では原本の文章の他に、宮崎勤事件やオウム事件の文章を載せているのだが、これも同一線上にある事件として見られる。だが、仮にそうだとしても、事件の受け止め方がかなり変わってしまったことは否めないように思われる。
*3:個人的に聞くところによれば、ウィークデイは仕事づけのうえ週末は家庭行事でそうとう大変なようです
*4:報告されるデータを信用するならばこの間一貫して子どもの自己評価やモーチヴェーションは下がっている。
https://talpidae.hatenadiary.org/entry/20070527/p1
▲△▽▼
■ 概要、家族
1977年10月30日午前0時頃、東京都北区で、父親が息子を
絞殺。開成高校2年生の息子の家庭内暴力に悩んだあげくの結果だ
った。絞殺された開成高校生は佐藤健一君(16歳 以下敬称略)。
家族は父、母、母方の祖母、健一の4人。
父は宇都宮の小学校卒業。それ以後の学歴はない。小学校の教師を
していた父の父親(健一にとっては祖父)は、父が2歳の時、28
歳で、鬱病のため自殺。6才の時、母親は再婚のため、彼と弟を父
方の実家に置いて去った。
昭和41年、神田に大衆酒易「とん八」を開いた。
母は高卒(当時では高学歴)。母の父(健一の祖父)は日通の元支
店長。健一はこの祖父を尊敬していた。
殺された佐藤健一君 (以下、敬称略)
佐藤健一君
◆.◆.◆.◆.◆.◆.◆.◆.◆.◆.◆.◆.◆.◆.◆.◆.◆.◆.◆.◆.◆.
■ 年表
昭和34年
父母が結婚。父28歳、母26歳。母の実家で同居。
幼稚園時代
健一は、赤羽駅近くの騎士幼稚園に通う。
42年4月 星美学園入学
この地域の子どもが入る北区立志茂小学校に入らず、ミッション
スクール星美学園(赤羽台4丁目)の小学校に入学。母が自動車で
送り迎えをする。
ミッションスクールにおいて、彼は常にクラスで1〜2番の成績
だった。
小学5、6年の時、有名な進学塾に通い、家庭教師もつけられた。
両親は当初、「開成学園」が何であるのかを知らなかったが、
教師は熱心に両親に「開成」への進学をすすめた。
健一は「開成以外の学校には行かない。開成こそ自分に合った学
校だ」と言っていた。
昭和48年4月 開成中学入学。
入学の成績は300人中56番。
開成中学入学時の新入生紹介の文集「1年生の顔」に
「医者になりたい」と書く。
1年の席次は300人中155番。
2年の席次は300人中178番。
中学3年ころから読書のため、部屋に閉じこもりがちとなる。
授業中は、ノートを取らずうつぶせになっていることが多かった。
3年の席次は300人中236番。
50年3月 中学卒業
卒業の3年2組の寄せ書きに「死こそわが友 佐藤」と書く。
寄せ書き
寄せ書き
中学卒業文集に「ペシミスト」と題する文章を書く。
「A では君は生きんとする意志とでも言うようなものを
否定しながら、悲観的にはならないというのか
B 僕が否定したいのは、自分の足もとしか見えない生
への執着さ・・・・。理想のために生きてこそ初めて、魂
が救われることを云いたかった
A それは少し甘いというものだ。初めから理想とやら
を追いまわすことのできるもの、として存在していな
ければ救われない。
そうなるためには努力や忍耐が必要で、それこそ君
が否定した『自分の足もとしか見ない生への執着』に
ほかならないではないか・・・・君はしょせんこの現実か
らにげようとしてる奴さ
B 反論の余地はないね。どうせ僕は無能なペシミストさ」
担任の教師が書いた卒業文集に寄せた各生徒の評
「3階の教室では事件も絶えず発生する。パニックの犠牲者、猫と
水成、クシャミの犠牲者、池田とゴキブリ、そのまた犠牲者、ワ
ンゲル顕太、トランプ中毒、横山、渡辺、ダンナと中村、シンナ
ー中毒その他大勢、皆いきいきと生きている。結構と言うべし。
休み時間の騒々しさの中に静寂なる空間を見る。佐藤の創り出す
サウンド・オブ・サイレンス、稲垣のサウンドレス・ムーヴメン
ト・・・・」
51年 開成高校に進学
高校1年生
学校で行った日光旅行の際、一人で行動していたためバスに乗るの
が遅れる。
5月
家庭内で彼にとって権威であった母の父(祖父)が死亡。
健一は、「家族の中で僕と対等なのはお祖父さんだけ」と言ってい
た。
祖父の死後、健一の両親への軽蔑感が激しくなる。
自宅に来た級友の、「将来、なんになんのかなあ」という問いに
「どうせ、おれなんか役人ぐらいにしかなれないんじゃないか」
と言う。
夏
「おれは太陽が嫌いだ」と、昼でも2階自室の雨戸を閉めている。
部屋に閉じこもって泣いたり、大声を出したり、柱を叩いたりし始
める。
11月
学校を休む。父が注意すると「おれに干渉してもらいたくない」と
言う。
犯罪、心中、自殺などの新聞記事を集め始める。
食事を自分の部屋に持っていって食べる。
52年 1月末
「俺は鼻が低いから整形手術をする」と言う。
母「男の子だから鼻のことくらいで心配することはないじゃないの」
健一「お母さんは鼻が低いのによくそれで外に出られるな。鼻の低
いお母さんが結婚しておれを産んだから鼻の低いおれができたんだ。
お母さんが悪いんだ」
両親も鼻の整形手術をさせるつもりで整形病院に行くが、18歳に
ならないと骨の成長が止まらないためできないと言われる。
2月
父と母に向かい「お前たちは鼻が低い。その鼻でよく外を歩けるな」
父が注意すると
「それは命令だ。親でも俺に命令することは許せない。俺は今までも
注意をされたとき耐えてきたが、もう許せない。お前が悪いのだ。
あんな女と結婚したから俺みたいな鼻の低いのができたのだ。おま
えら夫婦は教養もないし、社会的地位もないし、そんなやつが一人
前の顔をして説教できるのか社会的地位も名誉もないくせに何を言
うか。夫婦とも馬鹿だ。」
とののしる。
夜遅くになると、自室の2階6畳間で、柱や畳を1時間ほど拳で殴り、
両親の睡眠妨害をする。
母を殴るときは、
「傷をつけると警察沙汰になるから、つけないように殴るんだ」と言う。
3月頃
健一は髪の毛を鼻にかかるくらい長く伸ばしていた。
祖母が「髪が長すぎるから切ったらどうか」と言ったのに対し、
「それが気にくわない」と激怒。祖母を殴ったり蹴ったりする。
注意した母親に対しても暴行を加える。帰宅した父親が注意すると
「抑圧だ。お前らは学校も出ていないし、教養もないのに人を注意
したり説教したりする資格はない」と言い、床を踏みならしたり柱
を叩いたりした。
高校一年の成績 クラス51人中47番。
4月 高校2年生進学
新しく担任になった教師は、健一が授業中に一人笑い、不思議な笑み
を浮かべているのに対し、一見して異常だと思う。
5月
学校を休む。父親に注意されると「抑圧だ」と物を投げ、ガラスを
割り、泣く。
6月
修学旅行を休む。
7月
学校主宰の講習会を欠席。
2年の1学期は51人中43番。
8月1日
母親「あんた勉強してるの」「していない」「大学はどうするの」
「それが悪い」と激怒する。その日以来、日常的に暴力をふるう。
「お前達のために夏休みを潰された。夏休みはもう戻ってこない。
これをどうしてくれるのだ」
父親が帰り注意すると
「お前らみたいな夫婦がおれを生んだためにおれの人生は破滅だ」
と暴れる。
◾母親、祖母の首をしめる。殴る。蹴る。
◾食卓をひっくり返す。
◾食卓塩、胡椒、しょう油、炊飯器から出したご飯をまき散らす。
◾水道からホースを引いて座敷中にまき散らし、水浸しにする。
◾浴槽に粉石けんを箱ごとまいてかき回し、風呂場を泡だらけにする。
◾布団を池に投げ込む。
◾仏壇をバットでたたき壊す。
◾家中のふすまを蹴破る。
◾窓ガラスを叩き割る。
◾家族が建具屋を呼び修理すると、「気にくわない」と言い翌日には再び蹴破る。
◾ピアノの黒鍵を全てナイフで削り取る。
◾家の中で洋服やタオルや本に火をつけて燃やす。
◾風呂場の桶に水を入れて、10杯くらい祖母の頭にかける。
◾その後祖母を押入れの方に蹴り飛ばす。
◾祖母の寝ていた布団を表に捨てる。
◾庭の池に、服、本などを投げ込み石油をまいて燃やす。
◾態度、顔つきが普通と違うので、道を歩いていても通行人が振り返るようになる。
◾近所の者からも家の様子がよく見え、「いつか事件が起こるぞ」と言われていた。
◾9月頃からは窓ガラスを閉めていたので暴れる様子は見えなかったが、音がよく聞こえていた。
◾母親も、近所のどこまで家の中の暴れる音が聞こえるか調べるため、家の周りを歩く。
両親は、家庭向け医学書を読み、精神病を疑い、病院に連れていく。
8月15日
精神科に通う。
「精神病ではない。わがまま病だ」と言われる。
夏休み最後の日
母が担任の教師に実状を訴える。健一は母親と一緒だと口調が変わ
り、母親の発言を全て遮り、担任教師を驚かせる。
担任が健一の父の職業を「お父さんのレストラン」と言うと
「おやじの店はレストランじゃない」と青ざめて怒った。
(「昭和52年度 開成学園父母と先生の会 会員名簿」2年7組 親の職業)
一流企業の中堅以上の幹部
会社重役
医師
弁護士、
大学教授
教師
裕福な商店主
(佐藤健一の欄は 「レストラン経営」)
2学期
時期不明
学校から帰り玄関に入ると、すぐに一時間くらい大泣きをする。
「外で殴ったり殺したりしたい気持ちをやっと抑えて家まで来
るので、くやしくて泣くのだ」
それが終わると大声で叫んだり物を壊したりした。
9月
「ぶっ殺す」という言葉を口走るようになる。祖母は健一の乱暴を
さけて旅館に、父はアパートを借りて寝泊まりするようになる。
授業中に突然机に突っ伏したり、突然立ち上がったり、本を開けて
いなかったりして、全く身が入っていない様子だった。
物理の授業中、授業を聞いていなかった健一に対して教師が怒り、
「聞いてないんだったら出ていっていいよ」と言った。
すっと立ち上がり、
「ちょっと病院に行かなくちゃならないんで、帰ります」
と出ていった。クラス中が大爆笑になる。
中間テストは向精神薬を飲みながら受験した。
9月5日ころ
父親は健一の気の済むのを願い、荒川土堤で思いきり自分を怒鳴ら
せ殴らせた。
その後、交番に行き、警察官から説教をしてもらう。
健一は「親が悪いんだ」と言う。
警察官の一人が「これは気違いではないか」と言っていた。
9月12日
四谷の神経科医院に行く。
病院の待合室で母を殴り、看護婦から止められる。
健一は、医師が言うことと、自分の思っていることと違うため、
意見すると、医師から「もう来なくてもいいから、そういう考
えなら他の病院へ行きなさい」と言われる。
医師から「精神病ではない」と言われ、入院は許可されなかった。
帰り道、健一は路上で父母に暴力を振るい、父のシャツを引き裂く。
9月中旬
健一が通院している精神科にひとりできて、一晩病院で泊まってい
った。
佐藤家の近所の者の間で「うちの中でああいうことをやっている分
にはいいが、外で他人様にケガでもさせるようになってはいけない
から、警察に相談したらどうか」という話が出る。
9月26日
健一、精神科医から電気ショック療法を受け、睡眠薬を処方される。
電気ショック後、「お母さんと一緒に寝る」と幼児のように大人し
くなり、一週間ほどおとなしかった。
10月
電気ショックの効果が切れたのか、以前より激しく暴力を振るう。
「おれの人生は破滅だ。お前たちを道づれに殺してやる。おれは犯
罪者になってその辺の人間を無差別に殺して、お前らを一生苦し
めてやる」と言う。
このころ
暴力を振るった後、健一は眠る際に「さびしい」「落ち着かない」
と父母に言っていた。「手を持ってろ。足を持ってろ」と訴え、父
母は健一の手足を触り、落ち着かせて眠らせていた。
10月22日
電気ショック療法を受ける。
10月23日
電気ショック療法の効果が切れ、早朝に眼をさます。
「俺の人生は破滅だ。どうしてくれるんだ。青春を返せ」と言い、
すぐに暴れ始める。
父親にフスマのクギのついたワク棒でなぐりかかり、父親が避ける
と包丁で刺そうとし、さらにこれをよけると、後ろから大皿で力ま
かせに後頭部を一撃する。父親の頭から血が流れ、パトカーが呼ば
れる。そのまま精神病院に収容され、開放病棟に入れられる。
10月24日
健一は無断で病院を出て通学をした後、病院に戻ってくる。
その時病院内にいた父に暴力を振るうため、保護室に入れられ、電
気ショック療法を受ける。その後閉鎖病棟に入れられる。
母親は健一が収容されている間、健一が可哀そうだと泣き暮らした。
10月25日
家族からの依頼により健一を退院させた。
10月28日
親子三人で巣鴨にあるカウンセラーに通い、父親は70分、健一は
30分のカウンセリングを受ける。健一は
「おれはもうだめだ。テストの結果がだめだった。中間試験を受け
なかった。苦しい、苦しい。いっそ気違いになればよいと思ってい
るが、そうもならない」
と断片的に言う。
午後2時、家族三人で、以前から健一が通っていた別のカウンセリ
ングに行く。健一はカウンセラーに
「死にたい。我慢しきれないほど苦しいが死ぬこともできない、
仕方がないから生きていくんだ」
と言い、泣く。
精神科に行く。父の「治りますか」という問いに対し、精神科医は
「私は予想屋ではない。(健一君は)自殺するか、犯罪者になるか、
どちらかだ。自殺はできないだろうから、犯罪者になるだろう」
と言う。
10月29日
精神科に通院。
健一は非常に沈んでおり、自分で電気ショック療法を希望する。
精神科医は「精神病ではない。一種のヒステリーだ。本人の気の済む
まで暴れさせておく以外にない」と家族に言う。
健一、病院から帰った後、家で三時間ほど眠る。
午後5時ころ
健一が起きる。
大声で両親に「どうしてくれる」と言う。窓を叩き、炊いたご飯を
つかみ家中にまく。外へ出て庭の植木鉢を叩き割る。
母親が食べているどんぶりをひっくりかえす。
風呂に入っている母親に水をかける。
文句を言いながら、拳骨で母親の体中を殴りつける。
「もう遅い。元の身体に返せ。青春を返せ。人生を返せ。めちゃめち
ゃにしたのは親なのだ」
午後8時半頃
健一、睡眠薬を飲む。
午後10時頃
健一、再び睡眠薬を飲む。
午後10時半頃
健一、外で母親に再び暴力を加える。逃げた母親を探していたのだが、
隠れて見つからず、薬が効いてきたため二階の自室で眠る。
10月30日 午前0時頃
父、2階の部屋で眠っている健一の首を帯でしめる。
「ううっ」とうめいた後、健一死亡。
健一の死体は2階の押入れの上段に、丸首半抽シャツ、黒ズボン姿で
仰臥し、両手は合掌させられていた。
10月31日
両親は自殺するつもりであったが、死にきれず、父親が自首する。
53年2月26日
父に懲役3年執行猶予4年の判決(求刑懲役8年)。
検察側が量刑不当として控訴。
それまで父の執行猶予を願い、尽力していた母がひどく落胆する。
母は日記に
「死にたい」
「死ぬのは勇気がいることだ」
「健一のそばに行きたい」
と書く。母はアルコールを痛飲するようになる。
同時に、父に対し、攻撃的になる。
「健一を帰せ!」
「健一は私の生き甲斐だった。あなたより大切だった」
「あなたは私をめちゃめちゃにしてしまった。許せない。」
「みんなあなたが悪い。刑が軽すぎるんじゃないの」
「死んでやる」
「今は健一の気持ちがとてもよくわかる。だから同じ事をしてやるの」
7月2日
母、健一が死んだ同じ部屋で首吊り自殺を遂げる。
母親の遺書
母親の遺書
54年2月28日
高等裁判所は控訴を棄却。検察は上告せず、判決確定。
◆.◆.◆.◆.◆.◆.◆.◆.◆.◆.◆.◆.◆.◆.◆.◆.◆.◆.◆.◆.◆.
■ 開成高の同級生の話
「彼は、髭の毛ボサボサでふけだらけ、いつも汚いコート着ていて、
成績が悪いし、おれは "何で勉強しないんだ、こいつは?いやな
奴だ″と思っていた」
「旅行に行っても、健一は他のクラスメートと遊びもせず、旅館で
も1人で寝てしまった。」
「クラスの中で一番先に死ぬのは誰か?と言うと、誰かが「それは
佐藤だよ」と事も無げに言った。佐藤が死んだって聞いた時、あ
あ、あいつは死ぬような奴だったなあ、おれはそのときそう思っ
たよ。何の実感もわかなかった」
「あのとき(事件後)、誰かが新聞の切り抜きをコピーしてやって
来て、2〜3のクラスに配ったんだよね。その組も、運動会の準
備で組長が決められていて、その組長が花だとか何かを佐藤の机
の上に置いといたんだけど、どんどん事件が薄れて行っちゃった
ねえ」
「佐藤は中学校のときから目立たなかった。中3のとき、彼が欠席
してたことがあったんですけど、そのことに気がついたのが、結
局、4時間目をすぎてからだった。まるで印象のない感じで・・・・。
休み時間にも、おしゃべりの輸にくわわっていた姿はほとんど見
なかった」
◆.◆.◆.◆.◆.◆.◆.◆.◆.◆.◆.◆.◆.◆.◆.◆.◆.◆.◆.◆.◆.
■ 読書傾向
中学3年生ころ、父親が持っていたスタンダール「赤と黒」を始
め、次第に難解な哲学書を読むようになる。他にサルトル、ブレン
ターノ、フッサール、オルテガ、カミュ、ル・クレジオなど。
フランス語の独習もやり始めていた。
(「おれは太陽が嫌いだ−開成高校殺人事件」 高杉晋吾より)
フランス人作家、ル・クレジオ「発熱」(新潮社刊・高山鉄男訳)
その一節(ロクという主人公の勤め先トランス・トウリズムとい
う旅行社の情景)にこんな文章がある。
「 T店には絶えず人々が出入りしていた。派手なドレスを着て、顔
を上気させた女たち、カメラを持った男たち。机の列のうしろ側で
は、休みなく仕事が行われていた。タイプライターはカタカタと動
き靴はあちこちに動きまわっていた。ときどき電話が鳴った。ベル
の音がホール全体に響きわたり、その音は5、6回くり返されるの
であった。すると1つの手が受話器を外し、鼻にかかった声が聞こ
え始める・・・・
こういうのがしごとというものなのだ。これは無益でばかげた大
騒ぎであり牢獄で演ぜられるもの悲しく騒々しい喜劇のようなもの
だった。
・・・・彼らは、なんにも考えず、なんにも気づかずしごとをしたり
・・・・知らず知らずのうちに、虚無に・・・・死に近づきつつあることを
知らないのだった・・・・騒音と運動にあふれた死体置場のようなもの
・・・・店はまさにそのようなものとなっていた。
・・・・ふたたび怒りがこみあげて来るのをロクは感じた。
・・・・ロクは叫ぼうとした。しかし彼の喉からは苦しい喘ぎが洩れる
だけだった。そこで彼は歩道に身をかがめ、プラタナスの幹で体を
支えながら、根のそばに落ちている小石を拾った・・・・彼は飾り窓の
ガラスを意地悪く見つめ『病気なんだ、病気なんだ、病気なんだ』
と思い、力いつぱい小石を投げた。ガラスが砕け・・・・」
健一君はこのル・クレジオの小説『発熱』を常にカバンに入れ、
愛読していた。
◆.◆.◆.◆.◆.◆.◆.◆.◆.◆.◆.◆.◆.◆.◆.◆.◆.◆.◆.◆.◆.
■ 魔術的な笛
(「おれは太陽が嫌いだ−開成高校殺人事件」 高杉晋吾より)
ル・クレジオの著書とともに、彼のカバンの中に入っていたカセ
ットテープはテレビマンガの「キ力イダー」の主題歌だった。
健一君は、精神科医に「笑わないね」と念を押して、キカイダー
の魅力をこう説明したのだ、と言う。
「悪役の一方の主人公が魔術的な笛を吹く。すると、相手は意志を
失い、わが身にひれ伏す。そして彼は社会を支配する」
健一君はこの魔術的な笛として、開成に入学することで克ちうる
ことができたと思ったわが身の「平凡でない」人間であることの証
明として肩書きを考えたのだろうか?
◆.◆.◆.◆.◆.◆.◆.◆.◆.◆.◆.◆.◆.◆.◆.◆.◆.◆.◆.◆.◆.
■ 「破滅の人生」 (第一審 母親の証言から)
弁護士
K医師の供述調書によると、「破滅の人生を受け入れるようになっ
た」という趣旨のことを健一君が言っているというのがあるのです
が、健一君は「破滅の人生」という言葉をどういう意味で使ってい
たのですか。
母
あの人には自分は一種特別な人間であるという自意識があったの
です。
私は天才なのだ。私は頭がいいのだと過信していた面があったの
です。自分は他人とは違い特別な人間で、社会の中枢に立ってこと
をなし得る人間だと思っていたのです。
しかし、八月以降こういうようなことがあって、自分の敷いた一
本のレールから踏みはずした人生を送らなければならなくなる。
そういうのが「破滅の人生」で、いわゆる一般社会の人がお酒を飲
んだり家庭を持ったり、子供を産んだりしていくのも「破滅の人生」
だというのです。それから犯罪者になるのも「破滅の人生」だとい
うのです。
弁護士
普通、常識的に健全に真面目に働いて結婚してという生活は「破
滅の人生」だということですね。
母
そうです。
親が子供と一緒に外を歩いたり物を買って楽しそうにしているこ
とも「破滅の人生」だというわけです。
だから「うちでは一切そういうことをしてくれるな」というので、
うちでは少し前から一緒に出歩いたり食事したりしなくなりました。
弁護士
10月23日に「破滅の人生」を受け入れることを健一君が言い出
したのですか。
母
そうです。K医師も「破滅の人生を受け入れることに決まったね」
という言葉で、夜の八時前にそういう話になったのです。
弁護士
犯罪者になるのも「破滅の人生」ということですが、そのことに
ついて健一君はどういう意見だったのですか。
母
そういう二種類の「破滅の人生」があるならば、「どうせ受け入
れるのであれば、普通の人が暮して行く健全な社会生活、家庭生活
に則った破滅の人生を選んでもらいたい」と、そのときそこで言っ
たのです。
それに対し健一は、
「ぼくはそういう人生は選べないから、そうではない非行少年とか
犯罪者になる意味の破滅の人生を受け入れることになる」
と言ったのです。
■ 参考資料
「おれは太陽が嫌いだ−開成高校殺人事件」 高杉晋吾
「面接取材 開成高校生殺しの問題点」 吹上流一郎
「子供達の復讐」 本多勝一
投稿コメント全ログ コメント即時配信 スレ建て依頼 削除コメント確認方法
スパムメールの中から見つけ出すためにメールのタイトルには必ず「阿修羅さんへ」と記述してください。
すべてのページの引用、転載、リンクを許可します。確認メールは不要です。引用元リンクを表示してください。